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第42話 まだ名前のなかった二人の関係

友人同士の会話

その日の夕方、水野葵は藤本美香と向かい合って、小さなレストランに座っていた。

店は美香のアパートの近くにあった。

葵の仕事が終わってから、二人は夕食を食べに来たのだ。

最初の十五分間、美香は同僚への不満を延々と話していた。

どうやらその同僚は、メールへの返信を仕事の一部ではなく、気が向いたときだけ行う趣味のように考えているらしい。

葵は同情しながら耳を傾けていた。

一応は。

しかし、彼女の意識は何度も、皿の横に置いたスマートフォンへ向かってしまう。

三度目に、美香がそれに気づいた。

「はい、そこまで」

葵は顔を上げた。

「何が?」

「誰から連絡が来るのを待ってるの?」

「誰からも」

「へえ。面白いね」

「何が面白いの?」

「だって、席に着いてからもう四回もスマホを確認してるんだもん」

「三回よ」

美香はにやりと笑った。

「つまり、数えてたんだ?」

葵はため息をついた。

「お願いだから、始めないで」

「いいえ。絶対に始めます」

美香は身を乗り出した。

「春人くん?」

葵は危うく箸を落としかけた。

「どうしていきなりそうなるの!?」

「だって、あなたって花火大会くらいわかりやすいんだもの」

「失礼ね」

「しかも正確」

葵は顔をそむけた。

美香の笑みがますます大きくなった。

「ああ、最高」

「何も起きてないわよ」

「本当に?」

「本当」

「じゃあ、彼と何度も出かけてるの?」

葵はためらった。

「……うん」

「一緒にいるのは楽しい?」

「うん」

「それで、スマホを見ながら馬鹿みたいににやにやしてるの?」

「してない!」

「葵」

彼女はため息をついた。

「……わかったわよ」

美香は黙って待った。

葵は、皿の上の料理を見つめた。

まるで、そこに都合のいい逃げ道でも隠されているかのように。

「……好きなの」

美香の表情が柔らかくなった。

「そうなの?」

葵はうなずいた。

「自分でも思っていた以上に」

珍しく、美香はすぐにからかわなかった。

代わりに、水を一口飲んだ。

「それについて、どう感じてる?」

葵は少し考えた。

「嬉しい」

そして、眉をひそめた。

「でも、怖い」

「拓海のこと?」

「それもある」

その名前には、今でも嫌な重みがあった。

葵は、暴力的な交際関係から抜け出して以来、自分の安全を感じられる生活を少しずつ取り戻そうとしていた。

つきまとい行為については警察に相談し、送られてきたメッセージも保存していた。

友人や職場の協力を得ながら、今も必要な警戒を続けている。

問題が魔法のように解決したわけではなかった。

夜道を歩くとき、必要以上に何度も後ろを確認してしまう日もある。

突然スマートフォンに通知が届くと、画面を見る前から胃が締めつけられるように感じることもあった。

それでも、葵は少しずつ学んでいた。

自分の人生を、拓海が次に何をするかという恐怖だけで埋め尽くす必要はないのだと。

「寂しいからって、誰かとの関係に飛び込みたくはないの」

葵は打ち明けた。

美香はうなずいた。

「それは当然だと思う」

「それに、春人を拓海と比べたくない。それは春人に失礼だから」

「それも当然」

葵は顔を上げた。

