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第55話 まだ描き終えていない明日の空の下で、私たちが分かち合った夢

水曜日の朝は、一つの口論から始まった。

それも――

非常に深刻な口論だった。

高橋家の平和を根底から揺るがしかねない、重大な問題。

そして、残念ながら――

春人は劣勢に立たされていた。

「絶対に駄目よ」

由紀叔母さんは腕を組んだ。

春人は彼女を見つめた。

「それは理不尽だよ」

「現実的なことを言ってるの」

「進歩を妨害している」

「大惨事を防いでいるのよ」

春人は目を細めた。

「大惨事?」

「そうよ」

彼はパソコンの画面を見た。

そして、再び由紀を見た。

「由紀叔母さん」

「何?」

「ただの本棚だよ」

「リビングの半分を占領する本棚でしょう」

「大げさだな」

「春人」

「とんでもない誇張だよ」

由紀は画面に表示された寸法を指差した。

「これ、長さが三メートル近くあるじゃない」

春人は少し考えた。

「二・八メートル」

由紀は呆れた顔をした。

「そういう問題じゃないでしょう!」

「正確な数字を示しただけだよ」

彼女はため息をついた。

残念ながら――

春人の微笑みは、交渉を有利に進める役には立たなかった。

「それで、ソファはどこに置くつもりなの?」

春人は瞬きをした。

「……ソファ?」

「そう。人が座る家具よ」

「その概念は理解しているよ」

「じゃあ、どこに置くの?」

春人はアパートの間取り図を見た。

沈黙。

さらに沈黙。

そして――

「……ソファは必要ないかもしれないね」

由紀は目を閉じた。

「もう……」

春人は真剣にうなずいた。

「確かに。これは神の助けが必要な問題かもしれない」

「春人!」

◇ ◇ ◇

口論が始まったのは、二十分ほど前だった。

春人は、新しいアパートに置く家具を調べていた。

本来なら、不動産管理会社から送られてきた残りの書類を確認するはずだった。

まだ三つのPDFが残っている。

三つ。

厄介な敵軍の生き残りだった。

しかし、残念ながら――

春人の関心は別の方向へ向かってしまった。

改修工事の仕様から――

バリアフリー家具へ。

バリアフリー家具から――

収納設備へ。

そして、収納設備から――

本棚へ。

非常に大きな本棚へ。

春人は、それを調査だと主張した。

由紀は、現実逃避だと主張した。

春人に言わせれば、それは不必要に敵対的な解釈だった。

「ほら」

彼は間取り図に視線を戻した。

「この壁に沿って本棚を置けば、車椅子が通れるスペースは残るはずなんだ」

由紀は身を乗り出した。

「介助スタッフのスペースは?」

春人は止まった。

「……スタッフ?」

「安全に介助できる場所も必要でしょう?」

彼はもう一度図面を見た。

それは、もっともな指摘だった。

腹立たしいほど、もっともだった。

アパートに必要なのは、電動車椅子が通れる通路だけではない。

方向転換するための空間。

適切な位置に車椅子を移動させるための余裕。

医療機器に安全にアクセスできる配置。

日常の介助を行うための十分なスペース。

人工呼吸器やその他の医療機器を設置する場所も考えなければならない。

緊急時の動線を、家具で塞ぐわけにもいかなかった。

春人はため息をついた。

「……分かったよ」

由紀は微笑んだ。

「分かった?」

「本棚については考え直す」

「よかった」

「たぶん」

「春人」

「さらなる調査を行ったうえでね」

由紀は笑った。

春人は画面を見つめ直した。

そして、静かに本棚の寸法を小さくした。

由紀はそれに気づいた。

しかし、賢明にも何も言わなかった。

◇ ◇ ◇

その頃、病院では――

水野葵が、春人よりもずっと真剣な朝を過ごしていた。

彼女は小さな会議室で、中村理沙と向かい合って座っていた。

二人の間には、一冊のパンフレットが置かれている。

