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第47話 昨日の思い出と明日の約束の狭間で見つけた夢

朝は一本の電話から始まった。

それは、高橋春人にとって、すでに嫌な予感しかしない出来事だった。

別に電話が嫌いなわけではない。

いや――

正確には、少し違う。

突然かかってくる電話が嫌いなのだ。

特に、朝のコーヒーを飲み終える前の電話。

そして何より――

不動産会社からの電話だった場合は。

机の横に置いていたスマートフォンが震えた。

春人は画面をちらりと見た。

そして固まった。

「あ」

画面を見つめる。

「……ああ」

廊下から由紀の声が聞こえた。

「春人? どうかしたの?」

彼はドアの方を向いた。

「場合による!」

「場合によるって?」

「まだ判断してない!」

由紀が入口に姿を現した。

「何があったの?」

春人はスマートフォンを示した。

「不動産会社」

由紀の表情が変わった。

「あら!」

「そういうこと」

「早く出なさいよ!」

「出るつもりだったよ!」

「じゃあ、どうしてじっと見てるの?」

春人はため息をついた。

「建築構造による精神的な失望に備えて、心の準備をしてるんだ」

由紀は腕を組んだ。

「春人」

「はい?」

「電話に出なさい」

「はい、かしこまりました」

彼は通話に応じた。

「もしもし、高橋です」

「おはようございます、高橋様。不動産会社の中村です」

「おはようございます」

「本日は、ご希望の条件に合いそうな別の物件が見つかりましたので、ご連絡いたしました」

春人は車椅子の上で少し姿勢を正した。

「本当ですか?」

「はい。比較的新しい建物の一階にあるお部屋です。入口には段差がなく、室内の扉も以前の物件より幅が広くなっています」

胸の鼓動が速くなった。

「どのくらいの幅ですか?」

担当者が寸法を伝えた。

春人は注意深く聞いた。

そして――

瞬きをした。

「それなら、かなり広いですね」

「私どももそう思います」

「浴室はどうでしょうか?」

「実は、そこがこの物件の大きな長所なんです」

春人は固まった。

「……すみません、何と?」

「浴室はバリアフリーを意識した設計になっておりまして、入口も広く、内部にも比較的余裕があります」

数秒間――

春人は何も言えなかった。

担当者は続けた。

「もちろん、お使いの車椅子や医療機器などに対応できるかどうかは、実際に確認する必要がありますが」

春人は息をのんだ。

「そうですね」

「それでも、一度ご覧いただく価値はあると思います」

彼は由紀を見た。

叔母は期待に満ちた表情でこちらを見つめていた。

春人は微笑んだ。

「……いつ内見できますか?」

◇ ◇ ◇

二十分後、春人のパソコンには新しいアパートの間取り図が表示されていた。

そして、ここ数日で初めて――

彼は自分の人生を台無しにしようとしているような出入口を眺めずに済んでいた。

部屋は二つ。

十分な広さの居間。

居間とつながったキッチン。

そして――

何より重要なのは――

人間が時々そこへ入る必要があるという事実を理解した人間によって設計されたらしい浴室だった。

「素晴らしい」

春人は間取り図を見つめた。

「本物の出入口だ」

由紀が肩越しにのぞき込んだ。

「春人」

「通行できる出入口」

「春人」

「人類の文明は、ついにここまで進歩したんだね」

由紀は笑った。

「本当に、あなたって子は」

「それでも、叔母さんの一番お気に入りの甥っ子でしょ」

「甥っ子はあなた一人だけよ」

「無敗記録を更新中だね」

由紀は首を振った。

それから、間取りをもう少し詳しく眺めた。

「あら、いいじゃない」

春人はうなずいた。

「うん」

「二つ目の部屋も役に立ちそうね」

「そうだね」

彼はその部屋を見つめた。

設備や必要な物品を置く場所として使えるかもしれない。

介助者が勤務中に利用するスペースにもできるだろう。

もちろん、最終的な介助体制によって変わるけれど。

そして居間には――

机を置こう。

窓の近くに。

本棚も置ける。

三つくらい。

いや、四つ。

思い切って五つでもいいかもしれない。

由紀が彼を見た。

「本棚のこと考えてるでしょう?」

春人は固まった。

「……考えてないよ」

「春人」

「少しだけ」

由紀は笑った。

「いくつ?」

「国家機密です」

「五つ?」

彼は叔母を見つめた。

「どうして分かるの?」

「二十二年間の経験よ」

春人はため息をついた。

「恐ろしい」

由紀は微笑んだ。

そして、その表情が柔らかくなった。

「楽しみ?」

春人は間取り図を見た。

少しためらった。

「……楽しみにしたい」

由紀はうなずいた。

「でも、またがっかりするのが怖いのね」

彼はかすかに微笑んだ。

「うん」

由紀は彼の肩にそっと手を置いた。

「それは当然よ」

春人は叔母を見た。

「でも、楽しみにしていないふりをする必要はないのよ」

彼は黙った。

由紀は続けた。

「もし今回のアパートが駄目だったとしても、期待したことが間違いだったわけじゃないんだから」

春人は画面を見つめた。

そして微笑んだ。

「……ありがとう、由紀叔母さん」

彼女は春人の頭に優しくキスをした。

「どういたしまして」

春人はため息をついた。

「さて、本棚の話に戻るけど――」

「春人!」

◇ ◇ ◇

内見は翌日の午後に決まった。

残念ながら――

それは春人に、起こり得るあらゆる問題を想像するための約二十六時間を与えることになった。

そして同時に――

水野葵が、そんなことはやめなさいと彼に言い続けるための二十六時間でもあった。

葵:新しいアパートが見つかったの?

春人:うん。

葵:前のところよりバリアフリーなの?

春人:間取り図を見る限りはね。

葵:すごいじゃない!

春人:すごい可能性がある、だね。

葵:春人。

春人:はい?

葵:またやってる。

春人:何を?

葵:何も起きてないのに、先にがっかりする準備をすること。

春人は画面を見つめた。

そして入力した。

春人:戦略的悲観主義と呼んでほしい。

葵:面倒くさいって言うのよ、そういうの。

春人は笑った。

春人:なんて頼もしい彼女なんだ。

葵:ものすごく頼もしい彼女よ。

葵:それと、写真を見せてね。

春人:アパートの?

葵:違うわよ。ついに幅の広い出入口を発見した謎の建築家の写真。

春人は吹き出した。

「……本当にひどいなあ」

またメッセージが届いた。

葵:でも、真面目な話。よかったね。

春人は微笑んだ。

春人:ありがとう。

葵:どうなっても、次にどうするか一緒に考えよう。

彼は手を止めた。

もう一度メッセージを読んだ。

そして入力した。

春人:一緒に?

葵:そう。一緒に。

葵:まさか、私の知らない彼女がもう一人いるの?

春人:とんでもない。一人でも手に負えないのに。

葵:ちょっと!?

