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第57話 明日へと続く道に忍び寄る影

朝は、一つの質問から始まった。

ごく簡単な質問だった。

水野葵が看護師として働く中で、何百回も答えてきた質問。

「大丈夫?」

しかし、残念ながら――

今日の葵には、どう答えればいいのか分からなかった。

病院の休憩室。

葵は、十五分ほど前にすっかり冷めてしまった紙コップのコーヒーを見つめていた。

向かいに立っているのは、中村理沙。

腕を組み、眉を上げている。

何かがおかしいことなど、とっくに見抜いている先輩看護師の顔だった。

「葵」

「はい?」

「そのコーヒー」

葵は瞬きをした。

「コーヒーがどうかしました?」

「全然飲んでないでしょう」

「あ……」

「それに、同じページを十分も見つめてる」

葵は視線を落とした。

テーブルの上には、患者向けの説明資料が開かれていた。

しかし、一行も読んでいなかった。

「……ちょっと考え事をしていて」

「でしょうね」

理沙は椅子を引いた。

「私に話したいこと?」

葵はためらった。

紙コップを握る指に、少し力が入った。

昨夜は、ほとんど眠れなかった。

スマートフォンが震えるたびに、胃が締めつけられる。

アパートの外を車が通るたびに、耳を澄ませてしまう。

そして、目を閉じるたびに――

あのメッセージを思い出した。

今日は楽しそうだったな。

新しい彼氏か?

