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第52話 波の向こうに置き忘れた、あの日の涙

最初に海が見えたのは、二つの建物の隙間からだった。

細く伸びる青い帯。

その向こうに、もう一つ。

そして、ついに――

水平線いっぱいに広がる海が姿を現した。

水面には陽光が降り注ぎ、穏やかな波が幾千もの光の欠片となってきらめいていた。

空は、どこまでも大きく感じられた。

葵は窓の方へ身を寄せた。

「……わあ」

春人は彼女を見つめていた。

海ではなく。

葵を。

海なら、以前にも見たことがある。

波がどんなふうに動くのかも知っている。

太陽の光が水面で踊る様子も。

潮の香りを運ぶ風の匂いも。

けれど、こんな表情で海を見つめる葵を見るのは、初めてだった。

彼女は目を大きく見開いていた。

唇がわずかに開いている。

その表情は、初めて素晴らしいものを発見した幼い少女のようだった。

大地がバックミラーをちらりと見た。

「いい日を選んだみたいだな」

春人は微笑んだ。

「そうみたいだね」

葵が彼の方を向いた。

「春人……」

「うん?」

「本当に、ここに来る予定だったの?」

春人は眉を上げた。

「大地叔父さんが、密かに僕たちを海へ突っ込ませようとしていない限りはね」

「おい!」と大地が抗議した。

春人はにやりとした。

「もしそうなら、正式に苦情を申し立てたいんだけど」

葵は吹き出した。

大地はため息をついた。

「次からはお前が運転しろ」

春人は彼を見た。

「興味深い提案だね。ただ、保険会社が反対するかもしれない」

「保険会社だけか?」

「警察もかな」

葵はまた笑った。

その笑い声を聞きながら、春人の胸に温かいものが広がっていった。

一日は、まだ始まったばかりだった。

それなのに、もう――

来てよかったと思えた。

◇ ◇ ◇

それから間もなく、海沿いの遊歩道に到着した。

車椅子対応の駐車スペースは、舗装された入口のすぐ近くにあった。

移動経路は事前に確認してある。

そして展望スペースからは、遮るものなく海を見渡せるはずだった。

大地が車を停めた。

降車の準備が始まる。

春人は車椅子の固定具が外され、必要な点検が終わるのを待った。

こうした手順は、これまでにも数え切れないほど経験してきた。

駐車。

降車。

機器の確認。

すべてが安全な状態にあるかどうかの確認。

電動車椅子や医療機器とともに外出するうえで、ごく当たり前のことだった。

しかし、春人が読んできた恋愛小説には、こういう場面がほとんど登場しない。

彼に言わせれば、それは重大な見落としだった。

誰かを一緒に出かけようと誘う前に、その旅が実現できるよう準備すること。

それだって、十分にロマンチックではないだろうか。

準備がすべて整うと、春人は青い電動車椅子を操作し、車両のスロープを下りた。

車輪が舗装路に触れた。

穏やかな潮風が頬を撫でる。

彼は一度立ち止まった。

そして海を見た。

「……さて」

隣に立っていた葵が首を傾げた。

「さて?」

春人は微笑んだ。

「無事に到着したね」

葵は笑った。

「うん、到着したね」

「美香さんがヘリコプターで現れることもなく」

「それはよかったね」

「非常によかった」

葵は首を振った。

「美香があのメッセージを送ったこと、ずっと言い続けるつもりでしょ?」

春人は考えた。

「彼女が引退するまでは」

「春人!」

「場合によっては、その後も」

葵は笑った。

大地が近づいてきた。

「何かあったら呼んでくれ」

春人はうなずいた。

「ありがとう、大地叔父さん」

同行している介助スタッフも、必要な支援ができる距離に待機しながら、可能な範囲で二人の時間を尊重してくれていた。

