第43話 昨日の続きに、明日という名前がついた朝
彼女ができた翌朝、高橋春人が最初にしたこと。
それは――
スマートフォンをじっと見つめることだった。
十一分間。
一度も画面に触れることなく。
我ながら、情けない。
これまで春人は、数え切れないほどの通院や検査を経験してきた。
気まずい会話も、理不尽な出来事も、宇宙そのものが自分に恨みでも抱いているのではないかと疑いたくなるような状況も、何度となく乗り越えてきた。
それなのに――
たった三つの単語に相当する、簡単な挨拶が送れない。
『おはよう、葵』
それだけでいい。
何も難しいことはない。
ところが春人の頭は、その一通を送るために、百年間戦争を続けてきた二つの国の和平交渉でも始めるかのような準備を要求していた。
春人は入力した文章を見つめた。
そして削除した。
「……なんか堅いな」
もう一度入力する。
『おはよ!』
眉をひそめる。
「今度は軽すぎるか?」
削除。
『おはよう、僕の可愛い葵』
その瞬間、春人は顔をしかめた。
「うわっ……」
慌てて消去する。
「何だよ、これ。キャバクラのお姉さんを口説こうとしてる中年のおっさんか、僕は」
ため息が漏れた。
朝日がカーテンの隙間から差し込み、寝室の床に細長い光の模様を描いている。
机の上ではパソコンが静かに動いていた。
数冊の本が積み重なり、画面には書きかけの原稿が開かれている。
昨日と何も変わらない光景だった。
自分の部屋。
自分の持ち物。
青い電動車椅子。
そして、パソコンの隣に置かれた母の写真。
何一つ変わっていない。
それなのに――
すべてが変わっていた。
高橋春人には、彼女ができた。
本物の彼女だ。
自分の意思で、春人と恋人同士になることを選んでくれた女性。
しかも、ただの女性ではない。
水野葵。
二十四歳。
病院勤務の看護師。
口が悪い。
頑固。
時々、恐ろしく怖い。
そして、人を罵倒しながら同時に元気づけるという、もはや特殊能力としか思えない才能の持ち主。
春人が人生で最もつらい時期を過ごしていた頃、彼の前に現れた女性。
いつの間にか、会える日を心待ちにするようになった女性。
メッセージが届くだけで笑顔になれる相手。
大勢の人がいる場所でも、その笑い声だけは聞き分けられる相手。
そして昨日――
二人の間にある感情を、もう見て見ぬふりはできないと認め合った相手。
春人は微笑んだ。
しかし、すぐに眉を寄せた。
「……いや、何やってんだ、僕」
もう一度スマートフォンを見る。
「さっさと送れよ」
親指を画面の上に置く。
送信。
『おはよう、葵』
できた。
終わった。
歴史的偉業である。
春人は車椅子のヘッドレストに頭を預けた。
「ほら。別に難しくなかったじゃないか」
ブブッ。
スマートフォンが震えた。
春人は思わず飛び上がりそうになった。
もっとも、身体の動きが制限されている彼にとって、それはかなり難易度の高い芸当だったが。
葵:おはよう、彼氏くん。
春人は固まった。
一度読む。
二度読む。
三度読む。
彼氏くん。
彼女は自分を、彼氏と呼んだ。
春人でもない。
バカでもない。
デート中に勝手につけられた変なあだ名でもない。
彼氏。
春人はもう一度メッセージを読んだ。
そして笑った。
さらにもう一度読んだ。
「……これ、一生慣れない気がする」
次のメッセージが届く。
葵:もしかして、おはようって送るだけで十分くらい悩んでた?
春人は目を瞬かせた。
「何で分かるんだよ……?」
急いで返信する。
春人:何でそう思うの?
葵:だって私も十分くらい、あんたから何か来ないかなって画面見てたから。
春人は止まった。
そして笑い出した。
春人:じゃあ葵も同じことしてたんじゃん。
葵:断じて違います。
春人:葵。
葵:私は重要な心理学的実験を行っていたの。
春人:何の実験?
葵:恋愛経験の少ない車椅子男子の求愛行動について。
春人は声を上げて笑った。
「ひどいな、本当に」
春人:それで研究結果は?
葵:可愛いけど、かなり手厚い監督が必要。
春人:セカンドオピニオンを要求します。
葵:却下。
春人は首を振った。
「まったく、かなわないな」
さらにメッセージが届いた。
葵:でも、本当におはよう、春人。
葵:よく眠れた?