春人はにやりとした。

春人:愛してるよ。

葵:そう言えば許されると思わないでね。

春人:試してみる価値はあった。

◇ ◇ ◇

翌日の午後、春人は由紀と大地と一緒にアパートへ到着した。

建物は比較的静かな住宅街に建っていた。

近くには小さなコンビニがあった。

数区画先には薬局もある。

バス停もそれほど遠くなかったが、利用する路線や車両が車椅子に対応しているかは確認する必要があった。

建物の入口は歩道と同じ高さだった。

階段はない。

仮設の木製スロープもない。

車椅子利用者を苦しめるためだけに設置されたような、謎の金属製の段差もない。

春人は入口の前で止まった。

そして見つめた。

大地が彼を見た。

「どうだ?」

春人は微笑んだ。

「……怪しい」

由紀は笑った。

「何が?」

「まともな建築設計」

大地はくすっと笑った。

「それは新しいな」

不動産会社の担当者が入口で迎えてくれた。

「高橋様でしょうか?」

「はい」

「中村と申します。本日はよろしくお願いいたします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

挨拶を終えると、中村は三人を中へ案内した。

廊下は広かった。

部屋自体は一階にあったが、共用設備へ行く際に利用する可能性のあるエレベーターも、十分な広さがあるようだった。

やがて部屋の前に到着した。

中村が鍵を開けた。

「こちらです」

ドアが開いた。

春人は中を見た。

そして――

一瞬、冗談を言うことすら忘れた。

明るい部屋だった。

午後の日差しが床に広がっていた。

居間の向こうにはコンパクトなキッチン。

窓からは、小さな緑のある中庭が見えた。

そして室内は――

本当に広く感じられた。

由紀は微笑んだ。

「あら、春人」

大地も感心したようにうなずいた。

「悪くないな」

春人はゆっくりと車椅子を進めた。

空間を確認する。

方向転換できる場所。

扉の幅。

コンセントの位置。

見た目だけでバリアフリーかどうかを判断してはいけないことは、よく分かっていた。

広く見える部屋でも、電動車椅子と医療機器と家具、そして介助者が同時に入れば、途端に狭くなることがある。

それでも――

期待できそうだった。

とても。

中村は浴室へ案内した。

春人の胃がきゅっと縮んだ。

来た。

運命の瞬間だ。

ドアが開いた。

春人は見つめた。

それから担当者を見た。

「……大げさじゃなかったんですね」

中村は微笑んだ。

「はい」

浴室の入口は、以前のアパートより明らかに広かった。

内部にも、車椅子で動くための余裕があった。

補助設備も設置されていたが、その位置が自分の身体状況や介助方法に適しているかどうかは、詳しく確認する必要があった。

春人は慎重に見て回った。

そして少しずつ――

笑顔が戻ってきた。

「ここはずっといいですね」

由紀は嬉しそうだった。

大地もうなずいた。

「確かにな」

初めて――

春人はここで暮らす自分を想像した。

ただ訪れるのではなく。

ただ見学するのでもなく。

暮らすのだ。

寝室で目を覚ます。

窓際で仕事をする。

居間で夕食を食べる。

葵を招く。

自分のものと呼べる、何でもない日常を作る。

そのとき――

中村が軽く咳払いをした。

「ただ、一点ご相談しておきたいことがございます」

春人は目を閉じた。

「……やっぱりありましたか」

◇ ◇ ◇

問題は浴室ではなかった。

入口でもない。

廊下の幅でもない。

賃貸契約だった。

より正確には――

建物の管理会社が、壁や電気設備に関わる改修や、一部の固定設備の設置について、事前承認を求めていることだった。

春人は中村の説明を聞いた。

「持ち運び可能な機器については、基本的に問題ないと思われますが、具体的な使用内容を確認する必要があります」

春人はうなずいた。

「コンセントを増設する必要がある場合は?」

「管理会社の承認が必要になります」

「しっかり固定しなければならない設備を設置する場合は?」

「そちらも管理会社と相談することになります」

春人は考えた。

完全に断られたわけではない。

けれど、保証されたわけでもない。

彼は部屋を見回した。

アパートは、まだ十分に魅力的だった。

しかし、バリアフリーとは玄関を通れることだけではない。

実際に安全に暮らせる場所でなければならない。