葵は遊歩道の方を見た。

「準備はいい?」

春人は微笑んだ。

「案内をお願いするよ」

そして二人は――

海へ向かって進み始めた。

◇ ◇ ◇

間近で見る海は、想像していた以上に美しかった。

水面は水平線の彼方まで続き、午前の陽光を浴びながら、青、銀、緑へと絶えず色を変えていた。

波が岸へ押し寄せる。

砂浜に優しく崩れる波もあれば、少し離れた岩場にぶつかり、白い飛沫を上げる波もあった。

頭上では海鳥が旋回している。

風が潮の香りを運んでくる。

近くでは、子どもたちの笑い声が聞こえた。

葵は春人の隣を歩いていた。

何も言わずに。

珍しく、沈黙をそのまま楽しんでいるようだった。

春人は彼女をちらりと見た。

葵は微笑んでいた。

見知らぬ人に向ける礼儀正しい笑顔ではない。

不安な患者を安心させるための、看護師としての笑顔でもない。

もっと柔らかい。

どこか穏やかな笑顔だった。

二人は海を見下ろす広い展望スペースにたどり着いた。

葵が手すりの近くで立ち止まる。

春人も、ほかの人の通行を妨げない位置に車椅子を停めた。

しばらく――

二人とも何も言わなかった。

やがて葵が囁いた。

「……綺麗」

春人は微笑んだ。

「うん」

葵は彼を見た。

「ありがとう」

春人は瞬きをした。

「まだ何もしてないよ?」

葵は微笑んだ。

「ここに来られたじゃない」

彼は彼女を見つめた。

葵は続けた。

「それだけで十分だよ」

春人はすぐには答えなかった。

代わりに海を見た。

そして、もう一度彼女を見た。

微笑んだ。

「……それなら、残りの予定は全部おまけってことになるね」

葵は笑った。

「まさか、本当に予定表を作ったの?」

春人は心外そうな顔をした。

「葵」

彼女はにやりとした。

「何?」

「当然、作ったよ」

「どのくらい細かく?」

春人は考えた。

「簡単な答えと、不安になる答え。どっちがいい?」

「春人!」

彼は笑った。

◇ ◇ ◇

その後の一時間ほど、二人は遊歩道を散策した。

ゆっくりと。

急ぐことなく。

舗装された道は海岸線に沿って続き、ところどころにベンチや案内板が設置された小さな展望スペースがあった。

途中には庭園もあった。

背の低い植え込み。

風に揺れる花々。

そして、景色を遮らずに日陰を作るよう配置された木々。

葵が遠くの船を指差した。

「見て!」

春人は彼女の視線を追った。

何隻かの小さな漁船が、海の上を進んでいた。

「綺麗だね」

葵は微笑んだ。

「でしょ?」

春人はうなずいた。

「ただ、あの人たちの商売には少し疑問があるけど」

葵は瞬きをした。

「え?」

「一日中、協力する気のない魚を相手にしなきゃいけないなんて」

葵は笑った。

「それが釣りでしょ!」

「非常に効率の悪い交渉だね」

「春人!」

彼は微笑んだ。

「僕は、すでに昼食になることを了承した魚の方が好きだな」

葵は首を振った。

「本当にどうしようもない人」

「それでも魅力的だろう?」

「議論の余地があるね」

二人は道を進んだ。

その途中、捨てられた食べ物の包み紙の近くに、妙に威圧的なカモメが降り立った。

春人はそれを見つめた。

カモメも彼を見返した。

葵が気づいた。

「……どうしたの?」

春人は目を細めた。

「あの鳥、この場所の所有者みたいな顔をしてる」

葵は笑った。

「カモメだよ」

「非常に傲慢なカモメだ」

「食べ物が欲しいんじゃない?」

「それとも貢ぎ物かな」

葵は吹き出した。

カモメが鳴いた。

春人は真剣な顔でうなずいた。

「ほら。貢ぎ物を要求してる」

「春人!」

「僕はテロリストとは交渉しない」

