第45話 初めてのキスが、不確かな明日を約束に変えた日
翌朝、高橋春人は、恋人ができるということには思いがけない危険が伴うのだと知った。
どうやら――
自分の部屋から一歩も出ずに、恥ずかしい思いをすることができるらしい。
それを思い知ったのは、目を覚ましてからわずか十七分後のことだった。
そして、その原因は――
当然ながら、水野葵。
彼の恋人。
普段はそれなりに頭の回る二十二歳の青年を、いとも簡単に間抜けにしてしまう女性だった。
春人はスマートフォンの画面を見つめた。
葵:おはよう、彼氏くん。
葵:私の夢、見た?
春人は瞬きをした。
一度。
二度。
そして、ゆっくり頭を下げた。
「……どうして朝からこうなんだろう」
選択肢は三つあった。
正直に答える。
嘘をつく。
あるいは――
メッセージを見なかったことにする。
残念ながら、最後の選択肢はすでに消えていた。
既読をつけてしまったのだ。
「……素晴らしい」
春人は文字を入力した。
春人:おはよう。
春人:ずいぶん個人的な質問だね。
葵:私たち、付き合ってるんだけど。
春人:存じております。
葵:じゃあ答えて。
春人:拒否したら?
葵:よっぽど恥ずかしい夢だったんだと思うことにする。
春人は画面を見つめた。
「……悪魔だ」
春人:ちなみに、僕が見たのは非常に健全な夢です。
葵:へえ?
春人:アパートの改修工事。
葵:本気?
春人:とてもロマンチックな改修工事だったよ。
葵:ドアの夢を見たの?
春人:幅の広いドアだった。
葵:春人。
春人:はい。
葵:本当にどうしようもないわね。
春人は笑った。
春人:それでも僕のことが好きなんでしょ?
返事は、ほとんど間を置かずに届いた。
葵:残念ながら。
葵:かなり好きよ。
春人の笑顔が止まった。
嬉しくなかったからではない。
むしろ――
その正反対だった。
どうやら彼の心臓は、規則正しく動くという基本的な仕事を放棄することにしたらしい。
春人はメッセージをもう一度読んだ。
そして、机の上に置かれた母の写真へ視線を向けた。
「……母さん」
小さくため息をつく。
「僕、この人と付き合ってて生き延びられるのかな」
写真の中の美咲は、何も答えずに微笑んでいた。
春人は再びスマートフォンを見た。
春人:僕も葵のこと、かなり好きだよ。
葵:知ってる。
春人:少しくらい驚いたふりをしてくれてもいいんじゃない?
葵:できるけど。
葵:嘘になるから。
春人は声を出して笑った。
こうして――
何でもないはずの朝が、また一つ、忘れたくない時間になった。
◇ ◇ ◇
午前十時半頃、春人のスマートフォンが鳴った。
不動産会社からだった。
電話が来ることは予想していた。
それでも――
着信画面を見た瞬間、胃のあたりが少し緊張した。
「はい、高橋です」
「おはようございます、高橋様。昨日ご内見いただいた物件について、ご連絡いたしました」
春人は意識を集中させた。
「はい」
「ご希望されていた改修について、物件の所有者とお話ししました」
春人は返事を待った。
担当者は続けた。
「玄関の段差への対応と、一部設備の設置については、前向きに検討していただけるとのことです」
小さな希望が胸に灯った。
「それはよかったです」
「ただ、浴室の出入口についてですが……」
来た。
春人が恐れていた言葉。
ただ。
「はい」
「構造上の問題がないか、工事業者による確認が必要だそうです」
春人は一瞬、目を閉じた。
「……ということは、まだ無理だと決まったわけではないんですね?」
「はい。現時点では、そうです」
春人は息を吐いた。
「分かりました」
「来週、業者が現地を調査する予定です。その結果を踏まえて、どの程度の改修が可能か判断することになります」
「ありがとうございます」
「結果が分かり次第、改めてご連絡いたします」
「よろしくお願いします」
通話が終わった。
春人はしばらくスマートフォンを見つめた。
そして――
ため息をついた。
「……また待つのか」
時間がかかることは分かっていた。
自分に合った住まいを探すのが簡単ではないことも。
建物の構造に関わる改修を、所有者が一晩で承認してくれるとは思っていなかった。
それでも――
待つという行為には、独特の疲労があった。
春人は、待つことに慣れていた。
病院の予約。
医療機器の手続き。
各種の申請。
そして、生活に必要な設備や支援について、誰かの判断が下るのを待つ時間。
彼の人生には、待つことが何度もあった。
だからといって、好きになれるわけではない。
春人はパソコンに表示された間取り図を見た。
居間。
寝室。
幅の狭い浴室の出入口。
窓際に机を置けそうな、小さな空間。
そこに暮らす自分の姿が、ぼんやりと想像できた。
仕事をして。
本を読んで。
葵を招いて。
自分で決めた生活のリズムを作っていく。
けれど、その未来にはまだ手が届かなかった。
少なくとも――
誰かがドアの幅を測り終えるまでは。
春人はため息をついた。
「……僕の大人としての人生、建築構造に人質に取られてる気がする」
そのとき、スマートフォンが震えた。
葵:朝はどう?