俺たちの話は、まだ終わってない。

葵は唾を飲み込んだ。

「……拓海のことなんです」

理沙の表情が変わった。

冗談めいた雰囲気が消えた。

「元彼の?」

葵はうなずいた。

「連絡が来たんです」

理沙は身を乗り出した。

「何があったの?」

葵はゆっくり息を吸った。

そして、話し始めた。

◇ ◇ ◇

葵が話し終える頃には、理沙もコーヒーに手をつけなくなっていた。

彼女は最後まで静かに耳を傾けていた。

公園。

写真。

知らない電話番号。

春人についてのメッセージ。

そして、最後の警告。

俺たちの話は、まだ終わってない。

理沙の表情は真剣だった。

「返信した?」

「してません」

「それでいいわ」

葵は視線を落とした。

「メッセージは保存しました」

「大事なことね」

「春人にも話しました」

理沙はうなずいた。

「彼は何て?」

葵の表情が少し柔らかくなった。

「話を聞いてくれました」

「よかった」

「私が安全な場所にいるか確認して、それから一緒にどうすればいいか考えてくれました」

理沙はかすかに微笑んだ。

「しっかりした彼氏さんね」

葵は小さく笑った。

「時々は」

「時々?」

「サボテンの置物二つに王国を作らせようとしている人でもあるので」

理沙は固まった。

「……何?」

葵は首を振った。

「聞かないでください」

ほんの一瞬――

二人は笑った。

しかし、理沙はすぐに真剣な表情に戻った。

「葵。病院の警備担当にも話したほうがいいと思う」

葵の笑顔が消えた。

「警備ですか?」

「ええ」

「でも、まだ病院には来ていません」

「私たちが知らないだけかもしれないでしょう?」

葵はうつむいた。

理沙は優しく続けた。

「もっとひどいことが起こるまで、待つ必要はないのよ」

葵は黙った。

理沙の言うことは正しかった。

分かっていた。

けれど――

心のどこかで、まだ嫌だった。

拓海のことを報告するということは、彼が戻ってきた事実を認めることでもある。

長い時間をかけて逃れた恐怖が、再び現れたということ。

そして、無視していれば自然に消えてくれるとは限らないということ。

「……みんなに知られたくありません」

理沙はうなずいた。

「だったら、情報を必要な人だけで扱ってもらえるよう相談しましょう」

葵は顔を上げた。

「一緒に来てくれますか?」

「もちろん」

理沙は微笑んだ。

「それに、警備員さんに迷惑をかけてすみませんって謝り始めるあなたを、誰かが止めないとね」

葵は弱々しく笑った。

「……たぶん、謝っちゃいます」

「でしょうね」

◇ ◇ ◇

一方、その頃――

高橋春人は、別の戦いに備えていた。

専門的な戦い。

忍耐が必要な戦い。

外交能力が試される戦い。

そして――

どうやら、由紀叔母さんの介入まで必要な戦いだった。

「春人」

「何?」

「二十七問?」

春人はパソコンの画面を見た。

「正確には二十八問だよ」

由紀は目を閉じた。

「どうして?」

「徹底した準備のためだよ」

「看護師さんの面接でしょう? 最高裁判所の裁判官を任命するわけじゃないのよ」

春人は少し考えた。

「興味深い比較だね」

「やめて」

「ただ、責任の重要性という点では、それぞれ異なる意味で――」

「春人」

「はい」

「看護師さんが疲れちゃうでしょう」

春人は大げさにため息をついた。

「仕方ない」

質問一覧を見た。

そして、一問削除した。

由紀は微笑んだ。

「よかった」

春人はうなずいた。

「二十七問」

由紀は目を見開いた。

「そういう意味じゃないでしょう!」

「進歩には犠牲が必要なんだよ、由紀叔母さん」

「犠牲になるのは私みたいね」

◇ ◇ ◇

面接は、その日の午後に正式に決まっていた。

ケアコーディネーターの佐藤恵美も同席する。

由紀も参加する予定だった。

候補者の名前は、藤沢真由。

恵美から事前に渡された情報によると、真由は複雑な医療的ケアを必要とする患者の看護経験を数年持っていた。

病院だけでなく、在宅医療の現場でも働いた経験がある。

しかし――

夜勤の経験は比較的限られていた。

だからといって、すぐに候補から外れるわけではない。

ただ、春人に必要な医療的ケアを安全に提供できるか、慎重な確認が必要だった。

必要な看護技術の評価。

研修の実施。

資格や経歴、照会先の確認。

そして、何より――

真由一人の勤務可能時間だけでは、夜間の看護体制をすべて埋めることはできない。

春人は、それを理解していた。

そして、もう一つ理解していた。

自分は緊張している。

非常に緊張している。

実に腹立たしいことだった。

二十七問も準備したのだ。

それだけで無敵になれてもよさそうなものなのに。

「……もう一問、追加したほうがいいかな」

由紀が即座に振り向いた。

「駄目」

春人はため息をついた。

「民主主義は崩壊したらしい」

◇ ◇ ◇

病院では、葵が理沙とともに警備室を訪れていた。

担当者は、葵の説明を注意深く聞いた。

彼女はメッセージを見せた。

送信日時。

知らない番号。

公園についての内容。

担当者は、拓海から直接脅迫されたことがあるか尋ねた。

葵はためらった。

「私たちの関係は、まだ終わっていないと言われました」

「ほかには?」

「彼氏のことを聞かれました」

「以前にも、つきまとわれたことはありますか?」

葵は視線を落とした。

「……付き合っていた頃、居場所を確認されることがよくありました」

担当者はうなずいた。

「現在の住所や勤務予定を、相手が知っている可能性はありますか?」

葵の胃が締めつけられた。

「職場は知っています」

「住所は?」

「……分かりません」

担当者は記録を取った。

その後、具体的な安全対策について話し合った。

