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第38話 まだ見ぬ明日へ、僕たちはそれぞれの道を歩き出す

月曜日の朝、春人は一つの重大な事実に気づいた。

未来について考えることは、実際に未来を計画することよりも、はるかに簡単なのだ。

「これは陰謀だ」

彼はパソコンの画面を見つめながら呟いた。

画面には、京都旅行のために作成した計画書が表示されていた。

宿泊施設。

交通手段。

介助者の勤務調整。

緊急時の対応。

予算。

そして、まだ確認できていない項目の数々。

どれも重要だった。

どれも無視できなかった。

そして、そのどれもが、彼の忍耐力を試しているように思えた。

「母さん」

春人は机の上に置かれた写真へ目を向けた。

「京都に行くって、こんなに大変なことだったんだね」

当然ながら、写真は答えなかった。

春人はため息をついた。

「せめて、ホテルの予約くらいは簡単にしてほしいものだよ」

そのとき、由紀が部屋へ入ってきた。

「何を一人でぶつぶつ言ってるの?」

春人は真剣な表情で答えた。

「観光産業に対する正式な抗議声明を準備してる」

由紀は画面を見た。

そして、小さく笑った。

「また京都の計画?」

「また京都の計画」

「進んでる?」

春人は少し考えた。

「精神的にはね」

由紀は笑った。

「実際には?」

「書類が増えた」

「それは進歩なの?」

「僕にもわからない」

由紀は微笑みながら、彼のそばへ来た。

画面には、いくつかの宿泊施設の情報が並んでいた。

春人は、候補を一つずつ調べていた。

しかし、インターネット上で「バリアフリー対応」と書かれているだけでは、彼が必要とする条件を満たしているか判断できなかった。

浴室の広さ。

ベッドの配置。

電動車椅子の旋回スペース。

介助者が安全に動ける空間。

そして、必要な医療機器を設置できる場所。

どれか一つが欠けているだけで、宿泊は難しくなる可能性があった。

由紀は画面を見つめた。

「恵子さんから返事は来た?」

春人はうなずいた。

「今日の午後、電話をくれるって」

「そう」

春人は少し間を置いた。

「母さんが見たかった京都に行きたいんだ」

由紀の表情が和らいだ。

「ええ」

「でも……」

春人は画面へ目を戻した。

「ただ行くだけじゃなくて、ちゃんと楽しみたい」

由紀はうなずいた。

春人は続けた。

「ホテルに着いて、問題が起きないようにするだけで精いっぱいになる旅行にはしたくないんだ」

「そうね」

「せっかく行くなら、街を見たい」

彼は小さく微笑んだ。

「母さんが好きだった景色を」

由紀はしばらく彼を見つめた。

そして、静かに言った。

「きっと美咲も、そうしてほしいと思ってるわ」

春人は写真へ目を向けた。

「……そうだといいな」

◇ ◇ ◇

同じ頃、葵もまた、自分の未来について考えていた。

ただし、彼女の場合は、京都の宿泊施設ではなく、研修の予定表が問題だった。

「これはひどい」

葵は小さく呟いた。

美香がキッチンから顔を出した。

「何が?」

葵はパソコンの画面を指さした。

「事前課題」

美香は近づいてきた。

「もう届いたの?」

「うん」

「どんな内容?」

葵は深刻な表情で答えた。

「読むものが多すぎる」

美香は笑った。

「看護師なんだから、読むのには慣れてるでしょ」

「仕事で読むのと、仕事が終わってから読むのは別問題なの」

「なるほど」

葵はため息をついた。

しかし、その表情には小さな笑みが浮かんでいた。

研修への参加が正式に決まり、必要な手続きも進み始めていた。

彼女は、在宅ケアにおける患者の意思決定、専門職としての境界、家族との連携、そして長期的な支援計画について学ぶことになっていた。

どれも、今の彼女にとって大切なテーマだった。

美香は椅子に座った。

「楽しみ?」

葵はうなずいた。

「うん」

少し間を置いた。

「でも、ちょっと怖い」

美香は彼女を見た。

「どうして?」

葵は考えた。

「自分がまだ知らないことが、たくさんあるって気づきそうだから」

美香は微笑んだ。

「それって、勉強する理由じゃない?」

葵は小さく笑った。

「そうなんだけどね」

美香はしばらく彼女を見つめた。

それから尋ねた。

「春人くんには話した?」

葵の手が止まった。

「……何を?」

美香はにやりと笑った。

「研修のこと」

葵は目を細めた。

