第53話 まだ見ぬ明日へ、二人で踏み出す小さな一歩
月曜日の朝。
高橋春人は、人生には二種類の月曜日が存在すると考えていた。
一つは、何事もなく始まる月曜日。
もう一つは――
何かが起こる予感しかしない月曜日。
そして残念ながら、今日という日は明らかに後者だった。
「……嫌な予感がする」
春人はパソコンの画面を見つめながら呟いた。
画面には、一通のメールが表示されていた。
差出人は、不動産管理会社。
件名は――
『賃貸契約および住宅設備改修に関するご連絡』
春人はしばらく、その文字を見つめた。
「……なるほど」
机の隣では、朝の介助を終えたスタッフが、必要な機器の確認を行っていた。
春人はもう一度メールの件名を見た。
「人生というものは、どうしてこう、月曜日の朝から人間の心臓に負担をかけるんだろうね」
スタッフが笑った。
「何かありましたか?」
「まだ分からない」
春人は真剣な顔をした。
「だからこそ恐ろしい」
「メールですか?」
「うん」
彼は画面を見つめた。
「アパートの管理会社から」
スタッフは少し驚いた。
「それは大事なお知らせですね」
「そうなんだ」
春人は小さく息を吐いた。
「よし」
音声操作でメールを開いた。
そして――
読み始めた。
◇ ◇ ◇
メールの内容は、予想していたよりも前向きなものだった。
管理会社は、春人が提出した住宅設備の改修計画について、建物所有者から正式な承認を得たという。
浴室への補助器具の設置。
必要な電源設備の調整。
車椅子での移動を妨げる設備の撤去。
そして、医療機器の設置に伴う安全確認。
ただし、いくつかの条件があった。
工事は指定された資格を持つ業者が行うこと。
工事内容を事前に管理会社へ提出すること。
退去時の原状回復について、別途書面で取り決めること。
そして、最終的な賃貸契約の締結は、改修工事の日程と費用負担を確認した後になること。
春人は読み終えると、しばらく黙っていた。
それから――
「……おお」
小さく声を上げた。
スタッフが振り向いた。
「どうでした?」
春人は画面を見つめたまま答えた。
「承認された」
「本当ですか?」
「うん」
彼は微笑んだ。
「まだ契約が終わったわけじゃないけど、改修計画は正式に認められたみたい」
スタッフも笑顔になった。
「よかったですね」
春人はうなずいた。
「うん」
そして少し間を置いた。
「……でも」
「でも?」
春人はメールの下部を見た。
「添付書類が六つある」
スタッフは笑った。
春人は真剣な顔をした。
「六つだよ」
「多いですね」
「これはもはや書類による包囲攻撃だ」
「春人さん」
「敵はPDF形式で攻めてきた」
スタッフは吹き出した。
春人はため息をついた。
「僕の独立生活は、書類との戦争から始まるらしい」
◇ ◇ ◇
午前十時。
春人は由紀と大地をリビングに呼んだ。
二人とも、何か重大なことが起きたのかと思ったらしい。
由紀は少し心配そうだった。
「どうしたの、春人?」
大地も眉を寄せた。
「何か問題でもあったか?」
春人は二人を見た。
そして、わざと深刻な顔をした。
「重大な発表があります」
由紀が息を呑んだ。
「何?」
大地も身構えた。
春人は数秒間、沈黙した。
それから――
「アパートの改修計画が承認されました」
由紀は目を見開いた。
「……え?」
春人は微笑んだ。
「管理会社から正式に連絡が来たんだ」
一瞬の沈黙。
そして――
「本当に!?」
由紀の声がリビングに響いた。
春人は笑った。
「本当だよ」
彼女は両手を口元に当てた。
「春人……!」
大地も笑顔になった。
「やったじゃないか!」
春人はうなずいた。
「うん」
由紀は近づいてきた。
「よかった……本当によかったわね」
春人は微笑んだ。
「ありがとう」
大地は腕を組んだ。
「じゃあ、いよいよ引っ越しか?」
春人は首を振った。
「まだ」
二人が彼を見た。
春人は続けた。
「改修計画は承認されたけど、工事の日程も費用も最終確定してない」
由紀はうなずいた。
「そうね」
「それに、介助体制の方もまだ調整中だし」
大地が頷く。
「そこが一番大事だな」
春人は微笑んだ。
「うん」
少し間が空いた。
「でも……」
彼は二人を見た。
「一歩進んだ」
由紀の表情が柔らかくなった。
「そうね」
大地も微笑んだ。
「大きな一歩だ」
春人は少し考えた。
「いや」
二人が彼を見た。
春人はにやりとした。
「電動車椅子だから、一回転分くらいかな」
大地は吹き出した。
由紀は呆れたように笑った。
「もう、春人ったら」
彼は満足そうに微笑んだ。
「こういう冗談を言えるくらいには、元気だってことだよ」
◇ ◇ ◇
その日の昼休み。
水野葵は、病院の休憩室でスマートフォンを確認していた。
午前中は忙しかった。
点滴の確認。
患者の状態観察。
医師への報告。
記録の入力。
そして、予想外に長引いた申し送り。
ようやく昼食を取れる時間になったときには、彼女の肩はすっかり凝っていた。
「……疲れた」
葵は椅子に座り、深く息を吐いた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
春人からだった。
春人:重大ニュースがあります。
葵は瞬きをした。
葵:どうしたの?
