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第59話 晴れない空の下で交わした約束

その朝は、一本の電話から始まった。

普通なら、特に珍しいことではない。

しかし、残念ながら――

高橋春人は最近、電話というものに対して複雑な感情を抱くようになっていた。

良い知らせを運んでくる電話もある。

書類の話を運んでくる電話もある。

さらに大量の書類を運んでくる電話もある。

そして、中には――

人類が電話というものを発明しなければよかったと、本気で思わせるものまであった。

午前八時四十三分ちょうど。

春人のスマートフォンが鳴った。

画面を見る。

佐藤恵美。

春人はため息をついた。

「どうか、良い知らせでありますように」

音声操作システムで電話に出た。

「おはようございます、恵美さん」

「おはようございます、春人さん」

「妙に機嫌がよさそうですね」

恵美は笑った。

「それは問題ですか?」

「経験上、機嫌のいい人は高額なサプライズを持ってくることが多いんです」

「それなら、座って聞いたほうがいいかもしれませんね」

春人は画面を見つめた。

「恵美さん」

「はい?」

「僕、車椅子に座ってますけど」

少し間が空いた。

そして――

「あっ」

春人は目を閉じた。

「素晴らしい滑り出しですね」

◇ ◇ ◇

恵美からの電話は、アパートについてだった。

最終的な改修費用の見積もりが届いたのだ。

ようやく。

何週間にもわたる現地調査。

採寸。

打ち合わせ。

追加の採寸。

そして、本棚が構造上の危険物に分類されるべきかどうかという、非常に印象深い議論。

春人は、そんなはずはないと主張した。

バリアフリー改修業者は反対した。

強く。

しかし、ついに金額が出たのだ。

残念ながら――

その数字は、あまり友好的ではなかった。

春人は恵美から送られてきた書類を開いた。

合計金額を読む。

止まる。

もう一度読む。

そして――

「……すみません?」

恵美はため息をついた。

「お気持ちは分かります」

「これ、改修費用の見積もりですよね?」

「はい」

「建物全体の購入価格じゃなくて?」

「残念ながら違います」

春人は画面を見つめた。

電気設備の改修費用は、予想以上に高かった。

医療機器を安全に使用するため、既存の回路に追加工事が必要だった。

いくつかの出入り口も改修しなければならない。

浴室にも、当初の想定より大規模な変更が必要だった。

そして収納スペースについては――

どうやら小規模な建築上の奇跡が必要らしい。

春人は書類をスクロールした。

「どうして棚を動かすだけで、こんなにお金がかかるんですか?」

「棚を動かすだけではないんです」

「その棚、労働組合に加入してるんですか?」

「春人さん」

「専属の弁護士でもいるんでしょうか?」

恵美は思わず笑った。

「その壁の裏に、追加の電気工事が必要なんです」

「ああ」

春人はため息をついた。

「なるほど。当然ですね」

◇ ◇ ◇

その見積もりは、絶対に不可能というほどではなかった。

しかし、予想より高かった。

かなり高かった。

しかも、もう一つ問題があった。

物件の管理会社は、二週間以内に判断してほしいと言っていた。

そうでなければ、別の入居希望者に紹介する可能性があるという。

春人は期限を見つめた。

二週間。

十四日間。

三百三十六時間。

もっと正確に計算することもできた。

だが、そうすれば余計に気が滅入るだけだろう。

「……恵美さん?」

「はい?」

「期限までに決められなかったら、どうなるんでしょう?」

「延長できないか交渉することはできます」

「断られたら?」

「ほかの物件も検討する必要があるかもしれません」

春人は窓の外を見た。

朝の日差しが住宅街を照らしていた。

人々は仕事へ向かっていた。

車が通り過ぎる。

誰かが犬を散歩させていた。

普通の日常が続いている。

一方で――

自分の未来は、電気回路と看護師の勤務表と大家の予定に左右されているらしい。

春人は唾を飲み込んだ。

「……あのアパート、本当に気に入っていたんです」

恵美の声が柔らかくなった。

「分かっています」

「初めて、実現できそうだと思えた場所だったから」

「覚えていますよ」

春人は視線を落とした。

恵美は続けた。

「ですが、安全面や費用面で無理のある契約を急いでするべきではありません」

春人はゆっくりうなずいた。

「そうですね」

「見積もりを一緒に確認して、利用できる制度がないか、あるいは物件所有者と費用について交渉できないか調べましょう」

「看護体制のほうは?」

「まだ調整中です」

春人はため息をついた。

「やっぱり」

「真由さんの技術確認の日程を調整しています。それから、二人目の候補者との面接も準備しています」

