第48話 自分らしさを失わずに、二人で築いていく居場所
メールが届いたのは、午前九時十七分だった。
春人がその時刻を正確に覚えていたのは、八時半からずっと時計を気にしていたからだ。
馬鹿げている。
実に馬鹿げている。
それくらいは自分でも分かっていた。
残念ながら――
馬鹿げていると分かっていても、やめられるとは限らない。
パソコンから通知音が鳴った。
春人は即座に画面を見た。
不動産会社からのメールだった。
心臓が跳ねた。
「あ」
メールを開く。
最初の一文を読む。
次の一文を読む。
そして――
動きが止まった。
「……マジかよ」
廊下から由紀の声が聞こえた。
「春人?」
返事はしなかった。
いや、できなかった。
何度もメールを読み返すのに忙しかったからだ。
管理会社が、提出した医療機器や必要な設備変更についての資料を確認したという。
結果は好意的だった。
いくつかの項目について、条件付きの承認が得られた。
追加の電気工事についても、専門業者による現地調査を経れば許可される可能性がある。
二つ目の部屋を医療機器の保管や介助に関わる用途で使用することについても、現時点で特に異議は出ていなかった。
そして――
何より重要なのは――
物件がまだ空いていることだった。
春人は画面を見つめた。
それから笑った。
何かが面白かったわけではない。
ただ――
初めて――
本当に実現するかもしれないと思えたのだ。
「……嘘だろ」
由紀が入口に姿を現した。
「春人? どうしたの?」
彼は叔母を見た。
そして微笑んだ。
「由紀叔母さん」
彼女は立ち止まった。
「何?」
「僕……」
春人は画面をちらりと見た。
「本当に引っ越せるかもしれない」
◇ ◇ ◇
十分後、家族全員が春人のパソコンを囲んでいた。
なかなか大げさな光景だった。
なにしろ、この家には三人しか住んでいない。
それなのに――
まるで記者会見だった。
大地は春人の後ろに立っていた。
由紀は隣にいた。
二人ともメールをじっと見つめている。
春人はため息をついた。
「一応言っておくけど、僕はまだ文字を読めるからね」
由紀は無視した。
「まあ、素晴らしいじゃない!」
大地もうなずいた。
「かなり期待できそうだな」
春人は眉を上げた。
「期待できそう、だよ。決定じゃない」
由紀は微笑んだ。
「分かってるわよ」
「まだ現地調査が必要だし」
「ええ」
「最終的な書面での承認も必要だし」
「もちろん」
「契約書にもサインしてない」
「分かってるってば」
春人は二人を交互に見た。
「……じゃあ、どうしてもう引っ越したみたいな顔をしてるの?」
大地がにやりとした。
「由紀がもう頭の中でリビングの模様替えを始めてるからだろうな」
由紀は息をのんだ。
「大地!」
春人は見つめた。
「……本当に?」
由紀は目をそらした。
「まあ……」
「由紀叔母さん」
「ちょっと考えただけよ!」
「何を?」
彼女はためらった。
「カーテン」
春人は目を閉じた。
「……やっぱり」
大地は笑った。
「あと、ダイニングテーブルもな」
「大地!」
春人は大げさにため息をついた。
「素晴らしい。僕の自立生活は、すでにインテリアによって侵略されている」
由紀は笑った。
そして、表情を和らげた。
「春人」
彼は叔母を見た。
「何?」
「あなたを誇りに思うわ」
不意を突かれた。
春人は瞬きをした。
「……アパートを見つけたから?」
「違うわ」
由紀は首を振った。
「ここまで自分で頑張ってきたからよ」
春人は黙った。
由紀は続けた。
「いろいろ調べて、質問して、決めて、必要なものを考えて」
彼女は微笑んだ。
「最初のアパートが駄目になっても、諦めなかったでしょう?」
春人は画面へ視線を戻した。
「……手伝ってもらったけどね」
大地がうなずいた。
「もちろんだ」
春人は彼を見た。
大地は微笑んだ。
「大切なことを成し遂げるときは、大抵誰かの助けを借りるもんだ」
一瞬――
春人は皮肉の一つも思いつかなかった。
これは由々しき事態だった。
それから微笑んだ。
「……ありがとう」
◇ ◇ ◇
昼までに、春人は新しいリストを作り始めていた。
恋愛に関するリストではない。
カフェの紙ナプキンに書いた、あのかわいらしいリストでもない。
今回のリストは、はるかに魅力に欠けていた。
そして――
はるかにお金がかかった。
