第65話 初めて迎えた朝、ようやく僕のものになった天井の下で
高橋春人が自分のアパートへの引っ越しで最初に学んだのは、自分が常識的な人間なら持っているはずのない量の本を所有しているということだった。
二つ目に学んだのは、大地叔父さんがどうやらその本を一冊残らず数えようとしているということだった。
そして三つ目に学んだのは――
おそらく何よりも腹立たしいことだった。
大地叔父さんは、それを問題だと考えていたのだ。
「春人」
「嫌だ」
大地は瞬きをした。
「まだ何も言ってないぞ」
「その顔をしてる」
「どんな顔だ?」
「ものすごく理不尽なことを言い出す直前の顔」
由紀は引っ越し用の段ボール箱の山のそばに立っていた。
「あなたの本を数えてたのよ」
春人はゆっくり叔父のほうを向いた。
「どうして?」
大地は腕を組んだ。
「お前がこっそり図書館を経営しているんじゃないかと疑い始めたからだ」
春人は少し考えた。
「それって公的な補助金の対象になる?」
「ならない!」
「じゃあ、残念ながら叔父さんの捜査は行き詰まりだね」
大地はため息をついた。
「自分が何冊持ってるか分かってるのか?」
春人は微笑んだ。
「まだ足りないよ」
◇ ◇ ◇
ついに引っ越しの日がやってきた。
朝の日差しが由紀と大地の家の窓から差し込み、少しずつ廊下を占領してきた段ボール箱を照らしていた。
衣服が入った箱。
私物が入った箱。
引っ越しのために慎重に数量を確認した医療用品が入った箱。
そして、恐ろしいほど大量の本が入った箱。
すべての箱にはラベルが貼られていた。
ほとんどは正しく。
残念ながら、大地もラベル貼りを手伝うことを許されていた。
その結果、一つの箱にはこう書かれていた。
極めて重要な文学的物品――呪われている可能性あり
春人はそれを見つめた。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「どうしてこの箱には『呪われている可能性あり』って書いてあるの?」
大地は肩をすくめた。
「お前、ミステリーを書くじゃないか」
「だからって僕の本が超自然的な存在になるわけじゃないよ」
「それを証明できるのか?」
春人は由紀のほうを見た。
「叔父さんのラベル貼りの権限を剥奪して」
「もう剥奪したわ」と由紀は答えた。
◇ ◇ ◇
冗談ばかり言っていたものの、引っ越しそのものは慎重に計画されていた。
佐藤恵美は看護サービス事業者、引っ越し業者、バリアフリーの専門家たちと調整を進めていた。
医療機器の点検は完了していた。
新しいアパートの電気設備も準備が整っていた。
必要な医療用品もすでに届けられていた。
そして、春人の二十四時間体制の専門的な看護は、途切れることなく継続される予定だった。
これまで担当していた看護師が移動に同行し、新居で勤務する看護師への引き継ぎを行う。
春人自身も計画を確認していた。
二回。
そして三回目も。
わくわくしていたからだ。
そして、怖かったからだ。
その二つの感情は、彼の胸の中で驚くほどうまく共存するようになっていた。
「準備はできた?」と由紀が尋ねた。
春人は寝室を見回した。
昔からの自分の寝室。
数え切れないほどの午後を、小説を書くことに費やした場所。
母を亡くしたあと、泣いた場所。
思い描いていた未来が失われても、人生は続いていくのだと学んだ場所。
春人は唾を飲み込んだ。
「……あと少し」
由紀は待った。
春人はベッドのそばの棚を見た。
そこにはボタンくんが座っていた。
母がくれた古いテディベア。
その隣にはトゲトゲ卿四世とプリンセス・プリクルズが立っていた。
サボテン王家。
最も忠実な臣下たち。
春人はかすかに微笑んだ。
「王族を置いていくわけにはいかないからね」
由紀は小さく笑った。
「もちろんよ」
◇ ◇ ◇
アパートへ向かう車の中は、これまでの訪問とは違って感じられた。
春人は車椅子ごと福祉車両の所定の位置に安全に固定され、看護師に付き添われていた。
由紀と大地も一緒だった。
引っ越し業者はすでに大きな荷物の運搬を始めていた。
窓の外では、何か特別なことが起きているとは思えないほど、街がいつもどおりに動いていた。
信号で止まる車。
仕事へ急ぐ人々。
スマートフォンを見ながら歩く人に、危うくぶつかりそうになる配達員。
普通の生活。
何でもない日常。
それなのに――
春人には世界そのものが変わったように感じられた。
窓の外を見た。
「大地叔父さん?」
「何だ?」
「僕、間違ったことをしてると思う?」
大地の表情が柔らかくなった。
珍しく、すぐに冗談を言わなかった。
