第54話:まだ名前のない未来に、僕たちは小さな希望を灯した
月曜日の朝。
高橋春人は、この世には二種類の月曜日が存在すると考えていた。
一つは、何事もなく始まる月曜日。
もう一つは――
朝食前から、何かしらの問題を引き起こそうとしている月曜日。
残念ながら、今日は明らかに後者だった。
「……嫌な予感がする」
春人はパソコンの画面を見つめていた。
一通のメールが届いていた。
差出人は、不動産管理会社。
件名には、こう書かれていた。
『賃貸契約およびバリアフリー改修計画に関するご連絡』
春人はその文字をじっと見つめた。
数秒間。
そして――
「……なるほど」
机のそばでは、朝の介助を終えたスタッフが、医療機器の点検を行っていた。
春人はもう一度メールを見た。
「どうして人生って、朝十時前から人間の心臓に負担をかけようとするんだろうね」
介助スタッフが小さく笑った。
「何かあったんですか?」
「まだ分からない」
春人は真剣な顔をした。
「だからこそ恐ろしいんだ」
「メールですか?」
「うん」
彼は画面に視線を向けた。
「不動産管理会社から」
スタッフは興味深そうに顔を上げた。
「それは大事な連絡ですね」
「極めて重要だよ」
春人は小さく息を吸った。
「よし」
音声操作ソフトを使い、メールを開いた。
そして――
読み始めた。
◇ ◇ ◇
メールの内容は、春人が予想していたよりも、ずっと前向きなものだった。
管理会社は、春人が提出したバリアフリー改修計画について、建物所有者から正式な承認を得たという。
浴室への補助器具の設置。
必要な電気設備の調整。
車椅子の移動を妨げる設備の撤去。
そして、医療機器の設置に伴う安全確認。
ただし――
いくつかの条件があった。
改修工事は、必要な資格を持つ専門業者が行うこと。
着工前に、詳細な工事計画を管理会社へ提出すること。
退去時の原状回復について、書面で取り決めること。
そして、工事の日程と費用負担が確認されるまでは、最終的な賃貸契約を締結できないこと。
春人は最後まで読み終えた。
それから、しばらく黙っていた。
やがて――
「……おお」
小さく声を漏らした。
介助スタッフが振り向いた。
「どうでした?」
春人は画面を見つめたまま答えた。
「承認された」
「本当ですか?」
「うん」
彼の顔に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
「改修計画が正式に認められたんだ」
「それはよかったですね!」
春人はうなずいた。
「うん」
しかし――
少し間を置いた。
「……ただし」
スタッフが眉を上げた。
「ただし?」
春人はメールの下の方を見た。
「添付書類が六つある」
スタッフは笑った。
春人は至って真剣だった。
「六つだよ」
「結構ありますね」
「これはもう、単なる事務手続きじゃない」
彼は目を細めた。
「組織的な攻撃だ」
「春人さん」
「敵はPDF形式を選んだらしい」
スタッフは吹き出した。
春人はため息をついた。
「どうやら僕の自立生活は、書類との戦争から始まるようだね」
◇ ◇ ◇
午前十時。
春人は由紀叔母さんと大地叔父さんをリビングに呼んだ。
二人とも、何か問題が起きたのではないかと心配している様子だった。
由紀が慎重に尋ねた。
「どうしたの、春人?」
大地は腕を組んだ。
「何かあったのか?」
春人は二人を見た。
そして、わざと深刻な表情を作った。
「重大な発表があります」
由紀の目が大きくなった。
「何?」
大地も姿勢を正した。
春人は黙ったままだった。
一秒。
二秒。
三秒。
そして――
「アパートの改修計画が承認されました」
由紀は瞬きをした。
「……え?」
春人は微笑んだ。
