第39話 まだ触れられぬ心と心の距離
高橋春人には、信用してはいけないと学んだものがいくつかあった。
晴天を約束する天気予報。
「忘れられない食体験」を謳うレストラン。
そして、何をもってそう呼んでいるのか一切説明せずに、「アクセシビリティ対応」を堂々と宣伝するウェブサイト。
特に三つ目は、最近の春人にとって、仕事上の苛立ちの種になっていた。
ウェブサイトにアクセシビリティ機能が備わっていることと、その機能によって利用者が本来の目的を達成できることは、まったく別の問題なのだ。
春人はここ数週間、その違いについて調べ続けていた。
そして、インターネットというものは、入力フォームの記入に三十秒以上かかる人間が存在する可能性を、一度も考えたことのない人々によって作られたのではないかと疑い始めていた。
残念ながら、デジタル世界を啓蒙しようとする彼の努力は、まだ全人類の意識改革には至っていなかった。
しかし、一通のメールは届いた。
しかも、今回は珍しく、かなり前向きな内容だった。
それが届いたのは、水曜日の朝だった。
星野里奈が春人をパソコンの前で快適に過ごせるよう整え終えた、少しあとのことだった。
春人はすでに、里奈の介助を受けながら朝の身支度と日常的なケアを済ませていた。
着心地のよい服に着替え、姿勢を確認し、一日を通して必要になる機器も、決められた手順に従って配置されていた。
彼は住居探しのチェックリストを見直そうとしていた。
そのとき、通知が表示された。
差出人:清水陸
件名:アクセシビリティテスト報告書についてのご連絡
春人はメールを開いた。
Miraiの開発チームが、追加の有償テストで提出した最終報告書を確認したという。
すでに改善された点と、依然として残っている問題を明確に区別したことについて、感謝の言葉が記されていた。
春人が使用する適応型入力環境では、フォーム内の操作は以前より安定していた。
しかし、セッション延長の操作については、まだ調査が必要だった。
開発者たちは、警告の仕組みやフォーカスの動作を変更できないか検討しているらしい。
さらに陸は、将来的に、別の操作方法も対象とするアクセシビリティ評価を実施する可能性があると書いていた。
もしその企画が承認された場合、春人に参加する意思があるかどうかを知りたいという。
ただし、まだ正式な業務依頼ではなかった。
作業範囲も、日程も、報酬も決まっていない。
そして陸は、追加の仕事を依頼する場合には、新たな契約が必要になることを明確にしていた。
春人はメールを二度読んだ。
それから、微笑んだ。
「ほう」
里奈が彼を見た。
「いい知らせですか?」
「可能性はあるね」
里奈は笑った。
「春人さんの好きな言葉ですね」
「便利な言葉だからね」
春人はメールの内容を説明した。
里奈は微笑んだ。
「それは期待できそうですね」
春人はうなずいた。
「うん」
少し間を置いた。
「まあ、期待してるだけじゃ報酬はもらえないけど」
里奈は笑った。
「確かに」
春人は画面へ目を戻した。
自分の仕事が評価され、再び声をかけてもらえるかもしれない。
それは素直に嬉しかった。
しかし、興味を示されたことと、正式に仕事を依頼されたことは違う。
その区別は、すでに学んでいた。
Miraiとの三件目の業務と、それに付随する有償テストの追加契約は、すでに完了している。
最終報告書も提出し、受領された。
開発チームは、春人が指摘した問題について、彼に無制限の無償テストを求めることなく、引き続き改善を進められる。
追加の仕事が必要なら、その内容を明確にしなければならない。
春人は返信を書き始めた。
報告書を確認してくれたことへの感謝。
今後の企画が正式に決まった際には、作業範囲、日程、報酬を確認したうえで検討したいという意思。
それらを簡潔にまとめ、送信した。
里奈は微笑んだ。
「とてもプロフェッショナルですね」
春人は厳かにうなずいた。
「自分でもそう思う」
少し間を置いた。
「最近、それが問題になってきたんだ」
里奈は声を上げて笑った。
春人は再びパソコンへ向き直った。
しかし、Miraiのプロジェクトファイルを開く代わりに、新しい文書を作成した。
ここ数日、彼の頭の中では一つの考えが形になりつつあった。
テスト報告書ではない。
母への手紙でもない。
もちろん、住居探しのチェックリストでもなかった。
