第66話 それぞれの人生を自分のものと呼べるようになるまでの距離
一人暮らしを始めて最初の一週間で、僕が最初に学んだのは、自由には書類仕事がついてくるということだった。
大量の書類仕事が。
理不尽なほど大量の書類仕事が。
二つ目に学んだのは、食料品の配達というものは、どうやら最も都合の悪い瞬間に到着するよう、謎の力によって支配されているらしいということだった。
そして三つ目は――
おそらく最も重要な教訓だった。
大地叔父さんに、大人の監督なしでスマートホーム機器を設置させてはいけない。
残念ながら、僕がその教訓を学んだときには、すでに手遅れだった。
◇ ◇ ◇
月曜日の朝は、一件の通知から始まった。
続いてもう一件。
さらにもう一件。
藤沢真由さんが僕の朝のケアを終える頃には、パソコンが七件の新着メッセージを知らせていた。
三件は配送業者から。
二件は公共料金の事業者から。
一件は佐藤恵美さんから。
そして最後の一件は、画期的な調理家電で僕の人生に革命を起こすと約束する広告だった。
僕は即座に削除した。
大地叔父さんにだけは、絶対に見つかってはいけない。
「忙しい朝ですね」と真由さんが言った。
僕はパソコンを見た。
「どうやら僕は、非常に小さくて組織運営の下手な会社の最高経営責任者になってしまったようです」
彼女は微笑んだ。
「このアパートのことですか?」
「そのとおりです」
僕は最初のメッセージを開いた。
食料品は午後一時から三時の間に届く予定だった。
よし。
二件目には、日用品が午後二時から四時の間に届くと書かれていた。
少し困る。
三件目には、収納容器の追加分が正午以降のどこかで届くと書かれていた。
僕は画面を見つめた。
「……ああ」
真由さんがこちらを見た。
「何かありましたか?」
「どうやら、同じ午後に三件の配達を予約してしまったようです」
彼女は少し考えた。
「対応できそうですね」
「それは配達員さんたちに会ったことがないから言えるんですよ」
真由さんは笑った。
◇ ◇ ◇
問題は、僕に物事を整理する能力がないことではなかった。
整理はできる。
何年も執筆予定を管理してきたのだから。
締め切り。
連載の更新。
原稿の修正。
翻訳作業。
複雑な書類の管理にも慣れていた。
でも、家庭を管理するのは違った。
執筆予定には、洗剤を届けてもらう必要がない。
原稿は電気料金の支払いを要求しない。
それに、僕がペーパータオルを注文し忘れても、架空の登場人物たちはめったに文句を言わない。
もっとも、僕が書いてきた登場人物の何人かを考えると、最後の点には少々疑問が残る。
僕はため息をついた。
「どうして大人になると、こんなに毎月の支払いが増えるんでしょうね」
真由さんは微笑んだ。
「公共料金は、厳密にはサブスクリプションではありませんけどね」
「毎月お金を払わないと、電気を使い続けられないんですよ」
「それはそうですね」
「かなりサブスクリプションに似ていると思いませんか?」
彼女は笑った。
「全部整理するのをお手伝いしましょうか?」
僕は考えた。
「手伝ってもらうのは歓迎です。でも、会社の敵対的買収はお断りします」
真由さんは真剣な顔でうなずいた。
「承知しました。御社の買収は控えます」
◇ ◇ ◇
僕たちは一緒に家事の予定表を作った。
正確には――
予定表を作ったのは僕だった。
真由さんは、看護の勤務予定や配達、医療機器へのアクセスを考慮する必要がある予定を確認するのを手伝ってくれた。
決定権は僕にあった。
その違いは大切だった。
言葉では説明しきれないほどに。
長年、僕の生活では、周囲の人たちが僕のためにさまざまな手配をしてきた。
たいていは善意から。
多くの場合は実務上の理由から。
そして、本当にほかの選択肢がないこともあった。
でも今、自分のアパートにいる僕は、日常を形作る普通の決定に自分自身で関わりたかった。
たとえ、それが洗剤の注文についてであっても。
いや、洗剤の注文だからこそ。
「よし」と僕は言った。「食料品は月曜日。日用品は隔週の木曜日。設備点検の予約は、必ず看護の勤務予定を確認してから」
真由さんはうなずいた。
「よさそうですね」
「それから、大地叔父さんからの予告なしの配達は禁止です」
彼女は笑った。
「それ、守ってもらえるんでしょうか?」
僕は考えた。
「たぶん無理ですね」
◇ ◇ ◇
午前十一時十七分、青いドアがノックされた。
真由さんは応対する前に僕に確認した。
「どなたか来る予定はありますか?」
僕は予定表を見た。
「ありません」
それから、ふと思い出した。
「洗剤が四時間も早く到着する能力を身につけたのでなければ」
真由さんは微笑んだ。
「確認してきますね」
訪問者は洗剤ではなかった。
森田幸子さんだった。
僕の隣人。
引っ越して間もない頃に訪ねてきてくれた、ミステリー好きのおばあさんだ。
彼女はクッキーを載せた皿と、本の束を持って立っていた。
「おはよう!」
僕は微笑んだ。
「森田さん! 王国へお帰りなさい」
彼女は笑った。
「王国?」
「長い話なんです」
「時間ならあるわよ」
「それが心配なんです」
◇ ◇ ◇
僕が招き入れると、幸子さんは部屋に入ってきた。
彼女はクッキーをテーブルに置いた。
「手作りのお菓子でもどうかと思ってね」
「ありがとうございます」
「それから、本も持ってきたの」
