第44話 幸せが静かに灯る、家族と恋人の食卓
高橋家の台所は、戦場と化していた。
ただし――
銃声は聞こえない。
爆発も起きていない。
敵兵が侵入してきたわけでもない。
その代わりに、鍋が三つ。
フライパンが二つ。
まな板が四枚。
そして、料理を並べる場所が足りなくなりつつある食卓があった。
その中心に立っているのは――
高橋由紀。
エプロン姿。
髪を後ろでまとめ。
まるで国家の存亡を懸けた作戦を指揮する将軍のような表情をしていた。
「大地さん!」
「はいっ!」
居間から返事が聞こえた。
「お皿、もう並べてくれた?」
「並べたよ!」
「お箸は?」
「置いた!」
「おしぼりは?」
「ある!」
「お花は?」
「……花?」
由紀の手が止まった。
ゆっくり振り向く。
「大地さん」
その声は、妙に静かだった。
居間にいた高橋大地は、新聞から顔を上げた。
「……何だい?」
「お花は?」
大地は食卓を見た。
そして妻を見た。
「……必要なのか?」
沈黙。
非常に長い沈黙。
由紀はゆっくり息を吸った。
「今日は、春人が初めて彼女を連れてくる日なのよ!」
「いや、葵ちゃんは前にも来たことが――」
「彼女としてよ!」
「……ああ」
大地はうなずいた。
「なるほど」
由紀は腰に手を当てた。
「なるほど、じゃないわよ!」
大地は新聞を畳んだ。
「分かった、分かった。花瓶を出せばいいんだな?」
「もう出してあるわ」
「じゃあ花を――」
「花も買ってあるわ」
大地は瞬いた。
「……じゃあ、何をすればいいんだ?」
由紀は微笑んだ。
「飾って」
大地は数秒間、妻を見つめた。
そして立ち上がった。
「……はい、司令官」
「何か言った?」
「何でもありません!」
◇ ◇ ◇
大地は食卓の中央に花瓶を置いた。
白い小さな花と淡い桃色の花が、控えめに生けられている。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
問題は――
花瓶の周囲に、すでに料理を置く場所がほとんど残っていないことだった。
大地は台所をのぞいた。
「由紀」
「何?」
「ちょっと聞いていいか?」
「どうぞ」
「今日は何人来るんだ?」
由紀は振り向いた。
「四人よ」
大地は食卓を見た。
そして台所を見る。
「……四人?」
「そうよ」
「四十人じゃなくて?」
由紀は目を細めた。
「大地さん」
「いや、だって……」
大地は指を折って数え始めた。
「煮物があるだろ。焼き魚もある。唐揚げもある。茶碗蒸しにサラダ、それから……」
鍋の蓋を少し持ち上げる。
「味噌汁」
別の鍋を見る。
「すまし汁」
さらにもう一つ。
「……これは?」
「かぼちゃのポタージュ」
大地は固まった。
「汁物が三種類?」
「好みが分からないから」
「葵ちゃんは一度に三種類も汁物を飲むのか?」
由紀は少し考えた。
「選べる方がいいでしょう?」
大地は天井を見上げた。
「……そうか」
「そうよ」
「じゃあ、僕は何を飲めばいい?」
「全部」
「……全部?」
「残したらもったいないもの」
大地は深くため息をついた。
「今日の夕食は長くなりそうだな」
由紀は満足そうに笑った。
「楽しい夜になるわね!」
大地は小声でつぶやいた。
「胃袋にとっては試練だが……」
「聞こえてるわよ!」
「はいっ!」
◇ ◇ ◇
一方、春人は玄関に到着する前から、すでに帰りたくなっていた。
もちろん、自分の家なのだから帰るも何もない。
しかし、精神的には今すぐ別の場所へ避難したかった。
「……葵」
「何?」
「最後の確認なんだけど」
「うん」
「本当に来る?」
葵は彼を見下ろした。
「ここまで来て何言ってるの?」
「いや、まだ間に合うかなって」
「何に?」
「逃亡」
葵は笑った。
「逃げないわよ」
「そうか……」
春人はため息をついた。
「勇敢だね」
「大げさなのよ」
「そう思うでしょ?」
「思う」
「僕も昔はそうだった」
「春人」
「はい」
「早く入りなさい」
春人は観念したように車椅子を進めた。
玄関の扉が開く。
そして――
「おかえりなさーい!」
由紀の声が響いた。
春人は目を閉じた。
「……始まった」
由紀は満面の笑みで玄関に現れた。
「葵ちゃん!」
「こんばんは。今日はお招きいただいて、ありがとうございます」
葵は丁寧に頭を下げた。
由紀は両手を合わせた。
「まあ、そんなにかしこまらないで!」
「いえ、でも――」
「もう家族みたいなものなんだから!」
春人は即座に口を挟んだ。
「叔母さん!」