車椅子のための空間。

医療機器を置く場所。

安定した電源。

そして、自分を支援してくれる人たちが無理なく働ける環境。

見た目だけ立派でも、必要なものを設置した瞬間に生活できなくなるようなアパートを借りるつもりはなかった。

「必要な機器や改修内容を一覧にして、管理会社に提出することはできますか?」

中村はうなずいた。

「もちろんです」

「契約を決める前に、回答をいただけますか?」

「はい」

春人は微笑んだ。

「分かりました」

大地が彼を見た。

「よく考えてるな」

春人は眉を上げた。

「僕だって、たまには頭を使うんだよ」

大地は笑った。

「たまには?」

「特別な日にね」

由紀は首を振った。

けれど、微笑んでいた。

そして春人も――

問題が残っているにもかかわらず――

笑っていた。

なぜなら今回は、閉ざされた扉のようには感じなかったからだ。

答えを探せるかもしれない、一つの問題だった。

◇ ◇ ◇

その日の夕方、葵は駅近くの小さなカフェで彼を待っていた。

彼女はすぐに春人を見つけた。

そして微笑んだ。

春人も微笑み返した。

どうやら――

葵を見るたびに笑顔になることが、すっかり習慣になりつつあるらしい。

「やっほー、いい男」

春人は止まった。

「……何て?」

葵は笑った。

「こんにちは、いい男さん」

彼は大げさに周囲を見回した。

「誰に話しかけてるの?」

彼女は目を回した。

「あなたよ」

「本当に?」

「残念ながらね」

春人はにやりとした。

「それはどうも、美人さん」

今度は葵が固まった。

頬が赤くなった。

春人は見つめた。

そして勝ち誇ったように微笑んだ。

「……おや」

葵は目を細めた。

「やめて」

「弱点を発見した」

「春人」

「これは致命的な弱点だ」

「それ以上言ったら帰るわよ」

彼は笑った。

「分かった、分かった」

葵は向かいに座った。

「それで?」

春人は眉を上げた。

「それで?」

「アパートよ!」

「ああ、そうだった」

彼女はにらんだ。

「春人!」

彼は笑った。

「分かったって!」

それから、すべてを話した。

入口。

居間。

浴室。

中庭。

二つ目の部屋。

そして、管理会社の承認が必要なこと。

葵は注意深く聞いていた。

「それなら期待できそうね」

春人はうなずいた。

「うん」

「前のアパートより?」

「ずっとね」

彼女は微笑んだ。

「よかった」

春人は飲み物へ目を落とした。

「でも、まだ期待しすぎないようにしたい」

葵はうなずいた。

「それはそうね」

春人は驚いた顔をした。

「説教はなし?」

彼女は眉を上げた。

「してほしいの?」

「絶対に嫌だ」

「じゃあ文句を言わない」

春人は笑った。

葵も微笑んだ。

そのとき――

テーブルに置かれていた彼女のスマートフォンの画面が光った。

春人はちらりと見た。

そして固まった。

なぜなら画面には――

一枚の写真が表示されていたからだ。

二人の写真。

川沿いで撮った、あの写真。

笑っている葵。

彼女を見つめている春人。

その下には車椅子も写っている。

そして二人とも――

幸せそうだった。

春人は瞬きをした。

「……葵」

彼女は顔を上げた。

「ん?」

「それって……」

葵は彼の視線を追った。

そして微笑んだ。

「ああ」

春人は見つめた。

「……待ち受けにしたの?」

葵はうなずいた。

「うん」

彼は彼女を見た。

「本当に?」

葵は首を傾げた。

「どうしてしちゃいけないの?」

春人はすぐには答えられなかった。

葵の笑顔が柔らかくなった。

「この写真、見るのが好きなの」

彼は息をのんだ。

「……そっか」

彼女は小さく笑った。

「顔、赤いわよ」

「赤くない」

「ものすごく赤い」

春人はうなだれた。

「……これは感情を利用した攻撃だ」

葵はにやりとした。

「攻撃成功ね」

春人はもう一度写真を見た。

そして微笑んだ。

「……嬉しいよ」

葵はうなずいた。

「私も」

◇ ◇ ◇

残念ながら――

その穏やかな時間は、約十二秒しか続かなかった。

なぜなら葵の背後から、突然声が上がったからだ。

「ちょっと、うそでしょ!」

葵は固まった。

春人は顔を上げた。

テーブルの横に立っていたのは、藤本美香だった。

目を大きく見開いている。