僕は積まれた本を見た。
ミステリー小説。
当然だった。
彼女は誇らしげに微笑んだ。
「私のお気に入りなのよ」
僕は題名を確認した。
知っている作品がいくつかあった。
以前から読もうと思っていた古い探偵小説もあった。
そして、表紙があまりにも劇的な一冊については、犯人は表紙をデザインした人間ではないかと疑いたくなった。
「素晴らしい選書ですね」と僕は言った。
幸子さんはうれしそうにした。
それから執筆机のほうを見た。
「それで」
僕は目を細めた。
「それで?」
「あなたの書いたものは、いつ読ませてもらえるの?」
僕は固まった。
ああ。
そういうことか。
クッキーの本当の目的。
文学的な買収工作だった。
◇ ◇ ◇
「ええと」と僕は慎重に言った。「それは条件によります」
「何の条件?」
「優しくしていただけるかどうかです」
幸子さんは笑った。
「あら、私はいつだって優しいわよ」
その言い方が、妙に不安を誘った。
「全然安心できませんね」
彼女は微笑んだ。
「私は五十年以上、ミステリーを読んできたの」
「おめでとうございます」
「だから、出来の悪い結末はすぐ分かるのよ」
僕は見つめた。
「……ああ」
「犯人が見え見えの話もね」
「素晴らしい」
「読者に大切な手がかりを隠す作家も」
僕は真由さんのほうを見た。
「どうやら僕は、文学界の処刑人を家に招き入れてしまったようです」
真由さんは笑いをこらえながら口元を覆った。
幸子さんはにやりとした。
「原稿が処刑に値するならね」
◇ ◇ ◇
結局、僕は数か月前に完成させた短いミステリー小説を、幸子さんに読んでもらうことにした。
未完成の原稿ではない。
あまりにも個人的な作品でもない。
完成済みの物語。
人に見せてもいいと思える作品だった。
僕はパソコンから彼女に原稿を送った。
幸子さんは礼を言った。
それから、感想を持ってまた来ると宣言した。
「感想はいくつくらいになりそうですか?」と僕は尋ねた。
「作品によるわね」
「できれば褒め言葉だけにしていただけませんか?」
彼女は微笑んだ。
「絶対に嫌よ」
僕はため息をついた。
「少なくとも正直ですね」
彼女は近くの椅子の背に手を置いた。
「いい、春人さん。もっといい作家になりたいなら、探偵が愚かなことをしているときに、ちゃんと指摘してくれる人が必要なのよ」
僕は考えた。
「それは確かにそうですね」
「犯人が分かりやすすぎるときも」
「それは少し納得しがたいですが」
「台詞が大げさすぎるときも」
僕は彼女を見つめた。
「森田さん」
「何かしら?」
「本当はもう、僕の作品をこっそり読んだことがあるんじゃないですか?」
幸子さんは眼鏡を落としそうになるほど笑った。
◇ ◇ ◇
火曜日には、僕の定期的な看護の勤務体制に新しい人が加わった。
黒田夏美さん。
彼女は引っ越し前に必要な医療機器の研修を終えており、看護サービス事業者も正式にチームへの参加を確認していた。
評価の段階で一度会っていた。
でも、僕のアパートで定期的に勤務するのは、この日が初めてだった。
彼女は時間ぴったりに到着した。
制服はきちんとしていた。
記録書類も整理されていた。
そして、その表情からは、前の晩に起こり得るすべての手順を復習してきたのではないかと思われた。
「おはようございます、高橋さん」
「おはようございます」
彼女は軽く頭を下げた。
「本日の勤務を担当します。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
彼女は前の勤務を担当した看護師から引き継ぎを受けた。
必要な機器を確認した。
ケア計画を確認した。
そして適切な質問をいくつかした。
臨床的には、十分に準備ができているようだった。
ただ、人との接し方については――
僕のことを、やたら複雑な試験問題のように扱っている気がした。
◇ ◇ ◇
引き継ぎが終わると、夏美さんは僕の机の近くに立った。
「このままこちらで過ごされますか? それともリビングへ移動されますか?」
「ここでお願いします」
「承知しました」
彼女はメモを取った。
僕は彼女を見た。
「夏美さん?」
「はい?」
「もう少し肩の力を抜いていいですよ」
彼女は瞬きをした。
「力は抜いています」
僕は考えた。
「本当に?」
「はい」
「抜き打ち検査を待ってる人みたいな顔をしてますよ」
彼女の頬が赤くなった。
「すみません」
僕は微笑んだ。
「謝らなくていいんです」
彼女は視線を落とした。
「ただ、すべて正しくできるようにしたくて」
「それはいいことです」
少し間を置いた。
「でも、僕は夏美さんの性格に点数をつけたりしませんよ」
夏美さんは思いがけず笑った。
小さな笑いだった。
でも、本物だった。
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
その日の午後、彼女はうっかりアパートを「職場」と呼んだ。
「こちらの備品は、職場内の指定された場所に保管したほうがよろしいでしょうか?」
僕は彼女を見た。
「職場?」
彼女は固まった。
「すみません。そういう意味では――」
「大丈夫ですよ」
僕は微笑んだ。
「夏美さんにとっては職場ですから」
彼女は少し不安そうだった。
「でも、僕にとっては家でもあります」
夏美さんはうなずいた。
「もちろんです」
僕はどう説明すればいいか考えた。