春人:まず、落ち着いて聞いてほしい。
葵は眉を寄せた。
葵:春人?
春人:深呼吸を。
葵:何があったの!?
春人:アパートの改修計画が正式に承認されました。
葵は画面を見つめた。
そして――
「……えっ!?」
思わず声を上げた。
向かいに座っていた同僚が顔を上げた。
「どうしたの?」
葵は慌てて首を振った。
「あっ、何でもない!」
しかし、口元の笑みは隠せなかった。
彼女はすぐに返信した。
葵:本当に!?
春人:本当。
葵:すごい! おめでとう!
春人:ありがとう。
葵:よかったね! 本当によかった!
春人:ただし、添付書類が六つあります。
葵は吹き出した。
葵:そこ!?
春人:深刻な問題だよ。
葵:春人らしいね。
春人:PDFによる侵略が始まった。
葵は笑った。
そして、しばらく画面を見つめた。
胸の奥が温かくなっていた。
昨日、海で話したことを思い出した。
まだ見ぬ未来。
二人で築いていくもの。
そして、何もかも完璧になるまで幸せを待たなくてもいいという約束。
その未来が、少しだけ近づいた気がした。
葵はもう一度メッセージを送った。
葵:今日、仕事が終わったら会いに行ってもいい?
春人:もちろん。
葵:お祝いしよう。
春人:何を?
葵:小さな幸せ。
春人はすぐには返信しなかった。
数秒後――
春人:……そうだったね。
そして、もう一通。
春人:約束したもんね。
葵は微笑んだ。
葵:うん。
春人:じゃあ、今夜はお祝いだ。
葵:楽しみにしてる。
春人:ただし、サボテンの戴冠式は延期でお願いします。
葵は吹き出した。
葵:女王陛下がお怒りになります。
春人:王国の財政が危機的状況なんだ。
葵:どうして!?
春人:本棚の購入予算が足りない。
葵は笑いながら、スマートフォンを伏せた。
疲れは、まだ残っていた。
仕事も終わっていない。
けれど――
午後を乗り切る理由が、一つ増えた。
◇ ◇ ◇
その頃。
春人は、介助サービス事業所とのオンライン面談に臨んでいた。
画面の向こうには、担当者の女性が座っていた。
名前は佐藤恵美。
これまで何度か話をしてきた、経験豊富な看護師だった。
「高橋さん、こんにちは」
「こんにちは、佐藤さん」
春人は微笑んだ。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
恵美は資料を確認した。
「まず、住宅の件ですが、進展があったそうですね」
春人はうなずいた。
「はい。改修計画の承認が下りました」
「それはよかったですね」
「ありがとうございます」
彼は少し間を置いた。
「ただ、まだ賃貸契約は確定していません」
恵美はうなずいた。
「承知しています」
春人は続けた。
「だから、今日は引っ越しの日程を決めるというより、必要な支援体制をどこまで整えられるか確認したいです」
恵美は微笑んだ。
「その進め方がいいと思います」
画面に、勤務体制の表が表示された。
春人は真剣な表情になった。
「……なるほど」
恵美が説明を始めた。
「現在、候補となるスタッフは数名います」
「はい」
「ただし、全時間帯を安定して担当できる体制には、まだなっていません」
春人はうなずいた。
「そこが気になっていました」
恵美は続けた。
「特に夜間帯ですね」
春人は画面を見つめた。
「夜間の人員が足りないんですね」
「そうです」
彼女は慎重に言葉を選んだ。
「必要な医療的ケアに対応できる資格と経験を持つスタッフを、継続して配置できるかが重要になります」
春人はうなずいた。
「はい」
「緊急時の代替要員についても、まだ確認が必要です」
彼は少し考えた。
「つまり、通常のシフトだけじゃなくて、急な欠勤が出た場合の対応も必要ということですね」
「そのとおりです」
春人は静かに息を吐いた。
予想していたことだった。
それでも、実際に言葉にされると重みがあった。
「……分かりました」
恵美は彼を見た。
「高橋さん」
「はい?」
「焦る必要はありません」
春人は少し笑った。
「そう言われると、余計に焦っていることがばれますね」