職員の勤務予定や個人の連絡先を、権限のない第三者に伝えないこと。

不審な訪問者が現れた場合、すぐに警備担当へ知らせること。

そして、必要なときに支援を求められるよう、事前に情報を共有しておくこと。

担当者は今回の相談内容を記録し、警察への相談も勧めた。

葵は耳を傾けた。

質問に答えた。

落ち着こうと努力した。

そのとき――

受付の職員が警備室のドアをノックした。

「失礼します」

担当者が顔を上げた。

「どうしました?」

受付の職員は葵を見た。

「水野さんの件でしょうか?」

葵の胃が沈んだ。

「……はい?」

職員は困ったような顔をした。

「先ほど、電話があったんです」

理沙が姿勢を正した。

「どんな電話ですか?」

「男性の方が、水野さんは今日勤務しているかと尋ねてきました」

沈黙。

葵の全身が冷たくなった。

職員は続けた。

「家族だとおっしゃっていました」

理沙の表情が険しくなった。

「何か情報を伝えましたか?」

「いいえ。職員の勤務予定はお伝えできないと説明しました」

担当者はうなずいた。

「適切な対応です」

受付の職員はためらった。

「ただ、かなり不機嫌そうでした」

葵は床を見つめた。

もう分かっていた。

誰かが名前を口にするまでもなく――

分かっていた。

拓海だ。

彼は、自分を探している。

◇ ◇ ◇

午後二時。

春人の面接が始まった。

藤沢真由は、約束の時間ぴったりに到着した。

三十代前半の女性だった。

黒髪をきちんとまとめ、落ち着いた雰囲気をしている。

恵美が全員を紹介した。

「藤沢さん、本日はありがとうございます」

「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」

真由は丁寧に頭を下げた。

春人は微笑んだ。

「高橋春人です」

「初めまして、高橋さん」

「春人と呼んでください」

真由は微笑んだ。

「分かりました」

春人は由紀を見た。

それから恵美を見た。

そして、パソコンを見た。

「……さて」

由紀が目を細めた。

春人は軽く咳払いした。

「いくつか質問を準備してあります」

由紀が小さく何かをつぶやいた。

真由は微笑んだ。

「もちろんです」

春人はうなずいた。

「素晴らしい」

少し間を置いた。

「ただし、叔母は質問の数が多すぎると考えているようです」

真由は笑った。

「何問あるんですか?」

春人は画面を見た。

「二十七問です」

真由は瞬きをした。

そして、また微笑んだ。

「では、さっそく始めましょうか」

由紀は顔を覆った。

◇ ◇ ◇

面接の前半では、職務経験について話し合った。

真由は、自分の経歴を説明した。

呼吸管理を必要とする患者の看護経験。

在宅医療の現場で働いた経験。

緊急時の対応についての理解。

恵美は、具体的な看護技術や研修記録、勤務可能な時間帯について質問した。

真由は慎重に答えた。

何でも知っているふりはしなかった。

最近使用していない医療機器について尋ねられると、再研修や指導者のもとでの技術確認が必要だと正直に認めた。

春人は、その姿勢を評価した。

完璧だと言い張る人を求めているわけではない。

自分の限界を理解している人が必要だった。

やがて――

春人は、自分で考えた質問の一つに進んだ。

「一つ聞いてもいいですか?」

真由はうなずいた。

「もちろんです」

「病院で患者を看護することと、その人の自宅で看護することの一番大きな違いは、何だと思いますか?」

真由は少し考えた。

「いい質問ですね」

春人は微笑んだ。

「不必要なほど時間をかけて考えました」

由紀はため息をついた。

真由は笑った。

そして、真剣な表情になった。

「病院では、医療を提供することを中心に環境が整えられています」

春人はうなずいた。

「でも、自宅では、その人自身の生活空間に入らせていただくことになります」

春人は彼女を見た。

真由は続けた。

「もちろん、医療上の安全は欠かせません。でも、その方の日常生活やプライバシー、人間関係、好みも尊重しなければなりません」

春人は静かになった。

「……なるほど」

真由は微笑んだ。

「専門的な看護が必要だからといって、その方が自分自身の人生を持つ一人の人間であることは変わりませんから」

数秒間――

春人は何も言わなかった。

そして、微笑んだ。

「……とてもいい答えですね」

真由は安心したような顔をした。

「ありがとうございます」

春人は恵美を見た。

そして、真由に視線を戻した。

「実は、それがずっと心配だったんです」

真由は耳を傾けた。

「僕は自立して暮らしたいんです」

春人は少し間を置いた。

「何もかも一人でできるという意味での自立じゃありません」

自分の車椅子に視線を落とした。

「僕には、それは現実的ではないので」

それから、顔を上げた。

「でも、自分の人生について、自分で決められるという意味での自立です」

真由はうなずいた。

「よく分かります」

「何時に本を読むか」

「何を見るか」

「誰を家に招くか」

「そして、本棚が建築上の危険物に該当するかどうか」

由紀がうめいた。

「春人」

真由は笑った。

春人も微笑んだ。

「でも、真面目な話です」

彼の表情が柔らかくなった。

「僕には、ほかの人なら自分でできることにも介助が必要です」

少し間を置いた。

「だからといって、すべての決定をほかの人に任せたいわけではありません」

真由はうなずいた。

「承知しました」

春人は彼女を見た。

「そういう考え方で、一緒に働いていただくことはできますか?」

真由は迷わず答えた。

「はい。ただし、ケアの計画、安全上の手順、そして意思疎通の方法を、きちんと確認しておくことが前提です」

春人は微笑んだ。

「よかった」

そして――

