第61話 まだ分かち合い方を学んでいる明日への鍵
その朝、高橋春人が最初に知ったのは、浴室というものはどうやらロケット科学よりも複雑らしいということだった。
二つ目に知ったのは、大地叔父さんがロケット科学について一家言持っているということだった。
それは非常に残念なことだった。
なぜなら、大地はロケット科学について何一つ知らなかったからだ。
「春人」
「何、大地叔父さん?」
「俺たちなら解決できると思うぞ」
春人は彼を見つめた。
「冷蔵庫のときも同じことを言ってたよね」
大地はため息をついた。
「お前はいつになったらその話を忘れてくれるんだ?」
「忘れないよ」
「いい冷蔵庫だったんだぞ!」
「十一か月も前のカレンダーがついてきたんだよ」
「十か月だ」
「それで説得力が増すと思う?」
大地は腕を組んだ。
「お前にはかなわん」
春人は微笑んだ。
「よく言われるよ」
◇ ◇ ◇
今回の言い争いの原因は、佐藤恵美から届いた書類だった。
正確には――
青いドアのアパートについての、バリアフリー設備の予備評価報告書だった。
よい知らせは、アパートの大部分に期待が持てるということだった。
リビングは広かった。
寝室には春人の電動車椅子と必要な医療機器を置けるだけのスペースがあった。
電気設備も最初のアパートより適しているようだった。ただし、正式な容量確認はまだ必要だった。
建物の入口はバリアフリー対応だった。
エレベーターも十分な大きさだった。
そして家賃も、かなり現実的な金額だった。
残念ながら――
浴室という問題があった。
春人は間取り図を見つめた。
「どうしていつも浴室なんだろう?」
大地が肩越しにのぞき込んだ。
「浴室は複雑だからな」
「どうやらそうらしいね」
「業者によると、移乗用の機器が入らないかもしれないそうだ」
春人はため息をついた。
「読めるよ、大地叔父さん」
「分かってる」
「じゃあ、どうして僕の苦しみを実況してるの?」
大地は笑った。
「お前は怒ってると面白いからな」
「ひどい家庭だ」
「実に悲劇的だな」
◇ ◇ ◇
報告書では、トイレとシャワーの横のスペースに問題があると指摘されていた。
春人が希望する移乗方法には、現在の間取りよりも広い空間が必要だった。
業者はいくつかの案を提示していた。
一つは設備の位置を変更すること。
もう一つはシャワーの構造を変更すること。
三つ目は、別の移乗機器で春人のニーズに安全に対応できるかを評価することだった。
最後の案には、春人も少し抵抗があった。
代替案を検討したくないからではない。
ただ、費用ばかりを重視すると、いつの間にか「別の機器」が「本人にはあまり適していない機器」に変わってしまうことがあると知っていたからだ。
恵美がビデオ通話に参加した。
「おはようございます、春人さん」
「おはようございます」
「評価報告書はご覧になりましたか?」
「はい」
「いかがでした?」
春人は間取り図を見た。
「この浴室に個人的な恨みを抱くようになりました」
恵美は笑った。
「お気持ちは分かります」
春人は真剣な表情になった。
「収まるかどうかだけで機器を選びたくありません」
恵美はうなずいた。
「同感です」
「僕にとっても、介助するスタッフにとっても、安全に使えるものでないと困ります」
「そのとおりです」
「浴室を設計した人が幾何学を嫌っていたからって、看護師さんたちに無理な移乗をさせたくありませんから」
大地が吹き出した。
恵美は微笑んだ。
「決定する前に、適切な専門職を交えて、より詳しい評価を手配しましょう」
春人はうなずいた。
「お願いします」
少し間を置いた。
「あと、浴室には謝罪してほしいです」
◇ ◇ ◇
翌日の午後、春人にはもう一つ予定があった。
今度は――
黒田夏美との面会だった。
二人目の夜間看護師候補だ。
最初の面接では、まずまずの結果だった。
ぎこちない始まりではあったが。
非常にぎこちない始まりだった。
春人は今でも、自分がすぐ隣に座っているのに、夏美が由紀に向かって自分のことを質問していたのを覚えていた。
幸い、夏美はその間違いを認めてくれた。
そして今日――
実技能力の評価を受けるために戻ってくることになっていた。
恵美は、適切な専門職の監督のもとで評価を実施するよう手配していた。
目的は、春人のケアに関係する呼吸管理機器や緊急時の対応について、夏美がどの程度理解しているかを確認することだった。
試験的な勤務ではない。
春人のケアを任されるわけでもない。
まだ、その段階ではなかった。
資格や照会先、適性についても確認が必要だった。
春人はすべて理解していた。
そして、もう一つ理解していたことがあった。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「質問が三十五問だと、多すぎると思う?」
大地は目を見開いた。
「三十五問!?」
春人は考え込んだ。