もっとも、宇宙はそのための材料を十分すぎるほど提供してくれていたが。
それは、一篇のエッセイだった。
一般に公開できる文章。
障害のある当事者として日常のサービスを利用する中で、そしてデジタルアクセシビリティを専門的に評価し始めた者として、何度も遭遇してきた問題を説明する文章だった。
春人はタイトルを入力した。
『書類上ではアクセシブル、現実では利用不可能』
しばらく眺めた。
そして、微笑んだ。
「悪くない」
彼は書き始めた。
最初の段落は簡単だった。
二つ目は、そうでもなかった。
アクセシビリティについてなら、春人にはいくらでも意見があった。
それも当然だろう。
彼は人生の大半を、アクセシビリティが実際に必要なものではなく、単なる飾りのように扱われる環境の中で過ごしてきたのだから。
急すぎるスロープ。
車椅子が通れる幅の扉はあるのに、中へ入ると狭すぎて身動きが取れない部屋。
写真では利用できそうに見えるのに、介助を伴う身の回りのケアを安全に行うには、十分な空間がないホテルの浴室。
操作ボタン自体は存在していても、適応型入力装置では扱いにくいウェブサイト。
問題は、必ずしもアクセシビリティが完全に無視されていることではなかった。
考慮されている場合もある。
測定されている場合もある。
文書化されている場合もある。
そして、十分だと判断されている場合もある。
それでも。
実際に利用する人間の必要を満たしていないことがあるのだ。
春人は、その違いについて書き始めた。
段差のない入口がある建物でも、多くの介助を必要とする人にとっては利用できない場合がある。
バリアフリー客室を宣伝するホテルでも、その浴室で安全に介助を受けられるか判断するための情報が不足している場合がある。
入力欄に適切なラベルが付けられていても、利用者が操作を終える前にセッションが切れてしまえば、デジタルフォームは実質的に利用できない。
そこで、春人は手を止めた。
文章を読み返した。
そして、最後の一文を削除した。
Miraiでの仕事の内容に近すぎたからだ。
その一文自体が必ずしも機密情報というわけではない。
しかし、彼は今回のエッセイを、特定の依頼業務とは独立したものにしたかった。
Miraiについての公開報告書を書くつもりはなかった。
もっと広い原則について書きたかったのだ。
そこで、例を仮定の状況に置き換えた。
『代替入力装置を使用して、オンライン申請を行う人がいるとする。入力欄には適切なラベルがあり、操作の順序も論理的に整理されているかもしれない。しかし、その人が使用する入力方法では延長できない時間制限が設けられていた場合、申請を完了することは依然として困難、あるいは不可能となる。』
春人はうなずいた。
こちらのほうがいい。
彼は続きを書いた。
『アクセシビリティとは、単に機能が存在することではない。その機能によって、利用者が本来の活動に意味のある形で参加できるかどうかである。』
少し間を置いた。
そして、さらに書き加えた。
『「この人は建物に入れるか」「この人はボタンに手が届くか」という問いだけで終わってはならない。「この人は、ここへ来た目的を実際に果たせるのか」という問いまで考えなければならない。』
春人は画面を見つめた。
その瞬間、思いがけない満足感が胸に広がった。
彼はこれまで、何年もの間、自分の必要を一人ひとりに説明してきた。
医師。
教師。
介助者。
不動産関係者。
ホテルの従業員。
うまく伝わることもあった。
伝わらないこともあった。
しかし、今になって気づき始めていた。
自分の経験は、もっと広い議論に役立つかもしれないのだ。
もちろん、自分の必要が、障害のあるすべての人の経験を代表しているからではない。
そんなことはない。
アクセシビリティのあらゆる分野に精通した専門家になったからでもない。
それも違う。
それでも、自分にしか提供できない価値はある。
設計者の想定が、実際にその設備やサービスを使う人々の現実と食い違ったとき、何が起こるのか。
それを説明することはできる。
春人は書き続けた。
昼食の時間になる頃には、草稿が完成していた。
もちろん、まだ修正が必要だった。
例が適切かどうか確認したかったし、それぞれの事例から言えることを誇張しないようにもしたかった。
そして、どこに公開するのか。
そもそも公開するのかどうかも、まだ決めていなかった。