「いや」
春人は彼を見た。
「本当に?」
大地はうなずいた。
「お前はずっとやりたかったことをやろうとしてるんだと思う」
少し間を置いた。
「それに、怖いからって間違いになるわけじゃない」
春人はかすかに微笑んだ。
「驚くほど賢いことを言うね」
大地はにやりとした。
「たまにはな」
「ほんの一瞬だけど」
「台無しにするな」
◇ ◇ ◇
到着すると、青いドアが待っていた。
春人は車の窓越しにそれを見つめた。
何度も見てきたドアだった。
最初の内見。
バリアフリーの評価。
最終検査。
鍵の引き渡し。
でも今日は――
訪問ではなかった。
引っ越しだった。
看護師は計画に沿って車からの移動を介助し、春人と医療機器が安全な状態であることを確認してから、入口へ向かった。
由紀が隣を歩いた。
大地は箱を抱えて後ろからついてきた。
非常に怪しい箱だった。
春人は気づいた。
「それ、何が入ってるの?」
大地は箱を見下ろした。
「台所用品だ」
春人は目を細めた。
「どうしてガラガラ音がするの?」
「台所用品は音がするものだ」
「全然安心できない答えだね」
由紀はため息をついた。
「大地、まさか古いミキサーを持ってきたんじゃないでしょうね?」
大地は黙った。
春人は目を閉じた。
「やっぱりミキサーを持ってきたんだ」
◇ ◇ ◇
アパートには、新しい塗料と清潔な木材の匂いがかすかに漂っていた。
日差しがリビングの床に広がっていた。
車椅子の移動経路は確保されていた。
医療機器は承認された計画に従って配置されていた。
そして寝室は――
自分の寝室は――
春人を待っていた。
春人は中へ進んだ。
数秒間、誰も何も言わなかった。
そして大地が宣言した。
「王様のご到着だ!」
春人はため息をついた。
「お願いだからやめて」
由紀は笑った。
「大地ったら」
「何だよ、ここは春人の王国だろ!」
春人は部屋を見回した。
「じゃあ、最初の勅令は、僕の許可なくエアコンの設定温度を変えないこと」
大地は眉を上げた。
「もう権力を乱用するのか?」
「もちろん」
◇ ◇ ◇
最初の数時間は忙しかった。
とても忙しかった。
しかも、専門的な確認事項が山ほどあった。
看護師たちは引き継ぎを行い、機器や医療用品を点検し、緊急時の対応を確認した。
引っ越し業者は家具を運び込んだ。
由紀は春人の希望に合わせて日用品を整理した。
大地は交通整理をしようとした。
残念ながら、誰にも相談せずに自分を物流責任者に任命していた。
「その箱はあっちだ!」
春人は顔を上げた。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「そこは浴室だよ」
「だからだ」
「箱には『冬服』って書いてあるけど」
大地は止まった。
「そうか」
春人は微笑んだ。
「素晴らしい指揮能力だね」
由紀は笑った。
◇ ◇ ◇
午後になると、藤沢真由が予定されていた勤務のために到着した。
彼女は春人に温かく挨拶した。
「初日はどうですか?」
春人は部屋を見回した。
「まあ、まだ誰もアパートを破壊してません」
真由は微笑んだ。
「それは何よりです」
「大地叔父さんがまだいるんですけどね」
「ああ」
「そういうことです」
真由は前の勤務を担当していた看護師から引き継ぎを受け、その日のケアを担当した。
そのあと、午後をどう過ごしたいか春人に尋ねた。
「片づけを続ける前に、少し休みますか?」
春人は考えた。
「実は、執筆机の準備をしたいんです」
真由はうなずいた。
「分かりました」
彼女は小さな箱を見た。
「この飾り物は棚に置きましょうか?」
春人は箱を見た。
そして固まった。
「待ってください」
真由は手を止めた。
「どうしました?」
「どの飾り物ですか?」
彼女は箱を開けた。
中には二つのサボテンの置物が立っていた。
春人は見つめた。
「まさか、二人を引き離してませんよね?」
真由は瞬きをした。
「引き離す?」
「王族のご夫婦です」
沈黙。
真由は置物を見た。
それから春人を見た。
「……王族のご夫婦?」
春人は厳かにうなずいた。
「トゲトゲ卿四世とプリンセス・プリクルズです」
真由は見つめた。
それから笑った。
「ああ」
春人は微笑んだ。
「この家では外交問題を非常に重く受け止めていますので、ご理解ください」
◇ ◇ ◇
真由は春人の指示した場所に置物を並べた。
左にトゲトゲ卿四世。
右にプリンセス・プリクルズ。
二人の間には少しだけ空間を空けた。
「どうして間を空けるんですか?」と真由が尋ねた。
春人はにやりとした。
「健全な距離感です」
真由は笑った。
「なるほど」
