第60話 昨日の思い出と明日の夢の狭間で見つけた家
その朝、高橋春人が最初に学んだのは、大地叔父さんには不動産契約の交渉を任せてはいけないということだった。
二つ目に学んだのは、大地叔父さん本人はまったくそう思っていないということだった。
断固として。
「春人」
「何、大地叔父さん?」
「俺を信じろ」
春人は彼を見つめた。
「ずいぶん不安になる出だしだね」
大地は腕を組んだ。
「俺は交渉の仕方を知ってるんだ」
「本当に?」
「もちろん」
春人は慎重に考えた。
そして――
「大地叔父さん、前に冷蔵庫を定価で買ったよね。店員さんがカレンダーをおまけしてくれたってだけで」
大地は固まった。
「あれはいいカレンダーだったんだ」
「十一月だったよ」
「だから何だ?」
「十二月で終わるカレンダーだったじゃないか」
大地は口を開いた。
閉じた。
それからキッチンのほうを向いた。
「由紀!」
家のどこかから声が返ってきた。
「私を巻き込まないで!」
春人は微笑んだ。
「見事な弁護だね」
◇ ◇ ◇
残念ながら、二人が言い争っている理由は、それほど笑えるものではなかった。
アパート。
正確には――
改修工事の見積もりだった。
最終見積もりが届いてから数日が経ち、春人はその書類を嫌になるほど眺めていた。
電気設備の要件。
出入り口の改修。
浴室の調整。
医療機器の収納場所。
緊急連絡システム。
そして――
もちろん――
あの悪名高い棚。
どうやらその棚を移動させるには、春人が昨年一年間に本へ費やした金額より多くのお金が必要らしかった。
それは相当なことだった。
なぜなら、春人は大量の本を買うからだ。
しかし今は、物件の管理担当者との打ち合わせを控えていた。
佐藤恵美も同席する。
バリアフリー改修業者も参加する。
目的は単純だった。
そのアパートを、本当に春人の住まいにできるのか確かめること。
安全性を犠牲にせずに。
費用が無理のあるものにならないように。
そして、できれば――
大地がまた冷蔵庫を買わずに済むように。
◇ ◇ ◇
打ち合わせは午前十時に始まった。
春人は青い電動車椅子を会議テーブルの横につけた。
右側には大地。
向かいには恵美。
物件管理担当の森田が、改修案の入ったファイルを開いた。
その隣には改修業者が座っていた。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
森田が切り出した。
春人はうなずいた。
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
森田は書類を確認した。
「ご希望の改修内容について検討しました」
「ありがとうございます」
「比較的簡単に対応できるものもあります」
春人はかすかに微笑んだ。
「そういう話は大好きです」
「一方で、難しいものもあります」
「そちらはあまり人気がありませんね」
大地は笑いを隠すように咳払いした。
森田は続けた。
「出入り口の改修は承認できます」
春人は少し姿勢を正した。
「それはよかったです」
「収納場所の変更も可能です」
「素晴らしい」
「ただし、電気設備の改修には問題があります」
春人の笑顔が消えた。
「どの程度でしょうか?」
業者は、予定している医療機器を安全に使用するため、複数の電気回路を改修する必要があると説明した。
大規模な構造変更なしで対応できる工事もあった。
しかし、追加の承認と費用が必要なものもあった。
建物の所有者は、一部の恒久的な設備改善について費用を負担する意向を示していた。
ただし、すべてではない。
春人は注意深く聞いた。
そして尋ねた。
「安全に暮らすために絶対必要な改修と、追加的な改善に当たるものを分けて説明していただけますか?」
業者は書類を見た。
「重要な点ですね」
春人はうなずいた。
「そう思います」
彼らは見積もりを一項目ずつ確認し始めた。
◇ ◇ ◇
一時間後――
春人は三つのことを学んだ。
一つ目。
削減できる費用はある。
二つ目。
最も高額な改修の中には、最も重要なものも含まれている。
そして三つ目。
大地叔父さんを監督なしで交渉させてはいけない。
「何とか折り合いをつけられないでしょうか」
大地が言った。
森田は丁寧にうなずいた。
「検討しています」
大地は身を乗り出した。
「では、中間の金額でどうです?」
春人は目を閉じた。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「中古車販売店じゃないんだから」
「現実的な提案だろ」
「電気設備の安全性について値切ろうとしてるんだよ」
大地は黙った。
「……確かに」
恵美は微笑んだ。
そして書類に目を戻した。
「費用についてさらに話し合う前に、利用できる補助制度や、所有者側が負担するべき範囲を確認しましょう」
森田はうなずいた。
「そうですね」
春人は見積もりを見た。
数字はまだ高かった。
削減案を反映しても。
