第63話 まだ信じることが怖かった明日へ、僕たちが残した手紙
月曜日の朝、高橋春人が最初に学んだのは、大人になるということは、どうやら理不尽なほど大量の書類に署名することらしい、ということだった。
二つ目に学んだのは、大地叔父さんには絶対に法律用語を説明させてはいけない、ということだった。
どんな状況でも。
絶対に。
「春人」
「何、大地叔父さん?」
「契約書を確認したぞ」
春人はパソコンから顔を上げた。
「それは心配だね」
大地は眉をひそめた。
「どうしてだ?」
「叔父さんが最後に契約書を確認した結果、壊れかけのバイクみたいな音を出す冷蔵庫を買うことになったから」
「あの冷蔵庫はお買い得だったんだ!」
「保証書が何語で書かれているのかも分からなかったよね」
「国際ビジネスだ!」
春人はため息をついた。
「国際的な大惨事だったよ」
大地は腕を組んだ。
「お前は本当に扱いにくいな」
「よく言われるよ」
◇ ◇ ◇
問題の書類は、青いドアのアパートの賃貸契約書案だった。
二十七ページ。
二十七ページもあった。
春人は数えた。
二回も。
ついでに、「承認を条件とする」という表現が何回登場するかも数えた。
十七回。
多すぎる気がした。
佐藤恵美はその朝、予想される費用の暫定的な内訳とともに、書類をメールで送ってきていた。
敷金。
毎月の家賃。
光熱費。
保険。
バリアフリー改修。
医療機器の設置。
引っ越し費用。
そして、春人に自立生活という概念そのものを疑わせるためだけに存在しているような、細かな手数料の数々。
春人は画面を見つめた。
「どうして何もかもお金がかかるんだろう」
大地が肩越しに画面をのぞき込んだ。
「大人の世界へようこそ」
「返品したいんだけど」
「返品不可だ」
「ひどい顧客サービスだね」
由紀がお茶を持って部屋に入ってきた。
「進み具合はどう?」
春人は彼女を見た。
「隠者になることに決めたよ」
由紀は微笑んだ。
「あなた、もうほとんどの時間を本に囲まれて過ごしているじゃない」
「素晴らしい。資格の半分は満たしてるね」
◇ ◇ ◇
その少しあと、恵美がビデオ通話に参加した。
彼女はすでに契約書案を確認し、説明が必要な箇所をいくつか示していた。
春人はありがたく思った。
特に、ある一つの条項が気になっていたからだ。
物件の変更には書面による許可を必要とし、賃貸借契約の終了時には原状回復義務が生じる場合があります。
春人はもう一度読んだ。
そして三回目も。
「恵美さん?」
「はい?」
「これって、退去するときに浴室の改修を元に戻す費用まで払わなきゃいけないかもしれないってことですか?」
恵美は考えながらうなずいた。
「一般的な条項の文面としては、そう解釈できる可能性があります」
春人は見つめた。
「つまり、お金を払って浴室を使いやすくする」
「場合によっては、そうですね」
「それから、お金を払ってまた使いにくくする?」
「必ずしもそうではありません。だからこそ、書面で明確にする必要があるんです」
春人は目を閉じた。
「素晴らしいですね」
大地が身を乗り出した。
「交渉してみたらどうだ?」
春人は彼を見た。
「お願いだから、あの冷蔵庫で大家さんを脅さないでね」
「そんなことするつもりはない!」
「考えてはいたでしょ」
大地はためらった。
「ほんの一瞬だけな」
◇ ◇ ◇
恵美は、所有者が提案されたバリアフリー改修を原則として承認していることを説明した。
しかし、賃貸契約書には、どの改修が許可されるのか、誰が費用を負担するのか、工事が完了できなかった場合はどうなるのか、そして退去時に原状回復が必要なのかを、明確に記載する必要があった。
資金面の手配も確認しなければならなかった。
春人は注意深く耳を傾けた。
彼は何年もの間、自分のアパートを持つ自由を想像してきた。
そして今、その自由には驚くほど大量の事務手続きが伴うことを知り始めていた。
「追加条項を作ってもらうようお願いできますか?」と春人は尋ねた。
恵美は微笑んだ。
「私もそれをお勧めします」
「責任の範囲がはっきりするまでは署名しないほうがいいんですよね?」
「そのとおりです」
春人はうなずいた。
「よかった」
大地は感心したようだった。
「見ろよ。立派なビジネスマンみたいに交渉してるじゃないか」
春人は微笑んだ。
「叔父さんの失敗から学んだからね」
大地は胸に手を当てた。
「傷ついたぞ」
「主に経済的にね」
由紀は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
昼食の頃には、春人は表計算シートを作り上げていた。
非常に細かい表計算シートだった。
項目があった。
小項目があった。
予想費用。
確定費用。
未確定費用。
そして、こんな名前の列まであった。
個人的に僕を怒らせているもの。
由紀は予算を確認するのを手伝っているときに、それを発見した。
「春人」
「何?」
「どうして『浴室』が精神的損害の項目に入っているの?」
「精神的損害を与えられたからだよ」
「それから、どうして本棚が必須支出なの?」
春人は彼女を見た。
「必須だから」
「何に?」
「僕が生き続けるために」
