第49話 同じ屋根の下に描いた、まだ見ぬ明日
メールが届いたのは、木曜日の朝だった。
それは少々厄介なことだった。
なぜなら最近、木曜日の朝というものは、高橋春人の人生を変えるという、実に困った習慣を身につけていたからだ。
最初は、アパートの物件情報。
次は、条件付きの承認。
そして今度は――
また一通のメール。
差出人は中村さん。
不動産会社の担当者だった。
春人はパソコンの画面を見つめた。
「……おっと」
メールを開いた。
最初の段落を読む。
次の段落を読む。
そして――
止まった。
瞬きをする。
「……ん?」
もう一度読んだ。
さらにもう一度。
それから車椅子の背もたれに頭を預けた。
「なるほど」
少し間を置く。
「これは興味深い」
廊下から由紀の声が聞こえた。
「春人?」
返事をしなかった。
宇宙がようやく自分に協力し始めたのか、それとも、もっと手の込んだ失望を用意しているだけなのか。
その判断に忙しかったからだ。
「春人?」
「はーい?」
「大丈夫?」
春人は入口を見た。
「場合によるかな」
由紀が顔を出した。
「何によるの?」
「『条件付き承認』という言葉が、法律上どこまで人間に精神的苦痛を与えていいのかによる」
由紀は瞬きをした。
それからパソコンを見た。
「不動産会社から?」
春人はうなずいた。
「うん」
由紀の目が大きくなった。
「それで?」
春人はかすかに微笑んだ。
「どうやら、アパートの準備がほとんど整ったらしい」
由紀は息をのんだ。
「春人!」
「ほとんど、ね」
彼女が近づいた。
「見せて!」
春人はため息をついた。
「どうしてこの家の人たちは、僕のメールボックスを公共の新聞みたいに扱うんだろう」
「だって、今のあなたのメールはテレビより面白いんだもの」
「ずいぶん低い基準だね」
「春人!」
彼は笑った。
「分かった、分かった」
◇ ◇ ◇
管理会社による審査が完了していた。
電気設備の調査は良好な結果だった。
申請していた設備変更のうち、いくつかは承認された。
資格を持つ業者による追加コンセントの設置も認められた。
二つ目の寝室を医療機器の保管や介助に関わる用途で使用することも許可された。
そして、アパートに備わっているバリアフリー設備は、春人が提示した要件の大部分に適合していると判断された。
大部分。
その言葉が気になった。
なぜなら――
まだ一つ問題が残っていたからだ。
浴室。
またしても浴室だった。
春人は画面を見つめた。
「……やっぱりね」
由紀が眉をひそめた。
「何か問題があるの?」
「出入口は大丈夫。広さも問題ない」
少し間を置いた。
「でも、固定式の身体支持装置の設置がまだ承認されてないんだ」
由紀は説明を読んだ。
「壁の構造?」
春人はうなずいた。
「取り付け部分が機器の荷重に安全に耐えられるか、確認する必要があるらしい」
由紀は彼を見た。
「調べてもらえるの?」
「多分ね」
春人はメールを読み進めた。
「追加の調査には応じてくれるって」
由紀は微笑んだ。
「よかったじゃない」
春人はため息をついた。
「また予定が増えたけどね」
「それでも、いいことよ」
「書類も増える」
「それでも、いいこと」
「業者ももう一社必要になるかもしれない」
「春人」
彼は叔母を見た。
「何?」
由紀は微笑んだ。
「駄目だとは言われていないでしょう?」
春人は止まった。
画面を見た。
それから微笑んだ。
「……うん」
由紀はうなずいた。
「そうでしょう?」
春人はもう一度メールを見つめた。
今回ばかりは――
障害が壁のようには感じられなかった。
それは一つの問題だった。
しかも、答えが見つかるかもしれない問題だった。
春人は返信画面を開いた。
そして質問事項をまとめ始めた。
なぜなら――
高橋春人が抜群に得意としていることが一つあるとすれば――
それは質問することだったからだ。
たいていは多すぎる質問。
時には場違いな質問。
けれど、時には――
まさに必要なときに投げかける質問だった。
◇ ◇ ◇
正午までに、春人は中村さんとの追加の打ち合わせを手配していた。
翌週、貸主側の業者が取り付け予定箇所を調査することになった。
介助事業所では、引き続き人員確保の可能性を確認している。
保険の給付承認もまだ下りていない。
そして、必要な条件が確認できるまでは、賃貸契約を結ばないことにしていた。
つまり――
前進している。
ゆっくりと。
複雑に。
大量の書類を伴いながら。
それでも、前進している。
春人は背もたれに身体を預けた。
「……自立生活って、驚くほどたくさんの人が関わるんだね」
近くでコーヒーを飲んでいた大地が笑った。
「それが人生だ」
「もっと簡単なバージョンを要求します」
「取り扱っておりません」
「責任者を呼んでもらえますか?」
大地はコーヒーカップを持ち上げた。
「責任者からのお返事です。却下」
春人はため息をついた。
「ひどい会社だ」
大地は笑った。
それから間取り図に目を向けた。
「それでも楽しみか?」
春人は少し考えた。
「……うん」
「延期が続いても?」
「うん」
彼は微笑んだ。
「むしろ、前より楽しみかもしれない」
大地は眉を上げた。
「どうしてだ?」
春人は画面を見た。
「一つ問題を解決するたびに、少しずつ現実になっていくから」
大地はうなずいた。
「いい考え方だな」
春人はくすっと笑った。
「そんなに驚かないでよ」
「努力はしてる」
「僕への信頼が厚すぎて感動するよ」
◇ ◇ ◇
一方、その頃――
街の反対側では――
水野葵が、まったく違う木曜日を過ごしていた。
勤務が始まったのは午前七時。
現在、午後三時近く。
食べたものはサンドイッチ半分。
飲んだコーヒーは二杯。
座っていた時間は、およそ十一分。
合計で。
連続ではない。
そんな贅沢は許されなかった。
「葵!」
彼女は振り返った。
「はい!」
同僚の看護師が駆け寄ってきた。
「三一二号室、手伝ってもらえる?」
葵はうなずいた。
「もちろん」
必要な情報を確認し、廊下を進んだ。
五分後、別の同僚に呼ばれた。
さらに別の同僚にも。
そして――
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
春人からのメッセージだった。
春人:いい知らせがある。大体は。
葵は微笑んだ。
休憩中に短く返信した。
葵:大体は?