由紀は振り向いた。
「何?」
「早い!」
「何が?」
「いろいろと!」
葵は口元を押さえた。
肩が震えている。
笑いをこらえているのだ。
由紀は不思議そうな顔をした。
「春人ったら、どうしたの?」
「何でもない……」
大地が居間から現れた。
「おお、帰ってきたか」
「ただいま、叔父さん」
「こんばんは、大地さん」
葵が頭を下げると、大地は穏やかに微笑んだ。
「こんばんは、葵ちゃん。来てくれてありがとう」
「こちらこそ」
大地は春人を見た。
そしてにやりとした。
「春人」
「……何?」
「彼女を連れて帰るって、どんな気分だ?」
春人は天井を見上げた。
「……お願いだから、普通にして」
大地は笑った。
「普通だろ?」
「どこが?」
「父親代わりの男として、当然の質問だ」
「叔父さんは僕の叔父さんでしょ」
「細かいことは気にするな」
葵はとうとう笑い出した。
「ふふっ……」
春人は彼女を見た。
「葵」
「何?」
「笑い事じゃないんだけど」
「ごめん。でも……」
葵は笑いながら言った。
「春人が家族にいじられてるの、ちょっと新鮮」
春人はうめいた。
「……僕の味方はどこ?」
由紀が即座に答えた。
「ここにいるわよ!」
「叔母さんは敵側の総司令官だよ」
大地が吹き出した。
「それは否定できないな」
「大地さん!」
◇ ◇ ◇
夕食の前、春人は自分の部屋で少し休むことになった。
長時間の外出は、楽しいものであっても身体に負担がかかる。
車椅子に座り続けている間の姿勢や疲労にも注意が必要だった。
由紀がいつものように声をかけた。
「春人、少し休んでおく?」
「うん。十分くらい」
「分かったわ。必要なことがあったら呼んでね」
「ありがとう」
葵は廊下から部屋をのぞいた。
「疲れた?」
春人は微笑んだ。
「少しね」
「今日は結構動いたものね」
「うん」
葵は室内に入った。
春人の机には、いつものパソコン。
本棚には、数え切れないほどの本。
そして、母の写真が置かれていた。
葵はそれを見た。
「……ねえ」
「うん?」
「今日、楽しかった?」
春人は彼女を見上げた。
「もちろん」
「アパートのこと、心配だったでしょう?」
「まあね」
少し間を置く。
「でも、葵と一緒だったから楽しかった」
葵は瞬いた。
そして顔をそらした。
「……そういうこと、さらっと言わないでよ」
春人は笑った。
「何で?」
「心の準備が必要なの」
「葵にも?」
「私にも」
春人は微笑んだ。
「そっか」
葵は机の上に目を向けた。
「これ、お母さん?」
春人の表情が柔らかくなった。
「うん」
写真の中の美咲は、穏やかな笑顔を浮かべていた。
葵はしばらく見つめた。
「優しそうな人ね」
春人はうなずいた。
「優しかったよ」
少し笑う。
「でも、怒ると怖かった」
葵は微笑んだ。
「春人が何かやらかしたとき?」
「大抵はね」
「でしょうね」
「何、その納得の早さ」
葵は笑った。
春人も笑った。
それから、少し静かな声で言った。
「母さん、葵に会ったら喜んだだろうな」
葵は彼を見た。
春人は写真を見つめていた。
「多分、僕以上にはしゃいだと思う」
葵は微笑んだ。
「由紀さんみたいに?」
春人は吹き出した。
「……ああ」
少し考える。
「いや、もっとすごかったかも」
葵は笑った。
「それは大変ね」
「うん」
春人の笑顔が少し寂しげになった。
「……会わせたかったな」
その言葉は、小さかった。
けれど、葵にははっきり聞こえた。
彼女は何も言わなかった。
すぐに励まそうとはしなかった。
悲しまないで、とも言わなかった。
ただ、春人の隣に立っていた。
しばらくして、春人が口を開いた。
「ごめん。せっかく楽しい日なのに」
葵は首を振った。
「謝らなくていいわよ」
「でも――」
「春人」
彼は顔を上げた。
葵は静かに言った。
「楽しい日に、お母さんを思い出したっていいじゃない」
春人は黙った。
「嬉しいことがあったら、一番に伝えたかった人を思い出すのは、普通のことでしょ」
春人は彼女を見つめた。
葵は少し微笑んだ。
「それに、私も会ってみたかった」
春人の目が揺れた。
「……本当に?」
「うん」
葵は写真を見た。
「春人がどんな子供だったのか、いろいろ聞いてみたかった」
春人は笑った。
「絶対、余計なことまで話したと思うよ」
「それは楽しそう」
「やっぱり敵だ」
葵は微笑んだ。
「彼女です」
春人は彼女を見た。
そして笑った。
「……そうだったね」
◇ ◇ ◇
その頃、居間では大地が重大な任務を遂行していた。