それでも。
文章は存在していた。
それだけで、一つの始まりだと思えた。
春人は美咲の写真へ目を向けた。
「さて、母さん」
彼は微笑んだ。
「あなたの息子は、ついに社会派知識人になりました」
少し間を置いた。
「世界中の皆さん、ご愁傷さまです」
◇ ◇ ◇
水野葵の最初の専門研修は、その翌朝に始まった。
研修会場は、複数の医療関連団体が利用する、比較的小さな建物の中にあった。
窓の外には、木々の並ぶ細い通りが見えた。
室内の机は、ただ講義を聞くだけでなく、参加者同士が意見を交わせるように配置されていた。
葵は早めに到着した。
事前に経路を確認し、教材に目を通し、西原智子とも日程を確認していた。
勤務との調整も承認されており、地域看護チームでの責任を果たしながら研修に参加できることになっていた。
楽しみだった。
同時に、緊張もしていた。
その感覚は、自分でも少し意外だった。
緊急事態にも対応してきた。
病院で長時間の勤務も経験した。
恐怖や不安を抱える患者を支えてきた。
それなのに、ノートとお茶を前にして教室に座っているだけで、妙に落ち着かなかった。
おそらく、これは自分で選んだことだったからだろう。
目の前に差し迫った危機があるわけではない。
緊急の処置を必要とする患者がいるわけでもない。
上司から参加を命じられたわけでもない。
自分の仕事をもっとよくしたい。
ただ、その思いからここに来たのだ。
だからこそ、その決断は特別な意味を持っていた。
講師は、在宅ケアにおけるコミュニケーションと自己決定についての話から始めた。
参加者たちは、専門職が善意から手助けしようとすることで、かえって本人の生活に対する決定権を損なってしまう状況について考えるよう求められた。
葵は注意深く耳を傾けた。
例として挙げられた場面には、見覚えがあった。
本人に向けられた質問に、家族が代わりに答えてしまうこと。
確認もせずに、専門職が本人の持ち物の配置を変えてしまうこと。
本人の希望より、支援する側の都合を優先してケア計画が作られてしまうこと。
講師は、医療上の責任と患者の自己決定権は、対立するものではないと強調した。
どちらも重要なのだ。
本人の選択を支えるためには、明確なコミュニケーション、適切な評価、そして専門職としての権限の境界を尊重することが必要だった。
葵はノートに書き留めた。
やがて、話題は専門職としての人間関係へ移った。
講師は、力関係の不均衡、依存、守秘義務、そして過去のケア関係が与える影響を認識することの重要性を説明した。
葵のペンが止まった。
一瞬、春人のことが頭に浮かんだ。
病室三一八号室。
初めて彼の食事を手伝ったとき。
彼が抱えていた悲しみ。
彼の弱さを目の当たりにしたこと。
そして、看護師として彼のケアを担当していた間に交わした、数々の会話。
すべては、そこから始まった。
しかし、今の二人は、もうその場所にはいない。
春人は退院した。
葵も病院を離れた。
現在は別の地域看護チームで働いており、春人の家庭を担当したことは一度もなかった。
二人の友情は、職務とは関係のない個人的な交流を通じて育まれてきた。
書店へ行った。
写真展へ行った。
映画館へ行った。
そして、最近の電話では、映画を見に行ったあの日が、少しデートのように感じられたことを、ようやく互いに認め合った。
葵はノートへ目を落とした。
それでも、過去は重要だった。
そのことは理解している。
以前、森山千里と話したことで、倫理的な懸念の一部については理解が深まった。
しかし、それは今後二人の関係がどのように変化しても、すべて問題ないという許可を得たわけではなかった。
葵は息を吸った。
講師は、慎重な判断、相談、そして専門職としての基準を守る必要性について話し続けていた。
葵は耳を傾けた。
そして、もう一つ書き留めた。
『個人的な感情によって、過去の専門職としての関係が消えるわけではない。』
その一文を見つめた。
少し考えたあと、さらに書き加えた。
『しかし、過去に患者だったからといって、その人が永遠に患者であり続けるわけでもない。』
葵は二つの文章を見つめた。
どちらも、簡単な答えにはならなかった。
おそらく、それこそが重要なのだろう。
◇ ◇ ◇
その週の後半、葵は千里との面談を改めて申し込んだ。
すぐに会いたいと要求したわけではない。