春人:アパートの話が進んでる。
葵:よかったじゃない!
春人:どうやら浴室が僕の生涯の宿敵になる決意を固めたらしい。
葵は笑った。
近くの看護師が顔を上げた。
「何がおかしいの?」
葵は首を振った。
「何でもない」
またスマートフォンが震えた。
春人:配管業界全体が僕に個人的な恨みを持っている可能性がある。
葵は口元を押さえた。
残念ながら――
同僚には気づかれていた。
「彼氏?」
葵は固まった。
「……え?」
看護師はにやりとした。
「その笑顔」
葵は目をそらした。
「ほかのことでも笑うわよ」
「そんな顔では笑わないでしょ」
葵はため息をついた。
「本当に、みんな意地悪なんだから」
同僚は笑った。
「彼氏に、仕事の邪魔しないでって言っておきなさい」
葵は画面をちらりと見た。
そして微笑んだ。
「……あの人、そんなに頑張らなくても私を笑わせるのよ」
◇ ◇ ◇
問題が始まったのは、その日の夕方だった。
葵は別の勤務時間帯の一部を代わりに担当することを引き受けていた。
またしても。
初めてではなかった。
この二週間、職員不足や同僚の事情で、何度も追加勤務を引き受けていた。
一時的なものだと自分に言い聞かせた。
まだ大丈夫だと自分に言い聞かせた。
明日こそ休もうと自分に言い聞かせた。
残念ながら――
明日はいつも、さらに多くの仕事を連れてやって来た。
ようやく病院を出た頃には、空は暗くなっていた。
肩が痛い。
足も痛い。
頭の中が、どこか遠く感じられた。
スマートフォンを確認した。
メッセージが六件。
美香から三件。
春人から二件。
上司から一件。
最初に春人のメッセージを開いた。
春人:今日はどう?
春人:いや、この沈黙から判断すると、ものすごく忙しいか、病院に誘拐されたかのどちらかだね。
葵はかすかに微笑んだ。
文字を入力した。
葵:ごめん。長い一日だった。
すぐに返事が来た。
春人:大丈夫?
葵はその質問を見つめた。
そして入力した。
葵:もちろん。
少しためらった。
削除した。
もう一度入力した。
葵:ちょっと疲れただけ。
春人:ご飯食べた?
葵は眉をひそめた。
葵:食べたよ。
少し間が空いた。
春人:葵。
彼女はため息をついた。
葵:サンドイッチ半分。
春人:それは食事じゃない。見捨てられたサンドイッチの悲劇だ。
思わず――
笑ってしまった。
葵:本当に変な人。
春人:そのとおり。だからちゃんと何か食べて。
葵は駅の方を見た。
それから入力した。
葵:食べるよ。
春人:約束?