家賃。
光熱費。
インターネット。
交通費。
医療用品。
機器の維持管理費。
緊急時の出費。
専門的な介助体制。
春人は表計算ソフトを見つめた。
「……うわあ」
天井を見上げた。
「大人になるって詐欺だね」
一緒に数字を確認していた大地が笑った。
「大人の世界へようこそ」
「返品したいんだけど」
「悪いな。返品不可だ」
春人はため息をついた。
「ひどい顧客対応だ」
大地は微笑んだ。
それから画面に顔を近づけた。
「保険や支援制度で何が利用できるか、確認したか?」
「全部はまだ」
春人は数字を見た。
「関係する窓口には連絡し始めてる。引っ越しても、どのサービスが継続できるのか、書面で確認しないと」
大地はうなずいた。
「そうだな」
「それに、介助事業所が本当に必要な時間帯の人員を確保できるかも確認しないと」
「そのとおりだ」
春人は表を見つめた。
なぜなら――
何よりも――
そこだけは失敗するわけにはいかなかったからだ。
自分のアパートに引っ越したからといって、介助が必要なくなるわけではない。
日常生活には、引き続き身体的な支援が必要だった。
医療機器や、決まった手順にも頼っている。
自分のケアプランを理解し、確実に実行できる人たちが必要だった。
そして、人生が思いどおりにならないときのために、代わりの手段も用意しておかなければならない。
介助者が病気になることもある。
勤務に穴が空くこともある。
機器が故障することもある。
移動手段が確保できなくなることだってある。
自立とは、そうした可能性が存在しないふりをすることではない。
それらに備えることだった。
春人は数字を見つめた。
そしてため息をついた。
「……やることが多いな」
大地はうなずいた。
「そうだな」
春人は彼を見た。
「僕、無理なことをしようとしてるのかな?」
大地は少し考えた。
そして首を振った。
「いや」
春人は瞬きをした。
「本当に?」
「大きな目標に挑戦してるんだ」
大地は微笑んだ。
「それは無謀とは違う」
春人は再び表へ目を向けた。
大地は続けた。
「ただし、大きな目標には、しっかりした計画が必要だ」
春人はうなずいた。
「うん」
「それに、計画が思ったより時間を要することもある」
彼はかすかに微笑んだ。
「身に染みてるよ」
大地は車椅子の背もたれに手を置いた。
「助けが必要だからって、失敗したと思うなよ」
春人は顔を上げた。
大地は微笑んだ。
「誰だって、誰かの助けが必要なんだからな」
数秒間――
春人は黙っていた。
それからにやりとした。
「なんだか妙に賢そうなこと言ったね」
大地は笑った。
「由紀には内緒だぞ」
「もう遅いよ。将来の脅迫材料として録音しておく」
◇ ◇ ◇
その日の午後、葵が小さな紙袋を持ってやって来た。
春人はリビングで待っていた。
由紀が玄関で迎えた。
「葵ちゃん!」
「こんにちは、由紀さん」
「さあ、入って!」
春人はため息をついた。
「またごちそうを用意したとか言わないでよ」
由紀は心外そうな顔をした。
「そんなわけないでしょう!」
キッチンから大地が顔を出した。
「お茶と、お菓子を三種類だけだ」
春人は見つめた。
「……三種類?」
由紀は夫をにらんだ。
「大地!」
葵は笑った。
春人は首を振った。
「いつかこの家は、おもてなしの重みで崩壊するね」
由紀は微笑んだ。
「そのときは、もっと大きな家を建てるわ」
「恐ろしい」
葵が近づいてきた。
「やっほー」
春人は微笑んだ。
「やあ」
彼女は身をかがめ、彼の頬にキスをした。
春人は固まった。
由紀が息をのんだ。
大地が不自然な咳払いをした。
葵は身体を起こした。
そして二人の表情に気づいた。
「……何ですか?」
春人は目を閉じた。
「おめでとう」
葵は瞬きをした。
「何が?」
「家族監視システムを起動させた」
由紀は両手を合わせた。
「あら、気にしないで!」
大地もうなずいた。
「俺たちは見てないぞ」
春人は見つめた。
「思いっきり見てるじゃないか」
大地はにやりとした。
「それもそうだな」
葵は笑った。
それから紙袋を持ち上げた。
「持ってきたものがあるの」
春人は眉を上げた。
「僕に?」
「かもしれない」
「怪しい」
「とってもね」
彼女は袋をテーブルに置いた。
中には小さなノートが入っていた。
濃い青色。
飾り気のない表紙。