由紀はため息をついた。
「大掃除ができなくなるわよ」
「それは未来の春人の問題だね」
「未来の春人もあなたなのよ」
彼は考えた。
「残念なことにね」
◇ ◇ ◇
冗談を言ってはいたものの、数字は春人を不安にさせていた。
自分で認めたくないほどに。
予想されている資金や支援の手配が計画どおりに進めば、家賃は何とかなる見込みだった。
バリアフリー改修も実施可能だった。
しかし、実施可能ということは、無料という意味ではない。
引っ越し、家具の購入、安全な生活環境の維持にかかる費用は、少しずつ積み重なっていた。
春人には貯金があった。
執筆による収入も多少あった。
そして、承認された特定の費用を負担してくれる可能性のある支援制度もあった。
しかし、いくつかの資金面の決定はまだ出ていなかった。
お金が勝手に現れると考えるわけにはいかない。
看護体制が計画どおりに承認されるとも限らない。
春人は分かっていた。
理解していた。
残念ながら――
理解しているからといって、苛立ちが減るわけではなかった。
午後三時までに、春人は同じ段落を四回も読み返していた。
だんだん段落というものが嫌いになってきた。
作家としては、非常に困った事態だった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、由紀にも自分自身の会話があった。
藤沢真由が、残っている採用準備の要件について恵美と話し合うため、予定されていた面談に訪れていた。
前回の実技評価は順調だった。
しかし、定期的な勤務を始めるには、最終的な雇用手続きと承認がまだ必要だった。
恵美が書類を確認している間、由紀はキッチンで真由の隣に立っていた。
しばらくは、ごく普通の会話をした。
天気のこと。
近所のこと。
勤務予定の調整がどれほど複雑になるかということ。
それから由紀は静かになった。
真由が気づいた。
「何かありましたか?」
由紀はかすかに微笑んだ。
「いいえ」
少し間が空いた。
「実は、一つ聞いてもいいかしら?」
「もちろんです」
由紀はリビングのほうを見た。
「ご家族の家から独立しようとしている患者さんを担当したことはありますか?」
真由はうなずいた。
「はい」
「難しかったですか?」
「時には」
由紀は視線を落とした。
真由は待った。
そして由紀は、何週間も胸に抱えていた質問を口にした。
「ご家族は、その人を失うように感じることもあるのでしょうか?」
◇ ◇ ◇
真由は慎重に答えを考えた。
「はい。そう感じることもあります」
由紀は唾を飲み込んだ。
「春人には専門的な看護が必要だと分かっています」
「もちろんです」
「それに、自分のアパートを持つからといって、私たちを必要としなくなるわけではないことも分かっています」
真由はうなずいた。
「でも?」
由紀は悲しそうに微笑んだ。
「私は長い間、あの子の日常の一部だったんです」
リビングのほうを見た。
「朝食に何が好きか知っています」
「落ち込んでいないふりをしているときも分かります」
「心配事があるときに、どの本を読み返すのかも知っています」
声が柔らかくなった。
「それに、私たちに心配をかけたくなくて、自分の不安をどれだけ隠そうとするかも知っています」
真由は耳を傾けた。
由紀は続けた。
「自分の人生を生きてほしいんです」
「本当に」
「でも、時々考えてしまうんです。ここで暮らさなくなったら、あの子の人生の中で私の居場所はどうなるんだろうって」
真由の表情が柔らかくなった。
「その居場所がなくなることはありません」
由紀は彼女を見た。
真由は優しく微笑んだ。
「もし私が春人さんのチームに加わることになったとしても、私の役割は専門的な看護を提供することです」
「それで私が春人さんの叔母さんになるわけではありません」
「由紀さんと春人さんの思い出が、私のものになるわけでもありません」
「そして、お二人の関係を置き換えることもありません」
由紀の目に涙が浮かんだ。
真由は続けた。
「春人さんは専門的なケアを必要としながら、同時にご家族を必要とすることもできます」
「それぞれ違う形の支えなんです」
由紀は震えるように笑った。
「分かっているんです」
「でも、時々は誰かに言ってもらえると安心しますよね」
◇ ◇ ◇
二人の女性は、春人が会話の最後の部分を聞いていたことに気づかなかった。
彼は看護師とともに廊下を通りかかっていた。
聞き耳を立てるつもりはなかった。
しかし、由紀の質問が耳に入った。
ここで暮らさなくなったら、あの子の人生の中で私の居場所はどうなるんだろう。
胸の奥が締めつけられた。
怒ったからではなかった。
反対したからでもなかった。
ただ、自分が得るものばかりに目を向けていて、由紀が失うことを恐れているものについて、十分に考えていなかったからだ。
春人はそのまま自分の部屋へ向かった。
静かに。
考えながら。
◇ ◇ ◇
その夜、春人は由紀に、一緒に座ってほしいと頼んだ。
彼女はお茶を持って部屋に入ってきた。
「どうしたの?」
春人はかすかに微笑んだ。
「僕が一緒に座ってほしいって頼むときは、必ず何かに悩んでなきゃいけないの?」
由紀は眉を上げた。