葵は画面を見つめた。
そして入力した。
葵:約束。
◇ ◇ ◇
翌日の午後、葵はまるで病院全体を相手に戦いを挑み、敗北したかのような姿で春人の家にやって来た。
春人はすぐに気づいた。
ひどい顔をしていたからではない。
そんなことはなかった。
葵はいつもの葵だった。
相変わらず綺麗だった。
難しい患者も、理不尽な上司も、故障したプリンターも、昼食前にまとめて倒せそうな、あの見慣れた表情もしていた。
けれど――
笑顔が疲れていた。
動きもいつもより遅かった。
そして由紀にお茶を勧められると、まるで救助隊が到着したかのような勢いで受け入れた。
春人はソファに腰を下ろす彼女を見ていた。
「……葵」
彼女は彼を見た。
「何?」
「生きてる?」
葵は瞬きをした。
「失礼ね」
「一応、確認しておこうと思って」
葵は眉をひそめた。
「生きてるに決まってるでしょ」
「興味深い」
春人は彼女を観察した。
「魂だけ先に退職届を提出したように見えるけど」
由紀が吹き出した。
葵は春人を見つめた。
「春人!」
彼は微笑んだ。
「違う?」
葵は口を開いた。
閉じた。
それからため息をついた。
「……違わないかも」
春人の笑顔が柔らかくなった。
「大変な一週間だった?」
葵はうなずいた。
「すごく」
由紀がお茶を持ってきた。
「じゃあ、今日はゆっくりしていってね」
葵は丁寧に微笑んだ。
「ありがとうございます」
春人は厳かにうなずいた。
「医師の指示です」
葵は眉を上げた。
「あなた、医師じゃないでしょ」
「じゃあ、彼氏の指示です」
「そっちの方が権限ないわよ」
「ひどい」
由紀は笑った。
春人はため息をついた。
「僕の職業的な信用が崩壊していく」
葵は微笑んだ。
それからソファの背もたれに身体を預けた。
そして目を閉じた。
ほんの一瞬。
春人は気づいた。
けれど、何も言わなかった。
まだ。
◇ ◇ ◇
一時間後、春人は決断した。
危険な決断だった。
なぜなら、それには――
計画が必要だったからだ。
彼は由紀を廊下に呼んだ。
正確には――
自分が廊下まで車椅子で移動し、由紀に来てもらった。
しかし、劇的な効果は同じだった。
「由紀叔母さん」
彼女は春人を見た。
「どうしたの?」
「ちょっと手伝ってほしいんだ」
由紀の目が大きくなった。
「何を?」
春人は声を落とした。
「葵のこと」
由紀は即座に微笑んだ。
「あら?」
春人はため息をついた。
「そういう意味じゃないから」
「どういう意味?」
「分かっててやってるでしょ」
由紀は笑った。
春人は続けた。
「すごく疲れてるんだ」
由紀の表情が柔らかくなった。
「気づいてたわ」
「本人はずっと大丈夫って言ってるけど」
「そうでしょうね」
春人はリビングの方を見た。
「今日は何もしなくていい午後にしてあげたいんだ」
由紀は微笑んだ。
「素敵ね」
春人はうなずいた。
「仕事なし」
「もちろん」
「本人が話したいなら別だけど、病院の話もなし」
「分かったわ」
「何か手伝わなきゃって思わせるのもなし」
由紀は微笑んだ。
「それで、私は何をすればいい?」
春人は考えた。
「簡単に食べられるものを用意してもらえる?」
由紀はうなずいた。
「もちろん」
「あと、大地叔父さんが大規模バーベキュー大会に発展させないようにしてくれる?」
由紀は笑った。
「努力するわ」
春人はため息をついた。
「その返事、全然安心できない」
◇ ◇ ◇
二十分後、葵はリビングに座っていた。
そばには柔らかなブランケット。
テーブルにはお茶。
簡単な食事も用意されていた。
そして春人は、妙に満足そうな顔で彼女を見ていた。
葵は目を細めた。
「……何を企んだの?」
春人は無邪気に瞬きをした。
「何も」
「春人」
「本当に何も」
葵は周囲を見回した。
そして彼を見た。
「どうして罠にしか思えないのかしら」
春人は微笑んだ。
「おもてなしに対して不健全な不信感を抱いているからだね」
葵は小さく笑った。
「これは何?」
春人の表情が柔らかくなった。
「午後の休暇」
葵は瞬きをした。
「え?」
彼は食事の方を示した。
「責任なし」
「春人……」
「全員の問題を解決しようとする英雄的行為も禁止」
葵は見つめた。
「本当に緊急の用事じゃなければ、仕事のメッセージを確認するのも禁止」
葵はため息をついた。
「ルールを作ってるの?」
春人はにやりとした。
「どうやらね」
「なんという皮肉」
「実にね」
葵は笑った。
「どうして?」
春人の笑顔が柔らかくなった。
「疲れてるから」
葵は黙った。
春人は続けた。
「それに、自分が疲れてるって認めることを、ずっと自分に許してない気がするから」
葵は視線を落とした。
しばらく――
部屋は静かだった。
やがて葵がささやいた。
「……疲れてる」
春人はうなずいた。
「うん」
彼女は彼を見た。
「あと一つ勤務を引き受けても大丈夫だって、いつも思っちゃうの」
春人は聞いていた。
