第64話 置いていくものと、これから迎えるものの間で見つけた家
火曜日の朝、高橋春人が最初に知ったのは、大地叔父さんが工具箱を買ったということだった。
二つ目に知ったのは、その工具箱にはおよそ四十七種類の工具が入っているということだった。
そして三つ目に知ったことは――
おそらく何より恐ろしいことだった。
大地叔父さんは、その工具を実際に使うつもりなのだ。
「春人」
「嫌だ」
大地は瞬きをした。
「まだ何も言ってないぞ」
「だから先に止めてるんだよ」
由紀がキッチンのテーブルから顔を上げた。
「何の騒ぎ?」
大地は誇らしげに工具箱をテーブルに置いた。
「アパートの家具をそろえるのを手伝おうと思ってな」
春人は見つめた。
「工具で?」
「当然だろう」
「本物の工具?」
「そうだ」
「叔父さんが実際に使うつもりの?」
大地は眉をひそめた。
「どうしてそんなに驚くんだ?」
春人は由紀のほうを見た。
「消防署には今のうちに連絡しておく? それとも何かが煙を出し始めてからにする?」
由紀はため息をついた。
「お願いだから、煽らないで」
「国家的な緊急事態を防ごうとしてるんだよ」
大地は腕を組んだ。
「言っておくが、昨夜は家具の組み立て動画を最初から最後まで見たんだぞ」
春人は目を細めた。
「何分の動画?」
大地はためらった。
「十四分」
春人は目を閉じた。
「もうおしまいだね」
◇ ◇ ◇
残念ながら、工具箱はその朝の最も重要な出来事ではなかった。
その栄誉は、一通のメールに与えられた。
とても重要なメールだった。
午前九時十七分ちょうどに届いたメール。
春人が執筆予定を確認していると、パソコンが佐藤恵美からの新着メールを知らせた。
春人はメールを開いた。
件名を読んだ。
そして固まった。
件名:賃貸借契約書の修正版およびバリアフリー改修に関する最終条件
数秒間、ただ画面を見つめていた。
そして――
「由紀叔母さん!」
キッチンからすぐに返事があった。
「何があったの!?」
「メール!」
「どんなメール!?」
「大事なメール!」
大地が戸口に現れた。
「誰か死んだのか!?」
春人は見つめた。
「どうして最初にそう考えるの?」
「お前が叫んだからだ!」
「大事なことがあったら、いつも叫ぶでしょ!」
「だからだろ!」
由紀が急いで部屋に入ってきた。
「二人とも叫ぶのをやめて!」
春人は彼女を見た。
「恵美さんから修正版の契約書が届いたんだ」
沈黙。
そして――
「あら……」
由紀が近づいた。
「本当に?」
春人はうなずいた。
「本当に」
◇ ◇ ◇
修正版の契約書は、最初のものよりもずっと分かりやすくなっていた。
提案されていた浴室の改修は、別紙の追加条項に明記されていた。
電気設備の改良についても記載されていた。
承認された工事費用の負担についても、責任の所在が明確になっていた。
そして何より重要なのは――
大家が、明確に承認されたバリアフリー改修については、賃貸借契約の終了時に必ずしも撤去を求めないことに同意していたことだった。
原状回復義務が残る場合も、追加条項に明記された範囲に限定される。
春人はその段落を二回読んだ。
そして三回目も。
「待って」
由紀が身を乗り出した。
「どうしたの?」
「つまり、浴室をわざわざ使いにくい状態に戻すためのお金を払わなくていいってこと?」
大地は両腕を上げた。
「浴室に勝利したぞ!」
春人はゆっくり彼のほうを向いた。
「大地叔父さん」
「何だ!?」
「お願いだから、配管設備に宣戦布告するのはやめて」
由紀は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
一時間後、恵美がビデオ通話に参加した。
彼女はうれしそうだった。
それは心強いことだった。
恵美がうれしそうな顔をするのは、本当に役立つ進展があったときくらいだからだ。
「皆さん、おはようございます」
「おはようございます」と春人が答えた。
「修正版の契約書は確認されましたか?」
「はい」
「いかがでした?」
春人は微笑んだ。
「浴室が正式に降伏したみたいです」
恵美は笑った。
「大地さんからも似たようなことを聞きました」
「残念ながら、叔父さんは我が家の軍事報道官になってしまったんです」
大地は誇らしげにうなずいた。
「光栄なことだ」
恵美は続けた。
「所有者は修正されたバリアフリー改修の条件を受け入れました。承認済みの改修に関する資金手配も確定しています」
春人は静かになった。
「それで、契約は?」
「残っていた条件も、署名に進めるところまで解決しました。最終書類の内容に納得されていれば、契約を締結できます」
春人は彼女を見つめた。
一瞬――
言葉が出なかった。
そして――
「……本当ですか?」
恵美は微笑んだ。
「本当です」
◇ ◇ ◇
その言葉は不思議に感じられた。
意味が分からなかったからではない。
ただ、これまでずっと別の言葉を聞き続けてきたからだ。
保留中。
審査中。