かつて病院で担当した患者と、現在は個人的な友情を築いており、その関係における境界について、さらに助言を受けたいと専門的な文面で連絡した。
千里は、二人で落ち着いて話せる時間を設けてくれた。
葵が訪れると、上司は温かく迎えた。
「新しい研修はどう?」
葵は微笑んだ。
「順調です」
「役に立ってる?」
「とても」
千里はうなずいた。
二人はしばらく研修について話した。
それから葵は、今回面談を申し込んだ理由を説明した。
慎重に言葉を選んだ。
春人は、もう自分の患者ではない。
現在、彼に対する医療上の責任もない。
彼の診療記録を閲覧したり、仕事上の連絡経路を使って個人的な交流を続けたりもしていない。
彼の生活介助の手配や提供にも関わっていない。
友情は、職務とは独立して育まれたものだった。
しかし、二人の気持ちは変わり始めているかもしれない。
葵はためらった。
そして、口を開いた。
「過去の関係を、なかったことにはしたくないんです」
千里は黙って聞いていた。
葵は続けた。
「でも、自分の気持ちだけで判断するのも嫌なんです」
上司はうなずいた。
「それは賢明ね」
葵は彼女を見た。
「どうすれば責任ある形で向き合えるのか、考えていて……」
千里は少し考えてから答えた。
かつての患者と個人的な関係を築くことに伴う倫理的な問題は、以前のケア関係の性質、そこに存在した脆弱性や依存の程度、ケアが終了してからの時間や状況、そして適用される専門職の指針や組織の規定によって異なるという。
現在、担当する立場にないことは重要だった。
しかし、それだけですべての懸念が消えるわけではない。
葵はうなずいた。
千里は続けた。
「思い込みで判断する前に、こうして相談してくれたのはいいことよ」
葵はかすかに微笑んだ。
「馬鹿なことを考えてるって思われるんじゃないかと、不安でした」
千里は首を横に振った。
「いいえ」
少し間を置いた。
「でも、境界については、これからも慎重に考え続ける必要があると思うわ」
葵はうなずいた。
二人は、必要に応じて正式な職業倫理上の助言を求めることや、関連する看護職の基準を確認することについて話し合った。
そして、葵が再び春人に対して医療上の権限を持つような状況を避ける必要性についても話した。
千里はまた、春人自身が自分で決断できることも重要だと強調した。
障害があるからといって、彼が自分の人間関係を選ぶ能力を欠いているわけではない。
同時に、過去の専門的なケア関係については、無視するのではなく、きちんと考慮しなければならなかった。
葵は耳を傾けた。
劇的な許可が与えられたわけではなかった。
単純に禁止されたわけでもなかった。
すべてうまくいくと保証されたわけでもない。
その代わりに、自分が考えなければならない問題が、以前より明確になった。
葵は、そのことに感謝していた。
不確実な状態は心地よいものではない。
それでも、問題など存在しないふりをするより、ずっとよかった。
◇ ◇ ◇
その夜、美香が葵を見つけたとき、彼女はキッチンのテーブルに座り、すっかり冷めたお茶を前にしていた。
「長い一日だった?」
葵は顔を上げた。
「まあね」
美香は向かい側に座った。
「仕事?」
「それもある」
葵はためらった。
それから、かすかに微笑んだ。
「あと、春人のこと」
美香は片眉を上げた。
「ああ」
葵はため息をついた。
「お願いだから、やめて」
友人はにやりと笑った。
「まだ何も言ってないけど?」
「顔が言ってる」
美香は笑った。
葵はカップへ目を落とした。
そして、千里との面談について説明した。
美香は黙って聞いた。
途中で口を挟まなかった。
葵が話し終えると、少し考えた。
「役に立つ助言をもらえたみたいね」
葵はうなずいた。
「そう思う」
少し間を置いた。
「でも、結局どうすればいいのかは、教えてもらえなかった」
美香は優しく微笑んだ。
「それは、誰かが全部代わりに決められることじゃないからじゃない?」
葵は彼女を見た。
美香は続けた。
「専門職としての境界は、これからも守らなきゃいけない」
「もちろん」
「それに、春人くんにも自分で選ぶ権利がある」
葵はうなずいた。
「でも、葵自身も、自分が何を望んでるのか決めなきゃ」
葵は目を伏せた。
その言葉が、胸の奥に重く響いた。
自分は、何を望んでいるのだろう。
春人のことが好きだった。