それから別の箱を見た。
「このテディベアは?」
春人の表情が柔らかくなった。
「ボタンくんです」
真由は声の変化に気づいた。
「ベッドのそばに置きましょうか?」
春人はうなずいた。
「はい」
真由は微笑んだ。
「じゃあ、そこに置きますね」
春人はしばらく小さなクマを見た。
母が何年も前にくれたものだった。
そして今、ここにある。
新しい家に。
春人は唾を飲み込んだ。
「ありがとう、真由さん」
彼女は微笑んだ。
「どういたしまして」
◇ ◇ ◇
夕方近くになると、アパートは少しずつ人が暮らす場所らしくなってきた。
ソファが配置された。
執筆机も使えるようになった。
キッチンには食器が並んだ。
寝室には見慣れた持ち物が置かれた。
そして本棚が――
あの素晴らしい本棚が――
ついに届いた。
専門業者によって組み立てられた。
正しく組み立てられた。
奇跡的なほど正しく組み立てられた。
大地は腕を組んでその前に立った。
「俺にもできたのにな」
春人は完璧に水平な棚を見た。
「だからこそ、こんなに感動的なんだよ」
大地は眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「何でもないよ」
「春人」
「本当に何でもない」
◇ ◇ ◇
残念ながら、すぐに別の問題が明らかになった。
本棚は大きかった。
とても大きかった。
でも、春人の蔵書はそれ以上だった。
由紀は残った箱のそばに立っていた。
「春人」
「何?」
「もう入らないわ」
春人は瞬きをした。
「そんなはずないよ」
大地は棚を指さした。
「いっぱいだぞ」
春人は考えた。
「じゃあ、もっと本棚が必要だね」
由紀はため息をついた。
「どこに置くの?」
春人は見回した。
「廊下?」
真由が控えめに咳払いをした。
「それだと車椅子の通路と緊急時の動線をふさいでしまいます」
春人はうなずいた。
「もっともですね」
大地は指を鳴らした。
「天井だ!」
全員が彼のほうを向いた。
沈黙。
春人は見つめた。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「僕の本を天井から吊るそうって言ってるの?」
大地はためらった。
「全部じゃないぞ」
由紀は顔を覆った。
◇ ◇ ◇
結局、解決策は見つかった。
春人は手の届きやすい場所に置きたい本を選んだ。
残りは使いやすい収納棚に保管するか、必要に応じて入れ替えることにした。
主要な移動経路は確保する。
そして、配置を確認せずに本棚を追加することはしない。
大地は残念そうだった。
春人は安心した。
真由は面白がっていた。
由紀は疲れ果てていた。
成功した午後だった。
◇ ◇ ◇
その夜、由紀と大地はささやかな引っ越し祝いの夕食を用意した。
簡単な食事になるはずだった。
とても簡単な。
残念ながら――
大地が料理をすると申し出ていた。
春人は彼を見つめた。
「どうして?」
大地は不満そうな顔をした。
「甥っ子を愛してるからだ」
「それは調理師免許じゃないよ」
「俺だって夕飯を作ったことくらいある!」
「うん。みんな覚えてるよ」
由紀はため息をついた。
「大地、メイン料理は私が作るわ」
大地は腕を組んだ。
「じゃあ、付け合わせは俺が作る」
春人は目を閉じた。
「お願いだから、もう調理済みの付け合わせだと言って」
◇ ◇ ◇
夕食の準備はすぐに混乱し始めた。
大地は取り分け用のスプーンをなくした。
由紀は、食卓につくのは四人なのに、大地が六人分の食器を並べていることに気づいた。
真由は予定された勤務中で、看護サービス事業者の取り決めに従い、休憩は別に取ることになっていた。
春人はますます面白くなってきた。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「余分なお皿は誰の分?」
大地はテーブルを見た。
それから皿を見た。
そして春人を見た。
「客だ」
「どんな客?」
「来るかもしれない客だ」
春人は感心したようにうなずいた。
「想像上のお客さんの準備までしてるんだね。実に効率的だ」
由紀は笑った。
◇ ◇ ◇
葵はビデオ通話でお祝いに参加した。
大地が夕食の完成を宣言したちょうどそのとき、春人のパソコン画面に彼女の顔が現れた。
「みんな、こんばんは!」
由紀は微笑んだ。
「葵ちゃん! 研修はどう?」
「忙しいですけど、順調です!」
大地がカメラに顔を近づけた。
「俺の有名な料理を食べ損ねたな!」
葵は不安そうな顔をした。
「そうなんですか?」
春人は微笑んだ。
「心配しないで。関係当局には通報済みだから」