食卓の椅子を動かすこと。
春人の車椅子が十分に近づけるよう、テーブル周囲の空間を確保すること。
そして――
由紀が増やし続ける料理の皿を、どうにか整理すること。
「由紀」
「何?」
「これ以上、皿は増えないよな?」
由紀は少し考えた。
「多分」
大地は固まった。
「……多分?」
「デザートがあるから」
「デザートは別だろ?」
「そうね」
大地は安心した。
しかし――
由紀は続けた。
「あと、果物も切ろうかと思って」
大地は静かに椅子へ座った。
「……そうか」
由紀は心配そうに見た。
「大地さん?」
「何でもない」
「疲れた?」
「少し人生について考えていた」
「大げさねえ」
大地は天井を見上げた。
「春人の気持ちが少し分かった気がする」
◇ ◇ ◇
夕食が始まったのは、午後六時半を少し過ぎた頃だった。
春人はいつもの位置に車椅子を停めた。
食卓の高さや食器の配置は、彼が食事をしやすく、必要な介助も受けやすいように調整されている。
葵は隣の席に座った。
大地は向かい側。
由紀は台所と食卓を行き来していた。
「さあ、どうぞ!」
由紀が最後の皿を置いた。
葵は食卓を見た。
そして固まった。
「……わあ」
春人は目を閉じた。
「……だから言ったのに」
葵は料理を見回した。
煮物。
焼き魚。
唐揚げ。
茶碗蒸し。
サラダ。
ご飯。
漬物。
そして――
汁物が三種類。
葵はゆっくり由紀を見た。
「あの……」
由紀は微笑んだ。
「何かしら?」
「今日は、何かのお祝いですか?」
由紀は嬉しそうに答えた。
「もちろん!」
春人は嫌な予感がした。
「叔母さん」
由紀は両手を合わせた。
「春人に彼女ができたお祝いよ!」
春人は頭を下げた。
「……やっぱり」
葵は目を見開いた。
そして笑った。
「そんな……ありがとうございます」
由紀は首を振った。
「いいのよ! 私たちも嬉しいんだから」
大地が口を挟んだ。
「ちなみに、汁物は三種類ある」
葵は瞬いた。
「三種類?」
「味噌汁、すまし汁、ポタージュ」
春人が静かに言った。
「叔母さん、葵が三つの胃袋を持ってると思ってるんだよ」
由紀は笑った。
「好きなものを選んでもらいたかっただけよ!」
葵は笑いながら頭を下げた。
「どれもおいしそうです」
大地は小さくつぶやいた。
「……その言葉を待っていた」
春人は叔父を見た。
「何?」
「いや、何でもない」
◇ ◇ ◇
食事が始まると、由紀の質問攻撃も始まった。
「葵ちゃん、春人の第一印象ってどうだった?」
春人の動きが止まった。
「叔母さん」
葵は考えた。
「第一印象ですか?」
「そう!」
葵は春人を見た。
そして微笑んだ。
「……口の減らない人だなって」
大地が吹き出した。
「はははっ!」
春人は心外そうな顔をした。
「それ、第一印象としてどうなの?」
葵は肩をすくめた。
「事実でしょ」
「僕、そんなにひどかった?」
「かなり」
由紀は笑った。
「あら、春人ったら」
春人はため息をついた。
「誰も味方してくれない……」
葵は続けた。
「でも、面白い人だとも思いました」
春人は顔を上げた。
「……本当に?」
「うん」
葵は少し微笑んだ。
「最初は、わざとふざけてるのかなって思ったんです」
由紀は静かに聞いていた。
「でも、話しているうちに分かってきて」
葵は春人を見た。
「この人、周りに気を遣わせないように笑ってることがあるんだなって」
春人は黙った。
大地も箸を止めた。
葵は続けた。
「もちろん、単純にくだらない冗談が好きなだけのときもありますけど」
「おい」
皆が笑った。
葵も笑った。
「でも、優しい人だなって思いました」
春人は彼女を見た。
葵は少し照れたように視線をそらした。
「……まあ、そんな感じです」
由紀は静かに微笑んでいた。
「ありがとう、葵ちゃん」
葵は驚いたように顔を上げた。
「え?」
由紀は春人を見た。
「この子、昔からそうなの」
春人は眉を寄せた。
「叔母さん?」
「つらいことがあっても、周りを笑わせようとするのよ」
大地がうなずいた。
「確かにな」
春人は苦笑した。
「そんな大げさな……」
由紀は首を振った。
「大げさじゃないわ」
少し間を置く。
「でも、最近は前より自然に笑うようになった気がする」
春人は黙った。
由紀は葵を見た。
「きっと、葵ちゃんのおかげね」
葵は慌てた。
「いえ、そんな……」
春人が口を開いた。
「叔母さん」
「何?」
「葵が僕の人生を全部変えたみたいな言い方は、ちょっと違うと思う」