承認待ち。
追加評価が必要。
承認を条件とする。
そして今――
署名できる。
アパートは、もう単なる可能性ではなかった。
春人の決断を待つものになっていた。
春人は由紀のほうを見た。
彼女は微笑んでいた。
でも、目には涙が浮かんでいた。
大地は隣に立ち、珍しく静かだった。
春人は唾を飲み込んだ。
「恵美さん?」
「はい?」
「少し考える時間をもらえますか?」
彼女の表情が柔らかくなった。
「もちろんです」
春人は視線を落とした。
「契約したいんです」
「分かっています」
「でも、本当に実現するんだってことを理解する時間が、少し必要みたいです」
恵美はうなずいた。
「必要なだけ時間を取ってください」
◇ ◇ ◇
その日の午後、春人はパソコンに最終契約書を開いたまま座っていた。
看護師は近くで予定されていたケアを続けていた。
由紀は隣に座っていた。
大地は、一時的に感動的な演説を禁止されていた。
必要な予防措置だった。
春人は最終条件をもう一度確認した。
家賃。
敷金。
バリアフリー改修の追加条項。
修理に関する責任。
入居条件。
それから由紀のほうを見た。
「僕、準備できてると思う?」
由紀は少し考えた。
「あなたはどう思う?」
春人はかすかに微笑んだ。
「それはずるいよ」
「どうして?」
「僕自身に答えさせようとしてるから」
由紀は微笑んだ。
「時には、それが私の仕事なのよ」
春人はもう一度書類を見た。
何年もの間、自分の家を持つ瞬間を想像してきた。
勝利した気分になると思っていた。
自信に満ちていると思っていた。
迷いなど一切ないと思っていた。
でも実際には――
緊張していた。
興奮していた。
怖かった。
そして不思議なほど穏やかだった。
すべて同時に。
「……準備できてると思う」と彼は言った。
由紀の目が優しくなった。
「だったら、進んでいいと思うわ」
◇ ◇ ◇
春人は一般的な方法で書類に手書きの署名をすることが難しいため、恵美は大家側が受け入れることを確認済みの、アクセシブルな電子署名の方法を手配していた。
春人はパソコンと音声操作ソフトを使って書類を確認できた。
必要な本人確認と同意確認の手順も、すでに説明されていた。
そして、最後の確認は完全に春人自身の判断に委ねられていた。
誰も彼の代わりに署名しない。
誰も彼の代わりに決めない。
由紀は書類を理解するのを手伝える。
恵美は手順を説明できる。
大地は家具について求められていない意見を述べられる。
でも、決断するのは春人だった。
春人は確認画面を見た。
賃貸借契約書に署名する
心臓が激しく鳴っていた。
数秒間――
何も言わなかった。
そして――
「確認」
ソフトが指示を認識した。
最終確認の画面が表示された。
春人は内容を確認した。
そして、もう一度承認した。
画面が切り替わった。
署名が完了しました。
沈黙。
完全な沈黙。
そして――
大地がささやいた。
「……やったな」
由紀は口元を覆った。
春人は画面を見つめた。
やったのだ。
賃貸契約書に署名した。
自分のアパートを持つことになった。
◇ ◇ ◇
最初に泣き始めたのは由紀だった。
それは完全に予想どおりだった。
約七秒後には大地も泣き始めた。
こちらは、かなり予想外だった。
春人は二人を交互に見た。
「ちょっと、二人とも」
由紀は涙を流しながら笑った。
「ごめんなさい」
大地は目元を拭った。
「ほこりだ」
春人は眉を上げた。
「ほこり?」
「この部屋はほこりっぽいな」
「昨日掃除したよ」
「しつこいほこりなんだ」
春人は微笑んだ。
そして、自分の目にも涙が浮かんできた。
もう一度画面を見た。
署名は完了していた。
契約書には自分の名前があった。
高橋春人。
由紀の名前ではない。
大地の名前でもない。
自分の名前だった。
そして突然――
母にも見てほしかったと思った。
◇ ◇ ◇
次の朗報は二日後に届いた。
藤沢真由が、残っていた雇用手続きと承認要件をすべて完了したのだ。
正式に春人の在宅看護チームに加わることが認められた。
黒田夏美も追加の医療機器研修を終え、必要な再評価に合格していた。
最終的な勤務日程の調整が進められていた。
恵美は看護サービス事業者と連携し、二十四時間の完全な勤務体制を整えていた。
ほかの資格を持つ看護師たちも含まれていた。
代替要員の体制も確認されていた。
そして事業者は、予定されている入居日から必要な看護体制を開始できると確認していた。
春人は恵美の説明を注意深く聞いた。
「じゃあ、真由さんは正式にチームに入るんですね?」
「はい」
「夏美さんは?」
「研修は完了しています。最初の勤務日程を最終調整中です」
「ほかの看護師さんたちは?」
「事業者が残りの勤務枠と代替体制を確保しています」
春人は息を吐いた。
「……すごい」
恵美は微笑んだ。
「いい意味の『すごい』だといいんですが」
「ものすごくいい意味です」
◇ ◇ ◇
翌日の午後、真由が春人の希望について話し合うために訪れた。
