第41話 初めて、この想いを愛と呼ぶことを選んだ日
高橋春人は、同じ文章を六回も書き直していた。
画面の上では、カーソルが文末で点滅している。
もう四十分近く、彼はパソコンの前で、比較的簡単に言葉にできるはずの午後について書こうとしていた。
植物園へ行った。
花を楽しんだ。
いくつかの疑わしい冗談を言った。
そして、一緒に過ごす時間を、自分が認めたくないほど楽しみにするようになっていた女性と、数時間を過ごした。
どれも、それほど複雑な出来事ではない。
残念ながら、それらに対する彼の感情は、まったく別の問題だった。
画面に開かれている文書のタイトルは、『母さんへの手紙』。
母の死後、春人が書き始めた個人的な記録をまとめたものだった。
その中には、日常の出来事を簡単に書き留めただけのものもあれば、ほかの誰にも打ち明けられなかった思いを綴ったものもあった。
今夜の手紙は、間違いなく後者だった。
『母さんへ。
どうやら僕には、問題があるみたいだ。』
春人は文章を眺めた。
「ひどい書き出しだな」
彼は削除した。
『母さんへ。
昔、僕にいい女の子はできたのかって、よく聞いてたよね?』
春人は手を止めた。
「こっちのほうがいい」
『おめでとう。ついに、その質問をしなくて済むかもしれないよ。』
彼は画面を見ながら微笑んだ。
こんな知らせを聞いたら、母の美咲はどんなに嬉しそうな顔をしただろう。
母には、息子の恋愛の気配をほんの少しでも察知すると、それを大規模な調査へ発展させる、ほとんど超自然的な才能があった。
春人が女性の名前を二度口にしただけで、母は年齢、職業、性格、そして家庭料理が好きかどうかまで質問し始めたものだった。
一度、母の聞こえるところで、店員の女性の髪型を褒めてしまったことがある。
それは大きな間違いだった。
美咲は帰り道の間ずっと、もう一度その店へ戻るよう春人を説得し続けたのだ。
春人はその記憶に小さく笑った。
しかし、すぐに懐かしい痛みが胸へ広がった。
もう二度と、母からそんな質問をされることはない。
しばらく、彼の視線は机の上に置かれた写真立てへ向かった。
写真には、公園で馬鹿げた競争をしたとき、車椅子の隣で笑っている母が写っていた。
緑の中で、黄色いジャケットが鮮やかに輝いている。
春人は、母の葬儀にその写真を選んだ。
今はパソコンの隣に置いてあり、仕事をしているときにも、いつでも見ることができた。
「まあ、母さん」
彼は小さくつぶやいた。
「この話を聞いたら、きっと大騒ぎするんだろうな」
そして、文書へ目を戻した。
『彼女の名前は葵。
看護師なんだ。でも、僕たちの出会いは、あまりロマンチックなものじゃなかったって説明しておいたほうがいいかな。
実際、あれは僕の人生でも最悪の日の一つだった。
誰かと話したかったとき、彼女はそばにいてくれた。
そして、あんな状況だったのに、なぜか僕を笑わせてくれたんだ。』
春人は、彼女の容姿について何か書き加えようかと考えた。
笑顔のこと。
彼がまた冗談を言おうとしていると察したとき、少し細くなる目のこと。
何かを考えているとき、時折、髪を耳にかける仕草のこと。
どれも、彼が気づいていたことだった。
おそらく、普通以上に何度も。
最後の点については、書かないことにした。
『病院の外でも、一緒に過ごすようになったんだ。
書店へ行ったり、展示会を見たり、映画を見たり。
最近は植物園にも行った。
彼女は、僕のことが好きなんじゃないかと思う。』
春人は入力を止めた。
その一文は、妙に恐ろしく見えた。
葵が自分と一緒に過ごす時間を楽しんでいることは知っていた。
本人がそう言ってくれたからだ。
植物園での会話からも、彼女の気持ちが普通の友情を超えていることは感じられた。
しかし、誰かを好きになることと、その人と恋愛関係を築きたいと思うことは、必ずしも同じではない。
春人は、その違いを多くの人が思っている以上によく理解していた。
物心ついた頃から、障害は彼の人生の一部だった。
電動車椅子を使用し、移乗、入浴、着替え、食事、その他の日常的な身体介助を必要としていた。
もちろん、それによって恋愛感情が失われるわけではない。
しかし、恋愛関係を築くとなれば、多くのカップルがもっと先まで考えずに済むことを、最初から話し合う必要があった。