葵は、もう数分間もそれを見つめていた。

『高度看護教育・専門能力開発プログラム』

病院では現在、複雑な医療的ケア、患者教育、そして病院と在宅医療の連携に関する専門研修の参加者を募集していた。

昇進というわけではない。

少なくとも、直接的には。

別の部署への異動が保証されるわけでもなかった。

しかし――

それは、一つの機会だった。

かつて葵が、挑戦してみたいと考えていたこと。

日々の生活が複雑になる前。

疲れ果てるほど忙しい勤務に追われる前。

以前の恋愛で負った傷に苦しむ前。

そして、毎日を無事に乗り切るだけで精一杯だと思うようになる前。

理沙は、静かに彼女を見守っていた。

「興味があるんでしょう?」

葵は顔を上げた。

「……そうだと思います」

理沙は微笑んだ。

「もう十分くらい、そのパンフレットを見てるもの」

葵は照れくさそうに笑った。

「そんなに経ちました?」

「もうすぐ十一分よ」

「……あ」

理沙は椅子の背もたれに寄りかかった。

「何が引っかかってるの?」

葵はパンフレットを見た。

「日程です」

「ああ」

「週末に研修がある日もあるみたいで」

「そうね」

「それに、追加の課題もありますし」

「ええ」

葵は少し迷った。

「……今でも、結構忙しいので」

理沙はうなずいた。

「それは分かるわ」

葵は窓の外を見た。

ガラスの向こうには、病院の中庭が広がっていた。

何人かの人が、木々の下を歩いている。

葵はしばらく、その光景を眺めていた。

そして――

「今、私には大切な人がいるんです」

理沙は微笑んだ。

「彼氏さん?」

葵の頬が赤くなった。

「……はい」

「それで、研修を受けたら会える時間が減るんじゃないかって心配なのね?」

葵はうなずいた。

「そんな感じです」

理沙は少し考えた。

「彼には話した?」

「まだです」

「どうして?」

葵は迷った。

「自分がどうしたいのか、まだ決められていないので」

理沙はゆっくりとうなずいた。

「なるほどね」

彼女はパンフレットを軽く指で叩いた。

「でも、全部決めてから話す必要はないんじゃない?」

葵は彼女を見た。

理沙は微笑んだ。

「誰かと話すことで、自分の気持ちが分かることもあるでしょう?」

葵は静かになった。

そして、もう一度パンフレットを見た。

そのとき初めて――

それが問題ではなく、可能性のように思えた。

◇ ◇ ◇

正午になる頃には、春人はもう一つのPDFを攻略していた。

正確には――

内容を確認し、疑問点を整理して、住宅改修を手伝ってくれている関係者に必要な部分を送っただけだった。

しかし、それではあまり格好がつかない。

「四つ目、完了」

春人は画面に向かって微笑んだ。

「残り二つ」

そのとき、スマートフォンが震えた。

葵からのメッセージだった。

葵:今日の夕方、忙しい?

春人は微笑んだ。

春人:場合によるね。

葵:何によるの?

春人:君が僕の王国を侵略する予定かどうか。

葵:静かなところで、ゆっくり話せたらと思って。

春人の表情が柔らかくなった。

昨夜の会話を思い出した。

葵には、話したいことがある。

将来についての話。

春人:もちろん。

葵:本当に?

春人:もちろんだよ。

葵:公園の近くに小さなカフェがあるんだけど、そこはどうかな?

春人は少し考えた。

以前、行ったことがある店だった。

入口は車椅子で利用でき、電動車椅子を置ける広さのテーブルもいくつかあった。

ただし、移動手段と介助の予定を調整する必要がある。

春人:大丈夫だと思う。先に予定を確認させて。

葵:うん。急がなくていいよ。

春人:調整できたら、そこで会おう。

葵:楽しみにしてる。

数秒後――

春人:一つ聞いてもいいかな?

葵:何?

春人:心配したほうがいい話?

葵:悪い話じゃないよ!

春人:映画では、そう言った直後に悪い知らせが来ることが多い。

葵:春人!