医療上の必要事項についてではなかった。
それらはすでに評価されていた。
今回の話は別のことだった。
彼の家。
日々の習慣。
境界線。
そして、どんな生活環境をつくりたいか。
真由は春人の向かいに座った。
「引っ越し前に、私たちに特に理解しておいてほしいことはありますか?」
春人は考えた。
「あります」
真由は待った。
「アパートを病院みたいにしたくないんです」
真由はうなずいた。
「よく分かります」
「医療機器があるのは分かっています」
「もちろんです」
「医療用品も」
「はい」
「看護師さんたちが二十四時間勤務することも」
「そうですね」
春人はかすかに微笑んだ。
「でも、それでも僕の家だと感じられる場所にしたいんです」
真由は微笑んだ。
「では、それを目指しましょう」
◇ ◇ ◇
二人は実務的なことについて話し合った。
春人が一日をどのように過ごしたいか。
どう呼ばれたいか。
いつ執筆するのが好きか。
ケアの最中にどのようなコミュニケーションを望むか。
どんな中断が必要なのか。
どんなことなら後回しにできるのか。
来客についても話した。
プライバシーについても。
専門職としての境界線についても。
そして、適切な看護記録を維持しながら、アパートを事務書類だらけの場所にしないことの大切さについても。
それから真由がもう一つ質問した。
「新しい看護チームと安心して過ごすために、一番大切なことは何でしょう?」
春人は慎重に考えた。
「聞いてもらうことです」
真由は首をかしげた。
「聞く、ですか?」
春人はうなずいた。
「僕の日課を変える前に」
「僕の物を動かす前に」
「僕にとって何が一番いいかを決める前に」
少し間を置いた。
「緊急時には、すぐに対応しなきゃいけないことがあるのは分かっています」
「もちろんです」
「でも、普段は、僕自身が決められる人間だってことを忘れないでほしいんです」
真由は微笑んだ。
「とても合理的な希望だと思います」
春人はにやりとした。
「素晴らしい。ぜひ公式記録に書いておいてください」
真由は笑った。
「そのつもりです」
◇ ◇ ◇
その頃――
水野葵にも一通のメールが届いていた。
勤務を終えたあと、彼女はそれを開いた。
最初の一行を読んだ。
そして、すぐに椅子に座った。
おめでとうございます。病院・在宅移行支援プロジェクトへの参加が決定しました。
数秒間――
ただ見つめた。
それからもう一度読んだ。
さらにもう一度。
合格したのだ。
研修は三週間後に始まる。
一部は別の都市で行われる。
数週間、家を離れることになる。
帰宅できる機会も限られていた。
日程は正式に確定していた。
そして残念ながら――
春人の引っ越し予定と重なっていた。
葵は目を閉じた。
「……やっぱり、そうなるよね」
◇ ◇ ◇
その夜、葵は春人に電話をかけた。
彼はほとんどすぐに出た。
「高橋教授のアパート計画課です」
葵は笑った。
「普通に電話に出ることはないの?」
「避けられるなら避けるね」
葵は微笑んだ。
「春人?」
「何?」
「合格したよ」
沈黙。
そして――
「葵!」
葵は笑った。
「叫ばないで!」
「合格したんだね!」
「春人!」
「すごいじゃないか!」
葵は顔を覆った。
笑っていた。
そして泣いていた。
同時に。
「ありがとう」
春人は微笑んだ。
「本当に誇らしいよ」
葵の表情が柔らかくなった。
それから――
「ほかにも話があるの」
◇ ◇ ◇
葵は日程を伝えた。
研修先。
予定されている期間。
そして、春人の引っ越しと重なること。
春人は耳を傾けた。
しばらく――
返事をしなかった。
葵は気づいた。
「春人?」
彼は唾を飲み込んだ。
「うん」
「大丈夫?」
少しだけ嘘をつこうかと思った。
何でもないと言おうか。
がっかりしていないと言おうか。
全部大丈夫だと言おうか。
でも、二人は話し合い続けると約束していた。
難しいときでも。
だから本当のことを言った。
「……少し寂しい」
葵は目を閉じた。
「うん」
春人はかすかに微笑んだ。
「いてほしかったんだ」
葵の声が柔らかくなった。
「私も、そばにいたかった」
春人は視線を落とした。
しばらく――
二人とも何も言わなかった。
それから春人は続けた。
「でも、それでも行ってほしい」
葵は唾を飲み込んだ。
「本当に?」
「本当に」
春人は微笑んだ。
「葵に会えなくて寂しいのと、葵のことをうれしく思うのは、同時にできるから」
葵の目に涙が浮かんだ。
「春人……」
彼はにやりとした。
「どうやら僕は、感情面でかなり成熟しているらしい」
葵は涙を流しながら笑った。
「どうやらね」
◇ ◇ ◇
次の週末、大地は家具の組み立て計画を開始した。
残念ながら――
家具のほうも反撃を始めた。
最初は本棚だった。
ごく普通の本棚。
少なくとも――
大地はそう主張していた。
春人は巨大な段ボール箱を見た。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「どうしてその本棚、ドアより背が高いの?」
