↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
50/124

第50話 明日と呼べる場所へ、僕たちが持っていく小さなもの

メールが届いたのは、火曜日の午前十時四十三分だった。

高橋春人は、自分の未来がメールサーバーに支配されているのではないかと疑い始めていた。

それは非常に心配なことだった。

なぜなら――彼は昔から、機械というものを完全には信用していなかったからだ。

別にパソコンが嫌いなわけではない。

むしろ、その逆だった。

パソコンは大好きだった。

毎日使っていた。

音声操作ソフトは、もはや彼の人格の一部と言っても過言ではなかった。

しかし、機械というものには、最悪のタイミングで故障するという困った習性がある。

そして今日ばかりは、故障などしてもらっては困る。

パソコンから通知音が鳴った。

春人は画面を見た。

メールだった。

中村さんから。

またしても。

彼はじっと見つめた。

「……あ」

メールを開いた。

件名を読んだ。

そして――動きを止めた。

最終調査結果および物件設備変更の承認について

春人は瞬きをした。

一度。

二度。

そして――

「……マジかよ」

廊下から由紀の声が聞こえた。

「春人?」

返事はしなかった。

なぜなら、読んでいたからだ。

何度も読み返していたからだ。

そして、内容を正確に理解する前に喜び始めないよう、必死に自分を抑えていたからだ。

業者による調査が完了した。

浴室の壁の構造が確認された。

指定された身体支持装置について、取り付け予定箇所の安全性が認められた。

ただし、設置工事は認定された業者が行うことが条件だった。

管理会社は、その設置について書面による許可を発行した。

そして、申請していた電気設備の変更についても、最終承認が下りた。

春人は画面を見つめた。

そして、ささやいた。

「……許可が下りた」

もう一度メールを読んだ。

「本当に……許可が下りたんだ」

しばらく、彼は動かなかった。

何も言わなかった。

笑顔すら浮かべなかった。

なぜなら、信じられるようになるまで、少し時間が必要なこともあるからだ。

やがて、ゆっくりと顔に笑みが広がった。

「……うそだろ」

◇ ◇ ◇

約十二秒後、由紀が部屋の入口に現れた。

実に見事な速さだった。

春人は彼女を呼んでいない。

どうやら由紀には、甥の人生に重要な出来事が起きたことを察知する、ほとんど超自然的な能力があるらしい。

「春人?」

彼は叔母を見た。

そして微笑んだ。

「由紀叔母さん」

彼女は足を止めた。

「何かあったの?」

春人はパソコンをちらりと見た。

「浴室のこと、覚えてる?」

由紀の目が大きくなった。

「調査のこと?」

彼はうなずいた。

「許可が下りたんだ」

沈黙。

そして――

「ええっ!?」

春人は笑った。

「設備の設置も、取り付け箇所も、電気工事も」

由紀が急いで近づいた。

「全部?」

「必要な変更は全部」

彼女は見つめた。

それから口元を押さえた。

「ああ、春人……」

彼は微笑んだ。

「うん」

由紀は画面を見た。

それから春人を見た。

そして突然、目に涙が浮かんだ。

春人は瞬きをした。

「……由紀叔母さん?」

彼女は涙を浮かべながら笑った。

「ごめんなさい」

春人はかすかに微笑んだ。

「どうして謝るの?」

「だって、泣いちゃってるから!」

「確かに、そういう現象が発生してるね」

「春人!」

彼は笑った。

由紀は涙を拭った。

そして微笑んだ。

「本当によかったわね」

春人は画面を見た。

「……うん」

少し間を置く。

「まあ、正確にはまだ契約してないけど」

由紀は急いでうなずいた。

「もちろんよ」

「介助の体制も確定してないし」

「分かってるわ」

「費用の最終確認も必要だし」

「そうね」

春人は叔母を見た。

「……もうカーテンのこと考えてるでしょ?」

由紀は固まった。

そして目をそらした。

「……少しだけ」

春人は目を閉じた。

「信じられない」

◇ ◇ ◇

大地が知らせを聞いたのは、コーヒーを淹れているときだった。

幸いなことだった。

もしカップを持っていたら、おそらく落としていただろう。

「全部承認されたのか?」

春人はうなずいた。

「必要なものは全部」

大地は見つめた。

それから微笑んだ。

「いやあ、驚いたな」

