第58話 ようやく見つけた安らぎを奪った一枚の写真
その朝、高橋春人が最初に耳にしたのは、悲鳴だった。
恐怖に満ちた悲鳴ではない。
誰かが危険な目に遭っていることを知らせる声でもない。
違う。
それよりも、はるかに恐ろしいものだった。
由紀叔母さんが、春人の新しいネット通販の購入品を発見したのだ。
「春人!」
春人は目を閉じた。
ああ。
ついに始まってしまった。
「何、由紀叔母さん?」
「どうしてリビングに小さなお城があるの!?」
春人は答えを考えた。
慎重に。
戦略的に。
まるで国際法廷で自分を弁護しようとしている男のように。
「……外交上の必要性だよ」
沈黙。
そして――
「はあ!?」
春人はため息をついた。
どうやら、外交は失敗したらしい。
またしても。
◇ ◇ ◇
その小さな城は、高さ約三十センチだった。
塗装された木製である。
二つの塔があった。
跳ね橋もあった。
そして――
何より重要なのは――
二つの小さなサボテンの置物にぴったりな王宮の中庭があったことだ。
トゲトゲ卿四世。
そして、プリンセス・プリクルズ。
残念ながら、由紀叔母さんはその建築的重要性を理解していなかった。
彼女はダイニングテーブルの横に立ち、城を見つめていた。
「春人」
「はい」
「どうして?」
「難しい質問だね」
「全然難しくないわ」
「実はね、陛下が住環境の改善を要求していたんだ」
由紀は春人を見つめた。
「陛下?」
「トゲトゲ卿四世だよ」
「サボテンでしょう!」
「非常に高貴なサボテンだよ」
由紀は額に指を当てた。
「大地さんに、私のせいだって言われるわ」
春人は微笑んだ。
「だったら、黙っておこう」
そのとき、ドアのほうから――
大地が咳払いした。
「もう遅いぞ」
春人は固まった。
由紀が振り向いた。
大地は城を見た。
それから春人を見た。
そして、もう一度城を見た。
「……もう何も聞かない」
春人はうなずいた。
「賢明な判断だね」
◇ ◇ ◇
残念ながら――
朝の娯楽は長く続かなかった。
朝食のあと、春人のもとに葵からメッセージが届いたからだ。
葵:おはよう。
春人:おはよう。
葵:よく眠れた?
春人:比較的ね。
葵:比較的?
春人:王宮建設計画をめぐって、家庭内に多少の混乱が生じたんだ。
葵:何を買ったの!?
春人は微笑んだ。
しかし――
次のメッセージが届いた。
葵:春人、話さなきゃいけないことがあるの。
笑顔が消えた。
春人:何があったの?
少し間が空いた。
いつもより長い沈黙だった。
そして――
葵:拓海から、また連絡が来た。
春人は画面を見つめた。
胃が締めつけられた。
春人:今は安全な場所にいる?
葵:うん。家にいる。
春人:何て言われたの?
また少し間が空いた。
そして、一枚の写真が届いた。
春人はそれを開いた。
そして、凍りついた。
そこに写っていたのは、自分だった。
自宅近くの小さな書店の前にいる春人。
道路の向こう側から撮影されていた。
その日のことは覚えていた。
大地が付き添ってくれていた。
看護師も近くにいた。
通院のあと、書店に立ち寄ったのだ。
ごく普通の午後だった。
何も変わったことはなかった。
恐ろしいこともなかった。
今、この写真を見るまでは。
写真の下には、メッセージが添えられていた。
お前がいないときは、ずいぶん気楽そうにしてるじゃないか。
春人は画面を見つめた。
さらに、別のスクリーンショットが届いた。
お前があいつの人生にどれだけ迷惑をかけているか、本人は知ってるのか?
数秒間――
春人は何も言わなかった。
車椅子のアームレストに置いた指が、動かなくなった。
そして、文字を入力した。
春人:全部保存してある?