「今朝、管理会社から連絡が来たんだ」
一瞬の沈黙。
そして――
「本当に!?」
由紀の声がリビングに響いた。
春人は笑った。
「本当だよ」
彼女は両手で口元を覆った。
「春人……!」
大地も満面の笑みを浮かべた。
「やったじゃないか!」
春人はうなずいた。
「うん」
由紀が近づいてきた。
「ああ、よかった。本当によかったわね」
春人は微笑んだ。
「ありがとう」
大地は腕を組んだ。
「じゃあ、いよいよ引っ越しか?」
春人は首を振った。
「まだだよ」
二人が彼を見た。
「改修計画は承認されたけど、工事の日程と費用はまだ確定してないんだ」
由紀はうなずいた。
「そうね」
「それに、看護師さんたちの配置も、まだ調整中だし」
大地の表情が真剣になった。
「そこが一番大事だな」
春人はうなずいた。
「そのとおり」
少しの沈黙。
そして――
「でも……」
彼は二人を見た。
「一歩、前に進んだ」
由紀は微笑んだ。
「そうね」
大地もうなずいた。
「大きな一歩だ」
春人は少し考えた。
「いや……」
二人が彼を見た。
春人はにやりとした。
「僕は電動車椅子だから、一歩というより、車輪が一回転したってところかな」
大地は吹き出した。
由紀は呆れたように首を振った。
「もう、春人ったら」
彼は満足そうに微笑んだ。
「こうしてくだらない冗談を言っていられるうちは、元気な証拠だよ」
◇ ◇ ◇
その日の午後。
水野葵は、病院の休憩室に座っていた。
午前中は、ひどく忙しかった。
点滴の確認。
患者の状態観察。
医師との連絡。
看護記録の更新。
そして、誰も予想していなかったほど長引いた申し送り。
ようやく昼食を取れる頃には、肩がすっかり凝っていた。
「……疲れた」
葵は椅子の背もたれに体を預けた。
そのとき――
スマートフォンが震えた。
春人からのメッセージだった。
春人:重大ニュースがあります。
葵は瞬きをした。
葵:どうしたの?
春人:まず、落ち着いて聞いてほしい。
葵は眉を寄せた。
葵:春人?
春人:深呼吸して。
葵:何があったの!?
春人:アパートの改修計画が正式に承認されました。
葵は画面を見つめた。
そして――
「……ええっ!?」
思わず声を上げた。
向かいに座っていた同僚が顔を上げた。
「どうしたの?」
葵は慌てて首を振った。
「あっ、ううん! 何でもない!」
しかし――
笑顔を隠すことはできなかった。
彼女は急いで返信した。
葵:本当に!?
春人:本当。
葵:すごい! おめでとう!
春人:ありがとう。
葵:本当によかったね!
春人:ただし、PDFの添付書類が六つあります。
葵は吹き出した。
葵:気にするのはそこ!?
春人:深刻な問題だよ。
葵:春人らしいね。
春人:PDFによる侵略が始まった。
葵は声を上げて笑った。
それから、もう一度画面を見た。
胸の奥が、じんわりと温かくなっていた。
昨日、海辺で交わした会話を思い出した。
まだ見ぬ未来。
二人で築いていきたいもの。
そして、二人が交わした約束。
すべてが完璧になるまで、幸せを待つ必要なんてない。
その未来が、少しだけ近づいたような気がした。
葵はもう一度メッセージを送った。
葵:今日、仕事が終わったら会いに行ってもいい?
春人:もちろん。
葵:お祝いしよう。
春人:何を?
葵:小さな幸せを。
春人からの返信は、すぐには来なかった。
数秒後――
春人:……そうだったね。
そして、もう一通。
春人:約束したもんね。
葵は微笑んだ。
葵:うん。
春人:じゃあ、今夜はお祝いだ。
葵:楽しみにしてる。
春人:ただし、サボテンの戴冠式は延期でお願いします。
葵は吹き出した。
葵:女王陛下がお怒りになります。
春人:王国は財政危機に陥っているんだ。
葵:どうして!?