春人は眉を上げた。

「それだけ?」

大地は瞬きをした。

「何が?」

「甥が初めてのアパートに引っ越すかもしれないっていうのに、『驚いたな』だけ?」

大地は少し考えた。

それから両腕を上げた。

「ハレルヤー!」

春人は見つめた。

由紀が吹き出した。

大地はにやりとした。

「これでどうだ?」

春人は厳かにうなずいた。

「ずっといい」

そして微笑んだ。

大地が近づいた。

「冗談はさておき、春人」

彼は車椅子の背もたれに手を置いた。

「おめでとう」

春人は見上げた。

「ありがとう」

大地はパソコンの方を見た。

「次は何だ?」

春人は考え込んだ。

「介助の確保」

「そうだな」

「費用の最終確認」

「うん」

「それから……」

彼はメールを見た。

「そうしたら、契約できるかもしれない」

大地は微笑んだ。

「いい計画じゃないか」

春人はうなずいた。

「うん」

それからため息をついた。

「残念ながら、宇宙は大人になるために七千枚くらいの書類を要求するらしい」

大地は笑った。

「たった七千枚か?」

春人は見つめた。

「増やさないでよ」

◇ ◇ ◇

昼食までに、春人は三通のメールを送っていた。

一通は中村さんへ。

一通は介助事業所へ。

そしてもう一通は、支援の給付承認を担当する窓口へ。

未確定の条件について、書面での確認を依頼した。

さらに中村さんには、賃貸契約書の最新版と、承認された設備変更に関する書類の写しを送ってもらうよう頼んだ。

なぜなら、アパート探しを通じて、春人は一つのことを学んだからだ。

口頭での約束はありがたい。

だが、書面での約束はもっとありがたい。

特に、高価な機器と長期的な住居契約が関わる場合は。

彼はもう一度、予算表を確認した。

家賃。

光熱費。

食費。

交通費。

個人的な支出。

現在の支援制度では賄われない機器関連の費用。

緊急時のための貯蓄。

数字は相変わらず恐ろしかった。

しかし、もはや完全な仮定の話ではなかった。

春人は表計算ソフトを見つめた。

「……興味深い」

大地が顔を上げた。

「何が?」

「本当に払えるかもしれない」

大地は微笑んだ。

「それはよかった」

春人はうなずいた。

「介助の給付がうまくいけば、だけど」

「もちろん」

「それと、大家さんが突然、本を禁止する秘密条項を発見しなければ」

大地は笑った。

「どうして本を禁止するんだ?」

春人は彼を見た。

「僕の蔵書を見てないからだよ」

◇ ◇ ◇

その日の午後、葵がやって来た。

小さな袋に焼き菓子を入れていた。

それを見た春人は、即座に疑い始めた。

「……何かのお祝い?」

葵は微笑んだ。

「たまには差し入れしたっていいでしょ?」

春人は考えた。

「過去の事例から判断すれば、もちろん」

彼女は眉を上げた。

「過去の事例?」

「しかし、買収の疑いがある」

葵は笑った。

「何のための買収よ?」

春人は目を細めた。

「僕の本棚への立ち入り権」

彼女は見つめた。

そして、にやりとした。

「実はね……」

春人は固まった。

「……嫌だ」

葵は笑った。

「春人」

「嫌だ」

「まだ何も言ってないでしょ!」

「展開が読めるんだよ」

彼女は焼き菓子をテーブルに置いた。

「アパートの間取りを一緒に考えようと思って」

春人はため息をついた。

「始まった」

葵は可愛らしく微笑んだ。

「家具をどこに置くか、決めたりして」

彼は見つめた。

「家具全部?」

「全部」

春人は天井を見た。

「……母さん、聞こえてたら援軍を送ってください」

◇ ◇ ◇

問題は本棚から始まった。

当然だった。

葵は間取り図を見つめた。

それから春人を見た。

「五つ?」

彼はうなずいた。

「五つ」

葵は瞬きをした。

「本棚が五つ?」

「正解」

「大きいやつ?」

「当然」

葵は見つめた。

「春人」

彼は微笑んだ。

「葵」

「どこに置くつもり?」

春人は壁を指した。

「ここ」

葵は見た。

そして別の場所を指した。

「ここは?」

「もう一つ」

彼女は眉をひそめた。

「じゃあ、そこは?」

「二つ置けるかもしれない」

葵はゆっくりと間取り図を下ろした。

「……図書館でも開くつもり?」

春人は考えた。

「公式にはね」

葵は吹き出した。

彼は微笑んだ。

「でも、会員証なら発行できるよ」

葵は首を振った。