春人は画面を見た。
そして、少し微笑んだ。
春人:さっき不動産会社から電話があった。
葵:どうだった?
春人:まだ結論は出ないって。来週、業者が調査するらしい。
葵:じゃあ、まだ可能性はあるのね?
春人:うん。
葵:よかったじゃない。
春人:まあね。
葵:ねえ。
春人:何?
葵:浴室のドア一枚で、もう人生のお葬式を始めないの。
春人は吹き出した。
「葵!」
春人:言い方がひどすぎるよ。
葵:笑った?
春人:残念ながら。
葵:じゃあ成功ね。
春人は首を振った。
その直後、もう一通届いた。
葵:でも、真面目な話。
葵:もどかしいのは分かる。
葵:だけど、結果が出る前から落ち込む準備をしなくてもいいんじゃない?
春人の笑顔が少し柔らかくなった。
彼は間取り図をもう一度見た。
春人:そうだね。葵の言うとおりだ。
葵:今の言葉、証拠として残しておきたい。
春人:もう文字で残ってるでしょ。
葵:スクショ保存した。
春人はため息をついた。
「……自分から罠に飛び込んだな」
◇ ◇ ◇
その日の午後、春人は近所の書店へ出かけた。
特別な用事があったわけではない。
新しいノートが必要だった。
文房具も少し補充したかった。
それに、由紀からは外の空気を吸ってくるよう勧められていた。
もちろん――
本を見るつもりもあった。
買うわけではない。
見るだけ。
この二つには、非常に大きな違いがある。
少なくとも、春人はそう自分に言い聞かせていた。
二十分後――
彼は三冊の本を購入していた。
「……意志が弱い」
店員がレシートを渡した。
「ありがとうございました」
「ありがとうございます」
春人は電動車椅子を操作し、レジから離れた。
購入した本は、操作部や車輪の邪魔にならないよう、車椅子に取り付けたバッグへ収めてもらっている。
店の出口へ向かったところで、スマートフォンが震えた。
葵:今どこ?
春人:本屋。
葵:でしょうね。
春人:どういう意味?
葵:何か買った?
春人は少し迷った。
春人:何か、の定義による。
葵:春人。
彼は笑った。
春人:三冊。
葵:ノートを買いに行ったんじゃなかった?
春人:ノートも買ったよ。
葵:どうしようもないわね。
春人:自覚はあります。
葵:今、近くにいるんだけど。一緒にお茶しない?
春人は動きを止めた。
表情が明るくなる。
春人:本当に?
葵:用事が早く終わったの。
葵:本屋の向かいにカフェがあるでしょ?
春人はガラス扉の向こうを見た。
確かにあった。
春人:あるよ。
葵:十分後にそこでどう?
春人は微笑んだ。
春人:もちろん。
葵:それ以上、本を買わないこと。
春人:約束はできません。
◇ ◇ ◇
カフェの店内は比較的静かだった。
春人は窓際の、車椅子でも無理なく利用できる席を選んだ。
位置を整えて間もなく、窓の向こうに葵が現れた。
彼女はすぐに春人を見つけた。
そして、笑った。
それだけのことだった。
カフェの窓越しに交わした、一つの笑顔。
特別な出来事ではない。
それなのに――
自分を見つけて笑ってくれたというだけで、春人はどうしようもなく嬉しくなった。
葵が店内へ入ってきた。
「こんにちは、本の虫さん」
春人は笑った。
「こんにちは、恐ろしい女性」
葵は向かいの椅子にバッグを置いた。
「何冊買ったの?」
「三冊」
「たった三冊?」
「驚異的な自制心を発揮したんだ」
葵は座った。
「偉いわね」
「ありがとう」
「新聞社に連絡する?」
「ぜひ」
葵は笑った。
店員が注文を取りに来た。
二人は飲み物を頼んだ。
それからしばらく――
いろいろなことを話した。
葵の仕事。
春人の執筆。
アパートのこと。
由紀が用意した豪華すぎる夕食。
そして、残念ながら――
昨夜の出来事についても。
葵はコーヒーカップを持ちながら微笑んだ。
「ところで」
春人は即座に警戒した。
「……何?」
「大地さん、元気?」
春人は目を閉じた。
「やめて」
葵は笑った。
「聞いただけじゃない」
「絶対違う」
「昨日の件から立ち直れたかしら?」
春人は彼女を見た。
「葵」
「何?」
「あの人、朝からずっと謝ってるんだよ」
葵は吹き出した。
「本当に?」
「本当に!」
春人はため息をついた。
「しかも、次からは合図を決めた方がいいかって聞いてきた」
葵はカップを落としそうになった。
「ええっ!?」
「本当なんだって」