「つまり、まだ何も確定していないんですね」

「今のところは」

春人は書類を見つめた。

そして、かすかに微笑んだ。

「まあ」

恵美は続きを待った。

「少なくとも、あの棚にとっては素晴らしい一日でしょうね」

◇ ◇ ◇

街の反対側では、水野葵がメールの受信箱を見つめていた。

すでに十七回更新していた。

十七回。

数えていたので間違いない。

少し恥ずかしかった。

医療の専門職としては、特に。

「お願い……」

もう一度更新した。

何もない。

葵はうめいた。

「どうして私ってこうなの……」

専門能力開発プログラムの面接は終わっていた。

すべての質問に答えた。

正直に話した。

患者の自己決定についても、うっかり春人の名前を出さずに説明できた。

それには相当な自制心が必要だったが。

そして今――

待っていた。

待って。

待って。

待ち続けていた。

スマートフォンが震えた。

葵は危うく落としかけた。

「きゃっ!」

慌てて端末をつかんだ。

通知を開く。

そして、固まった。

件名:専門能力開発プログラム・選考結果のお知らせ

心臓が止まった。

もちろん、比喩的に。

本当に止まっていたら大変だ。

特に、自分の職業を考えると。

メールを開いた。

最初の一文を読む。

次の一文を読む。

そして――

口元に手を当てた。

「……嘘でしょ」

もう一度読んだ。

さらにもう一度。

そして――

「嘘でしょーっ!」

椅子から飛び上がった。

椅子が倒れそうになった。

そんなことはどうでもよかった。

なぜなら――

合格したのだ。

◇ ◇ ◇

春人がまだアパートの見積もりを確認していると、再び電話が鳴った。

画面を見る。

葵。

表情がすぐに柔らかくなった。

「もしもし、僕のかわいい恋人さん」

「春人ーっ!」

春人は瞬きをした。

「……はい?」

「春人ーっ!」

画面を見つめた。

「葵、何か緊急事態?」

「違う!」

「じゃあ、どうしてそんな大声なの?」

葵は笑った。

息を弾ませた、明るい笑い声だった。

「春人!」

「はい!」

「受かったの!」

沈黙。

そして――

春人の目が見開かれた。

「……受かった?」

「うん!」

「あのプログラム?」

「そう!」

「専門能力開発プログラム?」

「そうだってば、この馬鹿!」

春人は声を上げて笑った。

「葵!」

「うん!」

「すごいじゃないか!」

「うん!」

二人とも笑っていた。

もはや、品のある会話をすることなど気にしていなかった。

春人は満面の笑みを浮かべた。

「だから言ったでしょう!」

「言った!」

「君の素晴らしさは、きっと伝わるって!」

「大げさに言わないで!」

「絶対にやめない!」

葵はまた笑った。

そして――

声が柔らかくなった。

「……春人」

「うん?」

「私、本当にできたんだね」

彼の笑顔も優しくなった。

「うん」

葵は唾を飲み込んだ。

「本当に」

春人はうなずいた。

「頑張ったからだよ」

葵は目元を拭った。

「うん」

「君自身の力で勝ち取ったんだ」

葵は微笑んだ。

「……ありがとう」

しばらく――

二人とも何も言わなかった。

それから春人が咳払いした。

「さて」

葵は目を細めた。

「何?」

「これは当然、お祝いが必要だね」

葵は笑った。

「そう?」

「もちろん」

「どんなお祝い?」

春人は少し考えた。

そして――

「国際首脳会議」

葵は目を閉じた。

「……サボテンたち?」

「両陛下はすでに関心を示しているよ」

「春人!」

◇ ◇ ◇

午後の早い時間、春人には別の予定があった。

定期的な診察だった。

特に変わったことはない。

面白いこともない。

春人にとって、医療機関での診察はそれが一番だった。

大地が付き添った。

呼吸管理や日常的なケアに慣れた看護師も同行した。

診察そのものは順調だった。

医師は現在のケア内容を確認した。

医療機器の配置について話し合った。

そして、一人暮らしを始める前に、適切な訓練を受けた看護師による支援体制を確保する重要性を強調した。

春人は耳を傾けた。

質問した。

音声操作システムでメモを取った。

そして、住まいの計画に関わる専門職の人数について冗談を言いたくなるのを、必死にこらえた。

本当に、ぎりぎりだった。

診察が終わると、大地がバリアフリー対応の出口のドアを開けた。

「よし。準備はいいか?」

春人は青い電動車椅子を前に進めた。

「いいよ」

「どこか寄るか?」

「場合によるね」

「何によるんだ?」

「何か買ってくれるつもりかどうか」

大地はため息をついた。

「やっぱりな」

春人は微笑んだ。

そのとき――

声が割り込んできた。

「おい」

大地が立ち止まった。