葵は笑いすぎて、手すりに寄りかからなければならなかった。

春人はにやりとした。

カモメがもう一度鳴いた。

「君の脅迫は僕には通用しないよ」と春人は告げた。

葵は口元を押さえた。

「やめて! 笑いすぎて息ができない!」

春人は微笑んだ。

「それなら、増援が来る前に撤退した方がよさそうだね」

葵はさらに笑った。

そして春人は――

ただ、そんな彼女を見つめていた。

これこそが、彼の望んでいたものだった。

完璧な一日ではない。

高価な演出でもない。

写真では華やかに見えても、二人とも疲れ果ててしまうような、大がかりなロマンチックな催しでもない。

ただ、海のそばで笑っている葵。

それだけだった。

ふと、春人は誕生日プレゼントの中に入っている写真を思い出した。

誰かに撮られていることも知らず、葵が笑っていたあの一枚。

いつか、あんな瞬間が何十回も訪れたらいい。

必ずしも写真でなくてもいい。

思い出でいいのだ。

大切に残しておきたくなる、何気ない瞬間が。

◇ ◇ ◇

やがて二人は、遊歩道の静かな一角にたどり着いた。

道は広い展望スペースへと続き、その先には波が穏やかに岩場へ打ち寄せる海岸が見えた。

人通りは少なかった。

周囲の話し声も遠ざかっていた。

その分、波の音が大きく聞こえた。

葵は手すりの近くで立ち止まった。

春人も隣に車椅子を停めた。

しばらく、二人は海を眺めていた。

やがて春人が口を開いた。

「一つ聞いてもいい?」

葵が振り向いた。

「もちろん」

彼はかすかに微笑んだ。

「どうして海だったの?」

葵は瞬きをした。

「え?」

「僕たちのリストに書いたでしょ」

葵は海を見た。

春人は続けた。

「そのとき、何かを思い出してるみたいな顔をしてたから」

彼女は静かになった。

春人は待った。

誰かに話してもらいたいとき、沈黙を無理に埋めないことが一番いい場合もある。

彼はそう学んでいた。

葵は手すりに両手を置いた。

風が彼女の髪を揺らした。

そして、微笑んだ。

「……おばあちゃんが、よく海に連れてきてくれたの」

春人は耳を傾けた。

「私が小さかった頃」

彼女の表情が柔らかくなった。

「家はそんなに裕福じゃなかったから、大きな旅行には行けなかったんだ」

葵は小さく笑った。

「でも毎年夏になると、どうにかして海へ連れてきてくれた」

春人は微笑んだ。

「素敵だね」

葵はうなずいた。

「うん」

水平線を見つめた。

「いつも食べ物を持ってきすぎるの」

「素晴らしいことだ」

「それで、砂があちこちに入るって文句を言うんだよ」

「それは分かる」

「でも、何時間でも一緒に座っていてくれた」

葵は懐かしそうに微笑んだ。

「砂のお城を作ることもあったな」

「立派なお城?」

「ひどい出来だったよ」

春人は笑った。

「なるほど」

「いつも崩れちゃうの」

「建築技術というのは難しいものだからね」

葵はにやりとした。

「そうみたい」

そして、また表情が柔らかくなった。

「でも、おばあちゃんは全然気にしなかった」

春人は彼女を見つめた。

「お城が崩れても、また作ればいいって言ってくれたの」

葵は少し間を置いた。

「それが海辺の一番いいところなんだって」

春人は少し首を傾げた。

「どういうこと?」

葵は微笑んだ。

「波が全部流してしまっても、もう一度作ろうとすることまでは止められないから」

春人は静かになった。

葵は海を見た。

「それで、私が落ち込んでいるときには、もう一つ言ってくれたの」

「何て?」

「海はね、自分ではどうしたらいいか分からない心配事を、全部受け止めてくれるくらい大きいんだって」

春人はかすかに微笑んだ。

「……いい言葉だね」