「あなたの場合は、たいていそうね」
「不当な評判だね」
「正確な評判よ」
彼女は春人の隣に座った。
しばらく、普通の話をした。
夕食のこと。
アパートのこと。
大地の最新の経済的な知恵について。
それから春人は真剣になった。
「由紀叔母さん?」
「何?」
「一つ聞いてもいい?」
由紀はうなずいた。
「もちろん」
春人はためらった。
「僕がもう叔母さんを必要としなくなるんじゃないかって、怖い?」
由紀は固まった。
「春人……」
春人は彼女を見た。
「真由さんと話しているのを聞いたんだ」
由紀は目を閉じた。
「ああ……」
春人は唾を飲み込んだ。
「ごめん。盗み聞きするつもりじゃなかった」
由紀は首を振った。
「いいのよ」
春人は待った。
由紀は手元のお茶を見た。
それから悲しそうに微笑んだ。
「ええ」
春人は静かになった。
「時々、怖いわ」
◇ ◇ ◇
数秒間、二人とも何も言わなかった。
それから由紀が続けた。
「理屈に合わないって分かっているの」
春人は首を振った。
「そうは思わないよ」
由紀は彼を見た。
春人はかすかに微笑んだ。
「叔母さんは何年も僕を助けてくれた」
「いろいろな手配をしてくれて」
「必要なものがそろうようにしてくれて」
由紀はうなずいた。
春人は続けた。
「それなのに、今の僕は別の場所へ引っ越す話をしている」
「当然、いろいろ変わるよね」
由紀の目に涙が浮かんだ。
春人は彼女を見た。
「でも、僕にとって叔母さんが誰なのかは変わらないよ」
由紀は唾を飲み込んだ。
春人は微笑んだ。
「夜遅くまで本を読んでいると注意してくれる人は、これからも叔母さんだし」
由紀は小さく笑った。
「大地叔父さんに怪しい家電を買わないよう注意してくれる人も」
「誰かが言わないとね」
「僕が心配していないふりをしているときに、気づいてくれる人も」
由紀は涙を拭った。
春人は続けた。
「僕はこれからも叔母さんを必要とするよ」
「僕の代わりに物事を決めてもらうためじゃない」
「自分の人生を持てないからでもない」
「叔母さんは僕の家族だから」
由紀は彼を見た。
「これからも僕の人生の中にいてほしいんだ」
とうとう涙がこぼれた。
「ああ、春人……」
春人は微笑んだ。
「それに、ほかに誰が僕の本棚コレクションに文句を言ってくれるの?」
由紀は涙を流しながら笑った。
「たぶん、みんなよ」
「裏切り者ばかりだね」
◇ ◇ ◇
街の反対側では、水野葵が一通のメールを見つめていた。
とても重要なメールだった。
二十分前に届いたものだ。
六回読んだ。
それから七回。
そして八回。
件名:面接のご案内――病院・在宅移行支援プロジェクト
面接に招待されたのだ。
正式に。
プロジェクトでは、複雑なケアを必要とする患者の生活移行、退院調整、地域看護との連携に関する専門研修が行われる予定だった。
まさに葵が望んでいた機会だった。
ただ一つ、問題があった。
暫定的な日程には、別の都市で数週間の研修が含まれていた。
永住するわけではない。
引っ越すわけでもない。
しかし、不安になるには十分な長さだった。
特に、春人のアパートの計画が進んでいる今は。
自分がいない間に春人が引っ越したら?
精神的な支えが必要になったら?
何か大切なことが起きて、その場にいられなかったら?
葵は画面を見つめた。
それからスマートフォンを見た。
春人とのメッセージ画面を開いた。
文字を打ち始めた。
止まった。
消した。
もう一度打ち始めた。
また止まった。
「……どうしてこんなに難しいんだろう」
◇ ◇ ◇
翌日の夕方、葵は春人を訪ねた。
春人はほとんどすぐに、何かがおかしいと気づいた。
葵がいつもよりずっと静かだったからだ。
葵が異常に静かなのは、大地が新しい投資先を見つけたと発表するのと同じくらい安心できないことだった。
「葵?」
彼女は顔を上げた。
「何?」
「大丈夫?」
葵は微笑んだ。
「もちろん」
春人は目を細めた。
「怪しいね」
「春人」
「ものすごく怪しい」
葵はため息をついた。
春人は優しく微笑んだ。
「話してよ」
彼女はためらった。
それからスマートフォンを取り出した。
「メールが来たの」
春人は眉を上げた。
「プロジェクトから?」
葵は瞬きをした。
「どうして分かったの?」
「この二十分で十一回もスマホを確認してるから」
葵は見つめた。
「数えてたの?」
「当然だよ」
葵は緊張したように笑った。
それから真剣な表情になった。
「面接に呼ばれたの」
春人の顔が明るくなった。
「葵!」
彼女は驚いた。
「そんなに大きな声を出さないで!」
「すごいじゃないか!」
春人は満面の笑みを浮かべた。
「どうしてすぐに教えてくれなかったの?」
葵は視線を落とした。
「ほかにも話があるから」
◇ ◇ ◇
葵は研修の日程について説明した。
出張の可能性。
数週間、別の都市に滞在すること。
正確な日程がまだ決まっていないこと。
春人は途中で口を挟まずに聞いた。
葵が話し終えると、うなずいた。
「分かった」
葵は瞬きをした。
「分かった?」
「うん」
「それだけ?」
春人は微笑んだ。
「何を期待してたの?」
「分からない」
彼女は視線を落とした。
「がっかりするかと思った」
