第46話 明日にまだ名前がなかった頃、僕たちが交わした約束
翌朝、高橋春人が最初にしたことは、スマートフォンを確認することだった。
二番目にしたことは、微笑むこと。
そして三番目は――
微笑んだことを、即座に後悔することだった。
なぜなら、寝室の入口に叔母が立っていたからだ。
しかも由紀は、どうやら名探偵並みの観察力を身につけてしまったらしい。
「あら、あら」
春人は固まった。
「……何?」
由紀は腕を組んだ。
「笑ってるわね」
「僕が笑っちゃいけないの?」
「もちろん、そんなことないわよ」
「じゃあ、何が問題なの?」
由紀の笑みが深くなった。
「とっても特別な笑顔だからよ」
春人は目を細めた。
「……由紀叔母さん」
「なあに?」
「お願いだから、やめて」
「何を?」
「今からしようとしてること、全部」
由紀は頬に手を当てた。
「ああ、春人ったら」
彼は目を閉じた。
「……始まった」
「昨日、何か素敵なことがあったんでしょう?」
春人は天井を見上げた。
「素敵、の定義によるね」
由紀は息をのんだ。
「あったのね!」
「叔母さん!」
廊下の向こうから、大地の声が響いた。
「どうしたんだ!?」
由紀はドアの方を向いた。
「大地! ちょっと来て!」
春人は即座に慌てた。
「いや! 援軍を呼ばないで!」
残念ながら――
もう手遅れだった。
五秒ほどで、大地が入口に姿を現した。
「何があった?」
由紀は春人を指さした。
「この子を見て!」
大地は春人を見た。
春人も見返した。
沈黙。
そして大地はうなずいた。
「……ああ」
春人は眉をひそめた。
「その『ああ』は何?」
大地は笑った。
「何かあったんだな」
春人はうめいた。
「どうしてみんな同じことを言うの?」
由紀が身を乗り出した。
「春人」
「……はい?」
「葵ちゃんとキスしたの?」
沈黙。
完全なる沈黙。
春人の顔が真っ赤になった。
由紀は息をのんだ。
大地は大笑いした。
「ははは! やっぱりな!」
春人は叔父を見つめた。
「どうして分かったの!?」
大地はにやりと笑った。
「人生の意味を発見した男みたいな顔をしてるからな」
春人はうなだれた。
「……新しい家族が必要だ」
由紀は両手を胸の前で組んだ。
「ああ、春人!」
「お願いだから泣かないで」
「泣いてなんかいないわ!」
「絶対泣いてるよ」
大地もうなずいた。
「泣いてるな」
「大地!」
春人はため息をついた。
「……まだ朝の八時なんだけど」
由紀は涙ぐんだ目で微笑んだ。
「それなのに、もうこんなに素敵な一日なんて!」
春人はスマートフォンを見た。
葵からメッセージが届いていた。
葵:おはよう、彼氏くん。
葵:まだ昨日のこと考えてる?
春人は画面を見つめた。
そして、ゆっくり文字を入力した。
春人:叔母さんと叔父さんにバレた。
葵:何が?
春人:全部。
葵:へえ?
春人:僕たちがキスしたこと。
葵:あはははは!