例えば、突然、恋人のアパートに泊まることはできない。
建物に入れるのか。
トイレを利用できるのか。
安全に移乗できるのか。
必要な介助を手配できるのか。
それらを確認しなければならない。
予定していなかった外出でさえ、準備が必要だった。
春人は、その現実には慣れていた。
彼が怖かったのは、相手がそれに慣れていないかもしれないということだった。
春人は自分の手元へ目を落とした。
葵は、彼の障害を恥ずべきものとして扱ったことがなかった。
必要なことを説明すれば、きちんと耳を傾けてくれた。
そして、彼を助けることを、英雄的な行為のように大げさに見せようともしなかった。
それは、春人が彼女を好きになった理由の一つだった。
しかし、最初に出会ったとき、彼女は自分の看護師だった。
感謝や同情、あるいは専門職としての責任感の名残が、本来は恋愛であるはずの関係の土台になってほしくなかった。
何より、自分が彼女の人生における、もう一つの義務になってしまうことが怖かった。
春人は再び文章を書き始めた。
『母さん。
誰かが同情しているからじゃなく、本当の自分を好きでいてくれるって、どうすればわかるんだろう?』
彼はその質問を何度も読み返した。
そして、答えを書かないまま文書を保存した。
こういう問題については、いつも母のほうがずっと詳しかった。
残念ながら、もう相談することはできない。
そして、この答えだけは、自分で見つけなければならないのだろう。
◇ ◇ ◇
存在しないはずだったアパート
翌朝、春人のもとに田中恵子から電話がかかってきた。
春人は、生活介助員の星野里奈に手伝ってもらって朝食を終えたばかりで、ミライ・インターフェース・ソリューションズのアクセシビリティテストを再開する準備をしていた。
同社の最新ソフトウェア更新によって、新しい操作上の問題が発生していた。
代替入力方式を使用すると、一部のメニューが操作しにくくなっていたのだ。
春人はすでに、その問題について三ページにわたる観察記録を書いていた。
特に三ページ目には、自分でも誇りに思うほど抑制の効いた表現で、問題を生み出した開発者への評価が記されていた。
里奈はそれを「攻撃的なほどプロフェッショナル」と評した。
春人は褒め言葉だと受け取っていた。
電話が鳴った。
「もしもし?」
「おはようございます、春人さん。田中です」
「ああ、おはようございます。ついにプールと専用映画館付きのアパートを見つけてくれたんですか?」
恵子は笑った。
「残念ながら、まだそこまで予算に余裕はありません」
「がっかりです。完成披露試写会に招待しようと思っていたのに」
「その代わりに、少し期待できるお知らせではいかがでしょう?」
春人は車椅子の上で、わずかに姿勢を正した。
「期待できるって?」
「調査していた物件の一つが、内見できることになりました」
春人は、すぐにその物件を思い出した。
最近の住居探しで見つかった、二つの有力候補のうちの一つだった。
数週間前に逃してしまった、公園の見えるアパートとは違い、希望していた地域からは少し離れている。
しかし、事前の情報を見る限り、春人の必要により適している可能性があった。
「商店街の近くにある物件ですか?」
「はい。建物の入口に段差がなく、エレベーターもあります。室内も比較的広いようです」
「比較的って、誰の基準ですか?」
恵子は小さく笑った。
「だからこそ、実際に確認していただきたいんです」
春人は微笑んだ。
「確かに」
「管理会社が、契約を検討する前に、詳しいアクセシビリティ評価を行うことを了承してくれました。浴室の寸法も確認したいですし、入口が春人さんの車椅子に対応できるかも調べる必要があります」
「家賃は?」
「以前お話しした範囲内です。ただし、追加費用については確認が必要です」
春人は、近くで午前中に必要な物品を整理している里奈へ目を向けた。
彼女はその表情に気づいた。
「いい知らせですか?」
春人はマイクを手で覆った。
「可能性はある。アパートが見つかったんだ」
里奈は眉を上げた。
「本物のアパートですか?」
「どうやらね。そろそろ伝説上の生き物なんじゃないかと思い始めていたよ」