「大丈夫? 今日はやけに私に賛成するじゃない」

「今のうちに楽しんでおきなさい」

二人は笑った。

やがて、美香は再び真剣な表情になった。

「でも、彼が元患者さんだったことについては?」

葵は、その質問が来ることを予想していた。

「考えてるわ」

「かなり?」

「あなたが思っている以上に」

葵は、この状況についてすでに専門的な助言を求めていること、そして看護師と患者の間にある境界線がなぜ重要なのかを理解していることを説明した。

今の彼女は、春人の看護を担当していない。

彼の日常的な身体介助にも、意識的に関わらないようにしていた。

病院の外で会う時間は、彼女の仕事とは完全に切り離されている。

それでも、状況が変わったからといって、元看護師と元患者の関係に伴う倫理的な問題が自動的に消えるわけではないことも理解していた。

「春人に、私へ何か返さなきゃいけないって思ってほしくないの」

葵は言った。

美香はうなずいた。

「それで?」

「それに、私が彼の人生を何とかしてあげなきゃいけないって思うのも嫌」

「いいことね」

葵はかすかに微笑んだ。

「春人は、自分のことを自分で決められる人よ」

「それは何となくわかる」

「信じられないくらい頑固なときもあるけど」

「誰かさんに似てるわね」

葵は目を細めた。

「やめて」

美香は両手を上げた。

「何も言ってません」

葵は続けた。

「冗談はひどいし、私がどう反応するか見たくて、わざと文句を言うこともある。それに、明らかに心配しているくせに、何でもないような顔をするときもあるの」

美香はじっと彼女を見ていた。

「でも?」

葵の表情が柔らかくなった。

「でも、思いやりがあるの。無理して笑わせようとしていないときは、本当に面白いし。私の話をちゃんと聞いてくれる。それに、春人と一緒にいると、自分のことをいちいち説明しなくてもいいような気がするの」

彼女は少し言葉を止めた。

「それが、今までとは違うの」

美香は頬杖をついた。

「もう一度、誰かと付き合う準備ができてると思う?」

葵は時間をかけて答えた。

「完全に準備ができる人なんて、いるのかな」

「確かに」

「でも、確かめてみたいとは思う」

美香は微笑んだ。

「だったら、彼に伝えてみたら?」

葵はうめいた。

「ああ、それが怖いのよ」

「あなた看護師でしょ? 本物の緊急事態だって経験してきたじゃない」

「そっちのほうが簡単よ」

「どうして?」

「患者さんは普通、僕の彼女になってくれませんか、なんて聞いてこないもの」

美香は吹き出した。

葵は顔を覆った。

「なんで今の、声に出しちゃったんだろう……」

「私のことが大好きだからでしょ」

「それは疑問ね」

美香は笑い続けた。

ようやく落ち着くと、彼女はテーブル越しに手を伸ばし、葵の手を優しく握った。

「一つだけ覚えておいて」

葵は顔を上げた。

「何?」

「怖くないふりをしたからって、準備ができてる証明にはならないのよ」

葵はしばらく黙っていた。

そして微笑んだ。

「ありがとう」

美香は椅子にもたれた。

「さて、ひどい冗談を言う、そのものすごく魅力的な男性について、もっと詳しく聞かせてもらおうかしら」

葵は箸を持ち直した。

「絶対に嫌」

「笑顔は可愛い?」

「美香!」

「あら、それは『はい』ってことね」

◇ ◇ ◇

私たちって、付き合っているの?