「春人!」
葵は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
夕食そのものは、驚くほど成功した。
主に由紀が監督していたおかげだった。
みんなでアパートについて話した。
引っ越しのこと。
家具のこと。
新しい看護体制のこと。
そして葵の研修のこと。
葵は最初の数日間の講義や見学について話した。
プロジェクトは厳しいものだった。
退院支援計画についての講義。
地域のサービスについての講義。
病院と在宅ケア事業者の連携についての講義。
複雑な医療的ニーズを持つ患者を支援する方法についての講義。
葵はすでに何人かの参加者と知り合っていた。
その一人が石田佳奈という看護師だった。
佳奈は人懐っこく、向上心があり、驚くほど率直な性格だった。
その日の早い時間、佳奈は葵に、忙しい仕事を続けながら恋愛関係を維持することは現実的なのかと尋ねていた。
葵は笑った。
そして答えた。
「難しいとは思うよ」
佳奈はうなずいた。
「そうでしょ」
「でも、難しいことと不可能なことは違うから」
その言葉に佳奈は少し考え込んだ。
そして今、新しいアパートから微笑んでいる春人を見ながら、葵は自分の答えにいっそう確信を持っていた。
◇ ◇ ◇
夕食のあと、由紀がグラスを上げた。
「春人に」
大地もすぐにグラスを上げた。
「王様に!」
春人はため息をついた。
「お願いだから、もうそう呼ばないで」
葵は画面の向こうで笑った。
「もう遅いよ。正式に決まっちゃったから」
由紀は微笑んだ。
「新しい家に乾杯」
しばらく、みんな静かになった。
春人は見回した。
由紀。
大地。
画面の向こうの葵。
予定されたケアを終え、少しだけ顔を出してくれた真由。
そして、自分を取り囲む部屋。
自分の部屋。
自分の家。
春人は唾を飲み込んだ。
「ちょっと話してもいい?」
由紀は微笑んだ。
「もちろんよ」
◇ ◇ ◇
春人は少し時間をかけて考えをまとめた。
「まず……ありがとう」
大地が口を開いた。
春人はすぐに彼を指さした。
「演説は禁止」
大地は口を閉じた。
葵は笑った。
春人はかすかに微笑んだ。
「ここまで来るのに、すごく時間がかかったよね」
部屋を見回した。
「実現しないんじゃないかと思った日もあった」
「書類の手続きが不可能に思えた日もあった」
「看護体制が整うか心配した日もあった」
「自分の家が欲しいなんて、望みすぎなのかもしれないと思った日もあった」
由紀の目に涙が浮かんだ。
春人は続けた。
「でも、みんながここまで来るのを手伝ってくれた」
叔母と叔父を見た。
「僕に家が必要だったとき、二人は家をくれた」
由紀は口元を覆った。
「そして、僕にも未来があるって、ずっと信じてくれた」
大地は目元を拭った。
「ほこりだ」
春人は微笑んだ。
「もちろん」
パソコンの画面を見た。
「それから葵……」
彼女の表情が柔らかくなった。
「自立することは、一人ぼっちになることじゃないって思い出させてくれて、ありがとう」
葵の目に涙が浮かんだ。
春人はもう一度部屋を見回した。
「これから失敗することもあると思う」
「たぶん、たくさん」
春人は微笑んだ。
「でも、僕はここで失敗したい」
「自分の家で」
部屋に小さな笑いが広がった。
それから春人は付け加えた。
「そして、これからもみんなに僕の人生の一部でいてほしい」
◇ ◇ ◇
由紀はもう隠さずに泣いていた。
大地はほこりの言い訳を諦めていた。
葵は目元を拭っていた。
そして春人も――
必死に威厳を保とうとしていたにもかかわらず――
泣いていた。
すると大地がもう一度グラスを上げた。
「春人に乾杯!」
由紀は微笑んだ。
「春人に」
葵もカメラに向かってカップを上げた。
「春人に」
春人は笑った。
「大地叔父さんの家具から生き延びたことに乾杯」
全員が声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
やがて夜も終わりに近づいた。
食器は片づけられた。
飾り物も整理された。
葵はおやすみを言い、翌日の研修の準備に戻った。
そして由紀と大地は帰り支度を始めた。
春人は二人を見ていた。
胸の中に不思議な感情が広がった。
この瞬間が来ることは分かっていた。
もちろん分かっていた。
でも、何かが起きると知っていることと、実際に経験することはまったく違う。
由紀が近づいた。
「大丈夫?」
春人はかすかに微笑んだ。
「うん」
由紀は表情を確かめた。
「本当に?」
春人はためらった。
それからうなずいた。
「たぶんね」
