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第51話 まだ見ぬ幸せへ、君に贈る秘密の約束

高橋春人は、恋愛関係について、非常に厄介な事実を発見してしまった。

恋愛には計画性が必要なのだ。

それも、途方もないほどの計画性が。

そして、どうやら恋愛にはもう一つ、避けて通れない試練があるらしい。

藤本美香への対応である。

ある意味、こちらの方がよほど危険だった。

水曜日の朝。

葵の誕生日まで、あと四日。

春人はパソコンの前に座り、ある文書をじっと見つめていた。

その文書のタイトルは――

『作戦名:葵の誕生日』

タイトルの下には、十七項目ものメモが並んでいた。

候補となるレストランが三軒。

移動手段の手配案が二つ。

バリアフリー設備の確認リストが一つ。

プレゼントの注文確認書。

手紙が一通。

もっとも、厳密には手書きではなかった。

春人は音声認識ソフトを使って文章を入力していたからだ。

そして――

美香から届いた、日に日に不穏さを増していくメッセージの数々。

スマートフォンが震えた。

またしても。

美香:いいこと思いついた!!

春人は目を閉じた。

「嫌だ」

次のメッセージが届いた。

美香:まだ何も聞いてないでしょ!!

春人は画面を見つめた。

「聞かなくても、ひどい案だって分かる気がする」

彼は音声入力で返信した。

春人:生演奏が関係してる?

美香:してない!!

春人:花火?

美香:場合による!!

春人:美香さん。

美香:分かったわよ! 花火はなし!

春人はため息をついた。

すると、さらにメッセージが届いた。

美香:じゃあ、馬車はどう!?

春人は画面を見つめた。

数秒間、他人の電話番号を着信拒否にする行為が、正当防衛として認められる可能性について真剣に考えた。

春人:僕たちは海に行くんだよ。王室の結婚式に出席するわけじゃない。

美香:ロマンスは死んだわ!!

春人:ロマンスは健在だよ。ただし、バリアフリーの確認リストが必要なんだ。

美香:本当に面倒くさい男ね!!