春人が選んだカフェは、駅から少し離れた静かな通りにあった。

彼は葵に提案する前に、店のアクセシビリティ情報を調べ、さらに電話で入口とトイレの設備について確認していた。

葵は、春人より数分遅れて到着した。

窓際の小さなテーブルのそばに、電動車椅子に座る春人の姿が見えた。

彼は、まるで複雑な法律文書を読んでいるかのような真剣さで、メニューを見つめていた。

「何か面白いものでもあった?」

葵が尋ねた。

春人は顔を上げた。

「どうやら、ここではコーヒーを出しているらしい」

葵は瞬きをした。

「カフェで?」

「そうなんだ。大胆な経営戦略だよね」

葵は笑い、向かい側の席に座った。

「もう注文した?」

「まだ。葵を待ってたんだ」

「ずいぶん紳士的ね」

「誰にも言わないでくれよ。僕には守るべき評判があるんだから」

葵はメニューを手に取った。

二人は飲み物と、分け合って食べるためのケーキを一つ注文した。

会話は自然に始まった。

春人はアパートの内見について話した。

期待できそうな間取りのこと。

そして、すべてを台無しにしかねない浴室のこと。

葵は心から興味を持って耳を傾けた。

「じゃあ、まだ可能性はあるのね?」

「たぶんね。改修が認められるかどうかと、それで本当に使えるようになるのかを確認しないといけない」

「大変そうね」

「大変だよ。でも、少なくとも今回は契約する前に問題を見つけられた」

「それは進歩じゃない」

「みんな、そう言うんだよね」

葵は微笑んだ。

「本当のことだからじゃない?」

春人は彼女をちらりと見た。

「みんなで共謀して、僕を楽観主義者にしようとしてるんだ」

「誰かがやらないとね」

春人は、建物の近くにあるパン屋と書店についても説明した。

葵は、特に書店に興味を示した。

「本屋さんがあるの?」

「残念ながら」

「残念?」

「うん。もしあそこに住んだら、食費が一円も残らなくなるかもしれない」

「それはあなたの家計管理の問題でしょ」

「本は生活必需品なんだよ」

「食料品よりも?」

「本によるね」

葵は首を振った。

「本当にどうしようもない人ね」

「なのに、不思議と魅力的」

「それは議論の余地があるわ」

飲み物が運ばれてきた。

葵は店員に礼を言い、紅茶を一口飲んだ。

春人は、彼女のカップから立ち上る湯気を見つめていた。

彼は午前中のほとんどを、ある質問の練習に費やしていた。

残念ながら、どの言い方も、前のものよりひどく聞こえた。

一つはあまりにも堅苦しく、まるで業務提携を申し込むようだった。

もう一つは、学校のダンスパーティーで緊張している十代の少年のようだった。

一時は、話題そのものを避けてしまおうかとも考えた。

その選択肢は、時間が経つほど魅力的になっていた。

葵は彼の沈黙に気づいた。

「どうかした?」

「いや」

彼女は春人をじっと見た。

「春人」

「何?」

「また、あれをやってる」

「何を?」

「明らかに何か考えてるのに、何でもないふりをするやつ」

春人はため息をついた。

「もっと謎めいた性格を身につけないと駄目だな」

「頑張って」

彼は窓の外へ目を向けた。

それから、再び葵を見た。

「一つ、聞いてもいい?」

葵は微笑んだ。

「内容によるわ。またひどい冗談?」

「違う」

彼は少し間を置いた。

「実は、それよりひどい」

「冗談よりひどいことなんてあるの?」

春人は息を吸った。

「……僕たちって、付き合ってるのかな?」

葵は、カップを口へ運ぶ途中で固まった。

数秒間、二人とも何も言わなかった。

春人は、この瞬間に至るまでの自分の選択をすべて後悔した。

「うわ……」

彼は小さくつぶやいた。