そして期限は迫っていた。
このアパートに住みたかった。
心から。
初めて内見したとき、自分が誰かの生活にお邪魔しているような気持ちにならずに、朝を迎える姿を想像できた場所だった。
自分の本を置ける場所。
自分の生活習慣を作れる場所。
葵を招くことができる場所。
何かを決めるたびに、家族会議を通さなければならないような気持ちにならずに済む場所。
でも――
何かを望んでいるからといって、それが必ずしも正しい選択とは限らない。
春人は顔を上げた。
「森田さん」
「はい」
「最終的な判断まで、もう少し時間をいただけないでしょうか?」
森田はためらった。
「所有者としては、早めに結論を出したい意向でして」
「承知しています」
春人は息を吸った。
「ただ、改修工事や医療機器の要件、看護体制が確定する前に契約するのは、責任ある判断だとは思えません」
森田は少し考えた。
そしてうなずいた。
「期限を延長できないか、確認してみます」
春人はかすかに微笑んだ。
「ありがとうございます」
勝利ではなかった。
まだ。
でも、敗北でもなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、水野葵は病院の教育研修センターに到着した。
今日は専門能力開発プログラムのオリエンテーションだった。
楽しみだった。
とても楽しみだった。
おそらく、楽しみにしすぎていた。
なぜなら――
四十分も早く到着してしまったからだ。
しかも、建物はまだ完全には開いていなかった。
葵は教室の前に立ち、ファイルを抱えていた。
「……ちょっと張り切りすぎたかな」
「初日ですか?」
後ろから声がした。
振り向く。
若い看護師が立っていた。
短い黒髪。
眼鏡。
自信に満ちた表情。
「はい」と葵は答えた。
女性は微笑んだ。
「私もです」
「水野葵です」
「林玲奈です」
二人は丁寧に頭を下げた。
玲奈は葵のファイルを見た。
「どの分野に興味があるんですか?」
「複雑な医療的ケアと、病院から在宅生活への移行支援です」
玲奈は眉を上げた。
「在宅医療ですか?」
葵はうなずいた。
「はい」
玲奈は少し考えた。
「興味深いですね」
葵は微笑んだ。
「玲奈さんは?」
「高度急性期医療です」
「難しそうですね」
「そうですね」
玲奈は教室のほうを見た。
「正直、病院医療にはたくさんの可能性があるのに、どうして在宅医療を選ぶのか、あまり理解できないんです」
葵の笑顔が少し薄れた。
「どうしてですか?」
玲奈は肩をすくめた。
「サービスの調整とか、家族への指導が中心なんじゃないですか?」
葵は彼女を見つめた。
一瞬――
とても長い説明をしようかと考えた。
詳しい説明を。
場合によっては図解つきで。
しかし、春人のことを思い出した。
そして微笑んだ。
「実際には、もう少しいろいろあるんですよ」
◇ ◇ ◇
オリエンテーションは午前九時に始まった。
プログラム責任者がカリキュラムを紹介した。
臨床判断。
患者教育。
多職種連携。
倫理的意思決定。
地域の社会資源。
複雑な医療機器。
退院支援計画。
そして、医療的ケアの必要性が高い人々の施設外での生活を支える際の課題。
葵は真剣に聞いた。
メモを取った。
大量に。
春人でさえ驚くかもしれないほどの量だった。
やがて、講師は参加者を小グループに分けた。
各グループには架空の事例が配られた。
進行性の神経筋疾患を持つ若い成人。
呼吸補助に依存している。
電動車椅子を使用している。
病院から在宅生活へ移行する準備を進めている。
葵は事例の説明を見つめた。
そして、かすかに微笑んだ。
「……なるほど」
玲奈が彼女を見た。
「どうしました?」
「何でもありません」
グループで優先事項について話し合い始めた。
一人は医療機器を重視した。
別の人は家族への指導を強調した。
玲奈は医学的な安定性について話した。
葵は耳を傾けた。
そして尋ねた。
「本人は、どうしたいのでしょうか?」
ほかの参加者たちが彼女を見た。
玲奈は瞬きをした。
「え?」
葵は事例の説明を指した。
「医療的な必要性については話し合いました」
「機器」
「訓練」
「介護者の確保」
「でも、本人の目標についてはまだ話していません」
近くで聞いていた講師が、彼女たちのほうを向いた。
葵は続けた。
「本人は家族の家に戻りたいのでしょうか?」
「一人暮らしをしたいのでしょうか?」
「勉強を続けたいのでしょうか?」
「働きたいのでしょうか?」
「そうした目標によって、移行支援の計画は変わってきます」
玲奈は少し考えた。
「確かにそうですね」
葵はうなずいた。
「それに、二十四時間の専門的な支援が必要な人の場合、家族が当然すべてを担えると考えるわけにはいきません」
講師は微笑んだ。
「素晴らしい指摘ですね」
葵は頬が熱くなるのを感じた。
話し合いは続いた。
今度は――
患者本人を中心に据えて。
◇ ◇ ◇
オリエンテーションが終わる頃には、葵は疲れ果てていた。
