↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
56/124

第56話 幸せの扉を叩く影は、まだ過去の中で息をしていた

朝の九時。

高橋春人は、人生で最も恐ろしいものの一つと向き合っていた。

面接。

しかも――

面接を受ける側ではない。

面接をする側だった。

「……これは予想外だね」

春人はパソコンの画面を見つめた。

画面には、一つの文書が表示されている。

『夜間看護師候補者・面談質問事項』

その下には、すでに二十三個の質問が並んでいた。

二十三個。

我ながら、なかなかの数だった。

「……多すぎるかな?」

春人は考えた。

そして、音声入力で新しい項目を追加した。

24.利用者の希望と医療上の安全が衝突した場合、どのように対応しますか?

「……よし」

そのとき、背後から声がした。

「何がよしなの?」

由紀叔母さんだった。

春人は振り向いた。

「面接の準備だよ」

由紀は画面を覗き込んだ。

「二十四問?」

「今のところね」

「今のところ?」

「増える可能性がある」

由紀は笑った。

「相手の看護師さん、びっくりしちゃうんじゃない?」

春人は真剣な表情になった。

「大切なことだからね」

由紀の笑顔が少し柔らかくなった。

「そうね」

春人は画面に視線を戻した。

「資格や経験はもちろん大切だよ。でも、それだけじゃない」

「うん」

「僕の生活に関わる人だから」

彼は少し間を置いた。

「僕がどんなふうに暮らしたいかも、知ってもらわないと」

由紀は静かにうなずいた。

「そのとおりね」

春人は微笑んだ。

「ただし、一つ問題がある」

「何?」

「質問が二十四個もあると、面接が終わる頃には相手が退職を決意しているかもしれない」

由紀は吹き出した。

「まだ採用もされてないでしょう!」

「だからこそ深刻なんだ」

◇ ◇ ◇

その頃。

病院の休憩室では、水野葵がスマートフォンを見つめていた。

画面には、新しいメールが表示されている。

差出人は、病院の看護教育担当部署だった。

件名:専門能力開発プログラム・一次選考結果のお知らせ

葵は息を止めた。

「……え?」

もう一度、文章を読んだ。

そして――

「……通った?」

彼女の応募書類は、一次選考を通過していた。

次の段階は、担当者との面接。

さらに、研修参加に関する追加資料の提出も必要になる。

まだ合格ではない。

けれど――

最初の関門を越えたのだ。

「葵?」

振り向くと、理沙が立っていた。

「どうしたの?」

葵は画面を見せた。

理沙の目が大きくなった。

「えっ! 一次選考通過!?」

葵はうなずいた。

「はい……」

「すごいじゃない!」

「でも、まだ面接が……」

「それでも、おめでとう!」

葵は照れくさそうに笑った。

「ありがとうございます」

理沙は椅子に座った。

「面接、いつ?」

「来週です」

「準備しないとね」

葵はうなずいた。

「はい」

しかし、その顔には少し不安があった。

理沙は気づいた。

「緊張してる?」

「……かなり」

「大丈夫よ。自分の考えを話せばいいんだから」

葵は小さく笑った。

「それが一番難しいんです」

理沙は微笑んだ。

「だったら、練習してみたら?」

葵は考えた。

そして――

ある人物の顔が浮かんだ。

青い髪。

青い電動車椅子。

少し皮肉っぽい笑顔。

そして、時々どうしようもなくくだらない冗談を言う青年。

「……そうですね」

葵は微笑んだ。

「ちょうど、面接の練習が好きそうな人を知っています」

◇ ◇ ◇

昼過ぎ。

春人のスマートフォンが震えた。

葵からだった。

葵:春人!

春人:何か重大事件でも?

葵:一次選考、通った!

春人は目を見開いた。

「……おお!」

すぐに返信した。

春人:葵! おめでとう!

葵:ありがとう!

春人:素晴らしいね!

葵:でも、来週面接があるの。

春人:なるほど。

葵:それで、お願いがあるんだけど。

春人:王国の財政援助以外なら検討しよう。

葵:面接の練習、付き合ってくれない?

春人は微笑んだ。

春人:もちろん。

葵:本当?

春人:実は僕も、今まさに面接の準備をしているところだよ。

葵:看護師さんの?

春人:そう。質問は現在二十四問。

葵:多すぎない!?

春人:重要な国家事業だからね。

葵:じゃあ、私の面接練習も厳しくなる?