大地は眉をひそめた。
「そんなことはない」
由紀が箱を見た。
「絶対に高いわよ」
大地は寸法を確認した。
それからもう一度確認した。
そして――
「あ」
春人は目を閉じた。
「お願いだから、サイズを間違えて買ったなんて言わないで」
大地はためらった。
「間違いの定義によるな」
春人はうめいた。
◇ ◇ ◇
二つ目の惨事はテーブルだった。
大地は組み立てた。
誇らしげに。
自信満々に。
間違った方法で。
脚が外側へ斜めに広がり、そのテーブルは怯えた蜘蛛のように見えた。
由紀は見つめた。
「大地」
「何だ?」
「どうしてこんな形なの?」
「モダンデザインだ」
春人は目を細めた。
「モダンな大惨事だね」
大地は腕を組んだ。
「こういう形なんだ」
家具の配置を確認するために来ていた葵が、説明書を手に取った。
イラストを見た。
それからテーブルを見た。
そして大地を見た。
「……逆向きに組み立ててるよ」
沈黙。
大地は不満そうだった。
「そんなはずはない」
葵は説明書を回転させた。
春人は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
三つ目の惨事は、さらにひどかった。
なぜなら、大地はまったく違う説明書を見ていたからだ。
由紀はなくなったネジを探しているときに気づいた。
「大地?」
「何だ?」
「どうしてこの説明書に『屋外用収納庫』って書いてあるの?」
大地は固まった。
春人はゆっくり彼のほうを向いた。
「……大地叔父さん」
大地は説明書を見た。
それから家具を見た。
そしてもう一度説明書を見た。
「興味深いな」
春人は笑いすぎて、看護師が一瞬、介助が必要かどうか確認するほどだった。
春人は何とか首を振った。
かろうじて。
「どうして!?」
大地は眉をひそめた。
「絵が似てたんだ!」
葵も笑っていた。
由紀は椅子に座り込んだ。
「もう無理」
春人はにやりとした。
「家具のほうも無理みたいだね」
◇ ◇ ◇
結局、大きな家具については専門業者に組み立てを任せるほうが安全だという結論になった。
特に、アパートでは車椅子の移動経路と医療機器へのアクセスを確保する必要があった。
春人はそこだけは譲らなかった。
家具をアパートに合わせるべきなのだ。
その逆ではない。
大地は渋々、その決定を受け入れた。
ただし、工具箱だけは手元に残すと言い張った。
「緊急時のためだ」
春人は彼を見た。
「叔父さん自身が緊急事態だよ」
◇ ◇ ◇
その夜、春人は眠れなかった。
医療機器に問題があったからではない。
夜勤の看護師は予定された確認を終えていた。
バックアップの準備も整っていた。
すべて正常に機能していた。
でも、考えが止まらなかった。
賃貸契約は締結した。
看護体制も確定した。
改修も進んでいた。
そして入居日が近づいていた。
本当に実現するのだ。
本当に。
つまり――
人生の長い時間を過ごした家を出ることになる。
違う寝室で目を覚ますことになる。
違う音を聞くことになる。
違う壁を見ることになる。
新しい日課に従って生活することになる。
そして、怖かった。
◇ ◇ ◇
夜勤の看護師は、春人がまだ起きていることに気づいた。
「眠れませんか?」
春人はため息をついた。
「どうやら僕の脳が緊急会議を開くことにしたみたいです」
看護師は微笑んだ。
「引っ越しのことですか?」
春人はうなずいた。
「全部です」
「特に気になっていることは?」
春人は考えた。
「もし嫌になったら?」
看護師は待った。
「寂しくなったら?」
「何か問題が起きたら?」
「うまくやれなかったら?」
春人は唾を飲み込んだ。
「失敗したら?」
看護師は少し考えた。
それから優しく答えた。
「自分の家に引っ越すことは、試験ではありませんよ」
春人は彼女を見た。
「満点を取る必要はありません」
「最初からすべてを完璧にする必要もありません」
「うまくいかないことがあれば、計画を調整すればいいんです」
春人は静かになった。
看護師は続けた。
「必要なケアは、これからも資格を持つスタッフが提供します」
「ご家族も、これからも春人さんの人生の一部です」
「そして、助けを求めることもできます」
春人は天井を見た。
「……分かってます」
「だったら、目標は一度も苦労しないと証明することではないのかもしれませんね」
春人は彼女を見た。
「安全に困難を乗り越えられる生活を築くことなのかもしれません」
◇ ◇ ◇
春人は長い間、その言葉について考えた。
それからかすかに微笑んだ。
「困るくらい理にかなってますね」
看護師は笑った。
「よく言われます」
春人はため息をついた。
「みんな、いいことばかり言うんですよね」
「それは大変ですね」
「本当に」
やがて――
考えが少しずつ落ち着き始めた。
完全にではなかった。
でも、十分だった。
そして真夜中を過ぎた頃――
ようやく眠りについた。
◇ ◇ ◇