「あと一つ、誰かの頼み事を引き受けようって」
少し間を置く。
「あと一人、助けが必要な人がいるって」
声が柔らかくなった。
「それで家に帰って、何も考える時間がなかったことに気づくの」
春人は彼女を見ていた。
葵はかすかに微笑んだ。
「情けないよね」
春人の表情が変わった。
「違うよ」
葵は瞬きをした。
彼は首を振った。
「それは、すごく疲れることだよ」
葵は彼を見た。
春人は続けた。
「疲れていいんだよ」
彼女の目が柔らかくなった。
「……春人」
彼は微笑んだ。
「休むために、何かを成し遂げる必要なんてないんだから」
数秒間――
葵は答えなかった。
それから静かに笑った。
「最近、妙に上手になってきたわね」
春人はにやりとした。
「最高の彼氏でいること?」
「人の気持ちを理解すること」
「同じことだよ」
葵は笑った。
「馬鹿」
春人は微笑んだ。
「葵の馬鹿だよ」
彼女は彼を見た。
そして微笑み返した。
「……うん」
◇ ◇ ◇
午後はゆっくりと過ぎていった。
それこそが目的だった。
葵は食べた。
ちゃんと食べた。
一食分を丸ごと。
春人はこれを文明社会における大勝利だと考えた。
二人はひどいテレビ番組を見た。
登場する刑事が、容疑者を劇的に見つめるだけで事件を解決してしまうドラマだった。
春人は深く憤慨した。
「捜査って、そんなふうにするものじゃないだろ」
葵は笑った。
「フィクションなんだから」
「だからって許されるわけじゃない」
「春人」
「証拠を一つも調べてないんだよ」
彼女はさらに笑った。
「真剣になりすぎ」
「靴が怪しいって理由だけで犯人扱いしたぞ!」
葵は口元を押さえた。
春人は続けた。
「あの靴には有罪が証明されるまで無罪と推定される権利がある!」
葵は吹き出した。
そして、その日の午後初めて――
彼女の笑い声から、重荷が消えたように聞こえた。
春人は微笑んだ。
何か特別なことを成し遂げたからではない。
ただ――
葵の笑い声が好きだったからだ。
特に、疲れていることを一瞬忘れているときの笑い声が。
やがてテレビを消した。
葵は静かに座っていた。
春人は彼女を見た。
「少しはよくなった?」
葵はうなずいた。
「ずっと」
春人は微笑んだ。
「よかった」
葵は彼を見つめた。
そして尋ねた。
「一つ話してもいい?」
春人はうなずいた。
「何でも」
彼女はためらった。
「私ね、役に立つのをやめる方法が分からないときがあるの」
春人は黙っていた。
葵は視線を落とした。
「仕事では、いつも何かやることがあるでしょう?」
彼女はかすかに微笑んだ。
「家に帰っても、もっと上手にできたはずのことばかり考えちゃう」
春人は聞いていた。
「それから明日のことを心配する」
少し間を置く。
「気づいたら、休むことが時間の無駄みたいに思えてくるの」
春人は少し考えた。
それから静かに言った。
「なんだか聞き覚えがあるな」
葵は彼を見た。
春人はかすかに微笑んだ。
「僕も、何かしなきゃって考えてる時間が多いから」
彼女はうなずいた。
「アパートのこと?」
「それもある」
春人は窓の方を見た。
「前に進んでないと、取り残されてるような気がするときがあるんだ」
葵の表情が柔らかくなった。
春人は続けた。
「でも、僕たち二人とも、一つ覚えておいた方がいいことがあるのかもしれない」
「何?」
彼は微笑んだ。
「生きてることは、生産性を競う大会じゃないってこと」
葵は見つめた。
それから笑った。
「驚くほど深いこと言うわね」
春人は厳かにうなずいた。
「僕にも天才的な瞬間はある」
「本当に、たまにだけどね」
「ひどい」
葵は微笑んだ。
そして彼の手に触れた。
「ありがとう」
春人は彼女を見た。
「何が?」
「今日のこと」
彼は微笑んだ。
「どういたしまして」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、由紀が小さな箱を持ってきた。
春人は即座に警戒した。
なぜなら――
最近、この家の箱というものは、精神的な大打撃を与えるものを入れている傾向があったからだ。
あるいは、恥ずかしい写真。
場合によっては両方。
「由紀叔母さん」
彼女は微笑んだ。
「何?」
「その箱、何が入ってるの?」
「写真よ」
春人は目を細めた。
「何の?」
由紀は笑った。
「安心して。ちゃんと服を着てる写真だから」
葵が吹き出した。
春人は見つめた。
「そんなこと聞いてない!」
大地はお茶を吹き出しそうになった。
由紀はさらに笑った。
そして箱を開けた。
中には、シンプルな写真立てが二つ入っていた。
一つは空だった。
もう一つには写真が入っていた。
春人にはすぐに分かった。
母。
美咲。
幼い自分の隣に座っている。
以前、みんなで見たあの写真だった。
二人とも笑っている写真。
春人は静かになった。
由紀が写真立てを持ち上げた。
「これ、持っていってほしいと思って」