「車椅子で動くためのスペースが必要でしょ」

春人はうなずいた。

「当然」

「介助する人が動ける場所も必要」

「当然」

「浴室や寝室にも、問題なく行けないと」

「当然」

彼女は見つめた。

「じゃあ、どうして本棚だらけなの?」

春人はため息をついた。

「本は大切だから」

葵は笑った。

「春人!」

彼はにやりとした。

「靴を集める人もいる」

葵はうなずいた。

「いるね」

「バッグを集める人もいる」

「いるね」

「僕は紙に印刷された文明そのものを集めているんだ」

葵は口元を押さえた。

「本当にどうしようもない人」

彼は微笑んだ。

「ありがとう」

◇ ◇ ◇

由紀がお茶を持って部屋に入ってきた。

間取り図をちらりと見た。

そして微笑んだ。

「あら、模様替えの相談?」

春人は即座に警戒した。

「……違う」

葵はうなずいた。

「そうです」

二人は顔を見合わせた。

由紀は笑った。

「楽しそうね!」

春人はため息をついた。

「裏切り者」

葵はリビングを指した。

「ソファはここがいいと思うんです」

由紀は考えた。

「素敵ね」

春人は眉をひそめた。

「そこだと、僕がよく通る場所を塞ぐんだ」

葵は止まった。

「あっ」

彼は別の場所を指した。

「こっちなら、車椅子で方向転換しやすい」

彼女はうなずいた。

「確かに、そうだね」

由紀は微笑んだ。

「じゃあ、そこにしましょう」

春人は瞬きをした。

「……妙にあっさり決まったね」

葵は笑った。

「反論されると思った?」

「本棚の件を考えれば、当然」

彼女はにやりとした。

「安心して。あの話はまだ終わってないから」

春人は目を閉じた。

「だろうね」

そこへ大地が現れた。

間取り図を眺めた。

「テレビはどこだ?」

春人は指さした。

「ここ」

大地はうなずいた。

「本棚は?」

葵はため息をついた。

「至るところです」

大地は考えた。

それから春人を見た。

「五つ?」

春人はうなずいた。

「五つ」

大地は微笑んだ。

「六つはいけそうだな」

沈黙。

葵がゆっくりと大地の方を向いた。

由紀も見つめた。

春人の顔が輝いた。

「大地叔父さん!」

大地はにやりとした。

「何だ?」

春人は笑った。

「ようやく理解者が現れた!」

葵は大地を指さした。

「話をややこしくしないでください!」

大地は肩をすくめた。

「可能性を言っただけだ」

由紀は首を振った。

「絶対に駄目よ」

春人は見つめた。

「どうして?」

「住む場所がなくなるでしょう!」

彼はにやりとした。

「本に囲まれて暮らすんだよ」

◇ ◇ ◇

やがて議論は、まだ存在しないサボテンにまで及んだ。

実に不幸なことだった。

なぜなら、そのサボテンは、二人の架空の家庭において驚くほど物議を醸す存在になっていたからだ。

葵は窓際を指した。

「ここに植物を置いたら素敵だと思う」

春人はうなずいた。

「トゲトゲ卿」

彼女は目を閉じた。

「その名前にはしないから」

「トゲトゲ卿三世?」

「嫌」

「四世?」

「嫌!」

大地が困惑した顔をした。

「トゲトゲ卿って誰だ?」

春人は微笑んだ。

「未来のサボテン」

大地は真剣にうなずいた。

「いい名前だな」

葵は見つめた。

「大地さんまで!」

由紀は笑った。

春人はにやりとした。

「家族会議の結果が出たね」

葵は彼を指さした。

「これは多数決じゃないから!」

春人は眉を上げた。

「おや。二人で未来を築くんじゃなかったの?」

彼女は固まった。

それから吹き出した。

「恋愛を交渉材料に使ってる!」

彼は微笑んだ。

「戦略的感情交渉術」

大地は厳かにうなずいた。

「人生に必要な技術だ」

由紀はため息をついた。

「子どもばっかりね」

春人は心外そうな顔をした。

「失礼な。僕は賃貸契約を結ぼうとしている責任ある大人だよ」

葵はにやりとした。

「架空のサボテンに名前をつけてる大人ね」

「複数の仕事を同時にこなしてるんだ」

◇ ◇ ◇

夕方までには、実際にいくつかのことが決まった。

ソファの位置は合理的な場所に落ち着いた。

ダイニングテーブルは車椅子で使いやすいように配置する。

テレビは移動の邪魔にならない場所へ。

医療機器の保管場所も確保する。

そして、長い交渉の末、春人は、必要な通路幅や作業スペースを確保したうえで本棚の配置を決めることに同意した。