「頭の中では、もう少しましな質問だったんだけど」

葵はゆっくりカップを下ろした。

「それを、私に聞くの?」

「本当は店員さんに聞こうと思ったんだけど、忙しそうだったから」

葵は思わず笑ってしまった。

「春人」

「ごめん」

彼はテーブルへ視線を落とした。

「ただ、僕たちはずいぶん一緒に過ごしてるのに、この関係を何て呼べばいいのか、よくわからなくて」

葵は黙って聞いていた。

「植物園で、お互いの気持ちについて話したのは覚えてる。それに、どちらも急ぎたくないって思ってたことも」

彼は唾を飲み込んだ。

「でも、僕は葵が好きなんだ。これからも、ただの友達以上の関係として会っていきたいと思ってる」

葵の表情が変わった。

からかうような笑みが消え、もっと静かなものに変わった。

「春人……」

彼は顔を上げた。

「すぐに答えを出してほしいわけじゃないんだ。ただ、お互いに気まずい思い込みを増やしていくより、ちゃんと話したほうがいいと思って」

葵はカップを置いた。

「私も、一つ言っていい?」

「もちろん」

「私も、同じことを考えてたの」

春人は瞬きをした。

「本当に?」

彼女はうなずいた。

「私も春人が好き」

春人は彼女を見つめた。

一瞬、脳が言葉の作り方を忘れてしまったようだった。

葵は微笑んだ。

「ずいぶん静かね」

「現在、技術的な問題が発生しております」

彼女は笑った。

「再起動してあげようか?」

「それは助かるかもしれない」

春人も微笑んだ。

しかし、緊張はまだ残っていた。

「もう一つ、言っておきたいことがあるんだ」

葵は待った。

春人は自分の車椅子へ視線を落とした。

「僕と付き合うとなると、現実的にいろいろと面倒なことがあるのはわかってる」

葵は口を挟まなかった。

「僕には、いろんなことに介助が必要だ。葵はもう知ってるよね。でも、看護師として知っているのと、恋人として経験するのとでは違うかもしれない」

彼はもう一度息を吸った。

「葵に、僕の世話をしなきゃいけないって思ってほしくないんだ」

葵はその言葉を受け止め、少し考えた。

「春人。あなたには身体介助をしてくれる人たちがいるって、私は知ってるわ」

「うん」

「それに、専門的な支援を受けながら、自分の家で暮らそうとしていることも知ってる」

春人はうなずいた。

「付き合うことになったからって、それが変わるとは思ってないわ」

春人は彼女を見た。

葵は続けた。

「私は、あなたの看護師になりたいんじゃないの。春人と一緒にいるのが楽しいから、一緒に過ごしたいの」

春人の表情が柔らかくなった。

「冗談も含めて?」

「残念ながら」

「それは重大な覚悟だね」

葵は微笑んだ。

「でも、私に違う目で見られるのが怖いからって、何でも隠してほしくもないの」

春人は黙っていた。

葵は少し身を乗り出した。

「現実的な問題は、そのときが来たら話し合えばいい。今日、起こるかもしれないことを全部解決する必要はないでしょう?」

春人はテーブルへ目を落とした。

「誰かの責任になってしまうのが、怖いんだと思う」

葵は優しく首を振った。

「恋人になるって、相手を大切に思うことでしょう? でも、それは一人がもう一人の人生すべてに責任を負わなきゃいけないって意味じゃないわ」

春人はその言葉を考えた。

簡単なことのように聞こえた。

けれど、彼にとっては、長年うまく区別できなかったことだった。

介助が必要だからといって、自分で物事を決める能力が低いわけではない。

それは、ずっと理解していた。

しかし、誰かが自分を愛することを選ぶとき、その人が彼の介助の必要性を負担や解決すべき問題として見なくてもいいのだということは、まだ完全には受け入れられていなかった。