でも、幸せだった。
とても幸せだった。
休憩時間に春人へ電話した。
彼はすぐに出た。
「こんにちは、未来の看護教育界のスター」
葵はうめいた。
「本当にその呼び方、やめないつもりでしょ?」
「もちろん」
葵は笑った。
「アパートの打ち合わせはどうだった?」
春人はため息をついた。
「高かった」
「そんなに?」
「電気設備が高級志向に目覚めたらしい」
葵は同情するように微笑んだ。
「何か進展はあった?」
「少しね」
春人は説明した。
費用の削減案。
まだ解決していない電気工事の費用。
期限延長の依頼。
そして、最終的な決定はまだしていないこと。
葵は耳を傾けた。
それから尋ねた。
「春人?」
「うん?」
「一つ聞いてもいい?」
「もちろん」
「あのアパートが欲しいのは、一番いい選択肢だから?」
春人は黙った。
「……どういう意味?」
「それとも、初めて夢が実現できそうだと思えたアパートだから?」
沈黙。
春人は画面を見つめた。
葵は優しく続けた。
「諦めたほうがいいって言ってるわけじゃないよ」
「でも、最初に気に入った場所だからって、そこを選ばなきゃいけないと思わなくてもいいんじゃないかな」
春人は改修見積もりを見た。
しばらく――
何も言わなかった。
そして――
「……すごくいい質問だね」
葵は微笑んだ。
「たまにはね」
「たまに?」
「調子に乗らないで」
春人は笑った。
◇ ◇ ◇
翌朝、春人に恵美から新しいメールが届いた。
今度は、二人目の夜間看護師候補についてだった。
黒田夏美。
在宅看護の経験が豊富だった。
夜間の呼吸管理も含まれていた。
勤務可能な日数は、真由より多い可能性があった。
ただし――
面接はまだだった。
資格や照会先の確認も必要だった。
そして、春人が使用している具体的な医療機器について、技術確認を受ける必要があった。
春人は慎重にメールを読んだ。
そして微笑んだ。
「進展だ」
由紀がキッチンテーブルから顔を上げた。
「良い知らせ?」
「たぶんね」
由紀が近づいた。
「何?」
「二人目の看護師候補」
由紀は微笑んだ。
「それはよかったわ」
春人はうなずいた。
「明日、面接だよ」
由紀は少し間を置いた。
「質問は何問?」
春人は無邪気な顔をした。
「二十九問」
由紀は見つめた。
「二十九問?」
「カリキュラムを拡張したんだ」
「春人!」
「専門能力開発だよ」
由紀はうめいた。
◇ ◇ ◇
面接は翌日の午後に行われた。
恵美が同席した。
由紀も同席した。
春人も参加した。
そして、黒田夏美は時間ぴったりに到着した。
四十代前半。
落ち着いていた。
専門職らしい態度だった。
自信もあった。
きれいに整理されたファイルを持っていた。
履歴書は立派だった。
経験も関連性が高そうだった。
照会先への確認も進められていた。
最初は――
すべて順調に見えた。
しかし、夏美は由紀のほうを向いた。
「夜間は、普段どのような介助が必要なんでしょうか?」
春人は瞬きをした。
由紀は春人を見た。
それから夏美に視線を戻した。
「それは春人本人に答えてもらったほうがいいですね」
夏美は微笑んだ。
「もちろんです」
しかし数分後――
また同じことが起きた。
「ご本人は機器のアラームを理解されていますか?」
春人は見つめた。
由紀の笑顔が引きつった。
恵美も椅子の上で少し姿勢を変えた。
春人は咳払いした。
「黒田さん?」
夏美が振り向いた。
「はい?」
「僕はここに座っていますよ」
沈黙。
夏美は瞬きをした。
春人は続けた。
「僕のケアについて質問があるなら、直接僕に聞いていただきたいです」
夏美は驚いたようだった。
そして、申し訳なさそうな顔になった。
「おっしゃるとおりです」
春人はうなずいた。
「ありがとうございます」
夏美はためらった。
「申し訳ありません。初回の聞き取りでは、ご家族に質問することが多かったものですから」
春人は少し考えた。
「事情は分かります」
そして――
「でも、ケアを受けるのは僕です」
夏美はうなずいた。
「はい」
「自分に必要な支援について、自分で話すことができます」
「もちろんです」
春人はかすかに微笑んだ。
「よかった」
それから準備した質問を見た。
「では」
由紀は目を閉じた。
「ああ、始まった」
春人は続けた。
「第一問です」
◇ ◇ ◇
夏美のよかったところは――
きちんと耳を傾けたことだった。
本当に。
春人は人工呼吸器のアラームについて質問した。
緊急時の対応。
夜間の体位調整。
呼吸状態が悪化したときの意思疎通。
記録。
プライバシー。
そして、春人の判断に同意できない場合、どう対応するか。
夏美は慎重に答えた。
知識があった。
経験もあった。
追加の訓練が必要な分野についても、正直に認めた。
やがて、春人は尋ねた。
「黒田さんにとって、自立とは何ですか?」
夏美は少し考えた。
「できるだけ多くのことを、他人の助けなしで行えることだと思います」