春人は顔を上げた。

駐車場へ続く通路の近くに、一人の男が立っていた。

黒っぽい髪。

緊張した表情。

ポケットに突っ込まれた両手。

春人は、その男に会ったことがなかった。

しかし――

見覚えがあった。

葵が見せてくれた写真で。

拓海。

◇ ◇ ◇

しばらく、誰も動かなかった。

やがて拓海が近づいてきた。

「お前が春人か」

大地はすぐに春人の横へ移動した。

「何かご用ですか?」

拓海は無視した。

視線は春人に向けられたままだった。

「葵と付き合ってる男だな」

春人は胃が締めつけられるのを感じた。

しかし、声は落ち着いていた。

「拓海さんですね」

男の表情が険しくなった。

「あいつ、俺のことを話したのか」

「はい」

拓海は苦々しく笑った。

「だろうな」

大地が少し前に出た。

「ここは、そういう話をする場所ではありません」

拓海は彼をちらりと見た。

「あんたには話してない」

大地の表情が険しくなった。

叔父が何か言い返す前に、春人が口を開いた。

「それなら、僕の話を聞いたほうがいいですね」

拓海は春人を見た。

春人は視線をそらさなかった。

「葵は、あなたと連絡を取りたくないとはっきり伝えています」

拓海は鼻で笑った。

「それは俺とあいつの問題だ」

「だったら、どうして僕に話しかけているんですか?」

沈黙。

大地は春人をちらりと見た。

こんな状況でも――

もっともな質問だった。

拓海は顎に力を入れた。

「葵に近づくな」

春人は彼を見つめた。

「……嫌です」

拓海は瞬きをした。

「は?」

春人の表情は落ち着いていた。

「嫌です」

拓海は一歩近づいた。

「ふざけてるのか?」

「いいえ」

「だったら、よく聞け」

春人は遮った。

「聞いていますよ」

少し間を置いた。

「でも、葵が誰と一緒に過ごすかを、あなたが決めることはできません」

拓海の顔が赤くなった。

「お前に俺たちの何が分かる!」

春人は少し考えた。

「そのとおりです」

拓海は瞬きをした。

春人は続けた。

「過去の交際について、僕はすべてを知っているわけではありません」

「でも、葵が関係を終わらせたことは知っています」

「それから、何度も連絡をやめてほしいと伝えていることも」

拓海は拳を握った。

「あいつは自分が何を望んでるか分かってないんだよ」

春人の表情が変わった。

初めて――

声が冷たくなった。

「葵は、自分が何を望んでいるか、ちゃんと分かっています」

少し間を置いた。

「あなたが聞こうとしていないだけです」

◇ ◇ ◇

拓海は春人を見つめた。

それから、視線を車椅子へ落とした。

意地の悪い笑みが浮かんだ。

「マジかよ」

大地の体がこわばった。

拓海は続けた。

「こんな奴を選んだのか?」

春人は何も言わなかった。

「一日中患者の世話をしてるくせに、今度は患者と付き合ってるってわけか?」

大地が一歩前に出た。

「いい加減にしろ」

しかし、春人が先に口を開いた。

「興味深いですね」

拓海は眉をひそめた。

「何がだ?」

春人は首をかしげた。

「たった一文で、僕と葵の両方を侮辱できるなんて」

拓海の顔がゆがんだ。

「自分が賢いとでも思ってるのか?」

「時々は」

「お前なんか、世話してくれる人がいなきゃ何もできないだろ」

その言葉が、空気の中に残った。

大地の表情は怒りに満ちていた。

春人の看護師は車椅子の移動経路を確保しながら、医療的な状態にも注意を向けていた。

春人は拓海をまっすぐ見た。

「人の助けが必要だからといって、その人の価値が下がるわけではありません」

拓海は鼻で笑った。

春人は続けた。

「それに、葵は僕の世話をする義務があるから付き合っているわけじゃありません」

「彼女は僕の恋人です」

「僕の看護師ではありません」

少し間を置いた。

「そこには大きな違いがあります」

拓海は顎を強くかみしめた。

大地はすでにスマートフォンを取り出していた。

「警備担当を呼びます」

拓海は彼を見た。

「おいおい、何だよ」

大地の声は厳しかった。

「立ち去るように言われているでしょう」

拓海は診療所の入口を見た。

周囲の人々が、こちらを見始めていた。

看護師も、建物内の職員に知らせていた。

拓海は一歩下がった。

「これで終わりだと思うなよ」

春人の表情は変わらなかった。

「終わりにするべきです」

拓海は彼をにらんだ。

それから背を向けた。

そして、歩き去った。

◇ ◇ ◇

数秒間――

誰も何も言わなかった。

やがて大地が強く息を吐いた。

「……信じられない」

春人は通路を見つめていた。

心臓が激しく鳴っていた。

手が冷たかった。

拓海が現れるとは思っていなかった。

こんな場所で。

診察のあとに。

真昼間に。

大地が春人の横で少しかがんだ。

「春人?」