由紀は微笑んだ。
「またすぐ来るからね」
「分かってる」
「いつでも電話していいのよ」
「分かってる」
大地が隣に現れた。
「それに、家具の組み立てが必要なら――」
「嫌だ」
大地はため息をついた。
「信じられん」
◇ ◇ ◇
由紀は身をかがめ、春人の額にキスをした。
「おやすみ、春人」
春人は唾を飲み込んだ。
「おやすみ、由紀叔母さん」
大地はそっと肩に触れた。
「またな、春人」
春人は微笑んだ。
「またね、大地叔父さん」
二人はドアへ向かった。
由紀が一度振り返った。
それからもう一度。
そして三回目も。
春人は小さく笑った。
「もう帰っていいよ、由紀叔母さん」
由紀は涙を流しながら笑った。
「分かったわ」
青いドアが閉まった。
そしてアパートは静かになった。
◇ ◇ ◇
完全に静かになったわけではない。
真由はまだそこにいて、予定された夜勤を続けていた。
医療機器は聞き慣れた音を立てていた。
換気設備がかすかにうなっていた。
外では街がいつもどおりの夜を過ごしていた。
でも、長年聞き慣れてきた家の音は消えていた。
別の部屋から聞こえる大地の笑い声。
キッチンから呼びかける由紀の声。
廊下を歩く聞き慣れた足音。
ただ――
違う種類の静けさがあった。
春人は部屋を見回した。
一日中で初めて――
アパートがとても広く感じられた。
◇ ◇ ◇
真由は彼の表情に気づいた。
「少し一人で過ごしますか?」
春人は考えた。
「実は……」
ためらった。
「電話してもいいですか?」
真由は微笑んだ。
「もちろんです」
春人は音声操作システムを使って由紀に電話をかけた。
ほとんどすぐに出た。
「春人?」
彼はかすかに微笑んだ。
「やあ」
「何かあった?」
「ううん」
少し間が空いた。
それから――
「もう家に着いた?」
「今帰ってきたところよ」
春人は窓のほうを見た。
「家はどう?」
由紀は静かになった。
それから小さく笑った。
「静かすぎるわ」
春人は唾を飲み込んだ。
「うん」
由紀は続けた。
「あなたの部屋の前を通ったの」
春人は待った。
「それで、夜更かししないようにって言いに入りそうになったわ」
春人は寂しそうに微笑んだ。
「叔母さんらしいね」
由紀の声が震えた。
「もう寂しいわ」
春人の目に涙が浮かんだ。
「……僕も寂しいよ」
◇ ◇ ◇
しばらく、二人とも何も言わなかった。
それから由紀が言った。
「ねえ、悲しくないふりをしなくてもいいのよ」
春人は視線を落とした。
「分かってる」
「引っ越せてうれしいことと、私たちが恋しいことは、両立するのよ」
春人はかすかに微笑んだ。
「叔母さん、困るくらいこういう話が上手になったね」
由紀は笑った。
「あなたから学んだのよ」
春人はアパートを見回した。
「不思議なんだ」
「何が?」
「ずっとこれを望んでたのに」
「実際に手に入ったら……」
少し間を置いた。
「毎秒ずっと幸せな気分でいるものだと思ってた」
由紀の声が柔らかくなった。
「ああ、春人」
彼は唾を飲み込んだ。
「でも、幸せなんだよ」
「本当に」
「分かってるわ」
春人は青いドアを見た。
「ただ、何でもない日常がこんなに恋しくなるとは思わなかった」
由紀は涙を流しながら微笑んだ。
「その日常が全部なくなったわけじゃないのよ」
春人は耳を傾けた。
「これからも一緒に夕飯を食べるわ」
「本のことで言い争いもするでしょうね」
「大地はこれからも変な家電を買うわ」
春人は笑った。
「残念ながらね」
「そして、あなたはこれからも私の甥っ子よ」
春人の表情が柔らかくなった。
「……うん」
◇ ◇ ◇
電話を切ったあと、春人の気持ちは少し軽くなった。
家族が恋しくなくなったからではない。
その気持ちを隠す必要がなくなったからだ。
真由は夜の習慣を続けるのを手伝った。
医療的に必要なことは、すべて以前と同じだった。
同じ専門的な基準。
同じ安全への配慮。
同じ希望への尊重。
でも、周囲の景色は違っていた。
自分の寝室。
自分の飾り物。
自分の選択。
快適に過ごせるよう準備が整うと、春人はボタンくんを見た。
テディベアはベッドのそばに座っていた。
まさに春人が望んだ場所に。
春人は微笑んだ。
「さて、ボタンくん」
クマは何も言わなかった。
会話相手としては少々残念だった。
「たどり着いたね」
◇ ◇ ◇
翌朝、春人は今まで一度も眠ったことのない天井の下で目を覚ました。
数秒間――
自分がどこにいるのか忘れていた。
それから窓が見えた。
棚。
写真。
そして近くで誇らしげに立っている小さなサボテンの置物たち。
春人は瞬きをした。