春人は考えた。
「それも一つの定義ですね」
夏美は彼を見た。
「春人さんは、どう考えていますか?」
春人は微笑んだ。
「自分の人生について、意味のある決定権を持つことです」
夏美は耳を傾けた。
春人は続けた。
「僕は多くの身体的な動作に介助が必要です」
「一人暮らしを始めたからといって、それが急に変わるわけではありません」
「でも、何時に寝るかは自分で決めたい」
「何を読むか」
「誰を招くか」
「どう時間を使うか」
少し間を置いた。
「それから、午前二時にひどい映画を観たいかどうかも」
由紀はため息をついた。
「それは勧めないでほしいわ」
夏美は微笑んだ。
春人は続けた。
「僕を子どものように扱う看護師は望んでいません」
「ケアが必要なことと、自分で決めることは別だと理解してくれる人がいいんです」
数秒間――
夏美は何も言わなかった。
そしてうなずいた。
「もっともだと思います」
春人は微笑んだ。
「よかった」
夏美は考え込むように彼を見た。
「私はこの面接に、持つべきではない思い込みを持って臨んでしまったのかもしれません」
春人は眉を上げた。
「そうかもしれませんね」
夏美はかすかに微笑んだ。
「指摘してくださって、ありがとうございます」
春人はうなずいた。
「どういたしまして」
完璧な面接ではなかった。
でも――
正直な面接にはなった。
◇ ◇ ◇
夏美が帰ったあと、由紀は春人を見た。
「どうだった?」
春人は考えた。
「経験はあるね」
恵美はうなずいた。
「かなりあります」
「勤務できる日数も助かりそう」
「はい」
春人は少し間を置いた。
「でも、僕の決定を尊重してくれるか、きちんと確かめたい」
由紀は微笑んだ。
「当然ね」
恵美も同意した。
「確認を続けましょう」
「技術確認も?」
「もちろんです」
春人はうなずいた。
「それなら、候補として検討を続けたいです」
由紀は安心したようだった。
そして――
「春人?」
「何?」
「結局、質問は何問したの?」
春人はパソコンを見た。
「三十一問」
由紀は見つめた。
「三十一問!?」
「その場で二問追加したんだ」
「どうして!?」
「科学的好奇心だよ」
◇ ◇ ◇
その夜、恵美からまた電話があった。
春人は少し警戒しながら出た。
「もしもし」
「春人さん、もう一つ住まいの候補が見つかりました」
春人は瞬きをした。
「別のアパートですか?」
「はい」
表情が変わった。
「どこですか?」
恵美が説明した。
静かな住宅街にある建物。
家族の家からは少し遠い。
しかし、公共交通機関や複数のバリアフリー対応サービスを利用しやすい場所だった。
部屋の出入り口は広い。
浴室にも余裕がある。
そして、予定している医療機器の配置に適した電気設備が備わっている可能性があった。
完璧ではない。
でも――
必要な改修は少なくて済むかもしれない。
春人は注意深く聞いた。
「家賃は?」
恵美が金額を伝えた。
春人は瞬きをした。
「……安いですね」
「はい」
「本当に?」
恵美は笑った。
「本当です」
春人は少し考えた。
「何か問題があるんですか?」
恵美は小さく笑った。
「必ずしも問題があるわけではありません。どんな物件にも長所と短所があります」
「例えば?」
「キッチンの調整が必要かもしれません」
「寝室の配置も確認が必要です」
春人はうなずいた。
「ほかには?」
恵美は微笑んだ。
「建物の入口が、少し特徴的なんです」
「どんな?」
「青いドアなんです」
春人は見つめた。
そして、ゆっくり微笑んだ。
「……青いドア?」
「はい」
自分の青い車椅子を見た。
そして笑った。
「なるほど」
恵美は続きを待った。
「妙に僕にぴったりですね」
◇ ◇ ◇
アパートの内見は二日後に行われた。
大地が春人に付き添った。
看護師も同行した。
恵美は建物の前で待っていた。
そして、そこにあった。
青いドア。
鮮やかな青いドア。
濃紺でもない。
薄い灰青色でもない。
明るく、誰が見ても青いと分かる色だった。
春人は見つめた。
大地はにやりとした。
「おお、見ろよ」
春人はため息をついた。
「個人的に狙われている気がする」
恵美は笑った。
「入りましょうか?」
中へ入った。
ロビーは広かった。
エレベーターは、春人の車椅子と付き添いのスタッフが一緒に乗れる大きさだった。
廊下も広かった。
そしてアパートの中は――
驚くほど快適だった。
春人は車椅子を進めた。
周囲を見回した。
そして――
「……ああ」
大地が彼を見た。
「ああ?」
春人はすぐには答えなかった。
リビングには大きな窓があった。
自然光が部屋を満たしていた。
車椅子を無理なく方向転換できるスペースもあった。
本棚を置けそうな壁。
ダイニングスペース。
独立した寝室。
そして――
ガラス戸の向こうには、小さなバルコニーが見えた。
春人は見つめた。
「……いいね、ここ」
恵美は微笑んだ。
「そうですね」
◇ ◇ ◇
内見は続いた。