春人は微笑んだ。

「お互い様だよ」

◇ ◇ ◇

実際の計画は、比較的単純なものだった。

少なくとも、春人は自分にそう言い聞かせ続けていた。

葵を海へ連れていきたい。

大がかりな旅行ではない。

泊まりがけでもない。

ただ、二人で一日を過ごすだけ。

あの濃紺のノートに書いた約束の一つを、実現するために。

二人で海を見に行く。

その約束を書き込んだ日のことを、春人は覚えていた。

葵は彼の隣に座り、ページをめくりながら、次々と冒険の計画を提案していた。

本屋へ行く。

博物館へ行く。

料理に挑戦する。

もっとも、最後の計画については、最終的に出前を注文する未来しか想像できなかった。

そして――

海へ行く。

葵が海の話をしたとき、彼女の表情が少しだけ変わった。

ほんのわずかな変化だった。

小さな笑顔。

遠くを見つめるような眼差し。

まるで、まだ誰にも話す準備ができていない思い出を、心の中でそっと取り出しているようだった。

春人は気づいていた。

もちろん、気づいていた。

彼は葵のことをよく見ていた。

特に、彼女が口にしないことほど。

けれど、そのときは何も聞かなかった。

無理に聞き出すつもりはなかったからだ。

そして今――

ようやく、その約束を実現できるかもしれない。

当然ながら、問題はいくつもあった。

最初の問題は移動手段だった。

春人には、自分の電動車椅子と必要な医療機器を安全に載せられる車両が必要だった。

さらに、外出中も普段と同じように、専門職による介助を受けられる体制を整えなければならない。

葵は彼の恋人だ。

担当の介助者ではない。

そして春人には、彼女の誕生日を医療現場の延長にするつもりなど、まったくなかった。

幸い、大地が福祉車両の運転を引き受けてくれた。

普段から春人を担当している介助スタッフについても、外出中の支援体制が確認できた。

移動時に必要な準備や、万が一の場合の対応についても、事前に確認してある。

由紀も実務的な部分の確認を手伝ってくれた。

そして、目的地も慎重に選んだ。

車椅子で利用できる海沿いの遊歩道。

段差のない入口と、適切な座席配置がある近くのレストラン。

事前に確認したバリアフリートイレ。

海を見渡せる舗装された展望スペース。

そして、春人が車椅子で登山という不可能な偉業に挑まなくても済む移動経路。

確認できることは、できる限り確認した。

つまり――

当然ながら――

何かが起こるに違いなかった。

なぜなら、高橋春人は、順調すぎる計画を決して信用しないことを学んでいたからだ。

◇ ◇ ◇

最初の災難は、午後二時十七分に発生した。

美香が、誤って葵にメッセージを送ってしまったのだ。

普通のメッセージではない。

何の問題もない、無害なメッセージでもない。

違う。

そこには、こう書かれていた。

『葵への海のサプライズ、忘れないでね!!』

約九秒後、春人の電話が鳴った。

彼は応答した。

「もしもし?」

「大変なことになったあああ!!」

春人は天井を見つめた。

「美香さん、こんにちは」

「冗談じゃないのよ!!」

「その言葉の信頼性は、かなり低下しているんだけど」

「春人!!」

彼はため息をついた。

「何があったの?」

沈黙。

非常に怪しい沈黙だった。

そして――

「ちょっと送っちゃったかもしれない」

春人は目を閉じた。

「……何を?」

「メッセージ」

「誰に?」

また沈黙。

春人は、自分の魂がゆっくり身体から抜け出していくような気がした。

「美香さん」

「怒らないでね」

「誰に?」

「……葵」

春人は固まった。

そして、ゆっくりと頭を下げた。

「……何を送ったの?」

美香は説明した。

春人は黙って聞いた。

そして――

十秒間、完全に沈黙した。

美香が不安そうに呼びかけた。

「春人?」

返事はない。

「春人?」

ようやく、彼は口を開いた。

「……少し時間をください」

「事故だったのよ!!」

「もちろん」

「あなたに送るつもりだったの!!」

「そうだろうね」

「送信先を間違えちゃったの!!」

「よくあることだね」

美香は戸惑った。

「……なんだか妙に落ち着いてない?」

春人はかすかに微笑んだ。

「怒りの段階は、もう通り越したからね」

「じゃあ、今は?」

「受容」

美香は安堵のため息をついた。

すると春人が続けた。

「美香さんが歩く自然災害だという事実を、受け入れたんだ」

「ちょっと!!」

◇ ◇ ◇

五分後、葵から電話がかかってきた。