春人は少し考えた。

そして――

春人:覚悟しておきたまえ、水野候補者。

葵:怖いんだけど!

春人:まず、志望動機を三十秒以内で述べよ。

葵:今!?

春人:面接は突然始まるものだ。

葵:そんなわけないでしょう!

春人は笑った。

しかし、その笑顔はすぐに少し真剣なものになった。

来週。

自分も、葵も。

それぞれ、大切な面談を控えている。

別々の未来に向けた、別々の挑戦。

それでも――

互いを応援できることが嬉しかった。

◇ ◇ ◇

二日後。

春人は大地とともに、アパートの追加調査に立ち会っていた。

同行する看護師も、必要な医療的ケアに対応できるよう待機していた。

室内には、不動産管理会社の担当者と、バリアフリー改修を専門とする施工担当者がいた。

春人は玄関からリビングへ進んだ。

まだ何も置かれていない部屋。

白い壁。

大きな窓。

静かな空間。

それなのに――

春人には、そこに未来の生活が見える気がした。

本棚。

机。

医療機器。

そして、窓辺に置かれた小さな植物。

もちろん――

トゲトゲ卿四世である。

「こちらの動線ですが」

施工担当者が図面を広げた。

「電動車椅子の回転スペースを確保するには、予定されている収納設備の位置を変更したほうがよさそうです」

春人はうなずいた。

「分かりました」

「それから、寝室の電源設備についても確認が必要です」

春人の表情が真剣になった。

「医療機器のためですか?」

「はい。既存の回路や設備の状態を確認し、必要な対応を検討することになります」

大地が質問した。

「工事費は変わりますか?」

担当者は少し考えた。

「現時点では断言できません。追加の確認後に見積もりをお出しします」

春人は小さく息を吐いた。

また、見積もり。

また、待機。

また、書類。

しかし――

今回は、以前ほど落ち込まなかった。

「一つ確認してもいいですか?」

施工担当者が顔を上げた。

「もちろんです」

春人は寝室の図面を見た。

「医療機器の配置だけでなく、夜間の介助スタッフが安全に作業できる空間も確保したいんです」

「承知しました」

「それと、僕が普段使うものは、できるだけ自分で操作できる位置に置きたい」

担当者はうなずいた。

「具体的に、どの設備を想定されていますか?」

春人は説明した。

音声操作できる照明。

パソコン。

環境制御機器。

そして、緊急時の連絡手段。

すべてを一度に導入できるとは限らない。

けれど――

必要な設備と、将来的に検討したい設備を分けて整理しておきたかった。

担当者はメモを取った。

「なるほど。では、その点も含めて配置を検討しましょう」

春人は微笑んだ。

「ありがとうございます」

大地は、そんな彼を見ていた。

以前なら、こうした話し合いで春人が遠慮してしまうこともあった。

しかし今は違う。

自分の希望を、はっきり伝えている。

それが、大地には嬉しかった。

◇ ◇ ◇

調査が終わったあと。

春人はリビングの窓辺に車椅子を進めた。

外には、小さな街路樹が見えた。

大地が隣に立った。

「どうだった?」

春人は少し考えた。

「……思ったより大変だね」

大地は笑った。

「そうだな」

「でも、悪くなかった」

「そうか」

春人は部屋を見渡した。

「まだ何も決まっていないことが多いけど」

彼は微笑んだ。

「ここで暮らすために、具体的な話ができた」

大地はうなずいた。

「それは大きな進歩だ」

春人は窓の外を見た。

「……うん」

そのとき、スマートフォンが震えた。

葵からのメッセージだった。

葵:今日の調査、どうだった?

春人:追加の確認事項がいくつか出たよ。

葵:大丈夫そう?

春人:まだ分からない。でも、前に進んでいると思う。

葵:よかった。

春人は微笑んだ。

そして、続けて入力した。

春人:ところで、今度のデートについて提案がある。

葵:何?

春人:仕事、アパート、看護師、研修の話は禁止。

葵:えっ?

春人:純粋にデートを楽しもう。

葵:……いいね!

春人:ただし、サボテン問題は例外とする。

葵:それも禁止!