「三十六問にしようかな」
「春人!」
「継続的な改善だよ」
◇ ◇ ◇
夏美は時間どおりに到着した。
今回も。
それは好印象だった。
彼女は恵美に挨拶した。
次に由紀に。
そして最後に――
春人へ直接向き直った。
「こんにちは、高橋さん」
春人は微笑んだ。
「こんにちは、黒田さん」
「もう一度お話しする機会をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ」
夏美は少し間を置いた。
そして――
「それから、前回の面接での私の対応について、改めてお詫びしたいと思っていました」
春人は彼女を見た。
夏美は続けた。
「最初から春人さんご本人に質問するべきでした」
春人はうなずいた。
「そう言っていただけてうれしいです」
「自立についてお話しされていたことを、あれから考えていました」
春人は眉を上げた。
「そうですか?」
夏美はかすかに微笑んだ。
「特に、身体的な介助が必要なことと、自分で意思決定することは別だというお話です」
春人は微笑んだ。
「大事な違いです」
「私もそう思います」
春人は少し考えた。
そして――
「素晴らしい」
由紀は安心したようだった。
春人が次の言葉を口にするまでは。
「では、第一問です」
由紀は目を閉じた。
「また始まったわ……」
◇ ◇ ◇
評価は、機器の基本的な確認から始まった。
夏美は用意された研修資料を読んだ。
機器の想定される動作について話し合った。
そして、アラームの認識や対応に関する質問に答えた。
春人は注意深く見守っていた。
自信のある看護師が、必ずしも十分な能力を持っているとは限らないことを知っていた。
一方で、初めて扱う機器について、最初からすべて理解していることを期待するべきではないとも分かっていた。
大切なのは準備だった。
訓練。
適切な判断。
そして、助けを求めるべきときを知っていること。
監督下で行われたある模擬訓練で、夏美はアラームの状態を正しく認識した。
しかし――
定められた緊急時の手順について、その機器特有の対応を説明する場面でためらった。
評価を担当する医療職が訓練を止めた。
夏美は悔しそうだった。
「もう一度やらせていただけますか?」
担当者はうなずいた。
「手順を確認してからにしましょう」
夏美は息を吸った。
「はい。お願いします」
春人は見守った。
彼女が確認を必要としたことに、失望したわけではなかった。
春人が注目していたのは、その後の対応だった。
夏美は説明を聞いた。
質問した。
文書化された手順を確認した。
そして、追加の実地訓練が必要だと認めた。
評価が終わると、春人が声をかけた。
「黒田さん?」
「はい?」
「正直に話してくださって、ありがとうございます」
夏美は瞬きをした。
「何についてでしょうか?」
「完全には分からないことを、分かっているふりをしなかったことです」
夏美はかすかに微笑んだ。
「春人さんを危険にさらしたくありませんから」
春人はうなずいた。
「それが正しい答えだと思います」
◇ ◇ ◇
夏美が帰ったあと、恵美は暫定的な評価結果を確認した。
「関連する経験はありますね」
春人はうなずいた。
「それに、前よりよくなっています」
「はい」
「でも、機器に関する追加の訓練が必要ですね」
「そのとおりです」
由紀は心配そうだった。
「それは、適任ではないということですか?」
「必ずしもそうではありません」と恵美は答えた。「必要な研修と能力確認が終わるまでは、単独で勤務できる状態だと判断するべきではない、ということです」
春人はうなずいた。
「それなら納得です」
恵美は続けた。
「真由さんの評価も進んでいます。お二人とも最終的に必要な条件を満たし、勤務日程が合えば、夜間の勤務枠の一部を担当できる可能性があります」
春人は考え込んだ。
「でも、毎晩とは限らない」
「そうですね」
「代替要員も必要ですし」
「はい」
春人はため息をついた。
「やっぱり」
由紀は同情するように微笑んだ。
春人は天井を見た。
「どうして小さな軍隊を雇えないんだろう?」
大地がにやりとした。
「予算だな」
春人はため息をついた。
「いつも予算だね」
◇ ◇ ◇
その頃、街の反対側では、水野葵がプレゼンテーションの準備をしていた。
正確には――
準備しようとしていた。
そこには大きな違いがあった。
専門能力開発プログラムで、病院から在宅生活への移行における患者の自己決定について、短い発表をする課題が出されていた。
葵は楽しみにしていた。
最初は。
しかし、白紙の文書を開いた。
そして見つめた。
二十分間。
「……どうしてこんなに難しいの?」
スマートフォンが振動した。
春人からのメッセージだった。
春人:プレゼンはどう?
葵は画面を見つめた。
葵:最悪。
春人:素晴らしい。力強いスタートだね。
葵:春人!
春人:非常に優秀な専門家の助けが必要かな?
葵:誰?