春人は着信画面を見た。

それから天井を見た。

さらに、机の上に飾られた母の写真を見た。

「母さん」

彼はため息をついた。

「もし宇宙に何か働きかける力があるなら、今こそ使ってほしいんだけど」

そして電話に出た。

「もしもし、僕の美しいお姫様」

葵が笑った。

「何、その怪しい挨拶」

春人は瞬きをした。

「怪しい?」

「ものすごく」

彼は微笑んだ。

「男が恋人に愛情たっぷりの挨拶をしてはいけないのかな?」

「もちろん、いいけど」

少し間が空いた。

「でも、いつもは人質事件の交渉をしてるみたいな声じゃないから」

春人は目を閉じた。

「……鋭い観察力だね」

葵は笑った。

「春人」

「はい?」

「美香から、海のサプライズについてメッセージが来たんだけど?」

彼は考えた。

いくつかの返答が思い浮かんだ。

すべてを否定する。

もっともらしい説明をでっち上げる。

美香が密かに海洋生物学者を目指していると主張する。

残念ながら――

葵は彼のことを知りすぎていた。

そこで春人は、別の作戦を選んだ。

「美香さんの情報管理能力が、鍵のかかっていない冷蔵庫並みだからだよ」

葵は吹き出した。

「春人!」

彼はため息をついた。

「本当は送るはずじゃなかったんだ」

「じゃあ、やっぱりサプライズがあるの?」

少し間を置く。

「……可能性はあるね」

「海で?」

「そういう噂もある」

「私の誕生日に?」

春人は目を閉じた。

「君の尋問技術は容赦ないね」

葵は笑った。

それから、声が柔らかくなった。

「春人」

「うん?」

「そんなに大げさなこと、しなくていいんだよ」

彼は微笑んだ。

「分かってる」

「本当に」

「分かってるよ」

少し間が空いた。

そして――

「ただ、葵が喜ぶことをしたかったんだ」

葵は静かになった。

一瞬、電話が切れたのかと思うほどだった。

やがて彼女が口を開いた。

「……覚えててくれたんだね」

春人は瞬きをした。

「何を?」

「海のこと」

彼は微笑んだ。

「もちろん」

葵はすぐには答えなかった。

そして、小さく笑った。

「本当に、馬鹿なんだから」

春人はにやりとした。

「ものすごくハンサムな馬鹿?」

「調子に乗らない」

「了解」

少し間が空いた。

「春人?」

「うん?」

「ありがとう」

彼の表情が柔らかくなった。

「どういたしまして」

すると葵が付け加えた。

「それと、美香に伝えて。もう一通でも怪しいメッセージを送ってきたら、私が直接取り調べるって」

春人は微笑んだ。

「恐ろしいね」

「恐ろしいと思ってもらわないと困るから」

◇ ◇ ◇

二つ目の問題は、それほど劇的ではなかった。

しかし、重要性という意味では、むしろこちらの方が大きかった。

レストランから電話がかかってきたのだ。

予期せぬ設備の修繕作業により、当初予約していた席が使えなくなったという。

代わりに提案された席には、春人の車椅子に必要なスペースが確保できなかった。

春人は説明を注意深く聞いた。

そして、いくつか質問した。

テーブルの配置は変更できるか。

別のバリアフリー対応席はあるか。

入口から席までの通路は確保されているか。

車椅子を置いても、ほかの客の通行や緊急時の避難経路を妨げないか。

店員は申し訳なさそうに謝った。

しかし、確実に対応できるとは約束できないという。

春人は礼を言った。

そして予約をキャンセルした。

怒ってはいなかった。

もちろん、残念ではあった。

けれど、怒ってはいなかった。

バリアフリー対応を曖昧な約束のまま受け入れるわけにはいかないと、彼は経験から学んでいた。

必要なのは、具体的な回答だった。

そして、店側がそれを保証できないのであれば――

その店は、今回の目的地にはふさわしくない。

幸い、予備として選んでいたレストランでは、必要な対応をすでに確認してあった。

春人はもう一度連絡した。

詳細を再確認した。

そして予定を調整した。

それから美香にメッセージを送った。

春人:少し予定変更。レストランは第二候補にするよ。

美香:何があったの!?

春人:最初の店が、車椅子で利用できる席を保証できなくなったんだ。

美香:えええ!?

春人:大丈夫。予備の店があるから。

美香:予備まで用意してたの!?

春人:もちろん。

美香:春人って本当に準備がいいのね!!

春人は微笑んだ。

春人:僕たちのうち、どちらか一人は計画的でないとね。

美香:失礼ね!!