葵はうなずいた。

「私も好き」

彼女は小さく笑った。

「心配事を小さな紙の船に乗せるところを想像しなさいって」

「紙の船?」

「うん」

「それから?」

「波に乗せて、遠くへ流してしまうの」

春人は海を見つめた。

祖母の隣に立つ、小さな女の子を想像した。

その手には紙の船。

中には、小さな心配事が折り込まれている。

葵はこれまで、心の中で何隻の船を流してきたのだろう。

そして、もう誰も一緒に流してくれなくなってから、どれほど多くの心配事を一人で抱えてきたのだろう。

「……素敵なおばあさんだったんだね」

葵は微笑んだ。

「うん」

少し間が空いた。

「本当に、素敵な人だった」

◇ ◇ ◇

しばらく、葵は黙っていた。

そして続けた。

「おばあちゃんが亡くなってから、あまり海に来なくなったの」

春人は耳を傾けた。

「海が嫌いになったわけじゃないんだよ」

彼女は俯いた。

「ただ、おばあちゃんがいないと、何だか違って感じられて」

春人はゆっくりとうなずいた。

「分かるよ」

葵は寂しそうに微笑んだ。

「また来ようと思うたびに、どれほど会いたいか思い出しちゃって」

彼女は息を吸った。

「それに、その後……」

声が途切れた。

春人は何も言わなかった。

彼女が話し始めるのを待った。

葵は水平線を見つめた。

「その後、私の好きなものを、あまり好きじゃない人と付き合ってたから」

春人の表情が柔らかくなった。

「海なんて時間の無駄だって言われた」

少し間が空いた。

「ただ水を眺めてるだけで、何が面白いんだって」

春人は海を見つめた。

珍しく、冗談が思い浮かばなかった。

葵は続けた。

「最初は、分かってもらおうとしたんだ」

彼女は弱々しく笑った。

「小さなレストランとか、船とか、夕日の綺麗さとか、いろいろ話した」

指先が手すりを少し強く握った。

「でも、いつも行かない理由を見つけられて」

彼女は俯いた。

「そのうち、誘うこと自体をやめちゃった」

春人は彼女を見つめた。

二人の間を、風が静かに通り抜けた。

そして彼は言った。

「……僕に言ってくれてよかった」

葵が振り向いた。

春人は微笑んだ。

「正確には、直接誘われたわけじゃないけどね」

彼女は小さく笑った。

「春人」

彼は続けた。

「ノートに書いてくれて、よかった」

葵は海を見た。

そして微笑んだ。

「私も」

しばらく、二人は波を眺めていた。

春人は、家に置いてきた濃紺のノートを思い出していた。

『二人で築いていくもの』

書き始めた頃は、未来の冒険を集めたノートだと思っていた。

訪れたい場所。

一緒に経験したいこと。

叶えたい小さな夢。

けれど、もしかしたら、それだけではないのかもしれない。

そこに書かれた約束の中には、新しい場所を発見することが目的ではないものもある。

かつて大切だった場所へ、もう一度戻ること。

そして、古い思い出を消さずに、新しい思い出を重ねられると知ること。

そんな約束もあるのかもしれなかった。

春人は葵を見た。

「葵のおばあちゃんは、僕のことを気に入ってくれたと思う?」

葵は瞬きをした。

それから笑った。

「ああ、絶対にね」

春人は微笑んだ。

「本当に?」

「きっと大好きになってたよ」

彼は眉を上げた。

「人を見る目のある方だったんだね」

葵はにやりとした。

「でも、きっと叱られてたと思う」

春人は心外そうな顔をした。

「何について?」

「寒い冗談」

「ありえない」

「皮肉ばっかり言うところ」

「不当な評価だ」

「それから、本棚への執着」

春人はため息をついた。

「君の家系には、文学を迫害してきた長い歴史があるらしい」

葵は吹き出した。

そして、また海を見つめた。