顔を上げた。

「大丈夫か?」

春人は口を開いた。

そして、閉じた。

ようやく――

「……大丈夫じゃない」

大地はうなずいた。

「そうだよな」

春人は唾を飲み込んだ。

「すごく怖かった」

大地の表情が柔らかくなった。

「ああ」

春人は入口のほうを見た。

「警備の人は、あの人がどこへ行ったか確認できた?」

「今、調べてくれてる」

看護師が何か必要なものはないか尋ね、呼吸補助機器が正常に動作していることを確認した。

春人は首を振った。

「医療的には大丈夫」

それから――

一度だけ笑った。

乾いた笑いだった。

「精神的には、返金を要求したい気分だけど」

大地はかすかに微笑んだ。

「分かるよ」

職員が出来事を記録し、関係機関に連絡している間、三人は診療所の中で待機した。

春人は自分が見聞きしたことを説明した。

大地も証言した。

看護師も目撃した内容を伝えた。

屋外の防犯カメラにやり取りが記録されているかも確認を依頼した。

まだ分からないことは多かった。

何も保証されていなかった。

それでも――

この出来事が、何もなかったことにされることはなかった。

◇ ◇ ◇

葵がその出来事を知ったのは、その日の午後だった。

春人は無事に帰宅してから電話した。

ほかの誰かから聞かされる前に、自分の口で伝えたかったのだ。

葵はすぐに出た。

「春人!」

「やあ」

彼の声を聞いて、笑顔が消えた。

「どうしたの?」

春人はためらった。

そして――

「今日、拓海が僕のところに来たんだ」

沈黙。

完全な沈黙だった。

葵は画面を見つめた。

「……え?」

春人は説明した。

診察。

駐車場へ続く通路。

対面。

大地。

警備担当。

報告。

拓海が言ったことも伝えた。

障害についての侮辱も含めて。

葵の表情が変わった。

最初は――

驚き。

次に――

恐怖。

そして最後に――

怒り。

「……何て言ったの!?」

春人は顔をしかめた。

「大地叔父さんも、だいたい同じ反応だったよ」

葵は首を振った。

「駄目」

立ち上がった。

「絶対に許せない!」

春人は静かに見ていた。

葵は続けた。

「何様のつもりなの!?」

「非常に不愉快な人物だね」

「春人!」

「できるだけ外交的に対応しようと思って」

「外交なんかしなくていい!」

春人は瞬きをした。

「……了解」

葵は顔を覆った。

そして――

肩が震え始めた。

春人の表情が柔らかくなった。

「葵?」

彼女は手を下ろした。

頬を涙が伝っていた。

「……ごめんなさい」

春人は首を振った。

「違うよ」

「私のせいで、あなたまで狙われてる」

「違う」

「春人――」

「葵」

声は優しかった。

しかし、はっきりしていた。

「彼が僕に近づいたのは、彼自身がそうすると決めたからだよ」

葵は唾を飲み込んだ。

「君の責任じゃない」

葵は涙を拭った。

「でも、あなたが危ない」

春人は少し間を置いた。

「その可能性はある」

葵は彼を見た。

春人は続けた。

「だから、真剣に対応しているんだ」

「大地叔父さんがいた」

「看護師もいた」

「警備担当も対応してくれた」

「そして、起きたことを報告した」

葵は視線を落とした。

春人はかすかに微笑んだ。

「怖くないふりをするつもりはないよ」

葵は顔を上げた。

「でも、君に自分を責めてほしくない」

しばらく――

葵は何も言わなかった。

そして、小さくつぶやいた。

「……愛してる」

春人の表情が柔らかくなった。

「僕も愛してるよ」

◇ ◇ ◇

その夜、葵のもとにもう一本の電話があった。

今度は――

警察からだった。

担当者は、これまでの相談に関連する資料を確認していると説明した。

メッセージ。

写真。

病院での出来事。

封筒。

そして今――

春人の診察先で起きた対面。

さらに、葵のアパート周辺の防犯カメラから、関連する可能性のある映像も入手していた。

その映像には、封筒が届けられたと考えられる時間帯に、誰かが葵の部屋のある階へ近づく様子が写っているようだった。

しかし――

その人物の身元は、まだ正式には確認できていなかった。

書店周辺の映像についても確認が進められていた。

葵は注意深く聞いた。

「つまり、誰が置いたのか分かったんですか?」

「まだ断定はできません」

胸が沈んだ。

担当者は続けた。

「ただ、得られた情報を照合し、今回の新しい出来事についても確認を進めています」

葵はうなずいた。

電話の相手には見えなかったけれど。

「……分かりました」

葵は、さらに身を守るための方法について尋ねた。

担当者は、新しい出来事があれば速やかに報告すること、証拠を保存すること、そして適用される法律や状況によっては法的な保護措置を検討できる可能性があることを説明した。