質問一覧を見た。

「では、第十二問です」

由紀は椅子から転げ落ちそうになった。

◇ ◇ ◇

面接は、予定より長くなった。

春人が二十七問すべてを尋ねたからではない。

もっとも――

本人はそのつもりだったが。

実際には、会話が自然に広がっていったのだ。

プライバシー。

意思疎通。

医療上の緊急事態。

専門職としての境界線。

夜間の生活習慣。

そして、ケアについて意見が食い違った場合の対応。

真由からも質問があった。

「普段の夜は、どんなふうに過ごされる予定ですか?」

春人は少し考えた。

「理想としては、その日の仕事を終えてから、ゆっくり過ごしたいですね」

「どんなお仕事を?」

「執筆です」

真由は微笑んだ。

「作家さんなんですか?」

「まあ、そんなところです」

「どんな作品を?」

春人はためらった。

「……物語です」

「ジャンルは?」

「恋愛、ドラマ。それから、登場人物が疑問の残る決断をする話などです」

由紀は笑った。

真由も微笑んだ。

「面白そうですね」

春人は厳かにうなずいた。

「僕の登場人物たちは、非常に苦労しています」

「そうなんですか?」

「主に精神的に」

由紀は首を振った。

「大げさなのよ」

春人は心外そうな顔をした。

「由紀叔母さん、僕の芸術的な信用を損なわないでほしいな」

真由は笑った。

そして、その日の午後、初めて――

春人は緊張がほぐれていくのを感じた。

◇ ◇ ◇

面接が終わると、恵美は真由に礼を述べた。

その後、今後の手続きについて確認した。

その場で採用が決まるわけではない。

資格や照会先の確認が残っている。

臨床的な看護技術の評価も必要だった。

次の段階に進む場合には、必要に応じて研修も行わなければならない。

そして、真由の勤務可能な夜勤日数には限りがあるため、ほかのスタッフの確保も必要だった。

真由も理解していた。

春人も理解していた。

そして由紀は――

春人が第二十七問に到達する前に面接が終わったことに、心底安心していた。

真由が帰ったあと、恵美が春人に尋ねた。

「どうでしたか?」

春人は少し考えた。

「……いい人だと思いました」

由紀は微笑んだ。

「本当に?」

「うん」

恵美もうなずいた。

「丁寧に考えて答えてくれましたね」

「それに、正直だった」

春人は付け加えた。

「それは大切です」

彼はドアのほうを見た。

「僕のことを、最初から全部知っているような態度じゃなかった」

由紀の表情が柔らかくなった。

春人は続けた。

「ちゃんと質問してくれた」

恵美は微笑んだ。

「いい兆候ですね」

春人はうなずいた。

「でも、まだ終わりじゃない」

「ええ。まだ調整することはたくさんあります」

春人はため息をついた。

「当然ですね」

そして、微笑んだ。

「それでも……」

窓の外を見た。

「今日は、一歩進めた気がします」

◇ ◇ ◇

その頃、病院では――

葵が、あまり穏やかではない午後を過ごしていた。

仕事に集中しようとした。

警備担当にも相談した。

理沙とも話した。

勤務が終わったら警察へ相談することも考えていた。

しかし――

どうしても、あの電話のことが頭から離れなかった。

勤務予定を尋ねてきた男。

家族のふりをして。

自分を探している。

葵は備品棚の前で、並んだ物品を見つめていた。

「葵?」

理沙が近づいてきた。

葵は振り向いた。

「はい?」

「またやってるわよ」

「何をですか?」

「何かを見つめているのに、何も見えていない状態」

葵は視線を落とした。

「……すみません」

理沙はため息をついた。

「こっちに来て」

葵を静かな場所へ連れていった。

「聞いて」

葵は顔を上げた。

「無理して平気なふりをしなくていいのよ」

「分かっています」

「本当に?」

葵はためらった。

そして、首を振った。

「……あまり」

理沙の表情が柔らかくなった。

葵は息を吸った。

「春人に、まだ話していないことがあるんです」

理沙は待った。

「拓海のことです」

「うん」

葵は視線を落とした。

「私が話したより、ずっとひどかったんです」

◇ ◇ ◇

その夜、葵は春人に電話をかけた。

春人は、ほとんどすぐに出た。

「こんばんは」

葵はかすかに微笑んだ。

「こんばんは」

「仕事はどうだった?」

彼女はためらった。

「……いろいろあった」

春人の表情が真剣になった。

「何かあったの?」

葵は説明した。

勤務予定を尋ねる電話。

警備室での相談。

理沙との会話。

春人は静かに耳を傾けた。

話し終えると、一つだけ質問した。

「今は安全な場所にいる?」

葵はうなずいた。

「うん。家にいる」

「よかった」

少し間が空いた。

そして――

「……春人?」

「うん?」

「一つ、話してもいい?」

「もちろん」

葵は震える息を吸った。

「拓海のことなんだけど」

春人は待った。

葵はうつむいた。

「付き合っていた頃、ただ嫉妬深かっただけじゃないの」

春人は黙っていた。

「いつも、私がどこにいるのか知りたがっていた」

「誰と話しているのか」

「どうして返信しないのか」

葵は唾を飲み込んだ。

「友達と会うと、怒ったの」

「残業すると、嘘をついているって責められた」

「それで、私が反論すると……」

声が途切れた。

春人は待った。

葵は目を閉じた。

「全部、私が悪いんだって思わせられた」

沈黙。

彼女は続けた。

「そのうち、人にいろんなことを話さなくなった」

「外出も減った」

「どんな小さなことを決めるときも、まず拓海がどう反応するか考えるようになった」

手が震えた。

「それに、時々……」

葵は言葉を止めた。

春人は優しく言った。

「まだ話したくないことまで、無理に話さなくていいよ」