彼女は笑い続けた。
「何て答えたの?」
「玄関に恋愛専用の信号機なんか設置しないって言ったよ!」
葵は顔を覆った。
「もう、やめて!」
春人は首を振った。
「叔父さんには困ったものだよ」
葵は目元を拭った。
「本当に面白い家族ね」
「そういう言い方もできるね」
彼女は微笑んだ。
「でも、大好きなんでしょ?」
春人はため息をついた。
「……うん」
そして、笑った。
「大好きだよ」
◇ ◇ ◇
飲み物を飲み終えたあと、二人はもう少し一緒に過ごすことにした。
数本先の通りに、小さな公園があった。
特別な名所ではない。
木が何本か。
舗装された遊歩道。
ベンチがいくつか。
そして、花に囲まれた小さな噴水。
静かな場所だった。
何より――
主要な通路は、春人の電動車椅子が通れるだけの幅があった。
葵は彼の隣を歩いた。
午後の陽光が木々の葉を透かしていた。
柔らかな風が公園を抜けていく。
しばらく、二人は黙って進んだ。
やがて葵が春人を見た。
「静かね」
春人は微笑んだ。
「そう?」
「妙に」
「もしかしたら、僕も謎めいた男になりつつあるのかも」
「それには相当な努力が必要ね」
「厳しいなあ」
「正確な評価よ」
春人は笑った。
二人は遊歩道を進んだ。
やがて春人は噴水の近くで止まった。
葵は近くのベンチに腰を下ろし、春人と向き合えるよう身体を少し動かした。
しばらく、水の流れる音を聞いていた。
そして春人が口を開いた。
「……一つ聞いてもいい?」
葵は彼を見た。
「もちろん」
春人は少しためらった。
「僕たちのこと、不安になることってある?」
葵の表情が変わった。
大きくではない。
けれど、確かに。
「……どういう意味?」
春人は噴水へ目を向けた。
「葵が僕を好きかどうか、ってことじゃないよ」
彼女は黙って聞いていた。
「好きでいてくれてるのは分かってる」
葵は小さく微笑んだ。
「それならよかった」
春人も少し笑った。
「でも、僕と付き合うって実際にはどういうことなのか、時々考えるんだ」
葵は彼を見つめた。
「楽しいことだけじゃなくて」
春人は自分の車椅子に視線を落とした。
「予定を立てること。バリアフリーの問題。ほかの人なら意識しなくていいようなことにも、僕は介助が必要なこと」
少し間を置く。
「どこかへ出かけるだけでも、準備が増えることがある」
葵はうなずいた。
「うん」
「葵が看護師なのは知ってる」
春人は彼女を見た。
「でも、僕の彼女になったからって、僕の世話まで全部引き受けなきゃいけないと思ってほしくないんだ」
葵はしばらく黙っていた。
それから立ち上がり、少し近づいた。
「春人」
彼は顔を上げた。
「うん?」
「正直に言っていい?」
「もちろん」
葵は腕を組んだ。
「また考えすぎてるわね」
春人は苦笑した。
「多分ね」
「でも、今回はどうしてそう考えるのか分かる」
彼の笑顔が少し静かになった。
葵は続けた。
「春人の生活には、私が経験したことのない大変さがあると思う」
彼女は車椅子へ一瞬視線を向けた。
「それに、無視できない現実的な問題があることも分かってる」
春人はうなずいた。
「うん」
「でもね、私は新しい患者さんが欲しくて春人と付き合ってるわけじゃないの」
彼は彼女を見た。
「春人が好きだから、付き合ってるの」
葵は微笑んだ。
「ノートを買いに行って、本を三冊も増やして帰ってくる、皮肉屋のお馬鹿さん」
春人は小さく笑った。
「ひどい紹介だなあ」
「くだらない冗談ばっかり言う人」
彼女は続けた。
「物語を書いて、心配性で、家族思いで、私がどんなに機嫌の悪いときでも笑わせてくれる人」
春人は彼女を見つめた。
葵の表情が柔らかくなった。
「私が付き合ってるのは、そういう春人よ」
春人は唾を飲み込んだ。
「……葵」
「もちろん、これから一緒に考えなきゃいけないことはあると思う」
葵は肩をすくめた。
「でも、どんな恋人同士にも、考えなきゃいけないことはあるでしょ?」
春人はうなずいた。
「そうだね」
「それと、もう一つ分かってほしいことがあるの」
彼は顔を上げた。
「何?」
葵は優しく微笑んだ。
「私にも、自分で決める権利があるの」
春人は瞬きをした。
「何かが負担になりすぎたら、ちゃんと言うわ」
彼女は続けた。
「一人の時間が必要なら、そう伝える。分からないことがあれば聞く」