春人は目を閉じた。
「……僕の周りには、ろくでもない人しかいない」
◇ ◇ ◇
その頃、東京の別の場所では、水野葵がずっと快適な朝を過ごしていた。
少なくとも――
本人はそう思っていた。
病院の職員休憩室で、コーヒーを飲みながらスマートフォンを眺めていたのだ。
頬はほんのり赤い。
口元には、なかなか消えない笑み。
そしてどうやら――
ほかの人間にも目がついているという事実を、完全に忘れていたらしい。
「……葵」
返事はなかった。
「葵」
まだ反応しない。
「葵!」
葵は飛び上がった。
「何よ!?」
テーブルの横に、藤本美香が立っていた。
腕を組み。
片方の眉を上げ。
実に楽しそうな表情を浮かべている。
「おはよう。ずいぶん元気な挨拶ね」
葵は瞬きをした。
「美香?」
「違うわよ。病院の幽霊よ」
葵はため息をついた。
「面白い冗談ね」
美香は向かいに座った。
そして身を乗り出す。
「それで?」
葵は即座に警戒した。
「……何?」
「デートはどうだった?」
葵はコーヒーを一口飲んだ。
「普通よ」
「普通?」
「そう」
美香はじっと見つめた。
葵も見返した。
すると美香は笑った。
「なるほどねえ」
葵は目を細めた。
「何が?」
「その顔」
「私の顔?」
「そう」
美香は指さした。
「その顔よ」
葵は眉をひそめた。
「何がおかしいの?」
「幸せそうに輝いてる」
葵は危うくむせそうになった。
「輝いてない!」
美香は笑った。
「いや、完全に輝いてるわ」
「やめて」
「お花でももらった?」
「いいえ」
「チョコレート?」
「いいえ」
「何かロマンチックなことでも言われた?」
葵はためらった。
美香の目が大きくなった。
「言われたのね!」
「美香!」
「何て言われたの!?」
「何も!」
「嘘つき!」
葵は顔を覆った。
美香はさらに身を乗り出した。
そして――
表情が変わった。
「……待って」
葵は固まった。
美香がゆっくり微笑む。
「もしかして……」
葵は目をそらした。
美香は息をのんだ。
「キスしたのね!」
葵はコーヒーカップをテーブルに置いた。
「声が大きい!」
美香は大笑いした。
「うそでしょ!」
数人の看護師がこちらを見た。
葵は床に穴が開いて、そのまま消えてしまえばいいのにと思った。
美香は両手を合わせた。
「ついに!」
葵は見つめた。
「ついに、って?」
「そうよ! ずっと待ってたんだから!」
「付き合い始めたばっかりなのよ!」
「でも、心の中ではもう何週間も夫婦みたいだったじゃない」
「美香!」
友人はさらに笑った。
けれど――
その表情が柔らかくなった。
「でも、真面目な話」
葵は彼女を見た。
「何?」
美香は微笑んだ。
「よかったね」
葵は瞬きをした。
一瞬、何と答えればいいのか分からなかった。
美香は続けた。
「本当に幸せそうだもの」
葵はコーヒーへ視線を落とした。
そして微笑んだ。
「……うん」
美香はうなずいた。
「よかった」
短い沈黙が流れた。
そして、美香は再び身を乗り出した。
「で、キスは上手だった?」
葵はカップを落としそうになった。
「美香!」
◇ ◇ ◇
午前も遅くなった頃、春人は不動産会社から再び電話を受けた。
今度は――
あまり嬉しくない知らせだった。
工事業者が、建物の構造に関する予備資料を確認したらしい。
そして、どうやら――
浴室の出入口が問題になるようだった。
しかも、かなり費用のかかる問題だ。
「高橋様、申し訳ありませんが、改修工事は当初の想定より複雑になる可能性があります」
春人は注意深く聞いた。
「どのくらい複雑なんでしょうか?」
「浴室の入口周辺の壁に、構造上、簡単には変更できない部分が含まれている可能性がありまして」
春人の胃がきゅっと縮んだ。
「……そうですか」
「出入口を広げられるかどうか判断するには、現地での詳しい調査が必要になります」
「もし広げられなかったら?」
担当者はためらった。
「その場合、ご希望の生活環境には適さない物件ということになるかもしれません」
春人は目を閉じた。
来た。
予想していた言葉。
そして――
聞きたくなかった言葉。
「……分かりました」
「大変申し訳ございません」
「いえ、大丈夫です」
少し間を置いた。
「ご連絡ありがとうございます」
「もちろん、より条件に合った別の物件もお探しできますが、いかがいたしましょうか」
春人は考えた。
そしてうなずいた。
「お願いします」
通話が終わった。
数秒間――
彼は動かなかった。
パソコンには、あのアパートの間取り図が表示されたままだった。
居間。
寝室。
窓際に机を置こうと思っていた場所。
そして――
浴室の出入口。
あの忌々しい、狭い出入口。
春人はため息をついた。
「……やっぱりか」
可能性があることは分かっていた。
期待しすぎないようにしていた。
それなのに、部屋の寸法を確かめ、家具の配置を想像しているうちに――
いつの間にか、そのアパートを自分のもののように感じ始めていた。
正式にではない。
法律上でもない。
ただ――
想像の中で。
自分で物事を決められる場所。
本棚を好きなように並べられる場所。
由紀叔母さんが三種類のスープを持って突然現れる心配をせずに、葵を招ける場所。
春人は苦笑した。
「……さようなら、夢のアパート」
スマートフォンが震えた。
葵:今日はどう?