「……ああ」
朝のケアが始まると、夜勤の看護師が声をかけた。
「おはようございます」
春人は微笑んだ。
「おはようございます」
「よく眠れましたか?」
彼は考えた。
「驚くほどよく眠れました」
「それはよかったです」
春人は部屋を見回した。
そして、もう少し大きく微笑んだ。
「……家にいるんだ」
◇ ◇ ◇
朝食は一つの冒険だった。
何か問題が起きたからではない。
春人が決めなければならないことがあったからだ。
普通のこと。
本当に普通のこと。
何時に朝食を取りたいか。
午前中をどこで過ごしたいか。
カーテンを開けたいか。
どんな音楽を流したいか。
メッセージを確認する前に小説を書きたいか。
小さなこと。
笑ってしまうほど小さなこと。
でも、大切だった。
自分で選んだことだったからだ。
真由はカーテンを開けるか尋ねた。
春人は窓を見た。
「はい、お願いします」
日差しが部屋に入った。
春人は微笑んだ。
それから――
「あ、左側だけ少し閉めてもらえますか? 画面に光が反射するので」
真由は調整した。
「これくらいですか?」
「完璧です」
彼女は微笑んだ。
春人は机を見た。
「さて」
にやりとした。
「仕事に戻ろうかな」
◇ ◇ ◇
残念ながら、アパートでの最初の執筆時間は、ドアをノックする音によって中断された。
真由はドアを開ける前に春人に確認した。
「どなたか来る予定はありますか?」
春人は眉をひそめた。
「ありません」
もう一度ノック。
そして明るい声がした。
「こんにちはー! どなたかいらっしゃいますか?」
春人は眉を上げた。
「どうやら王国に最初の訪問者が来たようですね」
真由は微笑んだ。
「どなたか確認しましょうか?」
「お願いします」
◇ ◇ ◇
訪問者は年配の女性だった。
銀色の髪。
明るい目。
そして、この建物で起きていることをすべて知っていそうな、何とも言えない表情をしていた。
「森田幸子と申します」と彼女は名乗った。
「お隣に住んでいるんですよ」
真由は丁寧に挨拶した。
幸子は彼女の向こうをのぞき込んだ。
「あら! 若い方はいらっしゃる?」
春人がリビングから声をかけた。
「それは用件によります。何か売りに来たんですか?」
幸子は声を上げて笑った。
「あら、面白い方ね!」
春人は微笑んだ。
「僕もずっとそう言ってるんです」
春人が訪問を歓迎していることを確認すると、真由は彼女を中へ案内した。
幸子は興味深そうに見回した。
「まあ、素敵なお部屋!」
「ありがとうございます」
「引っ越してきたばかり?」
「昨日です」
「まあ、それはおめでとう!」
それから真由のほうを見た。
「こちらはお姉さん?」
沈黙。
春人は瞬きをした。
真由は丁寧に微笑んだ。
「いいえ、私は看護師です」
幸子は驚いた顔をした。
「あら!」
それから春人を見た。
「お一人で暮らしているの?」
春人は考えた。
「自分の家で生活していますけど、二十四時間、専門の看護師さんに来てもらっているんです」
幸子はゆっくりうなずいた。
「ああ、なるほど」
少し間が空いた。
「珍しいわねえ!」
春人は微笑んだ。
「そういう言い方もできますね」
◇ ◇ ◇
幸子は純粋に興味を持っているようだった。
看護師について尋ねた。
車椅子について尋ねた。
アパートの改修について尋ねた。
春人は話してもいいと思う範囲で答えた。
質問が個人的になりすぎると、慣れた冗談で話題を変えた。
すると幸子が本棚に気づいた。
目を大きく見開いた。
「まあ!」
春人は微笑んだ。
「どうしました?」
「これ、全部あなたの本?」
「ほとんどはそうです」
幸子は近づいた。
「本を読むのが好きなの?」
春人はにやりとした。
「たまに」
幸子は笑った。
「たまに?」
「ほかの趣味の邪魔にならない程度にしています」
「ほかの趣味って?」
「本をもっと買うことです」
幸子は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
それから彼女は執筆机に気づいた。
「学生さん?」
春人は微笑んだ。
「いいえ。作家です」
幸子は固まった。
「作家さん?」
「はい」
「本を書くの?」
「いろいろ書いています」
幸子の表情が一変した。
「ミステリーも書くの?」
春人は瞬きをした。
「ときどき」
幸子は両手を合わせた。
「まあ、素晴らしい!」
春人は真由のほうを見た。
「どうやら最初のファンを見つけたみたいです」
幸子は笑った。
「私、ミステリーが大好きなの!」
身を乗り出した。
「特に、ほかの誰も気づかないことに探偵だけが気づくようなお話!」