葵:うん。
春人:警察に連絡して、前の相談記録に追加してもらって。
葵:そうする。
春人は、もう一度写真を見た。
誰かが自分を見張っていた。
そして、自分はそれに気づかなかった。
◇ ◇ ◇
葵はキッチンのテーブルに座っていた。
スマートフォンの横には、食べかけの朝食が置かれていた。
ほとんど食べていなかった。
写真が届いたのは、午前七時二十三分。
また別の知らない番号からだった。
拓海特有の言い回しだと、すぐに分かった。
非難する言葉。
遠回しに責任を押しつける言葉。
まるで、彼自身が選んで行ったことまで、すべて葵のせいであるかのような言い方。
しかし、今回は――
春人まで巻き込まれていた。
名前を出しただけではない。
侮辱しただけでもない。
写真を撮ったのだ。
許可もなく。
本人に気づかれないように。
葵は両手を握り合わせた。
「……どうして、やめてくれないの?」
答えなど期待していなかった。
まして、拓海本人に尋ねるつもりもなかった。
代わりに、証拠を保存しているフォルダーを開いた。
スクリーンショット。
日時。
電話番号。
病院での出来事をまとめた記録。
そして今――
春人の写真。
新しいメッセージを保存した。
それから、相談を受け付けている警察署に連絡した。
◇ ◇ ◇
春人の家では、大地が写真を確認していた。
表情は険しかった。
「角の書店だな」
春人はうなずいた。
「うん」
「先週の木曜日か?」
「たぶんね」
大地は春人を見た。
「つまり、誰かが俺たちを見張っていたってことか」
春人はすぐには答えなかった。
写真を見つめていた。
あの日、何か不審なことに気づかなかっただろうか。
駐車していた車。
近くに立っていた人。
スマートフォンを構えていた誰か。
何も思い出せなかった。
それが、何より不気味だった。
気づかなかったのだ。
「……春人?」
春人は顔を上げた。
大地の表情が柔らかくなった。
「大丈夫か?」
春人は少し考えた。
「正直、あまり大丈夫じゃない」
大地はうなずいた。
「そうだよな」
由紀は二人の横に立っていた。
写真を見てから、珍しく静かだった。
やがて、口を開いた。
「恵美さんにも知らせましょう」
春人はうなずいた。
「看護事業所にもね」
大地が付け加えた。
「書店にも連絡して、あの日の防犯カメラの映像が残っていないか聞いてみる」
春人は彼を見た。
「誰かに直接詰め寄ったりしないでね」
大地は瞬きをした。
「何だって?」
「怒っているのは分かるよ」
大地は腕を組んだ。
「当たり前だろ」
「僕だって怒ってる」
春人は少し間を置いた。
「でも、無茶な対決騒ぎにはしたくないんだ」
大地は黙った。
春人は続けた。
「葵はもう警察に相談している」
「今回のことも、きちんと記録してもらう」
写真を見た。
「正しい手順で対応したいんだ」
大地は息を吐いた。
そして、うなずいた。
「そうだな」
由紀は安心したような顔をした。
春人はかすかに微笑んだ。
「それに、大地叔父さん」
「何だ?」
「叔父さんはポーカーフェイスが壊滅的に下手だから」
大地は春人を見つめた。
「それが何の関係あるんだ?」
「すべてに関係しているよ」
由紀は思わず笑った。
大地はうめいた。
◇ ◇ ◇
その日の午前遅く、葵は病院に到着した。
今日は大切な日だった。
とても大切な日。
なぜなら――
専門能力開発プログラムの面接が、午前十一時に予定されていたからだ。
何日も準備してきた。
研修資料を読んだ。
自分の看護経験を振り返った。
理沙と練習した。
そして――
春人の非常に疑わしい模擬面接の質問にも耐えた。
それなのに今――
頭の中は拓海のことでいっぱいだった。
葵は会議室の前に立ち、書類の入ったフォルダーを抱えていた。
手のひらには汗がにじんでいた。
心臓が速く鳴っていた。
集中できるのか、不安になってきた。
「葵?」
振り向いた。
理沙が立っていた。
「早いわね」
葵はうなずいた。
「じっとしていられなくて」
理沙はフォルダーを見た。
「準備はできた?」
葵はためらった。
「……分かりません」
理沙は優しく微笑んだ。
「緊張するのは普通よ」
「でも、理由が違うんです」
理沙の表情が柔らかくなった。
葵は視線を落とした。
「またメッセージが来たんです」
理沙は真剣になった。
「どんな?」
葵は説明した。
写真。
書店。
春人。
理沙は最後まで黙って聞いた。
葵が話し終えると、ため息をついた。
「警察には伝えた?」
「はい」
「よかった」
葵はフォルダーを強く抱きしめた。
「……怖いんです、理沙さん」
「分かってる」
「このまま続いたら、どうしよう」
理沙は簡単な答えを返さなかった。
代わりに、こう言った。