春人:僕。
葵:嫌な予感しかしない。
春人:その予感は正しい。
葵は笑った。
そして考えた。
実際――
悪い考えではなかった。
春人には、複雑な医療的ケアを受ける当事者としての豊富な経験があった。
長年、病院の制度と向き合ってきた。
ケアの調整。
医療機器。
そして、障害について人々が抱く数えきれないほどの思い込み。
役立つ視点を持っているかもしれない。
非常に役立つ視点を。
ただし、プレゼンテーション全体をコメディーに変えてしまわないようにできれば、の話だった。
それは――
正直なところ――
難しそうだった。
◇ ◇ ◇
その夜、葵は春人の家を訪れた。
ノートパソコンを持ってきた。
ノートも。
数本の論文も。
そして、専門職としての強い決意を表情に浮かべていた。
春人は笑顔で迎えた。
「高橋教授の、疑わしき優秀さを誇る学園へようこそ」
葵は見つめた。
「教授?」
「もちろん」
「疑わしき優秀さ?」
「学問には誠実さが大切だからね」
葵は笑った。
二人はリビングで落ち着いた。
春人の通常の看護体制は、いつもどおり続いていた。
葵はプレゼンテーションを開いた。
「よし」
春人は厳かにうなずいた。
「始めたまえ」
葵は彼を見た。
「楽しみすぎじゃない?」
「非常に」
葵は咳払いした。
「私の発表は、在宅生活への移行における患者の自己決定を支援することについてです」
春人はうなずいた。
「いいね」
葵は続けた。
「患者の自己決定とは、自分のケアについて十分な情報を得たうえで判断する権利を尊重することです」
「素晴らしい」
「たとえその判断が、専門職の推奨と異なる場合でも」
春人は眉を上げた。
「興味深い」
葵は目を細めた。
「何?」
「例えば、患者が午前三時まで小説を読みたいと言ったら?」
葵はため息をついた。
「春人」
「純粋に仮定の話だよ」
「もちろんね」
「しかも、その患者がものすごく魅力的だったとしたら?」
「ものすごく仮定の話ね」
春人はにやりとした。
◇ ◇ ◇
冗談は数分間続いた。
それから春人は真剣になった。
「葵?」
「何?」
「一つ提案してもいい?」
葵はうなずいた。
「もちろん」
「自己決定を、医療職が患者に与えるものみたいに説明しないほうがいいと思う」
葵は止まった。
「どういうこと?」
春人は考えた。
「時々、自立ってご褒美みたいに語られることがあるんだ」
「十分な能力があると証明して、初めて認められるものみたいに」
彼は自分の車椅子を見た。
「でも、介助が必要だからって、僕が自分で決める権利が小さくなるわけじゃない」
葵は耳を傾けた。
春人は続けた。
「専門職の人たちは、リスクを理解する手助けができる」
「選択肢を説明できる」
「安全ではないことを教えてくれる」
「でも、だからといって僕の希望が重要でなくなるわけじゃない」
葵はゆっくりうなずいた。
「大事な違いだね」
春人は微笑んだ。
「それから、実際に必要な支援が存在することも忘れないで」
葵は彼を見た。
「どういう意味?」
「僕には自立して暮らす権利がある、と言うことはできる」
「でも、必要な看護体制を確保できなければ、その権利を実際に行使するのはずっと難しくなる」
葵の表情が変わった。
メモを取り始めた。
春人は見守った。
そして――
「請求書を送ったほうがいいかな?」
葵は顔を上げた。
「え?」
「コンサルティング料」
葵は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
その夜、プレゼンテーションは完成しなかった。
でも、よくなった。
ずっとよくなった。
葵はいくつかの項目を組み直した。
本人の目標についての問いを追加した。
現実的な障壁についての説明を広げた。
そして、自己決定を支援することと、十分な支援を与えずに本人任せにすることの違いについても項目を設けた。
また、春人の個人的な医療情報を事例として使わないようにした。
二人の会話は、葵が考えを深める助けになった。
しかし、それは春人の人生を勝手に教室で発表していいという意味ではなかった。
春人は、その配慮をありがたく思った。
やがて、葵はノートパソコンを閉じた。
「ありがとう」
春人は微笑んだ。
「どういたしまして」
葵は彼を見た。
「本当に」
春人はうなずいた。
「分かってる」
葵は身を寄せ、彼の頬にキスをした。
春人はにやりとした。
「妥当なコンサルティング料だね」
葵は笑った。
「本当にどうしようもない人」
「よく言われるよ」
◇ ◇ ◇
数日後、春人と葵は将来について初めて本格的な口論をした。
始まりは何気ないものだった。
こういうことは、よくある。
二人は青いドアのアパートについて話していた。
葵は家具選びを手伝おうかと尋ねた。
春人は賛成した。
葵は小さなダイニングテーブルを提案した。