彼は叔母を見た。
「……アパートに?」
由紀はうなずいた。
「引っ越すことになったらね」
春人は写真を見つめた。
母の笑顔。
幼い自分。
遠く感じられるのに、どこか近くにも感じられる時間。
彼は息をのんだ。
「……由紀叔母さん」
彼女は優しく微笑んだ。
「お母さんも、あなたの新しい家の一部でいたいと思うわ」
春人は写真立てを見た。
そして微笑んだ。
「……ありがとう」
由紀はそれをテーブルに置いた。
それから空の写真立てを持ち上げた。
「それと、こっちは……」
彼女は葵を見た。
葵は瞬きをした。
「私ですか?」
由紀は微笑んだ。
「二人で飾りたい写真があるんじゃないかと思って」
春人は固まった。
葵の目が大きくなった。
そして――
笑った。
「あっ!」
春人は叔母を見た。
「……計画してたでしょ」
由紀は無邪気に微笑んだ。
「何を?」
「感情攻撃」
大地は笑った。
由紀は無視した。
葵はスマートフォンを取り出した。
「実は……」
春人は彼女を見た。
葵が写真を開く。
そして由紀に、川辺で撮った写真を見せた。
二人で撮った最初の写真。
微笑んでいる春人。
笑っている葵。
背後には午後の陽光。
由紀の表情が柔らかくなった。
「あら、素敵ね」
葵は微笑んだ。
「私のお気に入りなんです」
春人は彼女を見た。
それから空の写真立てを見た。
しばらく――
胸の奥で何かが静かに落ち着いていくのを感じた。
二枚の写真。
一枚は過去。
もう一枚は現在。
母。
恋人。
違う形で、自分の人生を変えてくれた二人。
そして、もしかしたら――
どちらも、これから築こうとしている家にふさわしいのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、由紀と大地が寝室へ戻ったあとも、春人と葵はリビングに残っていた。
テーブルには二つの写真立てが置かれていた。
葵はアパートの間取り図を眺めた。
そして微笑んだ。
「どこに飾る?」
春人は彼女を見た。
「写真?」
葵はうなずいた。
彼は考えた。
「本棚かな」
葵は眉を上げた。
「どの本棚?」
春人は瞬きをした。
「え?」
「どの本棚?」
彼は見つめた。
「……どういう意味?」
葵はにやりとした。
「由紀さんから、本棚を五つ置く計画だって聞いたけど」
春人は目を閉じた。
「……家族に裏切られた」
葵は笑った。
「五つ?」
「六つになる可能性もある」
「春人!」
「何? 本って、誰も見てない間に繁殖するんだよ」
葵は吹き出した。
彼は微笑んだ。
それから間取り図を見た。
「窓の近くがいいかな」
葵が身を乗り出した。
「いいと思う」
春人はうなずいた。
「うん」
彼女は間取り図を見つめた。
そして指さした。
「ダイニングテーブルはどこ?」
「多分ここ」
「ソファは?」
「この辺かな」
葵は微笑んだ。
「お客さんが来たら?」
春人は眉を上げた。
「お客さん?」
彼女はうなずいた。
「遅くまでいる人とか」
春人は彼女を見た。
そして、ゆっくり微笑んだ。
「……誰かさん?」
葵の頬が赤くなった。
「始めないで」
春人はにやりとした。
「その謎の人物は誰かな?」
「春人」
「警戒すべき相手?」
彼女は笑った。
「本当にどうしようもない人」
春人は微笑んだ。
「葵のこと?」
葵は目をそらした。
「……かもしれない」
春人は瞬きをした。
一瞬――
返事の仕方を忘れた。
最近、彼女の前ではこういうことが増えていた。
葵は気づいた。
そして微笑んだ。
「あら?」
春人はため息をついた。
「……わざとだね」
「かもね」
彼は小さく笑った。
それから少し考え込んだ。
「まあ……」
葵は彼を見た。
「もし葵が泊まることになったら、ちゃんと準備しないとね」
彼女の表情が柔らかくなった。
「うん」
春人は間取り図を見た。
「介助の予定もあるし」
葵はうなずいた。
「プライバシーもね」
「絶対に」
「機器のことも」
「うん」
少し間を置いた。
「それに、泊まりに来たからって、葵が僕の介助者にならなきゃいけないとは思ってほしくない」
葵は彼を見た。
しばらく――
何も言わなかった。
そして優しく微笑んだ。
「よかった」
春人は瞬きをした。
「よかった?」
葵はうなずいた。
「私もそう思ってるから」
彼は彼女を見た。
葵は続けた。
「私は、あなたの彼女でいたいの」
春人は微笑んだ。
「もう彼女だよ」
「分かってる」
彼女は間取り図を見た。
「でも、恋人であることが、いつの間にか何もかも私が責任を負うことに変わってほしくない」
春人はうなずいた。
「僕もそう思う」
葵は微笑んだ。
「それに、専門的な介助が必要だからって、普通の恋愛ができないなんて思ってほしくない」
春人はくすっと笑った。
「普通?」
葵は眉を上げた。
「何?」
彼はにやりとした。
「僕たちに会ったことある?」
葵は吹き出した。
「確かに」
春人は微笑んだ。