その言葉に、春人の表情が柔らかくなった。
春人:うん。
春人:ただ、昨日のこと考えてたら、ちょっと夜更かししちゃった。
少し間が空いた。
そして――
葵:うん。
葵:私も。
春人はその文字を見つめた。
一瞬、部屋がいつもより静かに感じられた。
彼はこれまで、普通の恋愛というものを何度も想像してきた。
テレビドラマのような大恋愛ではない。
桜の下で、容姿端麗な男女が毎日愛を誓い合うような話でもない。
ただ――
普通のこと。
朝の挨拶。
昨夜は眠れたかと気にかけてくれる人。
離れている間も、自分のことを考えてくれる人。
そんな小さなことが、これほど大切だったなんて。
実際に経験するまで、春人は知らなかった。
彼は机の上にある母の写真へ目を向けた。
「なあ、母さん」
微笑む。
「どうやら僕たち、二人とも何も分かってないみたいだ」
写真の中の母は、変わらず笑っていた。
春人は、母なら何と言うだろうかと想像した。
『だから楽しいんじゃない、春人』
小さく笑う。
「……そうだね」
もう一度スマートフォンを見る。
「きっと、そうなんだろうね」
◇ ◇ ◇
一方、その頃。
東京の別の場所では、水野葵が春人以上に落ち着きのない朝を迎えていた。
「ええええええっ!?」
藤本美香の声が部屋中に響き渡った。
葵は顔をしかめた。
「ちょっと、声の大きさ考えてくれない?」
美香は葵を見つめた。
口は開いたまま。
目は大きく見開かれ。
手に持っていたコーヒーカップは、テーブルと唇のちょうど中間で停止していた。
「彼氏ができたの!?」
「そうよ、美香。おめでとう。今、私の言ったことを正確に復唱できたわね」
「いつ!?」
「昨日」
「どこで!?」
「カフェ」
「どうやって!?」
葵はゆっくり美香を振り向いた。
「いい? 大人の男女がお互いに恋愛感情を抱くとね――」
「葵っ!」
「何よっ!」
美香は必要以上の勢いでカップをテーブルに置いた。
「彼氏ができたなんて重大発表を、そんな普通の顔で言わないでよ!」
葵は眉を上げた。
「じゃあ、全国放送でもしてほしかった?」
「してほしかった!」
「残念ながら放送局の電話番号を知らないの」
美香はソファのクッションをつかんだ。
葵は即座に指を突きつけた。
「投げたら承知しないから」
美香は投げた。
葵は避けた。
クッションは観葉植物に直撃した。
二人は揺れる植木鉢を見つめた。
幸い、倒れなかった。
葵は美香を振り向いた。
「うちのシダを殺しかけたわね」
「それ造花でしょ!」
「そういう問題じゃない!」
美香は腕を組んだ。
「詳しく」
「何が?」
「詳しい話」
葵はため息をついた。
「美香――」
「全部」
「別に大したことないわよ」
「大したことない?」
「話して」
「それで?」
「お互い好きだって認めて」
「それで?」
「付き合うことになったの」
美香は待った。
葵は見つめ返した。
「……何?」
「それだけ?」
「そうよ」
「劇的な告白は?」
「別に」
「情熱的な抱擁は?」
「ないわよ」
「キスは?」
葵は一瞬、言葉に詰まった。
残念ながら――
美香は見逃さなかった。
目を細める。
「……あら?」
「やめて」
「あらあらあら?」
「美香」
「まだキスしてないの!?」
葵は両手で顔を覆った。
「何であんたってそうなの……」
「だって、あんたの恋愛に対する情熱が足りなさすぎるんだもん!」
「情熱くらいあるわよ!」
「本当に?」
「ある!」
美香は身を乗り出した。
「じゃあ、何で耳まで真っ赤なの?」
葵は固まった。
片耳に手を伸ばす。
美香は勝ち誇ったように叫んだ。
「ほらぁ!」
「うるさい!」
美香はソファに倒れ込み、笑い転げた。
葵は残っていたクッションをつかみ、彼女の顔めがけて投げた。
今度は――
外さなかった。
「痛っ!」
「ざまあみろ」
美香はクッションをどけた。
そして笑った。
「それで」
葵はうめいた。
「ああ、もう……」
「どんな気分?」
「何が?」
「彼氏ができた気分」
葵は窓の外へ目を向けた。
しばらく答えなかった。
質問は簡単だった。
しかし、答えは――
そう簡単ではなかった。
葵には、以前にも恋人がいた。
誰かを彼氏と呼ぶ意味は知っている。
一緒に食事をすることも。
メッセージを送り合うことも。
将来の予定を立てることも。
けれど、愛情が恐ろしいものに変わる瞬間も知っていた。
優しさが批判へ変わること。
些細な意見の違いが、突然責め立てられる理由になること。
隣にいる人がいつ別人のように変わるのか、常に気を張っていなければならない疲労。
以前の恋愛は、知らずに済むなら知らないままでいたかったことを、いくつも彼女に教えた。
長い間、葵は恋愛そのものを避けた方が楽だと思っていた。
安全で。
面倒が少なくて。
傷つかずに済む。
そう信じていた。
そこへ――
高橋春人が現れた。
青い電動車椅子に乗った、皮肉屋の二十二歳。
冗談のセンスは絶望的。
それなのに、人生から多くのものを奪われても、前へ進もうとすることを諦めない頑固な青年。
彼は、葵を劇的に口説いたわけではなかった。
人生の問題をすべて解決すると約束したわけでもなかった。
信じてほしいと強要したこともない。
ただ――
そこにいた。
話して。
聞いて。
笑って。
時には言い争って。
時には見事なほど的外れなことを言って。
それでも、彼女の気持ちを大切に扱ってくれた。
葵はかすかに微笑んだ。
「……何ていうか」
美香は待った。
葵は自分の手元を見つめた。
「今までとは違うの」
美香の表情から、ふざけた笑みが少し消えた。
「どう違うの?」
葵は考えた。
そして肩をすくめた。
「あいつの前だと、無理して自分を作らなくていい気がする」
美香は黙って聞いていた。
「皮肉を言ってもいいし、怒ってもいい。仕事で最悪なことがあった日も、話したら自分の問題にすり替えられるんじゃないかって心配しなくていい」
葵は小さく笑った。
「大抵、あいつはくだらない冗談を言うだけなんだけど」
美香も笑った。
「春人くんらしいね」
葵はうなずいた。
「うん」
スマートフォンに目を向ける。
「でも、不思議と楽になるのよ」
美香は彼女を見つめた。
そして優しく尋ねた。
「幸せ?」
葵は顔を上げた。
その質問が意外だったように、一瞬目を見開いた。
そして笑った。
皮肉を言うときの笑みではない。
患者を安心させるための仕事用の笑顔でもない。
もっと柔らかな笑顔。
「……うん」
うなずく。
「幸せ、なんだと思う」
美香の表情が和らいだ。
「よかった」
葵は瞬いた。
「……それだけ?」
「何が?」
「からかわないの?」
美香は微笑んだ。
「ああ、心配しないで」
葵は目を細めた。
「美香」
「それは後に取っておくから」
葵はため息をついた。
「やっぱりね」
美香はソファにもたれた。
そして、少し静かな声で言った。
「でも、本当によかったよ、葵」