「仕事を真剣にしてくれるのは、全然嫌じゃありません。むしろ、そうじゃなかったら心配です」
彼女はかすかに微笑んだ。
「でも、ここにいるときは、僕がただケアを受けるだけの人間じゃないってことも覚えていてほしいんです」
僕は部屋を見回した。
「ここは僕が小説を書く場所です」
「ひどい映画を見る場所でもあります」
「叔父さんと家具のことで言い争う場所でもあります」
「そして、ときどき文学的に非常に疑わしい判断を下す場所でもあります」
夏美さんは小さく笑った。
僕も微笑んだ。
「だから、確かに夏美さんの職場です」
「でも、まずは僕の家なんです」
◇ ◇ ◇
夏美さんは考え込んだ。
「よく分かります」
僕はうなずいた。
「それに、無理に親友のふりをする必要もありません」
彼女は瞬きをした。
「そんなつもりは――」
「分かってます」
僕は微笑んだ。
「専門職としての境界線は大切ですから」
彼女はうなずいた。
「でも、専門的であることと、ロボットみたいに振る舞うことは違いますよ」
少し間を置いた。
「本当にロボットだったら別ですけど」
夏美さんは見つめた。
それから笑った。
「違います」
「それこそロボットが言いそうなことですね」
彼女はさらに笑った。
そして、その日初めて――
自然な表情になった。
◇ ◇ ◇
水曜日は、大地叔父さんがテクノロジーに宣戦布告した日だった。
戦争は午前十時に始まった。
終結したのは午後三時四十五分頃だった。
犠牲になったのは、スマート電球二個、電動カーテンの制御装置一台、そして叔父さんの技術力に対する僕の信頼の最後のかけらだった。
幸い、けが人はいなかった。
残念ながら、大地叔父さんはこの作戦を成功だと考えていた。
◇ ◇ ◇
発想そのものはよかった。
本当によかった。
僕は、アパートのさまざまな日常機能を音声で操作できるようにしたかった。
照明。
カーテン。
一部の家電。
室内環境の調整。
既存のパソコンとアクセシビリティソフトを通して管理できるものだ。
機器は互換性と安全性を考慮して選ばれていた。
生命維持に関わる重要な医療機器は、家庭用の自動化システムから完全に切り離しておく。
それは絶対条件だった。
でも、普通のスマートホーム機能については?
僕自身で設定することができた。
そして大地叔父さんが手伝うと申し出た。
僕がすぐに後悔することになる決断だった。
◇ ◇ ◇
「よし!」と大地叔父さんは小さな箱をテーブルに置いて宣言した。「今日、俺たちは未来へ進むぞ!」
僕は彼を見た。
「お願いだから、そういうこと言わないで」
「どうしてだ?」
「叔父さんが未来へ進むって宣言すると、必ず現在にある何かが動かなくなるから」
一緒に来ていた由紀叔母さんが笑った。
大地叔父さんは僕たちを無視した。
「まずは照明だ」
彼はスマート電球を接続した。
説明書に従った。
だいたいは。
それから勝ち誇ったように微笑んだ。
「できた!」
僕はパソコンを見た。
「試してみよう」
システムは僕の音声指示を認識するように設定されていた。
僕は話しかけた。
「リビングの照明をつけて」
照明がついた。
僕は瞬きをした。
「あれ」
大地叔父さんは両腕を上げた。
「成功だ!」
僕は微笑んだ。
「本当に動いたね」
「当然だろ!」
すると叔父さんが言った。
「おはよう!」
照明が消えた。
沈黙。
僕は天井を見つめた。
「……何?」
大地叔父さんは眉をひそめた。
「おかしいな」
由紀叔母さんは天井を見た。
「どうして消えたの?」
大地叔父さんは設定を確認した。
それから引きつった笑みを浮かべた。
「小さな問題だ」
僕は目を閉じた。
「やっぱりね」
◇ ◇ ◇
カーテンの制御装置はもっとひどかった。
はるかにひどかった。
大地叔父さんは、誰かが「コーヒー」と言うたびにカーテンが閉まるよう、なぜか設定してしまった。
それに気づいたのは、由紀叔母さんが飲み物を尋ねたときだった。
「誰かコーヒー飲む?」
カーテンが閉まった。
沈黙。
僕は窓を見た。
それから大地叔父さんを見た。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「どうしてこのアパートはカフェインを怖がってるの?」
由紀叔母さんは声を上げて笑った。
大地叔父さんは設定を確認した。
「興味深いな」
「僕なら違う言葉を使うけどね」
彼はもう一度試した。
「コーヒー」
カーテンが開いた。
僕は見つめた。
「……ああ、もっとひどくなった」
◇ ◇ ◇
その後の二十分間、大地叔父さんは問題を解決しようとした。
失敗した。
何度も。
あるときは、リビングの照明の名前を誤って「キッチン陛下」に変更してしまった。
またあるときは、「おやすみ」と言うと廊下の照明がつく設定を作ってしまった。
僕は恐怖を感じながら見守った。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「僕のアパートをプログラミングしてるの? それとも超自然的な何かを召喚してるの?」
叔父さんは眉をひそめた。
「技術っていうのは複雑なんだ」
「説明書を読むのも、どうやら複雑みたいだね」
由紀叔母さんは笑いすぎて椅子に座り込んだ。
◇ ◇ ◇
結局、僕が設定を引き継いだ。
パソコンと音声操作ソフトを使って設定を確認した。