葵は目を開けた。

彼は続けた。

「僕は聞いている。でも、すべてを説明する義務があるわけじゃないから」

葵の目に涙が浮かんだ。

「……ありがとう」

春人はうなずいた。

葵はもう一度息を吸った。

「一番嫌なのは、私自身が拓海の言葉を信じ始めてしまったことなの」

春人の表情が柔らかくなった。

「私がわがままだって言われたときも」

「ほかの男なら、私みたいな女には我慢できないって言われたときも」

「自分と付き合ってもらえていることを感謝しろって言われたときも」

葵は涙を拭った。

「今考えると、馬鹿みたいだよね」

春人は首を振った。

「馬鹿みたいだなんて思わないよ」

葵は彼を見た。

「長い時間をかけて、君が自分自身を疑うように仕向けられたんだと思う」

葵の唇が震えた。

「……うん」

春人は少し黙った。

そして――

「君が彼から離れられて、本当によかった」

葵は目を閉じた。

「私も、そう思う」

◇ ◇ ◇

少ししてから、春人は看護師の面接について話した。

葵は、彼の説明に耳を傾けた。

真由の答え。

職務経験。

日常生活について尋ねてくれたこと。

そして――

当然ながら――

二十七問問題。

葵は画面越しに春人を見つめた。

「二十七問!?」

春人はうなずいた。

「最初は二十八問だったんだ」

「春人!」

「自制したんだよ」

「尋問じゃない!」

「面接だよ」

「二十七問も!?」

「全部は聞いてないよ」

葵は目を細めた。

「何問聞いたの?」

春人はためらった。

「……国家機密だね」

葵は吹き出した。

ほんの一瞬――

恐怖が少しだけ緩んだ。

春人は微笑んだ。

その笑い声。

聞きたかった声だった。

しかし、春人はそれだけで全部が解決したとは思わなかった。

そんなに簡単ではないと、分かっていた。

◇ ◇ ◇

翌日の午後。

春人と葵は、初めての模擬面接を行った。

ビデオ通話で。

春人は、きちんと文書まで準備していた。

当然である。

葵は、すでに警戒していた。

「何問あるの?」

春人は微笑んだ。

「十二問だけだよ」

葵は安心したように息を吐いた。

「それなら、そんなに多くないね」

「各分野につき」

「ええっ!?」

春人は笑った。

「冗談だよ」

「ひどい!」

「残念ながら、よく知られた事実だね」

葵は首を振った。

「始めてもいい?」

春人は姿勢を正した。

「もちろん」

軽く咳払いした。

「水野候補者」

葵も背筋を伸ばした。

「はい」

「なぜ、今回の専門能力開発プログラムへの参加を希望したのですか?」

葵はためらった。

そして、答え始めた。

「複雑な医療的ケアを必要とする患者さんへの看護について、知識と技術を高めたいからです」

春人はうなずいた。

「続けてください」

「それから、入院中の患者さんが自宅での生活へ移行するときの支援について、もっと学びたいと思っています」

「なぜですか?」

葵は止まった。

「それは……」

少し考えた。

「医療は、その人が望む生活を支えるためのものだと思うからです」

春人はかすかに微笑んだ。

葵は続けた。

「患者さんは、病名だけで説明できる存在ではありません」

「目標があります」

「家族がいます」

「人間関係があります」

「やりたいことがあります」

彼女はまっすぐカメラを見た。

「私は、その人が望む生活を安全に送れるよう支えられる看護師になりたいんです」

春人は静かになった。

そして――

「……素晴らしい答えだね」

葵は瞬きをした。

「本当に?」

「もちろん」

葵は微笑んだ。

「気を遣って言ってない?」

「言ってないよ」

春人は少し間を置いた。

「ただ、実際の仕事で経験した具体例を一つ入れると、もっと伝わりやすくなると思う」

葵はうなずいた。

「なるほど」

「それと、研修を終えたあと、学んだことをどう生かしたいかも説明できるといいね」

「分かった」

春人は微笑んだ。

「それ以外は、とてもよかったよ」

葵は安心したような顔をした。

「ありがとう」

春人はうなずいた。

「では、次の質問です」

葵は姿勢を正した。

春人は厳かな表情になった。

「もし二人のサボテン君主が、領土主権をめぐる外交紛争を起こした場合――」

「春人!」

彼は大笑いした。

◇ ◇ ◇

二人は、一時間近く練習を続けた。

真面目な質問もあった。

そうでない質問も――

かなりあった。

葵は少しずつ自信をつけていった。

答えが明確になった。

考える時間が必要になるたびに謝ることも、少なくなった。

急いで答えようとするのではなく、自分の考えを説明できるようになっていった。

そして春人は――

心から感心していた。

やがて、葵は椅子の背もたれに寄りかかった。

「……今日は、このくらいでいいかな」

春人はうなずいた。

「そうだね」

葵は微笑んだ。

「どうだった?」

春人は少し考えた。

「そうだね」

葵は待った。

春人は微笑んだ。

「僕が面接官だったら、もっと話を聞いてみたいと思うよ」

葵の表情が柔らかくなった。

「本当に?」

「うん」

少し間を置いた。

「ただ、本番では違う質問が出るかもしれないから、練習は続けたほうがいいね」

葵はうなずいた。

「そうする」

春人は微笑んだ。

「それから、葵」

「何?」

「君には、この研修を受けたいと思う、ちゃんとした理由がある」

葵は彼を見た。

「それを忘れないでね」

葵の目が柔らかくなった。

「……うん」

◇ ◇ ◇

翌日の夕方。

葵の勤務は、予定より遅く終わった。

制服から私服に着替えた。

荷物をまとめた。

そして、病院の出入口へ向かった。

外の空は、すでに暗くなり始めていた。

葵はスマートフォンを確認した。

春人からのメッセージだった。

春人:今日はどうだった?