葵は彼女を見た。
美香は続けた。
「あんたには、幸せになってほしいから」
珍しく――
葵には皮肉が浮かばなかった。
ただ微笑んだ。
「……ありがとう」
その温かな時間は、約三秒続いた。
そして美香はにやりと笑った。
「で、結婚式はいつ?」
「出ていけぇっ!」
◇ ◇ ◇
午前も遅くなる頃には、春人のスマートフォンには葵からさらに三通のメッセージが届いていた。
仕事の予定を知らせる通知も二件。
そして――
そのどれよりも重要になりそうな一本の電話があった。
寝室のドアがノックされた。
「春人?」
「どうぞ!」
高橋由紀が、お茶の載った小さなトレーを持って入ってきた。
妙に機嫌がよさそうだった。
春人の経験上、それは大抵、危険信号である。
「おはよう、春人!」
「おはよう」
「よく眠れた?」
「まあまあ」
「よかった!」
由紀は机にお茶を置いた。
そして微笑んだ。
春人は目を細めた。
「……何?」
「何が?」
「叔母さん、笑ってる」
「笑っちゃいけないの?」
「そういう笑い方は怪しい」
由紀は心外そうな顔をした。
「どういう笑い方よ?」
「僕の恥ずかしい秘密でも発見したみたいな顔」
由紀は瞬いた。
そして笑い出した。
「あら、春人ったら!」
春人はため息をついた。
「……始まった」
由紀は両手を合わせた。
「それでね!」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないでしょ!」
「なのに、もう不安なんだよ」
由紀は気にしなかった。
「大地さんと話してたんだけど」
「その時点で嫌な予感しかしない」
「葵ちゃんを夕食に招待したらどうかしらって」
春人は止まった。
表情が変わる。
「……え?」
「葵ちゃんよ!」
「聞こえてる」
「あなたの彼女!」
「誰かは分かってるよ!」
由紀の笑顔がさらに大きくなった。
「ああ、彼女って言えるの、本当に嬉しいわ!」
春人はゆっくり目を閉じた。
「……どうやって知ったんだっけ?」
由紀は不思議そうに首を傾げた。
「昨日、あなたが教えてくれたじゃない」
「……そうだった」
そう。
自分で言ったのだ。
夕食の席で。
二十分近く勇気を振り絞った末に。
叔母は歓声を上げた。
叔父は祝福してくれた。
そして春人は、デザート前に発表したことを即座に後悔した。
葵のことを恥ずかしいと思ったわけではない。
むしろ、その逆だった。
嬉しくてたまらなかった。
ただ、由紀には良い知らせを聞くと、すぐに何かの催し物を企画したがる癖があった。
誕生日なら飾りつけ。
昇進ならお祝いの夕食。
診察の結果がよければケーキ。
どうやら彼女ができたとなれば、頭の中ではもう結婚式の招待客を数え始めているらしい。
由紀は身を乗り出した。
「どう思う?」
「何が?」
「葵ちゃんを呼ぶこと!」
春人は考えた。
不自然な提案ではない。
葵はすでに叔母と叔父に会ったことがある。
彼らが春人の生活に深く関わっている以上、それは当然だった。
けれど、友人として訪ねてくるのと――
彼女として訪ねてくるのは違う。
何だか、妙に大きな意味があるように感じられた。
「ちょっと早くない?」
由紀は首を傾げた。
「どうして?」
「付き合い始めたの、文字どおり昨日だよ?」
「それで?」
「もう少し待ってもいいんじゃないかなって」
由紀は春人を見つめた。
そして表情を和らげた。
「春人」
「うん?」
「緊張してるの?」
春人は目をそらした。
「別に」
「春人」
「……ちょっとだけ」
由紀は微笑んだ。
「普通のことよ」
春人はため息をついた。
「ただ、葵が尋問されてるみたいに感じたら嫌なんだ」
「あら、何を言ってるの!」
由紀は手を振った。
「大歓迎するに決まってるじゃない!」
春人は彼女をじっと見た。
「叔母さん」
「何?」
「前に、冷蔵庫を配達しに来た人に結婚してるか聞いたよね。近所の娘さんにお似合いだと思ったからって」
由紀は考えた。
「だって、とってもハンサムだったんだもの」
「冷蔵庫を届けに来ただけの人だよ」
「それが?」
春人は頭を下げた。
「……ああ、もう」
由紀は笑った。
「とにかく、聞くだけ聞いてみて。無理にとは言わないから」
春人は渋々うなずいた。
「分かった」
由紀はドアへ向かった。
しかし、途中で立ち止まった。
「あっ、そうだ!」
ポケットから折りたたまれた紙を取り出す。
「今朝、大地さんに電話があったの」
春人は顔を上げた。
「誰から?」
「不動産屋さん」
心臓が跳ねた。
「……あの部屋?」
由紀はうなずいた。
「今日の午後、もう一度内見できることになったのよ」
春人は、弱った筋力で可能な範囲だけ姿勢を正した。
「本当に?」
「本当よ」
「何て言ってた?」
「前に相談した改修について、大家さんが話し合いに応じてくれるそうよ」
しばらく――
春人は何も言えなかった。
あの部屋。
ようやく自分の住まいを持てるかもしれないという可能性。
自分の生活を、自分の習慣や好みや判断に合わせて組み立てられる場所。
春人は、何度もそのことを考えていた。
パソコンをどこに置くか。
本棚をどこに並べるか。
どんなカーテンを選ぶか。
叔母と叔父の家に住んでいると説明せずに、誰かを招待できる暮らし。
もちろん、二人のことは大好きだった。
これまでしてもらったことには、心から感謝している。
けれど、感謝と自立は矛盾しない。
家族を愛していても、自分の家が欲しいと思っていいはずだ。
「どの改修ができそうなの?」
「まだ分からないの。それを話し合うための内見だそうよ」
春人はゆっくりうなずいた。
「……そっか」
由紀は彼を見つめた。
「私たちも一緒に行こうか?」
春人は考えた。
叔母と叔父は、これまで何度となく診察や面談、さまざまな場面に付き添ってくれた。
春人の身体のことを知っている。
住まいを探す上で、どんなことに気をつけなければならないかも理解している。
でも――
これは、自分の決断のはずだった。
自分の未来。
自分の家。
春人はスマートフォンに目を向けた。
画面には、葵からの最後のメッセージが残っていた。
『朝ごはん、ちゃんと食べなさいよ。バカ』
春人は微笑んだ。
「実は……」
由紀は視線の先を追った。
そして顔を輝かせた。
「あら!」
「叔母さん――」
「葵ちゃんを誘ってみたら?」
「今、そうしようと思ってたんだよ!」
「素敵!」
由紀は手をたたいた。
「内見に、家族で夕食!」
春人はうめいた。
「頼むから結婚式の予行演習みたいにしないでよ」
由紀は笑った。
「あら、春人。大げさねえ」
ドアへ向かう。
そして立ち止まった。
「でも……」
「嫌だ」
「ちょっと思ったんだけど――」
「嫌だってば!」
由紀は笑いながら廊下へ消えた。
春人はその背中を見送った。
そしてスマートフォンを手に取った。
春人:今日の午後、アパートの内見に付き合ってくれない?