恵美も微笑んだ。
「少しだけ」
春人は苦笑した。
「正直、早く引っ越したい気持ちはあります」
「当然だと思います」
「でも、支援体制が不十分なままでは意味がないですから」
恵美はうなずいた。
「そうですね」
春人は画面を見つめた。
そして、はっきりと言った。
「僕は、ただ家を借りたいわけじゃないんです」
恵美が彼を見た。
「そこで、自分の生活を続けたいんです」
少し間が空いた。
「安全に、そして自分で選びながら」
恵美の表情が柔らかくなった。
「そのための準備を、一緒に進めましょう」
春人は微笑んだ。
「よろしくお願いします」
◇ ◇ ◇
面談が終わったあと、春人はしばらくパソコンの画面を見つめていた。
前進はしている。
確かに。
しかし、まだ足りないものも多かった。
住宅。
設備。
介助スタッフ。
費用。
契約。
そして、日々の生活を支える細かな仕組み。
彼はため息をついた。
「……人生って、どうしてこんなに手続きが多いんだろう」
背後から声がした。
「大人になるって、そういうことよ」
春人が振り向くと、由紀が立っていた。
「……由紀叔母さん」
彼女は微笑んだ。
「面談、どうだった?」
春人は少し考えた。
「悪くはなかったよ」
「そう」
「でも、夜間のスタッフがまだ足りないみたい」
由紀はうなずいた。
「そうなのね」
春人は画面を見た。
「それが整わないと、引っ越しは難しい」
由紀は彼の隣に座った。
しばらく、二人は黙っていた。
やがて彼女が口を開いた。
「春人」
「うん?」
「少し聞いてもいい?」
彼は微笑んだ。
「もちろん」
由紀は少し迷った。
「……怖くない?」
春人は瞬きをした。
「何が?」
「一人で暮らすこと」
彼は静かになった。
由紀は続けた。
「もちろん、介助スタッフの人たちがいるのは分かってるわ」
「うん」
「でも、今までとは生活が大きく変わるでしょう?」
春人は少し考えた。
そして、正直に答えた。
「……怖いよ」
由紀は彼を見た。
「本当に?」
「うん」
春人は小さく笑った。
「ものすごく」
彼女の表情が柔らかくなった。
春人は続けた。
「新しい場所だし」
「うん」
「新しい生活だし」
「そうね」
「何か問題が起きたとき、どう対応するかも考えなきゃいけない」
彼は少し間を置いた。
「でもね」
由紀が彼を見た。
春人は微笑んだ。
「怖いからって、やってみたい気持ちがなくなるわけじゃないんだ」
由紀は静かになった。
「むしろ、怖いからこそ、ちゃんと準備したい」
彼は続けた。
「僕は、自分の生活を自分で選びたいんだ」
由紀の目が潤んだ。
春人はすぐに気づいた。
「……ああ、まずい」
彼女は笑った。
「何が?」
「泣く準備をしてる」
「してないわよ」
「由紀叔母さんの涙腺は、もはや常時待機状態だからね」
由紀は吹き出した。
「もう!」
春人はにやりとした。
「ほら、笑った」
彼女は目元を拭った。
そして、優しく微笑んだ。
「……本当に、大きくなったわね」
春人は眉を上げた。
「年齢的には、もう十分大人なんだけど」
「そういう意味じゃないの」
彼は微笑んだ。
「分かってるよ」
由紀は彼を見つめた。
「あなたが自分の人生を作ろうとしていること、嬉しいわ」
春人は少し照れたように笑った。
「……ありがとう」
彼女は続けた。
「でも、困ったときには頼ってね」
春人はうなずいた。
「もちろん」
「一人で暮らすからって、全部一人で抱え込まなくていいんだから」
春人は微笑んだ。
「うん」
少し間が空いた。
「……それは、ちゃんと覚えておくよ」
◇ ◇ ◇
夕方。
葵は仕事を終えると、春人の家へ向かった。
病院を出たときには、空が薄い橙色に染まっていた。
一日中忙しかった。
足も疲れていた。
それでも、彼女の足取りは少し軽かった。
春人に会える。
それだけで、気持ちが明るくなる。
以前の葵なら、そんな自分を少し不思議に思ったかもしれない。
誰かに会うことが楽しみだなんて。
誰かの家に向かう道が、こんなに穏やかに感じられるなんて。
けれど今は――