春人:よくある物語上の演出について述べただけだよ。

葵:本当に困った人ね。

春人:しかし、不思議と愛される存在でもある。

葵からの返信は、すぐには来なかった。

そして――

葵:残念ながら、そのとおり。

春人は吹き出した。

「……褒め言葉として受け取っておこう」

◇ ◇ ◇

その日の午後。

もう一通のメールが届いた。

差出人は、不動産管理会社だった。

春人はメールを開いた。

最初の段落を読んだ。

次の段落も読んだ。

すると――

彼の笑顔が、ゆっくりと消えていった。

「……ああ」

管理会社は、改修工事に関する予備資料を確認したという。

しかし、正式な工事日程を承認する前に、追加のバリアフリー現地調査を行いたいとのことだった。

調査では、改修内容、電気設備の要件、そして建物の安全性を損なわずに工事ができるかを確認する必要がある。

申請が却下されたわけではない。

だが――

新たな手続きだった。

新たな予定。

新たな遅れ。

そして、場合によっては――

新たな費用。

春人は画面を見つめた。

「……当然だよね」

ため息をついた。

「どうやら六つのPDFだけでは足りなかったらしい」

ドアが開いた。

大地が入ってきた。

「大丈夫か?」

春人は彼を見た。

「それは場合によるね」

大地は眉を上げた。

「何によるんだ?」

「予想外の書類仕事を、どう評価するかによる」

大地は顔をしかめた。

「そんなにひどいのか?」

春人はメールの内容を説明した。

大地は最後まで聞いた。

そして、うなずいた。

「まあ、それは必要だろうな」

春人は不満そうな顔をした。

「僕の味方をするはずじゃなかった?」

「味方だよ」

「それなら、どうして敵の意見に賛成するの?」

大地は笑った。

「アパートの安全を確認することは大切だからだ」

春人はため息をついた。

「……分かってるよ」

彼は画面を見た。

「ただ、何もかも時間がかかるんだ」

大地の表情が柔らかくなった。

「そうだな」

少しの沈黙。

そして、春人が再び口を開いた。

「もう少しで実現できそうだって思うんだ」

大地は耳を傾けた。

「でも、そのたびに新しい問題が出てくる」

「もどかしいよな」

「すごくね」

春人は電動車椅子の操作パネルに視線を落とした。

「自分の家で暮らすことを、ずっと考えてきたんだ」

少し間を置いた。

「時々、もうそこに住んでいる自分が見えるくらい」

大地は微笑んだ。

「家具も?」

「本棚も」

「やっぱりな」

春人は小さく笑った。

しかし、その表情はすぐに真剣になった。

「でも、準備が整わないまま引っ越したくはない」

大地はうなずいた。

「それでいい」

「ちゃんと続けられる生活にしたいんだ」

春人は顔を上げた。

「一週間だけじゃなくて」

少し間が空いた。

「最初の問題が起きるまでだけでもなくて」

その声には、確かな決意があった。

「そこで、自分の人生を築きたいんだ」

大地は近くの椅子の背もたれに手を置いた。

「だったら、きちんと準備しよう」

春人はかすかに微笑んだ。

「時間がかかっても?」

「時間がかかってもだ」

春人はもう一度メールを見た。

そして、大げさにため息をついた。

「分かったよ」

大地は笑った。

「分かった?」

「追加の調査が一つ増えることを、寛大な心で受け入れよう」

「それはありがたいな」

「ただし、文句を言う権利は留保する」

「誰も止めないさ」

◇ ◇ ◇

夕方になる頃には、春人の外出の準備が整っていた。

予定されていた看護師が同行し、必要な医療的ケアに対応できる体制になっていた。

移動手段も確保された。

葵とは、カフェで待ち合わせることになった。

単純な予定だった。

特別なことではない。

それでも――

春人は、その時間を楽しみにしていた。

どこか特別な場所へ行くからではない。

葵が、話をしたいと言ってくれたからだ。

彼女が何を考えているのか、知りたかった。

たとえ難しい話でも。

たとえ何かを変える必要があっても。

彼女のことを、もっと理解したかった。

◇ ◇ ◇

葵が到着したとき、カフェは静かだった。

温かな照明が木製のテーブルを照らしている。

店内には、穏やかな音楽が流れていた。

窓の向こうでは、公園が夕暮れの金色に染まり始めていた。

葵は、春人の電動車椅子が十分に入れるテーブルを選んだ。