車椅子の回転スペースを測った。
浴室へのアクセスを確認した。
寝室を調べた。
コンセントの位置を確認した。
医療機器の収納について話し合った。
そして、春人の私生活に必要以上に入り込まず、看護師が仕事をできる場所を検討した。
まだ問題はあった。
キッチンの作業台は高すぎた。
バルコニーの段差も確認が必要だった。
浴室では、予定している機器と移乗方法を安全に使用できるか、正式に評価する必要があった。
電気容量についても、専門的な確認が必要だった。
でも――
このアパートは違って感じられた。
大規模な工事現場というよりも。
いつか家になるかもしれない場所だった。
春人はリビングの窓のそばで止まった。
外では、小さな木が風に揺れていた。
大地が近づいた。
「どうだ?」
春人は少し考えた。
「……気に入った」
大地は微笑んだ。
「前のところより?」
春人はためらった。
そして――
「まだ分からない」
大地はうなずいた。
「それでいいさ」
春人は周囲を見回した。
「最初のアパートのことばかり考えていて、ほかにも可能性があるって忘れていたのかもしれない」
恵美は微笑んだ。
「だから、探し続けるんですよ」
春人はうなずいた。
そして――
「大地叔父さん?」
「何だ?」
「あそこに本棚を置けると思う?」
大地は春人の視線を追った。
「ああ、置けるだろうな」
「じゃあ、あそこにも?」
「たぶんな」
「それから、あの壁沿いにも?」
大地は見つめた。
「春人」
「何?」
「ここを図書館にするつもりか?」
春人は微笑んだ。
「素晴らしい提案だね」
◇ ◇ ◇
その夜、家族は夕食のために集まった。
葵も招かれていた。
仕事を終えてからやって来た。
そして、ほとんど到着してすぐに――
由紀がとんでもない失敗をした。
本当に致命的な失敗だった。
結婚の話を持ち出したのだ。
「そういえば」
由紀は何気ない調子で切り出した。
春人は顔を上げた。
「何?」
「葵ちゃんから聞いたんだけど、最近二人で面白い話をしたんですってね」
春人は固まった。
葵も固まった。
大地はゆっくり箸を下ろした。
「……何の話だ?」
由紀は微笑んだ。
「結婚の話よ」
沈黙。
そして――
「春人!?」
大地は立ち上がりかけた。
春人は目を閉じた。
「始まった」
葵の顔は真っ赤になった。
「ただ話しただけです!」
由紀は笑った。
「分かってるわよ」
大地は春人を見た。
「結婚するのか!?」
「しないよ!」
「スピーチを準備したほうがいいか!?」
「しなくていい!」
「いくつか案があるぞ!」
「お願いだからやめて!」
由紀はもう笑いっぱなしだった。
葵は顔を覆っていた。
春人は天井を見た。
「……お母さん、もし聞こえていたら助けて」
◇ ◇ ◇
残念ながら――
大地はすでに計画を始めていた。
「春人が生まれた日の話をしてもいいな」
春人は見つめた。
「大地叔父さん」
「それか、三百冊の本は医療上必要な物品だって説得しようとしたときの話とか」
「あれは正当な主張だったよ」
「それから――」
「やめて!」
葵は笑いすぎて、ほとんど声が出なかった。
由紀は涙を拭っていた。
大地は心外そうな顔をした。
「何だよ! 応援してるんだぞ!」
春人はため息をついた。
「プロポーズの話すらしてないんだよ」
大地は止まった。
「ああ」
少し間が空いた。
そして――
「じゃあ、準備する時間はあるな?」
「大地叔父さん!」
葵は椅子から転げ落ちそうなほど笑った。
◇ ◇ ◇
やがて、からかいは収まった。
ほとんど。
由紀がお茶を入れた。
大地は夕食に戻った。
春人は、わずかながら尊厳を取り戻した。
葵は微笑んだ。
「ごめんね」
春人は彼女を見た。
「何が?」
「話したこと、ちょっと言っちゃった」
春人は大げさにため息をついた。
「重大な外交上の機密漏洩だね」
葵は笑った。
「こんな反応になるとは思わなかったの」
春人は大地をちらりと見た。
「大地叔父さん、前に結婚式のCMに子犬が出てきただけで泣いたことがあるからね」
大地は顔を上げた。
「あの子犬はかわいかったんだ」
由紀は微笑んだ。
それから表情を柔らかくした。
「冗談はさておき……」
春人は彼女を見た。
由紀は続けた。
「もし、いつか二人が結婚すると決めたら、私たちは応援するわ」
春人は静かになった。
葵は視線を落とした。
由紀は微笑んだ。
「結婚してほしいからじゃない」
「いつまでにしなきゃいけないなんて、思っているわけでもない」
「ただ、あなたには自分が望む人生を築く権利があるから」
春人は唾を飲み込んだ。
「……ありがとう」
大地もうなずいた。
「必要な準備があれば手伝うぞ」
春人はかすかに微笑んだ。
「バリアフリーのことも?」
「もちろん」
葵の目が柔らかくなった。
由紀は続けた。
「結婚したからって、自立できなくなるわけじゃないもの」
「それに、パートナーがあなたのケアを全部担わなきゃいけないわけでもない」
春人はうなずいた。
「そのとおりだよ」