誤って作られた動作設定を削除した。
機器の名前を変更した。
そして、分かりやすい指示で動く簡単なシステムを作った。
「リビングの照明をつけて」
照明がついた。
「リビングの照明を消して」
照明が消えた。
「カーテンを開けて」
カーテンが開いた。
「カーテンを閉めて」
カーテンが閉まった。
コーヒー関連の事件は起きなかった。
謎の王室照明もなかった。
突然の宣戦布告もなかった。
大地叔父さんは見つめた。
「どうやったんだ?」
僕は微笑んだ。
「説明書を読んだんだよ」
由紀叔母さんが拍手した。
◇ ◇ ◇
すべてが動くようになると、僕は三十分近くかけて試した。
誰かにスイッチを操作してもらわなくても照明を調整できた。
日差しがパソコンの画面に反射するときには、カーテンを動かせた。
そして、室内環境のいくつかを自分で管理できた。
このシステムが看護師の代わりになるわけではない。
医療的な必要性が変わるわけでもない。
でも、日常の小さなことを自分でコントロールできるようになった。
その小さなことが大切だった。
とても。
僕は窓を見た。
「カーテンを開けて」
カーテンが動いた。
日差しが部屋に広がった。
僕は微笑んだ。
「……すごい」
大地叔父さんは腕を組んだ。
「感謝しろよ」
僕は彼のほうを向いた。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「プログラミングは禁止ね」
叔父さんはため息をついた。
「信じられん」
◇ ◇ ◇
木曜日は、あまり笑える日ではなかった。
始まりはビデオ通話だった。
そして終わりには、葵と僕が、彼女の研修が始まってから初めて本格的な言い争いをしていた。
劇的な喧嘩ではなかった。
怒鳴り合ったわけでもない。
ひどい言葉を投げつけたわけでもない。
ただ、疲れた二人が互いの言葉を誤解した。
それだけだった。
なのに――
そのほうが、かえってつらかった。
◇ ◇ ◇
葵は長い講義とグループ課題を終えてから電話をかけてきた。
疲れ切った顔をしていた。
たぶん、僕も同じような顔をしていたと思う。
「やあ」と葵が言った。
「やあ」
「今日はどうだった?」
「忙しかった」
葵はかすかに微笑んだ。
「私も」
僕は家事の予定表について話した。
配達のこと。
夏美さんの初勤務。
スマートホームのこと。
そして大地叔父さんの技術的な戦争犯罪について。
最後の話では葵も笑った。
でも、それから考え込んだ。
「春人?」
「何?」
「ちゃんと休めてる?」
僕は瞬きをした。
「もちろん」
葵は納得していないようだった。
「すごく忙しそうだから」
「分かってる」
「まだアパートの生活に慣れている途中でしょ」
「分かってる」
「それに毎日小説も書いてるし」
僕は少し眉をひそめた。
「それは僕の仕事だから」
葵はうなずいた。
「分かってる。ただ、無理しすぎないでほしいの」
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
よく知っている感覚だった。
あまりにもよく知っている感覚。
◇ ◇ ◇
「自分の予定くらい管理できるよ、葵」
彼女は瞬きをした。
「できないなんて言ってないよ」
「僕が何をするべきか、指示されてるみたいに聞こえた」
葵の表情が変わった。
「春人、心配してるだけだよ」
「それは分かってる」
「じゃあ、どうして怒るの?」
僕は視線をそらした。
どう説明すればいいのか分からなかったからだ。
長年、自分にできることとできないことを、周囲の人から言われ続けてきたから。
たとえ助言が正しくても、自分自身で決めるために苦労してきた数々のことを思い出してしまうことがあるから。
そして――
疲れていたから。
とても疲れていた。
「もういいよ」と僕は言った。
葵は眉をひそめた。
「よくないよ。話して」
「何でもない」
「春人」
僕はため息をついた。
「自分のアパートに引っ越したからって、僕が自分で決められないみたいに扱われたくないだけなんだ」
沈黙。
葵は僕を見つめた。
それから表情が曇った。
「……私がそうしてると思ってるの?」
僕はすぐに後悔した。
でも、言葉はもう出てしまっていた。
僕たちの間に。
◇ ◇ ◇
「違うよ」と僕は言った。
「じゃあ、どうしてそんなこと言うの?」
僕はためらった。
葵は視線を落とした。
「私は春人を支配しようとしてるわけじゃないよ」
「分かってる」
「私は春人の恋人なんだよ」
「分かってる」
「心配することくらいあるよ」
僕は唾を飲み込んだ。
葵は続けた。
「だからって、春人の選択を尊重してないわけじゃない」
僕は画面を見た。
「分かってる」
でも、同じ返事を繰り返しても、何の助けにもならなかった。
葵はため息をついた。
「明日、話したほうがいいかもしれないね」
胸が締めつけられた。
「葵――」
「疲れてるの」
声は怒っていなかった。
そのことが、かえってつらかった。
「これ以上、お互いのことを誤解したくない」
僕は視線を落とした。
「……分かった」
葵はうなずいた。
「おやすみ、春人」
「おやすみ」
通話が終わった。
◇ ◇ ◇
僕は何も映っていない画面を見つめた。
長い間。
それから――
「さて」
部屋は静かなままだった。
「最悪だったな」
◇ ◇ ◇
その夜は夏美さんの勤務だった。