葵の返信は、ほとんど即座に届いた。
葵:もう同棲のお誘い?
春人はむせそうになった。
春人:はぁ!?
葵:ちょっと展開早くない、春人くん?
春人:葵!
葵:落ち着きなさいよ、ロミオ。冗談だから。
春人はヘッドレストに額を預けた。
「……この人、僕を殺す気だ」
次のメッセージが届く。
葵:何時?
春人は微笑んだ。
春人:二時。
葵:行く。
葵:それと、春人。
春人:うん?
葵:私も楽しみ。
表情が柔らかくなった。
春人:ありがとう。
春人:僕もだよ。
◇ ◇ ◇
内見までの時間は、驚くほどゆっくり過ぎた。
春人は仕事をしようとした。
本気で。
編集中の原稿を開いた。
同じ段落を四回読んだ。
二つの文章を書き換えた。
そして元に戻した。
その後、点滅するカーソルを見つめながら、アパートのリビングを想像すること数分。
ついに諦めた。
「……無理だ、これ」
原稿を保存する。
代わりに、物件の資料が入ったフォルダを開いた。
間取り図。
寸法。
写真。
必要になりそうな改修の一覧。
何度も確認した情報だった。
もはや暗唱できそうなほどに。
部屋は一階にある。
それはいい。
比較的静かな通りに面している。
それもいい。
近くには店もいくつかある。
素晴らしい。
玄関には小さな段差がある。
対応できるかもしれない。
浴室の入口は――
問題あり。
春人は眉を寄せた。
間取り図を拡大する。
もう一度、浴室を見る。
寸法は変わっていなかった。
当然である。
なぜ変わっているかもしれないと思ったのか、自分でも分からない。
もしかしたら、数字を長く見つめていれば、入口が勝手に広がると期待していたのかもしれない。
残念ながら、建築物は楽観主義に応えてくれない。
春人はため息をついた。
「……頼むよ」
カーソルを寝室へ動かす。
そこにも問題があった。
車椅子が方向転換できるだけの空間が必要だった。
日常生活の介助や移乗、機器の配置にも十分な余裕がいる。
写真では広く見える部屋でも、ベッドや家具、必要な機器を置けば、あっという間に窮屈になることがある。
そして浴室。
キッチン。
コンセントの位置。
玄関。
緊急時の出入り。
考えることは尽きなかった。
春人は背もたれに身体を預けた。
同年代の多くの人にとって、初めての一人暮らしは胸が躍る節目なのだろう。
家具を選ぶ楽しみ。
自立への第一歩。
そして、食料品が想像以上に高いという現実を知る機会。
春人の場合、それに加えて浴室を安全に使えるか確認しなければならない。
車椅子が廊下を通れるか。
介助する人が安全に動けるか。
日常の一つ一つが、不必要な障害物との戦いにならないか。
どれも大切なことだ。
無視すれば、後で困るのは自分だと分かっている。
それでも――
時々、思う。
家を探すことくらい、もっと簡単だったらいいのに。
春人は母の写真を見た。
「なあ、母さん」
ため息をつく。
「大人になるって、面倒くさいな」
母が笑う姿を想像した。
『春人、言葉遣い』
春人はくすっと笑った。
「ごめん」
そして間取り図へ目を戻した。
「でも、事実なんだよね」
◇ ◇ ◇
葵がアパートの建物に到着したのは、午後二時少し前だった。
春人はすでに外で待っていた。
配達用のトラックが歩道の一部を塞いでいたため、狭くなった場所を避けて車椅子を停めている。
葵は小さなハンドバッグを持って近づいた。
「やっほ」
春人は顔を上げた。
「やあ」
葵は微笑んだ。
「待った?」
「四十七年くらい」
「へえ」
「悲劇的だよ」
葵は腕時計を見た。
「私、五分前に来たんだけど」
「時間は相対的なものだから」
「そうみたいね」
葵は笑った。
そして建物を見上げた。
「それで」
春人も視線を向けた。
「うん」
「ここ?」
「そう」
葵は外観を眺めた。
特別に立派な建物ではなかった。
豪華でもない。
広大なロビーも、凝った庭園もない。
ただ、東京の静かな通りに建つ、ごく普通の集合住宅だった。
駐輪場には数台の自転車。
入口には鉢植え。
窓には午後の日差しが反射している。
葵は微笑んだ。
「いいじゃない」
春人は彼女を見上げた。
「本当に?」
「本当に」
春人はうなずいた。
「うん」
葵は彼を見た。
「緊張してる?」
「ちょっと」
「部屋のことで?」
「全部」
葵はうなずいた。
「そっか」
しばらく二人は静かに立っていた。
それから葵が微笑んだ。
「まあ、どうなっても、今日は二人でゆっくり過ごせるしね」
春人は眉を上げた。
「これをデートと呼ぶの?」
「何か問題でも?」
「ロマンチックなアパートの設備点検?」
葵は笑った。
「いいじゃない」
「普通のカップルは映画とか行くんじゃない?」
「普通のカップルなんて退屈よ」
春人はにやりとした。
「それもそうか」
葵はもう一度建物を見た。
そして言った。
「ねえ、一つ言っていい?」
「もちろん」
「誘ってくれて嬉しかった」
春人は瞬いた。
「本当に?」
「うん」
葵は彼を見つめた。
「春人にとって、大事なことだって分かるから」
春人の表情が和らいだ。
「ありがとう」
葵は笑った。
「それに、パソコンの置き場所だけで部屋を決めようとする誰かさんを止めなきゃいけないし」
春人は心外そうな顔をした。
「それ、ものすごく重要なんだけど」
「はいはい」
「僕の仕事がかかってるんだよ」
「そうね」
「本もあるし」
葵はため息をついた。
「ああ、もう」
「何?」
「本、何冊持ってるの?」
春人は考えた。
そして微笑んだ。
「持ってる、の定義によるね」
葵はじっと見た。
「……春人」
「電子書籍も含む?」
「紙の本」
「なるほど」
少し間を置く。
「紙の定義は?」
葵は吹き出した。
「自分でも分かってないんじゃない!」
「無意味な数字に縛られたくないんだ」
葵は首を振った。
「信じられない」
春人はにやりとした。
「なのに僕と付き合うことにしたんだよね」