恵子は内見の手配について説明を続けた。
内見はその週の後半に行うことになった。
里奈が身体介助のために同行し、アクセシビリティの評価担当者が室内の構造を確認する予定だった。
電話を切ったあと、春人は数秒間黙っていた。
里奈が彼を見た。
「それで?」
春人は振り向いた。
「住む場所が見つかるかもしれない」
里奈は微笑んだ。
「楽しみですね」
「また壮大ながっかり体験になるかもしれないけど」
「その可能性もありますね」
春人は眉をひそめた。
「そこは否定してくれるところだろう」
「嘘をついたほうがよかったですか?」
「ぜひ。昼食前に精神的な操作を受けるのは大好きなんだ」
里奈は笑った。
それから、少し真剣な表情になった。
「でも、これまでの物件から、たくさんのことを学びましたよね。今回は、何を確認すべきかわかっているはずです」
春人は考えた。
確かに、そのとおりだった。
これまでの失敗から、物件情報では見落とされがちな細部を調べるようになっていた。
車椅子対応と宣伝されている建物でも、浴室が機器を使うには狭すぎることがある。
扉の幅が、車椅子を通すだけで精いっぱいの場合もある。
寝室の配置によって、安全な移乗が難しくなることもある。
そして、アクセシブルな住居を見つけることは、自立生活の一部分でしかない。
介助の勤務体制。
緊急時の代替支援。
経済的な問題。
地域のサービスへのアクセス。
それらも同じくらい重要だった。
どれほど完璧なアパートでも、その中で必要な支援を受けられなければ意味がない。
春人は尋ねた。
「僕って、非現実的なことをしようとしてるのかな?」
里奈は顔を上げた。
「何についてですか?」
「一人で暮らすこと」
彼女は少し考えてから答えた。
「複雑なことに挑戦しているんだと思います。非現実的なのとは違いますよ」
春人は彼女を見た。
「それ、練習してきただろう?」
「いいえ」
「だって、妙に感動的な台詞だったから」
「次からは、もう少し役に立たないようにしますね」
「ありがとう」
里奈は微笑み、仕事に戻った。
春人はパソコンへ目を向けた。
数日ぶりに、ソフトウェアのテスト報告書を少しだけ後回しにしてもいいと思えた。
彼は新しい文書を開き、内見で確認する質問をリストにし始めた。
あまり早く期待するつもりはなかった。
それでも、ページの最後まで書き終えたとき、彼はもう一つだけ項目を追加した。
『来客を迎えられるだけのスペース』
春人はその言葉を見つめた。
そして、ほとんど無意識のうちに、ある光景を想像した。
小さなリビングルーム。
向かい側の椅子に座り、お茶を飲みながら、彼の家具の趣味に文句を言う葵。
その想像に、春人は微笑んだ。
彼は、その項目を消さなかった。
◇ ◇ ◇
自分だけの居場所
三日後、春人は里奈とアクセシビリティ評価担当者とともに、アパートの建物へ到着した。
入口の近くでは、物件管理者の森田幸子という中年の女性が待っていた。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。森田と申します」
「高橋春人です。こちらは星野里奈さん」
一同は挨拶を交わした。
森田は建物へ手を向けた。
「ご覧のとおり、入口には段差がありません」
春人は自動ドアを確認した。
車椅子が十分に通れる幅があり、入口までの経路も平坦だった。
今のところ、悪くない。
「管理人さんがいない時間帯でも、入口は利用できますか?」
「はい。住民の方は電子キーを使います」
「車椅子に座ったまま、自分で開けられますか?」
森田は少しためらった。
「できると思いますが……」
春人は丁寧に微笑んだ。
「試してみてもいいですか?」
実際に試してみることになった。
読み取り機は、春人が望む位置より少し高いところに設置されていた。
しかし、いつもの姿勢の調整で手が届いた。
扉が開いた。
「文明社会に一点追加だね」
春人は宣言した。
里奈は笑いをこらえた。
エレベーターも、無理な切り返しをせずに車椅子が入れる広さだった。
ただし、操作ボタンは、春人が楽に手を伸ばせる範囲の上限に近い位置にあった。
彼はメモを取った。
アパートは四階にあった。