由紀は瞬いた。
春人は微笑んだ。
「葵と出会う前にも、楽しいことはあったし、叔母さんたちにもずっと助けてもらってた」
由紀は静かにうなずいた。
「そうね」
春人は葵を見た。
「でも、葵といると、新しく楽しみにできることが増えたんだ」
葵は彼を見つめた。
「それは本当」
由紀の目が潤んだ。
「春人……」
春人は即座に警戒した。
「泣かないでよ」
「泣いてないわよ!」
大地が笑った。
「泣きそうだぞ」
「大地さん!」
葵は笑った。
春人も笑った。
食卓には、温かな空気が流れていた。
◇ ◇ ◇
食事が進むにつれ、会話は自然と春人の幼い頃の話になった。
それは――
春人にとって、非常に危険な展開だった。
「そういえば、葵ちゃん」
由紀が言った。
春人は即座に顔を上げた。
「叔母さん」
「春人の小さい頃の写真、見たい?」
「叔母さん!」
葵の目が輝いた。
「見たいです!」
春人は絶望した。
「……裏切り者」
葵はにやりとした。
「彼女の特権よ」
「その特権、多すぎない?」
大地が笑った。
「まあまあ、春人」
「叔父さんまで!」
由紀は嬉しそうに立ち上がった。
「ちょっと待っててね!」
春人は慌てて言った。
「叔母さん、お願いだから変な写真は――」
しかし――
由紀はすでに廊下へ消えていた。
春人は頭を下げた。
「……終わった」
葵は笑いをこらえていた。
「そんなにひどい写真があるの?」
春人は彼女を見た。
「葵」
「何?」
「人間には、知らない方が幸せなことがあるんだ」
「へえ」
「本当に」
「ますます楽しみ」
春人は天井を見上げた。
「……神様、僕が何をしたっていうんですか」
大地が笑った。
「彼女を連れてきた」
「それは罪なの!?」
◇ ◇ ◇
数分後、由紀が分厚いアルバムを抱えて戻ってきた。
春人はそれを見た瞬間、顔をしかめた。
「あっ……」
葵は身を乗り出した。
「わあ、アルバム!」
由紀は嬉しそうにうなずいた。
「春人が小さい頃の写真がたくさんあるのよ」
「叔母さん、お願いだから――」
「まずはこれね!」
由紀は一枚の写真を指さした。
葵がのぞき込む。
そこには、幼い春人が写っていた。
まだ小さな身体。
柔らかな髪。
そして、真剣な表情。
目の前には、積み木が並んでいる。
葵は微笑んだ。
「……可愛い」
春人は固まった。
「……え?」
葵は写真を見つめた。
「すごく可愛い」
由紀は嬉しそうに笑った。
「でしょう?」
春人は顔を赤くした。
「……やめて」
葵は彼を見た。
「何で?」
「恥ずかしいから」
「可愛いって言われるのが?」
「昔の写真を見ながら言われるのが!」
葵は笑った。
「じゃあ、今も可愛いって言えばいい?」
春人はさらに赤くなった。
「……葵」
由紀は両手を合わせた。
「あらまあ!」
大地は笑いをこらえていた。
「春人、顔が真っ赤だぞ」
「知ってる!」
次の写真には、幼い春人が大きな眼鏡をかけていた。
葵は吹き出した。
「何これ!?」
春人は目を閉じた。
「……ああ、それか」
由紀は笑った。
「大地さんの眼鏡をかけたがったのよ」
大地がうなずいた。
「私の真似をして、新聞を読もうとしていたな」
葵は笑った。
「小さい頃からおじさんみたいだったのね」
春人は抗議した。
「違う! 知的好奇心が旺盛だっただけ!」
「はいはい」
葵は写真を見つめた。
「でも、本当に可愛い」
春人は黙った。
何度言われても――
慣れそうになかった。
◇ ◇ ◇
アルバムのページが進むにつれ、笑い声は少しずつ穏やかなものへ変わっていった。
写真の中には、春人の母、美咲が何度も登場した。
春人を抱きかかえる姿。
車椅子の隣で笑う姿。
誕生日のケーキを前に、息子と並んで写る姿。
病院の窓辺で、春人に本を読み聞かせている姿。
葵は一枚の写真の前で手を止めた。
そこには、まだ幼い春人と美咲が写っていた。
春人は小さな車椅子に座っている。
美咲はその隣にしゃがみ、息子と同じ高さで笑っていた。
二人の間には、何かを共有しているような親密さがあった。
葵は静かに言った。
「……素敵な写真ですね」
由紀の表情が柔らかくなった。
「これ、私が撮ったの」
「そうなんですか?」
「ええ。春人がまだ小さかった頃よ」
春人は写真を見た。
「……覚えてる」
由紀は驚いた。
「本当に?」
「うん。全部じゃないけど」
春人は少し微笑んだ。
「母さんが、僕に変な顔をして笑わせようとしてたんだ」
大地が笑った。
「美咲らしいな」
由紀もうなずいた。