その笑顔は――

危険だった。

非常に危険だった。

葵は目を閉じた。

「……嫌な予感」

美香はスマートフォンを指さした。

「それ、待ち受けなの!?」

葵はため息をついた。

「美香」

「彼氏の写真!?」

春人は瞬きをした。

そして礼儀正しく微笑んだ。

「こんばんは、美香さん」

美香は彼の方を向いた。

「春人くん!」

「こんばんは」

彼女は両手を合わせた。

「もう、かわいすぎる!」

春人は見つめた。

「……ありがとうございます?」

葵は顔を覆った。

美香は二人を交互に見た。

それから、もう一度スマートフォンを見る。

「ああ、最高!」

葵はうめいた。

「お願いだからやめて」

「見てよ、二人とも!」

「美香」

「初めてのカップル写真!」

「美香!」

「しかも待ち受けにしてるなんて!」

春人は笑い始めた。

葵は彼を指さした。

「笑ってないで止めてよ!」

彼はにやりとした。

「ごめん。すごく興味深い光景で」

美香が身を乗り出した。

「ねえ、春人くん」

彼は彼女を見た。

「はい?」

「葵のスマホの顔になった気分は?」

春人は少し考えた。

そして微笑んだ。

「歴史的偉業を達成した気分です」

美香は吹き出した。

葵は彼を見つめた。

「全然助けになってない!」

春人は肩をすくめる代わりに、いたずらっぽく笑った。

「いつものことだよ」

美香はさらに笑った。

それから葵を見た。

「本当に、すっかり恋してるのね」

葵の頬が赤くなった。

「うるさい」

美香は微笑んだ。

「否定しないんだ」

葵はうめいた。

春人は彼女を見た。

そして――

静かに微笑んだ。

「……僕も否定しないよ」

葵は彼の方を向いた。

視線が合った。

一瞬、からかいの声が遠のいた。

そして葵も微笑み返した。

美香は二人を交互に見た。

それから胸に手を当てた。

「ああ、もう。甘すぎて胸焼けしそう」

春人は笑った。

葵は彼女に紙ナプキンを投げつけた。

◇ ◇ ◇

翌朝、由紀は古い収納棚を整理していた。

春人も、何を残すか決めるのを手伝っていた。

もっとも、彼の仕事の大半は、品物を眺めて皮肉を言うことだったのだが。

「それ、何?」

由紀が古い陶器の花瓶を持ち上げた。

「あなたのお母さんのよ」

春人はかすかに微笑んだ。

「ああ」

「これ、大好きだったの」

「本当に?」

由紀はうなずいた。

「昔、旅行先で買ったのよ」

春人は花瓶を見つめた。

小さな花瓶だった。

青と白の模様。

底の近くが少し欠けている。

特別に高価そうなものではなかった。

それなのに――

なぜか、とても大切なものに思えた。

由紀は慎重に花瓶を脇へ置いた。

そして再び棚に手を伸ばした。

その手が止まった。

春人は気づいた。

「……由紀叔母さん?」

すぐには返事がなかった。

代わりに、小さな木箱を取り出した。

古い箱だった。

角がすり減っている。

色あせたリボンが結ばれていた。

由紀はじっと見つめた。

「……あら」

春人は首を傾げた。

「何?」

由紀はゆっくり座った。

「これ、何年も見てなかったわ」

春人は彼女を見ていた。

由紀がリボンをほどく。

中には写真が入っていた。

小さな思い出の品。

何枚かの手書きのメモ。

そして――

一通の封筒。

由紀はそれを持ち上げた。

表情が変わった。

「……春人」

その声に、彼は少し身を正した。

「何?」

由紀は彼を見た。

それから封筒を見た。

「お母さんが書いたものよ」

春人の胸が締めつけられた。

「……え?」

由紀は封筒を裏返した。

表には、見覚えのある筆跡でこう書かれていた。

『春人へ――この言葉の意味が分かるくらい大人になったときに』

春人は一瞬、息を忘れたような気がした。

文字を見つめた。

母の筆跡。

すぐに分かった。

少し丸みを帯びた文字。

自分の名前の書き方。

最後の文字の下にある、小さな癖。

母の手書きの文字を見るのは、本当に久しぶりだった。

「……母さん?」

由紀の目に涙が浮かんだ。

「時々、手紙を書いていたのは覚えてるの」

彼女は息をのんだ。

「でも、これがまだ残っていたなんて」

春人は見つめた。

数秒間――

二人とも何も言わなかった。

やがて由紀は、封筒を春人から見える位置にそっと置いた。

「開けて読もうか?」