そして、待った。

数分後――

入口のドアが開いた。

春人が看護師に付き添われて入ってきた。

葵はすぐに微笑んだ。

「春人!」

彼は彼女を見た。

「こんばんは」

葵は笑った。

「どうしてそんなに改まってるの?」

「重要な外交会議に出席するために来たからね」

葵は眉を上げた。

「そうなの?」

「どうやらね」

春人はテーブルへ近づいた。

「ただし、議題については事前に知らされていない」

葵は微笑んだ。

「本当におかしな人」

「よく言われるよ」

春人の車椅子の位置と医療機器の状態を確認したあと、看護師は少し離れたテーブルへ移動した。

必要なときに対応できる距離を保ちながら、二人の会話を邪魔しないためだった。

葵は春人の向かいに座った。

しばらく――

二人は何も話さなかった。

ただ、互いを見つめていた。

そして、春人が微笑んだ。

「……さて」

葵は小さく息を吸った。

「うん」

彼は首をかしげた。

「始めてもいいかな?」

葵は緊張したように笑った。

「面接みたいに言わないでよ」

「もう少しくだけたほうがいい?」

「お願い」

春人は考えた。

そして――

「分かった」

優しく微笑んだ。

「何を考えているの、葵?」

その聞き方が、彼女を少し安心させた。

葵は自分の手元を見た。

それから、春人を見た。

「……最近、仕事のことを考えてるの」

春人はうなずいた。

「うん」

「病院に、研修プログラムがあるんだ」

葵は説明した。

専門的な講義。

新しい知識や技術。

増える責任。

そして、今よりも忙しくなるかもしれない日程。

春人は耳を傾けた。

途中で口を挟まなかった。

すぐに助言をしようともしなかった。

ただ、彼女の話を聞いていた。

説明が終わると、春人は微笑んだ。

「面白そうだね」

葵は瞬きをした。

「本当に?」

「もちろん」

彼は首をかしげた。

「応募したいの?」

葵は少し迷った。

「……したいと思ってる」

春人は微笑んだ。

「だったら、真剣に考えてみたらいいと思う」

葵は彼を見た。

「そんなに簡単に?」

春人は眉を上げた。

「どういう意味?」

「だって……」

彼女は視線を落とした。

「今より会える時間が減るかもしれないんだよ?」

春人は少し黙った。

そして――

「そうだね」

葵は顔を上げた。

彼は続けた。

「寂しくなると思う」

彼女の頬が温かくなった。

「……本当に?」

春人は彼女を見た。

「葵」

「何?」

「君は僕の彼女だよ」

葵は小さく笑った。

「分かってる」

「基本的に、君と一緒に過ごす時間は好きなんだ」

「基本的に?」

「いくつかの例外を除いてね」

葵は目を細めた。

「例えば?」

「君がトゲトゲ卿四世の正当な統治権を脅かそうとするとき」

葵は吹き出した。

「春人!」

彼はにやりとした。

それから、表情を柔らかくした。

「でも、真面目な話」

葵は彼を見た。

「会える時間が減ったら、寂しいよ」

少し間が空いた。

「でも、それは君に大切なことを諦めてほしいって意味じゃない」

葵は静かになった。

春人は続けた。

「君は今の看護師になるために、ずっと努力してきたんだろう?」

「……うん」

「患者さんのことも大切にしている」

葵はうなずいた。

「すごく」

「知ってるよ」

彼は微笑んだ。

「だったら、どうして僕が君の成長を止めたいと思うの?」

葵は彼を見つめた。

数秒間――

言葉が出なかった。

◇ ◇ ◇

窓の外で、夕日の角度が変わっていった。

葵は窓を見た。

そして、春人に視線を戻した。

「……一つ、話してもいい?」

彼はうなずいた。

「もちろん」

葵は少し迷った。

「前に付き合っていた人とのことなんだけど……」

春人は静かになった。

葵が過去の恋愛について話すことは、あまり多くなかった。

隠しているからではない。

思い出すこと自体が、つらい記憶もあるからだ。

春人は待った。

葵は視線を落とした。

「昔はね、何をするにも許可をもらわなきゃいけないような気がしてたの」

春人は静かに耳を傾けた。

「残業することも」

「友達に会うことも」

「自分の予定を立てることも」

彼女の指が、カップを少し強く握った。

「本当は、自分で決めていいはずのことまで」

春人の表情が柔らかくなった。

葵は小さく息を吸った。

「春人がそんな人じゃないことは、分かってる」