彼女は近くにいたけれど、僕たちの会話には関わっていなかった。
僕が夜のケアを頼むと、彼女は近づいてきた。
「大丈夫ですか?」
僕は考えた。
「夏美さん、何か馬鹿なことを言ったことってあります?」
彼女は瞬きをした。
「あります」
「最近も?」
彼女はかすかに微笑んだ。
「たぶん」
僕はため息をついた。
「よかった。僕だけじゃないんですね」
彼女は詳しく聞かなかった。
それがありがたかった。
恋人との関係には、二人だけのものとして守っておきたいことがある。
看護計画に書くようなことではない。
でも、少しして僕は言った。
「誰かの気持ちを傷つけちゃったみたいなんです」
夏美さんはうなずいた。
「その人とお話しするつもりですか?」
僕はパソコンを見た。
「はい」
唾を飲み込んだ。
「明日」
◇ ◇ ◇
一方、葵は研修先の宿泊施設で、スマートフォンを見つめていた。
もう怒ってはいなかった。
ほとんどは。
ただ、傷ついていた。
疲れていた。
そして、自分が春人に、決して感じさせたくないと約束していた感情を抱かせてしまったのではないかと心配していた。
小さな存在だという感覚。
無力だという感覚。
管理されているという感覚。
ドアがノックされた。
石田佳奈だった。
「ねえ、明日の発表の打ち合わせするけど、来る?」
葵はためらった。
「うん。ちょっと待って」
佳奈は彼女の顔を見た。
「大丈夫?」
葵はかすかに微笑んだ。
「恋愛の問題」
佳奈は顔をしかめた。
「ああ」
葵は小さく笑った。
「うん」
佳奈はドア枠にもたれた。
「遠距離?」
「今だけね」
「大変だね」
葵はうなずいた。
「大変」
佳奈は少し考えた。
「助言してもいい?」
葵はためらった。
「たぶん」
佳奈は微笑んだ。
「疲れ切ってるときに、全部解決しようとしないこと」
葵は瞬きをした。
それから笑った。
「それ、意外といい助言だね」
「たまにはね」
◇ ◇ ◇
金曜日の朝、僕は謝ると決めて目を覚ました。
残念ながら、最初の二十分間は完璧なメッセージを書こうとしていた。
馬鹿げていた。
僕は作家だ。
こういうことは得意なはずだった。
でも、どうやら架空の登場人物の台詞を書くほうが、愛する人に謝るよりずっと簡単らしい。
最初の文章は正式な法的声明のようだった。
二つ目は悲劇的な別れの手紙のようだった。
三つ目はあまりにも大げさだったので、すぐに削除した。
結局、立派なことを書こうとするのをやめた。
そして本当の気持ちを書いた。
春人:昨日はごめん。葵は僕のことを心配してくれただけなのに、何か悪いことをしたみたいに感じさせちゃった。葵が僕の選択を尊重してくれてることは分かってる。疲れてて、必要以上に身構えちゃった。でも、それは言い訳にならないよ。時間があるときに話せる?
僕は二回読み返した。
それから送信した。
◇ ◇ ◇
葵からの返事は昼休みに届いた。
葵:そう言ってくれてありがとう。私もごめんね。春人の気持ちを聞く前に、指示するみたいな言い方になっちゃったと思う。今夜、電話できる?
僕は微笑んだ。
春人:もちろん。
少し間を置いた。
それから――
春人:恋人監督委員会への正式な苦情申請は控えると約束するよ。
ほとんどすぐに返事が来た。
葵:もう遅いです。あなたの申請は却下されました。
僕は笑った。
言い争いをしてから初めて――
希望が持てた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、葵は別の課題に向き合っていた。
研修グループは、複雑な医療的ニーズを持ちながら自宅への退院を希望している患者について、事例発表を行っていた。
佳奈は、退院支援計画では効率的な調整と安全性を優先する必要があると主張した。
葵も、その二つが重要であることには同意していた。
でも、専門職が患者本人の十分な参加なしに、何が最善かを自動的に決めてしまうという考えには異議を唱えた。
「もし」と葵は尋ねた。「医学的には安全な計画でも、患者さん自身の目標を反映していなかったら、どうするの?」
佳奈は考えた。
「それなら修正する」
「そうだよね」
葵は部屋を見回した。
「でも、最初から本人に聞いていなかったら、何を修正すればいいか分からないよ」
講師がうなずいた。
「続けてください」
葵は息を吸った。
「患者さんの自己決定は、よい支援計画を立てるうえでの障害ではありません」
「その一部なんです」
◇ ◇ ◇
議論は続いた。
佳奈はもっともな懸念を挙げた。
患者が深刻な危険を伴うことを望んだらどうするのか。
利用できる資源が限られていたらどうするのか。
希望する生活環境を安全に実現できなかったらどうするのか。
葵はそれらの疑問を否定しなかった。
代わりに、専門職は危険性を説明し、代替案を探り、患者と一緒に実現可能な目標を見つける必要があると主張した。
「自己決定を尊重することは、すべての選択に危険がないふりをすることではありません」と葵は言った。
「その人の人生に影響する決定に、本人が参加できるようにすることなんです」
佳奈は考え込んだ。
それからうなずいた。
「それはそうだね」
発表のあと、佳奈は葵に近づいた。
「いい指摘だったよ」
葵は微笑んだ。
「佳奈もね」
佳奈は笑った。
「気をつけないと、私たち意見が一致し始めちゃうかも」
「それは大変だね」
◇ ◇ ◇
その夜、葵から電話がかかってきた。