春人:そんな……。

◇ ◇ ◇

日曜日。

二人は、公園でデートをすることになった。

空は晴れていた。

風は穏やかだった。

木々の葉が、秋の光を受けて揺れていた。

春人は青い電動車椅子で、公園の舗装された遊歩道を進んでいた。

葵はその隣を歩いている。

同行する看護師は、必要な距離を保ちながら二人を見守っていた。

「さて」

春人が言った。

「本日の規則を確認しよう」

葵は笑った。

「また?」

「重要事項だからね」

「はいはい」

春人は真剣な声を出した。

「第一条。仕事の話は禁止」

「了解」

「第二条。アパートの話は禁止」

「了解」

「第三条。看護師の面接についての話は禁止」

「了解」

「第四条。研修についての話は禁止」

葵はうなずいた。

「了解」

春人は満足そうに微笑んだ。

「よし」

沈黙。

五秒。

十秒。

そして――

葵が口を開いた。

「……そういえば、面接で聞かれそうな質問なんだけど」

春人はすぐに振り向いた。

「違反!」

葵は目を見開いた。

「あっ!」

「開始から十五秒で規則違反とは」

「ごめん!」

「実に残念だ」

葵は笑った。

「じゃあ、春人は何か話してよ」

「分かった」

彼は少し考えた。

「今日の公園の雰囲気は、なかなかいいね」

「うん」

「新しいアパートにも、こういう景色が――」

葵が指差した。

「違反!」

春人は固まった。

「……しまった」

葵は大笑いした。

「春人もじゃない!」

「不覚だった」

「もう、二人とも駄目だね」

春人はため息をついた。

「規則が厳しすぎるのかもしれない」

葵は笑った。

「自分で決めたくせに!」

◇ ◇ ◇

二人は、公園の奥にある小さな広場へ向かった。

そこにはベンチと花壇があり、子どもたちが少し離れた場所で遊んでいた。

葵は春人の隣に座った。

しばらく、二人は何も話さなかった。

ただ、風の音を聞いていた。

「……ねえ」

葵が静かに言った。

「うん?」

「こういう時間、好きだな」

春人は微笑んだ。

「僕も」

葵は空を見上げた。

「最近、いろんなことがあったでしょう?」

「そうだね」

「楽しいことも、不安なことも」

春人はうなずいた。

葵は続けた。

「でも、こうして何も考えずに一緒にいられる時間も、大切なんだなって」

春人は少し考えた。

そして――

「……確かに」

彼は微笑んだ。

「未来の準備ばかりしていると、今を楽しむことを忘れそうになるね」

葵はうなずいた。

「うん」

春人は空を見た。

「じゃあ、今日は何もしないことを頑張ろう」

葵は吹き出した。

「何もしないことを頑張るの?」

「非常に高度な技術だよ」

「そうなの?」

「僕にとってはね」

葵は笑った。

そして、そっと彼の手に触れた。

春人は彼女を見た。

葵は微笑んだ。

「今日は、ただ一緒にいよう」

春人も微笑んだ。

「……うん」

◇ ◇ ◇

しかし――

その穏やかな時間を、遠くから見つめる人物がいた。

公園の反対側。

木陰に停められた黒い車。

その運転席に、一人の男が座っていた。

彼はスマートフォンを手にしていた。

画面には、一枚の写真が表示されている。

葵。

そして――

青い電動車椅子に乗る春人。

男は画面を見つめた。

表情は冷たかった。

「……なるほど」

低い声が漏れた。

「そういうことか」

彼は写真を拡大した。

春人の顔。

葵の笑顔。

二人の距離。

男の口元が、わずかに歪んだ。

「俺のことは、もう忘れたってわけか」

その声には、親しみなどなかった。

ただ――

不快な執着だけがあった。

男の名は、拓海。

かつて葵と交際していた男。

彼女の行動を監視し、友人関係に口を出し、思いどおりにならないと怒りをぶつけていた人物。

葵がようやく離れることのできた、過去の影。

しかし――

拓海は、その関係が終わったことを受け入れていなかった。

「……ずいぶん楽しそうじゃないか、葵」

彼は静かにつぶやいた。

そして、スマートフォンの画面を消した。

◇ ◇ ◇

デートが終わる頃。

葵は、少し名残惜しそうに春人を見た。

「今日は楽しかった」

春人は微笑んだ。

「僕も」

「また、こういう日を作ろうね」

「もちろん」

彼は少し考えた。

「ただし、次回は規則を緩和する必要がある」

葵は笑った。

「そうだね」

「仕事の話を一切禁止するのは、我々には難しすぎる」

「うん」

「せめて一日三回までは許可しよう」