春人は同意した。
本棚の話になった。
春人は興奮した。
危険なほどに。
そして――
葵が会話の流れを変える一言を口にした。
「引っ越して落ち着いたら、週に何日か泊まりに行ってもいいかもね」
春人は止まった。
「……週に何日か?」
葵は微笑んだ。
「うん」
「どうして?」
葵は瞬きをした。
「どうしてって、どういう意味?」
春人はためらった。
「いや、来なきゃいけないって思ってほしくないだけで」
葵の笑顔が消えた。
「義務だなんて思わないよ」
「分かってる」
「じゃあ、何が問題なの?」
春人は視線を落とした。
「何でもない」
葵は眉をひそめた。
「春人」
彼はため息をついた。
「葵が少しずつ僕のケアを担当するようになるのは嫌なんだ」
葵は彼を見つめた。
「そんなこと言ってないよ」
「分かってる」
「じゃあ、どうして私が専属の看護師になろうとしてるみたいな反応をするの?」
春人は黙った。
葵は腕を組んだ。
「私は、あなたと一緒に過ごしたいって言ったの」
彼は彼女を見た。
葵は続けた。
「あなたが私の彼氏だから」
「見守りが必要だと思っているからじゃない」
春人は唾を飲み込んだ。
「そういう意味じゃなかったんだ」
「じゃあ、どういう意味?」
彼はためらった。
そして、そのためらいが――
葵を傷つけた。
◇ ◇ ◇
葵は視線をそらした。
「……本当に、私に来てほしいと思ってる?」
春人は目を見開いた。
「え?」
「あなたのアパートに」
「もちろんだよ!」
「だって、時々あなたが自分の未来を計画しながら、そこに私が入り込まないようにしているみたいに感じるんだもの」
春人は見つめた。
「葵――」
「一緒に住みたいって言ってるわけじゃない」
「分かってる」
「ケアを全部引き受けたいって言ってるわけでもない」
「分かってる」
「じゃあ、泊まることがどうしてそんなに問題なの?」
春人は視線を落とした。
しばらく――
どう答えればいいか分からなかった。
なぜなら、本当の気持ちは複雑だったからだ。
葵に来てほしかった。
心から。
何気ない夜を過ごしたかった。
一緒に食事をしたかった。
映画を観たかった。
静かに話したかった。
朝、葵が近くにいると分かって目覚めたかった。
でも、期待というものがどれほど簡単に変わるかも知っていた。
小さな親切が、いつの間にか日課になること。
日課が、義務になること。
愛しているからこそ断れず、少しずつ多くを引き受けてしまうこと。
家族が疲れ果てる姿を見てきた。
ケアの体制が崩れるところも見てきた。
そして、いつか葵が自分との関係に縛られていると感じるような未来を、何より恐れていた。
でも、そのことを説明していなかった。
代わりに――
葵に、自分は望まれていないのだと思わせてしまった。
◇ ◇ ◇
春人は息を吸った。
「……ごめん」
葵は彼を見た。
春人は続けた。
「説明の仕方が悪かった」
葵は黙っていた。
春人は唾を飲み込んだ。
「来てほしいんだ」
葵の表情が少し柔らかくなった。
「じゃあ、どうして――」
「怖いから」
葵は止まった。
春人は彼女を見た。
「一緒に過ごす時間が増えたら、何かあったときに葵が手伝わなきゃって思うようになるんじゃないかって」
葵は耳を傾けた。
「それから、僕のケアに合わせて自分の予定を変えるようになるかもしれない」
「やりたいことを諦めるようになるかもしれない」
「そしていつか、僕と一緒にいることが、もう一つの仕事になってしまったと気づくかもしれない」
声が震えた。
「そんなことにはしたくないんだ」
葵は彼を見つめた。
数秒間――
どちらも何も言わなかった。
それから葵は近づいた。
「春人」
彼は顔を上げた。
「私が何を諦めるつもりなのか、私に聞かずにあなたが決めちゃだめだよ」
春人は瞬きをした。
葵は続けた。
「そして、あなたに何が必要なのか、あなたに聞かずに私が決めてもいけない」
春人は耳を傾けた。
「それがパートナーになるってことだと思う」
葵は少し寂しそうに微笑んだ。
「話し合うの」
「一緒に決めるの」
「お互いの境界線を決めるの」
「そして、うまくいかなくなったら、その境界線を見直すの」
春人は視線を落とした。
「……そのとおりだね」
葵はうなずいた。
「そうでしょ」
春人はかすかに微笑んだ。
葵も微笑み返した。
そして――
「それに、私が泊まりに行くなら、彼氏におやすみのキスをしたいからだよ」
春人は瞬きをした。
葵は続けた。
「医療機器を点検したいからじゃない」
春人は笑った。
小さな笑いだった。
でも、本物だった。
「……それはそうだね」
◇ ◇ ◇
二人はさらに一時間話し合った。
境界線について。
期待について。
緊急時に、その場にいる一人の人間として葵ができることについて。
そして、春人の専門的なケアチームが担うべき責任について。