二日後、由紀と大地は春人の寝室に立っていた。
春人もその場にいて、引っ越したあとの部屋をどうするかという話を聞いていた。
部屋には思い出が詰まっていた。
本。
写真。
昔もらった贈り物。
机。
そして、何年もの日常。
大地は部屋を見回した。
「それで……この部屋はどうする?」
由紀は彼を見た。
「どういう意味?」
「春人が引っ越したあとだよ」
大地は顎をかいた。
「一部を趣味の部屋にしてもいいかもな」
沈黙。
由紀は見つめた。
「趣味の部屋?」
大地は瞬きをした。
「何だ?」
「まだ引っ越してもいないのよ!」
「いずれの話だ!」
春人は二人を交互に見た。
「ああ、これは面白くなりそうだね」
由紀は腕を組んだ。
「ここはまだ春人の部屋よ」
大地は困惑した。
「分かってる」
「だったら、どうしてもう別の部屋にしようとしてるの?」
大地は口を開いた。
閉じた。
そして――
「……そういう意味で言ったんじゃないんだ」
◇ ◇ ◇
春人は静かだった。
この話が自分を傷つけるとは思っていなかった。
でも、少しだけ傷ついた。
部屋を永遠にそのまま残しておくべきだと思っていたわけではない。
それは現実的ではない。
ただ――
人生の長い時間を過ごした場所に、別の誰かの物が置かれるところを想像するのは不思議だった。
本が運び出される。
机がなくなる。
写真が箱にしまわれる。
まるで、最初から自分の部屋ではなかったかのように。
由紀が表情に気づいた。
「春人?」
彼はかすかに微笑んだ。
「大丈夫だよ」
由紀は納得していないようだった。
春人はため息をついた。
「うん。完全には大丈夫じゃないかも」
大地はすぐに申し訳なさそうな顔になった。
「春人、そんなつもりじゃ――」
「分かってる」
春人は部屋を見回した。
「ずっと何も変えないでほしいとは思ってないよ」
由紀は耳を傾けた。
「でも、何だか不思議なんだ」
少し間を置いた。
「ここを出ていくって考えると」
◇ ◇ ◇
由紀が近づいた。
「私たちの人生からいなくなるわけじゃないのよ」
春人はかすかに微笑んだ。
「分かってる」
大地もうなずいた。
「それに、いつでも帰ってきていいんだぞ」
春人は彼を見た。
「この部屋がひどい家具の記念館になっても?」
大地は笑った。
「もちろんだ」
由紀はため息をついた。
「すぐに趣味の部屋にするつもりはありませんからね」
大地は両手を上げた。
「了解」
春人は微笑んだ。
それから考え込んだ。
「どうするかは、あとで決めてもいいんじゃないかな」
由紀はうなずいた。
「それがいいわね」
「それに、ここに少しだけ物を残しておいてもいいかも」
「もちろんよ」
春人はもう一度部屋を見回した。
昔からの自分の部屋。
昔からの自分の生活。
消し去らなければならないものではない。
ただ、変わっていくものだった。
◇ ◇ ◇
翌週、最終検査が行われた。
浴室の改修は完了していた。
電気設備の改良も、必要な確認に合格していた。
寝室は予定されている医療機器の配置に合わせて評価されていた。
看護サービス事業者は、予定された引っ越しに必要なスタッフと代替体制の準備が整っていると確認していた。
そして、アパートはついに入居可能と認められた。
春人は恵美からその知らせを聞いた。
彼女を見つめた。
「……本当ですか?」
恵美は微笑んだ。
「本当です」
春人は瞬きをした。
「アパートの準備ができたんですか?」
「はい」
「看護体制も?」
「はい」
「改修は?」
「完了して、確認も済んでいます」
春人は由紀を見た。
それから大地を見た。
そして恵美に視線を戻した。
「……ああ」
恵美は小さく笑った。
「今度もいい意味の『ああ』ですか?」
春人は微笑んだ。
「今までで一番いい意味です」
◇ ◇ ◇
鍵の引き渡しは、その金曜日に行われた。
由紀と大地が同行した。
看護師も一緒だった。
恵美は建物の前で待っていた。
そして、そこには――
午後の日差しの下で待っている――
青いドアがあった。
同じドア。
同じ建物。
同じ静かな住宅街。
でも、すべてが違って感じられた。
なぜなら今回は――
春人は可能性を見に来たのではなかった。
自分の家に来たのだ。
◇ ◇ ◇
恵美は最終確認の項目を一つずつ説明した。
バリアフリーの浴室。
電気設備。
医療機器の配置。
緊急時の手順。
看護スタッフの作業スペースと医療用品の保管場所。
アパート内の十分な移動経路。
すべて確認済みだった。
予定された入居に必要なことは、すべて対応されていた。
そして――
管理担当者が正式な鍵を渡した。
春人は一般的な方法で鍵を持つことが難しかった。
そこで由紀は、車椅子の操作部の近くに用意した小さなホルダーに鍵を入れ、春人から見えるようにした。
ただの物だった。
金属。
プラスチック。
ありふれた物。
それなのに――
春人は何か特別なものを見るように、その鍵を見つめた。
なぜなら、特別だったからだ。
自分の家の鍵だった。
◇ ◇ ◇