葵は彼を見下ろした。
そして微笑んだ。
「一時的な判断力の低下ね」
「悲劇だ」
「本当に」
二人の笑い声を、不動産会社の担当者の声が遮った。
「高橋様!」
春人は振り向いた。
「こんにちは」
担当者は丁寧に頭を下げた。
「本日もお越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、時間を取っていただいて」
担当者は葵に目を向けた。
「こちらの方は……?」
春人は、ほんの一瞬だけためらった。
そして微笑んだ。
「水野葵さんです」
少し間を置く。
「僕の彼女です」
葵は固まった。
目に見えるほどではない。
誰かに気づかれるほどでもない。
それでも、胸の奥に温かいものが広がった。
僕の彼女。
あまりにも自然に言ってくれた。
まるで、その言葉が最初から二人の間にあったかのように。
そう紹介することが、世界で一番当たり前のことのように。
担当者は微笑んだ。
「水野様ですね。初めまして」
葵は頭を下げた。
「初めまして」
春人は彼女をちらりと見た。
葵も微笑み返した。
そして、ほんの一瞬――
内見への不安が、少しだけ小さくなった。
◇ ◇ ◇
担当者は、まず大家からの返答を説明した。
「いくつかの改修については、ご相談が可能とのことです」
春人はすぐに集中した。
「具体的には?」
担当者は資料を確認した。
「玄関の段差の解消、手すりの追加、それから浴室の一部調整については検討していただけるそうです」
春人はうなずいた。
「それはよかったです」
「ただし……」
来た。
予想していた言葉だ。
「ただし?」
「浴室の入口については、問題がありまして」
葵は眉を寄せた。
「どの程度の問題ですか?」
担当者は少しためらった。
「ご提出いただいた車椅子の寸法に対して、開口幅が狭いのです」
春人は入口へ目を向けた。
「広げることはできますか?」
「可能性はあります。ただ、施工業者による確認が必要です」
「大家さんは?」
「構造に関わる改修については、まだ了承をいただけていません」
春人はゆっくりうなずいた。
「……分かりました」
担当者は続けた。
「ほかにも、キッチンの作業台の高さや、コンセントの位置について確認が必要です」
春人は注意深く聞いた。
質問をした。
寸法を確かめた。
電気設備のことや、必要な機器の設置を大家が認めてくれるかについても尋ねた。
葵はその様子を見つめていた。
これまで、彼女はさまざまな場面で春人を見てきた。
家で。
カフェで。
外出先で。
病院で。
緊張したときに冗談を言う姿も知っている。
母の思い出に触れて、静かになる姿も見てきた。
けれど、今は違った。
真剣だった。
現実的だった。
自分の希望を、はっきり伝えていた。
何が必要なのかを理解している。
そして、それを尋ねることをためらわない。
葵は、いつの間にか微笑んでいた。
担当者が説明を終える。
「もう一度、中をご覧になりますか?」
春人はうなずいた。
「ぜひ」
「かしこまりました」
担当者が入口を開けた。
春人は慎重に段差へ近づいた。
歩いている人なら、ほとんど気にしない程度の高さ。
しかし、車椅子に乗る春人にとっては――
無視できない。
ゆっくりと操作する。
車椅子が入口を越えた。
葵も後に続いた。
そして振り返る。
「ここは絶対に直した方がいいわね」
春人は笑った。
「ようこそ、僕の世界へ」
葵は彼を見た。
「こういう建物って、どこにでもあるの?」
春人は考えた。
「全部じゃないけどね」
「多い?」
「十分すぎるくらいには」
葵は眉をひそめた。
「疲れるでしょうね」
春人は肩をすくめるような表情をした。
「時々ね」
そしてリビングへ目を向けた。
「でも、今日は前向きに考えたいんだ」
葵は微笑んだ。
「じゃあ、まずは中を見てみましょう」
◇ ◇ ◇
リビングは、春人の記憶どおりだった。
広すぎず。
明るく。
居心地がよさそうだった。
大きな窓から日差しが差し込み、小さな庭が見える。
壁は柔らかなクリーム色。
木の床は最近磨かれたばかりらしい。
窓辺で長い午後を過ごしながら仕事をする自分を、春人は簡単に想像できた。
部屋の中央まで進む。
そして止まる。
しばらく――
ただ、周囲を見つめていた。
葵が尋ねた。
「何考えてるの?」
春人はかすかに微笑んだ。
「パソコンをどこに置こうかなって」
葵は笑った。
「やっぱり」
「優先順位って大事だから」
「そうね」
春人は窓の反対側の壁を見た。
「机はあそこかな」
葵も視線を向けた。
「明るくていいわね」
「そうなんだ」
「本棚は?」
春人は考えた。
「多分、あっちの壁」
葵は眉を上げた。
「全部?」
春人は心外そうな顔をした。
「どういう意味?」
「春人、あんたの本の数、小さな図書館が開けるくらいあるじゃない」
「大げさだよ」
「写真、見せてくれたでしょ」
「あれは厳選した写真だよ」
「厳選?」
「かなりね」
葵は笑った。
「本当にどうしようもないわね」
春人はにやりとした。
「なのに僕と付き合うことにしたんだ」
「だから、一時的な判断力の低下」
「なんて不幸なことだ」
「本当にね」
春人はもう一度部屋を見回した。
想像できた。
壁際の机。
来客用の椅子。
本がぎっしり詰まった棚。
テレビ。
窓辺の小さなテーブル。
そこに葵が座り、コーヒーを飲みながら勤務中にあった出来事に文句を言っている姿。
叔母が大量の食べ物を持って訪ねてくる姿。
壊れてもいないものを修理しようとする叔父の姿。
静かな夜。
普通の朝。
自分の人生。
しかし――
寸法のことを思い出した。
笑みが少し消えた。
廊下へ目を向ける。
葵が気づいた。
「どうしたの?」
「何でもない」
「春人」
ため息をつく。
「ちょっと考えてただけ」
「何を?」
「本当にここで暮らせるのかなって」
葵はうなずいた。
そして部屋を見回した。
「まあ」
春人は眉を上げた。