それから静かになった。
「……でも、真面目な話」
葵は彼を見た。
「ただ一緒にいられる時間がほしいんだ」
彼女はうなずいた。
「私も」
春人は窓の方を見た。
「毎回、診察とか機器とか予定の話ばかりじゃなくて」
葵は微笑んだ。
「そうね」
春人は考えた。
「もちろん、現実にはそういうものも僕の生活の一部だけど」
「もちろんよ」
「予定に影響することもあるだろうし」
「分かってる」
彼は彼女を見た。
葵は続けた。
「でも、それだけが私たちのすべてになる必要はないでしょう?」
春人は微笑んだ。
「……うん」
◇ ◇ ◇
本来なら、会話はそこで終わってもよかった。
実に合理的な区切りだった。
残念ながら――
二人とも、合理的であることにはあまり興味がなかった。
葵はもう一度間取り図を見た。
そして静かに尋ねた。
「誰かと一緒に暮らすことって、考えたことある?」
春人は瞬きをした。
「……え?」
葵は少し緊張したように微笑んだ。
「今すぐじゃないよ」
春人は彼女を見た。
「いつか、ってこと」
彼は静かになった。
葵は目をそらした。
「忘れて」
「嫌だ」
彼女は振り返った。
春人はかすかに微笑んだ。
「忘れないよ」
葵は彼を見つめた。
春人は間取り図を見た。
それから彼女を見た。
「……うん」
葵は瞬きをした。
「うん?」
「考えたことあるよ」
彼女の表情が柔らかくなった。
春人は続けた。
「いつもじゃないけど」
彼は微笑んだ。
「まあ、最近はちょっと増えたかな」
葵は小さく笑った。
「本当に?」
春人はうなずいた。
「うん」
しばらく――
二人は黙っていた。
それから春人が口を開いた。
「昔は、自分のアパートを持つことがゴールだと思ってた」
葵は聞いていた。
「そこまで行ければ、何かを証明できる気がしてたんだ」
春人は窓の方を見た。
「自分の人生を築けるって」
葵はうなずいた。
「今は?」
春人は考えた。
「今は、そこが始まりなのかもしれないって思う」
彼女の笑顔が柔らかくなった。
春人は続けた。
「自分の家は、やっぱりほしい」
「もちろん」
「そこで暮らしてみたいんだ」
少し間を置く。
「自分で決めて、いろいろ経験して、自分の生活のリズムを作って」
葵はうなずいた。
「でも……」
春人は彼女を見た。
「自分の人生を持ちたいってことは、その人生を一人で過ごさなきゃいけないって意味じゃないと思うんだ」
葵の目が柔らかくなった。
「春人……」
彼はかすかに微笑んだ。
「それで、いつか、もし僕たち二人ともそうしたいと思ったら……」
彼はためらった。
そして照れくさそうに笑った。
「うわ。これ、思ったより言いにくいね」
葵は微笑んだ。
「ゆっくりでいいよ」
春人は彼女を見た。
「いつか、一緒に暮らせるかもしれないね」
沈黙。
葵は彼を見つめた。
それから表情が変わった。
柔らかくなった。
温かくなった。
そしてゆっくりと――
微笑んだ。
「……そうかもしれないね」
春人は息をのんだ。
「うん?」
彼女はうなずいた。
「うん」
数秒間――
二人とも何も言わなかった。
やがて葵が静かに笑った。
「ちょっと気が早いね」
春人はにやりとした。
「少しだけ」
「かなり」
「否定できない」
葵は微笑んだ。
「でも……」
春人は彼女を見た。
「想像するのは好き」
春人の表情が柔らかくなった。
「……僕も」
◇ ◇ ◇
葵はもう少しだけ滞在した。
急いで話さなければならないことがあったからではない。
ただ――
大切な会話というものは、難しい部分を話し終えたあとも続くことがあるからだ。
二人は何でもないことを話した。
料理。
本。
植物を育てる可能性。
これが即座に論争へ発展した。
「植物がほしいな」と葵が言った。
春人は眉を上げた。
「どうして?」
「植物っていいじゃない」
「説得力のある説明じゃないね」
葵は笑った。
「植物の何がいけないの?」
「何も」
少し間を置いた。
「ただ、世話が必要でしょ」
葵は見つめた。
「春人」
「何?」
「あなた、本を千冊くらい持ってるでしょう?」
「本には水をあげなくていいから」
葵は笑った。
「本当にどうしようもない人」
春人はにやりとした。
「それに、僕ならうっかり枯らしちゃいそうだし」
葵は微笑んだ。
「じゃあ、育てやすいものにしようよ」
春人は考えた。
「サボテン?」
「いいかも」
春人は厳かにうなずいた。
「感情的に距離を置いてくれる植物か。賛成だね」
葵は吹き出した。
彼は微笑んだ。
それから付け加えた。
「名前もつけよう」
葵は眉を上げた。
「え?」
「サボテンに」
葵は笑った。
「まだ買ってもいない植物に名前をつけるの?」
「もちろん」
彼女は首を振った。
「何て名前?」
春人は考えた。
そして微笑んだ。
「トゲトゲ卿」
葵は見つめた。
そして笑い崩れた。
「嫌よ!」
春人はにやりとした。
「トゲトゲ卿三世」
「なんで三世なの!?」
「由緒ある家系だから」