細い銀色の線が一本入っている。
春人は見つめた。
「……ノート?」
葵は微笑んだ。
「この前のリスト、覚えてる?」
彼は彼女を見た。
「ナプキンの?」
葵はうなずいた。
「もう少し長持ちするものがあった方がいいかなって」
春人は微笑んだ。
「……二人のために買ってくれたの?」
葵は少し照れたようだった。
「そんな大したものじゃないけど」
春人は首を振った。
「ううん」
葵は彼を見た。
春人は微笑んだ。
「最高だよ」
◇ ◇ ◇
お茶のあと、由紀は美咲の遺品が入った木箱を持ってきた。
葵が、写真を少し見せてもらえないかと尋ねたのだ。
春人も了承していた。
もっとも――
今になって、これは致命的な判断ミスだったのではないかと思い始めていた。
なぜなら由紀が笑っていたからだ。
あの笑顔。
感動的な展開か、幼少期の恥ずかしい思い出が暴露される直前に見せる笑顔だ。
場合によっては両方。
「さて、葵ちゃん」
由紀が箱を開けた。
「とっておきの写真を見せてあげる」
春人は即座に警戒した。
「……由紀叔母さん」
彼女は無視した。
「これは春人が六歳のときよ」
春人は固まった。
「……やめて」
由紀が写真を持ち上げた。
葵が身を乗り出した。
そして吹き出した。
「ええっ、何これ!」
春人は目を閉じた。
「……やっぱり」
写真には幼い春人が写っていた。
車椅子に座っている。
頭には大きすぎる海賊帽。
膝の上には段ボール製の剣。
そして車椅子の側面には――
手作りの看板が取り付けられていた。
『キャプテン・ハルト』
葵は笑った。
「海賊だったの!?」
春人はため息をついた。
「一時的にね」
由紀は微笑んだ。
「車椅子は海賊船なんだって言い張ってたのよ」
葵は口元を押さえた。
「かわいすぎる!」
春人はうめいた。
「航海工学に基づいた、極めて合理的な解釈だったんだよ」
由紀は笑った。
「それで家中のみんなに命令してたの」
葵は嬉しそうに目を輝かせた。
「本当に?」
「ええ」
由紀は微笑んだ。
「私のことを『一等航海士ユキ』って呼んでたわ」
葵はさらに笑った。
春人は天井を見上げた。
「……僕の評判が崩壊していく」
大地が部屋に入ってきた。
「海賊の写真を見せたのか?」
春人は彼を見つめた。
「叔父さんも知ってたの!?」
大地はにやりとした。
「もちろん」
葵は目元の涙を拭った。
「ほかにもあります?」
春人は即座に慌てた。
「ない!」
由紀が箱に手を伸ばした。
「実はね……」
「由紀叔母さん!」
◇ ◇ ◇
あった。
たくさんあった。
レンズの入っていない巨大な眼鏡をかけた春人。
自分の背丈より高く積み上がった本に囲まれた春人。
翼の生えたジャガイモにしか見えないドラゴンの絵を、得意げに見せている春人。
そして――
美咲が隣に座っている写真。
彼女は笑っていた。
頭を少し後ろに傾けている。
片手を春人の車椅子のそばに置いていた。
春人は母を見上げていた。
笑顔で。
葵の笑い声が止まった。
写真をじっと見つめた。
「……これ、お母さん?」
春人はうなずいた。
「うん」
由紀は優しく微笑んだ。
「美咲のお気に入りの一枚だったのよ」
葵は写真を見た。
「すごく幸せそう」
春人はかすかに微笑んだ。
「うん」
由紀は二人のそばに座った。
「美咲はね、本当によく笑う人だったの」
写真へ視線を向けた。
「何かがツボに入ると、なかなか笑いが止まらなくて」
春人はくすっと笑った。
「聞き覚えがあるな」
由紀は微笑んだ。
「あなた、そこはお母さん譲りよ」
葵は春人を見た。
「本当に?」
由紀はうなずいた。
「ええ、間違いないわ」
そして続けた。
「皮肉っぽいところもね」
春人は見つめた。
「……ちょっと待って」
入口にいた大地が笑った。
「それは確かに美咲譲りだな」
由紀は微笑んだ。
「美咲も、言いたいことがあるときはなかなか鋭かったのよ」
春人は写真を見た。
そして微笑んだ。
「……葵にも会ってほしかったな」
葵の表情が柔らかくなった。
「私も会いたかった」
由紀は写真をそっとテーブルに置いた。
「きっと葵ちゃんのこと、気に入ったと思うわ」
葵は瞬きをした。
「そうでしょうか?」
由紀はうなずいた。
「間違いないわ」
彼女は微笑んだ。
「看護師だからじゃないの」
葵は彼女を見た。
「春人を助けてくれるからでもない」
由紀は続けた。