「もちろん話したよ」

「そう」

「何?」

「別に」

葵はため息をついた。

「美香」

「はい?」

「その顔、やめて」

美香は笑った。

葵は頬を赤くしながら、画面へ目を戻した。

春人との電話から、まだ数日しか経っていなかった。

あの夜、二人は互いの気持ちについて、少しだけ正直になった。

まだ恋人ではない。

何かを約束したわけでもない。

けれど、ただの友人という言葉だけでは説明しきれない何かが、二人の間に存在していることを認めた。

そのことを思い出すたびに、葵の胸は温かくなった。

同時に、不安もあった。

過去の経験。

看護師と患者として出会った関係。

そして、春人が必要とする介助と、自分の職業的な立場。

それらを軽く考えるつもりはなかった。

だからこそ、急ぎたくなかった。

自分の気持ちが何なのか。

彼の気持ちが何なのか。

二人がどんな関係を築きたいのか。

時間をかけて確かめたかった。

美香は葵の表情を見て、少しだけ声を柔らかくした。

「ねえ、葵」

「何?」

「最近、楽しそうだよ」

葵は顔を上げた。

美香は微笑んだ。

「前より、ずっと」

葵はしばらく黙っていた。

それから、小さく笑った。

「……そうかな」

「うん」

葵は窓の外へ目を向けた。

朝の光が、建物の間から差し込んでいた。

「私も、そう思う」

その言葉を口にした瞬間、彼女は少し驚いた。

幸せだと感じることを、以前ほど恐れていなかった。

未来に期待することを、以前ほどためらわなくなっていた。

まだ不安はある。

まだ傷も残っている。

それでも。

彼女は少しずつ、自分自身の人生へ戻り始めていた。

◇ ◇ ◇

午後、春人のもとへ恵子から電話が入った。

彼は事前に予定を確認し、落ち着いて話せるよう準備していた。

「こんにちは、春人さん」

「こんにちは、恵子さん」

「京都の件で、少し進展がありました」

春人は姿勢を正そうとした。

もちろん、実際に姿勢を変えるには介助が必要だったため、その代わりに表情だけを真剣にした。

「聞こうじゃありませんか」

恵子が笑った。

「まず、宿泊施設についてですが、いくつか追加の情報が届きました」

春人は画面にメモを開いた。

「はい」

恵子は、候補となっているホテルのうち一つから、客室の詳細な寸法と写真が届いたことを説明した。

出入口の幅。

ベッド周辺の空間。

浴室の配置。

そして、車椅子での移動経路。

春人は注意深く聞いた。

「どうですか?」

恵子は少し考えた。

「以前の候補より、確認できている情報は多いです。ただ、実際の介助手順に適しているかどうかは、まだ判断できません」

春人はうなずいた。

「つまり、まだ決定じゃない」

「はい」

「残念」

恵子は微笑んだ。

「ですが、前進ではあります」

春人は少し考えた。

「それは認めよう」

二人は、必要な機器についても話し合った。

京都まで持参するもの。

現地で手配できる可能性があるもの。

そして、手配できると確認されるまでは、利用可能だと考えてはいけないもの。

春人はメモを取り続けた。

やがて恵子が尋ねた。

「春人さん、旅行で一番楽しみにしていることは何ですか?」

春人は少し驚いた。

「一番?」

「はい」

彼は考えた。

寺院。

庭園。

古い街並み。

京都の料理。

母が残した写真の場所。

どれも魅力的だった。

しかし。

しばらく考えたあと、彼は答えた。

「……自分で行けたって思えることかな」

恵子は黙って聞いていた。

春人は続けた。

「もちろん、一人で全部やるって意味じゃないよ」

「ええ」

「介助者も必要だし、いろんな人に協力してもらわなきゃいけない」

少し間を置いた。

「でも、僕が行きたいって決めた場所に、僕自身の計画で行くんだ」

恵子は微笑んだ。

「それは、とても大切なことですね」

春人はうなずいた。

「母さんが行きたがってた場所でもあるしね」

恵子は少しの間、静かになった。

そして言った。

「その旅行が実現できるよう、必要な確認を一つずつ進めましょう」

春人は微笑んだ。

「ありがとう」

◇ ◇ ◇

その夜、春人は葵へメッセージを送った。

春人:京都旅行の計画が、ついに書類の山から文明らしい形へ進化し始めた。

数分後、返信が届いた。

葵:おめでとう。人類にとって大きな一歩だね。

春人は笑った。

春人:そのとおり。ただし、まだホテルの浴室という宿敵が残っている。

葵:また浴室?