彼と話す時間が楽しかった。
メッセージが届くのを楽しみにしていた。
映画館で過ごした時間を覚えている。
笑い合ったこと。
夕食を食べながら、静かに話したこと。
春人が、自分を一人の人生を持つ人間として扱ってくれることが嬉しかった。
自分の夢や目標を大切にしてくれる。
自分の意思で断ることも認めてくれる。
それでも、何かを望むことは怖かった。
春人が、彼女を怖がらせるようなことをしたからではない。
拓海との過去が、恋愛における親密さを、義務や束縛と結びつけるよう彼女に教えてしまったからだった。
葵は息を吸った。
「間違った選択をするのが怖いんだと思う」
美香は少し考えた。
「それはわかるよ」
葵は彼女を見た。
美香は続けた。
「でも、これから先の選択を全部、拓海に決めさせるわけにもいかないでしょ」
葵は動きを止めた。
美香の表情が柔らかくなった。
「起きたことを忘れろって意味じゃないよ」
少し間を置いた。
「急いで何かを始めろって意味でもない」
葵はうなずいた。
「でも、もし春人くんとの可能性を確かめたいと思うなら、それは葵自身の選択であるべきなの」
葵は唾を飲み込んだ。
美香は優しく微笑んだ。
「逆に、まだ準備ができていないと思うなら、それも葵自身の選択でいい」
しばらく、葵は何も言えなかった。
やがて、うなずいた。
「……うん」
美香は微笑んだ。
「自分が何かを望んでも、いいんだよ」
葵は窓の外へ目を向けた。
ガラスの向こうには、街の明かりが輝いていた。
研修のことを考えた。
自分の仕事。
少しずつ立て直している生活。
そして、一緒に過ごす時間が、いつの間にかかけがえのないものになり始めていた男性のこと。
葵はかすかに微笑んだ。
「……私、何かを望んでるんだと思う」
美香は片眉を上げた。
「へえ?」
葵は緊張したように笑った。
「まだ、何なのかはっきりわからないけど」
友人は微笑んだ。
「それでいいんだよ」
葵はお茶へ目を落とした。
そして、少し恥ずかしそうに言った。
「この先、どうなるのか……確かめてみたいんだと思う」
美香の表情が和らいだ。
「だったら、今はそれだけで十分じゃない?」
葵はうなずいた。
初めて、その可能性が恐怖だけを感じさせるものではなくなった。
それは、自分で選べるものだった。
◇ ◇ ◇
一方、春人の京都旅行の計画も、着実に大きくなっていた。
残念ながら、未解決の問題の数も同じように増えていた。
田中恵子のもとには、複数のホテルや介助サービス提供事業者から、予備的な回答が届いていた。
そのうち、一つのホテルは、ほかの候補よりも有望に思えた。
車椅子対応の客室があり、比較的広い間取りだという。
入口から段差なく移動でき、食事をする場所までの経路も確保されていた。
客室全体の寸法を見る限り、春人の電動車椅子でも無理なく方向転換できそうだった。
しかし、浴室については、さらに詳しい確認が必要だった。
写真だけでは情報が足りなかった。
公開されている寸法からは、介助を伴う身の回りのケアに必要な作業空間が確保できるか判断できない。
また、ベッドの配置が、春人の必要とする機器や介助手順に適しているかどうかも、ホテル側から確認が取れていなかった。
恵子は、次の計画会議でそのことを説明した。
春人は黙って聞いた。
それから、ため息をついた。
「浴室……」
大地が笑った。
「またか?」
春人はうなずいた。
「どこまでも僕を追いかけてくるんだ」
由紀はかすかに微笑んだ。
恵子は説明を続けた。
「さらに詳しい寸法と写真をお願いしています」
春人はうなずいた。
「必要なら、専門家による評価が可能かどうかも相談する必要があります」
「うん」
介助サービスの事業者からも返事が届いていた。
数泊にわたる支援について、相談に応じられるところはいくつかあった。
しかし、利用可能かどうかはまだ確定していなかった。
夜間の介助。
勤務の引き継ぎ。
休憩時間。
代替要員の確保。
それらを含め、慎重な調整が必要だった。
費用もまだ不明だった。
必要な支援計画のすべてを引き受けると確約した事業者は、一つもなかった。
そして、その計画が整わないうちにホテルを予約するのは早すぎた。
春人はメモへ目を向けた。
「なるほど」
恵子は微笑んだ。
「もどかしいですよね」
春人はため息をついた。
「ほんの少しね」
大地がにやりと笑った。
「説得力があるな」