その笑顔が、優しいものに変わった。

「……おばあちゃんも、私が春人とここにいるのを見たら、喜んでくれたと思う」

春人の表情が柔らかくなった。

「それなら、来てよかった」

◇ ◇ ◇

二人は、もうしばらく展望スペースに留まった。

太陽は高く昇っていた。

風は心地よかった。

そして波の音のおかげで、二人の間の沈黙は気まずいものではなく、安らかなものになっていた。

やがて葵が口を開いた。

「ちょっと恥ずかしいこと、言ってもいい?」

春人は微笑んだ。

「もちろん」

彼女はちらりと彼を見た。

「そんなに嬉しそうにしなくていいから」

「ごめん」

少し間を置く。

「では、恥ずかしい告白をどうぞ」

葵は笑った。

それから静かになった。

「……今日のこと、少し緊張してたの」

春人は瞬きをした。

「本当に?」

葵はうなずいた。

「春人のせいじゃないよ」

彼は耳を傾けた。

「ただ……誕生日だから」

春人は待った。

葵は水平線を見つめた。

「楽しくなかった誕生日もあったから」

彼の表情が柔らかくなった。

彼女は続けた。

「それで、あまり期待しないことに慣れちゃったの」

少し間が空いた。

「その方が楽なときもあったから」

春人は何も言わなかった。

葵が自分の言葉を選ぶのを待った。

彼女は息を吸った。

「今でも、誰かが優しくしてくれると、心のどこかで緊張しちゃうんだ」

弱々しく笑った。

「馬鹿みたいでしょ」

春人は首を振った。

「違うよ」

葵が彼を見た。

「馬鹿みたいなんかじゃない」

彼女の目が柔らかくなった。

春人は続けた。

「葵は、気をつけることを覚えたんだ」

彼女は俯いた。

「……うん」

「そして今は、いつも身構えていなくてもいいんだって、覚え直そうとしてる」

葵は静かになった。

春人はかすかに微笑んだ。

「それは難しそうだね」

彼女は小さく笑った。

「難しいよ」

春人は海を見た。

それから彼女に向き直った。

「僕からも一つ言っていい?」

葵はうなずいた。

「もちろん」

春人は微笑んだ。

「今日のことで、僕に何か返さなきゃいけないなんて思わなくていいからね」

葵は瞬きをした。

彼は続けた。

「こういう反応をしなきゃいけない、なんてこともない」

少し間が空いた。

「一日中、ずっと幸せそうにしていなくてもいい」

彼女の表情が変わった。

「それに、僕が計画したからって、全部完璧だったふりをする必要もない」

葵は彼を見つめた。

春人は小さく笑った。

「そもそも、美香さんが関わっている時点で、完璧なんて現実的じゃなかったしね」

葵は笑った。

春人も微笑んだ。

そして、声を柔らかくした。

「ただ、葵の誕生日を一緒に過ごしたかったんだ」

数秒間――

葵は何も言えなかった。

そして顔を背けた。

目元を拭った。

春人はすぐに慌てた。

「……ああ、まずい」

葵は涙を浮かべながら笑った。

「何が?」

「泣いてる」

「自分でも分かってるよ」

「悪いこと言った?」

葵は急いで首を振った。

「ううん」

微笑んだ。

「悪くない」

春人は安心した。

「よかった」

葵は彼を見た。

「……ただ、そんなふうに言ってもらったこと、今までなかったから」

彼の表情が柔らかくなった。

葵は微笑んだ。

「ありがとう」

春人も微笑み返した。

「誕生日おめでとう」

◇ ◇ ◇

葵はしばらく手すりのそばに立っていた。

まだ、そこを離れる気にはなれなかった。

春人も急かさなかった。

目の前には、どこまでも続く海。

果てしなく、そして穏やかに。

やがて彼女が口を開いた。

「もう一つ、話してもいい?」

春人は微笑んだ。

「何でも話していいよ」