大地はすぐに泣き始めた。
またしても。
春人は彼を見た。
「大地叔父さん」
「ほこりだ」
「外にいるよ」
「外のほこりだ」
由紀は自分も涙を流しながら笑った。
恵美は微笑んだ。
春人は青いドアを見た。
そして――
「中に入ってもいいですか?」
恵美はうなずいた。
「もちろんです」
ドアが開いた。
春人は前へ進んだ。
敷居を越えて。
アパートの中へ。
自分のアパートへ。
◇ ◇ ◇
リビングには、まだほとんど家具がなかった。
必要な物がいくつか設置されていた。
医療機器は承認された計画に従って配置されていた。
大きな家具の配送も予定されていた。
そして本棚は――
ありがたいことに――
まだ届いていなかった。
でも、部屋は違って感じられた。
もう想像の未来の一部ではなかったからだ。
自分のものだった。
春人は見回した。
窓。
壁。
寝室へ続く戸口。
執筆用の机を置きたい場所。
そして、サボテン王家がいずれ政府を樹立する予定の一角。
春人は微笑んだ。
「……すごい」
由紀は涙を拭った。
大地は隣に立っていた。
珍しく――
二人とも冗談を言わなかった。
◇ ◇ ◇
最終確認が終わったあと、春人は少しだけ静かな時間が欲しいと頼んだ。
看護師は必要なケアを提供できるよう、近くで待機していた。
由紀と大地と恵美は廊下へ出た。
春人はリビングを見回した。
それから、窓の近くに置かれた小さな仮の棚を見た。
由紀が持ってくるのを手伝ってくれたものがあった。
一枚の写真。
母。
高橋美咲。
何年も前、アパートの建物の前に立っている姿。
微笑んでいる。
自分には見えないかもしれない未来を信じている。
春人は看護師に頼み、写真を棚に置くのを手伝ってもらった。
それから写真を見た。
長い間――
何も言わなかった。
目に涙が浮かんだ。
「……母さん」
声が震えた。
「やったよ」
春人は唾を飲み込んだ。
「いや」
小さな笑みが浮かんだ。
「……僕たちで、やったんだ」
◇ ◇ ◇
その夕方、葵がアパートを見に来た。
研修へ出発するまで、あと数日しかなかった。
春人は、葵が出発する前にこの場所を見てほしかった。
葵は到着すると、青いドアの前で立ち止まった。
そして微笑んだ。
「春人……」
彼はにやりとした。
「我が王国へようこそ」
葵は笑った。
「王国?」
「当然だよ」
「王宮の人たちは?」
「サボテン王家はまだ移動中だよ」
葵は愛おしそうに首を振った。
「そうだよね」
それから部屋を見回した。
完成した改修。
使いやすい間取り。
窓。
やがて家具や本や思い出で満たされる空間。
葵の目に涙が浮かんだ。
「素敵だね」
春人は微笑んだ。
「うん」
部屋を見回した。
「本当に」
◇ ◇ ◇
二人はそのあと一時間、アパートについて話した。
ソファをどこに置くか。
本棚をどこに収めるか。
葵が遊びに来たとき、どこに座るか。
そして、母の写真をどこに飾りたいか。
葵は写真に気づいた。
近づいた。
「お母さん?」
春人はうなずいた。
「うん」
葵は優しく微笑んだ。
「幸せそうな顔をしてるね」
春人は写真を見た。
「幸せだったよ」
少し間を置いた。
「これを見せてあげたかったな」
葵は彼のほうを向いた。
そしてそっと手に触れた。
「でも、お母さんは、あなたがここまで来られるって信じていたんだよね」
春人は唾を飲み込んだ。
「……うん」
◇ ◇ ◇
二日後の夕方、春人と葵はお気に入りのバリアフリーの庭園を訪れた。
葵が出発する前夜だった。
空気は涼しかった。
空は晴れていた。
そして以前二人で眺めたのと同じ宵の明星が、木々の上で輝いていた。
春人の看護師も同行し、必要な専門的支援を提供できるよう近くで待機しながら、二人のプライバシーを守っていた。
葵は春人の隣に座った。
しばらく――
二人とも何も言わなかった。
それから春人が微笑んだ。
「さて」
葵は彼を見た。
「さて?」
「専門的な能力を高めるために、僕を置いていくんだね」
葵は笑った。
「春人!」
「悲劇だ」
「本当に困った人だね」
「よく言われるよ」
葵は首を振った。
それから寂しそうに微笑んだ。
「会えなくなるの、寂しいな」
春人の表情が柔らかくなった。
「僕も寂しいよ」
◇ ◇ ◇
葵は空を見た。
「たった数週間だって分かってるんだけど」
春人はうなずいた。
「でも?」
葵はため息をついた。
「もっと長く感じる」
春人はかすかに微笑んだ。
「うん」
葵は彼を見た。
「怖い?」
春人は考えた。
「少し」
「私たちのこと?」
少し間を置いた。
「そういうわけじゃないんだ」
葵は待った。
「変わっていくことが怖いんだ」
葵はうなずいた。
「私も」
春人は木々のほうを見た。
「僕たちは二人とも、人生の新しい場所へ進もうとしてる」
「違う場所」
「違う日常」
「違う責任」
春人はかすかに微笑んだ。
「それで、いつか僕たちが違う人間になってしまうんじゃないかって、少し心配なんだ」
葵は静かだった。
そして――
「たぶん、変わると思う」