「あの子、春人を笑わせるのが大好きだったもの」
葵は写真を見つめた。
「春人、笑ってる」
春人はうなずいた。
「うん」
少し間を置く。
「母さんがいると、何でも面白くなったんだ」
その言葉に、由紀の目が少し潤んだ。
葵は静かに春人を見た。
彼は写真を見つめていた。
笑っていた。
けれど、その笑顔には少しだけ寂しさが混じっていた。
由紀はアルバムをそっと閉じかけた。
「……ごめんね、春人」
春人は顔を上げた。
「何で?」
「つらいこと、思い出させちゃったかしら」
春人は首を振った。
「ううん」
少し微笑む。
「嬉しいよ」
由紀は彼を見た。
春人は続けた。
「母さんのこと、こうやって話せるの」
静かな声だった。
「悲しいこともあるけど、それだけじゃないから」
由紀はゆっくりうなずいた。
大地も黙って聞いていた。
春人は写真を見た。
「母さんとの思い出まで、悲しいものにしたくないんだ」
葵はその言葉を胸の中で繰り返した。
思い出まで、悲しいものにしたくない。
それは、彼女にとっても大切な言葉のように思えた。
◇ ◇ ◇
由紀はアルバムをもう一度開いた。
「美咲はね、本当に春人のことを誇りに思っていたのよ」
春人は顔を上げた。
「……そうかな」
「もちろん」
由紀は微笑んだ。
「病気のことも、生活の大変さも、全部分かった上でね」
少し間を置く。
「春人が何かできるようになったときだけじゃないの」
春人は静かに聞いていた。
「ただ春人が春人でいることを、あの子は大切にしていた」
その言葉に、春人の表情が変わった。
由紀は続けた。
「もちろん、心配もしてたわ。たくさんね」
大地がうなずいた。
「それはそうだろうな」
由紀は笑った。
「でも、春人の人生を、心配だけでいっぱいにしたくないとも言ってた」
春人は写真を見た。
葵も黙って聞いていた。
「いつか春人が大人になって、自分の好きなことを見つけて、自分の人生を選んでいくのを見たいって」
由紀の声が少し震えた。
「そう言ってたのよ」
春人は目を閉じた。
母の声を思い出した。
幼い頃、病院のベッドの横で聞いた声。
夜中に目が覚めたとき、安心させてくれた声。
何度も名前を呼んでくれた声。
そして――
もう二度と直接聞くことのできない声。
胸が締めつけられた。
それでも、春人は微笑んだ。
「……そっか」
由紀はうなずいた。
「ええ」
春人はゆっくり息を吐いた。
「じゃあ、ちゃんと頑張らないとね」
葵は彼を見た。
「春人」
「うん?」
「頑張りすぎなくてもいいんじゃない?」
彼は瞬いた。
葵は微笑んだ。
「お母さんが見たかったのは、無理してる春人じゃなくて、春人が自分の人生を生きてるところなんでしょ?」
春人は黙った。
葵は続けた。
「だったら、楽しむことも大事じゃない?」
春人は彼女を見つめた。
そして、ゆっくり笑った。
「……葵の言うとおりかも」
葵はにやりとした。
「また私が正しいって認めた」
春人は笑った。
「今日は二回目だね」
「記念日にしようかしら」
「やめて」
由紀は笑った。
大地も笑った。
そして、食卓には再び穏やかな空気が戻った。
◇ ◇ ◇
食後、由紀は台所で片づけを始めた。
大地も手伝っている。
もっとも――
その手伝いが本当に役立っているかどうかは、議論の余地があった。
「大地さん、そのお皿はそっちじゃないわ」
「こっちか?」
「違う、そっち!」
「どっちだ?」
「もう、貸して!」
春人は居間からそのやり取りを聞いていた。
そしてため息をついた。
「……いつものことだ」
葵は笑った。
「仲がいいのね」
「そう見える?」
「うん」
春人は少し考えた。
「まあ、仲はいいと思う」
葵は微笑んだ。
「素敵じゃない」
春人はうなずいた。
「うん」
しばらく、二人は静かに過ごした。
テレビはついていたが、誰も真剣に見ていなかった。
窓の外には夜の街が広がっている。
遠くを走る車のライトが、時折カーテンに淡い光を落とした。
葵は春人を見た。
「ねえ」
「何?」
「今日は、ありがとう」
春人は瞬いた。
「何が?」
「家族に紹介してくれて」
春人は微笑んだ。
「こちらこそ」
葵は少し視線を落とした。
「……正直、ちょっと緊張してた」
春人は驚いた。
「葵が?」
「何よ」
「いや、全然そう見えなかったから」
葵は笑った。
「私だって緊張くらいするわよ」
「そうなんだ」
「そうよ」
春人は微笑んだ。
「でも、楽しそうだった」
葵はうなずいた。
「うん」
少し間を置く。
「すごく楽しかった」