葵は微笑んだ。

「それに、私にもいろいろ事情があるもの」

春人は顔を上げた。

「そうだね」

葵はうなずいた。

「前の恋愛のことも、まだ整理している途中なの。調子のいい日もあれば、そうじゃない日もある」

「知ってる」

「不安になったり、一人になる時間が必要になったりすることもあると思う」

「それでいいよ」

「だから、春人にも、私の問題を全部解決しなきゃいけないって思ってほしくないの」

春人はかすかに笑った。

「それはよかった。僕、修理は本当に苦手だから」

葵は笑った。

「覚えておくわ」

「昔、プリンターを直そうとしたら、なぜか余計に怒らせちゃったことがある」

「プリンターって、もともと敵対的な生き物だから」

「そうなんだよ! やっとわかってくれる人が現れた」

二人の笑い声が、緊張を和らげた。

しばらく、二人は静かに座り、窓の外を通り過ぎる人々を眺めていた。

そして、春人は再び葵を見た。

「それで……」

葵は片方の眉を上げた。

「それで?」

「確認なんだけど」

彼女は微笑んだ。

「はい?」

「僕たちって、付き合ってるの?」

葵は笑った。

「本当に、私に言わせるつもり?」

「正式な記録として、公式声明をいただけるとありがたいです」

葵は考えるふりをした。

「そうですね、高橋さん。提出された証拠を検討した結果……」

春人は厳粛にうなずいた。

「続けてください」

「私は、あなたの彼女になりたいと思います」

春人の心臓が、不意に大きく跳ねた。

「本当に?」

「本当」

彼は微笑んだ。

あまりにも無防備な笑顔だったので、葵もつられて微笑んでしまった。

「それなら」

春人は言った。

「僕も、ぜひ葵の彼氏になりたいです」

葵は紅茶へ手を伸ばした。

「よかった」

「よかった」

二人は顔を見合わせた。

そして、同時に笑い始めた。

「信じられないくらい気まずかったね」

春人は認めた。

「少しね」

「少し?」

「わかったわよ。ものすごく」

「正直に言ってくれてありがとう」

葵はにっこり笑った。

「どういたしまして」

春人は二人の間に置かれたケーキへ目を向けた。

「つまり、これからはデザートも分けなきゃいけないってこと?」

葵はフォークを手に取った。

「最初から分けてたでしょ」

「いや、でも今は法的な問題が発生するから」

「春人」

「ただ、デザートに関する境界線は、早いうちにはっきりさせておくべきだと思うんだ」

葵はもう一口食べた。

「もう遅いわ」

春人はケーキを見つめた。

「なるほど。この関係は、最悪のスタートを切ったようだ」

葵は紅茶をこぼしそうになるほど笑った。

春人も一緒に笑っていた。

緊張を隠すためではなかった。

難しい話題から彼女の注意をそらすためでもなかった。

ただ、久しぶりに、未来には素晴らしい何かが待っているかもしれないと思えたからだった。

◇ ◇ ◇

まだ言えなかった言葉

その夜、葵が美香のアパートへ戻ったとき、彼女はまだ微笑んでいた。

美香は、葵が靴を脱ぐより先に気づいた。

「あら、やだ」

葵は顔を上げた。

「何?」

「その顔」

「どんな顔よ」

「私に何か報告がある女の顔」

葵はため息をついた。

「せめて家に入ってからでもいい?」

「駄目」

「美香」

「絶対に駄目。まずは情報を」

葵は笑った。

「わかったわよ」

彼女は息を吸った。

「春人と、付き合うことになったの」

美香は目を見開いた。

そして、喜びの悲鳴を上げた。

「えええええっ!?」

葵はびくっとした。

「ちょっと、声を小さくして!」

「彼氏ができたのね!!」