葵は微笑んだ。

「ほら、そんなに難しくなかったでしょ?」

春人は見つめた。

「本棚の幅について四十分も議論したんだけど」

彼女はうなずいた。

「有意義な四十分だったね」

春人はため息をついた。

「異議あり」

葵が顔を近づけた。

「楽しみなんでしょ?」

春人は間取り図を見た。

そして微笑んだ。

「……うん」

彼女は彼を見つめた。

「すごく楽しみなんだね」

彼はうなずいた。

「うん」

葵の表情が柔らかくなった。

「私も嬉しいよ」

春人は彼女を見た。

「ありがとう」

葵は微笑んだ。

「どんな部屋になるのか、早く見てみたいな」

彼はくすっと笑った。

「うっかり本屋にしなければね」

葵は笑った。

「いかにも春人らしいけど」

◇ ◇ ◇

翌朝、春人には別の面談が予定されていた。

今度は介助スタッフの候補者との面談だった。

彼女の名前は佐藤恵美。

三十代前半。

落ち着いていて、仕事に対する姿勢も真面目そうだった。

そして、春人にとって意外だったのは、彼女が最初から由紀に質問を始めなかったことだった。

まっすぐ春人を見た。

「おはようございます、高橋さん」

彼は微笑んだ。

「おはようございます」

「佐藤恵美と申します」

「よろしくお願いします」

彼女はうなずいた。

「事業所から基本的な情報は伺っていますが、実際にどのような介助を希望されているのか、ご本人からお聞きしたいと思っています」

春人は瞬きをした。

そして微笑んだ。

「……それはありがたいです」

恵美も微笑み返した。

「当然のことですから」

二人は日常の介助について話し始めた。

使用している機器。

本人の好み。

コミュニケーションの方法。

専門職として守ってほしい距離感。

そして、確立されたケア計画に従うことの重要性。

恵美は注意深く聞いていた。

質問もした。

けれど、答えを待ってくれた。

春人には、それが嬉しかった。

やがて彼女は、思いがけない質問をした。

「普段はどんなことをして過ごすのがお好きですか?」

春人は瞬きをした。

「……え?」

恵美は微笑んだ。

「介助に関係のない時間のことです」

彼は見つめた。

それから小さく笑った。

「へえ」

彼女は少し面白そうな顔をした。

「どうされました?」

「なんだか新鮮な質問だなと思って」

恵美は微笑んだ。

「一緒にお仕事をするかもしれない方のことを、ちゃんと知りたいので」

春人は考えた。

「そうですね……」

彼は微笑んだ。

「小説を書いてます」

恵美の目が輝いた。

「そうなんですか?」

「はい」

「どんな小説を?」

「いろいろです」

「素敵ですね」

彼はくすっと笑った。

「ほとんどフィクションですけど」

恵美はうなずいた。

「パソコンで書かれるんですか?」

「音声操作ソフトを使ってます」

「なるほど」

春人は微笑んだ。

「あと、本を読むのも好きです」

「好きなジャンルは?」

春人は考えた。

「その日によりますね」

恵美は小さく笑った。

「確かに、そうですよね」

彼は続けた。

「ミステリーとか」

彼女はうなずいた。

「SFとか」

「いいですね」

「たまに恋愛ものも」

恵美は微笑んだ。

「あら?」

春人は即座に警戒した。

「……何ですか?」

彼女は笑った。

「何も言ってませんよ」

「今、何か言おうとしましたよね」

恵美はにやりとした。

「かもしれません」

近くに座っていた由紀が口元を押さえた。

春人はため息をついた。

「また一人増えた……」

◇ ◇ ◇

面談は続いた。

恵美は、春人が介助の各場面でどのような方法を望んでいるかを尋ねた。

不快なことがあった場合、どのように伝えるのがよいかも聞いた。

趣味を楽しんでいるとき、そばで待機していてほしいのか。

それとも、安全性や必要な対応を確保できる範囲で、プライバシーを尊重して距離を取ってほしいのか。

春人は、その区別を大切にしてくれることが嬉しかった。

なぜなら、四六時中、誰かに見張られているような生活は望んでいなかったからだ。

けれど同時に、介助が必要になるタイミングを勝手に判断されるのも困る。

二人は、明確な意思疎通について話した。

尊重すること。

信頼できること。

そして、機器の扱いについて独断で対応せず、専門的な手順に従うことの大切さ。

あるとき、恵美が尋ねた。