夜間の訪問は、春人のケア体制が適切に整ってからにすることで一致した。
また、葵を予定された看護師の代わりとして組み込まないことにも同意した。
正式にも。
非公式にも。
そして、言葉にしない期待によっても。
春人は安心した。
葵も同じだった。
やがて、葵はソファにもたれた。
「さて」
春人は彼女を見た。
「さて?」
「これが、私たちの未来についての初めての本格的な喧嘩だったね」
春人は考えた。
「初めての喧嘩ではないけどね」
葵は微笑んだ。
「確かに」
「パイナップルピザ大論争は悲惨だった」
葵は笑った。
「あれは喧嘩じゃないでしょ!」
「僕の食の好みを人類に対する犯罪だって言ったじゃないか」
「だってそうだもの!」
春人はため息をついた。
「癒えない傷もあるんだね」
◇ ◇ ◇
その頃、由紀もまた難しい会話をしていた。
相手は大地だった。
キッチンで。
夜遅く。
春人は自分の部屋に戻っていた。
看護師がいつものケアを行っていた。
家の中は静かだった。
由紀は流し台のそばに立っていた。
大地は彼女の表情に気づいた。
「どうした?」
由紀は首を振った。
「何でもないわ」
大地は眉を上げた。
「由紀」
彼女はため息をついた。
「……怖いの」
大地は真剣になった。
「何が?」
「春人が家を出ること」
大地はゆっくりうなずいた。
由紀は廊下のほうを見た。
「あの子には、自分の人生を生きてほしいの」
「分かってる」
「本当にそう思ってる」
大地は待った。
「でも、私は何年も、あの子が安全に暮らせるようにしてきたでしょう」
由紀は唾を飲み込んだ。
「様子を確認して」
「いろいろな調整を手伝って」
「この家にいるって分かっていて」
声が震えた。
「それなのに今は、アパートの話をしている」
「自分の家」
「自分の生活」
由紀は視線を落とした。
「もし何かあったら?」
大地が近づいた。
「だからこそ、引っ越す前に必要な支援を整えるんだ」
由紀はうなずいた。
「分かってる」
大地は優しく微笑んだ。
「でも?」
由紀は涙を拭った。
「……私の心の準備ができていなかったら、どうしよう?」
◇ ◇ ◇
二人は、春人が廊下の近くで止まっていたことに気づかなかった。
盗み聞きするつもりはなかった。
看護師に付き添ってもらい、部屋からリビングへ向かう途中だった。
そこで自分の名前が聞こえた。
そして止まった。
由紀の言葉が耳に届いた。
私の心の準備ができていなかったら、どうしよう?
胸が締めつけられた。
一瞬――
春人はその言葉を、最も悪い意味に受け取ってしまった。
由紀は、自分にできると信じていないのかもしれない。
現実的ではないと思っているのかもしれない。
もしかしたら――
自分はまだ準備ができていないのかもしれない。
春人は静かに部屋へ戻った。
何も言わなかった。
その夜は。
◇ ◇ ◇
翌朝、由紀は何かがおかしいと気づいた。
春人が妙に静かだった。
それは心配なことだった。
なぜなら、春人はめったに静かにならないからだ。
特に朝食の時間には。
「パンケーキにする?」と由紀が尋ねた。
「うん」
由紀は瞬きをした。
冗談がない。
王室の朝食についてのコメントもない。
サボテン外交の話もない。
絶対に何かがおかしい。
由紀は彼の隣に座った。
「春人?」
「何?」
「何か気になることがあるの?」
春人はためらった。
そして――
「僕、一人で暮らせると思う?」
由紀は固まった。
「もちろんよ」
春人は彼女を見た。
「本当に?」
「ええ」
春人は唾を飲み込んだ。
「昨日の夜、大地叔父さんと話してるのが聞こえたんだ」
由紀の表情が変わった。
「ああ……」
春人は視線を落とした。
「まだ準備ができてないって言ってた」
由紀は目を閉じた。
しばらく――
何も言わなかった。
それから近づいた。
「春人」
彼は顔を上げた。
「あなたに準備ができていないって言ったんじゃないの」
春人は瞬きをした。
「私自身が、その考えに慣れるのに時間がかかっているってことなの」
春人は黙っていた。
由紀は続けた。
「それは別のことよ」
彼は考えた。
「……そうなの?」
「全然違うわ」
由紀は少し寂しそうに微笑んだ。
「私は何年もあなたを手伝ってきた」
「それが毎日の生活の一部だったの」
「そして、あなたを愛している」
春人の表情が柔らかくなった。
「でも、愛しているからって、あなたがどこに住むかを私が決めていいわけじゃない」
少し間を置いた。
「怖いからって、あなたを信じていないわけでもないの」
春人は唾を飲み込んだ。
「……信じてもらえてないのかと思った」
由紀は首を振った。
「信じてるわ」
かすかに微笑んだ。
「私が信じられないのは、世の中があなたにとって何もかも簡単にしてくれるかどうかよ」
春人は小さく笑った。
「それはもっともだね」
由紀はうなずいた。
「でも、準備はできる」