確約はなかった。

すぐに解決するという話でもなかった。

それでも――

事態は前に進んでいた。

通話の終わりに、担当者は拓海に再度連絡し、詳しい事情を確認する予定だと伝えた。

葵は電話が終わったあと、しばらくスマートフォンを見つめていた。

初めて――

証拠が少しずつ、一つの全体像を形作り始めているように感じた。

でも、恐怖は消えていなかった。

まだ。

◇ ◇ ◇

翌日の午後、春人にはもう一つ予想外の出来事があった。

一通の手紙だった。

拓海からではない。

病院からでもない。

アパートの管理会社からでもない。

それは、過去から届いたものだった。

由紀が物置にある古い荷物を整理していた。

何年も開けていない箱。

写真。

昔の学校のプリント。

本。

誕生日のカード。

そして――

表に春人の名前が書かれた、小さな封筒。

すぐに分かる筆跡だった。

母の字だった。

高橋美咲。

春人は封筒を見つめた。

数秒間――

言葉が出なかった。

由紀が横に立っていた。

「お母さんの箱の中にあったの」

春人は顔を上げた。

「……いつ書いたの?」

「分からないわ」

由紀は悲しげに微笑んだ。

「でも、いつかあなたに渡したかったんだと思う」

春人は視線を落とした。

母の筆跡。

覚えていた。

文字の形。

少し不ぞろいな間隔。

自分の名前の最後につけられた、小さな飾りのような線。

もう長い間、見ていなかった。

「……開けてくれる?」

由紀はうなずいた。

「もちろん」

慎重に封筒を開いた。

中には折りたたまれた便箋が入っていた。

由紀はそれを広げた。

そして、春人が読みやすい位置に置いた。

春人は最初の一行を見た。

喉が締めつけられた。

大切な春人へ。

◇ ◇ ◇

手紙は、それほど長くなかった。

それがかえってつらかった。

美咲は、何気ないことを書いていた。

春人の笑い声がどれほど好きだったか。

彼の好奇心をどれほど誇りに思っていたか。

大人が答えに困るような質問を、いつも投げかけていたこと。

頑固さについても冗談を書いていた。

本のこと。

どんな本棚にも、あと一冊は入ると証明しようとする、その妙な執念についても。

春人は、涙を浮かべながら微笑んだ。

そして、最後の段落にたどり着いた。

あなたの未来がどんなものになるのか、私には正確には分かりません。

どこに住むのか、どんな仕事を選ぶのか、誰を好きになるのかも分かりません。

でも、人の助けが必要だからといって、自分自身の人生を持てないと思わないでほしい。

あなたの話を聞いてくれる人たちに出会ってほしい。

あなたの選択を尊重してくれる人たちに。

車椅子より先に、あなた自身を見てくれる人たちに。

そして何より、これからも未来の計画を立て続けてほしい。

たとえ難しくても。

世界が不可能だと言っても。

春人、あなたの人生はあなた自身のものです。

そして、あなたのお母さんでいられることを、私は心から誇りに思っています。

愛を込めて。お母さんより。

春人は便箋を見つめた。

文字がにじんだ。

瞬きをした。

それでも、はっきり見えなかった。

「……お母さん」

声が震えた。

由紀は隣にいた。

静かに。

何も急かさずに。

春人はもう一度読んだ。

そして――

また読んだ。

何度も読めば、母の声が戻ってくるかもしれないとでもいうように。

ようやく、つぶやいた。

「……知ってたんだ」

由紀は彼を見た。

「何を?」

春人は唾を飲み込んだ。

「僕がいつか一人暮らしをしたいって思ってたこと」

由紀は悲しげに微笑んだ。

「もちろんよ」

春人は顔を上げた。

「本当に?」

由紀はうなずいた。

「よく話していたもの」

春人は瞬きをした。

「僕が家を出ることを?」

「あなたが大人になることを」

由紀は小さく笑った。

「きっとアパートを本でいっぱいにして、家具を置く場所がなくなるだろうって言ってたわ」

春人は涙声で笑った。

「……かなり正確な予測だね」

由紀は微笑んだ。

「もちろん、心配もしていたわ」

「母親なら誰だってそうよ」

「でも、恐怖だけであなたの未来が決まってしまうことは、望んでいなかった」

春人は手紙を見つめた。

涙が落ちた。

そして今度は――

隠そうとしなかった。

◇ ◇ ◇

その夜、葵が遊びに来た。

訪問は事前に予定されており、春人の通常の看護体制も整えられ、最近の出来事を踏まえた安全対策も取られていた。

葵は小さなケーキを持っていた。

そして、満面の笑みを浮かべていた。

「合格した私、おめでとう!」

春人は顔を上げた。

「素晴らしい第一声だね」

葵は笑った。

「デザートを持ってきたよ」

「それなら、君の合格はすでに社会に貢献しているね」

葵は目を回した。

「本当にどうしようもない人」

「よく言われるよ」

由紀が彼女を迎え入れた。

大地もキッチンから現れた。