「この子を笑わせてくれるからよ」
春人は視線を落とした。
由紀は微笑んだ。
「それにね、春人が葵ちゃんを見る目は、昔、お母さんに何かを話したくてたまらないときの目と同じなの」
しばらく――
誰も何も言わなかった。
やがて葵が春人の手に触れた。
春人も、動かせる範囲でそっと指を寄せた。
そして微笑んだ。
◇ ◇ ◇
二人が初めて本格的に意見をぶつけ合ったのは、午後四時四十二分だった。
春人が時刻を覚えていたのは――
あとになって、あの会話を何度も思い返すことになるからだ。
最初は、何も問題なかった。
春人と葵はリビングに座っていた。
二人の間にはノートが開かれている。
春人はアパートの計画について説明していた。
葵は聞いていた。
そして一つ質問した。
「もし介助者の人が来られなくなったら、どうするか考えてる?」
春人はうなずいた。
「うん」
「二つの勤務時間帯で人が確保できなかった場合は?」
「代わりの体制を考えてるところだよ」
葵は少し考えた。
「全部きちんと決まるまで、引っ越しは待った方がいいかもしれないね」
春人の表情が変わった。
彼は葵を見た。
「……何?」
葵は瞬きをした。
「だから、その……」
「言いたいことは分かるよ」
彼女は少し眉をひそめた。
「春人?」
彼は目をそらした。
「引っ越すべきじゃないってことでしょ」
葵は見つめた。
「違うわよ」
春人はため息をついた。
「そう聞こえたけど」
彼女は姿勢を正した。
「そんなこと言ってない」
春人は葵を見た。
「待った方がいいって言った」
「介助体制が安定するまで、って言ったの」
「それがいつになるか分からないじゃないか」
葵は眉をひそめた。
「それは不公平よ」
春人の中で、苛立ちが膨らんでいった。
葵だけに対するものではなかった。
むしろ、葵に対するものは少なかった。
アパート。
書類。
先の見えない状況。
自分の計画が現実的だと、何度も説明しなければならないこと。
そうしたすべてへの苛立ちだった。
しかし――
残念ながら――
そのとき目の前に座っていたのは葵だった。
そして苛立ちというものは、公平さをあまり気にしてくれない。
「僕はもう全部考えてるんだよ」
葵はうなずいた。
「分かってる」
「じゃあ、どうして疑うの?」
彼女の表情がこわばった。
「あなたが大切だからよ」
春人は葵を見た。
「看護師だから?」
葵は固まった。
沈黙。
その言葉が二人の間に残った。
春人はすぐに、何かが変わったことに気づいた。
葵の表情が変わった。
大げさな変化ではない。
怒鳴ったわけでもない。
泣いたわけでもない。
けれど、その表情は少し閉ざされたものになった。
「……どういう意味?」
春人はためらった。
「いや、ただ……」
「私があなたを患者として扱ってると思ってるの?」
彼は目をそらした。
「分からない」
葵は背もたれに身体を預けた。
「春人」
彼は黙っていた。
葵は息を吸った。
「私は、あなたが人生の大きな決断をしようとしているから質問したの」
「分かってる」
「それに、あなたが私にも人生に関わってほしいって言ってくれたから」
春人は彼女を見た。
葵は続けた。
「だからって、あなたの人生を支配しようとしてるわけじゃない」
春人は息をのんだ。
「そんなこと言ってない」
「そういう意味に聞こえたわ」
彼は黙った。
葵はノートへ視線を落とした。
しばらく――
二人とも何も言わなかった。
やがて葵が静かに言った。
「難しいことだって、お互いに聞いていいと思ってた」
春人は彼女を見た。
その言葉は痛かった。
なぜなら、彼女が正しいと分かっていたからだ。
そして――
そんなふうに感じさせるつもりはなかったからだ。
それでも、苛立ちは残っていた。
自分を守ろうとする気持ちも。
誰かの心配が、また自分の計画を止める理由になってしまうのではないかという恐れも。
「ただ、みんなに僕のための決断をしてほしくないんだ」
葵はゆっくりうなずいた。
「それは分かる」
声は落ち着いていた。
「でも、私は『みんな』じゃない」
春人は彼女を見た。
葵は続けた。
「あなたが身構えなきゃいけない相手には、なりたくないの」
沈黙。
春人はノートを見つめた。
そしてささやいた。
「……僕も、そんなふうにはしたくない」
◇ ◇ ◇
葵はそのあと二十分ほど滞在した。
二人はもう言い争わなかった。