森田が玄関の扉を開けると、春人の目の前には、こぢんまりとしているが、明るく心地よさそうな空間が広がっていた。
大きな窓から日差しが差し込み、近隣の建物の屋根が見えた。
壁は淡い色で、床は滑らかだった。
キッチンはリビングと直接つながっている。
外に公園はなかった。
特別に素晴らしい景色があるわけでもない。
もちろん、プールもなかった。
しかし、家具に衝突することなく車椅子の向きを変えられるだけの空間があった。
それだけでも、これまで見てきたいくつかの物件より、ずっと期待できた。
春人は室内へ進んだ。
電動車椅子のモーターが静かに音を立てる。
彼はリビングを確認した。
窓の近くで方向転換し、キッチンのほうへ後退し、寝室へ続く扉の周囲の空間を試した。
里奈は、必要があれば介助できる距離を保ちながら、少し後ろをついていった。
「どうですか?」
彼女が尋ねた。
「アパートって感じがする」
「とても鋭い感想ですね」
「努力してるんだ」
評価担当者は扉の幅を測り、方向転換に使える空間を記録した。
寝室も、それなりの広さがあった。
春人は、一方の壁に電動調整式ベッドを置き、その横に移乗用リフトと介助者が安全に作業できる空間を確保する様子を想像した。
ただし、実際に機器を設置する前に、配置を慎重に確認する必要があった。
「この辺りを全部測ってもらえますか?」
春人が尋ねた。
「もちろんです」
評価担当者は答えた。
春人が確認事項を伝え、里奈が寸法や資料の確認を手伝った。
そして、一同は浴室へ向かった。
空気が変わった。
浴室の入口は、ほかの扉より狭かった。
トイレ、洗面台、入浴スペースの配置によって、移動できる空間も限られていた。
春人は中を見つめた。
「……なるほど」
里奈ものぞき込んだ。
「……そうですね」
森田は不安そうだった。
「何か問題がありますか?」
春人は彼女を見た。
「その可能性があります。僕は移乗や身体介助に人の手が必要なんです。だから、僕だけじゃなく、介助する人と使用する機器のための空間も必要になります」
評価担当者は追加の寸法を測った。
「入口の幅は対応できるかもしれませんが、トイレと入浴スペースの周囲が気になります。実際の移乗方法と必要な機器を、さらに詳しく確認する必要がありますね」
春人はうなずいた。
「やっぱり」
森田は申し訳なさそうな表情になった。
「すみません。物件情報には、バリアフリーと記載されていたのですが……」
「一部は、確かにバリアフリーです」
春人は答えた。
「ただ、それがすべての人にとって利用可能だという意味にはならないんです」
一同は、設備の一部を変更できるか、また大家が改修を許可するかどうかについて話し合った。
誰も、確約はしなかった。
春人は、そのことをありがたく思った。
実際の問題を誰も検討していないのに、簡単にできると自信満々に断言されることには、もうすっかり疲れていたからだ。
確認を終えたあと、一同はリビングへ戻った。
春人は窓の近くで車椅子を止めた。
そこからは、小さな店が並ぶ細い通りが見えた。
角にはパン屋があった。
道路の向かい側にある建物の一階には、書店が入っていた。
そして、少し先には、並木の向こうにカフェが半分隠れるように建っていた。
春人はかすかに微笑んだ。
「どうしました?」
里奈が尋ねた。
「何でもない」
彼女は春人の視線を追った。
「家具の配置を想像しているんですか?」
「かもしれない」
「それとも、誰かが遊びに来るところですか?」
春人は彼女を見た。
「君、恐ろしいほど勘が鋭くなってきたね」
「仕事の一部ですから」
「もっと鈍感な介助員を要求する」
里奈は笑った。
春人は再び窓へ目を向けた。
初めて、寸法や機器の配置を超えたものを想像することができた。
自分の家。
母と暮らした家ではない。
叔母と叔父のもとでの、一時的な暮らしでもない。
自分自身の居場所。
仕事をして、本を読んで、友人を招き、何かを決めるたびに家族会議を開かなくてもいい場所。
もちろん、浴室の問題によって、結局このアパートを諦めなければならないかもしれない。
費用や介助体制も、まだ確認が必要だった。
それでも、その可能性を想像できるほどには、現実味があった。
そして、今はそれだけでも十分だった。