春人:本棚の予算が足りない。
葵は笑いながらスマートフォンを置いた。
疲れは、まだ残っていた。
勤務も、まだ終わっていなかった。
けれど――
楽しみにできることが、一つ増えた。
◇ ◇ ◇
その頃。
春人は、訪問看護事業所とのオンライン面談に臨んでいた。
画面の向こうに座っていたのは、佐藤恵美。
これまで何度か話をしてきた、経験豊富な看護師だった。
「高橋さん、こんにちは」
「こんにちは、佐藤さん」
春人は微笑んだ。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
恵美は手元の資料を確認した。
「アパートの件、進展があったそうですね」
春人はうなずいた。
「はい。改修計画が承認されました」
「それはよかったですね」
「ありがとうございます」
彼は少し間を置いた。
「ただ、賃貸契約はまだ確定していません」
恵美はうなずいた。
「承知しています」
春人は続けた。
「なので、今日は引っ越しの日程を決めるというより、必要な介助体制をどこまで整えられるか確認したいんです」
恵美は微笑んだ。
「それがいいと思います」
画面に勤務予定表が表示された。
春人の表情が真剣になった。
「……なるほど」
恵美が説明を始めた。
「現在、候補となっているスタッフは数名います」
「はい」
「ただし、必要なすべての時間帯を安定してカバーできる体制には、まだなっていません」
春人はうなずいた。
「そこが気になっていました」
恵美は続けた。
「特に夜間帯が課題です」
春人は勤務表を見つめた。
「夜間の看護師が、まだ足りないんですね」
「そうです」
彼女は慎重に言葉を選んだ。
「高橋さんに必要な医療的ケアを提供できる資格と経験を持つスタッフを、確実に配置する必要があります」
春人はうなずいた。
「もちろんです」
「それから、急な欠勤が出た場合の代替体制も、まだ整える必要があります」
彼は少し考えた。
「つまり、通常のシフトを埋めるだけでは足りないということですね」
「そのとおりです」
「誰かが急に休んだ場合の対応も、確保しなければならない」
「はい」
春人は静かに息を吐いた。
予想はしていた。
それでも――
実際に確認すると、少しもどかしかった。
「……分かりました」
恵美は彼を見た。
「高橋さん」
「はい?」
「焦る必要はありませんよ」
春人はかすかに微笑んだ。
「そう言われると、焦っているのがばれてしまいますね」
恵美は小さく笑った。
「少しだけ」
春人も笑った。
「まあ、実際そうなんですけど」
「当然だと思います」
「できるだけ早く、アパートに引っ越したいんです」
彼は少し間を置いた。
「でも、必要な介助体制が整う前に引っ越しても、意味がありませんから」
恵美はうなずいた。
「そうですね」
春人は勤務表を見つめた。
そして、はっきりと言った。
「僕は、ただアパートを借りたいわけじゃないんです」
恵美は耳を傾けた。
「そこで、自分の生活を築きたいんです」
少し間が空いた。
「必要な支援を受けながら、安全に、そして自分自身で選択できる生活を」
恵美の表情が柔らかくなった。
「それなら、その実現に向けて一緒に進めていきましょう」
春人は微笑んだ。
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
面談が終わったあと、春人はしばらくパソコンの前にいた。
進展はあった。
確かにあった。
しかし、まだ準備しなければならないことは多かった。
住居。
医療機器。
看護スタッフ。
費用。
契約。
そして、毎日の生活を成り立たせるための細かな仕組み。
春人はため息をついた。
「……どうして大人になると、こんなに書類が増えるんだろうね」
背後から声がした。
「それが大人になるってことよ」
春人が振り向くと、由紀が立っていた。
「……由紀叔母さん」
彼女は微笑んだ。
「面談、どうだった?」
春人は少し考えた。
「悪くはなかったよ」
「それならよかった」