その声は少しだけ強くなった。
「でも、私が春人と付き合っていけるかどうかを、春人が勝手に決めないでほしいの」
春人は黙った。
葵は少し首を傾けた。
「分かった?」
彼は彼女の言葉を考えた。
そして、ゆっくりうなずいた。
「……分かった」
葵は微笑んだ。
「よろしい」
春人は息を吐いた。
「ごめん」
葵は首を振った。
「不安になることまで謝らなくていいわよ」
彼は彼女を見た。
「じゃあ、どうすればいい?」
「私に話して」
葵は微笑んだ。
「今みたいにね」
春人はしばらく答えられなかった。
それから、ゆっくり笑った。
「……それならできるよ」
葵はにやりとした。
「結構」
彼女は少し身をかがめた。
「じゃあ、真面目な大人の話は終わり?」
春人は笑った。
「多分ね」
「よかった」
葵はいたずらっぽく微笑んだ。
「実は一つ、文句があるの」
春人は眉を上げた。
「何について?」
「大地さんのこと」
春人はうめいた。
「葵!」
◇ ◇ ◇
二人は陽が傾き始めるまで、公園で過ごした。
やがて葵が立ち上がり、春人の隣へ戻った。
彼は彼女を見上げた。
「ねえ」
「何?」
「ありがとう」
葵は微笑んだ。
「何が?」
「話を聞いてくれて」
彼女は肩をすくめた。
「恋人って、そういうものでしょ」
春人は笑った。
「そうなの?」
「ほかにもいろいろあるけどね」
彼は眉を上げた。
「例えば?」
葵はにやりとした。
「ケーキを奪うこと」
「犯罪だ」
「本の買いすぎを注意すること」
「弾圧だ」
「それから、春人がお馬鹿なことを言ったら教えてあげること」
春人はため息をついた。
「それ、フルタイムの仕事になりそうだね」
葵は笑った。
「残念ながらね」
二人は公園の出口へ向かった。
そのとき――
「春人くん?」
声がした。
春人は振り向いた。
買い物袋を持った年配の女性が、数歩先に立っていた。
彼女の顔が明るくなる。
「あら、やっぱり春人くん!」
春人は微笑んだ。
「佐藤さん!」
女性が近づいてきた。
「こんにちは!」
「こんにちは」
佐藤さんは近所に住んでいて、昔から高橋家と付き合いがあった。
春人が幼い頃から知っている人だった。
そして、長年の知り合いによくあることだが――
春人がもう子供ではないという事実を、ときどき忘れてしまう。
「まあ、久しぶりねえ!」
春人は笑った。
「そんなに久しぶりでもないですよ」
「何言ってるの。最近は忙しそうじゃない」
彼女は葵を見た。
そして微笑んだ。
「あら、こちらの方は?」
春人の表情が柔らかくなった。
「水野葵さんです」
葵は丁寧に頭を下げた。
「初めまして」
佐藤さんは笑顔になった。
「まあ、よろしくね!」
それから春人を見た。
「新しい介助の方?」
沈黙。
大げさな沈黙ではなかった。
怒りに満ちたものでもない。
ただ――
ほんの少しの間。
春人は、こうした思い込みを何度も経験していた。
自分と同じくらいの年齢の女性と一緒にいると、仕事で付き添っている人だと思われることがある。
単なる勘違いの場合もある。
一方で、重い障害のある男性が恋人とデートをしているとは考えもしない人もいる。
春人は、その違いを見分けることにも慣れていた。
けれど、今日は――
何も言わずに流したくなかった。
彼は穏やかに微笑んだ。
「違いますよ、佐藤さん」
彼女は瞬きをした。
「あら?」
春人は葵を見た。
そして、笑った。
「僕の彼女です」
葵の表情がすぐに柔らかくなった。
佐藤さんは目を丸くした。
「……彼女さん?」
「はい」
春人はうなずいた。
「お付き合いしてるんです」
一瞬、佐藤さんは驚いた顔をした。
けれど、すぐに笑顔になった。
「あらまあ!」
彼女は嬉しそうに手を合わせた。
「おめでとう!」
春人は笑った。
「ありがとうございます」
佐藤さんは葵を見た。
「勝手に決めつけちゃってごめんなさいね」
葵は穏やかに微笑んだ。
「いえ」
春人も優しく言った。
「迷うこともあると思いますけど、僕との関係は、仕事の人だと決めつけずに聞いてもらえると嬉しいです」
佐藤さんはうなずいた。
「そうよね」
少し申し訳なさそうに笑う。
「ごめんなさい、春人くん」
「大丈夫ですよ」
彼女はもう一度微笑んだ。
「でも、本当に嬉しいわ。お二人ともお幸せにね」
「ありがとうございます」
葵も頭を下げた。
「ありがとうございます」