葵はかすかに微笑んだ。

葵:忙しかった。すごく忙しかった。

春人:職業上の悲劇的な宿命だね。

葵:本当にね。

春人:気をつけて帰ってね。

葵:うん。

葵はスマートフォンをしまった。

そして、外へ出た。

その瞬間――

足が止まった。

病院の敷地の端に、一人の男が立っていた。

黒っぽい上着。

ポケットに入れた両手。

見覚えのある立ち姿。

見覚えのある顔。

葵の胃が沈んだ。

「……拓海?」

男は笑った。

「やっと出てきたな」

葵は固まった。

一瞬――

動けなかった。

それから、一歩後ずさった。

「何をしているの?」

拓海は肩をすくめた。

「ちょっと話したいだけだよ」

「話したくない」

笑顔が少し消えた。

「おい、葵」

「嫌」

拓海が一歩近づいた。

葵は一歩下がった。

「嫌だって言ったでしょう」

拓海はため息をついた。

「まだ怒ってるのか?」

葵は彼を見つめた。

「もう私に関わらないで」

拓海はいら立ったような顔をした。

「俺たち、いろいろあっただろ? 五分くらい話してくれてもいいんじゃないか?」

「私たちの関係は終わってる」

拓海の顎に力が入った。

「お前は、いつもそう言うな」

「本当だから」

彼は苦々しく笑った。

「そうかよ」

そして――

表情が変わった。

「それで、あの車椅子の男は誰なんだ?」

葵の全身が冷たくなった。

「春人のことを言わないで」

拓海は冷たい笑みを浮かべた。

「やっぱり彼氏なんだな」

葵は答えなかった。

拓海が近づいた。

「あいつの何が俺よりいいんだよ?」

葵は入口のほうへ下がった。

「近づかないで」

「本気かよ?」

声が大きくなった。

「俺たちのこと、全部捨ててあいつを選ぶっていうのか?」

葵の手が震えた。

それでも、無理やり声を出した。

「あなたと私の交際について、これ以上話すつもりはない」

拓海の表情が険しくなった。

「まるで俺が犯罪者みたいな言い方だな」

葵はスマートフォンに手を伸ばした。

「もう関わらないでって言ったでしょう」

拓海が気づいた。

「何してる?」

「警備の人を呼ぶ」

彼の顔色が変わった。

「葵――」

「それ以上近づかないで」

声は震えていた。

しかし、言葉ははっきりしていた。

入口付近にいた警備員が、すでに二人の様子に気づいていた。

彼が近づいてきた。

「何かありましたか?」

葵はすぐに振り向いた。

「はい」

拓海は体をこわばらせた。

警備員は二人を見た。

「どうされました?」

葵は唾を飲み込んだ。

「この人から嫌がらせを受けています。すでに病院の警備担当にも相談しています」

警備員の表情が真剣になった。

「そちらの方、彼女から離れてください」

拓海は鼻で笑った。

「ただ話してるだけだろ」

「ご本人が離れてほしいと伝えています」

拓海は葵を見た。

一瞬――

信じられないというような顔をした。

まるで、葵が自分の言うことを聞かない理由を理解できないかのように。

そして、顔をしかめた。

「分かったよ」

一歩下がった。

しかし、立ち去る前に――

葵をまっすぐ見た。

「こんなことする必要ないだろ」

葵は答えなかった。

警備員は二人の間に立ったままだった。

拓海はようやく背を向け、歩き去った。

葵は、その場に立ち尽くした。

心臓が激しく鳴っていた。

手が震えていた。

でも――

嫌だと言えた。

そして今度は――

その言葉を聞いてくれる人がいた。

◇ ◇ ◇

二十分後。

理沙は、警備室で葵を見つけた。

葵は椅子に座っていた。

両手を膝の上に置いている。

ひどく疲れた顔をしていた。

理沙はゆっくり近づいた。

「葵」

葵は顔を上げた。

「……理沙さん」

理沙は隣に座った。

「話は聞いたわ」

葵はうなずいた。

「……来たんです」

「うん」

「話したいって」

理沙は耳を傾けた。

「嫌だって言ったんです」

葵は唾を飲み込んだ。

「でも、近づいてきて……」

理沙の表情が柔らかくなった。

葵は自分の手を見つめた。

「……すごく怖かった」

理沙はうなずいた。

「そうよね」

葵は震える息を吸った。