春人は微笑んだ。
「僕もそういう話が一番好きです」
そして、そんなふうにして――
一つの友情が始まった。
◇ ◇ ◇
幸子は少しの間、滞在した。
お気に入りのミステリー小説について話した。
古典的な探偵について。
不公平な伏線回収について。
そして、どうして小説の探偵たちはあんなにも自由な時間を持っているのかについて。
帰る前に、幸子は微笑んだ。
「それじゃあ春人さん、この建物へようこそ」
春人も微笑んだ。
「ありがとうございます」
「何か必要なことがあったら、遠慮なく言ってね」
春人はうなずいた。
「ありがとうございます」
幸子は少し考えた。
「もっとも、もう十分に助けてくれる人がいるみたいだけど」
春人は優しく微笑んだ。
「必要なときに、必要な形で助けてもらえるのは、いつでもありがたいことです」
幸子は考えた。
それからうなずいた。
「いい考え方ね」
◇ ◇ ◇
その日の午後、春人に葵からビデオ通話がかかってきた。
画面に現れた彼女は私服姿で、髪を後ろでまとめていた。
疲れているようだった。
とても疲れていた。
春人はすぐに気づいた。
「大変な一日だった?」
葵はため息をついた。
「すごく」
春人は微笑んだ。
「話す?」
葵はうなずいた。
研修は厳しかった。
講義は難しかった。
事例検討では慎重な分析が求められた。
そしてグループ課題では、すでに最初の意見の衝突が起きていた。
葵が親しくなった石田佳奈は、退院支援計画では実務上の効率を優先するべきだと考えていた。
葵は反対した。
効率が重要ではないと思っていたからではない。
患者自身が自分の人生についての決定に、意味のある形で参加する必要があると信じていたからだ。
議論は白熱した。
春人は耳を傾けた。
それから微笑んだ。
「葵らしいね」
葵は瞬きをした。
「どういう意味?」
「患者さんの声を聞くべきだと思ったから、誰かと議論したんでしょ」
葵は視線を落とした。
「……うん」
春人は微笑んだ。
「だったら、誇らしいよ」
◇ ◇ ◇
葵の表情が柔らかくなった。
「春人の最初の朝はどうだった?」
春人はにやりとした。
「素晴らしかったよ」
「本当に?」
「朝食を生き延びた」
「おめでとう」
「重要な経営判断もいくつか下した」
「例えば?」
「カーテンの位置」
葵は笑った。
「すごいね」
「それから、最初のお隣さんにも会った」
「へえ?」
「森田幸子さんっていう、ミステリー好きのおばあさん」
葵は微笑んだ。
「いい人そうだね」
「僕の最初の公式な文学的支援者になるかもしれない」
「もうファンクラブを作ってるの?」
「当然だよ」
葵は笑った。
◇ ◇ ◇
それから少し静かになった。
「春人?」
「何?」
「昨夜はどうだった?」
春人はためらった。
一瞬――
完璧だったと言おうかと思った。
でも、二人の約束を思い出した。
話し続けること。
本当の気持ちが複雑なときでも。
「……少し寂しかった」
葵の表情が柔らかくなった。
「そうだったんだ」
春人はうなずいた。
「由紀叔母さんと大地叔父さんが帰ったあと、全部が変な感じだった」
葵は耳を傾けた。
「アパートが静かになるのは分かってた」
「でも、こんなに違う感じがするとは思わなかった」
葵は優しく微笑んだ。
「そうだよね」
春人は部屋を見回した。
「でも、由紀叔母さんに電話したんだ」
「それで?」
「二人とも泣いた」
葵は小さく笑った。
「二人らしいね」
春人は微笑んだ。
「うん」
少し間を置いた。
「でも、今朝はよかった」
葵の表情が明るくなった。
「本当に?」
「うん」
春人は窓を見た。
「目が覚めて、自分の家にいるんだって気づいたんだ」
◇ ◇ ◇
葵は微笑んだ。
「本当にうれしいよ」
春人は彼女を見た。
「僕も葵のことがうれしいよ」
葵は笑った。
「退院支援計画について一日中議論してたのに?」
「むしろ、だからこそだよ」
葵は首を振った。
「本当に困った人だね」
春人は微笑んだ。
「よく言われるよ」
二人はもうしばらく通話を続けた。
ずっと話し続けるわけではなかった。
すべての沈黙を埋めようとするわけでもなかった。
ただ、それぞれの一日の何でもない出来事を共有していた。
葵は食堂のことを話した。
春人は本棚のことを話した。
葵は課題について愚痴を言った。
春人は大地のラベル貼りについて愚痴を言った。
そして笑い声と小さな不満の間で――
距離が少しだけ怖くなくなっていった。
◇ ◇ ◇
その夕方、春人は執筆机の前にいた。
アパートは静かだった。
真由は近くで予定された看護記録の作成をしていた。
医療機器は聞き慣れたリズムを刻み続けていた。