彼はうなずいた。

「でも、時々……」

彼女は言葉を止めた。

「今でも、不安になることがあるの」

春人は彼女を見た。

「僕がどう反応するか?」

葵はうなずいた。

「……うん」

二人の間に沈黙が流れた。

気まずい沈黙ではなかった。

ただ、静かな時間だった。

春人は言葉を選んだ。

そして――

「葵」

彼女は顔を上げた。

「僕は、いつも完璧な反応ができるとは約束できない」

葵の目が少し大きくなった。

春人は続けた。

「がっかりすることもあると思う」

「何かを誤解することもある」

「それに、信じられないくらい馬鹿なことを言う日もあるだろうね」

葵は小さく笑った。

「最後のは、かなりありそう」

「非常にね」

春人も微笑んだ。

それから、再び真剣な表情になった。

「でも、君が自分の望みを話すことを怖がってほしくない」

葵の目が柔らかくなった。

春人は続けた。

「君の夢は、僕の許可がなければ持てないものじゃない」

葵は彼を見つめた。

「僕の彼女でいることと、君自身でいることを、どちらか一つに決める必要なんてないんだ」

しばらく――

葵は何も言えなかった。

それから、視線を落とした。

「……ありがとう」

春人は微笑んだ。

「どういたしまして」

彼女はゆっくり息を吸った。

「たぶん、その言葉を聞きたかったんだと思う」

「だったら、言えてよかった」

葵は彼を見た。

「じゃあ、春人は?」

彼は瞬きをした。

「僕?」

葵はうなずいた。

「春人の未来」

彼は首をかしげた。

「どうしたの?」

「自分のアパートで暮らすために、すごく頑張ってるでしょう?」

「うん」

「それがどれだけ大切か、私も分かってるつもり」

彼はうなずいた。

葵は少し迷った。

「でも、時々、私が邪魔になってしまうんじゃないかって心配になるの」

春人は少し眉を寄せた。

「どうして?」

「一緒に過ごしたいと思うこととか」

「私にも予定があることとか」

「いつでも会えるわけじゃないこととか」

春人は考えた。

そして――

「葵」

「うん?」

「僕は、自分の自立のために、君の自立を犠牲にしてほしくない」

彼女は彼を見た。

春人は続けた。

「僕のアパートでの生活は、必要な介助体制がきちんと整っているから成り立つものであるべきなんだ」

「君が自分の生活を無理に変えて、不足している部分を埋めるからじゃない」

葵は静かになった。

春人は優しく微笑んだ。

「君は僕の彼女だよ」

「介助スタッフの勤務表じゃない」

葵は瞬きをした。

そして、笑った。

「すごく変な言い方」

「でも、正確でしょう?」

彼女はうなずいた。

「……うん」

春人は続けた。

「君には、僕と一緒にいたいから遊びに来てほしい」

「何かを支え続けなきゃいけないっていう義務感からじゃなくて」

葵の目が潤んだ。

「……春人」

彼は微笑んだ。

「それに、君が忙しいときは、別の方法を考えればいい」

彼女はうなずいた。

「うん」

「ビデオ通話とか」

「メッセージとか」

「予定が合う日のデートとか」

少し間が空いた。

「あるいは、伝書鳩とか」

葵は吹き出した。

「伝書鳩!?」

「過小評価されている通信技術だよ」

「本当におかしな人」

「よく言われる」

◇ ◇ ◇

二人は、それから一時間ほどカフェで過ごした。

話題は、少しずつ変わっていった。

葵の研修から――

春人のアパートへ。

アパートから――

看護師候補者との面談へ。

そして、面談の話から――

管理会社が求めてきた追加のバリアフリー調査へ。

葵は真剣に聞いていた。

「じゃあ、もう一度調査が必要なの?」

春人はうなずいた。

「そういうこと」

「悪いことなの?」

「必ずしもそうじゃない」

彼はため息をついた。

「でも、また一つ手続きが増えた」

葵はうなずいた。

「それはもどかしいね」

「すごく」

春人は窓の外を見た。

「大切なことだって分かってるんだ」

少し間を置いた。

「ただ、全部準備が終わったところまで、一気に進めたらいいのにって思う」

葵は微笑んだ。

「そう思うことって、誰にでもあるんじゃないかな」

春人は彼女を見た。

「本当に?」

「もちろん」

葵は少し考えた。

「私だって、自分の仕事をこれからどうしたいのか、全部分かっているところまで進めたら楽だと思うもの」