佐藤さんは時計を見た。
「あら、もうこんな時間。主人が心配するわ」
春人は笑った。
「お気をつけて」
「ありがとう!」
佐藤さんは手を振り、歩いていった。
しばらく――
春人と葵は黙っていた。
やがて葵が口を開いた。
「……春人」
彼は彼女を見た。
「何?」
葵は微笑んだ。
「ありがとう」
春人は瞬きをした。
「何が?」
「紹介してくれて」
春人は笑った。
「当たり前でしょ」
葵は首を振った。
「ううん」
少し真面目な表情になる。
「自然に言ってくれたのが、嬉しかった」
春人は彼女を見た。
葵は続けた。
「彼女です、って」
彼は微笑んだ。
「だって……」
葵は待った。
「本当にそうなんだから」
葵の頬が赤くなった。
「……うん」
春人はにやりとした。
「まさか、気が変わった?」
葵は目を細めた。
「調子に乗らないの」
春人は笑った。
「了解」
彼女は佐藤さんが歩いていった方を見た。
「こういうこと、よくあるの?」
春人は少し考えた。
「時々ね」
「私みたいに、一緒にいる人が介助者だと思われること?」
「それもあるし、ほかの人と一緒にいてもそう思われることはあるよ」
葵は眉を寄せた。
「面倒ね」
「まあね」
春人は少し間を置いた。
「特に、僕がそこにいるのに、隣の人に向かって話しかけられるときとか」
葵はゆっくりうなずいた。
「見たことあるわ」
「うん」
春人は苦笑した。
「でも、訂正するのには慣れてるから」
葵は彼を見た。
「慣れてるからって、嫌じゃなくなるわけじゃないでしょ?」
春人は考えた。
「……そうだね」
葵はうなずいた。
そして微笑んだ。
「まあ、念のために言っておくけど」
春人は眉を上げた。
「何?」
「春人の彼女として紹介されるの、すごく嬉しいわよ」
彼の表情が柔らかくなった。
「……本当に?」
葵は笑った。
「何回言わせるの?」
「あと十七回くらい」
「お馬鹿」
春人はにやりとした。
「葵のお馬鹿だよ」
葵は固まった。
頬が一気に赤くなる。
春人は目を丸くした。
そして、いたずらっぽく笑った。
「……あれ?」
葵は顔をそらした。
「やめて」
彼は笑った。
「ついに照れた?」
「照れてない」
「葵」
「うるさい」
春人は笑った。
「勝った」
◇ ◇ ◇
公園の静かな一角へ戻った頃には、太陽が周囲の建物の向こうへ沈み始めていた。
遠くから噴水の音が聞こえる。
舗装された遊歩道は、小さな木立の方へ曲がっていた。
葵は歩く速度を落とした。
春人はそれに気づいた。
「どうかした?」
葵は首を振った。
「ううん」
「じゃあ?」
彼女は微笑んだ。
「まだ終わってないことがあるでしょ」
春人は瞬きをした。
「……何が?」
葵は腕を組んだ。
「考えて」
春人は少し考えた。
「アパート?」
「違う」
「本屋?」
「違う」
「僕の読書趣味に対する、葵の終わりなき弾圧?」
「春人」
彼は笑った。
「はい」
葵は一歩近づいた。
「昨日の夜」
春人は固まった。
笑顔が消えた。
そして、ずいぶんぎこちない笑顔に変わった。
「……ああ」
葵は眉を上げた。
「覚えてる?」
春人は唾を飲み込んだ。
「鮮明に」
彼女は小さく笑った。
「よかった」
数秒間――
二人は動かなかった。
葵は周囲を見回した。
親戚はいない。
忘れ物のお菓子もない。
突然邪魔をしてくる人もいない。
あるのは、静かな公園。
夕方の風。
そして、二人だけ。
葵は微笑んだ。
「それで?」
春人は彼女を見た。
「……それで?」
葵はため息をついた。
「本当に、全部私にやらせるつもり?」
春人は緊張したように笑った。
「今、呼吸の仕方を思い出そうとしてるところなんだ」
葵はくすっと笑った。
「お馬鹿」
そして――
彼女は近づいた。
急にではない。
春人が心の準備をする時間を残しながら。
葵は、春人が無理なく顔を見られる位置まで身をかがめた。
そして、小さな声で尋ねた。
「キスしてもいい?」
春人の心臓が止まったような気がした。
一瞬――
答えが出てこなかった。
けれど、やがて微笑んだ。
「……すごく、してほしい」
葵の表情が柔らかくなった。
「分かった」
彼女はゆっくり顔を近づけた。
春人も、できる範囲で少し顔を向けた。
二人は目を閉じた。
そして――
初めて。
唇が触れた。
劇的なものではなかった。
花火が上がったわけでもない。