「ご自宅で暮らすうえで、何が一番大切だと思われますか?」

春人は考えた。

それから慎重に答えた。

「自分の家として扱ってもらうことです」

恵美はうなずいた。

彼は続けた。

「もちろん、いろいろ手伝ってもらう必要はあります」

「はい」

「守らなければならない手順があることも分かっています」

「もちろんです」

「でも、施設で暮らしているような気持ちにはなりたくないんです」

恵美は耳を傾けた。

「どんな音楽を流すか、自分で決めたい」

彼女は微笑んだ。

「いつ小説を書くかも」

少し間を置く。

「誰を家に招くかも」

恵美はうなずいた。

「できる限り、一日の過ごし方を自分で決めたいんです」

彼女は微笑んだ。

「とても大切なことだと思います」

春人は彼女を見た。

そして微笑んだ。

「よかった」

◇ ◇ ◇

面談が終わると、由紀が恵美を玄関まで見送った。

春人は大地とテーブルに残った。

しばらく、二人とも何も言わなかった。

やがて大地が尋ねた。

「どうだった?」

春人は考えた。

「……いい人だと思う」

大地は微笑んだ。

「よかったな」

「ちゃんと僕に話してくれた」

少し間を置く。

「僕を通り越してじゃなくて」

大地はうなずいた。

「それは大事だな」

春人は廊下の方を見た。

「うん」

彼はかすかに微笑んだ。

「本当にね」

大地はメモをちらりと見た。

「定期的に担当してもらえるかは、まだ確認が必要だな」

春人はうなずいた。

「ほかの時間帯も事業所が対応できるか確認しないと」

「そうだな」

「それに、急な欠員が出たときの対応も」

「そのとおり」

春人はため息をついた。

「いつも次の段階があるね」

大地は微笑んだ。

「たいていはな」

春人は彼を見た。

そして微笑んだ。

「でも、今回はいい感じだった」

◇ ◇ ◇

その日の午後、由紀は春人の部屋の戸棚を整理し始めた。

少なくとも、最初はそのつもりだった。

単純な片づけ。

いつか荷造りすることになったとき、何を持っていく必要があるのか確認する。

実に合理的な作業だった。

残念ながら、その戸棚には思い出が詰まっていた。

そして思い出というものは、なかなか整理させてくれない。

由紀は古いノートを見つけた。

それから学校の写真。

そして小さな段ボール箱。

箱を開けた。

中には、春人が子どもの頃の思い出の品が入っていた。

絵。

手書きの誕生日カード。

紙で作ったメダル。

そして、折りたたまれた手紙。

由紀には、その筆跡がすぐに分かった。

美咲の字だった。

息が詰まった。

彼女は慎重に手紙を開いた。

以前見つけた手紙とは違う。

もっと古いものだった。

春人がまだ幼かった頃に書かれたもの。

短い手紙。

どうやら誕生日プレゼントに添えられていたらしい。

私の小さな船長さんへ。

あなたの想像力は本当に素敵ね。

今日、あなたは自分の車椅子を宇宙船にして、月の向こうまで旅に出るんだって教えてくれたね。

お母さんも一緒に行っていい? って聞いたら、乗る場所がないって言われちゃった。

でもそのあと、お母さんのためにもう一隻、宇宙船を作ってくれるって言ってくれたね。

その素敵な世界の見方を、いつまでも忘れないでね。

大好きよ。母さんより。

由紀は口元を押さえた。

しばらく、動けなかった。

あの日を覚えていたからだ。

美咲が笑っていたこと。

春人が、自分は銀河艦隊の司令官になるのだと誇らしげに宣言していたこと。

車椅子に取りつけられた段ボール製の飾り。

そして、美咲がどれほど幸せそうだったか。

由紀はベッドの端に腰を下ろした。

手の中で、手紙がわずかに震えた。

「……美咲……」

◇ ◇ ◇

数分後、春人が彼女を見つけた。

本を探しに来たのだった。

皮肉なことに、その本は、どうやら何十年分もの思い出の下に埋もれていたらしい。

「由紀叔母さん?」

彼女は顔を上げた。

「あ……」

春人は止まった。

由紀の目が赤かった。

彼の表情が変わった。

「……どうしたの?」

由紀は急いで首を振った。

「何でもないのよ」

春人は見つめた。

「客観的に見て、ものすごく下手な嘘だね」

彼女は小さく笑った。

春人は近づいた。

「何があったの?」

由紀は手紙を持ち上げた。

「これを見つけたの」

春人はそれを見た。

「……母さん?」

彼女はうなずいた。

春人は静かになった。

由紀は手紙を声に出して読んだ。