「三回?」

「妥協案だよ」

葵は笑った。

「じゃあ、四回は?」

春人は真剣な顔をした。

「……交渉の余地はある」

葵は吹き出した。

「本当に、春人って面白い」

彼は微笑んだ。

「光栄だね」

葵は彼の頬にそっとキスをした。

「またね」

春人の表情が柔らかくなった。

「またね、葵」

彼女は手を振った。

春人も笑顔で見送った。

そして――

それぞれ帰路についた。

葵は知らなかった。

その日のデートを、別の誰かが見ていたことを。

◇ ◇ ◇

その夜。

葵は自宅に戻り、シャワーを浴びた。

髪を乾かし、部屋着に着替えたあと、机に向かった。

翌週の面接に向けて、少しだけ準備をするつもりだった。

しかし――

スマートフォンが震えた。

見知らぬ番号からのメッセージ。

葵は眉を寄せた。

「……誰?」

画面を開いた。

そこには、短い文章が表示されていた。

『今日は楽しそうだったな。』

葵の指が止まった。

心臓が、一度大きく跳ねた。

「……え?」

もう一通。

『公園、気持ちよさそうだったじゃないか。』

葵の顔から血の気が引いた。

手が震え始めた。

「……まさか」

さらに、メッセージが届いた。

『新しい彼氏か?』

その瞬間――

葵は理解した。

誰なのか。

なぜ、こんなメッセージが届いたのか。

そして――

過去が、再び自分の前に現れたことを。

「……拓海」

声が震えた。

彼女はスマートフォンを置いた。

しかし、すぐにもう一度手に取った。

画面を確認した。

見間違いであってほしかった。

ただの悪質ないたずらであってほしかった。

でも――

公園のことを知っている。

春人のことを知っている。

今日の出来事を知っている。

葵は深く息を吸おうとした。

うまくいかなかった。

胸が苦しかった。

かつて、拓海から届くメッセージは、彼女にとって恐怖そのものだった。

どこにいるのか。

誰と会っているのか。

なぜ返信が遅いのか。

何をしているのか。

いつも説明を求められた。

いつも責められた。

そして、いつの間にか――

自分の生活を、自分で決めることさえ怖くなっていた。

ようやく離れられたはずだった。

ようやく、普通に笑えるようになったはずだった。

それなのに――

「……どうして」

葵は小さくつぶやいた。

「どうして、今さら……」

スマートフォンが再び震えた。

『無視するなよ。』

葵は目を閉じた。

◇ ◇ ◇

一方、その頃。

春人は自室で、葵とのデートを思い返していた。

穏やかな公園。

彼女の笑顔。

何もしない時間。

そして、頬に残った温かな感触。

「……いい一日だったな」

彼は微笑んだ。

パソコンを開き、日記を書こうとした。

しかし、その前に――

葵へメッセージを送った。

春人:今日はありがとう。楽しかったよ。

数分が経った。

返信はなかった。

春人は気にしなかった。

きっと、疲れているのだろう。

あるいは、面接の準備をしているのかもしれない。

彼は日記を開いた。

『今日の小さな幸せ』

そして、音声入力を始めた。

今日は、葵と公園へ行った。

仕事や将来の話をしないという約束をした。

結果は、惨敗だった。

春人は笑った。

でも、楽しかった。

何か特別なことをしたわけじゃない。

ただ、一緒に過ごしただけだ。

それでも、十分幸せだった。

少し間を置いた。

僕たちは、未来のことばかり考えている。

もちろん、それは大切だ。

でも、今この瞬間にも、守りたいものがあるんだと思う。

春人は画面を見た。

そして、微笑んだ。

葵の笑顔。

一緒に笑った時間。

何も起こらない、普通の一日。

そんな日々を、これからも大切にしたい。

彼は文書を保存した。

そのとき――

スマートフォンが震えた。

葵からだった。

春人は微笑んだ。

しかし――

画面に表示された文章を見た瞬間、その笑顔が消えた。

葵:春人……

葵:ちょっと怖いことがあったの。

春人はすぐに返信した。

春人:どうしたの?

しばらく、返信がなかった。

そして――

葵:拓海から連絡が来た。

春人の表情が変わった。

拓海。

その名前は知っていた。

葵が、かつて付き合っていた男。

彼女を傷つけた男。

彼女が、ようやく離れた相手。

春人は慎重に入力した。

春人:今、安全な場所にいる?

葵:家にいる。

春人:一人?

葵:うん。

春人は少し考えた。

春人:電話してもいい?