葵は俯いた。

「ときどき、罪悪感があるの」

彼は瞬きをした。

「罪悪感?」

葵はうなずいた。

「幸せでいることに」

春人は静かになった。

彼女は続けた。

「変に聞こえるのは分かってる」

「そんなことないよ」

葵は彼を見た。

春人は優しく微笑んだ。

「続けて」

葵は息を吸った。

「病院では、人生で一番つらい日を過ごしている人たちに会うでしょ」

春人は耳を傾けた。

「それで家に帰ると、自分には何も不満を言う資格なんてないんじゃないかって思うことがあるの」

彼女は海を見た。

「逆に、すごく嬉しいことがあっても、ほかの誰かは苦しんでいるのにって、申し訳なくなることもある」

春人は考えた。

そして言った。

「葵」

彼女が振り向いた。

「うん?」

「病院の外でも、自分の人生を生きていいんだよ」

葵の表情が柔らかくなった。

彼は続けた。

「疲れてもいい」

「不満を言ってもいい」

「そして、幸せになってもいい」

葵は俯いた。

春人はかすかに微笑んだ。

「葵は看護師だよね」

彼女はうなずいた。

「でも、一人の人間でもある」

少し間が空いた。

「それに、僕の恋人でもある」

葵は小さく笑った。

「そうだね」

「そして、恐ろしい家具検査官でもある」

彼女はさらに笑った。

「春人!」

春人はにやりとした。

「肩書きが多いね」

葵は首を振った。

それから彼を見た。

「……本当に、いいと思う?」

春人の表情が柔らかくなった。

「もちろん」

彼女はかすかに微笑んだ。

春人は続けた。

「葵はいつも誰かを助けているから、自分も優しさを受け取っていいんだってことを、忘れちゃうときがあるんだと思う」

葵は静かになった。

春人は海を見た。

「それに、十分苦しんだ人だけが幸せになれるなんて、僕は思わないよ」

彼女は彼を見つめた。

春人は微笑んだ。

「そんな制度があったら最悪だ」

葵は小さく笑った。

「うん」

「非常に非効率的だし」

「春人」

「精神的にも持続不可能だ」

彼女はまた笑った。

そして目元を拭った。

「本当に、理屈っぽいんだから」

春人はにやりとした。

「感情を理解する理屈っぽい男だよ」

葵は微笑んだ。

「……うん」

彼を見つめた。

「本当に、そうだね」

◇ ◇ ◇

しばらくして、大地が近くのカフェからコーヒーを持って戻ってきた。

二人が静かに話しているのに気づき、少し離れた場所で足を止めた。

しばらく、ただ見守っていた。

春人は微笑んでいた。

葵は笑っていた。

そして二人の向こうには、海が広がっていた。

大地は一人で微笑んだ。

それから近づいた。

「順調か?」

春人が彼を見た。

「絶好調」

葵も微笑んだ。

「本当に素敵です」

大地はうなずいた。

「それはよかった」

海をちらりと見る。

「いい天気だな」

春人は眉を上げた。

「大地叔父さん」

「何だ?」

「僕たちを監視してた?」

大地は目を丸くした。

「は?」

春人は目を細めた。

「都合がよすぎる登場だね」

大地は笑った。

「コーヒーを買いに行ってたんだよ」

「もっともらしい話だ」

葵がくすくす笑った。

大地は首を振った。

「お前たちは本当にどうしようもないな」

春人はにやりとした。

「みんなにそう言われるよ」

大地は近くのカフェの方を見た。

「そろそろ昼飯にするか?」

春人は時刻を確認した。

そして微笑んだ。

「ちょうどいいね」

葵が振り向いた。

「どこで食べるの?」

春人は眉を上げた。

「知りたい?」

彼女は笑った。

「春人!」

彼は何も知らないような顔で微笑んだ。

「次のサプライズだよ」

葵は首を振った。

「絶対、楽しんでるでしょ」

「ものすごくね」