「看護体制が安定していることを確認して」
「医療機器が安全に使えるようにして」
「アパートがあなたに合っているか確かめて」
「そして、私たちはいつでもここにいるって、あなたが分かっていればいい」
春人は彼女を見た。
「引っ越したあとも?」
由紀は微笑んだ。
「引っ越したあとこそ、よ」
◇ ◇ ◇
その日の午後、春人と由紀は持ち物の整理を始めた。
すぐに引っ越すからではなかった。
まだ引っ越しは決まっていない。
アパートの最終承認も出ていなかった。
看護体制も完成していなかった。
決めるべきことは、まだたくさんあった。
でも――
何を持っていきたいか、考え始めることはできた。
本。
服。
写真。
私物。
そして――
どうやら――
サボテンの置物からなる王室全体。
由紀は小さなお城を見つめた。
「これも本当に持っていくの?」
春人は心外そうだった。
「もちろん」
「春人」
「王家は君主とともに移転しなければならないんだ」
由紀はため息をついた。
「そうでしょうね」
整理を続けた。
やがて、由紀が古い箱を開けた。
中には写真が入っていた。
誕生日カード。
学校の作品。
そして、小さなクマのぬいぐるみ。
春人は見つめた。
「……あ」
由紀は微笑んだ。
「覚えてる?」
春人は小さく笑った。
「ボタンくん」
「お母さんがくれたのよね」
「覚えてる」
由紀はそっとクマを持ち上げた。
毛並みはすり減っていた。
片方の耳は少し曲がっていた。
首には緩くなったリボンがかかっていた。
春人は長い間それを見つめた。
そして――
「……持っていきたい」
由紀は微笑んだ。
「もちろんよ」
◇ ◇ ◇
その日の午後、春人と葵はデートに出かけた。
とても安上がりなデートだった。
意図的に。
なぜなら春人は最近、節約した一円一円が、浴室の改修費用のために腎臓を売らずに済む未来につながるかもしれないと考えるようになっていたからだ。
葵は、臓器を売ることは正当な資金計画ではないと指摘した。
春人は渋々同意した。
というわけで――
二人はバリアフリー対応の公園を訪れた。
手作りの食事を持って。
午後を一緒に過ごすことにした。
大地が移動を手伝った。
春人の看護師も同行し、必要な医療的ケアに対応できるようにしながら、二人のプライバシーにも配慮していた。
天気はよかった。
優しい風が木々を揺らしていた。
小道には花が咲いていた。
午後の日差しは、公園を現実とは思えないほど美しく見せていた。
葵は微笑んだ。
「いいね、ここ」
春人は周囲を見た。
「うん」
葵は彼をちらりと見た。
「ほら、デートってお金をかけなくてもいいでしょ?」
春人はうなずいた。
「確かに」
そして――
「ヘリコプターを借りることも考えたけどね」
葵は見つめた。
「春人」
「予算削減だよ」
葵は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
二人は池の近くの静かな場所を見つけた。
葵が食事を取り出した。
サンドイッチ。
果物。
お茶。
そして、小さなデザート。
春人は感心した。
「素晴らしいごちそうだね」
葵は微笑んだ。
「ありがとう」
彼はサンドイッチを見た。
「これ、葵が作ったの?」
「うん」
「じゃあ、当局に通報したほうがいいかもしれない」
葵は見つめた。
「どういう意味?」
「料理の腕が劇的に上達している」
「春人!」
彼は笑った。
葵は首を振った。
「本当にひどい人」
「よく言われるよ」
二人は一緒に食事をした。春人は必要な介助を看護師から受け、葵は介助者ではなく恋人としてそばにいた。
しばらく――
すべてが穏やかだった。
アパートの見積もりもない。
看護師の面接もない。
警察への届け出もない。
ただ――
日差し。
食事。
そして、お互いの存在。
◇ ◇ ◇
昼食のあと、葵はバッグに手を入れた。
「実は、渡したいものがあるの」
春人は顔を上げた。
「何?」
葵は微笑んだ。
「小さなものだけど」
「不吉な響きだね」
「春人」
「ごめん」
葵は小さく包まれたものを取り出した。
そして包みを開いた。
中には手作りのキーホルダーがあった。
小さな青いドア。
銀色の小さな取っ手までついていた。
春人は見つめた。
「……葵」
葵は少し緊張したように微笑んだ。
「作ったんだ」
春人は彼女を見た。
「本当に?」
「うん」
葵は視線を落とした。
「まだアパートを決めていないのは分かってる」
「やらなきゃいけないことがたくさんあるのも」
「でも……」
彼女はキーホルダーを少し近づけた。
「少しずつ近づいているんだって、思い出せるものを持っていてほしかったの」
春人は小さな青いドアを見つめた。
喉が締めつけられた。
「……きれいだね」
葵は微笑んだ。
「気に入った?」
春人はうなずいた。
「すごく」
葵は安心したようだった。