「でも、夜間のスタッフがまだ足りないみたい」
由紀はうなずいた。
「そうなのね」
春人は画面を見た。
「そこが解決しないと、引っ越すのは難しい」
由紀は彼の隣に座った。
しばらく、二人は何も話さなかった。
やがて――
「春人?」
「うん?」
「一つ聞いてもいい?」
彼は微笑んだ。
「もちろん」
由紀は少し迷った。
「……怖くない?」
春人は瞬きをした。
「何が?」
「自分の家で暮らすこと」
彼は静かになった。
由紀は続けた。
「もちろん、専門の介助スタッフが来てくれることは分かっているわ」
「うん」
「でも、今までとは生活が大きく変わるでしょう?」
春人は少し考えた。
そして、正直に答えた。
「……怖いよ」
由紀は彼を見た。
「本当に?」
彼はうなずいた。
「もちろん」
小さく笑った。
「ものすごく怖い」
由紀の表情が柔らかくなった。
春人は続けた。
「新しい場所だし」
「そうね」
「新しい生活だし」
「うん」
「何か問題が起きたとき、どう対応するかも考えておかなきゃいけない」
少し間が空いた。
「でも……」
由紀が彼を見た。
春人は微笑んだ。
「怖いからって、挑戦したい気持ちがなくなるわけじゃないんだ」
由紀は静かになった。
「むしろ、怖いからこそ、きちんと準備したい」
彼はパソコンの画面を見た。
「僕は、自分の暮らし方を自分で選びたいんだ」
由紀の目が潤んだ。
春人はすぐに気づいた。
「……ああ、まずい」
彼女は笑った。
「何が?」
「泣く準備をしてる」
「してないわよ!」
「由紀叔母さんの涙腺は、もう二十二年間ずっと待機状態だからね」
由紀は吹き出した。
「春人!」
彼はにやりとした。
「ほら、笑った」
由紀は目元を拭った。
そして、微笑んだ。
「……本当に、大きくなったわね」
春人は眉を上げた。
「法律上は、とっくに大人なんだけど」
「そういう意味じゃないの」
彼は微笑んだ。
「分かってるよ」
由紀は彼を見つめた。
「あなたが自分の人生を築こうとしていることが、嬉しいの」
春人は少し照れくさそうに笑った。
「……ありがとう」
彼女は続けた。
「でも、困ったときには必ず頼ってね」
春人はうなずいた。
「もちろん」
「自立して暮らすからって、何もかも一人で抱え込む必要はないんだから」
春人は微笑んだ。
「うん」
少し間が空いた。
「……ちゃんと覚えておくよ」
◇ ◇ ◇
夕方。
葵は仕事を終え、春人の家へ向かった。
病院を出た頃には、空が柔らかな橙色に染まっていた。
長い一日だった。
足が痛かった。
肩も凝っていた。
そして、消毒液の匂いがしない場所で、ゆっくり座りたいと思っていた。
けれど――
彼女は微笑んでいた。
春人に会えるからだ。
数か月前の自分なら、そんな気持ちを不思議に思ったかもしれない。
誰かに会うことを楽しみにする。
誰かの家へ向かう道が、嬉しく感じられる。
これから交わす会話を想像する。
けれど今は――
その気持ちを、素直に受け入れられるようになっていた。
自分にはそんな幸せを感じる資格があるのだろうかと、いちいち疑わずに。
春人の家に着くと、由紀が出迎えてくれた。
「葵ちゃん、いらっしゃい」
葵は微笑んだ。
「こんばんは」
「今日は忙しかった?」
「ちょっとだけ」
由紀は小さく笑った。
「春人、今日はずっとご機嫌なのよ」
葵は笑った。
「そうなんですか?」
「ええ」
由紀はにやりとした。
「特に、あなたが来るって聞いてからね」
葵の頬が赤くなった。
「……もう」
由紀は楽しそうに笑った。
そのとき――
「由紀叔母さん」
二人が振り向いた。
春人が青い電動車椅子で近づいてきた。
「僕の感情に関する機密情報を、勝手に公開しないでもらえるかな」
由紀は笑った。
「本当のことじゃない」
春人はため息をついた。
「どうやら、この家にプライバシーという概念は存在しないらしい」
葵はくすくす笑った。
「こんばんは、春人」
彼は彼女を見た。
そして、微笑んだ。
「こんばんは、葵」