「そのときも、きちんと対応していくのよ」
葵は顔を上げた。
「あなたには、助けてくれる人がいる」
「警察も」
「病院の警備担当も」
「友達も」
「そして、春人君も」
葵は唾を飲み込んだ。
理沙は微笑んだ。
「でも、今はもう一つ大切なことがあるでしょう?」
葵は瞬きをした。
「何ですか?」
「面接よ」
葵は会議室を見た。
理沙は続けた。
「あなたは、このために頑張ってきた」
「拓海に、あの扉をくぐるかどうか決める権利なんてないわ」
数秒間――
葵は何も言わなかった。
そして、息を吸った。
うなずいた。
「……そうですね」
◇ ◇ ◇
午前十一時ちょうど。
葵は会議室に入った。
長いテーブルの向こうには、三人の面接官が座っていた。
看護教育の責任者。
臨床研修のコーディネーター。
そして、病院の患者支援部門の担当者。
葵は丁寧に頭を下げた。
「本日はよろしくお願いいたします」
看護教育の責任者が微笑んだ。
「どうぞ、おかけください」
葵は座った。
フォルダーを膝の上に置いた。
そして、呼吸の仕方を思い出そうとした。
残念ながら――
体が忘れてしまったらしい。
「複雑な医療的ケアと退院後の生活支援に関する専門能力開発プログラムへの応募ですね」
「はい」
「志望理由を教えていただけますか?」
葵は口を開いた。
しかし、止まった。
恐ろしい一秒間――
頭の中が真っ白になった。
完全に真っ白だった。
考えも。
言葉も。
何も出てこない。
そのとき――
春人を思い出した。
青い車椅子に座っている春人。
パソコンの画面越しに、まっすぐ自分を見ていた春人。
君には、この研修を受けたいと思う、ちゃんとした理由がある。
葵はゆっくり息を吸った。
そして、話し始めた。
「私は、患者さんが自分で選んだ人生を送れるよう支えられる看護師になりたいと考えています」
面接官たちは耳を傾けた。
葵は続けた。
「病院では、どうしても目の前の医療的な必要性に集中することが多くなります」
「治療」
「回復」
「状態の安定」
少し間を置いた。
「ですが、いずれ多くの患者さんは、病院の時間割を中心としない生活に戻っていきます」
看護教育の責任者がうなずいた。
葵は続けた。
「自宅で高度な医療的支援を必要とする方もいます」
「バリアフリー住宅が必要な方もいます」
「複数の支援サービスを調整しなければならない方もいます」
「そして、自立とは必ずしもすべてを一人で行うことではないと理解してくれる専門職を必要としている方もいます」
葵は顔を上げた。
「私は、患者さん自身の目標を尊重しながら、安全に生活へ移行できるよう支える方法を学びたいんです」
しばらく――
部屋は静かだった。
そして、責任者が微笑んだ。
「よく考えられたお答えですね」
葵は肩の力が少し抜けるのを感じた。
もしかしたら――
できるかもしれない。
◇ ◇ ◇
面接は続いた。
患者教育。
コミュニケーション。
多職種連携。
倫理的な意思決定。
そして、患者本人の希望と家族の希望が異なる場合、どう対応するか。
葵は慎重に答えた。
自分の看護経験をもとに説明した。
まだ学ぶ必要がある分野についても、正直に認めた。
決めつける前に話を聞くことの大切さについて語った。
やがて、臨床研修のコーディネーターが尋ねた。
「複雑な医療的ケアを必要とする患者さんを支援するうえで、最も難しいことは何だと思いますか?」
葵は少し考えた。
そして、答えた。
「医療上の安全と、本人の自己決定は、必ずしも対立するものではないと忘れないことだと思います」
担当者は眉を上げた。
「詳しく説明していただけますか?」
葵はうなずいた。
「はい」
両手を重ねた。
「医療従事者には、防げる危険を防ぐ責任があります」
「ですが同時に、患者さんを一人の人間として尊重する責任もあります」
少し間を置いた。
「危険をなくすことだけに集中すると、その人にとって大切な選択肢まで、意図せず奪ってしまうことがあります」
面接官たちは耳を傾けた。
葵は続けた。
「良いケアには、率直な対話が必要だと思います」
「リスクを説明すること」
「本人にとって何が大切なのか理解すること」
「そして、安全で現実的な方法を一緒に探すこと」
責任者は微笑んだ。
「とてもいいですね」
葵は息を吐いた。
そして、その朝初めて――
恐怖以外の感情を覚えた。
誇らしさだった。
◇ ◇ ◇
一方――
拓海は、まったく違う一日を過ごしていた。
彼はアパートに座り、スマートフォンを見つめていた。
返信はない。
またしても。
葵はメッセージに答えなかった。
最初のメッセージにも。
春人について書いたものにも。
写真を送ったあとでさえ。
拓海は顎に力を入れた。