けれど、いつもどおりに戻ったわけでもなかった。
会話は慎重になった。
慎重すぎるほどに。
何気ない言葉の一つ一つに、鋭い角があるように感じられる、あの慎重さだった。
葵が帰るために立ち上がったとき、春人は顔を上げた。
「……葵」
彼女は足を止めた。
「うん?」
彼はためらった。
「ごめん」
葵の表情が少し和らいだ。
「何が?」
春人は息をのんだ。
「葵が僕を支配しようとしてるみたいに言っちゃったこと」
葵は彼を見た。
春人は続けた。
「不公平だった」
彼女はうなずいた。
「ありがとう」
春人は視線を落とした。
葵は待った。
それから言った。
「私もごめんね」
春人は顔を上げた。
彼女は続けた。
「何が起こるかを心配する前に、あなたがどこまで準備してるのか聞くべきだった」
彼はかすかに微笑んだ。
「質問すること自体は悪くないよ」
葵はうなずいた。
「それに、自分の決断を尊重してほしいと思うのも悪くない」
しばらく――
二人は見つめ合った。
やがて葵が微笑んだ。
「多分、お互いに言い方を勉強しないとね」
春人はくすっと笑った。
「そうだね」
葵は首を傾げた。
「特に春人は」
彼は見つめた。
「……ひどい」
葵はにやりとした。
「事実でしょ」
春人は小さく笑った。
そして、言い争いが始まってから初めて――
張りつめていた空気が緩んだ。
完全にではない。
けれど、少しだけ。
◇ ◇ ◇
その夜、春人は一人で寝室にいた。
アパートの予算表は、まだ開いたままだった。
彼はそれを見つめた。
そしてため息をついた。
「……馬鹿だな」
自分に言ったのか。
表計算ソフトに言ったのか。
それとも、大人になるという仕組みそのものに言ったのか。
よく分からなかった。
多分、全部だ。
スマートフォンが震えた。
葵からのメッセージだった。
葵:無事に帰ったよ。
春人はかすかに微笑んだ。
春人:よかった。
少し間を置いた。
それから入力した。
春人:少し話せる?
返事はほとんどすぐに来た。
葵:もちろん。
その直後、電話が鳴った。
春人は応答した。
「もしもし」
「もしもし」
沈黙。
それから春人はため息をついた。
「……僕、馬鹿だった」
葵が小さく笑った。
「ずいぶんな話の始め方ね」
彼はかすかに微笑んだ。
「本気だよ」
「分かってる」
春人は窓の方を見た。
「さっきのこと、ずっと考えてた」
葵は静かに聞いていた。
彼は続けた。
「葵が介助体制について聞いたとき、僕は葵が言ってもいないことを聞いた気になったんだ」
彼女は耳を傾けた。
「また誰かに、まだ準備ができてないって言われた気がした」
少し間を置く。
「僕には無理だって」
葵の声が柔らかくなった。
「春人……」
彼は息をのんだ。
「それで、身構えちゃった」
葵は、彼には見えないけれどうなずいた。
「分かるよ」
春人は表計算ソフトを見た。
「でも、どうしてあんな反応をしたのか分かるからって、葵に対して公平だったことにはならない」
彼女は黙っていた。
そして言った。
「そう言ってくれてありがとう」
彼はかすかに微笑んだ。
葵は続けた。
「私も考えてたの」
「うん?」
「心配になると、すぐに問題を探して解決しようとしちゃうことがあるの」
春人はくすっと笑った。
「職業病?」
「かもね」
彼女は少し間を置いた。
「でも、あなたを評価してるみたいには感じてほしくない」
春人は目を閉じた。
「分かってる」
「それに、あなたの監督者にもなりたくない」
彼は微笑んだ。
「よかった。彼女としてだけでも十分怖いから」
葵は笑った。
「春人!」
彼はくすっと笑った。
そして再び真面目になった。
「本当に、葵には関わってほしいんだ」
彼女は聞いていた。
「いろんなことを相談したい」
少し間を置く。
「でも、自分の人生を決めているのは自分なんだって、感じていたい」
葵は優しく答えた。
「もちろんよ」
春人は続けた。
「それに、僕が何か見落としてると思ったら、ちゃんと言ってほしい」
彼女は微笑んだ。
「本当に?」
「本当に」
春人はため息をついた。
「ただ、できれば最悪の事態から話し始めないでほしい」
葵は小さく笑った。
「分かった」
そして少し間を置いた。
「じゃあ、春人も、私が自立を疑ってるって決めつける前に、どういう意味か聞いてくれる?」
春人はうなずいた。