春人は微笑んだ。
「ただ、一つ問題があるんだ」
葵は固まった。
「何?」
春人はキーホルダーを見た。
「まだ鍵を持っていない」
葵は笑った。
「だからキーホルダーなんでしょ!」
「野心的なアクセサリーだね」
葵は首を振った。
「馬鹿」
春人は微笑んだ。
「葵の馬鹿だよ」
彼女の表情が柔らかくなった。
「……うん」
◇ ◇ ◇
数日後、恵美は青いドアのアパートについて、もう一度打ち合わせを手配した。
今度は――
よい知らせだった。
物件の所有者は、残りの評価が終わるまで、一時的に部屋を確保しておくことに同意した。
条件つきだった。
賃貸契約はまだ結んでいない。
最終承認も出ていない。
すべての改修が可能だという保証もなかった。
でも――
合意された検討期間中は、すぐに別の入居希望者へ部屋を紹介することはないということだった。
春人は注意深く聞いた。
そして尋ねた。
「つまり、もう少し時間があるんですね?」
恵美は微笑んだ。
「はい」
春人は息を吐いた。
長い息だった。
「……よかった」
大地はにやりとした。
「いい知らせだな」
由紀も微笑んだ。
「本当に」
恵美は続けた。
「浴室の詳細評価、電気設備の確認、そして最終的なケア体制の調整はまだ必要です」
春人はうなずいた。
「分かっています」
「でも、これで落ち着いて判断するための時間ができました」
春人は微笑んだ。
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
打ち合わせのあと、管理担当者はもう一度部屋を案内しようかと申し出た。
春人は同意した。
もう一度見たかった。
今度は――
何とか住める場所を必死に探している人間としてではなく。
現実的な選択肢を評価する人間として。
青いドアを通って中へ入った。
廊下を進んだ。
そしてリビングで止まった。
日差しが部屋を満たしていた。
部屋は空っぽだった。
静かだった。
何かを待っているようだった。
大地が近くに立っていた。
恵美は管理担当者と話していた。
春人は周囲を見回した。
そして、カウンターの上にあるものに気づいた。
見本の鍵。
管理担当者が、建物の鍵の仕組みを説明するために持ってきたものだった。
春人は見つめた。
「……この部屋の鍵ですか?」
管理担当者はうなずいた。
「はい。こちらで使われているタイプの見本です」
春人は鍵を見た。
小さな金属の物体。
ありふれたもの。
特別なところなど何もない。
それなのに――
とても大きな意味を持っていた。
いつか自分で開けるかもしれないドア。
いつか自分の家と呼べるかもしれない場所。
管理担当者は、よく見えるように鍵を持ち上げた。
春人はかすかに微笑んだ。
「……見せてもらってもいいですか?」
管理担当者は、春人の近くに置かれた小さなトレーに鍵を載せた。
春人はそれを見つめた。
そして入口のほうを見た。
一瞬――
帰宅する自分を想像した。
訪問ではない。
診察のためにどこかへ連れていかれるのでもない。
誰かの家に入るのでもない。
ただ、家に帰る。
自分の家に。
春人は唾を飲み込んだ。
「……すごいな」
大地が彼を見た。
「どうした?」
春人は微笑んだ。
「何でもない」
でも、何でもないわけではなかった。
決して。
◇ ◇ ◇
その夜、春人は葵に電話した。
彼女は課題を終えたあとに出た。
「もしもし」
「やあ」
葵は微笑んだ。
「アパートの打ち合わせ、どうだった?」
春人はにやりとした。
「面白かったよ」
葵は目を細めた。
「何だか怪しいね」
「非常に」
「春人」
「所有者が、一時的に部屋を確保してくれることになったんだ」
葵は目を見開いた。
「本当に!?」
「本当に」
「よかったね!」
春人は微笑んだ。
「うん」
葵は画面に顔を近づけた。
「うれしい?」
春人は考えた。
「うん」
そして――
「怖い」
葵は小さく笑った。
「両方?」
「ものすごく両方」
葵は微笑んだ。
「分かるよ」
春人はパソコンの横に置かれた、小さな青いドアのキーホルダーを見た。
「葵?」
「何?」
「一つ話してもいい?」
「もちろん」
春人は少し間を置いた。
「今日、鍵を見たんだ」
葵は瞬きをした。
「鍵?」
「アパートの」
葵の表情が柔らかくなった。
「ああ……」
春人はうなずいた。
「ただの見本だった」
「持ち帰ったわけじゃない」
「まだ何も確定していない」
かすかに微笑んだ。
「でも、鍵を見たら、全部が現実に感じられたんだ」
葵は耳を傾けた。
春人は続けた。
「いつかあのドアを開ける自分を、ずっと想像していた」
「家に帰るところを」
「そこが自分の場所だって分かっているところを」
声が柔らかくなった。
「そして、葵が遊びに来てくれるところも」
葵は微笑んだ。
「……私も行きたいな」
春人は彼女を見た。
「義務だからじゃなくて」