◇ ◇ ◇

昼食は、春人が恐れていたよりもずっと平穏だった。

予備として選んでいたレストランは静かだった。

入口はバリアフリーに対応していた。

テーブルには十分なスペースがあった。

そして店側も、事前に確認していた座席の手配をきちんと守ってくれていた。

つまり――

珍しく――

春人の予備計画が実際に機能したのだ。

彼はこれを歴史的快挙だと考えた。

葵はメニューを眺めていた。

それから彼を見た。

「笑ってるね」

春人は瞬きをした。

「そう?」

「うん」

彼はにやりとした。

「適切な段取りが実行されていることに感動してるんだ」

葵は笑った。

「本当にオタクなんだから」

「計画的なオタクだよ」

「そうみたい」

二人は料理を注文した。

葵は魚介料理を選んだ。

春人は、絶対に美味しいと確信した料理を選んだ。

ところが、葵の料理が運ばれてきた瞬間、早くも自分の選択を後悔し始めた。

彼女はすぐに気づいた。

「……何?」

春人は彼女の皿を見つめた。

「何でもない」

葵は目を細めた。

「春人」

「君の料理の方が優れているように見える」

葵は笑った。

「自分で選んだんでしょ!」

「メニューに騙されたんだ」

「信じられない」

春人は微笑んだ。

「交渉に応じてもらえるかな?」

葵は考えた。

「条件は?」

「永遠の感謝」

「足りない」

「褒め言葉を一つ」

「まだ足りない」

「褒め言葉を二つ。それに、サボテンの命名権を独占的に譲渡する」

葵は固まった。

そして吹き出した。

「交渉成立!」

春人は目を見開いた。

「……待って」

彼女はにやりとした。

「もう遅いよ」

春人はため息をついた。

「とんでもない過ちを犯してしまった」

葵は笑った。

「自分で提案したんでしょ」

「極限状態だったんだ」

「私の料理が食べたかっただけでしょ」

「そう。まさに絶望的な状況だった」

彼女はにやりとした。

「じゃあ、約束は成立ね」

春人は大げさにため息をついた。

「トゲトゲ卿が悲しむだろうな」

葵は可愛らしく微笑んだ。

「トゲトゲ卿なら大丈夫だよ」

「それはどうかな」

◇ ◇ ◇

食事中の会話は、春人が大切にするようになった、何気ないものだった。

特別に重要な話ではない。

世界を変えるような話でもない。

病院のこと。

美香が勧めてきた、くだらないテレビ番組のこと。

葵が行ってみたい本屋のこと。

そして、アパートのこと。

最後の話題になると、春人の表情が少し変わった。

葵はすぐに気づいた。

「引っ越しのこと、考えてる?」

彼はうなずいた。

「うん」

「何か進展はあった?」

春人はかすかに微笑んだ。

「まだ確定したことはないかな」

彼女は耳を傾けた。

「大家さんは、資格を持った業者が工事することを条件に、浴室の補助器具を取り付けるための固定部分と、電気設備の変更を認めてくれたんだ」

「それはよかったね」

「うん」

少し間が空いた。

「でも、賃貸契約はまだ結んでない」

葵はうなずいた。

「介助の手配は?」

「まだ調整中」

春人はため息をついた。

「恵美さんはよさそうな人だけど、必要な時間帯すべてに、確実に人を配置できるようにしないと」

葵の表情が柔らかくなった。

「そうだよね」

春人は窓の外を見た。

「支援体制が整う前に、焦って引っ越したくはないんだ」

葵はうなずいた。

「それがいいと思う」

春人は微笑んだ。

「残念ながら、慎重でいることって、ものすごく面倒なんだけどね」

彼女は笑った。

「特に春人にとってはね」

「そのとおり」

葵は少し考えた。

そして言った。

「一つ言ってもいい?」

春人は彼女を見た。

「いつでも」