春人はためらった。

封筒を見た。

それから叔母を見た。

「……うん」

◇ ◇ ◇

中の便箋は少し黄ばんでいた。

けれど、文字ははっきり読めた。

由紀は慎重に紙を広げた。

春人はその動きを見つめた。

そして由紀は読み始めた。

「大好きな春人へ」

声が震えた。

少し間を置いた。

そして続けた。

「あなたがこの手紙を読んでいる頃には、私がずっと信じていたとおりの、素敵な青年に成長していることを願っています」

春人は息をのんだ。

由紀は続けた。

「この手紙を見つけるとき、あなたが何歳なのかは分かりません。十八歳かもしれないし、二十歳かもしれない。もっと大人になっているかもしれませんね」

由紀の顔に、かすかな笑みが浮かんだ。

「でも、何歳になっていても、これだけは知っていてほしいの。私はあなたを誇りに思っています」

春人は便箋を見つめた。

由紀の声が柔らかくなった。

「何かを乗り越えたからではありません」

「何か特別なことを成し遂げたからでもありません」

「まして、誰かに何かを証明したからでもありません」

由紀の頬を涙が伝った。

「あなたが私の息子だからです」

春人は目を閉じた。

一瞬――

部屋がとても遠くに感じられた。

由紀は続けた。

「これから先、あなたの人生はこうあるべきだと言う人たちに出会うでしょう」

「善意で言う人もいると思います」

「あなたのことが心配で、そう言う人もいるでしょう」

「そして、あなたのことを理解できない人もいるかもしれません」

春人は耳を傾けた。

「でも、どうか忘れないでください。あなたの人生は、あなた自身のものです」

「あなたの選択には意味があります」

「あなたの夢には価値があります」

「あなたの幸せは、大切なものです」

由紀は声を落ち着かせるために少し休んだ。

春人は叔母を見た。

彼女は涙の中で微笑んだ。

そして読み続けた。

「あなたが、やりがいを感じられる仕事に出会えますように」

「お腹が痛くなるほど一緒に笑える友達に恵まれますように」

「安心して、心地よく暮らせる家を持てますように」

春人の目が少し大きくなった。

家。

母は家のことを書いていた。

彼が自分のアパートを探し始める、ずっと前に。

由紀は続けた。

「そして、いつか誰かを好きになったら……」

声が詰まった。

春人は顔を上げた。

由紀は一度息を吸った。

そして続きを読んだ。

「あなた自身を見てくれる人に出会ってほしいと思います」

「車椅子だけではなく」

「助けが必要なことだけでもなく」

「あなた自身を」

「面白くて、頑固で、思いやりがあって、いつも千個くらい質問をして、なかなかおしゃべりをやめない、あの男の子を」

春人は涙を浮かべながら笑った。

「……なんだか聞き覚えがあるな」

由紀も微笑んだ。

そして続けた。

「その人が、あなたを愛されていると感じさせてくれたら嬉しいです」

「でも、愛されるために自分を別の誰かに変える必要はないということも、忘れないでください」

「あなたには、優しくされる価値があります」

「尊重される価値があります」

「そして、お互いが自分らしくいられる関係を築く価値があります」

春人は窓の方を見た。

葵の顔が浮かんだ。

彼女の笑顔。

笑い声。

話を聞いてくれる姿。

彼の夢を、決して馬鹿げたものとして扱わないところ。

由紀は続けた。

「何よりも、春人。どうか、自分の人生がほかの人と違うからといって、小さな人生なのだと思わないでください」

「つらい日もあるでしょう」

「がっかりすることもあるでしょう」

「望んだとおりにならないこともあるでしょう」

「でも、それであなたの物語が終わるわけではありません」

春人は視線を落とした。

「あなたの物語は、あなたのものです」

「だから、どうか書き続けてください」

由紀の声が震えた。

最後の数行は短かった。

「そして、人生があなたをどこへ連れていっても、これだけは覚えていてください」

「あなたは、生まれたその瞬間から愛されていました」

「そして、これからもずっと愛されています」

「愛を込めて。母さんより」

沈黙。

部屋は完全に静まり返った。

春人は手紙を見つめた。

そして――

頬を一筋の涙が伝った。

拭おうとはしなかった。

いや、拭えなかった。

ただ――

母が残してくれた言葉を見つめていた。

何年も前に書かれた言葉。