葵はうなずいた。
「分かってる」
「僕の世話をしなきゃいけないからでもなくて」
「分かってるよ」
春人は微笑んだ。
「僕が、葵に来てほしいから」
葵の目に涙が浮かんだ。
「……春人」
彼は小さく笑った。
「前よりうまく言えたでしょ?」
葵は涙を浮かべながら微笑んだ。
「ずっとね」
◇ ◇ ◇
その夜、春人は窓のそばに座っていた。
小さな青いドアのキーホルダーが机の上に置かれていた。
母の手紙も近くにあった。
由紀と一緒に見つけた写真も。
ボタンくんは棚の上に座っていた。
トゲトゲ卿四世とプリンセス・プリクルズは、小さなお城の中にいた。
部屋は過去のかけらで満ちていた。
子どもの頃の思い出。
家族の写真。
本。
手紙。
病院へ通った日々や、つらい夜、不安な朝をともに過ごしてきたものたち。
もうすぐ――
その一部は春人と一緒に引っ越すかもしれない。
ほかのものは残るかもしれない。
でも、思い出が消えるわけではない。
春人は母の写真を見た。
「……近づいてるよ、お母さん」
部屋は静かだった。
春人は微笑んだ。
「まだやることはたくさんあるけどね」
アパートの書類をちらりと見た。
「正直、ありすぎるくらいだけど」
それから青いドアのキーホルダーを見た。
「でも、近づいてる」
◇ ◇ ◇
街の反対側では、葵がプレゼンテーションの仕上げをしていた。
春人から学んだことを取り入れていた。
彼の個人的な医療記録ではない。
具体的なケアの詳細でもない。
二人の会話を通して理解した、より広い意味での教訓だった。
患者の自己決定とは、単に選択を許すことではない。
情報を提供すること。
希望を尊重すること。
リスクを認識すること。
適切な支援を調整すること。
そして、自立とは何もかも一人で行うことではないと理解すること。
葵は最後のスライドを確認した。
自立を支えることは、選択を支えること。
葵は微笑んだ。
そして、その下に最後の一文を加えた。
大切なのは、その人がどのような人生を生きるべきかを決めることではなく、その人が選んだ人生を実現できるよう支えることである。
葵はその言葉を見つめた。
そしてプレゼンテーションを保存した。
スマートフォンが振動した。
春人からのメッセージだった。
春人:重要なお知らせ。
葵は微笑んだ。
葵:今度は何?
春人:王室のサボテンたちが、青いドアのアパートを承認しました。
葵:それはよかったね。
春人:全会一致です。
葵:安心したよ。
春人:ただし、一つ条件があります。
葵はため息をついた。
葵:やっぱりね。
春人:もっと大きなお城を要求しています。
葵は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
翌朝、春人は日差しの中で目を覚ました。
看護師が朝のケアを始めていた。
由紀は朝食を準備していた。
大地はおそらく、どこかでまた疑わしい金銭的判断をしている頃だろう。
そして葵は、研修の新しい一日に向けて準備していた。
いつもの生活は続いていた。
でも、何かが違って感じられた。
青いドアのアパートは、もう単なる興味深い可能性ではなかった。
現実的な選択肢になり始めていた。
まだ条件つきだった。
まだ複雑だった。
まだ慎重な準備が必要だった。
でも、現実だった。
春人はキーホルダーを見た。
それから母の手紙を見た。
由紀の不安を思い出した。
大地の支えを。
恵美の根気強さを。
学ぼうとする夏美の姿勢を。
真由の進行中の評価を。
葵の決意を。
そして、二人に大切なことを教えてくれた口論を。
自立とは、誰の助けも必要としないことではない。
助けを拒むことでもない。
愛する人たちを人生から締め出すことでもない。
自分の人生をどう生きるかについて、意味のある発言権を持つことだった。
自分の家を選ぶこと。
自分の生活習慣を選ぶこと。
自分の人間関係を選ぶこと。
そして、自分のそばにいてほしい人を選ぶこと。
春人は微笑んだ。
「……少し分かってきた気がする」
朝の日差しが部屋を暖めていた。
春人は窓のほうを見た。
見慣れた街並みの向こうに――
書類と評価の向こうに――
家を離れる不安の向こうに――
青いドアが待っていた。
そして、まだその鍵を持ってはいなかったけれど――
いつかきっと――
その鍵を手にする日が来る。
そう信じられるようになっていた。
誰かが、ようやく自立する資格があると認めてくれたからではない。
介助が必要なくなったからでもない。
自分の選択を手放すことなく、必要な支援を受けられる人生を目指してきたからだ。
支えられながらも、自由でいられる人生。
愛が義務にならない人生。
一つの家を離れても、自分を育ててくれた家族を失わずにいられる人生。
春人はパソコンの横に置かれた小さな青いドアを見た。
そして微笑んだ。
「……また近いうちにね」