葵:……うん。

春人は、すぐに通話をかけた。

◇ ◇ ◇

「……もしもし」

葵の声は小さかった。

いつもの明るさがなかった。

春人は落ち着いた声で答えた。

「葵」

「……うん」

「話せる?」

「うん……」

彼女の声が震えていた。

春人は急かさなかった。

「何があったの?」

葵は説明した。

見知らぬ番号。

公園のこと。

春人のこと。

そして、拓海からのメッセージ。

話し終える頃には、声が少しかすれていた。

春人は静かに聞いていた。

そして――

「……それは怖かったね」

葵は小さく息を吸った。

「うん……」

「今もメッセージが来てる?」

「さっきから、何通か……」

春人は考えた。

「返信はした?」

「してない」

「それでいいと思う」

少し間を置いた。

「メッセージは消さずに残しておいて」

葵はうなずいた。

「……うん」

「日時と番号が分かるように、記録も残しておいたほうがいい」

「分かった」

春人は続けた。

「もし家の近くにいる気配があったり、直接脅されたりしたら、すぐに警察へ連絡して」

葵は静かに答えた。

「……うん」

少しの沈黙。

そして、葵が言った。

「……ごめんね」

春人は眉を寄せた。

「何が?」

「せっかく、今日は楽しい一日だったのに」

春人はすぐに答えた。

「葵」

彼女は黙った。

「君が謝ることじゃないよ」

葵の目に涙が浮かんだ。

「でも……」

「楽しかった一日が、なかったことになるわけじゃない」

春人は静かに続けた。

「今日、僕たちは本当に楽しかった」

「うん……」

「それは変わらないよ」

葵は唇を噛んだ。

春人は少し間を置いた。

「それに、今は君が安全でいることのほうが大切だ」

葵は目を閉じた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

◇ ◇ ◇

その後、二人はしばらく話した。

春人は、無理に葵を元気づけようとはしなかった。

拓海のことを忘れろとも言わなかった。

ただ、彼女の話を聞いた。

そして、今できることを一緒に考えた。

葵は、理沙にも相談することにした。

病院での勤務予定や個人情報が、拓海に知られていないか確認する必要もあった。

必要なら、警察や相談窓口にも連絡する。

一人で抱え込まない。

それだけは、決めた。

「……春人」

「うん?」

「私、また怖くなっちゃった」

春人は静かに答えた。

「うん」

「せっかく、前より平気になってきたと思ってたのに」

彼は少し考えた。

そして――

「怖くなることと、前に進んでいないことは、同じじゃないと思う」

葵は黙った。

春人は続けた。

「今日、君は僕に話してくれた」

「……うん」

「一人で抱え込まずに」

葵は小さく息を吸った。

「……そうだね」

「それは、大切なことだと思う」

葵は目を閉じた。

そして、少しだけ笑った。

「……ありがとう」

春人も微笑んだ。

「いつでも」

◇ ◇ ◇

通話を終えたあと。

葵はスマートフォンを机に置いた。

まだ怖かった。

胸の奥には、不安が残っていた。

しかし――

さっきまでとは、少し違っていた。

もう、一人で抱え込まなくてもいい。

彼女はメッセージの記録を保存した。

そして、理沙に相談したいことがあると連絡した。

それから、部屋の鍵を確認した。

カーテンを閉めた。

深く息を吸った。

少しずつ、落ち着きを取り戻そうとした。

そのとき――

また、スマートフォンが震えた。

葵は画面を見た。

知らない番号。

新しいメッセージ。

『あの車椅子の男、お前のことをどこまで知ってるんだ?』

葵の心臓が大きく跳ねた。

続けて、もう一通。

『俺たちの話は、まだ終わってない。』

葵は震える指で画面を閉じた。

そして――

春人との通話履歴を見つめた。

今度は、黙って耐えるつもりはなかった。

◇ ◇ ◇

一方。

街の別の場所。

拓海は、暗い部屋でスマートフォンを眺めていた。

葵からの返信はない。

何度送っても。

何を送っても。

返事はなかった。

彼は舌打ちした。

「……無視かよ」

スマートフォンを机に置いた。

そして、再び手に取った。

画面には、昼間の写真が残っていた。

公園。

葵。

そして、春人。

拓海は写真を見つめた。

「……何がそんなにいいんだよ」

その声には、嫉妬が滲んでいた。

しかし、それは愛情ではなかった。

相手の意思を尊重することもできず、関係が終わった事実も受け入れられない。

ただの執着だった。

拓海は画面を消した。