春人は静かになった。
葵は続けた。
「アパートの話が進んでるでしょ」
「引っ越すかもしれないし」
「そのとき、私がいないかもしれない」
春人は考えた。
「葵に会えなくて寂しくなるかって?」
葵は顔を上げた。
春人は微笑んだ。
「もちろん」
彼女の表情が柔らかくなった。
「一緒にいてほしいと思う場面もあるかって?」
「たぶん、あると思う」
少し間を置いた。
「でも、だからって行くべきじゃないとは思わないよ」
葵は唾を飲み込んだ。
「春人……」
彼は続けた。
「前にも話したでしょ」
「葵の仕事は大切なんだ」
「葵の未来も大切なんだ」
「僕の人生のすべての場面に、物理的にそばにいなきゃいけないと思って、大切な機会を諦めてほしくない」
葵は彼を見た。
「でも、何かあったら?」
春人は優しく微笑んだ。
「そのときは看護チームがいる」
「家族もいる」
「恵美さんもいる」
「それに、問題への対応を手伝ってくれる人たちがいる」
少し間を置いた。
「葵は僕の恋人なんだよ」
「緊急時の看護師配置計画じゃない」
◇ ◇ ◇
葵は笑った。
それから目元を拭った。
「本当に困らせてくれるね」
春人は瞬きをした。
「応援してるのに?」
「そう!」
「ひどい彼氏だね」
「最悪だよ」
春人は微笑んだ。
葵は近づいた。
「ただ、仕事をあなたより優先してるって思われたくないの」
春人は彼女を見た。
「そんなふうには思わないよ」
葵は唾を飲み込んだ。
「両方大切にしたい」
春人は微笑んだ。
「僕も」
葵は息を吸った。
「じゃあ、面接を受けようと思う」
春人はにやりとした。
「いいね」
葵は笑った。
「いいの?」
「すごくいい」
それから考え込んだ。
「ただ……」
葵は固まった。
「何?」
春人は真剣な顔をした。
「研修先の街には、いい本屋があるのかな?」
葵は見つめた。
「春人!」
「重要な質問をしてるんだよ」
◇ ◇ ◇
翌日、春人は限界に達した。
劇的にではなかった。
一度にではなかった。
少しずつだった。
小さな苛立ちが一つ。
返事の来ないメールが一つ。
すでに二回提出した情報を、もう一度求める資金申請書。
電気工事についての質問。
更新された書類の提出依頼。
看護体制についての電話。
そして、もう一本。
さらに、もう一本。
夕方になる頃には、パソコンの画面は書類で埋まっていた。
音声操作ソフトは三回も指示を聞き間違えた。
表計算シートは、どういうわけか書式が崩れていた。
そして管理担当者から、また説明を求める連絡が届いた。
春人は画面を見つめた。
「……もう嫌だ」
看護師が彼のほうを見た。
「大丈夫ですか?」
春人は目を閉じた。
「いいえ」
少し間を置いた。
「まったく大丈夫じゃありません」
◇ ◇ ◇
それでも続けようとした。
本当に。
別の書類を開いた。
最初の段落を読んだ。
次の段落も。
そして、自分が一言も理解していないことに気づいた。
最初から読み直した。
同じことが起きた。
返事を音声入力しようとした。
ソフトが違う言葉を入力した。
また。
春人は止まった。
数秒間――
ただ見つめていた。
そして――
「どうして何もかもこんなに複雑なんだよ!」
止める前に言葉が飛び出した。
看護師が様子を確認した。
春人はすぐに恥ずかしくなった。
「すみません」
「大丈夫ですよ」
春人は首を振った。
「大丈夫じゃないんです」
声が震えた。
「ちゃんとやろうとしてるのに」
「書類も」
「予約も」
「決断も」
「一つ終わらせるたびに、次の三つが待ってるんです」
彼は書類を見た。
「僕はただ、家が欲しいだけなのに」
声が詰まった。
「どうして家が欲しいって思うだけで、こんなに大変なんだろう」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、葵がやって来た。
由紀から、春人が大変な一日を過ごしていると聞いていた。
葵は春人の部屋で彼を見つけた。
静かだった。
疲れ切っていた。
そして、明らかに窓から投げ捨てたいと思っているパソコン画面を見つめていた。
「やあ」
春人は顔を上げた。
「やあ」
葵は近づいた。
「大変な一日だった?」
春人は苦々しく笑った。
「そういう言い方もできるね」
葵は隣に座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
それから春人がささやいた。
「疲れた」
葵は彼を見た。
「アパートのこと?」
春人は首を振った。
「何もかもうまくいくようにしようとすることに」
葵は耳を傾けた。
春人は続けた。
「自分で決めなきゃいけないことは分かってる」
「僕の人生だから」
「僕の家だから」
「僕の責任だから」
彼は唾を飲み込んだ。
「でも、やることが多すぎるんだ」
「一つでも見落としたら、全部が崩れてしまう気がする」
葵の表情が柔らかくなった。
「春人」
彼は彼女を見た。
「全部の作業を自分でやる必要はないんだよ」
春人はため息をついた。
「分かってる」
「本当に?」
彼はためらった。
葵は優しく微笑んだ。
「決断する人だからって、すべての書類を自分で記入しなきゃいけないわけじゃない」
春人は静かになった。