春人は笑った。
その後も、候補についての検討が続いた。
やがて話題は、大地が旅行の一部に同行する可能性へ移った。
春人はここ数日、そのことを考えていた。
彼は叔父を見た。
「実は……」
大地は片眉を上げた。
「何だ?」
春人はためらった。
「叔父さんも、一緒に来たい?」
大地は目を瞬かせた。
「京都に?」
春人はうなずいた。
「旅行の一部だけでも」
叔父は少し考えた。
「荷物持ちを頼もうとしてるのか?」
春人はにやりと笑った。
「もちろん」
大地は笑った。
春人は続けた。
「いや、その……」
少し間を置いた。
「専門的な介助の手配は、ちゃんと別にしたいんだ」
大地はうなずいた。
「もちろんだ」
春人は彼を見た。
「でも、叔父さんも一緒だったら、嬉しいかなって」
大地の表情が和らいだ。
彼は美咲のことを思い出した。
彼女が残した写真。
楽しそうな様子。
そして、京都のことを、まるで未来のどこかで待っている約束のように話していたこと。
大地はかすかに微笑んだ。
「俺も行きたいな」
春人は微笑んだ。
「本当に?」
大地はうなずいた。
「ああ」
少し間を置いた。
「日程が合えば、だけどな」
春人はにやりと笑った。
「素晴らしい」
由紀は二人を見た。
「素敵じゃない」
大地は微笑んだ。
それから付け加えた。
「ただし、観光案内人にはならないぞ」
春人は片眉を上げた。
「残念だなあ」
「京都にはそんなに詳しくないんだ」
春人はにやりと笑った。
「僕もだよ」
大地は笑った。
「じゃあ、もう駄目だな」
二人は笑い合った。
もちろん、まだ仮の話だった。
大地は仕事の予定を確認しなければならない。
旅行の手配も調整する必要がある。
そして、春人の有償の介助サービスは、家族として同行する叔父の役割とは別に確保しなければならなかった。
それでも。
この会話によって、旅行は少しだけ現実味を帯びた。
予約が済んだわけではない。
実現が保証されたわけでもない。
ただ、ほんの少し近づいたのだ。
◇ ◇ ◇
その日の午後、春人は京都旅行の資料を開いた。
母が保存していた場所を、一つずつ確認していった。
寺院。
庭園。
歴史ある街並み。
大地が見つけた写真に写っていた運河。
どれも美しかった。
実際に見てみたいと思った。
しかし、画面をスクロールしているうちに、一つのことに気づいた。
リストにある場所のほとんどは、美咲が選んだものだった。
母の興味。
母の写真。
母の夢。
春人は、それらを大切に思っていた。
しかし、この旅行は自分自身の旅でもあるはずだった。
彼は新しい項目を作成した。
自分が行きたい場所
そして、思いついた候補を追加していった。
日本の交通史に関する展示がある博物館。
古い文学作品を専門に扱う書店。
午後のひとときを読書しながら過ごせる、静かなカフェ。
写真撮影を楽しめそうな景色のよい道。
そして、当然ながら。
パンケーキが食べられる店。
春人は微笑んだ。
パンケーキは、もはや家族の伝統になっていた。
それを捨て去るつもりはない。
彼は、それぞれの場所について、事前にアクセシビリティを調べる必要があるとも書き加えた。
経路。
トイレ。
交通手段。
混雑。
休憩時間。
美しい写真があるからといって、実際に訪問できるとは限らない。
そのことは、よく理解していた。
しかし、自分で行きたい場所を選ぶ作業が、少しずつ楽しくなっていた。
春人は美咲の写真へ目を向けた。
「心配しないで、母さん」
彼は微笑んだ。
「母さんの運河にも、ちゃんと行くから」
それから、にやりと笑った。
「でも、書店は僕が選ぶよ」
◇ ◇ ◇
植物園への誘いは、葵からだった。
季節の花々を紹介するポスターの前を通りかかったとき、ふと春人のことが頭に浮かんだのだ。
ポスターには、淡い花々と鮮やかな緑に囲まれた庭園の小道が写っていた。
葵は足を止めた。
ポスターを見つめた。
そして、微笑んだ。
春人は最近、京都についてよく話していた。
庭園のこと。
訪れてみたい場所のこと。
そして、単に行けるだけではなく、心から楽しめる外出を計画することの大切さについて。
葵はスマートフォンを取り出した。
葵:ねえ、今度、植物園に行ってみない?
春人から返事が届いたのは、その日の午後だった。
春人:食虫植物はいる?
葵は笑った。
葵:たぶん?
春人:素晴らしい。
葵:何か心配したほうがいい?