葵は涙を拭うほど笑った。
春人は彼女を見ていた。
微笑みながら。
そして、笑い声と架空の観葉植物についての馬鹿げた会話の間で――
一つのことに気づいた。
これだ。
自分がほしいのは、こういうものだった。
必ずしもサボテンではない。
断じてサボテンではない。
けれど、何でもない時間。
人生の節目になる必要のない時間。
劇的な愛の告白なんて必要のない時間。
ただ――
葵がいる。
隣で笑っている。
二人ともまだ予測できない未来について話している。
◇ ◇ ◇
やがて笑い声が収まった。
葵は窓の方を見た。
そして静かに口を開いた。
「春人?」
「うん?」
「一つ聞いてもいい?」
彼は微笑んだ。
「もちろん」
葵はためらった。
「怖くなることってある?」
春人は瞬きをした。
「何が?」
彼女は彼を見た。
「私たちのこと」
春人は静かになった。
葵は続けた。
「この関係が嫌だからじゃないの」
彼女はかすかに微笑んだ。
「むしろ、大切だから」
春人は聞いていた。
「だから、ときどき怖くなるの」
彼は彼女を見た。
葵は視線を落とした。
「昔はね、誰かを愛するって、その人に自分を傷つける力を渡すことだと思ってた」
声は静かだった。
「前にあったことのあと……」
彼女は言葉を止めた。
春人は遮らなかった。
待った。
葵は息を吸った。
「もう誰も、あんなに近づけないって決めたの」
春人の表情が柔らかくなった。
彼女は続けた。
「そしたら、あなたが現れた」
春人はかすかに微笑んだ。
「不運にも」
葵は小さく笑った。
「本当に不運にも」
彼女は彼を見た。
「それなのに、もう望まないと思ってたことを、また望むようになっちゃった」
春人は息をのんだ。
「どんなこと?」
葵は微笑んだ。
「小さなことよ」
間取り図の方を見た。
「帰る場所に、誰かがいてくれること」
少し間を置く。
「今日あったことを話せる相手がいること」
「疲れてるときに笑わせてくれる人がいること」
彼女は春人を見た。
「そして、一緒に明日を想像できる人がいること」
春人は胸が締めつけられるのを感じた。
葵は続けた。
「それが嬉しいの」
声が柔らかくなった。
「でも、失うのが怖くもなる」
しばらく――
春人は何も言わなかった。
それからかすかに微笑んだ。
「……うん」
葵は瞬きをした。
「うん?」
彼はうなずいた。
「僕も怖くなるよ」
彼女は春人を見た。
春人は続けた。
「葵をがっかりさせるんじゃないかって思うときがある」
葵の表情が変わった。
「春人……」
彼は少し首を振った。
「障害があるからってことじゃない」
少し間を置く。
「少なくとも、それだけじゃない」
葵は聞いていた。
「もっと……」
彼は言葉を探した。
「恋愛って複雑だから」
葵はかすかに微笑んだ。
「そうね」
「それに、僕はこういう関係、初めてだし」
葵はくすっと笑った。
「私だって、こんな関係は初めてよ」
春人は彼女を見た。
そして続けた。
「変なことを言っちゃうんじゃないかとか」
少し間を置く。
「葵の気持ちを勘違いしちゃうんじゃないかとか」
彼は苦笑した。
「それについては、もう実績があるからね」
葵は小さく笑った。
春人は続けた。
「それに、未来は僕たちが想像してるより大変かもしれないって思うこともある」
彼女はうなずいた。
「大変なときもあると思う」
春人は微笑んだ。
「うん」
彼は葵を見た。
「でも、それでも望んでるんだ」
葵は静かになった。
春人は続けた。
「この先、何が起こるのか知りたい」
彼女の目が柔らかくなった。
「……私と?」
彼は微笑んだ。
「葵と」
◇ ◇ ◇
葵が顔を近づけた。
急いでいるわけではなかった。
大げさな仕草でもなかった。
ただ、春人の顔の近くまで、そっと。
「キスしてもいい?」
春人は微笑んだ。
「……毎回聞かなきゃ駄目?」
葵は眉を上げた。
「聞くわよ」
彼はくすっと笑った。
「確かに」
表情が柔らかくなった。
「うん」
葵は微笑んだ。
そしてキスをした。
優しく。
温かく。
急ぐ必要のないキス。
怖がる必要のないキス。
何かを証明する必要のないキス。
顔を離すと、春人は微笑んでいた。
葵は彼を見つめた。
「何?」
春人はくすっと笑った。
「何でもない」
「春人」
彼はにやりとした。
「ちょっと考えてただけ」
「何を?」
春人は彼女を見た。
「葵のことを僕の彼女って呼べるの、なんだか信じられないなって」
葵の頬が赤くなった。
「馬鹿」
春人は微笑んだ。
「葵の馬鹿だよ」
彼女は小さく笑った。
それから春人の姿勢を崩さないよう気をつけながら、そっと額を寄せた。
「……うん」
◇ ◇ ◇
その夜、葵が帰ったあと、春人は寝室に戻った。
パソコンには、まだアパートの間取り図が開かれていた。
その隣には二枚の写真。
母。
そして葵。
過去。
そして未来。
いや――
少し違うのかもしれない。
母は、過去だけの存在ではなかった。