「私、春人のことを誇りに思うよ」

春人は瞬きをした。

「……待ってることを?」

彼女は首を振った。

「ちゃんと真剣に考えていることを」

彼は静かになった。

葵は続けた。

「アパートが楽しみなんでしょ」

「ものすごく」

「自立した生活を送りたいんだよね」

「もちろん」

「でも、そのために必要な安全性や、長く続けられる支援体制も確認してる」

彼女は微笑んだ。

「それは夢を諦めてるんじゃないよ」

春人は彼女を見つめた。

「夢を守ってるんだよ」

しばらく――

彼は何も言わなかった。

そして微笑んだ。

「……あのさ」

葵は眉を上げた。

「何?」

「君は、危険なほど筋の通ったことを言うのが上手だね」

彼女は笑った。

「最高の先生から学んだから」

「美香さんじゃないことは確かだね」

葵は吹き出した。

「春人!」

◇ ◇ ◇

昼食の後、二人は遊歩道へ戻った。

午後の日差しは柔らかくなっていた。

光は温かみを増していた。

風も少し落ち着いていた。

そして海は、空の下に果てしなく広がっているように見えた。

春人は時刻を確認した。

それから、荷物と一緒に安全に保管してあった小さなプレゼントの袋をちらりと見た。

胃のあたりがきゅっと縮んだ。

葵はすぐに気づいた。

「……どうしたの?」

彼は瞬きをした。

「何でもない」

彼女は目を細めた。

「春人」

彼は弱々しく微笑んだ。

「ちょっと人生の本質について考えてただけだよ」

「緊張してるでしょ」

「そういう説もあるね」

葵は笑った。

「何に?」

春人は彼女を見た。

それからプレゼントの袋を見た。

そして、もう一度彼女を見た。

「……渡したいものがあるんだ」

葵は瞬きをした。

「まだあるの?」

彼は微笑んだ。

「うん」

「春人」

「葵」

「もう十分いろいろしてもらったよ」

彼はうなずいた。

「確かに」

彼女は笑った。

「だったら、どうして――」

「僕が渡したかったから」

葵は言葉を止めた。

しばらく、もう一度遠慮しようかと迷っているようだった。

けれど、彼がさっき言ってくれたことを思い出した。

今日のことで、僕に何か返さなきゃいけないなんて思わなくていい。

葵は息を吸った。

そして微笑んだ。

「……分かった」

春人も微笑み返した。

「よかった」

葵はプレゼントの袋をそっと取り出した。

中には、包装された写真立て。

そして封筒が一通。

彼女は春人を見た。

「……これは?」

春人は緊張したように微笑んだ。

「誕生日プレゼント」

葵は包みを見た。

それから彼を見た。

「また泣かせるつもりでしょ?」

春人は考えた。

「統計的には、その可能性が高まっているね」

彼女は笑った。

「馬鹿」

春人はにやりとした。

「君の馬鹿だよ」

葵の頬が赤くなった。

「……うん」

彼女は慎重に包装紙を外し始めた。

紙がゆっくりと剥がれていく。

額の角が見えた。

もう一つの角も。

そして、ついに――

葵は写真を見た。

手が止まった。

二人の間を、潮風が通り抜けた。

春人は彼女の表情を見守った。

葵は写真を見つめた。

カメラを見ていないまま、笑い合っている二人。

何気ない瞬間に写し取られた幸せ。

そして、写真の下に添えられた言葉へと視線を移した。

明日を楽しみにしてもいいんだと、僕に教えてくれた君へ。

彼女の唇が、わずかに開いた。

「……春人」

彼は優しく微笑んだ。

「誕生日おめでとう」

葵はもう一度写真を見た。

指先が、額をそっと握りしめた。

そして数秒間――

返す言葉が見つからなかった。

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