◇ ◇ ◇

その夜、春人は葵への手紙を書いていた。

そして、あることに気づいた。

交通手段の手配よりも、こちらの方がずっと難しい。

実に理不尽な話だった。

交通手段の手配には、時刻表や設備、各種の調整が必要になる。

しかし感情には――

取扱説明書がない。

春人は文書を開いた。

書いた文章を読み返した。

そしてため息をついた。

「……違うな」

一文を削除した。

別の文章を音声入力した。

読み返した。

それも削除した。

画面を見つめた。

「どうしてこんなに難しいんだ?」

すると、入口から声がした。

「大切だからだろ」

春人は振り向いた。

大地だった。

「……いつからそこにいたの?」

大地は微笑んだ。

「少し前から」

春人は目を細めた。

「非常に不安になる答えだね」

大地が近づいた。

「葵ちゃんへの手紙か?」

春人はため息をついた。

「書こうとしてるところ」

「苦戦してるのか?」

「すべての単語に苦戦してる」

大地は笑った。

春人は文書を見た。

「どこかのグリーティングカードから写してきたみたいな文章にはしたくないんだ」

大地はうなずいた。

「なるほどな」

「それに、僕たちのどちらにも予測できない未来について、大げさな約束をしたくない」

「それも分かる」

春人は少し黙った。

「でも、葵が僕にとってどれほど大切なのか、ちゃんと伝えたいんだ」

大地は微笑んだ。

「だったら、そのまま伝えればいい」

春人は彼を見た。

「……それが助言?」

「ああ」

「驚くほど役に立たないね」

大地は笑った。

「簡単な答えが、一番正しいこともあるんだよ」

春人はため息をついた。

「大地叔父さんがまともなことを言うと、腹が立つんだけど」

大地はにやりとした。

「慣れるんだな」

彼は入口へ向かった。

そして立ち止まった。

「ああ、それから春人」

「何?」

「完璧な手紙を書こうとするな」

春人は顔を上げた。

「お前にしか書けない手紙を書けばいい」

珍しく――

春人には皮肉な返事が思いつかなかった。

ただ、部屋を出ていく叔父の背中を見送った。

それからパソコンに向き直った。

そして、もう一度書き始めた。

◇ ◇ ◇

その頃、葵は葵で、別の問題に直面していた。

自分がどうすればいいのか、分からなかったのだ。

誕生日が近づいている。

週末は丸ごと休みになった。

恋人が何かを計画している。

親友は、どうやら秘密を守るという能力を失ってしまったらしい。

そして周囲の人たちは、彼女を祝福の中心に置こうとしていた。

普通なら――

素晴らしいことのはずだった。

けれど、葵は祝われることに慣れていなかった。

誰かの役に立つことには慣れていた。

病院では、呼ばれれば駆けつける側だった。

小さな変化を覚えている側だった。

大変なときに残業する側だった。

不安を抱えた人を安心させる側だった。

しかし、誕生日は違う。

誕生日には、受け取らなければならない。

注目を。

優しさを。

贈り物を。

愛情を。

そして、なぜか――

それがずっと難しく感じられた。

葵はベッドに座り、美香からのメッセージを見つめていた。

美香:楽しみ!?

葵はため息をついた。

葵:少しね。

美香:少しだけ!?

葵:大声で叫ぶのやめて。

美香:彼氏がロマンチックなことをしてくれるのよ!!

葵は思わず微笑んだ。

葵:分かってる。

美香:それに、葵にはそのくらい祝ってもらう価値があるんだから!!