それなのに、今の自分が必要としていることを、すべて知っていたかのような言葉。

由紀は彼の肩にそっと手を置いた。

「……春人?」

彼は話そうとした。

けれど、声が出なかった。

そして――

小さく笑った。

震えるような、泣き笑いだった。

「……分かってたんだね」

由紀は彼を見た。

「何が?」

春人は涙を浮かべたまま微笑んだ。

「僕が頑固になるって」

由紀は静かに笑った。

「ああ、春人」

彼はもう一度手紙を見た。

「……それに、自分の家を欲しがることも」

由紀はうなずいた。

「お母さんはいつだって、あなたが自分で選べる未来を持つことを願っていたのよ」

春人は息をのんだ。

長い間――

ただそこに座っていた。

そして、ささやいた。

「……会いたいな」

由紀の顔が涙でゆがんだ。

「うん」

春人は叔母を見た。

「母さんに、すごく会いたい」

由紀は彼に負担がかからないよう気をつけながら、優しく抱きしめた。

しばらく――

二人とも何も言おうとしなかった。

なぜなら、ときには――

悲しみを小さくしてくれる言葉など存在しないからだ。

ただ、その悲しみを抱える人の隣にいてくれる誰かが必要なのだ。

◇ ◇ ◇

その日の午後、春人は葵に電話をかけた。

彼女はほとんどすぐに出た。

「もしもし」

「もしもし」

葵は少し黙った。

彼の声に、何かを感じ取ったのだ。

「……春人?」

彼はかすかに微笑んだ。

「うん?」

「大丈夫?」

春人は机に置かれた手紙を見た。

「……多分ね」

葵は静かになった。

「何かあったの?」

春人は息をのんだ。

「由紀叔母さんが、あるものを見つけたんだ」

「何?」

彼はためらった。

「……母さんからの手紙」

沈黙。

そして葵が静かに言った。

「……春人」

彼は筆跡を見つめた。

「僕に宛てて書いてくれたんだ」

葵は耳を傾けていた。

「何年も前に」

少し間を置く。

「亡くなる前に」

葵の声が柔らかくなった。

「よかったら、聞かせてくれる?」

春人はかすかに微笑んだ。

「うん」

そして――

彼はすべてを話した。

木箱のこと。

封筒のこと。

母の筆跡。

書かれていた言葉。

母が自分に抱いていた願い。

未来。

自立。

幸せ。

そして――

愛。

葵はずっと静かに聞いていた。

話し終えても、すぐには返事をしなかった。

やがて――

柔らかな声で言った。

「……素敵なお母さんだったのね」

春人は目を閉じた。

「……うん」

葵は少し間を置いた。

「私のこと、気に入ってくれたかな?」

春人は目を開けた。

そして小さく笑った。

「……絶対にね」

葵は微笑んだ。

「本当に?」

「間違いないよ」

彼はくすっと笑った。

「多分、三時間くらい質問攻めにされたと思う」

葵は笑った。

「それは怖いわね」

「怖いよ」

彼は微笑んだ。

「でも、きっと葵のことを大好きになったと思う」

葵は静かになった。

春人は続けた。

「母さんは、いつだって僕に幸せになってほしかったんだ」

手紙を見た。

「そして、葵は僕を幸せにしてくれる」

数秒間――

葵は何も言わなかった。

やがて電話越しに声が聞こえた。

「……春人」

彼は微笑んだ。

「うん?」

「私も、お母さんに会ってみたかった」

春人は息をのんだ。

「……僕も、会わせたかったよ」

◇ ◇ ◇

二日後、春人と葵は小さなカフェに座っていた。

またしても、カフェだった。

どうやら――

二人の交際は、東京の喫茶店の質を調査する長期研究になりつつあるらしい。

葵は紅茶をかき混ぜた。

春人はデザートメニューを眺めていた。

彼女は眉を上げた。

「また経済的な大惨事を起こすつもり?」

春人は心外そうな顔をした。

「本は投資だよ」

「ケーキの話をしてるの」

「ああ」

少し間を置いた。

「それなら、うん」

葵は笑った。

二人は飲み物を注文した。

そして、かなりの交渉の末――

ケーキを一切れ。

春人は、その所有権は法的に自分にあると主張した。

葵は異議を唱えた。

当然だった。

しばらくすると、葵がバッグからペンを取り出した。

春人はそれを見た。

「……何それ?」

「ペンよ」

「ありがとうございます、教授」

「どういたしまして」

彼女は紙ナプキンを一枚取った。

春人は眉を上げた。

「強盗の計画でも立てるの?」