春人はメッセージを見た。
そして文字を入力した。
春人:あのアパート、無理かもしれない。
葵:何があったの?
春人:浴室の入口。構造上の問題があって、改修も高くつきそうなんだ。
葵:ああ、春人……。
春人:うん。
葵:大丈夫?
彼はためらった。
春人:正直に?
葵:もちろん。
春人:がっかりしてる。
葵:それは当然よ。
春人:たった一軒のアパートだって分かってるんだけど。
葵:春人にとっては、ただのアパートじゃなかったんでしょ。
春人の手が止まった。
メッセージをもう一度読んだ。
そして、ゆっくり息を吐いた。
春人:うん。
春人:そうなんだ。
葵:あとで話す?
春人はかすかに微笑んだ。
春人:うん。
葵:よかった。
葵:それと、まだ諦めないでね。
春人は間取り図を見た。
そして文字を入力した。
春人:諦めないよ。
◇ ◇ ◇
その日の午後、春人はスマートフォンに保存された写真を眺めていた。
特に写真が好きだったわけではない。
むしろ――
撮られるのは苦手だった。
昔からそうだった。
自分の姿が一瞬の中に固定されることに、どこか居心地の悪さを感じていた。
誰かに見られ。
評価され。
誤解されるかもしれない一瞬。
障害のある人の写真を、周囲がどんな目で見ることがあるのか、春人は知っていた。
同情する人。
必要以上に称賛する人。
車椅子しか目に入らない人。
春人は、そのどれも好きではなかった。
ただ、自分を見てほしかった。
診断名ではなく。
感動的なポスターの主人公でもなく。
悲劇の登場人物でもなく。
ただ――
春人として。
本が好きで、物語を書くのが好きで、くだらない冗談を言うのが好きな二十二歳の青年。
そしてどうやら、口の悪い看護師のことも大好きな青年として。
そんなことを考えていると、葵から電話がかかってきた。
「もしもし」
「もしもし、春人」
電話越しに、彼女の笑顔が伝わってくるようだった。
「私の大好きな本の虫さんは、元気?」
「建築構造によって精神的に打ちのめされてるところ」
葵は小さく笑った。
「まだ?」
「かなりね」
「そっちに行こうか?」
春人はためらった。
「……無理しなくていいよ」
「分かってる」
少し間を置く。
「春人は、来てほしい?」
彼は微笑んだ。
「……うん」
「じゃあ、一時間くらいで行くわ」
春人は瞬きをした。
「本当に?」
「本当よ」
彼はくすっと笑った。
「甘やかされてるなあ」
葵は笑った。
「調子に乗らないの」
「もう遅いよ」
◇ ◇ ◇
一時間後、葵が到着した。
春人は玄関の近くで待っていた。
由紀は、まるで王族を迎えるかのような熱烈な歓迎をした。
「葵ちゃん!」
「こんにちは、由紀さん」
「さあ、入って!」
春人はため息をついた。
「由紀叔母さん」
「なあに?」
「お願いだから、また宴会みたいな料理を作らないでね」
由紀は心外そうな顔をした。
「そんなことしないわよ!」
その後ろから、大地が現れた。
「もうお茶の準備をしてるぞ」
春人は目を閉じた。
「……やっぱり」
葵は笑った。
少し話をしたあと、春人と葵は外で過ごすことにした。
天気はよかった。
それに、春人には気分転換が必要だった。
二人は近くの川沿いの遊歩道へ向かった。
道は滑らかに舗装されていた。
午後の日差しが水面に反射している。
葵は春人の車椅子の隣を歩いた。
しばらく――
二人は何も話さなかった。
やがて葵が彼を見た。
「まだアパートのこと考えてる?」