ゆっくりと。

丁寧に。

読み終える頃には、春人は微笑んでいた。

「……覚えてるよ」

由紀は瞬きをした。

「本当に?」

彼はうなずいた。

「その日そのものは、はっきり覚えてないけど」

くすっと笑った。

「宇宙船は覚えてる」

由紀は笑った。

「とても自慢してたわ」

「当然だよ」

彼は微笑んだ。

「工学技術の最高傑作だったからね」

由紀は涙を拭った。

「操縦装置は段ボールだったでしょう」

春人はにやりとした。

「最先端技術だよ」

彼女は笑った。

それから春人を見た。

しばらく、その表情には複雑なものが浮かんでいた。

嬉しさ。

悲しさ。

誇らしさ。

そして不安。

すべてが同時に。

「本当に、いつかこの家を出るのね」

春人の笑顔が柔らかくなった。

「……うん」

由紀は部屋を見回した。

「ここにあるもの、全部……」

思い出の品に目を向けた。

「新しかった頃を覚えてるのよ」

春人は彼女を見ていた。

由紀は続けた。

「お母さんは、何でも取っておく人だったわ」

かすかに微笑んだ。

「絵も、小さなメモも、全部」

春人はくすっと笑った。

「ひどい出来の絵も?」

「特にひどい出来の絵ね」

彼は笑った。

由紀は手紙を見た。

そしてささやいた。

「今のあなたを、美咲にも見せてあげたかった」

春人は静かになった。

しばらく、何と言えばいいのか分からなかった。

それから優しく微笑んだ。

「……きっと喜んでくれると思う」

由紀はうなずいた。

「そうね」

彼は部屋を見た。

それから箱を見た。

「由紀叔母さん?」

「何?」

「僕は、これを全部置いていくわけじゃないよ」

彼女は春人を見た。

彼は続けた。

「思い出も一緒に持っていくんだ」

由紀の目が柔らかくなった。

「それに、由紀叔母さんを置いていくわけでもないから」

彼女の唇が震えた。

春人は微笑んだ。

「まあ、大地叔父さんのひどい冗談は置いていくかもしれないけど」

廊下から――

「おい!」

春人は吹き出した。

由紀も涙を浮かべながら笑った。

大地が入口に現れた。

「俺の冗談は最高だぞ」

春人は見つめた。

「誰の評価?」

「俺の」

「信頼性の低い情報源だね」

◇ ◇ ◇

その日の夕方、由紀は春人と一緒に、新しいアパートに飾りたい思い出の品をいくつか選んだ。

美咲の写真。

子どもの頃の宇宙船の手紙。

母が読み聞かせてくれたお気に入りの本。

そして、春人と葵の写真。

春人は小さな品々を見つめた。

「……ねえ」

由紀は彼を見た。

「何?」

「これを最初に本棚に置こうかな」

彼女は微笑んだ。

「本当に?」

春人はうなずいた。

「うん」

少し間を置く。

「葵が本棚を許可してくれれば、だけど」

由紀は笑った。

「あらあら」

春人はため息をついた。

「容赦ないんだよ」

由紀は微笑んだ。

「現実的なのよ」

「容赦ない人は、みんなそう言うんだ」

由紀はさらに笑った。

◇ ◇ ◇

一方、街の反対側では、藤本美香が何かを企んでいた。

これは決していい兆候ではなかった。

なぜなら、美香の計画は大抵、三つの分類のどれかに当てはまるからだ。

恥ずかしい。

高額。

あるいは、法律的に危うい。

ときには三つすべて。

幸いなことに、今回の計画は、単に恥ずかしくて高額なだけだった。

おそらく。

美香は自宅のテーブルに座っていた。

手にはスマートフォン。

目の前にはカレンダー。

葵の誕生日が近づいていた。

そして美香は決意していた。

今年こそ、特別なことが必要だ。

ロマンチックなこと。

忘れられないこと。

そして、とんでもなく大げさなこと。

彼女はメッセージアプリを開いた。

美香:春人!

数秒が過ぎた。

そして――

春人:その勢いが非常に心配なんだけど。

美香はにやりとした。

美香:話がある!

春人:僕は取り調べを受けるの?

美香:もっと大変なこと!

春人:税務調査?

美香:葵の誕生日!

春人はメッセージを見つめた。

そして瞬きをした。

春人:ああ。

美香:ああ!?

春人:いや、うん。誕生日ね。

美香:もちろん知ってたよね!?

春人:当然。

少し間が空いた。

春人:大体は。

美香は見つめた。

美香:春人!

彼はため息をついた。

春人:文字で叫ぶのをやめてもらえますか。

美香:計画が必要なの!

春人:合理的な計画?

美香:壮大な計画!