「でも、一緒には行かなかった」

「うん」

「助けを呼んだんです」

「そうね」

葵の目に涙が浮かんだ。

「……本当に、できたんです」

理沙は優しく微笑んだ。

「できたわね」

しばらく――

葵は何も言えなかった。

そして、泣き始めた。

何もかも解決したからではない。

危険が消えたからでもない。

ただ――

今度は、恐怖にすべてを決めさせなかったからだった。

◇ ◇ ◇

その夜、春人に電話がかかってきた。

葵からだった。

彼はすぐに出た。

「もしもし」

「……春人」

声に疲れが滲んでいた。

春人の表情が変わった。

「何があったの?」

葵は説明した。

拓海のこと。

病院の入口。

突然の対面。

警備員が介入したこと。

話し終える頃には、春人は黙っていた。

そして――

「……今は安全な場所にいる?」

葵はうなずいた。

「うん。理沙さんが帰るのを手伝ってくれた」

春人は息を吐いた。

「よかった」

少し間が空いた。

そして――

「春人?」

「うん?」

「怒ってる?」

彼は少し考えた。

「怒ってるよ」

葵は黙った。

春人は続けた。

「拓海にね」

葵は目を閉じた。

「……そっか」

「君を怖がらせたことに腹が立ってる」

少し間を置いた。

「君の人生に干渉する権利があると思っていることにも」

葵は唾を飲み込んだ。

春人は窓の外を見た。

「でも、君に怒っているわけじゃない」

葵の目に涙が浮かんだ。

「……ありがとう」

春人は小さく首を振った。

「そんなことでお礼を言わなくていいよ」

沈黙。

そして、葵が口を開いた。

「……嫌だって言えたの」

春人はかすかに微笑んだ。

「聞いたよ」

「震えてた」

「それでもいいんだよ」

「泣きそうだった」

「それでもいい」

葵は息を吸った。

「でも、一緒には行かなかった」

春人の表情が柔らかくなった。

「……よかった」

葵は弱々しく微笑んだ。

「勇敢だったとは思えないけど」

春人は考えた。

そして――

「勇気って、必ずしも勇敢な気持ちになることじゃないのかもしれないね」

葵は彼を見た。

「怖くても、自分にとって正しいと思うことを選ぶ。それも勇気なんじゃないかな」

葵は静かになった。

そして、かすかに微笑んだ。

「……哲学者みたい」

春人は厳かにうなずいた。

「本を読みすぎたことによる悲劇的な副作用だね」

葵は笑った。

ほんの少し。

でも――

確かに笑った。

◇ ◇ ◇

翌朝。

葵は警察署に座っていた。

理沙が付き添ってくれていた。

テーブルには、メッセージの記録を印刷したものが並んでいる。

日時。

電話番号。

病院での出来事をまとめた書面。

そして、警備担当から渡された対応記録の情報。

葵は、警察官の質問に慎重に答えた。

以前の交際関係。

支配的な言動。

最近届いたメッセージ。

写真。

勤務予定を聞き出そうとした電話。

そして、病院の外に現れた拓海のこと。

警察官は内容を記録し、今後の対応について説明した。

証拠を保存すること。

新たな接触があれば報告すること。

利用できる保護措置について相談すること。

葵は耳を傾けた。

質問もした。

何が記録されたのか、きちんと確認した。

すべてが魔法のように解決したわけではない。

拓海が突然消えたわけでもない。

警察に相談したからといって、必ず嫌がらせが止まる保証もなかった。

しかし――

正式な記録が残った。

葵は行動した。

そして、もう何も起こらないふりをして、問題が自然に消えるのを待つつもりはなかった。

◇ ◇ ◇

その日の午後。

春人のもとにメッセージが届いた。

葵:行ってきたよ。

彼はすぐに返信した。

春人:警察への相談?

葵:うん。

春人:今、どんな気分?

少し間が空いた。

葵:疲れた。

春人:そうだよね。

葵:まだ怖い。

春人:うん。

さらに少し間が空いた。

そして――

葵:でも、少し安心した。

春人は微笑んだ。

春人:よかった。

葵:話を聞いてくれてありがとう。

春人:いつでも。

葵は画面を見つめた。

そして、もう一通送った。

葵:春人?

春人:何?