ほんの一瞬――
二人はただ、見つめ合っていた。
微笑みながら。
由紀はそれに気づいた。
そして、賢明にもその場を離れることにした。
「じゃあ、お茶を淹れてくるわね」
春人は彼女を見た。
「……もう撤退するの?」
「二人の時間を邪魔しないためよ」
「実に賢明な判断だね」
由紀は笑いながらキッチンへ向かった。
◇ ◇ ◇
葵は春人の隣に座った。
「改めて、おめでとう」
彼は微笑んだ。
「ありがとう」
葵は少し身を乗り出した。
「詳しく聞かせて」
春人はうなずいた。
「まず、改修計画は正式に承認された」
「うん」
「でも、工事の日程と費用負担については、まだ確認が必要なんだ」
「なるほど」
「それから、賃貸契約もまだ終わってない」
葵はうなずいた。
「看護師さんたちの配置は?」
春人の表情が少し真剣になった。
「そこが、まだ一番大きな課題かな」
彼は今日の面談について説明した。
候補となるスタッフがいること。
夜間の看護師が不足していること。
急な欠勤に備えた代替体制が必要なこと。
そして、必要な支援が確保できるまでは、引っ越しを急がないと決めたこと。
葵は真剣に耳を傾けていた。
話し終えると、彼女はゆっくりとうなずいた。
「……そうなんだ」
春人はかすかに微笑んだ。
「あまり面白い話じゃないでしょ」
葵は首を振った。
「そんなことないよ」
春人は瞬きをした。
「本当に?」
「本当」
彼女は微笑んだ。
「春人にとって、大切なことだもん」
春人は静かになった。
葵は続けた。
「それに、私もちゃんと知っておきたい」
彼は彼女を見た。
「どうして?」
葵はまっすぐ彼を見つめた。
「だって、春人の未来の話だから」
少し間が空いた。
「私も、その未来を一緒に楽しみにしてるんだよ」
春人の胸に、温かなものが広がった。
「……葵」
彼女は微笑んだ。
「もちろん、全部私が決めたいってことじゃないよ」
「うん」
「春人の家で、春人の人生なんだから」
彼はうなずいた。
「でも、話を聞くことくらいはできるでしょ?」
春人は彼女を見つめた。
そして、優しく微笑んだ。
「……ありがとう」
葵は小さく笑った。
「どういたしまして」
◇ ◇ ◇
それからしばらくして、二人はアパートの間取り図を見始めた。
春人はパソコンの画面に図面を表示した。
「ここがリビング」
葵は身を乗り出した。
「うん」
「こっちがキッチン」
「なるほど」
「それから、ここが寝室」
葵は間取りを見つめた。
「思ってたより広いね」
春人は微笑んだ。
「そうなんだ」
彼は図面を拡大した。
「でも、家具の配置には気をつけないといけない」
葵はうなずいた。
「車椅子が通れるスペース?」
「そのとおり」
春人は続けた。
「単に通路を確保するだけじゃなくて、車椅子が方向転換したり、適切な位置についたりできる空間も必要だからね」
葵は図面を見つめた。
「じゃあ、大きな家具は慎重に選ばないとね」
「うん」
彼女は部屋の一角を指差した。
「ここに小さなテーブルを置くのはどう?」
春人は確認した。
「悪くないね」
「本当?」
「寸法次第だけど」
葵はうなずいた。
「じゃあ、先にちゃんと測らないとね」
春人は微笑んだ。
「素晴らしい」
葵はにやりとした。
「何?」
「極めて実用的な提案だ」
「それ、褒めてる?」
「最大級の賛辞だよ」
葵は笑った。
そして――
何かに気づいた。
「……待って」
春人は瞬きをした。
「何?」
葵は目を細めた。
「この長方形、何?」
春人はぴたりと動きを止めた。
「……家具」
彼女は彼を見た。
「何の家具?」
春人は視線を逸らした。
「収納設備」
「春人」
「書籍を効率的に管理するための設備だよ」
「本棚でしょ」
春人はため息をついた。
「君の推理力は恐ろしいね」
葵は吹き出した。
「何個置くつもりなの?」
春人は考えた。
「……合理的な数」
「具体的には?」
「合理的という言葉の定義によるかな」
「春人!」
彼は笑った。
◇ ◇ ◇
ひとしきり笑ったあと、葵はもう一度間取り図を見つめた。