「それもそうだね」
沈黙。
そして――
葵が静かに言った。
「春人?」
「うん?」
「愛してる」
彼は目を閉じた。
「……僕も愛してる」
葵は続けた。
「でも、愛してるからって、いつもあなたに賛成するとは限らないからね」
春人は微笑んだ。
「分かってる」
「よろしい」
彼はくすっと笑った。
「まあ、いつも賛成してくれたら便利だけど」
葵は笑った。
「夢でも見てなさい」
◇ ◇ ◇
三日後、春人は在宅介助サービスを提供する事業所の担当者と、初めて正式な面談を行った。
面談はダイニングテーブルで行われた。
由紀と大地も同席していた。
けれど――
春人自身の希望で――
話し合いの中心となるのは彼だった。
事業所の担当者である林さんが、タブレットを持って向かいに座った。
「高橋様、本日はお時間をいただきありがとうございます」
春人は微笑んだ。
「こちらこそ、来ていただいてありがとうございます」
林さんはうなずいた。
「ご自身のアパートへのお引っ越しを検討されていると伺っています」
「はい」
「そのために必要な支援体制について、ご相談されたいということですね」
「そうです」
春人は事前にメモを用意していた。
詳細なメモだった。
非常に詳細なメモだった。
大地はそれを『小さな百科事典』と呼んでいた。
春人としては『戦略的資料作成』と呼んでほしかった。
彼はまず、一日の生活の流れを説明した。
必要な身体介助。
希望するコミュニケーションの方法。
使用している機器。
安定した人員配置の重要性。
そして、自分のケアプランを理解し、決められた手順に従える訓練された人員が必要であること。
林さんは注意深く聞いていた。
そして、いくつか質問した。
春人は答えた。
時には由紀が情報を補足した。
時には大地が実務的な点を説明した。
けれど、春人自身の希望に関する質問には――
二人とも、春人が答えるのを待ってくれた。
それこそが彼の望んでいたことだった。
やがて林さんが尋ねた。
「可能な限り、決まったスタッフによる担当をご希望ですか?」
春人はうなずいた。
「はい」
少し間を置く。
「僕にとって、同じ人が継続して担当してくれることは大切なので」
「承知しました」
「それから、僕を担当する人の選定にも関わりたいです」
林さんはうなずいた。
「その点もご相談できます」
春人は続けた。
「身体的な介助が必要だからといって、自分で判断できないと思われるのは嫌なんです」
林さんは彼を見た。
そして微笑んだ。
「承知しました」
春人はうなずいた。
「ありがとうございます」
話し合いは一時間近く続いた。
スタッフの確保状況。
必要な研修。
欠員時の代替体制。
連絡方法。
そして、引っ越し前に保険の給付承認やサービスの提供可能状況を確認する必要があること。
まだ保証されたものはなかった。
魔法のような解決策もなかった。
けれど、可能性はあった。
現実的な可能性が。
面談が終わると、林さんは事業所として提供できる可能性のあるサービスについて、書面で概要を送ると約束してくれた。
春人は礼を言った。
由紀が林さんを玄関まで見送るのを眺めた。
大地が彼を見た。
「どうだった?」
春人は息を吐いた。
「……疲れた」
大地は笑った。
「気分は?」
春人は少し考えた。
そして微笑んだ。
「自分で採用面接をしたみたい」
大地はうなずいた。
「ある意味、そうだな」
春人は彼を見た。
そして、さらに大きく微笑んだ。
「……そうだね」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、由紀はリビングの窓辺にいる春人を見つけた。
太陽が沈み始めていた。
彼女は静かに近づいた。
「隣に座ってもいい?」
春人は微笑んだ。
「もちろん」
由紀は隣に座った。
しばらく――
二人は変わっていく光を眺めていた。
やがて由紀が口を開いた。
「今日はよく頑張ったわね」
春人はくすっと笑った。
「ありがとう」
由紀は微笑んだ。
「お母さんも誇りに思ったでしょうね」
彼の表情が柔らかくなった。
「……そう思う?」
由紀はうなずいた。
「もちろん」
沈黙。
それから由紀はため息をついた。
「一つ、話してもいい?」
春人は彼女を見た。
「うん」
由紀は両手を重ねた。
「あなたのこと、嬉しく思ってるの」
彼は微笑んだ。
「知ってる」