春人はかすかに微笑んだ。
「そんなに分かりやすい?」
「ちょっとね」
彼はため息をついた。
「うん」
葵はうなずいた。
「話したい?」
春人は少し考えた。
そして微笑んだ。
「多分、悔しいんだと思う」
「気に入ってたから?」
「うん」
彼は川へ目を向けた。
「あそこで暮らしてる自分を想像できたんだ」
葵は黙って聞いていた。
「窓際の机。本棚。夕食を食べる小さなテーブル」
彼はくすっと笑った。
「それから、由紀叔母さんがレストラン一軒分の料理を持って突然現れない場所」
葵は笑った。
「きっと方法を見つけるわよ」
春人はため息をついた。
「多分ね」
やがて笑顔が少し消えた。
「でも、真面目な話……」
彼は間を置いた。
「自分だけのものが欲しかったんだ」
葵はうなずいた。
「自分の居場所ね」
「うん」
彼は彼女を見た。
「叔母さんと叔父さんが嫌いなわけじゃないよ」
「分かってる」
「ただ……」
言葉を探した。
「自分で選んだものを中心にして、生活を作っていくってどんな感じなのか、知りたいんだ」
葵の表情が柔らかくなった。
「分かる気がする」
春人はため息をついた。
「それなのに、また最初から探し直しかもしれない」
彼女はうなずいた。
「そうかもしれないわね」
春人は彼女を見た。
葵は続けた。
「でも、探し直すからって、振り出しに戻るわけじゃないでしょ」
春人は瞬きをした。
「どういうこと?」
「今回のアパートで、いろいろ分かったじゃない」
彼女は微笑んだ。
「何が必要なのか。何が欲しいのか。絶対に妥協できない条件は何なのか」
春人は考えた。
葵は続けた。
「不動産会社の人だって、今までより具体的に探せるようになったはずよ」
彼はゆっくりうなずいた。
「……確かに」
葵は微笑んだ。
「だったら、次のアパートはもっといいかもしれないじゃない」
春人はくすっと笑った。
「そうかもね」
彼女は眉を上げた。
「その調子」
彼は笑った。
「説得が上手だね」
「当然よ」
◇ ◇ ◇
二人は川を見渡せる静かな場所に着いた。
葵はベンチの横で立ち止まった。
春人はその近くに車椅子を止めた。
しばらく、水面を眺めていた。
すると葵がスマートフォンを取り出した。
「ねえ」
春人は彼女を見た。
「ん?」
「一つお願いしてもいい?」
「もちろん」
葵は微笑んだ。
「一緒に写真を撮らない?」
春人は固まった。
「……写真?」
「うん」
彼はためらった。
葵はすぐに気づいた。
「どうしたの?」
春人は目をそらした。
「……何でもない」
彼女は眉を上げた。
「春人」
彼はため息をついた。
「……僕、あまり写真が得意じゃないんだ」
葵はスマートフォンを下ろした。
「そっか」
彼は彼女を見た。
「ごめん」
葵は首を振った。
「謝らなくていいわよ」
春人は少し驚いた。
葵は微笑んだ。
「無理に撮らなくてもいいんだから」
彼は黙った。
少しの間、彼女が説得してくるのではないかと思っていた。
大丈夫だと言ってくれるのではないか。
気にしすぎだと励ましてくれるのではないか。
けれど、葵はそうしなかった。
ただスマートフォンをしまい、彼の隣のベンチに座った。
それが――
かえって話しやすかった。
春人は川を見た。
「……写真そのものが嫌いなわけじゃないんだ」
葵は聞いていた。
「ただ……」
彼は間を置いた。
「写真の中の僕を、ほかの人がどう見るのか、嫌になることがある」
彼女はゆっくりうなずいた。
「車椅子のこと?」
「それもある」