「葵ちゃん、おめでとう!」

「ありがとうございます!」

彼はケーキを見た。

「チョコレートか?」

葵はうなずいた。

「はい」

大地は微笑んだ。

「素晴らしい」

由紀はため息をついた。

「まったく、あなたたちは」

春人は眉を上げた。

「どの二人?」

「全員よ」

「なるほど」

◇ ◇ ◇

夕食は温かかった。

心地よかった。

ほとんど、いつもどおりだった。

葵の研修について話した。

日程。

追加の課題。

実習。

そして、週によってはかなり忙しくなる可能性について。

春人は真剣に聞いていた。

「何時間くらい?」

葵が説明した。

彼はうなずいた。

「通常の勤務も続けるの?」

「うん。でも、勤務表は調整してもらえるかもしれない」

春人は少し考えた。

「大変そうだね」

葵は微笑んだ。

「たぶんね」

「楽しみ?」

「すごく」

春人は微笑んだ。

「だったら、僕も楽しみだよ」

葵は彼を見た。

「一緒に過ごす時間が減っても?」

春人は瞬きをした。

「もちろん」

葵はためらった。

「寂しい思いをさせたくないの」

春人の表情が柔らかくなった。

「葵」

「何?」

「君には、自分が好きだと思える仕事をしてほしいんだ」

葵は視線を落とした。

春人は続けた。

「それに、君の人生のすべてが僕を中心に回るべきだなんて思ってないよ」

葵はかすかに微笑んだ。

「……分かってる」

春人は首をかしげた。

「それに、僕には統治すべき王国があるからね」

葵は吹き出した。

「またサボテン!?」

「国際的な責任というものは重いんだよ」

大地は危うく飲み物を吹き出しかけた。

◇ ◇ ◇

夕食のあと、由紀と大地は二人がゆっくり話せるよう、リビングを離れた。

春人の看護師は必要なときに対応できるよう、近くにいた。

葵は春人の隣に座った。

夕暮れの光が柔らかくなっていた。

窓の外には雲が広がっていた。

雨が降りそうだった。

しばらく――

二人はただ話していた。

本のこと。

仕事のこと。

アパートのこと。

そして、やがて――

手紙のこと。

春人は母が書いた便箋を葵に見せた。

葵はゆっくり読んだ。

一文字ずつ、大切に。

読み終えたとき、目が潤んでいた。

「……春人」

彼はかすかに微笑んだ。

「うん?」

「お母さん、素敵な人だったんだね」

春人は視線を落とした。

「うん」

葵はもう一度手紙を見た。

「あなたのこと、本当に信じていたんだね」

春人はうなずいた。

「そうだと思う」

葵は優しく首を振った。

「違うよ」

彼を見た。

「信じていたんだよ」

数秒間――

春人は何も言わなかった。

それから微笑んだ。

「……ありがとう」

葵は彼の手に触れようとし、春人が小さく同意を示すのを待ってから、そっと握った。

二人は静かに座っていた。

そのとき――

葵が口を開いた。

「春人?」

「うん?」

「結婚って、考えたことある?」

春人は固まった。

完全に。

葵は瞬きをした。

そして――

「待って!」

慌てて背筋を伸ばした。

「今すぐって意味じゃないから!」

春人は彼女を見つめた。

「……ああ」

「プロポーズしてるわけじゃないよ!」

「了解」

「ただ聞いてみただけ!」

「非常に興味深い質問だね」

葵は顔を覆った。

「もう、最悪……」

春人は笑い始めた。

葵はうめいた。

「笑わないで!」

「努力してる!」

「してない!」

「そのとおり!」

◇ ◇ ◇

やがて葵は、なんとか落ち着きを取り戻した。

だいたいは。

両手を重ねた。

「つまりね……」

春人は微笑んだ。

「うん?」

「想像したこと、ある?」

春人は少し考えた。

そして――

「あるよ」

葵は彼を見た。

「本当に?」

「もちろん」

春人は窓のほうを見た。

「いろんなことを想像してきたから」

「自分のアパートを持つこと」

「本を書くこと」

「家族の家を出て、自分の生活を築くこと」

少し間を置いた。

「そして、いつか誰かとその生活を分かち合うことも」

葵の表情が柔らかくなった。

「……そっか」

春人は彼女を見た。

「葵は?」

彼女はかすかに微笑んだ。

「昔は、結婚って自分の一部を諦めることだと思ってた」

春人は耳を傾けた。

葵は続けた。

「拓海と付き合っていた頃は、何もかも彼の望むとおりになっていったの」

「どこへ行くか」

「誰と話すか」

「何を着るか」

「どうやって時間を使うか」

視線を落とした。

「恋人がいるってことは、自分を小さくすることなんだって思い始めてた」

春人は静かにしていた。

そして――

「今は?」

葵は彼を見た。

微笑んだ。

「今は、自分が成長することを喜んでくれる人と一緒にいることなのかもしれないって、思えるようになった」

春人の表情が柔らかくなった。

「僕も、そういう関係がいい」