葵は続けた。
「関係機関との調整は恵美さんにお願いできる」
「費用の比較は大地叔父さんに手伝ってもらえる」
「書類の整理は由紀叔母さんに頼める」
「それでも、何をするかを決めるのは春人なんだよ」
春人は視線を落とした。
「葵が言うと、当たり前のことみたいに聞こえるね」
葵は微笑んだ。
「大切なことって、たいていそういうものだよ」
◇ ◇ ◇
翌朝、春人は会議を開いた。
家族会議だった。
それは危険だった。
なぜなら、大地はすぐに誰かが結婚するのだと思い込んだからだ。
「誰がプロポーズするんだ?」
春人は見つめた。
「誰もしないよ」
大地はがっかりしたようだった。
「じゃあ、何の会議だ?」
「助けが必要だから」
部屋が静かになった。
由紀は彼を見た。
「もちろんよ」
春人は息を吸った。
「自分で抱え込みすぎてたんだ」
ビデオ通話に映る恵美を見た。
「それで、うまくいかなくなってる」
恵美は同情するようにうなずいた。
「調整することがたくさんありますからね」
春人はかすかに微笑んだ。
「控えめな表現ですね」
それから続けた。
「大切なことは、これからも自分で決めたいんです」
「どこに住むか」
「どんな取り決めに同意するか」
「どんなケアを受けるか」
「でも、事務作業は手伝ってほしい」
恵美は微笑んだ。
「とても合理的な考えだと思います」
春人はうなずいた。
「残っている資金面の手続きと、サービス提供機関との連絡調整をお願いできますか?」
「もちろんです」
春人は大地のほうを向いた。
「引っ越し業者の見積もりと家具の費用を比較するのを手伝ってくれる?」
大地はにやりとした。
「もちろんだ」
春人は目を細めた。
「何も買わずに」
大地の笑顔が消えた。
「厳しいな」
「それから、僕の許可なしに直接交渉しないでね」
「非常に厳しいな」
由紀は笑った。
春人は彼女のほうを向いた。
「書類と予定の整理を手伝ってくれる?」
由紀は温かく微笑んだ。
「喜んで」
春人は息を吐いた。
何日かぶりに――
書類の山が、何とかできそうに思えた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、春人はまた母のことを考えていた。
美咲。
あの写真。
手書きのメモ。
母が残してくれた言葉。
春人の人生は、春人自身のものだから。
何度も読み返したせいで、母の声が聞こえてきそうだった。
そして――
一つの考えが浮かんだ。
少し変わった考え。
感傷的な考え。
普通なら、恥ずかしいほどロマンチックだと片づけてしまいそうな考えだった。
当然――
春人は葵に話すことにした。
◇ ◇ ◇
その夜、二人は電話で話していた。
葵は面接の準備を終えていた。
春人もようやくアパートの書類を閉じていた。
珍しく――
二人とも仕事をしていなかった。
まれで、美しい出来事だった。
「葵?」
「何?」
「一つ考えがあるんだ」
葵はため息をついた。
「心配したほうがいい?」
「たぶんね」
「素晴らしい」
春人は微笑んだ。
「手紙を書いてみない?」
葵は瞬きをした。
「手紙?」
「未来の自分たちに」
彼女は静かになった。
春人は続けた。
「母さんがアパートについて、あのメモを残してくれたでしょ」
「それで、母さんは自分には見えない未来に向けて、言葉を書いてくれたんだなって考えてたんだ」
葵は耳を傾けた。
「だから、思ったんだ……」
春人はためらった。
「僕たちも同じようなことをしてみたらどうかなって」
葵は微笑んだ。
「どんな手紙?」
「将来、どんな人生を送っていたいかを書くんだ」
「夢とか」
「不安とか」
「忘れたくないこととか」
少し間を置いた。
「それで、僕がアパートに引っ越してから一年後に開ける」
葵の表情が柔らかくなった。
「……素敵だね」
春人はにやりとした。
「大変だ。僕、感傷的な人間になってしまった」
葵は笑った。
「前からそうだったよ」
「名誉毀損だね」
「事実に基づく名誉毀損だよ」
◇ ◇ ◇
二人は別々に手紙を書くことにした。
お互いの手紙は読まない。
封をする。
大切に保管する。
そして、春人が引っ越してから一年後に、一緒に開ける。
それがいつになるとしても。
本当に実現するのなら。
日付はまだ決まっていなかった。
でも、たぶんそれも大切なことだった。
二人は、完全には予測できない未来へ向けて書こうとしていたのだ。
葵はその夜、手紙を書き始めた。
机に座った。
目の前には白い便箋。
数分間――
何も書けなかった。
それから書き始めた。
未来の葵へ。
今も学び続けているといいな。
どうして看護師になったのか、忘れていないといいな。
怖いと思う機会にも挑戦する勇気を、見つけられているといいな。
少し間を置いた。
そして続けた。
それから、誰かを愛することは、その人の人生の中に自分が消えてしまうことではないと、ちゃんと理解できているといいな。
自分らしさを失っていませんように。
そして、春人が今も隣にいてくれますように。
葵は微笑んだ。
それから紙を折りたたんだ。
◇ ◇ ◇
春人は音声操作ソフトを使って手紙を書いた。
手書きにしようかとも考えた。
しかし、そもそも技術とは物事を可能にするためにあるのだと思い出した。