「まあ?」
「まだ全部確認したわけじゃないでしょ」
「そうだね」
「だったら、最後まで見る前に無理だって決めつけなくてもいいじゃない」
春人はかすかに微笑んだ。
「ずいぶん理性的になったね」
葵はにやりとした。
「誰にも言わないで」
「秘密にしておくよ」
「よろしい」
◇ ◇ ◇
寝室には、最初の大きな問題があった。
春人の記憶より、少し狭く感じられた。
あるいは――
以前とは違う目で見ているだけかもしれない。
最初の内見では、ベッドと洋服だんす、それにもう一つ本棚を置くことを想像していた。
しかし今は、移乗や体位調整に使う機器、介助のための空間を考えなければならない。
春人は窓の近くまで車椅子を進めた。
そして方向転換を試みる。
曲がれた。
ぎりぎりだった。
春人は眉を寄せた。
「……うーん」
葵が気づいた。
「狭い?」
「かもしれない」
反対側の壁を見る。
「ここにベッドを置いたら、向こう側に十分なスペースが残らないかも」
担当者はうなずいた。
「正確な寸法をお渡しできます」
「お願いします」
春人はもう一度部屋を見回した。
早まって諦めたくはなかった。
しかし、どうしてもここに住みたいからという理由だけで、無理なものを無理やり可能だと思い込むこともしたくなかった。
葵が隣に来た。
「ねえ」
「うん?」
「一つ提案していい?」
「もちろん」
「ちゃんと暮らせるって分かるまでは、家具の配置を考えるのは後にしたら?」
春人は笑った。
「そんなに分かりやすい?」
「ちょっとね」
ため息をつく。
「分かってる」
葵は壁にもたれた。
「楽しみなのは分かるわ」
「本当に?」
「もちろん」
葵は部屋を見渡した。
「ここが春人の家になるかもしれないんでしょ。自分のルール、自分の家具、それに趣味の悪いカーテン」
「僕のカーテンは素晴らしいものになる予定なんだけど」
「きっと恐ろしいものになるわね」
春人は笑った。
そして葵の表情が柔らかくなった。
「でも、次の機会がないかもしれないって怖がって、自分が暮らしにくい場所で妥協してほしくないの」
春人は彼女を見た。
しばらく――
何も言わなかった。
葵は、春人が口にしていないことを理解していた。
怖かったのだ。
この部屋が無理かもしれないということだけではない。
この機会を逃したら、次の物件が見つかるまで何か月もかかるかもしれない。
あるいは、もっと長く。
車椅子で生活しやすい住宅は、いつでも簡単に見つかるわけではない。
必要な条件が増えれば、それだけ選択肢は減っていく。
春人は前へ進みたかった。
自分の人生が始まるために、誰かの許可を待ち続けているような感覚から抜け出したかった。
けれど、葵の言うとおりだった。
暮らしにくい部屋へ引っ越したからといって、自立できるわけではない。
新しい問題が増えるだけだ。
春人はうなずいた。
「……葵の言うとおりだね」
葵は瞬いた。
「え?」
「葵が正しい」
葵は胸に手を当てた。
「まあ」
「何?」
「もう一回言ってくれる?」
春人は目を細めた。
「調子に乗らないで」
葵は笑った。
「ごめん。せっかくだから味わっておこうと思って」
春人は首を振った。
「まったく……」
それでも、笑っていた。
◇ ◇ ◇
浴室は、楽観主義が現実と正面衝突する場所だった。
春人は入口の前で止まった。
葵は隣に立っていた。
担当者は少し後ろにいる。
数秒間――
誰も何も言わなかった。
やがて春人がため息をついた。
「……さて」
葵は入口を見た。
「……うん」
「これは困ったね」
「かなりね」
入口は狭かった。
春人の電動車椅子が無理なく通るには、幅が足りない。
扉そのものを外しても、十分な余裕は残らないだろう。
春人は蝶番を見た。
そして周囲の壁を見る。
「枠を変えることはできますか?」
担当者は慎重にうなずいた。
「大家様と施工業者への確認が必要です」
「もし断られたら?」
担当者はためらった。
「その場合、こちらの物件は適さない可能性があります」
廊下に沈黙が落ちた。
春人は視線を下げた。
その可能性は分かっていた。
覚悟もしていた。
それでも、はっきり言葉にされると痛かった。
何週間も、この場所が自分の家になる姿を想像していた。
家具を並べること。
パソコンを設置すること。
葵を招待すること。
自分の街になるかもしれない場所で、新しい生活を始めること。
それなのに――
扉一つ。
ただの扉一つが。
そのすべてを不可能にしてしまうかもしれない。
春人はゆっくり息を吐いた。
葵が少しかがみ、彼の顔をのぞき込んだ。
「春人?」
彼は顔を上げた。
「うん?」
「大丈夫?」
春人は小さく笑った。
「がっかりし終わってから、もう一回聞いて」
葵はうなずいた。
「分かった」
春人は浴室を見た。
「本当に気に入ってたんだけどな」
「うん」
「ここで暮らす自分を想像できたんだ」
「うん」
ため息をつく。
「それが、こんなバカみたいな扉のせいで全部駄目になるかもしれないなんて」
葵は狭い入口を見た。
「まあ、そこは私も同感」
「何が?」
「この扉、バカみたいだわ」
春人は思わず笑った。
葵も微笑んだ。
「ほら、笑った」
春人は首を振った。
「本当に変な人だね」
「職業柄ね」
担当者が軽く咳払いをした。
「もしよろしければ、ご決断の前に施工業者の現地調査を手配いたしますが」
春人は顔を上げた。
「本当ですか?」
「はい。何が可能か、より明確になると思います」
春人は考えた。
そしてうなずいた。
「お願いします」
担当者はメモを取った。
「承知いたしました。大家様に確認の上、日程をご連絡いたします」
春人はかすかに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
葵は立ち上がった。
「よかったじゃない」
春人はもう一度リビングへ目を向けた。
完璧な部屋ではない。