「……信じられねえ」
彼の頭の中では、状況は単純だった。
葵が意地を張っている。
春人が邪魔をしている。
そして、周囲の人間が、ごく普通の意見の食い違いを大げさな問題にしている。
彼は自分にそう言い聞かせていた。
何度も。
なぜなら、別の可能性――
葵がすでに関係を終わらせ、自分とはもう関わりたくないと思っているという事実――
それを認めることだけは、拒んでいたからだ。
電話が鳴った。
知らない番号だった。
拓海は眉をひそめた。
そして、応答した。
「もしもし?」
「拓海さんでいらっしゃいますか?」
「誰ですか?」
相手は警察官だと名乗った。
拓海は姿勢を正した。
警察官は、繰り返される望まれない接触についての相談を受け、確認のため連絡したと説明した。
拓海の表情が変わった。
「は?」
警察官は、事情の確認に協力してもらえるか尋ねた。
拓海は苦々しく笑った。
「馬鹿馬鹿しい」
警察官は落ち着いて説明を続けた。
拓海は遮った。
「俺たち、付き合ってたんですよ」
少し間が空いた。
「だからって、何でも俺のせいにしていいわけじゃないでしょう」
警察官は、今回の相談は交際関係が終了したあとの行為に関するものであり、事情を確認していく必要があると説明した。
拓海の顔が赤くなった。
「じゃあ、話しかけることすら許されないんですか?」
警察官は、その言い分をそのまま受け入れなかった。
今回の件について確認が進められている間、望まれていない連絡や接近を続けるべきではないこと、今後の行為によっては法的な問題が生じる可能性があることを説明した。
拓海はスマートフォンを強く握った。
「ふざけてる」
警察官は質問を続けた。
拓海はいくつかに答えた。
ほかの質問は避けた。
そして、ますますいら立っていった。
やがて、通話が終わった。
彼は画面を見つめた。
そして――
スマートフォンをソファに投げつけた。
「……本当に警察に行きやがった」
数秒間――
動かなかった。
やがて、視線が春人の写真へ向かった。
表情が険しくなった。
「そういうことかよ」
写真を手に取った。
「あいつが葵を俺から引き離してるんだ」
そう信じるほうが簡単だった。
真実を受け入れるよりも。
葵は自分自身で決断した。
そして、その決断の中に――
拓海はいなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、春人に恵美からメールが届いた。
彼はすぐに開いた。
件名:夜間看護師候補者についてのご報告
春人は慎重に読んだ。
藤沢真由について、照会先からの初期的な評価は良好だった。
職務経験も、春人の必要とするケアに関連しているようだった。
しかし、必要な臨床技術の確認はまだ完了していなかった。
夜勤に入れる日数も限られていた。
そして、二人目の候補者――
夜勤経験の豊富な看護師が――
今週後半に顔合わせの時間を取れるかもしれないという。
春人はメールを二度読んだ。
それから、恵美に電話した。
「こんにちは」
「こんにちは、春人さん」
「ご連絡ありがとうございます」
「こちらこそ」
少し間を置いた。
「つまり、真由さんはまだ候補ということですね?」
「はい。ただし、判断する前に必要な確認を終えなければなりません」
「分かりました」
「それに、すべて順調でも、彼女の勤務可能日だけでは毎晩をカバーできません」
春人はため息をついた。
「やっぱり」
恵美は小さく笑った。
「少しずつ進んでいますよ」
「分かっています」
春人はパソコンを見た。
「時々、進歩って終わりのない廊下を進むような気がします」
恵美は微笑んだ。
「書類がたくさんある廊下ですか?」
「山ほどあります」
彼女は笑った。
春人は続けた。
「二人目の候補者については?」
「提案した勤務予定を確認しているところです」
「まだ確定ではないんですね?」
「はい、まだです」
春人はうなずいた。
「分かりました」
恵美は少しためらった。
「春人さん、もう一つあります」
春人の表情が変わった。
「何でしょう?」
「由紀さんから、葵さんの元交際相手に関する状況を伺いました」
春人は静かになった。
「……はい」
「春人さんのケアに関わる事業所にも、個人情報を守ることの重要性を再確認してほしいとのことでした」
春人はうなずいた。
「もっともだと思います」
「ケアチームとの連絡手順を見直すことができます」
「お願いします」
少し間を置いた。
「葵のことが噂になるのは嫌なんです」
「もちろんです」
「それに、僕の予定を、情報を知る権限のない人に伝えてほしくありません」
「承知しました」
春人はもう一度写真を見た。