春人は微笑んだ。

「それは便利だね」

「でしょう?」

「残念ながら、人生には早送り機能が搭載されていないらしい」

葵は笑った。

「設計ミスだね」

「まったくだ」

春人は首を振った。

「開発者に苦情を入れたいくらいだよ」

葵はまた笑った。

そして――

少し考え込んだ。

「……でも、それでもいいのかもしれないね」

春人は彼女を見た。

「何が?」

「まだ、全部分かっていなくても」

彼は考えた。

葵は続けた。

「私たち、未来のことを、全部計画し終えなきゃいけないものみたいに話してるでしょう?」

彼女はかすかに微笑んだ。

「でも、時間をかけて考えていくものもあるんじゃないかな」

春人は静かになった。

そして――

「……そうかもしれないね」

葵は彼を見た。

「私たち、まだいろんなことを考えている途中なんだよ」

「うん」

「きっと、失敗することもある」

「ほぼ間違いなくね」

葵は笑った。

「でも、だからって間違ったことをしているわけじゃない」

春人は微笑んだ。

「それは、少し安心する考え方だね」

葵はうなずいた。

「私もそう思う」

◇ ◇ ◇

外では、太陽が沈み始めていた。

カフェの窓には、店内の温かな明かりが映っている。

葵は時間を確認した。

「……そろそろ帰らなきゃね」

春人はうなずいた。

「そうだね」

予定されている次の医療的ケアに対応する必要があり、帰りの移動手段も決まった時間に手配されていた。

いつまでも、ここにいるわけにはいかなかった。

葵は彼を見た。

「今日は来てくれてありがとう」

春人は微笑んだ。

「もちろん」

「それから、話を聞いてくれてありがとう」

「いつでも」

彼女は少し迷った。

そして――

「もう一つ、聞いてもいい?」

春人は眉を上げた。

「もちろん」

葵は微笑んだ。

「春人も、怖くなることってある?」

彼は瞬きをした。

「何が?」

「未来のこと」

春人は窓の外を見た。

少しの間が空いた。

そして――

「……いつもだよ」

葵の表情が柔らかくなった。

春人は小さく笑った。

「だって、考えてみてよ」

彼は自分の車椅子に視線を向けた。

「まだ契約していないアパートがある」

「始まっていない改修工事がある」

「完成していない看護師の勤務体制がある」

「そして、ますます敵対的になっていくPDFの集団がある」

葵は小さく笑った。

春人は続けた。

「怖くないわけがないよ」

それから、彼女を見た。

「でも、楽しみでもあるんだ」

葵は微笑んだ。

「両方?」

「両方」

春人は少し考えた。

「その二つの気持ちは、互いに打ち消し合うものじゃないと思う」

葵は静かになった。

彼は続けた。

「怖くても、望んでいい」

少し間を置いた。

「どうなるか分からなくても、何かを望んでいいんだ」

葵はしばらく彼を見つめた。

そして、微笑んだ。

「……少し分かった気がする」

春人も微笑んだ。

「それならよかった」

少し間が空いた。

そして――

「ただし、PDFが自我を持ち始めた場合は話が別だけどね」

葵は吹き出した。

「春人!」

◇ ◇ ◇

帰る時間になると、葵は春人と一緒に入口へ向かった。

同行していた看護師が、出発前に医療機器や持ち物の状態を確認した。

外に出ると、夕方の空気は少し涼しかった。

道路の向こうにある公園が、沈みかけた太陽に照らされている。

葵は春人の隣で立ち止まった。

「……ねえ」

春人は顔を上げた。

「うん?」

「私、応募してみようと思う」

彼は微笑んだ。

「研修に?」

葵はうなずいた。

「うん」

春人の表情が明るくなった。

「それは素晴らしいね」

葵は緊張したように笑った。

「まだ受かったわけじゃないよ」

「分かってる」

「どれくらい倍率が高いのかも分からないし」

「承知しているよ」

「日程だって、すごく大変かもしれない」

「その可能性はあるね」

葵は彼を見つめた。

「本当に心配じゃないの?」

春人は少し考えた。

そして――

「少しは心配だよ」

葵は瞬きをした。

彼は微笑んだ。

「でも、それと同じくらい、君を誇りに思ってる」

彼女の目が大きくなった。

「……誇りに?」

「もちろん」

春人は少し間を置いた。

「君は、自分が望んでいることを選ぼうとしているんだから」

葵は視線を落とした。

小さな笑みが浮かんだ。

「……ありがとう」