春人は目を閉じた。

「……嫌な予感しかしない」

◇ ◇ ◇

美香はすぐに電話をかけてきた。

春人はかなりためらいながら応答した。

「もしもし?」

「春人!」

彼はため息をついた。

「こんにちは、美香さん」

「やることがあるわよ!」

「脅迫に聞こえるんだけど」

「そのつもりよ!」

春人は天井を見つめた。

「何を企んでるの?」

美香は大げさに息をのんだ。

「人類史上最高にロマンチックな誕生日パーティーよ!」

春人は目を閉じた。

「……ロマンチックの定義を教えてください」

「貸し切りレストラン!」

「まあ、いいね」

「花束!」

「妥当だね」

「生演奏!」

「少々やりすぎかな」

「病院のみんながサプライズで登場!」

春人は固まった。

「……絶対に駄目」

美香は瞬きをした。

「え?」

「駄目」

「でも――」

「駄目」

「絶対盛り上がるって!」

「段取りが悪夢になるよ」

美香は笑った。

「つまんない人!」

春人はため息をついた。

「美香さん」

「何?」

「葵の誕生日なんだよ」

「そうよ!」

彼は続けた。

「国際首脳会議じゃないんだから」

美香は吹き出した。

「ひどい!」

春人は微笑んだ。

「ありがとう」

美香は考えた。

「分かったわよ」

少し間を置く。

「じゃあ、何がいいと思う?」

春人は考え込んだ。

「葵が本当に楽しめること」

美香は瞬きをした。

「例えば?」

彼は机の上のノートを見た。

葵がくれたノート。

『二人で築いていくもの』

春人は微笑んだ。

「……一つ考えがある」

美香は即座にスマートフォンへ顔を近づけた。

「教えて!」

春人はにやりとした。

「まだ駄目」

美香は息をのんだ。

「何で!?」

「もう少し考えたいから」

「春人!」

「それに、バリアフリーの確認も必要だし」

「もちろん!」

「予算に収まるかも確認しないと」

「分かった!」

「それから、せっかくの休日なのに五十人の相手をしなきゃいけないような誕生日にはしたくないんだ」

美香は静かになった。

そして微笑んだ。

「……本当に葵のこと、よく分かってるのね」

春人は瞬きをした。

「……え?」

美香は小さく笑った。

「何でもない」

彼は目を細めた。

「今の、何か含みがあったよね」

彼女はにやりとした。

「いい彼氏してるじゃない」

春人はため息をついた。

「その呼び方は二度としないでください」

「彼氏くーん!」

「さようなら、美香さん」

「ちょっと待って!」

彼は通話を終了した。

そして笑った。

◇ ◇ ◇

その夜、春人はノートを開いた。

白紙のページをめくった。

それから、パソコンに向かってアイデアを音声入力し始めた。

葵は静かな場所が好きだった。

美味しいものが好きだった。

時間を気にせず、一緒に過ごすことが好きだった。

彼をからかうのも好きだった。

あまりにも好きすぎた。

そして、海が好きだった。

以前の会話を思い出した。

二人のやりたいことリスト。

いつか海辺へ行こうという約束。

春人は微笑んだ。

本格的な旅行ではないかもしれない。

まだ早い。

確認しなければならない手配が多すぎる。

けれど、その夢につながる何かなら。

個人的で。

特別で。

葵自身の幸せも大切なのだと、思い出してもらえるような何かなら。

彼はメモを作り始めた。

小さなプレゼント。

静かなお祝い。

意味のある場所。

マーチングバンドを必要としないサプライズ。

病院の職員五十人も必要ない。

美香さんがマイクに近づく必要もない。

特に最後の条件は重要だった。

春人はくすっと笑った。

そして文書を保存した。

作戦名:葵の誕生日

彼はタイトルを見つめた。

そして微笑んだ。

「……面白くなりそうだ」

◇ ◇ ◇

翌朝、葵から電話がかかってきた。

春人は応答した。

「おはよう」

「おはよう!」

声が明るかった。

不自然なほど明るかった。

春人は目を細めた。

「……どうしてそんなに嬉しそうなの?」

葵は笑った。

「嬉しそうにしちゃ駄目?」

「もちろん、いいよ」

少し間を置く。

「でも、怪しい」

彼女は微笑んだ。

「実は、いい知らせがあるの」

春人は瞬きをした。

「本当に?」

「勤務表を調整してもらえたんだ」

彼の表情が柔らかくなった。

「……そうなの?」

葵はうなずいた。

「師長に相談したの」

春人は微笑んだ。

「それで?」

「しばらくは、追加勤務を減らせることになった」

彼はにやりとした。

「それはよかった!」

葵は笑った。

「うん」

少し間を置く。

「相談するの、ちょっと緊張したんだけどね」

春人は聞いていた。

「思ってたより、ちゃんと話を聞いてもらえた」