春人は彼女を見た。
「僕の写真を見た瞬間に、勝手に物語を決めつける人がいるんだ」
葵は黙っていた。
「勇敢だとか。かわいそうだとか。感動的だとか」
彼はため息をついた。
「僕はただ、写真に写ってる普通の男でいたいだけなのに」
葵はかすかに微笑んだ。
「そうよね」
春人は彼女を見た。
「それに……」
彼はためらった。
「葵の隣にいる自分が、どう見えるのか気になるんだ」
葵の表情が変わった。
「春人」
彼は弱々しく笑った。
「分かってる。馬鹿みたいだよね」
「違うわ」
その声は、はっきりしていた。
「馬鹿みたいなんかじゃない」
春人は黙った。
葵は続けた。
「でも、一つ知っておいてほしいの」
彼は彼女を見た。
「私が春人を見るとき、誰かに評価される写真なんて考えてないわ」
彼女は微笑んだ。
「私の彼氏を見てるの」
春人は息をのんだ。
葵は続けた。
「それに、私の彼氏は結構かわいいのよ」
春人の頬が赤くなった。
「……葵」
彼女はにやりとした。
「かなりかわいいわね」
「お願いだからやめて」
「嫌よ」
春人は笑った。
葵も微笑んだ。
「でも、真面目な話」
彼女はスマートフォンへ視線を向けた。
「今日は特別な日だと思ったから、写真を撮りたかったの」
春人は彼女を見た。
「アパートのことで落ち込んでるのに?」
「だからこそよ」
彼は瞬きをした。
葵は続けた。
「思い出は、全部完璧じゃなくてもいいでしょ」
彼女は微笑んだ。
「一緒にいたってだけで、十分なこともあると思うの」
春人はその言葉を考えた。
そして、ゆっくり微笑んだ。
「……分かった」
葵は瞬きをした。
「分かった?」
「撮ろう」
彼女は驚いた顔をした。
「本当にいいの?」
春人はうなずいた。
「うん」
そして微笑んだ。
「でも、変なポーズは禁止ね」
葵はにやりとした。
「約束はできないわ」
「葵!」
◇ ◇ ◇
最初の写真はひどかった。
本当にひどかった。
シャッターが切られた瞬間、春人はまばたきをしてしまった。
葵は大笑いした。
「ちょっと、これ!」
春人は画面を見た。
「……消して」
彼女はさらに笑った。
「寝落ちする瞬間みたい!」
「消して!」
二枚目はもっとひどかった。
葵がスマートフォンを傾けてしまい、春人の頭が半分切れていた。
春人はため息をついた。
「……どうやら、二人とも写真の才能はないみたいだね」
葵は笑った。
「うるさいわね!」
三枚目には、笑っている葵が写っていた。
そして春人は――
カメラを見ていなかった。
川も見ていなかった。
葵を見ていた。
葵は笑うのをやめた。
写真を見つめる。
春人も画面をのぞいた。
「……どうしたの?」
葵は柔らかく微笑んだ。
「何でもない」
彼を見た。
「これ、いい写真ね」
春人は写真をじっと見た。
車椅子も写っていた。
川も写っていた。
けれど、彼の目を引いたのは車椅子ではなかった。
自分の表情だった。
笑っていた。
ポーズを取っているわけでもない。
どう見えるか気にしているわけでもない。
ただ――
葵を見て、笑っていた。
春人はしばらく見つめた。
そして微笑んだ。
「……うん」
葵は彼を見た。
「気に入った?」
春人はうなずいた。
「うん」
彼女を見た。
「すごく気に入ったよ」
葵の笑顔が広がった。
「よかった」
彼女は写真を保存した。
そして、春人にも送った。
葵:私たちの初めての公式カップル写真。
春人は微笑んだ。
春人:悪くないね。
葵:悪くない!?