春人は彼女を見た。
葵は続けた。
「由紀さんも大地さんも、本当に温かい人たちね」
春人はうなずいた。
「うん」
「春人のこと、大事にしてるのが分かる」
春人は少し笑った。
「時々、大事にしすぎるけどね」
葵も笑った。
「それは否定しない」
二人は顔を見合わせた。
そして笑った。
◇ ◇ ◇
その後、由紀が居間へ戻ってきた。
手には小さな箱を持っている。
春人はそれを見た瞬間、警戒した。
「……何?」
由紀は微笑んだ。
「葵ちゃんにお土産」
葵は驚いた。
「えっ?」
由紀は箱を差し出した。
「よかったら、持って帰って」
葵は受け取った。
「ありがとうございます。でも、こんなにしていただいて……」
由紀は首を振った。
「いいのよ」
箱の中には、手作りの焼き菓子が入っていた。
小さなクッキー。
丁寧に包まれたパウンドケーキ。
そして、可愛らしいリボン。
葵は微笑んだ。
「わあ……」
由紀は嬉しそうに言った。
「春人が小さい頃から好きだったお菓子なの」
春人は目を細めた。
「叔母さん」
「何?」
「僕の好物を全部葵に教えるつもり?」
由紀は笑った。
「もちろん!」
葵はにやりとした。
「なるほど」
春人は嫌な予感がした。
「……何?」
葵は箱を見つめた。
「今後の交渉材料が増えたわ」
春人は頭を下げた。
「……最悪だ」
大地が笑った。
「春人、恋愛は駆け引きだぞ」
春人は叔父を見た。
「叔父さん」
「何だ?」
「その助言、絶対に参考にしないから」
大地は心外そうな顔をした。
「なぜだ?」
春人は台所の方を見た。
「さっき、皿を置く場所で叔母さんに三回怒られてたよね」
大地は黙った。
葵は吹き出した。
由紀は笑った。
「春人、よく見てるわね!」
大地はため息をついた。
「……今日は私の味方もいないのか」
春人はにやりとした。
「ようこそ、僕の世界へ」
◇ ◇ ◇
夜が深まるにつれ、葵が帰る時間も近づいてきた。
春人は少し寂しくなった。
もちろん、今日一日ずっと一緒にいた。
アパートを見て。
カフェで話して。
家族と夕食を食べて。
十分すぎるほど、楽しい時間だった。
それでも――
別れの時間が近づくと、もう少しだけ一緒にいたいと思ってしまう。
それは、何とも不思議な感覚だった。
葵が時計を見た。
「そろそろ帰らないと」
春人はうなずいた。
「そうだね」
由紀が顔を上げた。
「あら、もう?」
葵は微笑んだ。
「はい。明日も予定があるので」
「そうなのね」
由紀は少し残念そうな顔をした。
「またいつでも来てね」
葵は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。ぜひ」
大地も微笑んだ。
「気をつけて帰るんだよ」
「はい」
春人は葵を見た。
「玄関まで送るよ」
葵は笑った。
「当然でしょ」
「厳しいなあ」
「彼氏の仕事よ」
春人は微笑んだ。
「了解」
◇ ◇ ◇
玄関へ向かう途中、葵は少し足を止めた。
壁には、家族写真が何枚か飾られていた。
春人と由紀。
春人と大地。
そして――
美咲と幼い春人。
葵はその写真を見つめた。
春人も視線を向けた。
「……母さん、写真撮られるの好きだったんだ」
葵は微笑んだ。
「そうみたいね」
春人は少し笑った。
「僕はあんまり好きじゃなかったけど」
「今も?」
「今も」
葵はにやりとした。
「じゃあ、今度いっぱい撮ろうかしら」
春人は目を細めた。
「……葵」
「何?」
「嫌がらせ?」
「思い出作り」
春人は笑った。
「言い方を変えただけじゃない?」
葵も笑った。
そして、もう一度写真を見た。
「でも、写真っていいわね」
春人はうなずいた。
「うん」
葵は静かに言った。
「そのときは普通だった時間が、後からすごく大切になることもあるから」
春人は彼女を見た。
その言葉が、胸に残った。
普通だった時間。
母と過ごした朝。
病院の帰り道。
一緒に食べた夕食。
何でもない会話。
その一つ一つが、今ではかけがえのない思い出になっている。
春人は微笑んだ。
「……そうだね」
葵は彼を見た。
「だから、これからもいっぱい思い出を作りましょう」
春人は一瞬、言葉を失った。
そして、ゆっくり笑った。
「……うん」
少し間を置く。
「そうしよう」
◇ ◇ ◇
玄関の外には、涼しい夜風が吹いていた。
街灯が歩道を照らしている。
遠くでは車の走る音が聞こえた。
春人は車椅子を玄関先まで進めた。
葵はその隣に立った。
二人はしばらく、何も言わなかった。