そして、ふと思った。
春人は、本当にたくさんのことを考えていた。
家具の配置。
コンセントの位置。
介助スタッフが安全に作業できる空間。
医療機器の置き場所。
車椅子の動線。
そして、そのアパートを自分らしい場所にするための細かな工夫。
彼は、ただ住む場所を探しているわけではない。
自分の家を作ろうとしているのだ。
自分の選択が尊重される場所。
自分らしく暮らせる場所。
葵は微笑んだ。
「……ねえ、春人」
「うん?」
「このアパート、きっと素敵になるね」
彼は彼女を見た。
「そう思う?」
葵はうなずいた。
「もちろん」
彼女は間取り図を見つめた。
「だって、春人がこんなに一生懸命考えてるんだもん」
春人は少し照れくさそうに笑った。
「まあね……」
葵は続けた。
「それに、まだ何も置いてないのに、もう春人らしい部屋になる気がする」
彼は眉を上げた。
「本棚のせい?」
葵は笑った。
「それもある」
「やっぱり」
「でも、それだけじゃないよ」
春人は彼女を見た。
葵は微笑んだ。
「自分の好きなものを大切にしながら、暮らそうとしてるところ」
彼は静かになった。
「……そうだね」
葵は彼を見つめた。
「春人?」
「うん?」
「楽しみだね」
彼は少し間を置いた。
そして、微笑んだ。
「……うん」
その笑顔には、いつもの皮肉っぽさがなかった。
「すごく楽しみだよ」
◇ ◇ ◇
夕食の時間になると、由紀が小さなケーキを持って現れた。
春人はそれを見つめた。
「……何、それ?」
由紀は微笑んだ。
「お祝いよ」
「何の?」
葵は笑った。
「アパートの改修計画」
春人は二人を見た。
「……本気?」
由紀はうなずいた。
「もちろん」
春人は困ったように笑った。
「まだ契約も終わってないのに」
葵は彼を見た。
そして微笑んだ。
「昨日、何を約束したか覚えてる?」
春人は瞬きをした。
「……あ」
彼女は続けた。
「小さな幸せも、ちゃんとお祝いするって」
春人は静かになった。
そして、微笑んだ。
「……そうだったね」
由紀はケーキをテーブルに置いた。
「それに、今日は十分お祝いする価値があると思うわ」
大地もリビングに入ってきた。
「まったくだ」
春人は三人を見た。
由紀。
大地。
そして葵。
みんな、笑っていた。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「……ありがとう」
由紀は微笑んだ。
「どういたしまして」
葵はにやりとした。
「じゃあ、お祝いのスピーチをどうぞ」
春人は眉を上げた。
「僕が?」
「もちろん」
「突然の演説要求とは」
大地が笑った。
「ほら、作家先生」
春人はため息をついた。
「まったく……」
少し考えた。
そして――
「今日、僕のアパートの改修計画が承認されました」
三人は静かに耳を傾けた。
「だからといって、すぐに引っ越せるわけじゃありません」
少し間が空いた。
「まだ、解決しなきゃいけないこともたくさんあります」
春人は微笑んだ。
「でも、一つ前に進みました」
由紀の表情が柔らかくなった。
大地もうなずいた。
葵は微笑んでいた。
春人は続けた。
「だから、今日はその一歩をお祝いしたいと思います」
彼は三人を見た。
「それから……」
少し照れくさそうに笑った。
「いつも応援してくれて、ありがとう」
由紀の目が潤んだ。
春人はすぐに言った。
「由紀叔母さん。泣かないで」
彼女は笑った。
「泣いてないわよ!」
「まだ、ね」
大地は吹き出した。
葵も笑った。
春人はにやりとした。
「それじゃあ、乾杯」
四人はそれぞれ飲み物を掲げた。
「乾杯!」
四人の声が重なった。
豪華な夕食ではなかった。
大きなパーティーでもなかった。
けれど――
春人は、きっとこの夜を忘れないだろうと思った。
◇ ◇ ◇
その夜。
帰る前に、葵はもう一度春人の部屋を訪れた。
彼はパソコンの前にいた。
画面には、まだアパートの間取り図が表示されていた。