「……ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
午後遅く、葵の面接が終わった。
会議室から出てきたとき、まるでマラソンを走り終えたような気分だった。
理沙が近くで待っていた。
「どうだった?」
葵は彼女を見つめた。
「……生き残りました」
理沙は笑った。
「おめでとう」
葵はため息をついた。
「二問目で魂が抜けた気がします」
「二問目でもう?」
「三問目で戻ってきました」
理沙は微笑んだ。
「それで、どうだったの?」
葵は少し考えた。
「思っていたより、よかったです」
「よかった」
「全部答えられました」
「素晴らしい」
「考える時間が必要になっても、謝らなかったんです」
理沙は眉を上げた。
「それは大した進歩ね」
葵は笑った。
そして、表情が柔らかくなった。
「……ありがとうございます」
理沙は首を振った。
「頑張ったのはあなたよ」
葵は微笑んだ。
「それでも」
理沙は彼女の肩に手を置いた。
「あとは結果を待ちましょう」
葵はうなずいた。
「はい」
面接は終わった。
まだ合格したわけではない。
追加の書類が必要になるかもしれない。
さらに待つことになるかもしれない。
まだ不確かなことは多かった。
でも――
自分にできることはやった。
そして、それを拓海に奪わせなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、春人は家族をリビングに集めた。
由紀はソファに座った。
大地は窓のそばに立っていた。
春人は車椅子をコーヒーテーブルの近くに移動させた。
看護師は近くで必要なケアを行いながら、家族の会話を尊重していた。
テーブルの上には――
写真を印刷したものが置かれていた。
大地はもう一度それを見た。
「まだ信じられないな」
由紀は眉をひそめた。
「本当に」
春人は静かにしていた。
そして、口を開いた。
「これからどうするか、話し合いたかったんだ」
大地はうなずいた。
「分かった」
「まず、誰も拓海に直接会いに行かないこと」
大地が口を開きかけた。
春人はすぐに彼を指さした。
「特に大地叔父さん」
大地は心外そうな顔をした。
「まだ何も言ってないだろ!」
「考えてたでしょう」
「それは証拠にならないぞ」
「顔が証拠だよ」
由紀は笑った。
大地はうめいた。
「まったく」
春人はかすかに微笑んだ。
そして、真剣な表情に戻った。
「僕の予定を誰が知ることができるのか、確認したほうがいい」
由紀はうなずいた。
「電話で勝手に情報を伝えないようにね」
「そのとおり」
大地は腕を組んだ。
「アパートのことは?」
春人は少し考えた。
「管理会社に防犯設備について聞いてみたい。でも、最終的なバリアフリー改修計画と看護体制が決まるまでは、契約について判断したくないんだ」
由紀は微笑んだ。
「そうね」
春人は続けた。
「それと、ネットに写真や居場所を載せるときは気をつけないと」
大地はうなずいた。
「賛成だ」
少し間が空いた。
それから、由紀が尋ねた。
「葵ちゃんは?」
春人は彼女を見た。
「葵?」
「どうしてるの?」
彼の表情が柔らかくなった。
「怖がってる」
由紀は視線を落とした。
「かわいそうに」
春人は小さく首を振った。
「葵は、同情してほしいわけじゃないんだ」
由紀は顔を上げた。
「分かってるわ」
「自分の人生を生きたいんだよ」
少し間を置いた。
「僕は、その手助けをしたい」
大地はうなずいた。
「だったら、そうしよう」
しばらく――
部屋は静かだった。
そのとき――
由紀がテーブルの上の小さな城に気づいた。
目を閉じた。
「……春人」
春人は無邪気な顔をした。
「何?」
「どうしてお城に小さな旗が立ってるの?」
春人は微笑んだ。
「国家主権の象徴だよ」
大地は吹き出した。
◇ ◇ ◇
その夜遅く、春人は葵に電話した。
彼女は疲れた笑顔で応答した。
「こんばんは」
「こんばんは、未来の看護教育界のスター」
葵は笑った。
「やめてよ」
「面接はどうだった?」
葵は微笑んだ。
「よかったよ」
「本当に?」
「本当に」
春人の表情が明るくなった。
「それは素晴らしいね」
葵はうなずいた。
「緊張したけど」
「当然だよ」
「でも、話し始めたら、どうしてこの研修を受けたいのか思い出せたの」
春人は微笑んだ。
「よかった」
葵は彼を見た。
「それに、春人が言ってくれたことも思い出した」
「僕、何て言ったっけ?」
「私には、この研修を受けたいと思う、ちゃんとした理由があるって」
春人の表情が柔らかくなった。
「実際、そうだからね」
葵は微笑んだ。
「ありがとう」
二人はしばらく話した。
面接のこと。
理沙のこと。