やがて葵が口を開いた。
「……今日は本当に楽しかった」
春人は微笑んだ。
「僕も」
「由紀さんの料理、おいしかったし」
「三種類の汁物も?」
葵は笑った。
「全部おいしかった」
春人は目を見開いた。
「全部飲んだの!?」
「少しずつね」
「すごいな……」
葵はにやりとした。
「彼女の実力を見くびらないで」
春人は笑った。
「恐れ入りました」
二人は顔を見合わせた。
そして、また笑った。
笑い声が静かになると、葵は少し真面目な表情になった。
「ねえ、春人」
「うん?」
「私、今日ちょっと嬉しかったことがあるの」
春人は首を傾げた。
「何?」
葵は少し照れたように笑った。
「……由紀さんが、私を家族みたいに迎えてくれたこと」
春人は黙って聞いていた。
「もちろん、付き合い始めたばかりだし、先のことなんて分からないけど」
葵は視線を落とした。
「それでも、ああいうふうに歓迎してもらえるのって、嬉しいものね」
春人は彼女を見つめた。
そして微笑んだ。
「叔母さん、葵のこと気に入ってるから」
葵は顔を上げた。
「本当に?」
「うん」
少し考える。
「多分、僕以上に」
葵は笑った。
「そんなことないでしょ」
「いや、本当に」
春人は真剣な顔をした。
「明日には僕の部屋が葵の部屋になってるかもしれない」
葵は吹き出した。
「何それ!」
「あり得る話だよ」
「じゃあ、春人はどこで寝るの?」
「廊下かな」
葵は笑い続けた。
「ひどい!」
春人も笑った。
「本当にね」
◇ ◇ ◇
しばらくして、葵は春人の前に立った。
少しだけ、距離が近かった。
春人は彼女を見上げた。
「……葵?」
「何?」
「いや……」
言葉が続かなかった。
葵は微笑んだ。
「どうしたの?」
春人は少し考えた。
そして、正直に言った。
「……帰ってほしくないなって」
葵の表情が変わった。
一瞬、驚いたように目を見開く。
そして――
柔らかく微笑んだ。
「……私も」
春人は彼女を見つめた。
夜風が二人の間を通り抜けた。
葵は少し身をかがめた。
春人の目の高さに近づく。
春人の心臓が跳ねた。
「……あの」
葵は微笑んだ。
「何?」
「……近くない?」
「そう?」
「うん」
葵はさらに少し近づいた。
「これくらい?」
春人は固まった。
「……葵」
彼女は小さく笑った。
「春人」
二人の視線が重なった。
いつもの皮肉も。
冗談も。
からかいも。
その瞬間だけは、どこかへ消えていた。
春人はゆっくり息を吸った。
葵は少し首を傾けた。
そして――
二人の距離が、さらに近づいた。
そのとき。
ピピッ。
春人の車椅子から、小さな警告音が鳴った。
二人は止まった。
「……え?」
ピピッ。
電子音声が響く。
『ジョイスティックの位置をご確認ください』
沈黙。
春人はゆっくり視線を下げた。
車椅子の操作部に、警告表示が出ていた。
身体の位置を変えようとした際、操作部に意図しない入力が入ってしまったらしい。
春人は目を閉じた。
「……嘘だろ」
葵は数秒間、何も言わなかった。
そして――
「ぷっ……」
春人は顔を上げた。
「葵」
「ご、ごめ……」
彼女の肩が震え始めた。
「ふふっ……!」
「笑わないで」
「だ、だって……!」
葵はとうとう笑い出した。
「こんなタイミングで!?」
春人は天井を見上げた。
「……僕の人生、どうなってるんだ」
葵は笑いながら目元を押さえた。
「ごめん、本当に……!」
春人はため息をついた。
「ロマンチックな瞬間を、車椅子に妨害された」
葵はさらに笑った。
「車椅子にも嫉妬されてるんじゃない?」
春人は彼女を見た。
「……それ、笑えない」
「私は笑える」
「知ってる」
葵はようやく笑いを落ち着かせた。
そして、春人の顔を見た。
「……でも」
「何?」
彼女は微笑んだ。
「まだ帰ってないわよ」
春人は瞬いた。
「……え?」
葵はもう一度、少し身をかがめた。
春人の心臓が跳ねた。
「……葵?」
「何?」
「今度こそ……?」
彼女は小さく笑った。
「さあ?」
春人は彼女を見つめた。
葵も見つめ返した。
二人の距離が、ゆっくり縮まっていく。
そして――
「葵ちゃーん!」
家の中から大地の声が響いた。
二人は同時に固まった。
「……」
「……」
大地が玄関から顔を出した。
「お菓子、忘れてるぞー!」
その手には――
由紀が用意した焼き菓子の箱。
春人はゆっくり目を閉じた。
「…………」
葵は口元を押さえた。
大地は二人の様子を見た。
そして瞬いた。
「……あれ?」
沈黙。