葵はその言葉を見つめた。

なぜだろう。

最後の一文だけは、返事をするのが難しかった。

あなたには、その価値がある。

なんて単純な言葉なのだろう。

それなのに――

心のどこかで、まだ信じきれない自分がいた。

◇ ◇ ◇

かつて、誕生日がそれほど楽しくなかった時期があった。

葵は、あの頃のことを思い出すのが好きではなかった。

以前付き合っていた男には、ごく普通の出来事を、彼女が謝らなければならない理由に変えてしまう才能があった。

待ち合わせに少し遅れたこと。

小さなことを忘れたこと。

彼の気に入らないレストランを選んだこと。

プレゼントが十分に高価ではなかったこと。

祝い方が彼の期待に合わなかったこと。

なぜか――

すべてが葵の責任になった。

自分自身の誕生日でさえ。

特に忘れられない年があった。

彼が喜んでくれるようにと、何日もかけて計画を立てた。

けれど彼は文句を言った。

場所が気に入らない。

料理が気に入らない。

友人たちと過ごした時間が長すぎる。

そして結局――

葵は謝っていた。

自分の誕生日に。

彼の夜を台無しにしてしまったことを。

その記憶を思い出すだけで、胃のあたりが締めつけられた。

今でも影響されている自分が嫌だった。

サプライズという、本来なら楽しいはずのものにさえ緊張してしまうことが嫌だった。

だって、春人は彼とは違う。

まったく違う。

春人は話を聞いてくれる。

春人は質問してくれる。

家具の配置をめぐる口論を、本棚の権利についての哲学的討論に変えてしまうことさえある。

そして春人は、優しくしてくれた見返りに愛情を要求するようなことを、一度だってしなかった。

それでも――

過去の恐怖は、現在が違うからという理由だけで、簡単に消えてくれるわけではなかった。

ときには、心の中に残り続ける。

何かが起こるのを待つように。

そして葵は、少しずつ理解し始めていた。

長い間、失望に備えて生きてきた人間にとって――

幸せになることさえ、怖く感じられるのだと。

◇ ◇ ◇

土曜日になった。

葵の誕生日の前日。

春人は午前中を使って、最終的な手配を確認していた。

運転は大地。

同行する介助スタッフの勤務も確認済み。

必要な機器や物品については、普段のケア計画に従って点検を済ませてある。

バリアフリーの移動経路も確認済み。

レストランの座席も確保されている。

そして、天気予報も良好だった。

春人は確認リストを見つめた。

「……全部準備できたみたいだ」

隣に立っていた由紀が尋ねた。

「緊張してる?」

彼は考えた。

「ものすごく」

由紀は笑った。

「どうして?」

「恋人の誕生日に、ロマンチックなお出かけを計画してるから」

「素敵じゃない」

「しかも、美香さんが関わってる」

由紀は同情するようにうなずいた。

「ああ……」

春人は見つめた。

「そういうこと」

彼女は笑った。

それから、机の上に置かれた小さなプレゼントの袋を見た。

「それ、葵ちゃんへのプレゼント?」

春人は微笑んだ。

「うん」

中には、写真立てが入っていた。

以前、由紀が彼に渡してくれたものとは別の写真だった。

二人がまだ付き合い始めて間もない頃、外出先で撮られた一枚。

葵は笑っていた。

春人は、そんな彼女を見つめながら微笑んでいた。

二人ともカメラの方を向いていない。

構図が完璧なわけでもない。

光の加減が特別に美しいわけでもない。

それでも――

春人の大好きな瞬間が写っていた。

葵が幸せそうだった。

社交辞令の笑顔ではない。

仕事中に見せる、相手を安心させるための笑顔でもない。

心から楽しそうな笑顔だった。

まるで、その一瞬だけは、自分を守るために身構える必要があることさえ忘れていたかのように。

春人は、飾り気のないシンプルな額を選んだ。

そして写真の下には、短い言葉を添えた。

明日を楽しみにしてもいいんだと、僕に教えてくれた君へ。

由紀はその言葉を読んだ。

そして口元を押さえた。

「ああ、春人……」

彼はすぐに警戒した。

「お願いだから泣かないで」

由紀は笑った。

「頑張ってるわ」

「だって、由紀叔母さんが泣いたら、プレゼントがひどい出来なんじゃないかって心配になるから」

彼女は首を振った。

「とても素敵よ」

春人は微笑んだ。

「……ありがとう」

由紀は、その隣に置かれた封筒を見た。

「手紙は?」

彼はうなずいた。

「完成した」

「読んでもいい?」

春人は考えた。

それから微笑んだ。

「まだ駄目」

由紀は眉を上げた。

「私でも?」

「由紀叔母さんだからこそ」

彼女は笑った。

「どうして?」

「葵が読む前に泣いちゃうでしょ」

由紀は微笑んだ。

「……たぶんね」

◇ ◇ ◇

日曜日の朝がやって来た。

淡い青空が広がっていた。

葵の誕生日。

春人は、いつもより早く目を覚ました。

これはなかなかの快挙だった。

なぜなら、前夜のほとんどを、まず起こらないであろう出来事について心配することに費やしていたからだ。

レストランが予約を忘れていたら?

渋滞がひどかったら?

美香がバイオリン奏者を連れて現れたら?

最後の可能性が、特に心配だった。

彼はスマートフォンを確認した。

葵からのメッセージが届いていた。

葵:おはよう。

春人は微笑んだ。

春人:誕生日おめでとう。

葵:ありがとう。

春人:また一つ賢くなった気分はどう?