春人は微笑んだ。

「どういたしまして」

彼女は近づいた。

そして、そっと彼の頬にキスをした。

春人は瞬きをした。

葵はにやりとした。

「先払いのお祝いってことで」

彼は微笑んだ。

「素晴らしい報酬制度だね」

葵は笑った。

「調子に乗らないでよ」

「もう遅いね」

彼女は首を振った。

「おやすみ、春人」

春人は温かく微笑んだ。

「おやすみ、葵」

そして――

もう一度、彼女に声をかけた。

「ねえ」

葵は振り向いた。

「何?」

「応募の結果がどうなっても……」

彼は少し間を置いた。

「これからも、君にとって大切なことを選んでほしい」

葵は彼を見つめた。

しばらく――

何も言わなかった。

そして、優しく微笑んだ。

「……うん」

◇ ◇ ◇

その夜。

春人は家に帰っていた。

外出は問題なく終わった。

予定されていた医療的ケアにも支障はなかった。

移動も順調だった。

そして、何より――

葵が話したかったことを、ようやく聞くことができた。

春人はパソコンの前に座った。

アパートの書類は、まだ残っている。

PDFはあと二つ。

追加のバリアフリー調査も、日程を決めなければならない。

看護師候補者との面談も、まだ正式には確定していない。

現実的な問題が、突然簡単になったわけではなかった。

それでも――

気持ちは少し軽くなっていた。

春人は日記を開いた。

『今日の小さな幸せ』

そして、音声入力を始めた。

今日は、葵が挑戦したいと思っている研修の話をしてくれた。

研修を受けたら、会える時間が減るかもしれないと心配していた。

僕は、応募してみたらいいと思うと伝えた。

寂しくならないからじゃない。

きっと、寂しくなる。

でも、僕たちの関係が、葵の世界を狭くするものになってほしくないんだ。

春人は少し間を置いた。

そして、続けた。

僕は、愛情というものは、人が成長できる場所を広げるものだと思う。

狭くするものじゃなくて。

春人は画面を見た。

少し考えた。

そして、微笑んだ。

これが特別に深い考えなのかは分からない。

たぶん、そんなことはない。

でも、大切なことだと思う。

彼は次の段落を入力した。

今日は、管理会社から追加のバリアフリー調査を求められた。

つまり、また書類が増える。

また予定が増える。

そして、また待たなければならない。

正直、もどかしかった。

今も、少しもどかしい。

でも、気持ちは変わっていない。

あのアパートに住みたい。

そこで、自分の生活を築きたい。

そして、それは実現できると信じている。

春人は少し間を置いた。

そして、付け加えた。

ちなみに、六つのPDFのうち、四つの確認を完了した。

勝利は目前である。

彼は小さく笑った。

「……実に感動的な文章だね」

◇ ◇ ◇

街の反対側では、葵が机に向かっていた。

ノートパソコンが開かれている。

画面には、病院の研修プログラムの応募フォームが表示されていた。

名前。

現在の職種。

経験年数。

所属部署。

それらの項目は、すでに入力し終えていた。

そして今、次の質問を見つめていた。

『本研修プログラムへの参加を希望する理由を記入してください』

葵は考えた。

数分間。

そして、入力を始めた。

私は、入院中の患者さんを支えるだけでなく、その方が日常生活へ戻るための準備も支援できる看護師になりたいと考えています。

少し間を置いた。

そして、続けた。

医療的ケアは、一人の人間の生活を構成する要素の一つにすぎないと、私は学んできました。

患者さん一人ひとりには、目標があり、人間関係があり、好みがあり、そして実現したい未来があります。

私は、患者さんの自立と尊厳を大切にしながら、必要な支援を受けて自分自身の意思で選択できるよう、適切な知識と技術を身につけたいと考えています。

葵は文章を読み返した。

そして、かすかに微笑んだ。

それは、彼女自身が信じていることだった。

春人に言われたからではない。

彼と付き合っているからでもない。

看護師として経験を積む中で、少しずつ学んできたことだった。

春人と出会ったことで、その考えが以前よりも身近なものになったのは確かだった。

しかし、その夢は――

葵自身のものだった。

そして、久しぶりに――

彼女は、その夢に向かって進む準備ができたと感じていた。

葵は、続きを書き始めた。

◇ ◇ ◇