その気持ちを、素直に受け入れられるようになっていた。
春人の家に着くと、由紀が迎えてくれた。
「葵ちゃん、いらっしゃい」
葵は微笑んだ。
「こんばんは」
「お仕事お疲れさま」
「ありがとうございます」
由紀は彼女を見た。
「今日は春人がずっと嬉しそうなのよ」
葵は笑った。
「そうなんですか?」
「ええ」
由紀はにやりとした。
「あなたが来るって聞いてから、特にね」
葵の頬が赤くなった。
「……もう」
由紀は笑った。
「ふふ」
そのとき、リビングの方から声がした。
「由紀叔母さん」
二人が振り向いた。
春人が青い電動車椅子で近づいてきた。
「僕の評判を勝手に広めないでくれるかな」
由紀は笑った。
「本当のことじゃない」
春人はため息をついた。
「プライバシーという概念が、この家には存在しないらしい」
葵は吹き出した。
「こんばんは、春人」
彼は彼女を見た。
そして、表情を柔らかくした。
「こんばんは、葵」
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
二人は何も言わずに微笑み合った。
由紀はそれを見て、満足そうにうなずいた。
「じゃあ、私はお茶を用意してくるわね」
春人は彼女を見た。
「……逃げるの?」
「二人の時間を邪魔しないためよ」
「非常にありがたい判断だね」
由紀は笑いながらキッチンへ向かった。
◇ ◇ ◇
葵は春人の隣に座った。
「改めて、おめでとう」
春人は微笑んだ。
「ありがとう」
彼女は少し身を乗り出した。
「詳しく聞かせて」
春人はうなずいた。
「まず、改修計画は正式に承認された」
「うん」
「ただし、工事の日程と費用負担の確認が必要」
「なるほど」
「それから、賃貸契約もまだ最終段階ではない」
葵はうなずいた。
「介助の方は?」
春人は少し表情を引き締めた。
「そこが一番大きな課題かな」
彼は今日の面談について説明した。
候補スタッフがいること。
夜間の人員が不足していること。
急な欠勤に備えた代替体制が必要なこと。
そして、必要な支援が確保できるまで、引っ越しを急がないと決めたこと。
葵は真剣に聞いていた。
春人が話し終えると、彼女はゆっくりとうなずいた。
「……うん」
彼は少し笑った。
「地味な話でしょ」
葵は首を振った。
「全然」
春人は彼女を見た。
「本当に?」
「うん」
葵は微笑んだ。
「春人にとって、大事なことだもん」
彼は静かになった。
葵は続けた。
「それに、私も知っておきたい」
春人は少し驚いた。
「どうして?」
彼女は彼を見つめた。
「だって、春人の未来の話だから」
少し間が空いた。
「私も、その未来を一緒に楽しみにしてるんだよ」
春人の胸が温かくなった。
「……葵」
彼女は微笑んだ。
「もちろん、全部に口を出したいわけじゃないよ」
「うん」
「春人の生活なんだから、春人が決めることが大事だと思う」
彼はうなずいた。
葵は続けた。
「でも、話を聞くことくらいはできるでしょ?」
春人は彼女を見つめた。
そして、優しく微笑んだ。
「……ありがとう」
葵は笑った。
「どういたしまして」
◇ ◇ ◇
その後、二人はアパートの間取り図を見ながら話し始めた。
春人はパソコンの画面に図面を表示した。
「これがリビング」
葵は身を乗り出した。
「うん」
「ここがキッチン」
「なるほど」
「そして、ここが寝室」
葵はうなずいた。
「思ってたより広いね」
春人は微笑んだ。
「そうなんだ」
彼は画面を拡大した。
「ただ、家具の配置には注意が必要でね」
葵は真剣に見つめた。
「車椅子の移動スペース?」
「そう」
春人はうなずいた。
「通路幅だけじゃなくて、方向転換できる場所も確保しないと」
葵は考えた。
「じゃあ、大きな家具は慎重に選ばないとね」
春人は微笑んだ。
「そのとおり」
彼女は画面の一角を指差した。
「ここに小さなテーブルを置くのはどう?」
春人は図面を見た。
「悪くないね」
「でしょ?」
「ただし、サイズ次第かな」
葵はうなずいた。
「じゃあ、実際に測ってからだね」
春人は微笑んだ。
「素晴らしい」