春人:なかなかいいよ。
葵:春人。
彼は笑った。
春人:分かった。大好きな写真だよ。
葵は微笑んだ。
「よろしい」
◇ ◇ ◇
夕方、春人と葵は小さなカフェに立ち寄った。
店内は静かだった。
温かく、落ち着いた雰囲気だった。
そして幸いなことに――
車椅子でも問題なく利用できた。
二人は窓際の席に座った。
葵は紅茶を注文した。
春人はコーヒー。
そして、あまり賢明とは言えない判断で――
ケーキを一切れ注文した。
葵はすぐに気づいた。
「へえ」
春人は目を細めた。
「……何?」
「チョコレートケーキ」
「そうだよ」
彼女は微笑んだ。
「おいしそうね」
春人はため息をついた。
「始まった」
葵は笑った。
「何が?」
「奪うつもりでしょ」
「まさか」
「絶対そうだよ」
彼女はにやりとした。
「一口だけかも」
春人は天井を見上げた。
「……僕は犯罪者と付き合ってるらしい」
葵は笑った。
そして――
表情が柔らかくなった。
「ねえ」
春人は彼女を見た。
「ん?」
「一つ聞いてもいい?」
「もちろん」
葵は少しためらった。
「自分のアパートに引っ越すってことは、一人で暮らしたいってこと?」
春人は瞬きをした。
「……え?」
葵はすぐに恥ずかしそうな顔になった。
「その、ずっと一人でって意味じゃなくて」
首を振る。
「変な聞き方になっちゃった」
春人は彼女を見つめた。
葵はため息をついた。
「私が聞きたいのは……」
少し間を置いた。
「引っ越したあとの生活って、どんなふうに考えてるのかなって」
春人はかすかに微笑んだ。
「うん」
「仕事とかも含めて?」
「そうだね」
彼は考えた。
「まず、必要な介助や支援をきちんと確保しないといけない」
葵はうなずいた。
「もちろん」
「それから、アパートが実際の生活に合ってるかどうかも確認しないと」
「そうね」
春人は彼女を見た。
「でも……」
葵は待った。
「普通のことも考えてるんだ」
彼女は首を傾げた。
「例えば?」
春人は微笑んだ。
「自分で生活の予定を決めること」
「うんうん」
「好きなものを見ること」
「大事ね」
「本をどこに置くか決めること」
「恐ろしいわね」
春人は笑った。
「それから、もしかしたら……」
彼はためらった。
葵は眉を上げた。
「もしかしたら?」
春人は彼女を見た。
「彼女を夕食に招待したりね」
葵は固まった。
頬が赤くなった。
「……あ」
春人は微笑んだ。
「大したものじゃないよ」
くすっと笑う。
「多分、出前だけど」
葵は小さく笑った。
「それ、いいわね」
「うん」
彼は窓の外を見た。
「そういうの、やってみたいんだ」
葵はしばらく黙っていた。
そして微笑んだ。
「……私も」
春人は彼女を見た。
視線が合った。
そして突然――
二人は、あまりにも自然に一緒の未来を想像し始めていたことに気づいた。
一緒に暮らすとは限らない。
まだ、その段階ではない。
けれど――
お互いの家を訪ねることが普通になる未来。
夕食が特別な行事ではなくなる未来。
一緒に過ごすために、毎回大がかりな計画を立てなくてもいい未来。
葵は紅茶へ視線を落とした。
「……ちょっと気が早いわね」
春人はくすっと笑った。
「そうかも」
彼女は微笑んだ。
「でも、想像するのは楽しいわ」
彼はうなずいた。
「うん」
葵は彼を見た。
「ただ、私のために何かを急がなきゃいけないなんて思わないでね」
春人の表情が柔らかくなった。
「分かってる」
彼女は続けた。
「引っ越しは、春人自身にとって正しいと思えるからすることでしょ」
彼はうなずいた。
「うん」
「それに、私たちのこれからについても……」
葵は少し間を置いた。