看護師の候補者のこと。
あの馬鹿げた小さなお城のこと。
そして、やがて――
拓海のこと。
葵は、警察が拓海に連絡したと説明した。
春人は耳を傾けた。
「それを聞いて、どう思った?」
葵はためらった。
「……安心した」
そして――
「怖くもなった」
春人はうなずいた。
「どちらも自然な気持ちだと思う」
葵は視線を落とした。
「もっと怒らせてしまったんじゃないかって、考えちゃう」
春人は静かになった。
そして――
「その可能性はあると思う」
葵は彼を見た。
春人は続けた。
「心配する必要なんてないって、無理に言いたくはないんだ」
葵はうなずいた。
「でも、できる対策は続けられる」
「新しいことがあれば記録する」
「警察から受けた助言に従う」
「そして、一人で抱え込まなくていいようにする」
葵の表情が柔らかくなった。
「……うん」
春人はかすかに微笑んだ。
「それに、僕たちにはまだ楽しみにできることがある」
葵は瞬きをした。
「例えば?」
「僕の次の看護師面接」
葵はうめいた。
「春人!」
「また二十七問になるかもしれない」
「嫌!」
彼は笑った。
葵は首を振った。
「本当にどうしようもない人ね」
「頻繁に記録されている症状だよ」
葵は微笑んだ。
そして――
「……春人?」
「うん?」
「一つ聞いてもいい?」
「もちろん」
葵はためらった。
「怖くないの?」
春人は静かになった。
机の上に置かれた写真へ視線を向けた。
そして、答えた。
「……怖いよ」
葵の表情が変わった。
春人は続けた。
「誰かに見張られていたなんて、気分のいいものじゃない」
少し間を置いた。
「それに、君が怖がらされているのも嫌だ」
葵は視線を落とした。
「ごめんね」
春人は首を振った。
「彼の行動について、君が謝る必要はないよ」
葵は顔を上げた。
彼は優しく微笑んだ。
「怖いよ」
「でも、僕はここにいる」
葵の目に涙が浮かんだ。
「……私も」
◇ ◇ ◇
翌日の夕方――
葵は、いつもどおりの勤務を終えて帰宅した。
少なくとも――
アパートのドアにたどり着くまでは、普通の一日だった。
小さな買い物袋を持っていた。
手には鍵があった。
夕食のことを考えていた。
簡単なものがいい。
あまり手間をかけずに作れるもの。
麺類でもいい。
ご飯でもいい。
あるいは――
インスタントスープだけでも十分かもしれない。
廊下の角を曲がった。
そして、足が止まった。
床に何かが置かれていた。
自分の部屋のドアの真ん前に。
白い封筒。
切手はない。
差出人の名前もない。
書かれているのは、自分の名前だけだった。
水野 葵
葵は見つめた。
胃が締めつけられた。
数秒間――
動けなかった。
それから、廊下を見回した。
誰もいない。
足音もない。
声もない。
人の気配もない。
心臓が激しく鳴り始めた。
あのメッセージを思い出した。
病院での出来事。
春人の写真。
そして、警察官から受けた説明。
証拠を捨てないこと。
新しい出来事を記録すること。
望まない接触があれば報告すること。
葵は一歩下がった。
封筒には触れなかった。
代わりに、スマートフォンを取り出した。
封筒が置かれている状態を撮影した。
そして、警察に電話した。
◇ ◇ ◇
その夜、警察官が到着した。
葵は、見つけたものについて説明した。
封筒。
以前のメッセージ。
病院での対面。
春人の写真。
警察官は発見時の状況を記録した。
封筒が回収され、中身が確認されたあと、葵は中に入っていたものを見せられた。
写真だった。
春人。
青い車椅子に座り、書店の前にいる。
以前と同じ場所。
しかし――
別の写真だった。
もっと近い角度から撮られていた。
裏には――
文字が書かれていた。
お前に、あいつをいつまでも守れるわけがない。
葵の顔から血の気が引いた。
一瞬――
廊下が傾いたように感じた。
彼女は壁に手を伸ばした。
警察官が気づいた。
「大丈夫ですか?」
葵は唾を飲み込んだ。
「……私の彼氏なんです」
警察官はうなずいた。
「今回の件も捜査資料に加えます」
葵は写真を見つめた。
手が震えていた。
拓海は、葵の住んでいる場所を知っている。
少なくとも――
誰かが彼女のドアの前まで封筒を届けたのだ。
そして春人まで――
さらに深く巻き込まれようとしていた。
葵は目を閉じた。
叫びたかった。
泣きたかった。
布団の中に潜り込み、何も起こっていないふりをしたかった。
でも――
もう、そうするわけにはいかなかった。
葵は息を吸った。
そして、目を開いた。
「……きちんと記録してほしいです」
警察官はうなずいた。
「もちろんです」
葵はもう一度写真を見た。
そして、尋ねた。
「自分の身を守るために、ほかに何ができますか?」