そして、音声入力で何の問題もないと判断した。
新しい文書を開いた。
そして書き始めた。
未来の春人へ。
まず、大地叔父さんのインテリア提案を生き延びられたなら、おめでとう。
春人は微笑んだ。
それから続けた。
自分のアパートで暮らしているといいな。
青いドアが、当たり前のものになっているといいな。
かつては不可能に思えたことなんて考えずに、毎日普通に開けるドアになっていたらいい。
少し間を置いた。
信頼できる看護チームがいるといいな。
家族が今も遊びに来てくれるといいな。
自分で誇れる作品を書けているといいな。
表情が柔らかくなった。
そして、そこにたどり着くまでに助けてくれた人たちを、忘れていませんように。
美咲のことを考えた。
由紀。
大地。
恵美。
真由。
夏美。
そして葵。
それから続けた。
今も葵と一緒にいられたらいいな。
どちらかが離れるのを怖がったからではなく。
二人とも、そばにいることを選び続けたから。
春人は音声入力を止めた。
しばらく――
ただ言葉を見つめた。
それから微笑んだ。
「……悪くないね」
◇ ◇ ◇
数日後、由紀のもとに、何年も話していなかった人から電話がかかってきた。
藤村恵子。
美咲の古い友人だった。
元リハビリテーション分野のソーシャルワーカー。
由紀は写真を発見したあと、彼女に連絡していた。
あのアパートの建物を覚えているか知りたかったのだ。
そして、美咲が春人の自立生活の計画について相談したことがあるかも。
恵子は覚えていた。
とてもはっきりと。
実際――
由紀が予想していた以上に多くのことを覚えていた。
「美咲はいつも質問ばかりしていたわ」と恵子は電話越しに言った。
由紀は微笑んだ。
「いかにもあの人らしいわ」
「バリアフリー住宅のこと」
「地域で利用できる看護のこと」
「資金援助制度のこと」
「医療機器の手配のこと」
恵子は小さく笑った。
「質問を書き込んだノートを持っていたのよ」
由紀は静かになった。
「ノート?」
「ええ」
恵子は少し間を置いた。
「春人くんが大人になったとき、どんなことが可能なのか知りたかったのね」
由紀は唾を飲み込んだ。
「春人と話してもらえないかしら?」
恵子はすぐに答えた。
「もちろんよ」
◇ ◇ ◇
面会はその週末に行われた。
恵子は小さなファイルを持ってやって来た。
優しい目と穏やかな声を持つ、年配の女性だった。
春人に会うと、微笑んだ。
「お母さんに本当によく似ているわね」
春人は小さく笑った。
「よく言われます」
恵子は彼の向かいに座った。
由紀と大地も近くにいた。
春人の看護師は普段どおりのケアを続けていた。
しばらく、恵子は美咲について話した。
彼女のユーモア。
頑固さ。
納得できる答えが返ってくるまで質問を続ける癖。
春人は微笑んだ。
「何だか聞き覚えがありますね」
恵子は笑った。
「きっとそうでしょうね」
それからファイルを開いた。
中には古いメモのコピーが入っていた。
質問の一覧。
バリアフリー住宅に関する情報。
そして手書きの覚え書き。
春人は見つめた。
「……本当に、これを全部調べていたんですか?」
恵子はうなずいた。
「何年も前にね」
春人は唾を飲み込んだ。
「どうして?」
恵子は優しく微笑んだ。
「あなたに選択肢を持ってほしかったからよ」
◇ ◇ ◇
恵子は、美咲が自立生活を簡単なものだとは一度も考えていなかったことを説明した。
春人には多くの支援が必要になると分かっていた。
専門的な看護が不可欠だということも理解していた。
そして、資金やバリアフリー住宅の確保が難しいことも知っていた。
それでも、難しいから不可能だと決めつけることを拒んだ。
「美咲がよく言っていたことがあるの」と恵子は言った。
春人は顔を上げた。
「何ですか?」
恵子は微笑んだ。
「『春人が大人になったとき、何を望むのかは分からない。だからこそ、本人が私たちに伝えられる機会を、ちゃんと残しておきたいの』って」
春人は動かなくなった。
恵子は続けた。
「お母さんは、あなたの人生を勝手に計画していたわけじゃないの」
「あなたに選択肢が残るようにしていたのよ」
春人は視線を落とした。
数秒間――
何も言えなかった。
それからかすかに微笑んだ。
「……母さんらしいですね」
恵子はうなずいた。
「そうね」
◇ ◇ ◇
帰る前に、恵子は美咲の古いリストのコピーを春人に渡した。
一番上には、見覚えのある筆跡で四つの言葉が書かれていた。
春人の未来への質問。
その下には、実務的な心配事が並んでいた。
住宅のバリアフリー。
医療機器の必要性。
専門的な看護。
交通手段。
資金。
地域とのつながり。
そして、一番下のほうには――
少し大きな文字で、一つの質問が書かれていた。
春人は何を望んでいる?
春人は見つめた。
それから小さく笑った。
涙を浮かべながら。
「……本当に何でも考えてたんですね」
恵子は微笑んだ。
「何でも、ではないわ」
春人は彼女を見た。
「予測できないことがあるって、分かっていたのよ」
「だから、最後の質問にはあなた自身に答えてほしかったの」
春人はもう一度紙を見た。
春人は何を望んでいる?