葵はにやりとした。
「何?」
「非常に現実的な提案だ」
「褒めてる?」
「最大限に」
彼女は笑った。
そして、画面の別の場所を見た。
「……あれ?」
春人は瞬きをした。
「何?」
葵は目を細めた。
「この四角いの、何?」
春人は一瞬、黙った。
「……家具」
葵は彼を見た。
「どんな家具?」
春人は目を逸らした。
「収納設備」
「春人」
「書籍を効率的に管理するための」
「本棚でしょ」
春人はため息をついた。
「君の洞察力は恐ろしいね」
葵は笑った。
「何個置くつもりなの?」
春人は考えた。
「……合理的な数」
「具体的には?」
「合理性の定義によるかな」
「春人!」
彼は笑った。
◇ ◇ ◇
ひとしきり笑ったあと、葵はもう一度間取り図を見た。
そして、ふと気づいた。
春人は、自分が暮らすための家を、本当に細かく考えている。
家具の配置。
電源の位置。
介助スタッフが必要な作業を行うためのスペース。
医療機器の置き場所。
車椅子の動線。
そして、生活の中で何を自分で選びたいのか。
そこには、彼の希望が詰まっていた。
ただ生活するための場所ではない。
彼自身の暮らしを築くための場所。
葵は静かに微笑んだ。
「……ねえ、春人」
「うん?」
「この家、きっと素敵になるね」
彼は彼女を見た。
「そう思う?」
葵はうなずいた。
「うん」
彼女は画面を見つめた。
「だって、春人が一生懸命考えてるんだもん」
春人は少し照れたように笑った。
「……まあね」
葵は続けた。
「それに、まだ何も置いてない部屋なのに、なんとなく春人らしさが見える気がする」
彼は眉を上げた。
「本棚のせい?」
葵は笑った。
「それもある」
「やっぱり」
「でも、それだけじゃないよ」
春人は彼女を見た。
葵は微笑んだ。
「ちゃんと、自分の好きなものに囲まれて暮らそうとしてるところ」
彼は静かになった。
「……そうだね」
葵は彼を見つめた。
「春人」
「うん?」
「楽しみだね」
彼は少し間を置いた。
そして、微笑んだ。
「……うん」
その笑顔は、どこか穏やかだった。
「すごく楽しみだよ」
◇ ◇ ◇
夕食の時間になると、由紀が小さなケーキを用意してくれた。
春人はそれを見て、目を丸くした。
「……何これ?」
由紀は微笑んだ。
「お祝いよ」
「何のお祝い?」
葵が笑った。
「改修計画の承認」
春人は二人を見た。
「……本当に?」
由紀はうなずいた。
「もちろん」
春人は少し困ったように笑った。
「まだ契約も終わってないのに」
葵は彼を見た。
そして、微笑んだ。
「昨日、約束したでしょ?」
春人は瞬きをした。
「……あ」
彼女は続けた。
「小さな幸せも、ちゃんとお祝いするって」
春人は静かになった。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうだったね」
由紀はケーキをテーブルに置いた。
「それに、今日は十分お祝いする理由があると思うわ」
大地もリビングに入ってきた。
「そうだな」
春人は三人を見た。
由紀。
大地。
そして葵。
みんな、笑っていた。
彼は少しだけ胸がいっぱいになった。
「……ありがとう」
由紀は優しく微笑んだ。
「どういたしまして」
葵はにやりとした。
「じゃあ、お祝いの言葉をどうぞ」
春人は眉を上げた。
「僕が?」
「もちろん」
「突然の演説要求とは」
大地が笑った。
「ほら、作家先生」
春人はため息をついた。
「まったく……」
それから、少し考えた。
そして――
「今日は、僕のアパートの改修計画が承認されました」
三人が彼を見つめた。
春人は続けた。
「まだ、引っ越せるわけじゃありません」
少し間が空いた。
「まだ、解決しなきゃいけないこともたくさんあります」
彼は微笑んだ。
「でも、一つ進みました」
由紀の表情が柔らかくなった。
大地もうなずいた。
葵は静かに微笑んでいた。
春人は続けた。
「だから、今日はその一つをお祝いしたいと思います」
彼は三人を見た。
「それから……」
少し照れたように笑った。