葵はうなずいた。

「私も」

◇ ◇ ◇

二人は長い時間、話し続けた。

ウェディングドレスについてではなかった。

結婚式についてでもなかった。

指輪についてでもなかった。

まだ、その段階ではなかった。

代わりに――

結婚が実際には何を意味するのかについて話した。

一緒に決めること。

一人の時間。

お金。

仕事。

責任。

意見の食い違い。

そして、関係の中で自分自身を失わないことの大切さ。

やがて、春人が口を開いた。

「一つ、はっきりさせておきたいことがあるんだ」

葵は彼を見た。

「何?」

「僕の医療的なケアについて」

葵はうなずいた。

春人は続けた。

「もし将来結婚しても、妻が僕の看護体制のすべてを担うような形にはしたくない」

葵は優しく微笑んだ。

「私も、そういう形にはしたくない」

春人は安心したようだった。

「専門のスタッフは必要だし」

「夜間の看護体制も」

「代わりに入れる人の確保も」

「機器も」

「緊急時の対応計画も」

葵はうなずいた。

「そういうものは、きちんと整えるべきだよね」

「そのとおり」

葵は彼を見た。

「私は、あなたのパートナーでいたい」

春人は微笑んだ。

「僕の従業員じゃなくてね」

葵は笑った。

「絶対に従業員にはならないから」

「よかった」

少し間を置いた。

「僕の管理能力はひどいって評判だからね」

葵はにやりとした。

「面接の質問が二十七問?」

「最低でもね」

葵は声を上げて笑った。

◇ ◇ ◇

やがて、会話は静かになった。

もっと真剣なものになった。

葵は春人を見た。

「結婚って、複雑すぎるんじゃないかって不安になることはある?」

春人は少し考えた。

「あるよ」

葵はうなずいた。

「私も」

春人は続けた。

「でも、自分にはその資格がないと思ってるからじゃない」

葵は顔を上げた。

「現実的に考えなきゃいけないことがあるからだよ」

「お金」

「保険」

「住む場所」

「ケアサービス」

少し間を置いた。

「それから、二人とも本当に準備ができているかどうか」

葵は微笑んだ。

「たくさんあるね」

「うん」

葵は窓のほうを見た。

雨が、静かにガラスを叩き始めていた。

春人は続けた。

「でも、複雑だからって、不可能とは限らないと思う」

葵は彼を見た。

春人は微笑んだ。

「僕は人生のほとんどを、複雑なことと付き合って過ごしてきたから」

「医療機器」

「ケアの予定」

「バリアフリー」

「保険」

少し間を置いた。

「いつか、素晴らしいことだからこそ複雑なんだって思えるものを、手に入れてみたい」

葵は彼を見つめた。

そして――

目に涙が浮かんだ。

「……ずるい」

春人は瞬きをした。

「何が?」

「そんな素敵なこと、何の前触れもなく言わないでよ!」

春人は笑った。

「失礼しました」

葵は涙を拭った。

「馬鹿」

「ロマンチックな馬鹿だよ」

葵は微笑んだ。

「……うん」

そして、少し身を寄せた。

春人にキスをした。

優しく。

急がずに。

恐れることなく。

その瞬間――

聞こえるのは、雨の音だけだった。

◇ ◇ ◇

その夜、葵が無事に帰宅したあと、春人は一人で考え事をしていた。

看護師は夜のケアを進めていた。

家の中は静かだった。

小さなお城は棚の上に堂々と立っていた。

そして、母の手紙はパソコンの横に置かれていた。

春人はもう一度それを見た。

あなたの人生はあなた自身のものです。

微笑んだ。

「……頑張ってるよ、お母さん」

アパートの見積もりを見た。

数字は相変わらず重かった。

期限も迫っていた。

看護体制も、まだ完成していなかった。

拓海のことも、まだ心配だった。

何も魔法のように簡単にはなっていなかった。

でも――

葵は研修プログラムに合格した。

警察は嫌がらせについて確認を進めていた。

家族は支えてくれていた。

そして母の手紙を見つけた。

自分自身がまだ未来の形を知らなかった頃から、母はその未来を信じてくれていたのだ。

春人は日記を開いた。

そして、書き始めた。

今日、希望は必ずしも良い知らせとして届くわけではないと知った。

時には、まだ解決していない問題の形で届く。

時には、何年も前に書かれた手紙として届く。

時には、結婚を想像したことがあるかと尋ねてくれる人の言葉として届く。

少し間を置いた。

そして微笑んだ。

そして時には、非常に要求の多い二つのサボテンが暮らす、小さな木製のお城として届く。

◇ ◇ ◇

街の反対側では――

拓海が警察の取調室に座っていた。

室内は静かだった。

不快なほど静かだった。

向かいには担当者が座っていた。

テーブルの上にはファイルが置かれていた。

中にはメッセージの写しがあった。

写真。

供述。

そして、報告された出来事の記録。

拓海はいら立っていた。