葵は笑った。
「まだ見てるの?」
春人は振り向いた。
「うん」
「飽きないね」
「非常に興味深い資料だからね」
葵は近づいた。
「また本棚を増やそうとしてる?」
春人は一瞬黙った。
「……違うよ」
彼女は目を細めた。
「本当に?」
「少なくとも、今この瞬間は」
葵は吹き出した。
「春人!」
彼はにやりとした。
それから、少し真面目な表情になった。
「……葵」
彼女が振り向いた。
「うん?」
春人は少し迷った。
そして――
「今日は話を聞いてくれて、ありがとう」
葵は微笑んだ。
「それ、何回目?」
彼は瞬きをした。
「何が?」
「今日、私にありがとうって言った回数」
春人は考えた。
「数えてないな」
彼女は笑った。
「もう十分だよ」
春人は微笑んだ。
「分かってる」
少し間が空いた。
「でも、言いたかったんだ」
葵の表情が柔らかくなった。
「……そっか」
そして、彼女が口を開いた。
「実は、私も春人に話したいことがあるの」
春人は瞬きをした。
「何?」
葵は少し考えた。
「……まだ、うまく説明できるか分からないんだけど」
彼は微笑んだ。
「大丈夫だよ」
葵は彼を見た。
「最近ね、自分の将来について考えるようになったの」
春人は静かになった。
「仕事のこととか」
「うん」
「これから、どんな生活を送りたいかとか」
「そうだね」
「それから……」
彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。
「私たちのことも」
春人の胸が、少しだけ高鳴った。
「……僕たちのこと?」
葵はうなずいた。
「うん」
彼女は視線を落とした。
「前は、あまり先のことを考えるのが怖かったんだ」
春人は耳を傾けた。
「誰かと一緒に未来を過ごすなんて、想像できなかった」
少し間が空いた。
「でも、今は違う」
春人は彼女を見つめた。
葵は微笑んだ。
「春人と一緒に、いろんなことを考えてみたい」
春人は静かになった。
そして、優しく微笑んだ。
「……僕もだよ」
葵の表情が柔らかくなった。
春人は続けた。
「でも、急ぐ必要はないからね」
葵はうなずいた。
「うん」
「僕たちには、まだ時間がある」
彼女は微笑んだ。
「そうだね」
春人は少し考えた。
「それに、アパートへ引っ越す前に、恐ろしい量の書類を倒さなきゃいけないし」
葵は笑った。
「またPDF?」
「六体の強敵が待ち構えている」
「頑張って、勇者様」
春人はにやりとした。
「君も僕のパーティーに入ってくれる?」
葵は微笑んだ。
「もちろん」
「心強いね」
「でも、本棚の数については、まだ交渉中だからね」
春人はため息をついた。
「そこだけは絶対に譲ってくれないんだね」
葵は笑った。
◇ ◇ ◇
やがて、葵が帰る時間になった。
彼女は春人の隣にしゃがんだ。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
彼は微笑んだ。
「うん」
葵は少し迷った。
それから、そっと彼の頬にキスをした。
春人は瞬きをした。
葵はにやりとした。
「お祝いの追加特典」
彼は微笑んだ。
「素晴らしいサービスだね」
「でしょ?」
「今後のお祝いでも期待していいのかな?」
葵は笑った。
「調子に乗らないの」
春人はにやりとした。
「努力します」
葵は彼を見つめた。
そして、優しく微笑んだ。
「……春人」
「うん?」
「今日も、幸せだったね」
彼は静かになった。
そして、微笑んだ。
「……うん」
彼は彼女を見た。
「今日も幸せだった」
葵の笑顔が広がった。
「じゃあ、また明日」
春人は微笑んだ。
「また明日、葵」
彼女は手を振った。
そして、部屋を出ていった。
春人はしばらく、その後ろ姿を見つめていた。
ただ――
微笑みながら。
◇ ◇ ◇
その夜。
春人は再びパソコンに向かった。
画面には、管理会社からのメールが表示されていた。
承認された改修計画。
まだ終わっていない書類。
調整中の介助体制。