「でも、怖くもあるのよ」
春人は静かになった。
由紀は窓の方を見た。
「何年も、ずっとあなたのことを心配してきたから」
彼は聞いていた。
「必要なものがそろっているか確認して、困らないように準備して、問題が起こる前に気づこうとして」
彼女はかすかに微笑んだ。
「それなのに今、あなたは自分の家へ引っ越そうとしてる」
春人は叔母を見た。
由紀は続けた。
「それがいいことだって分かってる」
声が少し震えた。
「でも、この心配をどうしたらいいのか、まだ分からないの」
春人は息をのんだ。
「由紀叔母さん……」
彼女は首を振った。
「ここに残ってほしいって言ってるんじゃないのよ」
春人は彼女を見た。
「本当に」
由紀は涙ぐみながら微笑んだ。
「ただ、あなたが自分の道を進むのを見守る方法を、私も覚えないといけないのね」
春人はしばらく黙った。
それから――
微笑んだ。
「……僕が消えちゃうわけじゃないって、分かってるよね?」
由紀は小さく笑った。
「分かってるわ」
「電話もするし」
「もちろん」
「遊びにも来るし」
「そうしてくれると嬉しいわ」
「それに、多分、大地叔父さんにいろいろ修理を頼むと思う」
彼女は笑った。
「間違いないわね」
春人は微笑んだ。
「由紀叔母さんは、相変わらず食べきれないほど料理を持ってくるだろうし」
由紀は目元を拭った。
「もちろんよ」
春人は彼女を見た。
「だったら、大切なものは何も失われないのかもしれないね」
由紀は静かになった。
春人は続けた。
「ただ、形が変わるだけで」
由紀は微笑んだ。
「……そうかもしれないわね」
彼は窓の方を見た。
「僕には、これからも叔母さんが必要だよ」
由紀の目に再び涙が浮かんだ。
春人は微笑んだ。
「ただ、今までと全く同じ形じゃなくなるだけ」
由紀はうなずいた。
そしてしばらく――
二人は隣同士で座っていた。
夕暮れが家を包んでいくのを眺めながら。
◇ ◇ ◇
次の週末、葵はノートを持ってやって来た。
春人に贈った、あの濃い青色のノートだった。
ただし、今回は――
題名がついていた。
最初のページに、丁寧な文字で書かれている。
『二人で築いていくもの』
春人は見つめた。
「……題名をつけたの?」
葵は微笑んだ。
「もちろん」
彼は彼女を見た。
「危険なほどロマンチックだね」
葵はにやりとした。
「私だって、たまにはね」
春人はくすっと笑った。
二人は窓辺に座った。
葵がノートを開く。
中には、カフェのナプキンに書いた約束が並んでいた。
本屋。
海。
誕生日。
ひどい映画。
春人の未来のアパートでの夕食。
そして、これから撮りたい写真。
春人は微笑んだ。
「全部写してくれたんだ」
葵はうなずいた。
「一つ残らずね」
彼は彼女を見た。
「本屋も?」
葵はため息をついた。
「ええ」
「二軒目の本屋も?」
「残念ながら」
春人は笑った。
葵は白紙のページを開いた。
「これからもっと増やせるわね」
彼は少し考えた。
そして微笑んだ。
「じゃあ……」
葵はペンを構えた。
「何?」
「外交問題を引き起こさずに意見をぶつけ合う方法を覚える」
葵は固まった。
そして吹き出した。
「春人!」
彼はにやりとした。
「本気だよ!」
葵はさらに笑った。
「ひどい!」
「でも実用的でしょ」
葵は首を振った。
それから書き込んだ。
春人は見つめた。
「……本当に書いたの?」
彼女は微笑んだ。
「もちろん」
彼は笑った。
それから少し考え込んだ。
「もう一つ、いい?」
葵はうなずいた。
「何でも」
春人は彼女を見た。
「これからも、正直でいたい」
葵は優しく微笑んだ。
「気まずいときでも?」
「特に、そういうときこそ」
葵は書き込んだ。
それから、もう一行付け加えた。
『愛することと、いつも意見が一致することは同じではないと忘れない』
春人は読んだ。
そして微笑んだ。
「……それ、いいね」
葵はうなずいた。
「でしょ?」
しばらく――
二人は書き続けた。
小さな約束。
何でもない目標。
ほかの人から見れば、取るに足らないことかもしれない。
けれど二人にとっては――
大切なことだった。
一つ一つが、選択を意味していたからだ。
これからも隣にいるという選択。
耳を傾けるという選択。
学び続けるという選択。
やがて葵はノートを閉じた。
「次は春人の番」
春人は瞬きをした。