「いつも僕のことを応援してくれて、ありがとう」
由紀の目が潤んだ。
春人はすぐに言った。
「由紀叔母さん、泣かないで」
彼女は笑った。
「まだ泣いてないわよ」
「時間の問題だね」
大地が吹き出した。
葵も笑った。
春人はにやりとした。
「では、乾杯」
四人はそれぞれ飲み物を手にした。
「乾杯!」
小さな声が重なった。
特別に豪華な食事ではなかった。
大きなパーティーでもなかった。
けれど――
春人にとって、それは忘れたくない夜になった。
◇ ◇ ◇
食後。
葵は帰る前に、もう一度春人の部屋を訪れた。
彼はパソコンの前にいた。
画面には、アパートの間取り図が表示されている。
葵は笑った。
「まだ見てるの?」
春人は振り向いた。
「うん」
「飽きないね」
「非常に興味深い資料だからね」
葵は近づいた。
「また本棚を増やそうとしてる?」
春人は一瞬、黙った。
「……違うよ」
葵は目を細めた。
「本当に?」
「少なくとも、今は」
彼女は吹き出した。
「春人!」
彼は笑った。
それから、少し真面目な表情になった。
「……葵」
彼女が振り向いた。
「うん?」
春人は少し迷った。
そして言った。
「今日、話を聞いてくれてありがとう」
葵は微笑んだ。
「何回目?」
「何が?」
「今日のお礼」
春人は考えた。
「数えてないな」
彼女は笑った。
「もう十分だよ」
春人は微笑んだ。
「でも、言いたかったんだ」
葵の表情が柔らかくなった。
「……うん」
少し間が空いた。
そして、彼女が言った。
「私も、春人に話したいことがある」
春人は瞬きをした。
「何?」
葵は少し考えた。
「……まだ、ちゃんとまとまってないんだけど」
彼は微笑んだ。
「大丈夫」
彼女は彼を見つめた。
「最近ね、私も自分の将来について考えるようになったの」
春人は静かになった。
葵は続けた。
「仕事のこととか」
「うん」
「これから、どんなふうに暮らしたいかとか」
「うん」
「それから……」
彼女は少し照れたように笑った。
「春人とのことも」
春人の胸が、少しだけ高鳴った。
「……僕とのこと?」
葵はうなずいた。
「うん」
彼女は視線を落とした。
「前は、将来のことを考えるのが怖かったんだ」
春人は耳を傾けた。
「誰かと一緒にいる未来なんて、あまり想像できなかった」
少し間が空いた。
「でも、今は違う」
春人は彼女を見つめた。
葵は微笑んだ。
「春人と一緒に、いろんなことを考えてみたい」
彼は静かになった。
そして、優しく微笑んだ。
「……僕もだよ」
葵の表情が柔らかくなった。
春人は続けた。
「でも、急がなくていいからね」
彼女はうなずいた。
「うん」
「僕たちには、まだ時間がある」
葵は微笑んだ。
「そうだね」
彼は少し考えた。
「それに、僕のアパートの準備が終わるまでには、相当な量の書類と戦わなきゃいけないし」
葵は笑った。
「またPDF?」
「六つの敵が待ち構えている」
「頑張って、勇者様」
春人はにやりとした。
「君は僕の仲間になってくれる?」
葵は微笑んだ。
「もちろん」
「心強いね」
「ただし、本棚の数は別問題だから」
春人はため息をついた。
「そこだけは譲ってくれないんだ」
葵は笑った。
◇ ◇ ◇
帰る時間になった。
葵は春人の隣にしゃがんだ。
「じゃあ、またね」
春人は微笑んだ。
「うん」
彼女は少し迷った。
それから、彼の頬にそっとキスをした。
春人は瞬きをした。
葵はにやりとした。
「お祝いの追加特典」
彼は微笑んだ。
「素晴らしいサービスだね」
「でしょ?」
「次回も期待していい?」
葵は笑った。
「調子に乗らないの」
春人はにやりとした。
「努力します」
葵は彼を見つめた。
そして、優しく微笑んだ。
「……春人」
「うん?」
「今日も、幸せだったね」
春人は少し黙った。
そして、微笑んだ。
「……うん」
彼は彼女を見た。
「今日も、幸せだった」
葵は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、また明日」
春人は微笑んだ。
「また明日、葵」