僕はすぐに出た。
しばらく、僕たちはただお互いを見ていた。
それから――
「やあ」と葵が言った。
「やあ」
少し間が空いた。
それから僕はかすかに微笑んだ。
「ごめん」
葵は優しく首を振った。
「分かってる」
「昨日はあんなこと言うべきじゃなかった」
彼女はうなずいた。
「私も、いきなり休んだほうがいいって言うんじゃなくて、春人がどう感じてるか聞くべきだった」
僕は視線を落とした。
「でも、葵の言ってたことは間違ってなかったんだ」
葵は瞬きをした。
「え?」
「僕、ちょっと頑張りすぎてた」
彼女はかすかに微笑んだ。
「春人……」
僕はため息をついた。
「全部自分でできるって証明したかったんだと思う」
葵は耳を傾けた。
「だから、葵にちゃんと休めてるか聞かれたとき、実際には言ってないことまで聞こえた気がしたんだ」
彼女はうなずいた。
「そうだったんだね」
僕は彼女を見た。
「でも、それを葵にぶつけるのは不公平だった」
◇ ◇ ◇
葵は優しく微笑んだ。
「私も一つ話していい?」
「もちろん」
「私も、春人がまだ新しい生活に慣れている途中だってことを忘れるときがあるの」
僕はうなずいた。
「それに僕も、葵が新しい生活に慣れている途中だってことを忘れてた」
彼女は驚いたようだった。
僕は続けた。
「葵は別の街にいる」
「新しいことを学んでる」
「新しい人たちと関わってる」
「それに、きっと疲れてる」
葵は小さく笑った。
「すごくね」
僕は微笑んだ。
「だから、毎回の会話が完璧じゃなくてもいいって思うことにしない?」
彼女はうなずいた。
「そうしたい」
「それから、助言する前に、相手が助言を求めてるか聞くようにしよう」
葵はにやりとした。
「いいルールだね」
僕は考えた。
「ただし、大地叔父さんが家具を組み立てているときは例外」
彼女は声を上げて笑った。
「そのときは介入が義務だね」
「そのとおり」
◇ ◇ ◇
僕たちは一時間近く話した。
喧嘩のことだけではなかった。
いろいろなことを話した。
アパート。
研修。
二人とも感じていた、成功しなければならないという妙な重圧。
そして疲れているときには、心配と批判をいかに簡単に取り違えてしまうかということ。
やがて葵が微笑んだ。
「会いたいな」
僕の表情が柔らかくなった。
「僕も会いたい」
葵はため息をついた。
「抱きしめたい」
僕は微笑んだ。
「それはいいね」
少し間が空いた。
それから――
「明日、オンラインデートしない?」
葵は瞬きをした。
「本当に?」
「もちろん」
彼女は微笑んだ。
「何するの?」
僕は考えた。
「夕食」
「うん」
「映画」
「うん」
「そして書類、医療の予定、専門的な研修の話は一切禁止」
葵は笑った。
「最高だね」
◇ ◇ ◇
土曜日がやってきた。
そして――
僕たちの初めての正式な遠距離デートの日になった。
準備は驚くほど複雑だった。
技術的な問題があったからではない。
僕と葵では、ロマンチックな映画の定義がどうやら大きく違っていたからだ。
葵は甘い話を見たがった。
僕はミステリーが見たかった。
葵は恋愛映画を提案した。
僕は探偵もののスリラーを提案した。
葵はラブコメを提案した。
僕は殺人事件の捜査が絡むラブコメを提案した。
葵は画面越しに僕を見つめた。
「春人」
「何?」
「どうして春人の選ぶ映画では、いつも誰かが死ななきゃいけないの?」
僕は考えた。
「登場人物にやることを与えるためかな」
彼女は顔を覆った。
◇ ◇ ◇
結局、僕たちは妥協した。
気軽に楽しめる映画。
殺人事件なし。
恐ろしいどんでん返しなし。
感情を徹底的に打ちのめす結末もなし。
僕にとっては驚くべき犠牲だった。
僕たちはそれぞれの街で夕食を注文した。
葵はパスタを選んだ。
僕は食事に関する自分のケアの取り決めに合った、簡単な料理を選んだ。
看護師は夜の習慣のうち必要な部分を手伝い、その後は必要なときに対応できる状態を保ちながら、僕たちのプライバシーを守ってくれた。
葵はタブレットをテーブルに置いた。
僕はパソコンのカメラを調整した。
そして、あっという間に――
僕たちは一緒に夕食を食べていた。
別々の街にいるにもかかわらず。
◇ ◇ ◇
「乾杯」と葵が飲み物を持ち上げた。
僕は微笑んだ。
「現代技術に乾杯」
彼女は笑った。
「私たちに乾杯」
僕は彼女を見た。
「僕たちに」
映画が始まった。
十五分もしないうちに、葵は笑っていた。
二十分後には、僕が展開に文句を言っていた。
三十分後には、葵が僕をミュートすると脅していた。
「春人!」
「何?」
「何でも先読みするのやめて!」
「僕は作家だから」
「映画が台無しになる!」
「鑑賞体験を向上させてるんだよ」
彼女は笑った。
「本当に困った人だね」
「よく言われるよ」
◇ ◇ ◇
映画の途中で、僕たちは一時停止した。
何か問題が起きたからではない。
話し始めたからだ。
普通のことについて。
食べ物。
天気。
葵の宿泊先から見える景色。
僕のアパートに差し込む夕方の光。
そして、同じ部屋にいなくても同じ時間を共有しているという、不思議な感覚について。
葵は優しく微笑んだ。
「こういうの、いいね」
僕はうなずいた。
「うん」
彼女は僕を見た。
「気まずくなるかと思ってた」
「どうして?」
「こんなに離れてるから」
僕は微笑んだ。