大地は微笑んだ。
「二人で何かを築いていくってことだろ」
しばらく――
誰も何も言わなかった。
それから春人が大地を見た。
「意外と賢いことを言うね」
大地は見つめた。
「意外と!?」
◇ ◇ ◇
雨が降り始めたのは、夕食の少しあとだった。
最初は――
窓を優しく叩く程度だった。
それから――
一定の強さで降り続ける雨になった。
そして最後には――
街灯がぼやけた水彩画のように見えるほどの土砂降りになった。
葵は窓のそばに立った。
「……すごい」
由紀が隣に来た。
「ひどい雨ね」
大地は天気情報を確認した。
「しばらく続きそうだな」
葵はスマートフォンを見た。
道路は濡れていた。
視界も悪い。
夜遅くに帰宅するのは大変そうだった。
由紀は彼女を見た。
「今夜は泊まっていったら?」
葵は瞬きをした。
「……え?」
「客間があるもの」
葵はためらった。
「でも、ご迷惑じゃ……」
「そんなことないわ」
大地もうなずいた。
「この雨の中を帰るよりいい」
葵は春人を見た。
彼は微笑んだ。
「泊まっていっていいよ」
葵はためらった。
「本当に?」
「もちろん」
少し間を置いた。
「ただし、一つ警告しておくよ」
葵は目を細めた。
「何?」
「王室のサボテンたちが、時々深夜の会議を開くんだ」
葵はうめいた。
「春人!」
◇ ◇ ◇
葵は泊まることになった。
由紀が客間を整えた。
大地が追加の毛布を持ってきた。
春人の通常の看護体制は、そのまま続けられた。
そして初めて――
葵は、思いがけない素晴らしさを感じた。
春人と同じ家で過ごす、何気ない夜。
特別な外出ではない。
レストランの予約もない。
手の込んだデートでもない。
ただ――
映画。
デザート。
雨。
そして、急いで夜を終わらせなくてもいいという安心感。
二人はリビングでくつろいだ。
春人は車椅子をソファの横につけた。
葵は近くに座った。
テレビには恋愛コメディーが映っていた。
ひどい恋愛コメディーだった。
見事なほどひどい恋愛コメディーだった。
二十分後――
春人が口を開いた。
「……この男、馬鹿だね」
葵は笑った。
「主人公だよ!」
「だからって許されるわけじゃない」
「魅力的な人物の設定なの!」
「二十分で六つも重大な意思疎通の失敗をしているよ」
葵は口元を覆った。
「数えてるの!?」
「もちろん」
「どうして!?」
「研究だよ」
葵は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
映画の途中、男性主人公が雨の中を走り、愛の告白をする場面になった。
葵は微笑んだ。
「ロマンチックだね」
春人は見つめた。
「肺炎になりそう」
葵は振り向いた。
「春人!」
「それに、電話すればよかったのに」
「そういうことじゃないの!」
「通信技術には存在する理由があるんだよ」
葵は笑った。
「映画を台無しにしないで!」
「映画が勝手に台無しになってるんだ」
葵はソファにもたれた。
まだ笑っていた。
そして――
表情が柔らかくなった。
「……春人?」
「うん?」
「私、こういうの好き」
彼は彼女を見た。
「ひどい映画?」
「違うよ」
葵は微笑んだ。
「こういう時間」
部屋を見回した。
「雨とか」
「デザートとか」
「ここにいることとか」
春人も周囲を見た。
そして微笑んだ。
「……僕も好きだよ」
葵は彼を見た。
「いつか、あなたのアパートでもこういうことがしたいな」
彼の表情が柔らかくなった。
「うん」
「一緒に夕食を作ったり」
「これよりいい映画を観たり」
「それは非常に低い基準だね」
葵は笑った。
そして続けた。
「それから、ただ……一緒に過ごしたい」
春人は微笑んだ。
「僕もそうしたい」
◇ ◇ ◇
そのあと、由紀がそろそろ遅い時間だと声をかけに来た。
葵は立ち上がった。
春人の看護師は夜間のケアの準備をしていた。
葵は、その時間が春人と専門のケアチームのためのものだと理解していた。
邪魔はしなかった。
代わりに、少しかがんで春人の頬にキスをした。
「おやすみ」
春人は微笑んだ。
「おやすみ」
葵は少し間を置いた。
そして――
「泊めてくれてありがとう」
春人は彼女を見た。
「いつでも歓迎するよ」
葵は微笑んだ。
それから客間へ向かった。
春人は彼女が去っていくのを見送った。
しばらく――
青いドアのアパートを想像した。
リビング。
本棚。
窓を叩く雨。
ひどい映画を観て笑う葵。
きちんと組まれた勤務表に従って働く看護師たち。
安全に設置された医療機器。
自分自身の決断。
自分自身の生活。
自分自身の家。
そして初めて――
その夢が、以前ほど遠く感じられなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、葵は朝食の匂いで目を覚ました。
客間から出ると、由紀がキッチンにいた。
大地はスマートフォンで何かを読んでいた。
春人は青い車椅子に座っていた。