「準備ができたときに、一緒に決めていきたいの」
春人は微笑んだ。
「いいね」
葵はにやりとした。
「私たち、すごいわね」
彼は眉を上げた。
「何が?」
「大人みたいな会話をしてる」
春人は笑った。
「恐ろしいね」
「本当に」
◇ ◇ ◇
カフェを出る頃には、夕方の空気が少し冷たくなっていた。
葵は春人の隣を歩きながら、駅へ向かった。
街灯が少しずつ灯り始めていた。
車が通りを走っていく。
人々が家路を急いでいる。
近くでは、店主がシャッターを下ろしていた。
ごく普通の東京の夕暮れ。
それなのに――
なぜか、美しく感じられた。
葵は春人を見た。
「ねえ」
「ん?」
「少し元気になった?」
春人は考えた。
そしてうなずいた。
「うん」
彼女は微笑んだ。
「よかった」
春人は彼女を見た。
「今日はありがとう」
葵は肩をすくめた。
「いつでもどうぞ」
彼は微笑んだ。
「僕が落ち込んでても?」
葵は眉を上げた。
「春人」
「何?」
「嫌な日があったっていいのよ」
彼は彼女を見た。
葵は続けた。
「がっかりしたからって、暗い人間になるわけじゃないんだから」
春人はかすかに微笑んだ。
「……そうだね」
葵はにやりとした。
「それに」
彼は眉を上げた。
「何?」
「春人は幸せなときの方が、ずっとうるさいもの」
春人は見つめた。
「……ひどいなあ」
彼女は笑った。
「事実よ」
彼は首を振った。
「なんて愛情深い彼女なんだ」
「ものすごくね」
二人は笑った。
それから――
春人は静かになった。
葵は気づいた。
「何か考えてる?」
彼は彼女を見た。
「うん」
「何?」
少しためらった。
そして微笑んだ。
「……また未来のことを考えてた」
葵はうなずいた。
「そっか」
春人は通りへ目を向けた。
「何かを急ぎたいわけじゃないんだ」
彼女は微笑んだ。
「私もよ」
「でも……」
彼は間を置いた。
「何かを望むことまで、怖がりたくないんだ」
葵は彼を見つめた。
春人は続けた。
「昔は、あまり期待しないようにしてた」
彼は彼女を見た。
「期待すると、がっかりすることもあるから」
葵はゆっくりうなずいた。
「うん」
「でも最近……」
彼は微笑んだ。
「がっかりすることって、世界で一番悪いことじゃないのかもしれないって思うんだ」
葵は首を傾げた。
「どういうこと?」
春人はくすっと笑った。
「ほら、アパートは駄目かもしれないでしょ」
「うん」
「それはつらい」
「そうよね」
「でも、それだけ僕が欲しいと思ったものがあったってことでもある」
少し間を置く。
「本当に欲しいと思えるものが」
葵の表情が柔らかくなった。
春人は続けた。
「それを望めるなら、ほかのことだって望んでもいいのかもしれない」
彼は彼女を見た。
「家とか」
一拍。
「未来とか」
もう一拍。
「いつか、愛する人と一緒に生きていくこととか」
葵の目が少し大きくなった。
春人は微笑んだ。
「明日じゃないよ」
彼女は小さく笑った。
「それなら安心」
「来週でもない」
「それも安心ね」
「でも、いつか……」
彼はためらった。
「そんな未来があってもいいんじゃないかって思うんだ」
葵はしばらく黙っていた。
そして――
微笑んだ。
「……私も」
春人は彼女を見た。
葵は続けた。
「いつか、がどんな形になるのかは分からない」
彼はうなずいた。
「僕も」
「でも、春人と一緒に想像するのは好きよ」
春人は胸が締めつけられるように感じた。
苦しくはなかった。
温かかった。
「……葵」
彼女は微笑んだ。
「今は、それで十分だと思う」
彼はうなずいた。
「うん」
そして微笑んだ。
「十分だよ」
◇ ◇ ◇
その夜、春人は机に向かっていた。