「ええ、ありがとう! 自分でも知ってるわ!」

美香は葵を抱きしめた。

葵は笑いながら、その抱擁を受け止めた。

「本当によかったね!」

「ありがとう」

美香は体を離した。

「待って。どうやってそうなったの?」

「話し合ったの」

「それだけ?」

「何を期待してたのよ?」

「花火とか、劇的な告白とか。あと、バイオリン奏者とか」

葵は呆れたように目を回した。

「カフェにいたのよ」

「ますますいいじゃない! 彼から告白したの?」

「まあ、そんな感じ」

「あなたは?」

「まあ、そんな感じ」

美香は葵を見つめた。

「あなたたち、本当にどうしようもないわね」

葵は微笑んだ。

「そうかもね」

二人はリビングへ移動した。

美香はすぐに、会話の詳細を要求した。

葵は、そのほとんどを話した。

春人が緊張しながら質問したこと。

二人で境界線について話し合ったこと。

そして、ぎこちないやり取りの末に、友情が正式に恋愛関係へ変わったこと。

美香は、面白がりながらも、心から嬉しそうに聞いていた。

葵が話し終えると、美香はソファにもたれた。

「ねえ、その話のどこがいいと思う?」

「どこ?」

「二人とも、本当に大切なことを話し合ったところ」

葵はうなずいた。

「そうしようとは思ったの」

「それって、できない人も結構多いのよ」

葵は窓へ目を向けた。

「これからどうなるかは、わからないけど」

「誰にもわからないわよ」

「ただ、壊したくないの」

美香の表情が柔らかくなった。

「だったら、壊してしまうことばかり心配しないことね」

葵はかすかに微笑んだ。

「それ、妙に助言っぽいわね」

「私にも、そういう瞬間はあるのよ」

葵は笑った。

そのとき、スマートフォンが震えた。

画面を見る。

春人からのメッセージだった。

『春人:本日の出来事を検証した結果、葵は恋愛に関して、かなり疑わしい判断を下したという結論に達しました。』

葵はにやりと笑った。

『葵:へえ?』

『春人:はい。新しい彼氏は冗談のセンスがひどく、映画の趣味も怪しく、書店との関係も不健全です。』

『葵:それはひどいわね。』

『春人:返金を要求することをおすすめします。』

『葵:残念だけど、そのまま取っておくことにするわ。』

春人からの返事は、ほとんどすぐに届いた。

『春人:素晴らしい。返品期限は五分前に切れました。』

葵は笑った。

美香が身を乗り出した。

「彼?」

葵は画面を遠ざけた。

「プライバシー」

「もう、つまらないわね」

「どうやら、私の彼氏はそう思ってないみたいだけど」

美香は大げさに息をのんだ。

「聞いた!? 今、『私の彼氏』って言ったわよ!」

葵はクッションを投げつけた。

外れた。

美香は笑った。

そして、しばらくの間、アパートには素晴らしく平凡な時間が流れていた。

脅迫的なメッセージもない。

口論もない。

何か間違ったことを言ってしまうのではないかという恐怖もない。

ただ、リビングで笑い合う二人の友人がいた。

そして、幸せをもう一度追い求めてもいいのかもしれないと、少しずつ信じ始めた若い女性がいた。

◇ ◇ ◇

一方、その頃。

春人はパソコンの前に座っていた。

部屋は静かだった。

夜の介助はすでに終わっており、就寝の準備を始めるまで、少しだけ自分の時間があった。

画面には、数日前に開いたままの文書が表示されていた。

『母さんへの手紙』。

彼は、書きかけの文章を読み返した。

そして、続きを入力し始めた。

『母さんへ。

うん。ちょっとしたことがあったんだ。

前に話した女の子、覚えてる?