壮大な音楽が流れたわけでもない。
世界が突然変わったわけでもない。
ただ――
柔らかくて、短いキス。
少し緊張していて。
少しぎこちなくて。
それなのに――
二人が想像していた以上に、大切なものだった。
葵がゆっくり顔を離したとき、春人は動かなかった。
目を開ける。
そして、彼女を見つめた。
葵は瞬きをした。
「……春人?」
返事はない。
彼女は首を傾げた。
「もしもし?」
まだ返事はない。
葵は少し心配になった。
「春人?」
ようやく――
彼が小さくつぶやいた。
「……なんてこった」
葵は固まった。
そして、吹き出した。
「えっ!?」
春人は瞬きをした。
「いや、その……」
葵はさらに笑った。
「最初の感想がそれ!?」
春人は真っ赤になった。
「最初に思いついた言葉がそれだったんだよ!」
葵は顔を覆った。
「もう、信じられない!」
春人はうめいた。
「……台無しにした」
葵は笑いながら首を振った。
「ううん!」
彼女は目元を拭った。
「完璧だったわ」
春人は彼女を見た。
「完璧?」
葵は微笑んだ。
「ものすごく春人らしくて」
「ありがとう……」
「ものすごくおかしくて」
「褒めてる?」
「もちろん」
葵は少し近づいた。
「私は、そういうところも好きなの」
春人の表情が柔らかくなった。
「……本当に?」
「本当」
彼は小さく笑った。
「じゃあ……」
葵は眉を上げた。
「何?」
「もう一回……」
春人はためらった。
葵は微笑んだ。
「もう一回、何?」
春人の頬が赤くなった。
「……キスしてもいい?」
葵の表情が柔らかくなった。
そして、にやりとした。
「やっと言ったわね」
彼女はもう一度、春人にキスをした。
今度は――
春人も、終わったあとに言葉を忘れずに済んだ。
もっとも――
かなり危なかったのだが。
◇ ◇ ◇
二人は、そのあともしばらく公園にいた。
特別な用事があったからではない。
ただ――
どちらも、この時間を終わらせたくなかった。
葵は春人の隣のベンチに腰を下ろした。
彼女の手は、操作部を避けて車椅子のアームレストにそっと置かれていた。
しばらく、二人は夕陽が消えていくのを眺めた。
やがて春人が口を開いた。
「……ねえ」
葵は微笑んだ。
「何?」
「僕、前から想像してたんだ」
彼女は春人を見た。
「本当に?」
春人はすぐに後悔した。
「……まあ、少し」
葵はにやりとした。
「何回くらい?」
「国家機密です」
「春人」
「安全保障上の問題があるので」
葵は笑った。
「教えてよ」
彼はため息をついた。
「……何回か」
葵は微笑んだ。
「私も」
春人は顔を向けた。
「……本当に?」
彼女はうなずいた。
「うん」
春人は彼女を見つめた。
葵は笑った。
「何?」
「いや……」
「春人」
彼は微笑んだ。
「僕たち、本当に付き合ってるんだなって」
葵の表情が柔らかくなった。
彼女は暮れかけた空を見た。
「……分かる気がする」
しばらく静かになった。
そして、葵が言った。
「私、もう恋愛はしないと思ってた」
春人は黙って聞いた。
「誰かに愛されたくなかったわけじゃないの」
彼女は視線を落とした。
「ただ、怖い思いをするのに疲れてた」
春人の笑顔が少し消えた。
彼女の過去については、十分に理解していた。
だから、口を挟まなかった。
葵はゆっくり息を吸った。
「あんなことがあってから、誰も必要ないって自分に言い聞かせてたの」
小さく笑う。
「その方が楽だったから」
春人はうなずいた。
「うん」
「でも、春人が現れた」
彼は眉を上げた。
「残念ながら」
葵は微笑んだ。
「残念ながら」
彼女は春人を見た。
「私を説得しようとしたわけでもないのに、もう一度誰かを信じてみたいと思わせてくれた」
春人は彼女を見つめた。
「……葵」
彼女は微笑んだ。
「今でも怖くなることはあるわ」
春人はうなずいた。
「僕もだよ」
「知ってる」
葵は少し間を置いた。
「でも、それでいいと思うの」
春人は彼女を見た。
「未来のことを全部分かってる必要なんてないでしょ」
彼は微笑んだ。
「うん」
「今、自分が何を望んでるのか、正直でいればいい」
春人はうなずいた。
「そうだね」
葵は彼を見た。
「それで、今の私は……」
春人は待った。
彼女は微笑んだ。
「これからも春人と一緒にいたい」
春人の胸に、温かなものが広がった。
「……僕も、そうしたい」