春人:奴らが美男子の味を覚えていなければ大丈夫。
葵は声を上げて笑った。
葵:じゃあ、春人は安全だね。
春人は画面を見つめた。
そして、笑った。
春人:ひどい女だ。
葵は微笑んだ。
二人は候補の日程について話し合った。
春人は、アクセシビリティを確認するため、植物園の情報を送ってほしいと頼んだ。
施設の案内には、主要エリアに段差のない経路があり、車椅子対応のトイレと舗装された通路が整備されていると記載されていた。
しかし、春人は一般的な説明だけで安心するつもりはなかった。
実際に通る経路。
傾斜。
路面の状態。
トイレの設備。
一時的に閉鎖されている場所がないか。
それらについて、植物園へ直接問い合わせた。
さらに交通手段を確認し、予定されている介助の調整も行った。
これまでの外出と同じように、里奈が同行することになった。
必要な生活介助を提供しながら、春人と葵が個人的な会話を楽しめるよう、適切な距離を保つためだった。
葵は、春人が自分で手配を進めていることを嬉しく思った。
外出を楽しむための計画なら、自分も一緒に考えたい。
しかし、彼のケアを担当する必要はなかった。
その区別は、二人にとってますます重要なものになっていた。
すべての調整が整うと、二人は日程を確定した。
四度目の、計画された外出。
そして、おそらく初めて。
二人とも、そこに友情以上の意味があるかもしれないと、はっきり意識しながら迎える外出だった。
◇ ◇ ◇
二人が到着したとき、植物園は静かだった。
朝の日差しが木々の間から差し込み、舗装された小道に金色の光を散らしていた。
空気には、湿った土と花の香りが漂っていた。
温室の向こうから、鳥の鳴き声が聞こえてきた。
目の前には、植物、水、石がそれぞれに美しく配置された庭園が広がっていた。
春人は里奈と一緒に到着した。
葵は入口の近くで待っていた。
淡い青色のブラウスに、薄手のカーディガンを羽織っていた。
髪は肩の周りに自然に下ろされていた。
春人の姿を見つけると、彼女は微笑んだ。
「やあ」
春人はにやりと笑った。
「ごきげんよう」
葵は笑った。
「早いね」
「職業上の習慣さ」
彼女は片眉を上げた。
「本当に?」
「もちろん」
里奈も微笑んだ。
葵は彼女にも温かく挨拶した。
三人は予定していた経路を確認し、園内へ入った。
主要な通路は、春人の電動車椅子が十分に通れる幅だった。
路面は滑らかで、選んだ経路にある傾斜も問題なく進める程度だった。
木々の間には、さらに細い小道がいくつも枝分かれしていた。
しかし、春人はすでに、実際に訪問できる場所を確認していた。
通れない道を、試行錯誤しながら発見するために午後を費やすつもりはなかった。
彼は庭園を楽しみたかった。
そして、まさにそうするつもりだった。
葵は鮮やかな花壇へ目を向けた。
「綺麗だね」
春人はうなずいた。
「本当に」
葵は微笑んだ。
「冗談は言わないの?」
春人は少し考えた。
「ご希望なら」
葵は笑った。
「別に、そこまでは」
春人はにやりと笑った。
「じゃあ、ネタは温存しておこう」
二人は小道を進んだ。
庭園には、春の静かな音が満ちていた。
細い流れを進む水の音。
葉の揺れる音。
石の上を歩く足音。
遠くから聞こえる子供たちの笑い声。
葵は、自然と肩の力が抜けていくのを感じた。
緊急事態はない。
診察の予約もない。
自分を待つ患者もいない。
彼女は、自分の意思で今日ここに来た。
春人と一緒に過ごすために。
その単純な選択が、思いがけないほど大切に感じられた。
二人は小さな池の近くで足を止めた。
水面には周囲の木々が映り、時折、水中を泳ぐ魚によってその姿が揺らいだ。
葵は池の縁に咲く睡蓮へ目を向けた。
春人は近くの案内板を読んでいた。
「興味深い」
葵は振り向いた。
「何が?」
春人は微笑んだ。
「水生植物の中には、驚くほど厳しい環境でも生き延びられるものがあるらしい」
葵はうなずいた。
「そうなんだ?」
春人は池を見た。
「うん」
少し間を置いた。
「実に感動的だね」
葵は吹き出した。
「春人」
彼はにやりと笑った。
「何?」
「やめて」
春人は笑った。
「ごめん」
二人は再び歩き始めた。
やがて、庭園の一角を見渡せる、屋根のある休憩場所に到着した。
里奈は、春人に介助が必要かどうかを確認したあと、二人が会話できるよう少し離れた。
もちろん、勤務時間中であり、必要があればすぐに対応できる場所にいた。
葵は春人の隣に座った。
しばらく、二人はただ庭園を眺めていた。
風が枝を揺らした。
数枚の花びらが小道を舞っていった。
近くでは、ある子供が「お花も寂しくなるの?」と、驚くほど大きな声で質問していた。
春人は微笑んだ。
「素晴らしい質問だ」
葵は小さく笑った。
春人は彼女を見た。
「寂しくなると思う?」
葵は少し考えた。