非常に長い沈黙。
大地は春人を見た。
葵を見た。
もう一度春人を見た。
そして――
すべてを理解した。
「……あっ」
春人は静かに言った。
「叔父さん」
「……はい」
「今すぐ中に戻って」
大地はうなずいた。
「……了解」
そして、そっと箱を玄関脇に置いた。
「ごゆっくり」
扉が閉まった。
沈黙。
春人は天井を見上げた。
「……もう嫌だ」
葵はとうとう耐えきれなくなった。
「あははははっ!」
春人は彼女を見た。
「葵!」
「だって……!」
彼女は笑いながら言った。
「二回も!?」
春人は深くため息をついた。
「……僕たち、呪われてるのかな」
葵は笑った。
「かもしれないわね」
春人は頭を下げた。
「……初めてのキスが、こんなに難しいとは思わなかった」
葵の笑い声が少し静かになった。
彼女は春人を見た。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……春人」
彼は顔を上げた。
「何?」
葵は少し身をかがめた。
そして、彼の耳元で小さく言った。
「次は、ちゃんと最後までしようね」
春人は固まった。
顔が一気に熱くなる。
「……っ!?」
葵はにやりとした。
「おやすみ、彼氏くん」
春人は何も言えなかった。
葵は笑いながら立ち上がった。
そして、玄関脇の箱を拾い上げた。
「じゃあ、またね」
春人はようやく声を絞り出した。
「……またね」
葵は手を振った。
そして夜の道へ歩き出した。
春人はその背中を見送った。
しばらく――
動けなかった。
やがて、ぽつりとつぶやいた。
「……心臓に悪すぎる」
そのとき、玄関の扉が少しだけ開いた。
大地が顔をのぞかせた。
「……春人?」
春人はゆっくり振り向いた。
「……何?」
大地は申し訳なさそうに笑った。
「……すまん」
春人は目を閉じた。
「……叔父さん」
「うん」
「次から、僕が外にいるときは……」
「うん」
「……お菓子のことは忘れて」
大地は真剣にうなずいた。
「……分かった」
少し間を置く。
「でも、由紀に怒られるんだよな」
春人は天井を見上げた。
「……ああ、もう!」
大地は笑った。
春人も、結局笑ってしまった。
そして、二人は家の中へ戻った。
◇ ◇ ◇
その夜、春人は自分の部屋で、しばらくスマートフォンを見つめていた。
葵からのメッセージが届いている。
葵:今日は本当にありがとう。
葵:ご飯もおいしかったし、楽しかった。
葵:由紀さんと大地さんにもよろしく伝えてね。
春人は微笑んだ。
春人:こちらこそ。
春人:叔母さん、葵のことすごく気に入ってたよ。
葵:よかった。
少し間が空いた。
そして――
葵:それと。
春人:うん?
葵:次は邪魔されない場所を選びましょう。
春人は固まった。
「……っ!」
顔が熱くなる。
春人:葵!
葵:何?
春人:そういうことを普通に送らないで!
葵:彼氏くん、照れてる?
春人:照れてません。
葵:嘘つき。
春人は頭を下げた。
「……本当にかなわないな」
しかし――
笑っていた。
心から。
春人は机の上にある母の写真を見た。
「……母さん」
少し微笑む。
「今日も、いろいろあったよ」
写真の中の美咲は、変わらず笑っていた。
春人は静かに続けた。
「叔母さんが張り切りすぎて、叔父さんが怒られて……」
小さく笑う。
「葵は、僕の昔の写真を見て大喜びしてた」
少し間を置く。
「……それから」
春人は窓の外を見た。
夜の街が静かに広がっている。
「……僕、すごく幸せだった」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が温かくなった。
母がいない寂しさは消えない。
これからも、きっと消えない。
けれど――
新しい幸せを感じることは、母を忘れることではない。
むしろ、母が教えてくれた大切なものを、これからの人生でも見つけていくことなのかもしれない。
春人は微笑んだ。
「……母さん」
少し間を置く。
「僕、ちゃんと前に進んでるよ」
そして、もう一度スマートフォンを見た。
葵から新しいメッセージが届いていた。
葵:おやすみ、春人。
葵:大好きだよ。
春人は息を止めた。
しばらく、画面を見つめた。
そして――
ゆっくり微笑んだ。
春人:おやすみ、葵。
春人:僕も大好きだよ。
送信。
春人はヘッドレストに頭を預けた。
窓の外には、静かな夜が広がっていた。
今日という一日は、もうすぐ終わる。
けれど――
二人の物語は、まだ始まったばかりだった。