「僕の番?」
彼女は微笑んだ。
「後ろに一ページあるの」
彼は眉を上げた。
「何のために?」
「春人が自分のために書きたいことを書くページ」
彼は少し考えた。
そして微笑んだ。
「……分かった」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、葵が帰ったあと、春人はもう一度ノートを開いた。
最後のページを開く。
白紙だった。
しばらく見つめた。
それから、そこに残したい言葉を整理するため、パソコンに向かって音声入力を始めた。
『忘れたくないことが一つある』
少し間を置いた。
『僕を愛することが、すべてを背負うことだと、葵には思ってほしくない』
春人は窓の方を見た。
『疲れてもいいんだって、知っていてほしい』
『つらい日があってもいい』
『僕と意見が違ってもいい』
『葵だって、誰かに助けを求めていい』
彼はかすかに微笑んだ。
『僕が自分らしくいられるのと同じくらい、葵も安心して自分らしくいられる人生を築きたい』
少し間を置く。
『そして、愛されるために、どちらも完璧である必要なんてないと忘れたくない』
彼は音声入力を止めた。
文章を読んだ。
そして微笑んだ。
「……うん」
文章を保存した。
いつか、これをどうやってノートに残すか決めよう。
今は――
自分が何を伝えたいのか分かっただけで十分だった。
スマートフォンが震えた。
葵:無事に帰ったよ。
春人は微笑んだ。
春人:よかった。
葵:ノートに何か書いた?
春人:かもしれない。
葵:怪しい。
春人:非常に。
葵:教えてくれる?
春人:いつかね。
葵:ずるい。
春人:愛とは謎に満ちたものなのだよ。
葵:本当に変な人。
春人:それでも僕を愛してるでしょ。
葵:残念ながらね。
春人は笑った。
そして、またメッセージが届いた。
葵:でも、真面目な話。
春人:うん?
葵:ちゃんと話し合えてよかった。
彼は優しく微笑んだ。
春人:僕も。
葵:意見が違うことを怖がりたくないの。
春人:僕もだよ。
葵:よかった。
少し間が空いた。
葵:それと、春人のこと、誇りに思ってる。
春人は画面を見つめた。
春人:何で?
葵:自分の未来に真剣に向き合ってること。
葵:必要なものを、ちゃんと自分の言葉で伝えてること。
葵:諦めないこと。
春人はパソコンの横に置かれたアパートの間取り図を見た。
それから母の手紙。
そしてノート。
彼は微笑んだ。
春人:ありがとう。
葵:愛してる。
春人:僕も愛してるよ。
葵:おやすみ、彼氏くん。
春人:おやすみ、彼女さん。
彼はスマートフォンをノートの横に置いた。
部屋は静かだった。
窓の外では、街の明かりがきらめいていた。
アパートは、まだ自分のものではない。
介助体制も、まだ決まっていない。
現地調査が残っている。
承認も。
書類も。
費用も。
そして、答えの出ていない問題が山ほどあった。
けれど春人はもう、それらを夢が不可能である証拠だとは思わなかった。
ただ、必要な過程なのだ。
難しい過程。
大切な過程。
忍耐が必要な過程。
そして、誰かの助けが必要な過程。
彼はノートを見た。
『二人で築いていくもの』
それから、母が残してくれた手紙を見た。
そして最後に――
葵と一緒に写った写真を見た。
彼は微笑んだ。
なぜなら、少しずつ分かり始めていたからだ。
家とは、何もかもが自分の思いどおりに整えられた場所というだけではない。
そして自立とは、ほかの人がいなくなることではない。
自分の人生について、意味のある選択をする自由を持つことだ。
どんな支援が必要なのか、自分で決めること。
誰を信頼するのか、自分で選ぶこと。
自分自身を失わずに、誰かを愛すること。
そして、自分の幸せのすべてを相手に背負わせずに、愛を受け入れること。
春人は窓の方を見た。
そして、ささやいた。
「……少しずつ近づいてるよ、母さん」
彼は微笑んだ。
「ゆっくりだけど」
少し間を置く。
「でも、ちゃんと近づいてる」
そして、何でもない静かな夜の中で――
未来が少し近くなったように感じられた。
すべての問題が解決したからではない。
自分自身を失わずに、それらの問題と向き合う方法を学び始めたからだ。
そして、彼を愛する人たちもまた、何かを学び始めていた。
彼の隣に立つ方法を。
彼の進む道を、ふさぐことなく。