窓の外には、街の明かりがともり始めていた。
春人は新しい文書を開いた。
しばらく――
何を書けばいいのか分からなかった。
それから微笑んだ。
そして最初の一文を音声入力した。
自分の家で初めて目覚めた朝、僕は自由というものが、隣の部屋で冷蔵庫が低くうなる音に驚くほど似ていると知った。
春人は小さく笑った。
悪くない書き出しだった。
続きを書いた。
ファンファーレは鳴らなかった。
盛大な発表もなかった。
誰の助けも必要としない人間へと、突然生まれ変わったわけでもなかった。
ただ、一つの部屋があった。
一つの窓があった。
見慣れた写真があった。
そして、次に何をするかを自分で決められるという、途方もなく特別な実感があった。
春人は手を止めた。
それから母の写真を見た。
「……母さん、これなら気に入ってくれそうだね」
◇ ◇ ◇
その夜遅く、葵がもう一度電話をかけてきた。
彼女は研修先の宿泊施設のベッドに座っていた。
春人は自分の寝室にいた。
二人とも疲れていた。
二人とも幸せそうだった。
「やあ」と葵が言った。
「やあ」
「王国はどう?」
春人は微笑んだ。
「安定してるよ」
「王族は?」
「繁栄してる」
葵は笑った。
「よかった」
二人は数分間話した。
それから葵が優しく微笑んだ。
「もう一度、部屋を見せてくれる?」
春人はうなずいた。
音声操作システムと必要な介助を使い、カメラの向きを調整した。
葵には棚が見えた。
執筆机。
写真。
ボタンくん。
そしてサボテン王家。
葵は微笑んだ。
「春人らしい部屋だね」
春人は見回した。
「うん」
微笑んだ。
「そうだね」
◇ ◇ ◇
葵は静かになった。
「春人?」
「何?」
「誇らしいよ」
春人の表情が柔らかくなった。
「ありがとう」
「今日、きっと簡単じゃなかったよね」
春人はうなずいた。
「簡単じゃなかった」
「でも、やり遂げたんだね」
春人は天井を見た。
見慣れない天井。
最初の夜を想像したとき、怖く感じていた天井。
でも今は――
それほど見慣れないものには感じられなかった。
「……うん」
春人は微笑んだ。
「やり遂げたよ」
◇ ◇ ◇
葵があくびをした。
春人はにやりとした。
「誰かさんは寝ないとね」
葵は笑った。
「誰かさんは観察ばかりするのをやめないとね」
「職業病だよ」
「看護師じゃないでしょ」
「いや、僕は観察力が非常に優れているんだ」
葵は微笑んだ。
「おやすみ、春人」
彼の表情が柔らかくなった。
「おやすみ、葵」
「愛してる」
「僕も愛してる」
通話が終わった。
◇ ◇ ◇
春人はそのあと数分間、目を覚ましていた。
怖かったからではない。
一人ぼっちだと感じていたからでもない。
ただ、この瞬間を覚えておきたかったからだ。
静かな部屋。
聞き慣れた医療機器の音。
近くに資格を持つ看護師がいるという安心感。
ベッドのそばの写真。
そして、そのすべてが驚くほど普通であるということ。
由紀と大地のことを考えた。
きっと今頃、二人でリビングに座っているだろう。
隣の幸子さんのことを考えた。
たぶんミステリー小説を読んでいるだろう。
葵のことを考えた。
厳しい研修の一日を終え、別の街で眠っているだろう。
そして母のことを考えた。
かつてノートに一つの問いを書いた女性。
春人は何を望んでいる?
春人は微笑んだ。
ようやく、その答えが分かった。
たった一つの大きな達成ではない。
困難のない人生でもない。
何でもない瞬間の積み重ねだった。
家。
仕事。
家族。
友人。
愛。
そして、それらが自分にとって何を意味するのか、自分で決められる自由。
◇ ◇ ◇
アパートは静かだった。
でも、もう空っぽではなかった。
本があった。
写真があった。
思い出があった。
希望があった。
そして、かつて想像することさえ怖かった人生の始まりがあった。
春人は窓を見た。
街の明かりがガラスの向こうできらめいていた。
遠くで電車が通り過ぎた。
誰かを家へ運んでいるのかもしれない。
誰かを新しい始まりへ運んでいるのかもしれない。
春人は微笑んだ。
「……おやすみ、母さん」
それから部屋を見回した。
自分の部屋。
自分の家。
そしてささやいた。
「みんな、おやすみ」
頭上の天井は、まだ新しかった。
音もまだ聞き慣れなかった。
そして明日には、これまで経験したことのない責任が待っているだろう。
でも初めて――
春人は自分の人生が始まるのを待っているのではなかった。
もう、その人生を生きていた。
そして、ようやく自分のものになった天井の下で――
高橋春人は目を閉じた。
自分の家で。