葵は微笑んだ。

「もっといいことよ」

「不吉だなあ」

彼女はナプキンを二人の間に置いた。

「リストを作りましょう」

春人は瞬きをした。

「リスト?」

「うん」

「何の?」

葵は微笑んだ。

「二人でやりたいこと」

春人は見つめた。

そしてゆっくり微笑んだ。

「……本当に?」

「本当よ」

彼はナプキンを見た。

「デートの予定とか?」

「デートでも、旅行でも、普通のことでも。何でもいいの」

春人は少し考えた。

そしてにやりとした。

「分かった」

葵は見出しを書いた。

『二人でやりたいこと』

彼女は彼を見た。

「一つ目は?」

春人は考えた。

そして微笑んだ。

「本屋に行く」

葵は見つめた。

「春人」

「何?」

「それ、もうやってるでしょ」

「だからいいんだよ。実績がある」

彼女はため息をついた。

「はいはい」

書き込んだ。

「次は?」

春人はにやりとした。

「別の本屋に行く」

葵はペンを彼に向けた。

「調子に乗らないで」

彼は吹き出した。

「分かった、分かった!」

葵は微笑んだ。

「違うことにして」

春人は少し考えた。

それから言った。

「二人とも行ったことのない場所に行く」

葵の表情が柔らかくなった。

「いいわね」

彼女は書き込んだ。

そして自分の案を加えた。

「お互いの誕生日を一緒に祝う」

春人は微笑んだ。

「絶対にね」

「旅行に行く」

「車椅子で行ける場所に」

「もちろん」

「海を見に行く」

葵は顔を上げた。

「海?」

春人はうなずいた。

「うん」

彼はかすかに微笑んだ。

「しばらく行ってないから」

葵は書き込んだ。

「じゃあ、行ける場所を探しましょう」

春人は微笑んだ。

「いいね」

二人は続けた。

美術館へ行く。

ひどい映画を観て、そのあと一緒に文句を言う。

一緒に料理に挑戦する。

紅葉のきれいな場所へ行く。

クリスマスを祝う。

午後を丸ごと、何もしないで過ごす。

葵は最後の項目を見た。

「それ、いいわね」

春人はうなずいた。

「すごくね」

彼女は微笑んだ。

「ただ一緒にいるだけ」

「そういうこと」

しばらく――

二人は書き続けた。

ナプキンは少しずつ、小さな夢で埋まっていった。

何でもない夢。

少し大きな夢。

馬鹿げた夢。

そして――

思いのほか大切な夢。

やがて葵が春人を見た。

「次、春人の番」

彼は考えた。

笑顔が柔らかくなった。

「……自分のアパートで夕食を食べる」

葵のペンが止まった。

彼女は顔を上げた。

春人は微笑んだ。

「葵と一緒に」

しばらく――

彼女は何も言わなかった。

そして――

微笑んだ。

ゆっくり、丁寧に書き込んだ。

『春人のアパートで一緒に夕食を食べる』

春人は彼女を見つめた。

葵はナプキンを見た。

そして、もう一行付け加えた。

『写真に残したくなる思い出を、もっとたくさん作る』

春人は微笑んだ。

「……それ、いいね」

葵は彼を見た。

「私もそう思う」

◇ ◇ ◇

書き終える頃には、ナプキンはほとんど文字で埋まっていた。

春人はそれを見つめた。

そして笑った。

「……もっと大きなナプキンが必要かもね」

葵は微笑んだ。

「そうね」

彼はリストを眺めた。

たくさんの小さなこと。

たくさんの可能性。

すぐに実現するものもあるだろう。

何か月もかかるものもあるかもしれない。

中には――

実現しないものもあるかもしれない。

でも――

大切なのは、そこではなかった。

二人でやってみたいと思うこと。

それが大切だった。

葵はナプキンを丁寧に折りたたんだ。

春人は眉を上げた。

「持って帰るの?」

彼女はうなずいた。

「もちろん」

彼は微笑んだ。

「どうして?」

葵は彼を見た。

「いつかこれを見返して、どれだけ実現できたか確かめたいから」

春人の表情が柔らかくなった。

「……素敵だね」

彼女は微笑んだ。

「それから、また新しいリストを作るの」

彼は笑った。

「終わりなきナプキンの連鎖だ」

「そのとおり」

春人は首を振った。

「恋愛って、本当にお金がかかるんだね」

葵は笑った。

そして――

テーブル越しに手を伸ばし、彼の手にそっと触れた。

春人は彼女を見た。

葵の笑顔が柔らかくなった。

「ねえ」

「うん?」

「こうしていられて、よかった」