ここで暮らせるかどうかも、まだ分からない。
けれど――
可能性が完全に消えたわけではなかった。
まだ。
そして、今日のところは――
それで十分なのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
内見の後、二人は小さなカフェに立ち寄った。
春人は紅茶。
葵はコーヒー。
そして葵は、何の断りもなく春人の皿からケーキを一口奪った。
春人は彼女を見つめた。
「……ちょっと」
葵は顔を上げた。
「何?」
「それ、僕のケーキなんだけど」
葵はフォークを眺めた。
「そうだった?」
「そうだよ」
「へえ」
もう一口食べる。
「興味深いわね」
春人は心外そうな顔をした。
「犯罪者だ」
「疑惑の段階ね」
「窃盗だよ」
「じゃあ逮捕すれば?」
「したいところだけど、今は手錠に手が届かないんだ」
葵はコーヒーを吹き出しかけた。
「春人!」
彼はにやりとした。
「何?」
「飲んでるときにそういうこと言わないでよ!」
「じゃあ僕のデザートを盗まないで」
葵は笑った。
しばらく、二人は静かな午後を楽しんだ。
店内は落ち着いていた。
開いた窓から、穏やかな風が入ってくる。
外では買い物袋や傘を持った人々が歩道を行き交っていた。
春人はしばらくその光景を眺めた。
そして葵を見た。
「一つ聞いていい?」
葵は眉を上げた。
「内容によるわね」
「何で?」
「またくだらない冗談を言うつもりなら、先に覚悟しておきたいから」
「保証はできないな」
「でしょうね」
春人は微笑んだ。
「今日の夜、うちで夕食を食べない?」
葵は止まった。
フォークがケーキの上で宙に浮いた。
「……え?」
「叔母さんと叔父さんが招待したいって」
葵は瞬いた。
「あ……」
春人は彼女の表情を注意深く見た。
「無理なら断っていいんだよ」
「ううん、そうじゃなくて」
葵はフォークを置いた。
「ちょっと予想してなかっただけ」
「僕もだよ」
「今夜?」
「うん」
「叔母さんと叔父さんと?」
「残念ながら」
葵は笑った。
「残念ながら?」
「由紀叔母さんの本気の尋問を、葵はまだ知らないからね」
「会ったことはあるじゃない」
「あれは体験版」
葵は微笑んだ。
「そんなに大変?」
春人は彼女を見つめた。
そしてゆっくり首を振った。
「ああ、何も知らない哀れな女性よ……」
葵は笑った。
「大げさね。きっと大丈夫よ」
「災難に遭う人って、みんな最初はそう言うんだ」
「春人」
「はい?」
「喜んで行くわ」
春人は止まった。
「本当に?」
「本当に」
彼の表情が明るくなった。
「そっか」
葵は微笑んだ。
「それに……」
春人は目を細めた。
「何?」
葵は身を乗り出した。
「叔母さんが取っておいた、春人の恥ずかしい子供時代の話を聞きたいし」
春人の顔から血の気が引いた。
「嫌だ」
「楽しみね」
「葵」
「赤ちゃんの写真も見たいわ」
「絶対駄目」
葵は笑った。
「もう遅いわ。行くって決めたから」
春人は頭を下げた。
「……とんでもない間違いを犯した気がする」
◇ ◇ ◇
二人はもう少しカフェに残った。
話題は自然と、またアパートのことに戻った。
葵はコーヒーをかき混ぜた。
「それで」
春人は顔を上げた。
「うん?」
「もし業者さんに、入口は広げられないって言われたら?」
春人は考えた。
「そのときは、また探すしかないかな」
葵はうなずいた。
「そっか」
春人は窓の外を見た。
「がっかりしないとは言えないけどね」
「そんなふり、しなくていいわよ」
春人はかすかに微笑んだ。
「うん」
葵は彼を見つめた。
そして尋ねた。
「ねえ、もし自分の家ができたら、最初に何をしたい?」
春人は彼女を見た。
「最初に?」
「そう」
少し考える。
そして微笑んだ。
「寝る」
葵は吹き出した。
「寝る!?」
「もちろん」
「それが壮大な計画?」
「引っ越しって疲れるから」
「まだ引っ越してもいないでしょ!」
「今から準備してるんだよ」
葵は首を振った。
「信じられない」
春人はにやりとした。
「それからパソコンを設置するかな」
「当然ね」
「本を整理して」
「でしょうね」
「食料品を買って」
「実に刺激的ね」
「それで、もしかしたら……」
春人は言葉を止めた。
葵は首を傾げた。
「もしかしたら?」
春人は彼女を見た。
「葵を招待したい」
葵は瞬いた。
「あ……」
春人は微笑んだ。
「別に、豪華なことをするわけじゃないよ」
彼女は黙っていた。
「ただ夕食を食べて、映画でも観て。そんな普通のこと」
葵は彼を見つめた。
何だか、妙に胸を打たれたような顔だった。
そして微笑んだ。
「……いいわね」
春人はうなずいた。
「うん」
葵は身を乗り出した。
「ただし……」
春人は目を細めた。
「何?」
「カーテンの趣味については、遠慮なく文句を言わせてもらうから」
春人は笑った。
「もちろん」
「家具も」
「どうぞ」
「料理も」
「それはひどくない?」
葵はにやりとした。
「彼女の特権よ」
春人は首を振った。
「どうやら契約内容をよく確認しなかったみたいだ」
葵は笑った。
「今さら再交渉はできません」
春人は微笑んだ。
「じゃあ、葵とずっと付き合っていくしかないか」
葵は彼を見た。
表情が柔らかくなった。
「……そうね」
微笑む。
「そういうことになるわね」
しばらく――
二人は何も言わなかった。
カフェでは、いつもどおりの時間が流れていた。
食器の触れ合う音。
カウンター近くで笑う誰かの声。
テーブルの間を通り過ぎる店員。
普通の音。
普通の時間。
それなのに――
春人は、もう少しここにいたいと思った。
このカフェが特別だからではない。
何か大事件が起きたからでもない。
葵が向かいに座っているから。
微笑んで。
笑って。
彼のケーキを盗み食いして。
そして、どういうわけか――
それだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