何年もの間、その答えは複雑に思えた。
ほとんど不可能なほどに。
でも今――
少しずつ分かり始めていた。
◇ ◇ ◇
翌日の夕方、春人と葵は静かなバリアフリーの庭園で会った。
気候は穏やかだった。
空は晴れていた。
そして、木々の上には宵の明星が姿を見せ始めていた。
春人の看護師も同行し、必要なケアを提供できるよう近くで待機しながら、二人のプライバシーにも配慮していた。
葵は春人の隣に座った。
しばらく――
二人はただ夕暮れを楽しんでいた。
それから春人が口を開いた。
「母さんを知っている人に会ったんだ」
葵は彼のほうを向いた。
「本当に?」
春人はうなずいた。
恵子のことを話した。
ファイルのこと。
昔の調査のこと。
そして母が書き残していた質問のこと。
春人は何を望んでいる?
葵は注意深く聞いていた。
話し終えると、微笑んだ。
「素敵なお母さんだったんだね」
春人は空を見た。
「うん」
葵はそっと彼の手に自分の手を重ねた。
「きっと、あなたを誇りに思ってるよ」
春人は唾を飲み込んだ。
「そうだといいな」
葵は微笑んだ。
「きっとそうだよ」
◇ ◇ ◇
二人はしばらく静かに過ごした。
それから葵が口を開いた。
「面接、受けてきたよ」
春人は彼女のほうを向いた。
「えっ!?」
葵は笑った。
「今から話そうと思ってたの!」
「どうだった?」
「たぶん……うまくいったと思う」
春人はにやりとした。
「素晴らしいじゃないか!」
葵は微笑んだ。
「プレゼンテーションについて聞かれたよ」
「当然だね」
「それから、どうして複雑なケアが必要な患者さんの生活移行に関わりたいのかって」
春人はうなずいた。
「何て答えたの?」
葵は彼を見た。
「病院の外でも、その人が自分の人生を築けるように手伝いたいって」
春人の表情が柔らかくなった。
葵は続けた。
「退院計画だけじゃなくて」
「医療の手配だけじゃなくて」
「その人の本当の生活を」
春人は微笑んだ。
「いい答えだね」
葵は笑った。
「高橋教授のお墨付き?」
「優秀な成績で合格だよ」
◇ ◇ ◇
夕暮れはさらに深まっていった。
最初の星が、いっそうはっきり見えるようになった。
葵は空を見た。
「春人?」
「何?」
「怖い?」
春人は考えた。
「何が?」
「全部」
春人は小さく笑った。
「ずいぶん広い範囲だね」
葵は微笑んだ。
「アパートのこと」
「私の研修のこと」
「私たちのこと」
春人は考え込んだ。
それからうなずいた。
「うん」
葵は彼を見た。
「私も」
春人はかすかに微笑んだ。
「よかった」
葵は瞬きをした。
「よかった?」
「少なくとも、二人とも怖がってるからね」
葵は笑った。
「全然安心できないよ!」
「苦労を分かち合えば、人間は成長するんだよ」
「本当に困った人だね」
「よく言われるよ」
◇ ◇ ◇
笑いが収まると、春人は彼女を見た。
「一つ話してもいい?」
葵はうなずいた。
「もちろん」
春人は息を吸った。
「前は、自分のアパートを手に入れられたら、すべてが落ち着くと思ってたんだ」
「何かの終わりにたどり着くみたいに」
葵は耳を傾けた。
「でも今は、たぶんそれが、たくさんの新しいことの始まりなんだって分かってきた」
春人はかすかに微笑んだ。
「いいこともある」
「難しいこともある」
「今の僕には想像もできないことも、きっとある」
葵はうなずいた。
「それが人生なんだろうね」
春人は彼女を見た。
「うん」
そして――
「その人生に、葵がいてほしい」
葵の表情が柔らかくなった。
「春人……」
彼は続けた。
「僕の看護師としてじゃなくて」
「僕に責任を感じているからでもなくて」
「どちらかが一人になるのを怖がっているからでもなくて」
春人はまっすぐ彼女を見た。
「葵を愛してるから」
葵の目に涙が浮かんだ。
「これからも、葵を選び続けたいから」
◇ ◇ ◇
葵は近づいた。
「私も愛してる」
春人は微笑んだ。
葵は続けた。
「私も、これからもあなたを選び続けたい」
春人は小さく笑った。
「僕が面倒くさいときでも?」
葵は微笑んだ。
「特にそういうとき」
「判断力に問題があるね」
「たぶんね」
二人は笑った。
それから葵は、宵の明星を見上げた。
「約束してもいい?」
春人はうなずいた。
「もちろん」
「結婚の約束じゃないよ」
春人はにやりとした。
「大地叔父さんが絶望するね」
葵は笑った。
「何もかも簡単にいくっていう約束でもない」
「うん。それは現実的じゃないね」
「それから、いつも自分たちが何をしているのか分かっているっていう約束でもない」
春人はうなずいた。
「それはもっと現実的じゃない」
葵は微笑んだ。
「ただ……」
少し間を置いた。
「これからも話し合い続けるってこと」
「怖いときも」
「計画が変わったときも」
「意見が合わないときも」
春人は彼女を見た。
それから微笑んだ。
「それなら約束できるよ」
葵の目が柔らかくなった。
「それから、お互いの夢のための場所を、ちゃんと残しておくこと」
春人はうなずいた。
「それも」
◇ ◇ ◇
葵は身を寄せた。
そして春人にキスをした。
柔らかく。
優しく。
宵の明星の下で。
唇を離すと、春人は微笑んだ。
「さて」
葵は笑った。
「さて?」
「今ので法的拘束力のある合意が成立したと思う」