彼は瞬きをした。

「リストを作れて?」

葵は小さく笑った。

「違うわよ、お馬鹿さん」

彼女は春人の目を見た。

「私たちのこと」

春人の笑顔が、もっと穏やかなものに変わった。

「……僕も」

葵は彼の手を優しく握った。

そしてしばらく――

二人は何も話さなかった。

言葉は必要なかった。

◇ ◇ ◇

その夜、春人は再び日記を開いた。

パソコンの横には、母の手紙が置かれていた。

画面には、葵と一緒に撮った写真が表示されていた。

そして葵のバッグのどこかには――

まだ声に出して交わしたわけではない約束でいっぱいの、折りたたまれたナプキンが入っていた。

春人は手紙を見た。

そして音声入力を始めた。

「母さんへ」

少し間を置いた。

「今日、僕は一つ分かった気がする」

彼はかすかに微笑んだ。

「母さんはいつも、僕が生きる価値を証明する必要なんてないって教えてくれてたんだね」

写真を見た。

「でも僕は、長い間、それを証明しようとしていたのかもしれない」

一拍。

「自立できることを証明しようとして」

「愛されることができるって証明しようとして」

「自分の未来にも意味があるって証明しようとして」

彼は手紙を見た。

「でも、母さんの言葉を読んだら分かった」

声が柔らかくなった。

「母さんは、そんなことを証明してほしいなんて、一度も言ってなかったんだ」

「ただ、生きてほしかったんだね」

少し間を置く。

「自分で選んで」

「誰かを愛して」

「幸せになって」

春人は微笑んだ。

「やっと少し分かってきた気がする」

写真へ目を向けた。

「今日、葵とリストを作ったんだ」

彼はくすっと笑った。

「よりによって、紙ナプキンにね」

「行きたい場所」

「やりたいこと」

「作りたい思い出」

少し間を置いた。

「小さなこともある」

「難しいこともあると思う」

「時間がかかるものもあるかもしれない」

彼は窓の方を見た。

「でも、それでいいんだ」

笑顔が柔らかくなった。

「だって、久しぶりに、未来が僕から何を奪っていくのかだけを考えるんじゃなくなったから」

「未来が僕に何をくれるのか、考えるようになったんだ」

彼は音声入力を止めた。

数秒間――

ただ静かに座っていた。

そして最後の一文を付け加えた。

「もしかしたら、それが母さんのずっと願っていたことなのかもしれないね」

文書を保存した。

スマートフォンが震えた。

葵:無事に帰ったよ。

春人は微笑んだ。

春人:よかった。

葵:リストはちゃんと大切にしまったからね。

春人:どこに?

葵:秘密。

春人:怪しい。

葵:とってもね。

春人は笑った。

またメッセージが届いた。

葵:ちょっと考えてたことがあるの。

春人:何?

葵:アパートのこと。

春人:うん?

葵:うまくいくといいね。

春人は机の上の間取り図を見た。

そして微笑んだ。

春人:僕もそう思う。

葵:でも、もし駄目だったとしても……。

少し間が空いた。

葵:また別の楽しみを見つければいいんだから。

春人はメッセージを読んだ。

そしてゆっくり入力した。

春人:うん。

春人:そうだね。

葵:おやすみ、彼氏くん。

春人は微笑んだ。

春人:おやすみ、彼女さん。

葵:愛してる。

春人:僕も愛してるよ。

彼はスマートフォンをパソコンの横に置いた。

部屋は静かだった。

そばには母の手紙。

忘れたくない瞬間を写した写真。

そして寝室の壁の向こうには――

未来が待っていた。

すべてが簡単に進むという約束としてではない。

すべての夢が叶うという保証としてでもない。

ただ、開かれたものとして。

まだ完成していないものとして。

自分の選択によって、少しずつ形にしていけるものとして。

春人は母の写真を見た。

そして微笑んだ。

「……頑張ってるよ、母さん」

写真の中の女性は微笑み返していた。

あるいは――

春人がそう記憶しているだけなのかもしれない。

どちらでもよかった。

それで十分だった。

なぜなら、明日はまだ訪れていないからだ。

葵と分かち合った夢も、今はまだナプキンに書かれた言葉にすぎない。

けれど今夜は――

その言葉が確かに存在していた。

そして、その言葉に込められた希望もまた、本物だった。

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