彼女は手を振った。
そして、部屋を出ていった。
春人はしばらく、その後ろ姿を見つめていた。
◇ ◇ ◇
夜。
春人は再びパソコンの前にいた。
画面には、今日届いたメールが表示されていた。
改修計画の承認。
まだ終わっていない手続き。
調整中の介助体制。
そして、これから決めなければならないこと。
以前の春人なら、その一覧を見てため息をついていたかもしれない。
もちろん、今でも面倒だとは思う。
六つの添付書類が突然三つに減るわけでもない。
夜間のスタッフが、魔法のように全員そろうわけでもない。
契約が自動的に成立するわけでもない。
けれど――
今日は少し違っていた。
春人は、新しい文書を開いた。
タイトルを入力する。
『今日の小さな幸せ』
そして、音声入力を始めた。
今日は、アパートの改修計画が承認された。
まだ引っ越しが決まったわけではない。
でも、一つ前に進んだ。
由紀叔母さんと大地叔父さんが喜んでくれた。
葵も、お祝いに来てくれた。
みんなで小さなケーキを食べた。
それだけの一日だった。
春人は少し考えた。
そして、続けた。
でも、僕にとっては、大切な一日だった。
昨日、葵と約束した。
小さな幸せも、ちゃんとお祝いしようって。
今日、その約束を一つ守ることができた。
彼は微笑んだ。
これから先も、きっと大変なことはある。
うまくいかない日もある。
それでも、少しずつ進んでいきたい。
焦らずに。
諦めずに。
そして、今ここにある幸せを見失わずに。
春人は最後の一文を入力した。
明日も、何か一つ、楽しみなことを見つけられますように。
文書を保存した。
そして、静かに息を吐いた。
窓の外には、夜の街が広がっていた。
春人は、まだ見ぬアパートでの生活を想像した。
朝、目を覚ますこと。
自分で選んだ家具に囲まれること。
好きな本を読むこと。
仕事をすること。
介助スタッフと協力しながら、自分の生活を続けていくこと。
そして――
葵が遊びに来ること。
二人で食事をすること。
くだらない冗談を言い合うこと。
ときには意見が合わず、話し合うこと。
それでも、また笑い合えること。
そんな未来を思い浮かべると、胸が温かくなった。
春人は微笑んだ。
「……悪くないね」
彼は画面を閉じようとした。
そのとき――
新しいメールの通知音が鳴った。
ピコン。
春人は瞬きをした。
「……ん?」
画面を確認する。
差出人は――
佐藤恵美
件名は――
『夜間介助スタッフの配置について』
春人の表情が変わった。
「……え?」
彼はメールを開いた。
そこには、短い文章が書かれていた。
高橋様
本日の面談後、夜間帯の勤務体制について追加の調整を行いました。
現在、新たに二名の候補者と連絡が取れております。
ただし、必要な資格・経験の確認、勤務条件の調整、および正式な配置決定はこれからとなります。
詳細について、明日お電話でご説明できればと思います。
春人は画面を見つめた。
しばらく――
何も言わなかった。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……なるほど」
まだ、決まったわけではない。
まだ、確実ではない。
けれど――
新しい可能性が生まれた。
春人は窓の外を見た。
夜空には、いくつかの星が輝いていた。
昨日、海に映っていた光を思い出した。
千の星が海に降り注いでいるように見えた、あの景色。
そして、葵と交わした約束。
小さな幸せも、ちゃんとお祝いしよう。
春人は微笑んだ。
「……また一つ、進めるかもしれないね」
その声は静かだった。
けれど、そこには確かな希望があった。
未来は、まだ決まっていない。
それでも――
彼はもう、その未来を恐れるだけの自分ではなかった。
明日を楽しみにする理由が、少しずつ増えていたから。
そして、その明日を――
一緒に楽しみにしてくれる人がいたから。
春人は静かに呟いた。
「……おやすみ、葵」
窓の外では、夜風が街を通り抜けていった。
まだ見ぬ明日へ。
二人の小さな一歩は――
確かに、始まっていた。