春人は彼女を見た。
葵は優しく微笑んだ。
「成長するって、そういうことだから」
春人は考えた。
葵は続けた。
「でも、違う人間になっていくことと、愛し合わなくなることは同じじゃないよ」
春人の表情が柔らかくなった。
「……うん」
◇ ◇ ◇
葵はバッグの中に手を入れた。
「渡したいものがあるの」
春人は眉を上げた。
「またキーホルダー?」
葵は笑った。
「違うよ」
「残念」
「ちょっと待って」
葵は小さな封筒を取り出した。
中には写真が入っていた。
二人の写真だった。
青いドアのアパートの前で、一緒に写っている。
以前、アパートを訪れたときに撮ったものだった。
春人は微笑んでいた。
葵は隣に立っていた。
そして二人の後ろには――
青いドア。
春人は見つめた。
「……いつ印刷したの?」
葵は微笑んだ。
「昨日」
春人は写真を見た。
それから彼女を見た。
「素敵だね」
葵の目が優しくなった。
「お母さんの写真の近くに飾ってくれたらいいなって思って」
春人は唾を飲み込んだ。
「……そうしたい」
◇ ◇ ◇
それから春人は微笑んだ。
「実は、僕からも渡したいものがあるんだ」
葵は瞬きをした。
「本当に?」
春人はうなずいた。
あらかじめ手配していた介助を受けて、小さなファイルを持ってきていた。
葵はそれを開いた。
中には印刷された文章があった。
短いエッセイだった。
題名は――
『愛がもう一つの檻ではないと教えてくれた少女』
葵は見つめた。
「……春人」
彼は緊張したように微笑んだ。
「葵のために書いたんだ」
葵は視線を落とした。
最初の段落には、人生の大部分を、何が必要なのかを他人から告げられて過ごしてきた青年のことが書かれていた。
何が安全なのか。
何が現実的なのか。
何が可能なのか。
そして――
彼は一人の少女に出会った。
自分に挑んでくる少女。
言い争いをする少女。
ひどい冗談にも笑ってくれる少女。
そして、愛は自分で選ぶ権利を手放す新たな理由になってはいけないと教えてくれた少女。
葵の目に涙が浮かんだ。
読み進めた。
最後の段落には、こう書かれていた。
彼女は、僕を人生の終わりまで運んでいくとは約束しなかった。
僕たちの道が完全に同じではなくても、隣を歩いていくと約束してくれた。
そして、たぶんそれこそが、彼女の愛をこんなにも大切なものにしているのだ。
一緒にいるために、僕が自分自身を小さくすることを、彼女は決して求めなかった。
ただ、これからもお互いを選び続けられるかと、問いかけてくれた。
葵は紙を下ろした。
頬を涙が伝った。
「……ばか」
春人は瞬きをした。
「ずいぶん変わった書評だね」
葵は涙を流しながら笑った。
「すごく素敵だよ」
春人は微笑んだ。
「本当に?」
「本当に」
◇ ◇ ◇
葵は近づいた。
「愛してる」
春人は微笑んだ。
「僕も愛してる」
葵はそっとキスをした。
一瞬――
世界が静かになったようだった。
書類もない。
アパートの検査もない。
資金の問題もない。
研修の日程もない。
ただ二人だけ。
そして頭上には宵の明星。
唇を離すと、葵はそっと春人の額に自分の額を寄せた。
「一つ約束してくれる?」
春人は微笑んだ。
「また法的拘束力のある合意?」
葵は笑った。
「そう」
「どうぞ」
葵は彼の目を見た。
「距離を、沈黙に変えないでね」
春人は静かになった。
それからうなずいた。
「変えないよ」
「寂しかったら、教えて」
「うん」
「怖かったら、教えて」
「うん」
葵は微笑んだ。
「うれしいときも、教えてね」
春人はにやりとした。
「それはたくさんあるかもしれないね」
葵は笑った。
「そうだといいな」
◇ ◇ ◇
春人は彼女を見た。
「今度は僕の番」
葵はうなずいた。
「うん」
「研修を楽しむって約束して」
葵は微笑んだ。
「努力する」
「学べることは全部学んで」
「うん」
「友達も作って」
「努力する」
「それから、毎晩僕のことばかり心配しないで」
葵はためらった。
春人は眉を上げた。
「葵」
彼女はため息をついた。
「分かったよ」
春人は微笑んだ。
「よし」
それから――
「あと、ご飯を食べるのを忘れないでね」
葵は声を上げて笑った。
「由紀さんみたいなこと言ってる!」
春人はにやりとした。
「達人のもとで修業してきたからね」
◇ ◇ ◇
翌朝、葵は研修へ出発した。
春人は、予定されていたケアの時間と引っ越しの最終準備が重なっていたため、駅まで見送りに行くことができなかった。
でも、出発前にビデオ通話をする約束をしていた。
葵は駅から電話に出た。
彼女の後ろでは――
旅行者たちが足早に通り過ぎていた。
アナウンスが響いていた。
電車が到着し、発車していた。
「おはよう」と葵が言った。
春人は微笑んだ。
「おはよう」
葵は緊張しているようだった。
春人は気づいた。
「準備できた?」
葵は考えた。
「だいたい」
「それで十分だよ」
葵は笑った。
「励ましの言葉が下手だね」
「大地叔父さんから学んだから」