葵っていう子。

彼女が、僕の恋人になったんだ。』

春人は手を止めた。

その言葉は、不思議に見えた。

嫌な感じではない。

ただ、慣れていなかった。

彼はもう一度読み返した。

『僕の恋人。』

春人は微笑んだ。

『わかってる。母さんもきっと驚くだろうね。

いや、嘘だ。

母さんなら、僕が最後まで話し終える前に、お祝いを始めてるはずだ。』

彼は、母が手をたたきながら喜び、次々と質問を浴びせ、すぐに葵を夕食へ招待しようとする姿を想像した。

あまりにも鮮明な光景だったので、思わずドアのほうを振り向きそうになった。

母の声が聞こえてくるような気がしたのだ。

そのあとに訪れた静寂は、痛かった。

春人は写真へ目を向けた。

「母さんに話せたらよかったのに」

声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。

彼はしばらく静かに座っていた。

そして、再び文書へ向かった。

『アパートのことも、また考えてる。

新しい物件が見つかったんだ。

完璧じゃないし、結局駄目になる可能性もある。

でも、初めて、本当に自分の家で暮らしている姿を想像できたんだ。

母さんなら、きっと喜んでくれると思う。

自分自身の人生を築く機会を持つべきだって、いつも言ってたよね。』

春人は少し手を止めた。

『昔は、それって、母さんがいなくても何でも一人でできるって証明することだと思ってた。

でも今は、そういう意味じゃなかったんだってわかる。』

春人は窓へ目を向けた。

ガラスの向こうでは、夕暮れの空の下、街の明かりがきらめいていた。

彼は、母が日常生活の介助に費やしてくれた、数え切れないほどの時間を思い出した。

仕事へ急ぐ前に、朝食を準備してくれた朝。

疲れ切って帰宅しても、必ず彼の一日について尋ねてくれた夜。

春人が何かを決めようとするとき、たとえその決断が母自身を不安にさせるものであっても、背中を押してくれたこと。

母は、彼に障害がないふりをしたことはなかった。

ただ、障害によって彼の人生の可能性が決められることを、決して認めなかったのだ。

春人は再びキーボードへ向かった。

『僕には、今でも助けが必要だよ、母さん。

たぶん、これからもずっと必要だと思う。

でも、誰かの助けが必要だからって、自分自身の人生を持てないわけじゃないんだって、少しずつ理解できるようになってきた。

それに、誰かを愛するって、その人に自分のすべてを背負わせることじゃないのかもしれない。

自分の隣を、一緒に歩いてくれる人を見つけることなのかもしれない。』

春人は手を止めた。

そして、小さく笑った。

「……それとも、走る、かな」

彼は文章を修正した。

『あるいは、隣を一緒に車椅子で走ってくれる人を。』

再び、写真へ目が向いた。

春人は、カフェでの出来事を母に話す自分を想像した。

喜びに満ちた質問が、今にも聞こえてきそうだった。

『優しい子なの?』

『あなたを幸せにしてくれる?』

『いつ紹介してくれるの?』

春人は微笑んだ。

「うん、母さん。優しい子だよ」

声が、わずかに震えた。

「それに……うん。僕を幸せにしてくれるんだ」

一筋の涙が、頬を伝った。

春人は、それをそのまま流した。

久しぶりに、悲しみを抱えながら幸せを感じることについて、謝る必要はないと思えた。

二つの感情は、同時に存在していてもいい。

母がたまらなく恋しくても、明日を楽しみにしていい。

また誰かを失うことが怖くても、その人を大切に思っていい。

過去の人生を捨てることなく、新しい人生を築いてもいい。

春人は文書へ目を戻した。

『これからどうなるのかは、まだわからない。

アパートは駄目になるかもしれない。

仕事もまだ安定しているとは言えない。

京都旅行だって、どうすれば実現できるのか、まだわからない夢のままだ。

それに、葵と僕は、付き合い始めたばかりなんだ。

これから、難しい話し合いもあると思う。

きっと喧嘩もするし、誤解も生まれるし、二人ともどうすればいいかわからなくなる瞬間もあるだろう。

でも、僕は挑戦してみたい。』

春人は手を止めた。

植物園で過ごしたあの午後から、心の中に少しずつ積もっていた思いを、どう言葉にすればいいのか探した。

そして、再び文字を打ち始めた。

『母さん。

僕は今、恋に落ちかけているんだと思う。』

春人はその一文を見つめた。

心臓が、少し速く鼓動した。

それを認めるのは、怖いことだった。

特に、もう返事をしてくれない人へ打ち明けるのは。

春人は母の写真を見た。

美咲の笑顔は、今も明るく、少しいたずらっぽかった。

笑っている瞬間を、永遠に閉じ込めた写真。

母なら、何と言うだろう。

想像するのは難しくなかった。

『まったく、やっとなのね』

春人は静かに笑った。

「うん」

彼はささやいた。

「そうかもしれないね」

文書を保存した。

窓の外では、街が絶え間なく動き続けていた。

電車は乗客を家へ運び、街灯は細い歩道を照らしていた。

どこかでは、一人の若い看護師が、スマートフォンに届いたひどい冗談を読んで笑っているのかもしれない。

そして、静かな部屋では、車椅子に座る一人の青年が母の写真の隣で、かつては信じることさえ怖かった未来を思い描いていた。

あのアパートが、自分の家になるかどうかはわからない。

いつ京都へ行けるのかも、まだわからない。

これから数か月の間に、葵との関係がどう変わっていくのかも、もちろんわからない。

けれど、母を失って以来、初めてだった。

不確かな未来が、恐れるべきものだけには感じられなくなったのは。

その不確かさの中には、希望が入り込む余地があった。

そして、もし幸運に恵まれるなら。

そこには、愛が育つ余地もあるのかもしれなかった。

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