そして――
ダイニングテーブルの上には――
あの小さなお城があった。
葵は立ち止まった。
「……どうしてお城がここにあるの?」
春人は無邪気な顔をした。
「王室の朝食だよ」
由紀はため息をついた。
「どうしてもって言うから」
大地は真剣にうなずいた。
「どうやらサボテンたちがパンケーキを要求したらしい」
葵は見つめた。
そして声を上げて笑った。
「みんな、おかしいよ!」
春人は微笑んだ。
「ようこそ、我が家へ」
その言葉は自然に出てきた。
あまりにも自然に――
部屋が静かになるまで、自分が何を言ったのか気づかなかった。
葵は彼を見た。
由紀は微笑んだ。
大地は顔を上げた。
春人は瞬きをした。
「……何?」
葵の表情が柔らかくなった。
「ううん」
微笑んだ。
「ありがとう」
◇ ◇ ◇
朝食のあと、葵は帰宅した。
雨はやんでいた。
道路の状態もよくなっていた。
時間にも余裕があり、急いで帰る必要はなかった。
春人は彼女を見送った。
それから自分の部屋へ戻った。
母の手紙は、まだパソコンの横に置かれていた。
春人はそれを見た。
もう一度読んだ。
そして、新しい文書を開いた。
画面にタイトルが表示された。
『今も恋しい母へ書いた手紙』
春人は白いページを見つめた。
長い間――
何も言わなかった。
それから音声入力ソフトを起動した。
そして、書き始めた。
お母さんへ。
手紙を見つけたよ。
いつ書いてくれたのかは分からない。
僕が二十二歳になって、青い車椅子に座りながら、時々言うことを聞いてくれないパソコンを使って読むことになるなんて、想像していたかどうかも分からない。
でも、読んだよ。
そして、泣いた。
少し間を置いた。
それから続けた。
お母さんは、僕に未来の計画を立て続けてほしいって書いてくれたね。
ちゃんとそうしているって、伝えたいんだ。
今、アパートを探しているよ。
正確には、二つのアパートを検討している。
一つは、とんでもなく高い。
もう一つは、青いドアがあるんだ。
きっとお母さんなら笑うと思う。
春人はかすかに微笑んだ。
そして続けた。
安全に暮らすために必要な看護体制も整えようとしている。
複雑なんだ。
面接。
評価。
勤務表。
保険。
そして、人間が一生で扱うべき量を超えているんじゃないかと思うほどの書類。
でも、頑張っているよ。
◇ ◇ ◇
声が少し小さくなった。
それから、もう一つ伝えたいことがある。
好きな人ができたんだ。
名前は葵。
看護師をしている。
でも、看護師だから好きになったわけじゃない。
頑固だから好きなんだ。
優しいから。
僕が馬鹿なことを言うと、ちゃんと言い返してくれるから。
僕を子ども扱いしないから。
そして、自分の夢を諦めなくてもいい未来を、ちゃんと思い描いている人だから。
少し間を置いた。
そして微笑んだ。
葵は最近、専門能力開発プログラムに合格したんだ。
僕は彼女を誇りに思っている。
本当に。
それから、お母さん……
声が震えた。
僕たち、結婚について話したんだ。
春人は小さく笑った。
あまり興奮しないでね。
誰もプロポーズしてないから。
でも、大地叔父さんはもうスピーチの準備を始めている。
あの人らしいでしょう?
春人は机の上の写真を見た。
そして続けた。
葵と僕が、いつか結婚するかどうかは分からない。
でも、これからも一緒に成長していけたらいいなと思う。
これからも、お互いを選び続けられたらいいなと思う。
そして、何があっても、自分らしさを失わずにいられたらいいなと思う。
◇ ◇ ◇
しばらく――
春人は続けられなかった。
喉が締めつけられた。
目が熱くなった。
母の写真を見た。
そして、つぶやいた。
「……会いたいよ」
部屋は静かだった。
少し時間を置いた。
それから、また音声入力を始めた。
時々、怖くなるんだ。
アパートの計画がうまくいかなかったらどうしよう。
必要な看護師を十分に確保できなかったらどうしよう。
葵に何かあったらどうしよう。
自分が間違えたらどうしよう。
なりたい自分になれなかったらどうしよう。
少し間を置いた。
でも、お母さんは、僕が時々怖くなることも分かっていたんだと思う。
だから、あの手紙を書いてくれたんだと思う。
何もかも簡単にいくと思っていたからじゃなくて。
それでも進み続けてほしかったから。
春人は唾を飲み込んだ。
そして続けた。
だから、僕はそうするよ。
これからも書き続ける。
人を愛し続ける。
未来の計画を立て続ける。
質問し続ける。
そして、たぶん本を買いすぎることもやめられない。
春人は涙を浮かべながら微笑んだ。
お母さんが、僕を誇りに思ってくれていたらうれしい。
葵のことも、きっと気に入ってくれたらいいな。
そして、どこにいても、僕が今もお母さんの息子だって知っていてほしい。
相変わらず頑固で。
相変わらず好奇心旺盛で。
いっぱいになった本棚に、あと一冊入れようとしている。
少し間を置いた。
そして最後の言葉を口にした。