「全部納得した」
二人は微笑んだ。
それから――
葵の表情が柔らかくなった。
「そばにいてほしかったな」
春人は唾を飲み込んだ。
「僕も」
少し間が空いた。
「でも、行ってくれてうれしいよ」
葵はうなずいた。
「私も」
◇ ◇ ◇
アナウンスが流れた。
葵はホームのほうを見た。
「乗車が始まったみたい」
春人は微笑んだ。
「じゃあ、行かないとね」
葵は彼を見た。
「春人?」
「何?」
「愛してる」
春人の表情が柔らかくなった。
「僕も愛してる」
葵は微笑んだ。
「今夜、話せる?」
「落ち着いたらね」
葵はうなずいた。
「分かった」
それから――
「大地叔父さんに、これ以上家具を組み立てさせないでね」
春人はにやりとした。
「全力を尽くすよ」
通話が終わった。
そして葵は電車に乗った。
◇ ◇ ◇
その日の午後、春人は由紀、大地、そして看護チームとともに青いドアのアパートへ戻った。
引っ越しそのものは翌日に予定されていた。
医療機器の最終確認は完了していた。
家具の配送も調整されていた。
そして母の写真は、仮の棚の上に立っていた。
その隣には――
新しい写真があった。
春人と葵。
青いドアの前で微笑んでいる二人。
春人は二枚の写真を見た。
過去。
そして未来。
二枚の写真。
二つの愛の形。
どちらも、家とは何なのかを理解する助けになっていた。
由紀が隣に立った。
「今、どんな気分?」
春人は考えた。
「わくわくしてる」
由紀は微笑んだ。
「よかった」
「怖くもある」
「当然よ」
「それから、ちょっとお腹がすいた」
大地がすぐに現れた。
「食べ物か?」
春人はため息をついた。
「どうしてその言葉だけは必ず聞こえるの?」
大地はにやりとした。
「天性の才能だ」
◇ ◇ ◇
そのあと、ほかの人たちが引っ越しの最終確認をしている間、春人はアパートを見回した。
壁には、まだほとんど何も飾られていなかった。
家具もそろいきっていなかった。
そして本棚は、まだ正当な支配権を確立していなかった。
でも、ここは自分のものだった。
自分の家。
ここで小説を書く。
笑う。
悩む。
祝う。
失敗する。
学ぶ。
そして生きる。
誰の助けも必要としないという意味での自立ではない。
自分の人生が自分のものであるという意味での自立だった。
葵のことを考えた。
どこかの電車の中で。
自分で選んだ未来へ向かっている。
由紀と大地のことを考えた。
彼を手放すことなく、送り出す準備をしている。
真由、夏美、そして日々の生活を可能にするために働いてくれる看護師たちのことを考えた。
そして母のことを考えた。
春人自身が想像できるようになるずっと前から、この未来を信じていた女性。
春人は微笑んだ。
「……たどり着いたよ、母さん」
◇ ◇ ◇
その夜、葵から仮の宿泊先に到着したというメッセージが届いた。
葵:無事に着いたよ。
春人は微笑んだ。
春人:素晴らしい。我が王国は外交報告を受理しました。
葵:アパートはどう?
春人:まだ倒壊してないよ。
葵:大地叔父さんは?
春人:監督下に置いてる。
葵:よかった。
少し間が空いた。
そして――
葵:明日、そばにいたかったな。
春人は写真を見た。
それから返事を打った。
春人:分かってる。
春人:でも、今の葵は、いるべき場所にいるんだよ。
葵はそのメッセージを見つめた。
目に涙が浮かんだ。
そして返事をした。
葵:春人もね。
◇ ◇ ◇
外では、街が夜の静けさに包まれていった。
通りは静かになった。
窓には明かりがともった。
家族たちは集まっていた。
そして、どこかの青いドアの向こうでは――
一人の青年が、人生の次の章を始める準備をしていた。
賃貸契約書に署名した。
看護体制を確保した。
バリアフリーの準備を終えた。
そして鍵を受け取った。
明日――
引っ越す。
明日――
周囲にあるものが、もはや単なる夢ではないと知りながら目を覚ますことになる。
そこは自分の家になる。
葵がその場にいなくても――
彼女の写真はある。
彼女の言葉はある。
彼女の愛はある。
母の愛が今もそばにあるように。
由紀と大地が、これからも家族であり続けるように。
看護師たちが、春人の選んだ生活を可能にする専門職であり続けるように。
春人はパソコンの隣に置かれた、青いドアの形をしたキーホルダーを見た。
まだ何も確かではなかった頃、葵がくれた小さな贈り物。
かつて、それは一つの可能性を表していた。
でも今――
それは果たされた約束を表していた。
人生が簡単になるという約束ではない。
恐怖が消えるという約束でもない。
自分の人生が、自分のものであり得るという約束。
そして、愛は新しい家の敷居で終わる必要はないという約束。
時には――
愛こそが、人にドアを開ける勇気を与えるのだ。
春人は写真を見た。
それからささやいた。
「……明日」
そして初めて――
その言葉は、途方もなく遠いものには聞こえなかった。
ようやくたどり着く準備ができた場所のように聞こえた。