春人:あいつらはしつこいんだ。

葵:春人って、本当に変わらないね。

春人は微笑んだ。

少し考えたあと、別のメッセージを入力した。

春人:母さんが京都の写真を残してたんだ。

葵からの返信は、少し時間がかかった。

葵:そうなの?

春人:うん。裏に「いつか、春人と一緒に」って書いてあった。

しばらく、画面は静かなままだった。

やがて返信が届いた。

葵:……素敵だね。

春人は写真へ目を向けた。

春人:うん。

少し間を置いた。

春人:見つけたとき、泣いちゃったけどね。

葵:泣いてもいいと思うよ。

春人はその言葉を見つめた。

そして、かすかに微笑んだ。

春人:ありがとう。

葵:お母さん、本当に春人と行きたかったんだね。

春人はゆっくりと息を吸った。

春人:僕も、母さんと行きたかった。

そのメッセージを送ったあと、彼はしばらく画面を見つめていた。

葵からの返信が届いた。

葵:うん。

それだけだった。

けれど、春人には十分だった。

葵は、無理に彼を元気づけようとはしなかった。

悲しみを消そうともしなかった。

ただ、その気持ちを受け止めてくれた。

春人は小さく微笑んだ。

そして、もう一度入力した。

春人:でも、行ってみたいんだ。

葵:うん。

春人:母さんが見たかった景色を、僕も見たい。

葵:きっと、素敵な旅になると思う。

春人は少し考えた。

春人:そうだといいな。

葵:きっと準備は大変だと思うけどね。

春人は笑った。

春人:そこはもう、身をもって学んでるよ。

葵:ふふ。

春人は画面を見つめた。

そして、ふと一つのことを考えた。

京都へ行けたら。

帰ってきたあと、葵に話したい。

見た景色。

食べたもの。

失敗したこと。

そして、母の写真に写っていた場所を見つけられたかどうか。

そのすべてを、彼女に聞いてほしいと思った。

春人は少しためらった。

それから、メッセージを入力した。

春人:帰ってきたら、旅行の話を聞いてくれる?

葵の返信はすぐに届いた。

葵:もちろん。

春人は微笑んだ。

葵:写真も見せてね。

春人:覚悟しておいて。三百枚くらい撮るかもしれない。

葵:それは多いね。

春人:芸術的な責任なんだ。

葵:じゃあ、全部見せてもらわないと。

春人は声を出して笑った。

そして、少しの間、画面を見つめていた。

未来のことは、まだ何も決まっていない。

京都旅行が実現するかどうかも。

一人暮らしを始められるかどうかも。

葵との関係が、これからどう変わっていくのかも。

それでも。

彼には、楽しみにできることがあった。

そして、それは決して小さなことではなかった。

◇ ◇ ◇

夜が更ける頃、春人は京都旅行の計画書を保存した。

画面を閉じる前に、彼は母の写真へ目を向けた。

「母さん」

小さく微笑んだ。

「まだ時間はかかりそうだけど」

彼は少し間を置いた。

「ちゃんと進んでるよ」

窓の外では、街の明かりが静かに輝いていた。

春人は目を閉じた。

母がいなくなってから、彼は何度も未来を恐れてきた。

一人で生きていけるのか。

必要な支援を受け続けられるのか。

誰かにとって負担にならずに、自分の人生を築けるのか。

答えの出ない問いは、今も残っている。

けれど。

すべての答えが揃うまで、人生を止めておく必要はなかった。

仕事をすること。

友人と笑うこと。

誰かを好きになるかもしれないこと。

自分の家を探すこと。

そして、母が夢見た街へ向かうこと。

そのどれもが、彼自身の人生だった。

春人はゆっくりと目を開けた。

「……明日も忙しくなりそうだ」

少し笑った。

そして、パソコンを閉じた。

まだ見ぬ京都の空の下で、どんな景色が待っているのか。

春人にはわからなかった。

ただ一つ、確かなことがあった。

彼はもう、未来が訪れるのを待つだけの人間ではなかった。

自分の意思で、その未来へ向かおうとしていた。

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