愛してるよ、お母さん。
お母さんが信じてくれた人生を、これからも生きていくから。
愛を込めて。
春人より。
◇ ◇ ◇
文書が保存された。
春人は画面を見つめた。
数分間――
動かなかった。
そのとき、由紀がドアのところに現れた。
「春人?」
顔を上げた。
「うん?」
由紀は彼の目に気づいた。
表情が柔らかくなった。
「大丈夫?」
春人は少し考えた。
そして、かすかに微笑んだ。
「……たぶん」
由紀が近づいた。
「何を書いていたの?」
春人は画面を見た。
「手紙」
「誰に?」
春人は唾を飲み込んだ。
「……お母さんに」
由紀の目が潤んだ。
「ああ、春人……」
春人は微笑んだ。
「いろんなことを伝えたかったんだ」
由紀はうなずいた。
「読ませてもらってもいい?」
春人は少し考えた。
そして――
「まだ」
由紀は微笑んだ。
「分かったわ」
春人は彼女を見た。
「いつかね」
「あなたがその気になったときでいいのよ」
しばらく――
二人はただ一緒にいた。
それから春人が口を開いた。
「……由紀叔母さん?」
「何?」
「お母さん、青いドアのアパートを気に入ったと思う?」
由紀は微笑んだ。
「あなたが自分で選んでいることを、何より喜んだと思うわ」
春人は視線を落とした。
そしてうなずいた。
「……うん」
◇ ◇ ◇
その日の午後、恵美からまた連絡があった。
最初のアパートの所有者は、短期間の期限延長を検討することに同意した。
まだ確定ではなかった。
二つ目のアパートについては、電気設備とバリアフリーの評価日程を調整していた。
夏美の照会先への確認も続いていた。
真由の技術確認も進んでいた。
保険の承認や、代替要員を含む看護体制についての話し合いも続いていた。
進展はあった。
確かな進展だった。
でも、まだやるべきことは残っていた。
春人は注意深く聞いた。
質問した。
メモを取った。
そして、恵美に礼を言った。
電話が終わると、パソコンに表示された二つのアパートの情報を見た。
一つは、すでに慣れ親しんだもの。
もう一つは、新しいもの。
一つは、自分の家を持つ夢を初めて現実のものとして想像させてくれた場所だった。
もう一つは、予想していなかったものを表していた。
二つ目の可能性。
夢は必ずしも、最初に見つけた道を進まなければならないわけではないということ。
春人は葵へのメッセージを開いた。
春人:青いドアのアパート、気に入ったかもしれない。
少しして――
葵:本当に?
春人:本当に。
葵:よかったね。
春人:まだ何も決まってないけど。
葵:分かってるよ。
春人:評価も残ってるし。
葵:分かってる。
春人:看護体制も。
葵:分かってるってば、春人!
彼は笑った。
春人:念のためね。
少し間が空いた。
そして――
葵:そこなら、幸せに暮らせそう?
春人は窓のほうを見た。
リビングを思い出した。
本棚。
日差し。
小さなバルコニー。
青いドア。
そして微笑んだ。
春人:そう思う。
◇ ◇ ◇
その夜、空は晴れ始めた。
完全にではなかった。
雲はまだ少し残っていた。
でも、雨は過ぎ去っていた。
春人は窓のそばに座っていた。
母の手紙がパソコンの近くに置かれていた。
自分が書いた手紙も、安全に保存されていた。
アパートの計画書は開いたままだった。
未来は、まだ不確かだった。
でも――
何かが変わっていた。
もう、すべてが一つのアパートにかかっているとは感じなかった。
一つの機会。
一つの決断。
それだけではなかった。
ほかの選択肢があった。
助けてくれる人たちがいた。
尋ねられる質問があった。
自分で選べることがあった。
葵は、仕事の新しい章を歩み始めていた。
春人は、一人暮らしへ少しずつ近づいていた。
そして二人の関係は、初めて出会った頃には想像もしなかったものになりつつあった。
完璧ではない。
単純でもない。
恐怖がなくなったわけでもない。
でも――
本物だった。
そして今は、それで十分なのかもしれなかった。
春人は小さな木製のお城を見た。
左の塔にはトゲトゲ卿四世。
右の塔にはプリンセス・プリクルズ。
春人は微笑んだ。
「……ねえ」
サボテンたちは何も答えなかった。
当然だった。
春人は続けた。
「少し、分かってきた気がするんだ」
沈黙。
彼は窓のほうを見た。
「家って、最初にドアを開いてくれた場所とは限らないんだね」
少し間を置いた。
「時には、探し続けてもいいんだって分かってから、ようやく見つかる場所なのかもしれない」
窓の外では、夕暮れの最後の光が雲を金色に染めていた。
そして、どこか遠くで――
書類の山の向こうで。
不安の向こうで。
昨日の思い出と明日の夢の向こうで――
青いドアが待っていた。
すべてが簡単になるという約束としてではなく。
一つの可能性として。
新しい始まりとして。
いつか春人が目を覚まし、こう思えるかもしれない場所として。
ここが僕の家だ。
これが僕の人生だ。
そして、僕が自分で選んだんだ。