「もう話したでしょう」

担当者は落ち着いていた。

「いくつか確認する必要があります」

拓海は背もたれに寄りかかった。

「馬鹿馬鹿しい」

担当者はファイルを開いた。

「まず、写真について確認します」

拓海の表情が変わった。

「写真?」

担当者は書店の写真の写しをテーブルに置いた。

拓海は見つめた。

しばらく――

何も言わなかった。

そして――

「そんなの、誰だって撮れるでしょう」

担当者はうなずいた。

「その可能性も含めて確認しています」

別の書類が出された。

春人の診察先で起きた出来事の記録だった。

拓海は顎に力を入れた。

担当者は続けた。

「高橋さんへの接触についても、複数の方から話を伺っています」

拓海は鼻で笑った。

「ただ話がしたかっただけですよ」

「複数の目撃者は、異なる状況を説明しています」

拓海は視線をそらした。

担当者は声を荒らげなかった。

脅すこともしなかった。

まだ決まっていない結論を告げることもなかった。

ただ、質問を続けた。

慎重に。

順序立てて。

答えを証拠と照らし合わせながら。

拓海は何週間も、葵の話など誰も真剣に受け止めないと思い込んでいた。

しかし今――

彼は、葵の話を真剣に受け止めている人々の前に座っていた。

そして初めて――

怒りの中に、別の感情が混じり始めた。

不安だった。

◇ ◇ ◇

翌朝、葵に新しい連絡が入った。

確認は続いていた。

追加の供述も調べられていた。

映像だけでは、まだすべての事実を確認できていなかった。

最終的な法的判断も出ていなかった。

しかし、報告された行為について、さらに対応が必要かどうか検討されているという。

葵は耳を傾けた。

質問した。

メモを取った。

そして、担当者に礼を言った。

通話が終わると、しばらく静かに座っていた。

それから、メッセージを開いた。

葵:おはよう。

春人:おはよう、未来の看護教育界のスター。

葵:もう絶対、その呼び方やめないつもりでしょ?

春人:もちろん。

葵:警察から電話があった。まだ調べてるって。

春人:教えてくれてありがとう。今、どんな気持ち?

葵:緊張してる。でも、少し安心もしてる。

春人:それは自然なことだと思うよ。

少し間が空いた。

そして――

葵:昨日の夜に話したこと、ずっと考えてたの。

春人は微笑んだ。

春人:サボテン王国の国際条約?

葵:結婚の話よ、この馬鹿!

春人は笑った。

春人:ああ。あの些細な話題ね。

葵:本当にどうしようもない人。

春人:よく言われるよ。

また少し間が空いた。

そして――

葵:でも、話せてよかった。

春人の表情が柔らかくなった。

春人:僕も。

葵:今すぐ全部決めなくてもいいんだよね。

春人:うん。決めなくていい。

葵:でも、あなたとの未来を、これからも想像していたい。

春人はそのメッセージを見つめた。

そして微笑んだ。

温かな笑顔だった。

心からの笑顔だった。

春人:僕も、そうしたい。

◇ ◇ ◇

窓の外では、雲が少しずつ切れ始めていた。

完全に晴れたわけではない。

空はまだ灰色だった。

遠くには雨雲も残っていた。

それでも、日差しが差し込み始めていた。

春人は窓のほうを見た。

母の手紙が隣に置かれていた。

パソコンには、アパートの計画書が開かれたままだった。

未来は、まだ不確かだった。

葵の新しい研修には、さまざまな困難があるだろう。

アパートについても、難しい決断が必要になる。

看護体制を整えるには、さらに努力が必要だった。

そして、拓海の問題もまだ終わっていなかった。

これからも、話し合いが必要になる。

書類も増えるだろう。

つらい日もあるだろう。

もしかしたら、さらに怖い思いをすることもあるかもしれない。

でも、ほかのこともあるはずだった。

小さなお祝い。

思いがけない笑い。

静かな夜。

分かち合う夢。

そして、まだ答えを出す準備ができていない質問。

住まいについて。

仕事について。

家族について。

結婚について。

二人が、どんな人生を築いていきたいのかについて。

春人は母の写真を見た。

それから、葵から届いたメッセージを見た。

そして、つぶやいた。

「……諦めないよ」

未来とは、ただ待っていれば訪れるものではないからだ。

自分自身で、少しずつ作っていくものだった。

一つの決断を重ねながら。

一つの難しい会話を乗り越えながら。

一つずつ、慎重に道を選びながら。

そして、雲の向こうには――

恐怖の向こうには――

不安の向こうには――

まだ、彼を待っている人生があった。

彼自身の人生。

誰かと分かち合いたいと思える人生。

そして、長い間感じられなかったほど――

その未来が、少しだけ近づいたように思えた。

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