葵は笑った。
「そうしたい?」
彼はにやりとした。
「かなりね」
彼女は微笑んだ。
「よろしい」
しばらく、心地よい沈黙が流れた。
やがて春人が口を開いた。
「……葵?」
「何?」
「一つ、話してもいい?」
「もちろん」
彼は少しためらった。
そして微笑んだ。
「昔、僕の未来って、すごく狭いものになるんじゃないかって思ってた」
葵は静かに聞いていた。
「夢がなかったわけじゃないんだ」
春人は遊歩道へ目を向けた。
「たくさんあったよ」
小さく笑う。
「今もある」
葵は微笑んだ。
「知ってる」
「でも、ときどき……」
彼は少し間を置いた。
「何かをやってみたいと思っても、そこにたどり着くまでに、百個くらいの障害を越えなきゃいけない気がした」
葵はうなずいた。
「うん」
「病院のこと。医療機器のこと。バリアフリーのこと。周りの人の期待とか、思い込みとか」
春人はため息をついた。
「そういうことが続くと、何かを望むこと自体が面倒になってくるんだ」
葵は彼を見つめた。
春人は彼女を見た。
「でも最近、少し考え方が変わってきた」
「どういうふうに?」
彼は微笑んだ。
「未来って、ただ待ってるものじゃないのかもしれない」
葵は黙って聞いた。
「自分で作っていくものなのかもしれないって」
少し間を置く。
「時間がかかったとしてもね」
葵の表情が柔らかくなった。
「……いい考えね」
春人は微笑んだ。
「僕もそう思う」
そして、彼女を見た。
「それに……」
葵は眉を上げた。
「それに?」
彼は笑った。
「その未来に、もう一人分の場所があってもいいかなって」
葵は微笑んだ。
「もう一人?」
「うん」
「私の知ってる人?」
春人は考えるふりをした。
「ものすごく怖い人なんだけど」
葵は目を細めた。
「あら?」
「皮肉屋で」
「へえ」
「人のデザートを奪って」
「犯罪者ね」
「純情な青年をからかうのが趣味らしい」
葵は笑った。
「素敵な女性じゃない」
春人は微笑んだ。
「うん」
そして、静かに言った。
「本当に素敵な人だよ」
葵の笑顔が止まった。
その表情が柔らかくなる。
しばらく――
二人は何も言わなかった。
やがて葵は、春人の手にそっと触れた。
春人は手元を見た。
そして、彼女を見上げた。
葵は微笑んだ。
「……私の未来にも、春人の場所があるわよ」
春人は唾を飲み込んだ。
「……ありがとう」
彼女は優しく手を握った。
「どういたしまして」
◇ ◇ ◇
やがて、夕方の空気が少し冷たくなってきた。
葵は時計を見た。
「……そろそろ帰りましょうか」
春人はため息をついた。
「残念ながら」
彼女は笑った。
「本当に別れ際が苦手なのね」
「得意じゃないね」
「私も」
春人は微笑んだ。
二人は公園の出口へ向かった。
今度は――
邪魔する人はいなかった。
親戚もいない。
警告音も鳴らない。
突然の質問もない。
ただ、夕暮れの空の下を一緒に進むだけだった。
出口で、葵は立ち止まった。
春人は彼女を見た。
「……さて」
葵は微笑んだ。
「さて」
彼は小さく笑った。
「今日は楽しかったね」
葵は眉を上げた。
「楽しかった、だけ?」
春人はにやりとした。
「ものすごく楽しかった」
「よろしい」
葵は身をかがめ、春人の頬に軽くキスをした。
春人は微笑んだ。
「……ずいぶん大胆になったね」
葵は笑った。
「今さら気づいたの?」
「確かに」
彼女は身体を起こした。
「家に着いたら連絡してね」
春人はうなずいた。
「葵もね」
「約束」
しばらく、どちらも動かなかった。
やがて春人が口を開いた。
「……葵」
「何?」
彼は微笑んだ。
「愛してるよ」
葵は瞬きをした。
初めて聞いた言葉ではなかった。
昨夜、二人はメッセージでその言葉を交わしていた。
けれど――
こうして顔を合わせて聞くと、何かが違った。
もっと現実味があった。
葵の表情が柔らかくなった。
彼女は少し身をかがめた。
「私も愛してる、春人」
春人は微笑んだ。
すると葵は続けた。
「本の趣味はちょっと問題だけどね」
春人は笑った。
「やっぱり言うんだ!」
葵はにやりとした。
「調子に乗らせないようにしないと」
「そんな心配は無用だよ」
彼女は手を振った。
「おやすみ、春人」
「おやすみ、葵」
そして今度は――
葵が歩いていくのを見送っても、春人はそれほど寂しくなかった。
なぜなら――