「お花が?」
春人はうなずいた。
葵は微笑んだ。
「また変な議論を始めようとしてるでしょ」
春人はにやりと笑った。
「可能性はある」
葵は笑った。
やがて、会話が静かになった。
葵は池へ目を向けた。
彼女は、あの電話のことを考えていた。
映画を見に行った日が、デートのように感じられたと、二人で認め合った夜のこと。
あのとき、何かを決めたわけではなかった。
しかし、あの会話によって、確かに何かが変わった。
劇的な変化ではない。
突然、すべてが違って見えるようになったわけでもない。
今までどおり、冗談を言い合った。
仕事の話をした。
日常のささやかな出来事を共有した。
けれど、今はその会話の奥に、一つの意識があった。
どちらも否定しなかった可能性。
葵は息を吸った。
「春人?」
彼は彼女を見た。
「うん?」
葵はためらった。
それから、かすかに微笑んだ。
「一つ、聞いてもいい?」
春人はにやりと笑った。
「内容によるね」
葵は笑った。
「何によるの?」
「クリスタル皇帝が関係しているかどうか」
彼女は首を横に振った。
「関係ないよ」
春人は大げさにため息をついた。
「残念だ」
葵は微笑んだ。
それから、真剣な表情になった。
「春人は、恋人との関係に何を求める?」
春人は動きを止めた。
それは、まっすぐな質問だった。
これまで二人が直接会って話した中でも、最も踏み込んだ質問だった。
春人は考えた。
「ひどい映画を一緒に楽しんでくれる人、以外で?」
葵は小さく笑った。
「うん」
春人は微笑んだ。
そして、池へ目を向けた。
しばらく、聡、奈緒、そして哲也と交わした会話を思い出した。
介助の現実。
プライバシー。
境界。
恋人として寄り添うことと、ケアを提供することの違い。
彼は息を吸った。
「そうだな……」
少し間を置いた。
「信頼できる人がいい」
葵は耳を傾けた。
春人は続けた。
「ちゃんと話ができる人」
かすかに微笑んだ。
「僕が馬鹿なことを言ったら、そう言ってくれる人」
葵はにやりと笑った。
「それ、すごく疲れそう」
春人は笑った。
「たぶんね」
それから、表情が柔らかくなった。
「対等な相手として扱ってほしいんだ」
葵はうなずいた。
春人は彼女を見た。
「何から何まで守らなきゃいけない人間としてじゃなくて」
葵は黙って聞いていた。
「それに、恋人に人生を管理してもらうような関係にもしたくない」
少し間を置いた。
「僕には、すでに専門的な介助が必要なんだ」
葵はうなずいた。
春人は続けた。
「それは僕の人生の一部だよ」
彼は庭園へ目を向けた。
「でも、恋愛関係が、その仕組みの代わりになってほしくはない」
葵は考えた。
「うん。わかるよ」
春人はかすかに微笑んだ。
「相手にも、自分の人生を持っていてほしい」
彼女はうなずいた。
「仕事とか、友達とか、趣味とか」
春人は続けた。
「僕とは関係のない時間もね」
葵は微笑んだ。
「そして、その人自身が望んでくれるからこそ、僕もその人生の一部になりたい」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて葵が尋ねた。
「愛情表現については?」
春人は彼女を見た。
胸が小さく跳ねた。
「愛情表現?」
葵はうなずいた。
春人は考えた。
それから、少し緊張したように微笑んだ。
「まあ……」
葵は小さく笑った。
「ごめん」
「いや」
春人はわずかに首を振った。
「大丈夫」
彼は池へ目を向けた。
「僕も、そういうものは欲しいよ」
声が柔らかくなった。
「もちろん」
葵は耳を傾けた。
春人は続けた。
「身体的な親密さには、現実的に考えなきゃいけないことがあるのはわかってる」
少し間を置いた。
「姿勢の調整とか、介助とか、プライバシーとか」
葵はうなずいた。
春人は彼女を見た。
「でも、だからって、誰かと親密になりたくないわけじゃない」
葵の表情が和らいだ。
春人は続けた。
「好きな人に愛情を示したくないわけでもない」
葵は唾を飲み込んだ。
春人はかすかに微笑んだ。
「ただ、現実的な手配のことだけで、関係のすべてが決まってしまうのは嫌なんだ」
葵はうなずいた。
「もちろん」
春人は考えた。
「それに、そういうことを恥ずかしがらずに話せる関係がいい」
葵は優しく微笑んだ。
「大切なことだね」
春人はうなずいた。
「うん」
二人は静かに座っていた。
やがて葵が彼を見た。
「私も、似たようなものが欲しいと思う」
春人は微笑んだ。
「そう?」
彼女はうなずいた。
「信頼」
声が柔らかくなった。
「正直でいられること」
葵は池へ目を向けた。
「自分が何を望んでいるか伝えても、相手に罰せられるんじゃないかって怯えなくていいこと」
春人の表情が引き締まった。
彼女が何を意味しているのか、わかっていた。