そして、これから決めなければならないこと。
数か月前なら、その一覧を見ただけで、気が重くなっていたかもしれない。
もちろん――
今でも面倒だとは思う。
六つの添付書類が、魔法のように三つに減るわけではない。
夜間の看護師不足が、突然解消されるわけでもない。
賃貸契約が勝手に成立するわけでもない。
けれど――
今夜は、少しだけ違っていた。
春人は新しい文書を開いた。
そして、タイトルを音声入力した。
『今日の小さな幸せ』
それから、文章を綴り始めた。
今日、アパートの改修計画が承認された。
だからといって、すぐに引っ越せるわけじゃない。
でも、また一歩前に進んだ。
由紀叔母さんと大地叔父さんが喜んでくれた。
葵も、お祝いに来てくれた。
みんなで小さなケーキを食べた。
それだけのことだった。
春人は少し間を置いた。
そして、続けた。
でも、僕にとっては大切な一日だった。
昨日、葵と約束した。
小さな幸せも、ちゃんとお祝いしようって。
今日、僕たちはその約束を守った。
彼は微笑んだ。
これからも、きっと大変な日はある。
何もかも思いどおりにいくわけじゃない。
でも、少しずつ前に進みたい。
焦らずに。
諦めずに。
そして、今ここにある幸せを忘れずに。
春人は最後の一文を考えた。
そして、入力した。
明日も、楽しみにできることが一つ見つかりますように。
文書を保存した。
そして、静かに息を吐いた。
窓の外では、街が夜の静けさに包まれ始めていた。
春人は、これから暮らすかもしれないアパートを想像した。
自分の寝室で目を覚ますこと。
自分で選んだ家具に囲まれること。
好きな本を読むこと。
執筆を続けること。
専門の介助スタッフの支援を受けながら、日々の暮らしを自分で決めていくこと。
そして――
葵が遊びに来ること。
一緒に食事をすること。
くだらない冗談を言い合うこと。
家具の配置で意見が合わなくなること。
それでも、ちゃんと話し合うこと。
そして、また笑い合えること。
そんな未来を想像すると、自然と笑みが浮かんだ。
「……悪くないね」
彼がパソコンを閉じようとした、そのとき――
ピコン。
新着メールの通知音が鳴った。
春人は瞬きをした。
「……ん?」
差出人を確認する。
佐藤恵美
件名は――
『夜間看護スタッフの配置について』
春人の表情が変わった。
「……え?」
メールを開いた。
内容は短かった。
高橋様
本日の面談後、夜間帯のスタッフ配置について追加の調整を行いました。
現在、新たに二名の候補者と連絡が取れております。
ただし、必要な資格や経験、勤務可能な時間帯、雇用条件などについては、引き続き確認が必要です。正式な配置が決定したわけではありません。
詳細につきましては、明日お電話でご説明できればと思います。
佐藤恵美
春人は画面を見つめた。
数秒間――
何も言わなかった。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……なるほど」
まだ、何も確定していない。
保証されたわけでもない。
けれど――
新しい可能性が生まれた。
春人は窓の外を見た。
夜空には、いくつかの星が輝いていた。
昨日の海を思い出した。
波の上に散らばる光。
まるで千の星が海へ降り注いだかのような、あの夕暮れ。
そして、葵と交わした約束。
小さな幸せも、ちゃんとお祝いしよう。
春人は微笑んだ。
「……また一つ、前に進めるかもしれないね」
その声は静かだった。
けれど、そこには確かな希望があった。
未来は、まだ決まっていない。
それでも――
春人はもう、明日を恐れることしかできない自分ではなかった。
少しずつ――
明日を楽しみにできる理由が増えていたから。
そして、その明日を――
一緒に楽しみにしてくれる人がいたから。
春人は静かに呟いた。
「……おやすみ、葵」
窓の外では、夜風が街を優しく通り抜けていた。
まだ見ぬ明日へ。
二人で踏み出した小さな一歩は――
確かに、未来へと続き始めていた。