別れが、もう終わりには感じられなかったからだ。
次に会えるという、小さな約束のように思えた。
◇ ◇ ◇
その夜、春人は机に向かっていた。
パソコンの画面には、アパートの間取り図が開かれたままだった。
不動産会社からの最終的な返事は、まだない。
浴室の出入口も、まだ狭いままだ。
新しい住まいが見つかるかどうかも、分からない。
けれど――
春人の中で、何かが変わっていた。
彼は母の写真を見た。
「……母さん」
微笑む。
「キスしたよ」
沈黙。
それから、小さく笑った。
「うん」
少し間を置く。
「やっとね」
春人は、美咲がどんな反応をしただろうと想像した。
嬉しそうな叫び声。
からかうような笑顔。
次々と飛んでくる質問。
何があったのか、全部聞こうとする母の姿。
春人は笑った。
「……きっと大騒ぎしただろうね」
笑顔が少し寂しげになる。
「でも、ここにいてほしかったな」
しばらく静かに過ごしたあと、春人はパソコンの文書を開いた。
画面の上部には、タイトルが表示されていた。
『母さんへの手紙』
春人は音声入力を始めた。
「母さんへ」
少し間を置く。
「母さんが昔、僕に言ってくれたことを、少しずつ理解できるようになってきた気がする」
彼は窓の外を見た。
「幸せは、いつも自分が想像していた形でやってくるわけじゃないんだね」
小さく微笑む。
「ときには、とても静かにやってくる」
葵のことを思い浮かべた。
彼女の笑い声。
からかうような言葉。
優しさ。
不安を聞いてくれたときの表情。
そして――
初めてのキス。
「何でもない一日を、特別なものにしてくれる人として現れることもある」
春人は少し間を置いた。
「それに、ときには……」
笑顔が大きくなる。
「口が悪くて、人のケーキを奪うのが好きな女性として現れることもあるらしい」
春人は笑った。
そして続けた。
「まだ、あのアパートに住めるかどうかは分からない」
「明日、どんな問題が起きるのかも分からない」
「僕の未来が、どんな形になるのかも分からない」
春人は美咲の写真を見た。
「でも、久しぶりに、その未来を知るのが楽しみなんだ」
少し間を置く。
「何もかも簡単になったからじゃない」
「介助が必要なくなったからでもない」
「すべての問題を解決してくれる人が現れたからでもない」
彼は微笑んだ。
「ただ、僕の人生には、まだまだ広がっていく余地があるんだって、少しずつ分かってきたから」
「まだ見たことのない場所がある」
「まだ出会っていない人がいる」
「まだ書いていない物語がある」
「まだ経験していない時間がある」
春人は少し間を置いた。
そして、静かに続けた。
「それから、もしかしたら……」
「その時間を、一緒に過ごせる人もいる」
春人は音声入力を止めた。
しばらく、画面に並んだ言葉を見つめた。
そして微笑んだ。
「……母さんも、きっと葵のことを好きになったと思う」
文書を保存した。
窓の外には、穏やかな夜が広がっていた。
スマートフォンが震えた。
葵:無事に帰ったよ。
葵:それと……
春人は微笑んだ。
春人:それと?
葵:今日は本当に楽しかった。
春人:僕も。
葵:特に公園。
春人の頬が少し熱くなった。
春人:うん。
春人:あれは特別だったね。
葵:特別だった、だけ?
春人:ものすごく特別だった。
葵:よろしい。
春人は笑った。
続けて、もう一通届いた。
葵:おやすみ、彼氏くん。
葵:いい夢を見てね。
春人は微笑んだ。
春人:おやすみ、彼女さん。
春人:幅の広いドアの夢を見るといいよ。
葵:春人!!
彼は声を出して笑った。
そして東京のどこかでは――
水野葵が、きっと呆れたように目を回していることだろう。
おそらく、笑いながら。
春人は電動車椅子のヘッドレストに頭を預けた。
部屋は静かだった。
未来は、まだ不確かだった。
けれど今夜は――
それでも構わないと思えた。
なぜなら、明日というものが、もう一人で向き合わなければならないものには感じられなかったからだ。
昨日までの不安と、明日からの可能性。
その間にある何でもない日々の中で――
春人は、決して当たり前にしたくないものを見つけていた。
完璧な人生ではない。
簡単な人生でもない。
けれど――
これからも美しいものへと変わっていく可能性を持った人生。
何でもない一日を、一つずつ重ねながら。