「まあ、実際には数時間の距離だけどね」
葵は笑った。
「それでも遠いよ」
「確かに」
それから付け加えた。
「でも、葵は今ここにいるよ」
葵の表情が柔らかくなった。
「……うん」
◇ ◇ ◇
しばらく、僕たちはただお互いを見ていた。
それから葵が口を開いた。
「春人?」
「何?」
「私たち、違う方向に進んでるんじゃないかって心配になること、ある?」
僕は考えた。
「ときどき」
葵は視線を落とした。
「私も」
僕は待った。
葵は続けた。
「春人はアパートで自分の生活を築いてる」
「私は自分の仕事を築いてる」
「それで、ときどき、お互いの生活が忙しくなりすぎて、どうやって一緒にいればいいか分からなくなるんじゃないかって思うの」
僕はその言葉について考えた。
それからかすかに微笑んだ。
「たぶん、僕たちの人生を完璧に組み合わせる必要はないんじゃないかな」
葵は僕を見た。
「お互いのための場所を、作り続ければいいんだと思う」
彼女は静かになった。
僕は続けた。
「葵の仕事は大切だよ」
「僕の執筆も大切」
「僕の自立した生活も大切」
「そして、僕たちの関係も大切」
少し間を置いた。
「そのどれかが、ほかのものを消してしまう必要はないと思うんだ」
葵の目に涙が浮かんだ。
「春人……」
僕は微笑んだ。
「どうやって両立させるか、これからも二人で選び続ければいいんだよ」
◇ ◇ ◇
葵は涙を拭った。
「春人、ロマンチックな台詞が危険なほど上手になってきたね」
僕はにやりとした。
「練習してるからね」
「よく分かる」
「続けようか?」
彼女は笑った。
「お願いだから台無しにしないで」
「もう遅いよ」
僕は微笑んだ。
「僕たちの愛を、よく整理された家事の予定表にたとえようとしてたところなんだ」
葵は声を上げて笑った。
「春人!」
「何? 実用的でしょ!」
「本当に変な人!」
「効率的に変なんだよ」
◇ ◇ ◇
僕たちは映画を最後まで見た。
ようやく。
葵は結末で泣いた。
僕は泣いていないふりをした。
彼女は気づいた。
当然、気づいた。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「春人」
「アレルギーだよ」
「何の?」
「登場人物の成長に対する」
葵は笑いすぎて、エンドロールを一時停止しなければならなかった。
◇ ◇ ◇
そのあとも、僕たちは通話を続けた。
どちらも、おやすみと言いたくないようだった。
葵は頬杖をついた。
「そこにいたいな」
僕はアパートを見回した。
「僕もそう思う」
彼女は微笑んだ。
「もし私がそこにいたら、何してると思う?」
僕は考えた。
「たぶん映画のことで言い争ってる」
葵は笑った。
「たぶんね」
「それから葵が僕の毛布を奪ってる」
「ちょっと!」
「聞こえたでしょ」
葵は微笑んだ。
「そうかもね」
僕は棚の写真を見た。
母の写真。
そして青いドアの前で撮った、葵と僕の写真。
僕はかすかに微笑んだ。
「ここには葵の居場所もあるんだよ」
葵は静かになった。
「分かってる」
「ここに住まなきゃいけないからじゃない」
「僕の世話をする責任があるからでもない」
「ただ、僕の人生に葵がいてほしいから」
彼女の目に涙が浮かんだ。
「春人……」
僕は微笑んだ。
「それに、大地叔父さんがまたカーテンをプログラミングしないように、誰かが止めないといけないしね」
葵は涙を流しながら笑った。
「それはとても重要な責任だね」
◇ ◇ ◇
日曜日の朝は静かにやってきた。
珍しく配達はなかった。
突然の訪問者もいなかった。
家具の緊急事態もなかった。
スマートホームの大惨事もなかった。
ただ日差しがあった。
医療機器の穏やかな作動音があった。
そして看護チームが一日を始める、聞き慣れた音があった。
僕は十分に休めた気分で目を覚ました。
本当に休めた気分だった。
驚くべき成果だった。
朝食の間、家事の予定表を確認した。
すべて整理されていた。
請求書。
配達。
予定。
執筆の締め切り。
そして、とても大切な項目が一つ。
土曜日――葵とのオンラインデート
僕は微笑んだ。
それから翌週にも新しい予定を追加した。
どうやら――
恋愛にも予定管理が必要らしい。
◇ ◇ ◇
その日の午前中、幸子さんが戻ってきた。
僕の原稿を持っていた。
そしてノートも。
とても分厚いノートだった。
僕は見つめた。
「森田さん」
「おはよう!」
「どうしてそんなに大きなノートを持ってるんですか?」
彼女は微笑んだ。
「感想があるの」
僕は目を閉じた。
「いくつですか?」
「いくつかよ」
「いくつかの定義を教えていただけますか?」
彼女は考えた。
「二十三個」
僕は見つめた。
「……二十三個?」
幸子さんは誇らしげにうなずいた。
「いい知らせから聞きたい?」
僕は唾を飲み込んだ。
「いい知らせがあるんですか?」
幸子さんは笑った。
「もちろんよ!」
椅子に座った。
「とても面白かったわ」
僕は瞬きをした。
「本当に?」
「本当よ」
僕の表情が柔らかくなった。
すると彼女は続けた。
「でも、あなたの探偵は馬鹿ね」
僕は見つめた。
「……ああ」
◇ ◇ ◇
それから一時間、幸子さんは自分の気づいたことを説明してくれた。
面白い指摘もあった。
痛いほど正確な指摘もあった。
一つは、僕が完全に見落としていた設定の矛盾だった。