二人がカフェを出た頃、午後は少しずつ夕方へ変わり始めていた。
駅へ向かう道を、葵は春人の車椅子に並んで歩いた。
空は淡い金色に染まり、歩道には長い影が伸びていた。
春人は彼女を見た。
「葵?」
「何?」
「今日は付き合ってくれてありがとう」
葵は彼を見下ろした。
「当然でしょ」
「アパートの内見なんて、あんまりロマンチックじゃないのに」
葵は微笑んだ。
「誰が決めたの?」
春人は笑った。
「大多数の人かな」
「大多数の人なんて退屈よ」
「それ、さっきも言ってた」
「考えは変わらないわ」
春人は首を振った。
葵は続けた。
「それに、春人が何かを楽しみにしてるところ、見られて嬉しかったし」
春人は彼女を見た。
「うまくいかないかもしれないのに?」
「それでもよ」
彼は黙った。
葵は微笑んだ。
「春人は、何かを望んでいいのよ」
春人は瞬いた。
「え?」
「自分の未来を楽しみにしていいの」
葵は前を見た。
「それで、思いどおりにならなかったら、がっかりしてもいい」
春人は耳を傾けた。
「いつも平気なふりをする必要なんてないんだから」
彼はかすかに微笑んだ。
「分かってるよ」
「本当に?」
春人は彼女を見た。
一瞬、冗談を言おうと思った。
皮肉でも。
くだらない一言でも。
真面目に答えることから逃げられる言葉なら、何でもよかった。
けれど――
言わなかった。
「……時々、忘れるんだ」
葵はうなずいた。
「じゃあ、私が思い出させてあげる」
春人は微笑んだ。
「ありがとう」
葵はにやりとした。
「もちろん、バカなことをしてるときも教えてあげるけど」
春人は笑った。
「当然だね」
「頻繁に」
「頼もしいなあ」
「でしょ」
二人は歩道を進んだ。
しばらくして、春人が再び口を開いた。
「ねえ……」
葵は彼を見た。
「うん?」
「昔は、自立するって、何でも自分一人でやることだと思ってたんだ」
葵は黙って聞いていた。
「でも、僕にはそれができない」
春人は自分の車椅子を見た。
「助けが必要なことがある。それは昔から変わらない」
葵はうなずいた。
「だから、長い間、自分は本当の意味では自立できないんじゃないかって思ってた」
少し間を置く。
「でも最近……」
葵は待った。
春人はかすかに微笑んだ。
「自立って、選べることなんじゃないかって思い始めたんだ」
葵は彼を見た。
「どこに住むか。何をするか。誰と時間を過ごすか」
そして彼女に目を向けた。
「誰を好きになるか」
葵は、ほんの一瞬だけ足を止めた。
春人は気づいた。
頬が熱くなる。
「あ、いや、その――」
葵は微笑んだ。
「春人」
「何?」
「説明しなくていいわよ」
彼は彼女を見た。
葵は少し近づいた。
「ちゃんと分かってるから」
しばらく、二人は見つめ合った。
そして春人は微笑んだ。
「……そっか」
葵はうなずいた。
「うん」
遠くで電車が通り過ぎた。
街は二人の周囲で動き続けていた。
再び進み始めたとき、春人は一つのことに気づいた。
このアパートが自分の家になるかどうか、まだ分からない。
部屋探しがいつまで続くのかも分からない。
これから数か月の間に、どんな問題が待ち受けているのかも分からない。
けれど――
以前と同じ気持ちで、その不確かな未来を見つめているわけではなかった。
葵が問題を解決してくれるからではない。
彼女ができたからといって、障害が消えるわけでもない。
ましてや、恋愛が日常生活の現実的な困難を魔法のように取り除いてくれるわけでもない。
そんなことはない。
これからもないだろう。
それでも、自分の夢を自分のものとして尊重してくれる人が隣にいることには、不思議な安心感があった。
自立したいという願いを、拒絶だと受け取らない人。
助言はしても、決定を奪わない人。
うまくいかなかったとき、一緒に笑ってくれる人。
そして、その間にある普通の時間を共有したいと思ってくれる人。
春人は葵をちらりと見た。
彼女は気づいた。
「何?」
春人は微笑んだ。
「何でもない」
葵は目を細めた。
「またそれ」
「何が?」
「理由もなくニヤニヤしてる」
春人は笑った。
「笑っちゃ駄目なの?」
「そういう笑い方は怪しいの」
彼はにやりとした。
「どういう笑い方?」
「私の恥ずかしい秘密でも発見したみたいな顔」
春人は吹き出した。
葵はじっと見た。
「何よ?」
「何でもない」
「春人」
彼は首を振った。
「由紀叔母さんとまったく同じこと言ってる」
葵は足を止めた。
表情が変わった。
「……何ですって?」
春人は即座に失言を悟った。
「あ、まずい」
葵は腕を組んだ。
「もう一回言ってみなさいよ」
「嫌です」
「春人」
「命が惜しいので」
葵は笑った。
「賢明ね」
春人は微笑んだ。
そしてスマートフォンに目を向けた。
叔母からメッセージが届いていた。
由紀:春人、葵ちゃんとは何時頃帰ってくるの?
由紀:今日は特別なものを作ってるからね!
由紀:夕食前にあんまり食べないように伝えてね!
春人は画面を見つめた。
そしてため息をついた。
「……ああ、もう」
葵は顔をのぞき込んだ。
「どうしたの?」
春人はゆっくり彼女を振り向いた。
「葵」
「何?」
「僕たち、まずいことになったかもしれない」
葵は瞬いた。
「どうして?」
春人は画面を見せた。
葵は読んだ。
そして微笑んだ。
「優しいじゃない」
春人は彼女を見つめた。
「優しい?」
「うん」
彼はゆっくり首を振った。
「ああ、何も分かってないな……」
葵は笑った。
「大丈夫よ。きっとうまくいくって」
春人は夕暮れの空を見上げた。
そして大げさにため息をついた。
「……そう言った人から、ひどい目に遭うんだよ」
そして東京のどこかでは――
高橋由紀が、小さな軍隊を養えるほどの料理を準備していた。
残念ながら――
葵には、まだ誰も警告していなかった。