葵:私、やっぱり研修を受けたい。

春人の笑顔が広がった。

春人:うん。

葵:今はいろいろ大変だけど。

春人:君が本当に望んでいることなら、なおさら大切にしてほしい。

葵は微笑んだ。

葵:それから、これからもデートしたい。

春人は笑った。

春人:もちろん。

葵:できれば、ストーカー抜きで。

春人の表情が柔らかくなった。

春人:それは非常に望ましい改善だね。

葵:あと、面接の質問も二十七問以下で。

春人:それは要求が厳しすぎる。

葵は吹き出した。

◇ ◇ ◇

その夜、春人はパソコンの前に座っていた。

アパートの計画は、まだ完成していない。

真由の資格や経験の確認も残っている。

夜間の看護体制には、まだ空白がある。

そして、不動産管理会社からの最終的な改修見積もりも届いていなかった。

彼の未来は、まだ不確かだった。

しかし――

今日、考えていることは別にあった。

春人は日記を開いた。

『今日の小さな幸せ』

しばらく、白紙の画面を見つめた。

そして、音声入力を始めた。

今日、葵は警察に相談した。

そんなことをしなくてもよければよかったのにと思う。

ただ仕事に行って、家に帰って、誰かに怖がらされることなく自分の人生を送れたらよかったのに。

でも、葵は大切なことをした。

助けを求めた。

何があったのか話した。

そして、自分がどう対応したいのかを決めた。

春人は少し間を置いた。

そして、続けた。

僕は葵を守りたかった。

今も、そう思っている。

でも、誰かを守るということは、その人の代わりに決断することではないのだと、少しずつ学んでいる。

時には、ただ話を聞くこと。

時には、適切な支援を見つける手伝いをすること。

そして時には、大切な人が自分自身で難しい選択をできると信じること。

たとえ、その人のことが心配でたまらなくても。

春人は画面を見た。

そして、かすかに微笑んだ。

これから何が起こるのかは分からない。

拓海が嫌がらせをやめるのかも分からない。

看護師の面接が、採用につながるのかも分からない。

葵が研修に合格するかどうかも分からない。

でも、一つだけ分かっていることがある。

春人は少し間を置いた。

そして、最後の一文を入力した。

僕たちは、明日を諦めない。

◇ ◇ ◇

街の別の場所では――

拓海が一人、アパートに座っていた。

スマートフォンがテーブルに置かれている。

葵からの返信はなかった。

一度も。

彼は画面を見つめた。

そして、昔のメッセージ履歴を開いた。

写真。

文章。

思い出。

ずっと前に終わった関係。

しかし、拓海はまだ、それが終わったことを認めようとしていなかった。

画面をスクロールした。

止めた。

そして、顎に力を入れた。

「……そういうつもりかよ」

病院の警備担当が介入したことは知っていた。

警察に相談されたことは、まだ知らなかった。

しかし、何かが変わったことは分かっていた。

葵は返信しない。

謝らない。

彼の機嫌を取ろうともしない。

そして、それが――

拓海を激しくいら立たせていた。

彼は、葵と春人が写った写真を見た。

表情が険しくなった。

「……勝ったつもりか?」

スマートフォンを置いた。

部屋が静かになった。

そして――

彼は笑った。

決して、楽しそうな笑顔ではなかった。

「いいぜ」

少し間を置いた。

「いつまで続くか、見せてもらおうじゃねえか」

◇ ◇ ◇

その夜。

葵は寝室の窓辺に立っていた。

カーテンは閉めてある。

スマートフォンは机の上に置かれていた。

数日ぶりに、彼女はその画面を見つめていなかった。

代わりに見ていたのは――

研修プログラムの資料だった。

面接のためのメモ。

一生懸命に書き上げた応募書類。

葵は椅子に座った。

ノートを開いた。

そして、回答の確認を始めた。

まだ怖かった。

まだ疲れていた。

明日、何が起こるのかも分からなかった。

でも――

一つだけ決めたことがあった。

拓海に、自分の未来の限界を決めさせない。

二度と。

葵はペンを手に取った。

そして、ページの一番上に一文を書いた。

『私は、一人ひとりが自分で選んだ人生を送れるよう支えられる看護師になりたい。』

葵は、その言葉を見つめた。

そして、微笑んだ。

街のどこかでは、春人がまた書類の山に埋もれているのだろう。

もしかしたら、由紀叔母さんと本棚について口論しているかもしれない。

あるいは、サボテン王国の憲法改正について、壮大な計画を立てているのかもしれない。

そう考えると、笑いがこぼれた。

そして、ほんの一瞬――

部屋の空気が、少しだけ怖くなくなった。

葵はスマートフォンを手に取った。

春人との会話を開いた。

そして、最後のメッセージを送った。

葵:おやすみ、春人。

数秒後――

春人:おやすみ、葵。

さらに、もう一通。

春人:ところで、トゲトゲ卿四世が正式な外交会議を要求している。

葵は吹き出した。

葵:忙しいって伝えて!

春人:陛下は大変ご立腹だ。

葵:それでいいの!

葵はスマートフォンを置いた。

笑顔のまま。

◇ ◇ ◇

未来は、いつだって優しいとは限らない。

時には、チャンスを運んでくる。

時には、困難を運んでくる。

そして時には――

過去に置いてきたはずの影を、再び連れてくることもある。

春人は、まだ自分の家を持つために努力していた。

必要な専門的ケアを受けながら、自分自身の人生について決断できる場所。

葵もまた、理想の看護師になるために努力していた。

誰かの許可を求めることなく、自分の夢を追いかけられる女性として。

そして今――

二人は、予想もしなかった問題に直面していた。

過去が終わったことを認めようとしない男。

しかし、拓海には理解できていないことがあった。

葵は、かつて彼の許可がなければ生きていけないと思い込んでいた、あの頃の女性ではない。

そして春人も、別の形の支配によって彼女を守ろうとする人間ではなかった。

二人は、夢を諦めない。

生きることをやめない。

そして、恐怖を二人の関係の土台にはしない。

なぜなら――

本当の愛とは、所有することではないから。

服従させることでもない。

誰かの未来を、勝手に決めることでもない。

それは、その人が自分で選んだ未来へ進んでいくとき、隣で支えること。

たとえ、道が険しくなっても。

たとえ、影が長く伸びても。

たとえ、明日が恐ろしいほど不確かでも。

だからこそ――

まだ朝の訪れを知らない夜空の下で――

二人は、前へ進み続けた。

一歩ずつ。

車輪を一回転させるたびに。

そして、一つずつ勇気ある決断を重ねながら。

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