別の一つは、探偵が三章にわたって明らかな手がかりを無視していたことを指摘していた。
僕は彼を弁護しようとした。
幸子さんは納得しなかった。
「頭がいい設定なんでしょう?」
「頭はいいんです」
「じゃあ、どうして窓を調べなかったの?」
僕はためらった。
「それは……」
彼女は待った。
僕はため息をついた。
「そうしないと話が進まなかったからです」
幸子さんは勝ち誇ったように微笑んだ。
「そこよ」
僕はうめいた。
◇ ◇ ◇
でも、その批評には価値があった。
彼女は丁寧に読んでくれていた。
登場人物を覚えていた。
謎を理解していた。
そして、どうすればもっとよくなるか説明してくれるほど、作品を大切に思ってくれていた。
幸子さんが帰ったあと、僕はメモを見た。
二十三個の指摘。
小さなものもあった。
重要なものもあった。
どれも検討する価値があった。
僕は微笑んだ。
「さて」
予定された勤務のために来ていた真由さんが、こちらを見た。
「どうでした?」
僕は考えた。
「どうやら文学好きのおばあちゃんに養子にされたみたいです」
彼女は笑った。
「素敵ですね」
僕はうなずいた。
「恐ろしいです」
少し間を置いた。
「でも、素敵です」
◇ ◇ ◇
その日の午後、僕は執筆机に戻った。
アパートは静かだった。
予定表は整理されていた。
スマートホームは正常に動いていた。
看護チームも新しい日常に慣れ始めていた。
隣人は僕の原稿に宣戦布告していた。
そして葵は何百キロも離れた場所で、自分で選んだ未来を追いかけていた。
しばらく、僕はどれほど多くのことが変わったのか考えた。
ほんの少し前まで、僕は由紀叔母さんと大地叔父さんの家に住んでいた。
青いドアのアパートが本当に自分のものになるのか、不安に思っていた。
契約が承認されるのか。
改修が終わるのか。
看護体制が整うのか。
自分に準備ができているのか。
そして今――
僕はここにいる。
自分の家に。
請求書を管理している。
スマートカーテンと戦っている。
隣人からクッキーをもらっている。
そして、自立した生活には驚くほど多くの普通の責任が伴うのだと学んでいる。
僕は微笑んだ。
「……悪くないね」
◇ ◇ ◇
その夕方、葵から写真が届いた。
グループ発表を終えたあと、佳奈やほかの研修参加者たちと並んでいる写真だった。
疲れているようだった。
でも、幸せそうだった。
葵:今週も何とか生き延びたよ。
僕は微笑んだ。
春人:おめでとう。君の王国は健在だね。
葵:そっちはどう?
僕は部屋を見回した。
カーテンは開いていた。
照明は動いていた。
本棚は立っていた。
驚くべき成果の連続だった。
春人:安定してる。犠牲者ゼロ。
葵:大地叔父さんも?
春人:残念ながらね。
彼女から笑っている絵文字が届いた。
それから――
葵:会いたいな。
僕の表情が柔らかくなった。
春人:僕も会いたい。
少し間を置いた。
それから――
春人:でも、葵が築いている人生を誇りに思ってるよ。
しばらくして返事が届いた。
葵:私も春人の人生を誇りに思ってる。
◇ ◇ ◇
僕は窓を見た。
外では街が夕暮れに包まれ始めていた。
人々が家へ帰っていた。
隣のアパートにも明かりがともり始めていた。
近くのどこかでは、幸子さんが別のミステリー小説を読み、何も知らない探偵を批判する準備をしているのだろう。
街のどこかでは、由紀叔母さんと大地叔父さんが、叔父さんに本当に新しい調理家電が必要なのか言い争っているのだろう。
そして遠く離れた場所では、葵が次の一週間の研修に備えているのだろう。
僕たちはみんな、違う人生を生きていた。
違う予定。
違う責任。
違う夢。
でも、それはお互いから遠ざかっているという意味ではなかった。
ときには――
成長するということは、まったく同じ場所に立っていなくても、つながり続ける方法を学ぶことなのだ。
僕はアパートを見回した。
僕の家。
僕の責任。
僕の選択。
そして微笑んだ。
自立とは、人がいなくなることではないからだ。
人との関係を築きながら、自分の人生を生きる自由のことなのだ。
誰かの愛がなければ存在できないからではない。
これから自分がなっていく人間の一部として、その愛を残しておきたいからだ。
◇ ◇ ◇
その夜、眠る前に、僕はスマートホームシステムに最後の指示を出した。
「寝室の照明を消して」
照明が暗くなった。
完璧だった。
誤った自動化設定もない。
謎のカーテンの動きもない。
予想外のコーヒー事件もない。
僕は微笑んだ。
「素晴らしい」
すると――
リビングから突然、声が響いた。
「おはようございます、陛下!」
僕は固まった。
沈黙。
完全な沈黙。
それから目を閉じた。
「……大地叔父さん」
どうやら――
叔父さんは一つだけ設定を残していったらしい。
僕はため息をついた。
明日、直そう。
今夜は――
眠ることにした。
自分の寝室で。
自分のアパートで。
信頼できる看護チームがいて。
愛してくれる家族がいて。
自分の未来を築いている恋人がいて。
そして、僕が望もうと望むまいと、もっといい作家にしようとしてくれる隣人がいる。
人生は完璧ではなかった。
これからも完璧にはならないだろう。
でも、僕の人生だった。
そして初めて、明日待っている責任が、自分にはまだ準備ができていない証拠には感じられなかった。
ようやく始められたという証拠に感じられた。