彼女の言葉は、今も春人を形作っていた。
彼女の愛は、春人が選ぶ道の中に生き続けていた。
そして葵も、未来だけの存在ではない。
彼女はもう、春人の現在の一部だった。
何でもない午後を大切な時間に変えてくれる人。
彼に問いかけてくれる人。
耳を傾けてくれる人。
ときには意見をぶつけ合う人。
ひどい冗談に笑ってくれる人。
そして、なぜか――
明日というものを、以前ほど怖く感じさせなくしてくれる人。
春人は日記を開いた。
音声入力を起動した。
そして話し始めた。
「母さんへ」
少し間を置く。
「今日、アパートについてまたメールが来たよ」
彼はかすかに微笑んだ。
「大体はいい知らせだった」
くすっと笑う。
「浴室は相変わらず僕を倒そうとしてるけど」
間取り図を見た。
「でも、少しずつ進んでると思う」
少し間を置く。
「それと、もう一つあったんだ」
葵の写真をちらりと見た。
「未来について話した」
彼は微笑んだ。
「アパートだけじゃなくて」
「現実的なことだけでもなくて」
「いつか、どんな人生を送っているかってこと」
少し間を置く。
「二人で」
しばらく――
春人はただ画面を見つめていた。
そして続けた。
「それが具体的にどういうことなのか、まだ分からない」
「でも、今すぐ分かる必要もないと思う」
彼はかすかに微笑んだ。
「僕はやっぱり、自立して暮らしたい」
「自分の生活のリズムを作りたい」
「自分で決めたい」
「自分の家だって思える場所がほしい」
少し間を置く。
「でも、自分の人生を持つことと、その人生からほかの人を締め出すことは違うんだって、少しずつ分かってきた」
母の写真を見た。
「母さんが教えようとしてくれてたのは、そういうことなのかもしれないね」
彼は続けた。
「僕には未来を生きる価値があるってこと」
「何かを成し遂げたからじゃなくて」
「何かを証明したからでもなくて」
「ただ、それが僕の人生だから」
彼は微笑んだ。
「それに、いつか……」
葵の写真を見た。
「その未来には、もう一人の居場所もできるのかもしれない」
音声入力を止めた。
文章を読んだ。
それから最後に一文を付け加えた。
「母さん、僕たちが思い描いてる家を、気に入ってくれるといいな」
彼は日記を保存した。
◇ ◇ ◇
スマートフォンが震えた。
葵からだった。
葵:無事に帰ったよ。
春人は微笑んだ。
春人:よかった。
葵:今日は楽しかった。
春人:サボテン論争も含めて?
葵:特にサボテン論争がね。
春人:トゲトゲ卿も君の支持に感謝しているよ。
葵:絶対その名前にはしないからね。
春人は笑った。
春人:分かった。じゃあトゲトゲ卿四世で。
葵:春人!
彼はにやりとした。
そして、またメッセージが届いた。
葵:でも、真面目な話。
春人:うん?
葵:ちゃんと話せてよかった。
彼は優しく微笑んだ。
春人:僕も。
葵:まだ大きな決断をする段階じゃないって分かってる。
春人:うん。
葵:でも、そういう未来を想像できるのが嬉しい。
春人は間取り図を見た。
そして入力した。
春人:僕もだよ。
少し間が空いた。
葵:一日ずつ、ゆっくり進もうね?
彼は微笑んだ。
春人:一日ずつね。
葵:アパートの調査も一件ずつ。
春人は笑った。
春人:残念ながらね。
葵:愛してる。
春人:僕も愛してるよ。
葵:おやすみ、彼氏くん。
春人:おやすみ、未来のサボテン共同保護者さん。
葵:今の取り消し!
春人は声を上げて笑った。
それからスマートフォンを写真の隣に置いた。
部屋は静かになった。
窓の外では、街が動き続けていた。
車が通り過ぎる。
遠くの窓に明かりがともる。
人々が家に帰る。
家族が夕食を囲む。
恋人同士が、テレビで何を見るか言い争う。
どこかでは、家具について議論している人もいるだろう。
植物についても。
あるいは、本棚を五つ置くのは多すぎるのかどうかについても。
春人は微笑んだ。
なぜなら――
初めて――
そうした何でもない出来事が、他人の人生の一場面には感じられなくなったからだ。
それは可能性だった。
自分も経験できるかもしれないこと。
自分で選べるかもしれないこと。
自分で築いていけるかもしれないこと。
一人きりではない。
助けを借りずに、というわけでもない。
不安がなくなるわけでもない。
それでも――
自分の意思で。
そして、いつか――
葵と隣り合って。
春人は最後にもう一度、二枚の写真を見た。
そしてささやいた。
「……少しずつ近づいてるよ、母さん」
少し間を置く。
「アパートだけじゃなくて」
彼は微笑んだ。
「いろんなものに」
そして、そのとき初めて――
明日を思い浮かべても、何がうまくいかないかという疑問で胸がいっぱいにはならなかった。
代わりに――
好奇心が湧いてきた。
何がうまくいくかもしれないのか。
これからどんな思い出が待っているのか。
そして、いつかそれらの思い出を包み込む家は、どんな場所になるのか。