◇ ◇ ◇
街の反対側では、春人が本を読んでいた。
いや――
読もうとしていた。
パソコンには小説が表示されていた。
音声操作によるページ送りも問題なく動いていた。
部屋は静かだった。
看護師も近くにいた。
すべてが普通だった。
ただ一つ――
集中できなかった。
考えてしまうのは、葵のことばかりだった。
面接。
メッセージ。
写真。
電話越しに聞いた、恐怖のにじむ声。
春人はため息をついた。
「……しっかりしろ、春人」
もう一段落読もうとした。
さらに一段落。
駄目だった。
本を閉じようとした、そのとき――
電話が鳴った。
葵だった。
彼はすぐに出た。
「もしもし」
しばらく――
返事がなかった。
そして――
「……春人」
胃が締めつけられた。
「葵?」
声が震えていた。
「何かあったの」
春人は、できる範囲で姿勢を正した。
「何があった?」
少し間が空いた。
そして――
「アパートの前に、封筒が置かれていたの」
沈黙。
春人の全身が冷たくなった。
「今は安全?」
「うん」
「警察は来てる?」
「さっきまでいた。今、話が終わったところ」
春人はゆっくり息を吐いた。
「分かった」
葵は唾を飲み込んだ。
「春人……」
「うん?」
「写真が入ってた」
春人は目を閉じた。
「……僕の?」
「うん」
沈黙。
そして――
「何て書いてあった?」
葵はためらった。
声が震えた。
「……お前に、あいつをいつまでも守れるわけがないって」
春人は壁を見つめた。
数秒間――
何も言わなかった。
そして――
「分かった」
葵は瞬きをした。
「分かった?」
彼は息を吸った。
「まず、僕は今、安全な場所にいるよ」
葵は目を閉じた。
「……うん」
「それから、君も安全な場所にいることを確認してほしい」
「いるよ」
「よかった」
少し間が空いた。
そして――
「警察は封筒を持っていった?」
「うん」
「よかった」
葵の声が崩れた。
「春人、怖いよ」
彼の表情が柔らかくなった。
「うん」
「もし、あなたに何かされたら……」
春人は静かになった。
そして、慎重に答えた。
「それは、真剣に考えなきゃいけないことだね」
葵は唾を飲み込んだ。
「でも、君が引き起こしたことじゃない」
彼女の目に涙が浮かんだ。
春人は続けた。
「拓海の行動の責任は、拓海自身にある」
葵は口元を覆った。
「だから、助けてくれる人たちと協力していこう」
葵はうなずいた。
春人には見えていなかったけれど。
「……うん」
春人は寝室のドアを見た。
それから、画面に視線を戻した。
「葵?」
「何?」
「しばらく電話をつないでいようか?」
葵は目を閉じた。
「……お願い」
春人は優しく微笑んだ。
「もちろん」
◇ ◇ ◇
一時間近く――
二人は話し続けた。
いつも拓海の話をしていたわけではない。
時には、ごく普通のことを話した。
夕食。
仕事。
看護師の研修。
小さなお城。
そして、トゲトゲ卿四世がプリンセス・プリクルズに宣戦布告する法的権利を持っているかどうか。
葵は笑った。
ほんの少しだけ。
でも、確かに笑った。
やがて――
呼吸が落ち着いてきた。
声の緊張も和らいだ。
二人の間の沈黙も、さっきほど恐ろしく感じなくなった。
「……春人?」
「うん?」
「ありがとう」
彼は微笑んだ。
「何が?」
「一緒にいてくれて」
春人は静かになった。
そして――
「ほかにどこへ行くっていうの?」
葵はかすかに微笑んだ。
「本当に馬鹿なんだから」
「高学歴の馬鹿だよ」
彼女は笑った。
そして、涙を拭った。
「……おやすみ」
「おやすみ、葵」
通話が終わった。
春人は画面を見つめた。
それから、机の上の写真を見た。
表情が険しくなった。
葵に怒っているわけではなかった。
自分自身に怒っているわけでもなかった。
誰かの人生を支配するために、脅すことが許されると思っている人間に怒っていた。
そして今――
その脅しは、葵の家の玄関にまで届いていた。
春人はパソコンを開いた。
そして、恵美と家族に送るメッセージを作り始めた。
安全対策を、もう一度見直す必要があった。
恐怖の中で暮らしたいからではない。
むしろ――
これからも、自分の人生を生きていきたいからだった。
◇ ◇ ◇
別の場所では――
拓海が暗いアパートに座っていた。
テレビはついていた。
しかし、見ていなかった。
スマートフォンが横に置かれていた。
葵からのメッセージはない。
電話もない。
何もない。
彼は画面を見つめた。
そして、苦々しく笑った。
「……まだ無視かよ」
彼は、沈黙を侮辱だと思い込んでいた。
境界線を引かれることを、罰だと思っていた。
葵が自立しようとすることを、自分に対する攻撃だと思っていた。