彼は微笑んだ。

「よかったね」

葵は続けた。

「それに、来月は土日が丸ごと休みの日もあるんだ」

春人は固まった。

「……土日が丸ごと?」

「うん!」

彼はパソコンをちらりと見た。

秘密の誕生日計画の文書を。

そして微笑んだ。

「……興味深い」

葵は目を細めた。

「何?」

「何でもない」

「春人」

「本当に何でもない」

彼女は笑った。

「なんか変だよ」

春人は微笑んだ。

「それが僕の通常運転だから」

葵はため息をついた。

「困ったことにね」

それから尋ねた。

「アパートの方はどう?」

春人は承認メールを見た。

「順調だよ」

「本当に?」

「本当に」

彼は微笑んだ。

「設備変更の許可が下りたんだ」

葵は息をのんだ。

「春人!」

彼は笑った。

「うん」

「すごいじゃない!」

「介助の確保と費用の最終確認はまだだけどね」

「もちろん」

「でも……」

春人は間取り図を見た。

「かなり近づいてきた」

葵の声が柔らかくなった。

「……本当に嬉しい」

春人は微笑んだ。

「ありがとう」

すると彼女が付け加えた。

「六つの本棚を見るのが楽しみだな」

春人は固まった。

「……六つ?」

葵は笑った。

「大地さんが言ってたよ」

春人はにやりとした。

「大地叔父さんは先見の明がある!」

葵は吹き出した。

「調子に乗らせないで!」

◇ ◇ ◇

その日の午後、春人は窓際にいた。

机の上にはアパートの間取り図。

その隣には写真。

母からの手紙。

ノート。

そして、これから何をするべきかを書き留めたメモの数々。

アパートは、まだ彼のものではなかった。

契約書にはまだ署名していない。

介助事業所は、安定した支援体制を確保できるか確認する必要があった。

費用についても、最終的な確認が残っていた。

そして葵への誕生日サプライズは、現時点では、いかにもロマンチックな怪しいアイデアの寄せ集めにすぎなかった。

けれど、何かが変わった。

そう感じた。

障害が消えたからではない。

消えてはいなかった。

未来が突然、簡単になったからでもない。

そんなことはなかった。

ただ、未来が、想像することしか許されない遠い国のようには感じられなくなったからだ。

本当に行けるかもしれない場所。

自分で選べる場所。

自分の生活のリズムを築ける場所。

人を招ける場所。

失敗できる場所。

学べる場所。

笑える場所。

そして、生きていける場所。

春人は母の写真を見た。

それから微笑んだ。

「……ねえ、母さん」

少し間を置く。

「最近、少し分かってきたことがあるんだ」

彼はアパートの間取り図を見た。

「前に進むって、全部を置いていくことじゃないんだね」

子どもの頃の手紙をちらりと見た。

「僕を僕にしてくれたものも……」

そして葵の写真を見た。

「今の僕になるまで、支えてくれた人たちも……」

彼は微笑んだ。

「一緒に連れていけるんだ」

しばらく、部屋は静かだった。

そのとき、スマートフォンが震えた。

美香からのメッセージだった。

美香:バイオリン奏者がいるレストラン見つけた!

春人は見つめた。

目を閉じた。

そしてため息をついた。

「……やっぱりね」

彼は入力した。

春人:バイオリン奏者は不要です。

美香:でもロマンスよ!

春人:ロマンスにバイオリンは必須じゃない。

美香:あなたには魂がないの!?

春人:僕の魂には予算がある。

少し間が空いた。

そして――

美香:じゃあピアニストは?

春人は見つめた。

「……この人、止まらないな」

彼は笑った。

そして、アパートの計画と、母の思い出と、家族の愛情と、葵の笑顔と、美香のますます危険になっていく誕生日の提案に囲まれながら、春人は一つのことに気づいた。

自分は単に、新しいアパートへ引っ越す準備をしているのではなかった。

人生の新しい章を始める準備をしていたのだ。

自立が孤独を意味しない人生。

愛することが、自分の意思を手放すことを意味しない人生。

思い出を過去に閉じ込めておく必要のない人生。

そして、ほんの小さなものが、一枚の写真、一通の手紙、一つの本棚、まだ存在しない馬鹿げた名前のサボテン、そうしたものが、楽しみに待つ価値のある未来の一部になる人生。

春人は窓の方を見た。

そしてささやいた。

「……もう少しだよ、母さん」

少し間を置く。

彼は微笑んだ。

「あと少し」

そして、今回ばかりは、その言葉が怖くなかった。

なぜなら、もう「あと少し」は「きっと永遠に無理」という意味ではなかったからだ。

それは――

このまま進もう。

そういう意味だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。