葵:朝ごはんを食べてから聞いて。

春人:了解。

葵:どこに行くのか、教えてくれないの?

春人:教えない。

葵:ヒントだけでも?

春人:水。

葵:春人!!

彼は笑った。

春人:かなり親切なヒントだと思うけど。

葵:本当に意地悪。

春人:誕生日おめでとう、僕の可愛い葵。

少し間が空いた。

そして――

葵:……ありがとう、私の素敵な彼氏さん。

春人は画面を見つめた。

それから微笑んだ。

「……なるほど」

天井を見上げた。

「最高の一日の始まりだね」

◇ ◇ ◇

午前十時少し前、葵がやって来た。

淡い青色のブラウスに、着心地のよさそうなカーディガン。

濃い色のパンツと、歩きやすそうな靴。

髪は肩のあたりに綺麗に整えられていた。

特別に華やかな服装ではない。

かしこまった格好でもない。

いつもの葵だった。

それなのに――

春人は思わず見とれてしまった。

当然、彼女はすぐに気づいた。

「……何?」

彼は瞬きをした。

「何でもない」

葵は目を細めた。

「春人」

彼は微笑んだ。

「綺麗だね」

彼女は固まった。

そして頬が赤くなった。

「……えっ」

春人はにやりとした。

「興味深い」

葵は眉をひそめた。

「何が?」

「どうやら、直接褒めるのは効果的らしい」

「私を分析しないで!」

彼は笑った。

そのとき、由紀が彼の後ろから現れた。

「葵ちゃん、お誕生日おめでとう!」

葵は微笑んだ。

「ありがとうございます!」

由紀は、小さく包装された箱を持って近づいた。

「私たちからも、ほんの気持ちだけど」

葵は瞬きをした。

「私にですか?」

「もちろんよ」

葵は驚いた様子だった。

「そんな、わざわざ用意していただかなくても――」

由紀は優しく言葉を遮った。

「私たちが贈りたかったの」

葵は静かになった。

そして微笑んだ。

「……ありがとうございます」

大地が台所から顔を出した。

「誕生日おめでとう!」

葵は笑った。

「ありがとうございます、大地さん!」

彼はにやりとした。

「冒険の準備はできたか?」

葵は春人の方を見た。

「どうやら、そうみたいです」

春人は何も知らないような顔で微笑んだ。

「冒険?」

葵は見つめた。

「全然ごまかせてないからね」

「残念だ」

◇ ◇ ◇

車での移動には、一時間少々かかった。

葵は福祉車両の中で春人の隣に座り、ときどき疑わしそうな目を向けていた。

運転しているのは大地。

春人の介助スタッフも同行しており、必要な専門的支援を担当しながら、可能な範囲で二人の時間を尊重してくれていた。

由紀は家に残ることにした。

用事があると言っていたが――

春人は、二人に気を遣ってくれたのではないかと疑っていた。

ありがたいことだった。

もっとも、帰宅後には詳細な報告を求められるに違いない。

道路沿いの景色が、少しずつ変わっていった。

賑やかな街並みが遠ざかり、広い道路が続く。

建物の数が減っていく。

窓の外の光が、どこか明るく感じられた。

葵は窓の外を眺めていた。

そして――

あるものに気づいた。

道路標識。

出口の案内。

見覚えのある方向。

彼女は春人の方を向いた。

「……待って」

彼は彼女を見た。

「何かな?」

「もしかして、海に向かってる?」

春人は考えた。

「現在の進行方向については、そういう解釈も可能だね」

葵の目が大きくなった。

「春人!」

彼は微笑んだ。

「誕生日おめでとう」

しばらく――

葵はただ彼を見つめていた。

それから、もう一度窓の外を見た。

その表情が変わった。

嬉しそうな気持ちは、確かにそこにあった。

けれど、その奥に、もっと静かな何かが浮かんでいた。

壊れやすいものを、そっと手に取るような表情だった。

「……本当に覚えててくれたんだね」

春人は彼女を見た。

「もちろんだよ」

葵は微笑んだ。

そして、その後の道中――

ずっと水平線の方を見つめていた。

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