そして、春人――
一度も話したことのない男が――
その原因だと決めつけていた。
拓海は背もたれに寄りかかった。
目を閉じた。
そして、つぶやいた。
「……まだ終わってねえ」
◇ ◇ ◇
翌朝、葵は窓辺に座っていた。
太陽が昇り始めていた。
柔らかな光が部屋を満たしていた。
コーヒーは温かかった。
テーブルには研修の資料が開かれていた。
そして、スマートフォンは――
久しぶりに――
静かだった。
昨夜はよく眠れなかった。
まだ怖かった。
警察による確認は続いていた。
何も解決していなかった。
それでも、一つ決めたことがあった。
仕事に行くことをやめない。
研修への希望を捨てない。
春人を愛することをやめない。
そして、拓海に自分の選択をすべて決めさせたりしない。
もちろん――
危険を無視するという意味ではない。
出来事の記録は続ける。
受けた安全上の助言にも従う。
必要なときは助けを求める。
必要に応じて、さらに対策を取る。
でも――
生きることは続ける。
葵はペンを手に取った。
面接用のノートを開いた。
そして、一文を書いた。
『私の未来は、私自身のものであってほしい。』
その言葉を見つめた。
そして、微笑んだ。
小さな笑顔だった。
でも、本物だった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、春人は寝室にいた。
青い車椅子を窓のそばに止めていた。
近くの棚には、小さなお城が置かれていた。
左の塔にはトゲトゲ卿四世。
右の塔にはプリンセス・プリクルズ。
二人のサボテン君主は、どうやら危うい平和を維持しているらしい。
春人は二人を見つめた。
そして、ため息をついた。
「……君たちは気楽でいいね」
由紀がドアのところに現れた。
「またサボテンに話しかけてるの?」
春人はうなずいた。
「国際外交だよ」
由紀は微笑んだ。
「順調?」
「予想以上にね」
彼女は近づいた。
そして、春人を見た。
「あなたはどう?」
春人は少し考えた。
「……心配してる」
由紀はうなずいた。
「葵ちゃんのこと?」
「うん」
「自分のことも?」
春人は少し間を置いた。
そして、うなずいた。
「……うん」
由紀は彼の肩に優しく手を置いた。
「怖くないふりをしなくていいのよ」
春人は顔を上げた。
彼女は微笑んだ。
「みんなで考えていきましょう」
しばらく――
春人は何も言わなかった。
そして、かすかに微笑んだ。
「……ありがとう、由紀叔母さん」
彼女はうなずいた。
それから、小さなお城を見た。
「ところで」
春人は固まった。
「何?」
「どうして明日、また荷物が届くことになってるの?」
沈黙。
春人はゆっくり窓のほうを向いた。
由紀は目を細めた。
「春人」
彼は咳払いした。
「……援軍だよ」
「どんな援軍!?」
春人はため息をついた。
「軍事機密なんだ」
「春人!」
◇ ◇ ◇
未来は、恐ろしいほど不確かなものになっていた。
葵の専門能力開発プログラムの面接は終わった。
しかし、結果はまだ届いていない。
春人の夜間看護師探しも進んでいた。
しかし、正式な体制はまだ整っていなかった。
二人の夢は、まだ実現を待っていた。
計画も、まだ完成していなかった。
そして今――
葵の過去から伸びてきた影が、かつて安全だと思っていた場所にまで届いていた。
病院。
書店。
彼女のアパート。
本来なら、何気ない日常の一部であるはずの場所。
しかし、その影がすべてを奪ったわけではなかった。
葵の決意は奪えなかった。
春人の希望も奪えなかった。
そして、二人の間に育ってきた静かな信頼も奪えなかった。
二人は怖かった。
不安だった。
明日、何が起こるのか分からなかった。
それでも、計画を立て続けていた。
笑い続けていた。
自分たちの未来を選び続けていた。
そして、恐怖と希望の狭間で――
二人は大切なことを学び始めていた。
愛があれば、危険が消えるわけではない。
すべての問題が解決する保証もない。
そして、どちらか一方が、もう一方の守護者にならなければならないわけでもない。
時には――
愛とは、話を聞くこと。
時には、相手の境界線を尊重すること。
時には、助けを求めること。
そして時には――
不確かな明日に向き合う方法を、二人で少しずつ学びながら、隣にい続けること。
しかし、遠く離れた場所では――
恨みに満ちた部屋の中で――
「さようなら」という言葉を受け入れようとしない男が、まだ目を光らせていた。
そして、葵の玄関前に置かれた写真は、一つの事実を残酷なほど明確にしていた。
過去は、もはや扉を叩いているだけではなかった。
二人の日常のすぐそばまで、忍び寄っていたのだ。