翌朝。

春人のもとに、また一通のメールが届いた。

差出人は、佐藤恵美だった。

彼はメールを開いた。

そして、すぐに少し姿勢を正した。

件名:看護師候補者との面談日程について

読み始めた。

候補者の一人が、翌週の初回面談に参加できる見込みだという。

もう一人については、引き続き日程を調整しているところだった。

恵美は最初の面談候補日時を提示し、春人の都合を確認したいと書いていた。

メールには、今回の面談はあくまで最初の段階であることも明記されていた。

実際の配置が決まるまでには、必要な技術や経験の確認、経歴や照会先の確認、勤務可能時間の調整、保険に関する手続き、そして代替スタッフの確保などが必要になる。

春人はメールを二度読んだ。

そして、三度目も読んだ。

ゆっくりと笑顔が広がった。

「……へえ」

彼は窓の外を見た。

朝の光が部屋いっぱいに差し込んでいた。

「これは、なかなかいい知らせだね」

春人はカレンダーを開いた。

予定を確認した。

提示された時間が、既存の介助予定やほかの用事と重なっていないことを確かめた。

それから、恵美に返信した。

正式な確認を待つことにした。

数分後――

スマートフォンが震えた。

葵からのメッセージだった。

葵:おはよう!

春人は微笑んだ。

春人:おはよう。

葵:ねえ、聞いて!

彼は眉を上げた。

春人:サボテン王国の政権を転覆させた?

葵:違う!

春人:残念な知らせだね。

葵:研修に応募したよ!

春人の笑顔が広がった。

春人:葵、それは素晴らしい!

葵:緊張する。

春人:当然だね。

葵:もし落ちたらどうしよう?

春人は少し考えた。

そして、入力した。

春人:それでも、君は大切なことをしたと思うよ。

葵:どういうこと?

春人:自分に可能性を与えたんだ。

しばらく、返信は来なかった。

そして――

葵:……ありがとう。

春人は微笑んだ。

春人:それから、僕にも知らせがある。

葵:本当?

春人:来週、最初の看護師候補者との面談を調整することになった。

葵:春人! すごいじゃない!

春人:まだ初回面談だけどね。

葵:分かってるよ。

春人:何も保証されたわけじゃない。

葵:それも分かってる。

少し間が空いた。

そして――

葵:でも、嬉しいと思っていいことには変わりないでしょう?

春人は画面を見つめた。

そして、微笑んだ。

春人:……そのとおりだね。

葵:もちろん。

春人:ずいぶん自信があるね。

葵:ある人から学んだの。

春人は笑った。

春人:きっと、あまりよくない影響だね。

葵:ものすごくね。

◇ ◇ ◇

その朝。

街の違う場所に、二人の人間がいた。

一人は、青い電動車椅子に乗り、自分の家を持つために努力している青年。

もう一人は、看護師として新しい一歩を踏み出そうとしている若い女性。

二人とも、自分の計画が成功するかどうかは分からなかった。

あとどれくらい待たなければならないのかも。

これから、どんな困難が現れるのかも。

けれど――

二人は、それぞれ選択をした。

春人は、進歩がどれほど遅く感じられても、自立した生活に向かって進み続けることを選んだ。

葵は、いつしか忘れかけていた仕事の夢に、もう一度挑戦することを選んだ。

そして、二人は一緒に――

もう一つのことを選んだ。

互いの未来を、大切にすること。

すべての夢が、まったく同じ方向を向いていなければならないとは考えないこと。

どちらかがどれだけ犠牲を払えるかで、愛情を測らないこと。

その代わりに――

話し続けること。

耳を傾け続けること。

学び続けること。

そして、互いを選び続けること。

たとえ、明日が不確かなままでも。

いや――

不確かだからこそ。

なぜなら、きっと――

未来は、完成していなくても美しくなれるから。

必要なのは、それを築き続けようとする二人の存在だけなのかもしれない。

一つの会話。

一つの決断。

一つの小さな勇気。

その積み重ねの中で――

かつて口にすることさえ怖かった夢と夢の間に、春人と葵は少しずつ気づき始めていた。

二人それぞれの未来を、ちゃんと受け止められる場所があることに。

そして、その場所は――

まだ描き終えていない明日の空の下で、確かに広がり始めていた。

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