パソコンの画面には、葵が送ってくれた写真が開かれていた。
彼はじっと眺めた。
自分の車椅子。
川。
笑っている葵。
そして自分。
彼女を見つめながら――
微笑んでいる自分。
春人は長い間、その写真を見ていた。
そして、日記を開いた。
『母さんへの手紙』
音声入力を始めた。
「母さんへ」
少し間を置いた。
「今日は完璧な一日じゃなかった」
彼はかすかに微笑んだ。
「欲しかったアパートは、駄目になるかもしれない」
写真へ目を向けた。
「がっかりしたよ」
一拍。
「自分で認めたくないくらいに」
彼は続けた。
「でも、いいこともあったんだ」
二人の写真を見た。
「葵と、初めて一緒に写真を撮ったよ」
くすっと笑った。
「正確には三枚撮った」
「最初の二枚は散々だった」
彼は微笑んだ。
「でも、三枚目は……」
少し間を置く。
「特別だった」
写真を見つめた。
「だって、その写真を見たとき、僕は車椅子のことを考えなかったんだ」
彼は静かに続けた。
「ほかの人が僕をどう見るかも、考えなかった」
「ただ、自分が写ってると思った」
一拍。
「幸せそうな自分が」
春人は息をのんだ。
「それって、僕がずっと忘れてたことなのかもしれない」
母の写真へ目を向けた。
「幸せそのものを忘れてたわけじゃない」
「でも、自分には幸せになる資格があるのかって疑わずに、それを受け入れることを忘れてたんだと思う」
少し間を置いた。
「母さん、明日何が起きるのか、僕には分からない」
「自分に合ったアパートが見つかるかどうかも分からない」
「どのくらい時間がかかるのかも分からない」
「それに、何年か先、僕と葵がどんな関係になっているのかも分からない」
春人は微笑んだ。
「でも、やりたいことは分かってる」
もう一度写真を見た。
「これからも挑戦したい」
「これからも自分で選びたい」
「自分の人生だと思える生活を作っていきたい」
一拍。
「そして、もし葵がその人生の一部になってくれるなら……」
彼の笑顔が柔らかくなった。
「僕はとても幸せだと思う」
音声入力を止めた。
しばらく――
ただ静かに座っていた。
それから、最後の一文を付け加えた。
「未来には、まだ名前なんて必要ないのかもしれない」
彼は微笑んだ。
「そこへ向かって進もうと思えるだけで、十分なのかもしれないね」
文書を保存した。
スマートフォンが震えた。
葵:無事に帰ったよ。
春人は微笑んだ。
春人:よかった。
葵:ずっと写真を見てる。
春人:僕も。
葵:春人、幸せそうな顔してるね。
春人はメッセージを見つめた。
そして文字を入力した。
春人:幸せだよ。
葵:よかった。
葵:私も幸せだから。
春人は微笑んだ。
春人:愛してるよ。
葵:私も愛してる。
少し間が空いた。
そして――
葵:それと、ケーキ一個貸しだからね。
春人は吹き出した。
春人:僕のケーキを半分も食べたくせに!
葵:それが何か?
春人:信じられない。
葵:おやすみ、彼氏くん。
春人は首を振った。
それでも笑っていた。
春人:おやすみ、彼女さん。
彼はスマートフォンをパソコンの横に置いた。
窓の外では、街が静まり返っていた。
明日になれば、また新しい疑問が生まれるだろう。
新しい不安も。
冗談では解決できない問題も。
けれど、春人は少しずつ理解し始めていた。
未来は、保証されていなくても、想像する価値がある。
そして愛は、簡単な人生を約束してくれなくても、選ぶ価値がある。
ときには――
必要なのは、正直でいること。
忍耐強くいること。
そして、お互いのことを知ろうとし続ける二人の気持ちだけなのかもしれない。
何でもない一日を、一つずつ重ねながら。