そして、低い声でつぶやいた。

「……まだ終わってねえからな」

◇ ◇ ◇

その夜。

春人は、なかなか眠れなかった。

葵の声が、頭から離れなかった。

震えていた。

怖がっていた。

そして、何度も謝っていた。

春人は天井を見つめた。

「……拓海」

その名前を、静かにつぶやいた。

怒りがあった。

もちろん、あった。

葵を傷つけた相手が、また彼女の生活を脅かそうとしている。

許せるはずがなかった。

しかし――

怒りだけで何かが解決するわけではない。

春人は分かっていた。

自分にできること。

自分にはできないこと。

そして、葵自身が決めるべきこと。

それらを混同してはいけない。

彼は、静かに息を吐いた。

「……大丈夫」

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

葵へ。

それとも、自分自身へ。

春人は目を閉じた。

明日になったら、また話そう。

彼女が望むなら、一緒に相談先を調べよう。

必要なときには、助けを求めよう。

一人で何もかも解決しようとはしない。

そして――

葵が再び、自分の未来を自由に選べるように。

彼女の隣で、できることをしていこう。

◇ ◇ ◇

翌朝。

葵は病院へ向かう準備をしていた。

鏡の中の自分を見つめた。

少し疲れた顔。

目の下には、薄い影があった。

昨夜は、あまり眠れなかった。

それでも――

彼女は制服を手に取った。

そして、机の上に置かれた研修の資料を見た。

一瞬、迷った。

こんな状況で、研修のことまで考えていられるのだろうか。

しかし――

春人の言葉が浮かんだ。

君の夢は、僕の許可がなければ持てないものじゃない。

葵は目を閉じた。

そして、ゆっくりと開いた。

「……そうだよね」

拓海が現れたからといって。

怖いメッセージが届いたからといって。

自分の未来を、再び手放さなければならない理由にはならない。

葵はスマートフォンを手に取った。

理沙からの返信が届いていた。

『今日、時間を作るから話しましょう。無理しないでね。』

葵は小さく微笑んだ。

そして、春人にもメッセージを送った。

葵:おはよう。

数秒後――

春人:おはよう、葵。

葵:昨日はありがとう。

春人:どういたしまして。

葵:今日は理沙さんに相談するつもり。

春人:うん。必要な助けを受けてね。

葵:……私、研修の面接も諦めないから。

春人は少し間を置いた。

そして、返信した。

春人:それを聞けて嬉しいよ。

葵は微笑んだ。

春人:でも、無理はしないで。

葵:うん。

春人:それから、今日の面接練習は延期しても大丈夫だからね。

葵:ありがとう。

少し間が空いた。

そして――

葵:でも、春人。

春人:何?

葵:面接官役をするとき、意地悪な質問はしないでね。

春人:……善処しよう。

葵:その返事、信用できない!

春人は笑った。

葵も、少しだけ笑った。

それは、昨夜以来初めての自然な笑顔だった。

◇ ◇ ◇

幸せというものは、いつも穏やかな形で訪れるわけではない。

時には、ようやく手に入れた平穏を、過去の影が脅かすこともある。

忘れたかった記憶が、突然目の前に現れることもある。

それでも――

過去が戻ってきたからといって、未来まで奪われるわけではない。

春人には、まだ越えなければならない壁があった。

アパートの改修。

夜間看護師の確保。

安全で安定した生活を築くための、数え切れないほどの準備。

葵にも、これから向き合うべきものがあった。

専門研修の面接。

看護師としての新しい挑戦。

そして――

もう一度、自分の生活に入り込もうとする過去の影。

二人とも、すべての答えを持っているわけではなかった。

二人とも、恐怖を感じないわけではなかった。

けれど――

今度は、違っていた。

春人は、自分の人生を自分で選ぼうとしていた。

葵もまた、自分の未来を他人に支配させないと決めていた。

そして、二人は知っていた。

誰かを愛するということは、その人の人生を代わりに生きることではない。

その人が、自分自身の足で――

あるいは、自分自身の車輪で――

望む未来へ進んでいけるよう、隣で支え合うことなのだと。

ただし――

その未来へ続く道には、まだ誰も知らない影が潜んでいた。

拓海が、次に何をするつもりなのか。

葵は、まだ知らなかった。

春人も、知らなかった。

そして、その影が二人の日常にどれほど近づいているのかも――

まだ、誰にも分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。