葵は声を上げて笑った。
「春人!」
「口頭契約だよ」
「そういうものじゃないから!」
「今週ずっと賃貸契約書を読んでたんだ。もうほとんど弁護士だよ」
葵はさらに笑った。
「本当にばかなんだから」
春人は微笑んだ。
「葵のばかだよ」
葵は愛おしそうに首を振った。
「うん」
◇ ◇ ◇
その夜遅く、春人は家に戻った。
アパートの書類は、まだ机の上で待っていた。
資金面の疑問も残っていた。
賃貸契約書には、まだ説明が必要だった。
看護師の勤務予定も完成していなかった。
そして葵も、移行支援プロジェクトに採用されるかどうか分からなかった。
何も魔法のように簡単になったわけではなかった。
でも、何かが変わっていた。
春人はもう、すべての問題を一人で解決しなければならないとは感じていなかった。
恵美は関係機関との調整ができる。
大地は費用を比較できる。
由紀は書類の整理を手伝える。
看護師たちは、必要な専門的ケアを提供できる。
葵は自分の仕事を追いかけられる。
そして春人は――
自分に属する決断を下すことができる。
書くことができる。
夢を見ることができる。
家を築くことができる。
そして、どちらかが自分の未来を諦めることなく、誰かを愛することができる。
春人は用意した封筒を見た。
未来の春人へ。
その隣には、母の手書きのメモがあった。
二通の手紙。
違う時代に書かれたもの。
違う人が書いたもの。
それでも、どちらもある意味では、誰にも見えない未来へ向けられていた。
春人は微笑んだ。
「……元気にしてるといいな」
未来の自分に話しかけているのか。
それとも母に話しかけているのか。
自分でもよく分からなかった。
たぶん、両方だった。
◇ ◇ ◇
街の反対側では、葵が自分の封筒を引き出しにしまっていた。
未来の葵へ。
しばらくそれを見つめた。
それから微笑んだ。
プロジェクトに採用されるかどうかは分からなかった。
どれほどの研修が必要になるかも分からなかった。
春人が正確にいつ引っ越すのかも分からなかった。
そして、一年後に二人の関係がどうなっているのかも分からなかった。
でも、自分が何を望んでいるかは分かっていた。
もっとよい看護師になること。
学び続けること。
成長し続けること。
そして、自分らしさを失わずに春人を愛すること。
葵は引き出しを閉めた。
それからスマートフォンを手に取った。
葵:手紙、ちゃんと安全な場所に置いた?
春人からほとんどすぐに返事が来た。
春人:うん。
葵:よかった。
春人:サボテン王家を文書の守護者に任命したよ。
葵は笑った。
葵:それなら安心だね。
春人:彼らは職務に忠実だからね。
葵:そうだといいな。
少し間が空いた。
そして――
春人:葵?
葵:何?
春人:今日はありがとう。
葵は微笑んだ。
葵:こちらこそ、ありがとう。
◇ ◇ ◇
外では、街がいつもどおりの生活を続けていた。
遠くの駅を電車が通り過ぎた。
街灯の下を車が走った。
温かなリビングに家族が集まった。
家に帰る人たちがいた。
夜勤へ向かう人たちもいた。
そして、どこかで――
青いドアの向こうに――
空っぽのアパートが待っていた。
未来の入居者は、まだ賃貸契約書に署名していなかった。
浴室の改修も終わっていなかった。
看護体制も完成していなかった。
まだ障害は残っていた。
まだ不確かなこともあった。
まだ難しい会話が待っていた。
でも、春人はもう、それらの障害を自分の夢が不可能である証拠として見てはいなかった。
一つずつ取り組める問題として、見られるようになっていた。
助けを借りながら。
自分で選ぶ権利を手放さずに。
そして、たぶんそれこそが、何より大きな変化だった。
母はかつて、一つの質問を書き残した。
春人は何を望んでいる?
何年もの間、その答えは遠くにあるように感じられた。
複雑で。
ほとんど言葉にできないほどに。
でも今――
少しずつ答え始めていた。
家が欲しい。
小説を書きたい。
自分のことを自分で決めたい。
家族には、これからも人生の一部でいてほしい。
自分をケアする人たちには、自分を尊重してほしい。
そして、葵との未来が欲しい。
どちらかが、相手の必要とするものの中に自分を消してしまうような未来ではなく。
二人とも成長できる未来。
二人とも夢を見られる未来。
二人とも選べる未来。
そして、二人ともそばにいられる未来。
春人は窓のほうを見た。
夜空のどこか、その向こうには未来の自分がいる。
もう青いドアの向こうで暮らしているかもしれない自分。
見知らぬ場所を自分の家にする方法を学んだかもしれない自分。
新しい不安を知ったかもしれない。
新しい喜びを知ったかもしれない。
新しい笑いの理由を見つけたかもしれない。
そして、もしかしたら――
引っ越してから一年後――
その自分が手紙を開けるのだろう。
かつての自分が書いた希望を読む。
そして微笑む。
たとえ未来が、想像していたものと違っていたとしても――
そこにたどり着いたことを知るだろうから。
すべてを一人で成し遂げたからではない。
助けが必要だという理由で、自分で選ぶ権利を奪われることを拒んだから。
春人は静かに微笑んだ。
「……一年後に会おう」
そして、静かな部屋のどこかで――
母の写真の隣に――
封をされた一通の手紙が、明日を待っていた。




