第35話 まだ名前のない想いが、未来への扉を叩くとき
その日の午後、葵のもとに、研修の日程についての最終的な連絡が届いた。
智子は、研修の予定日について組織側と確認を進めてくれていた。
まだいくつかの事務手続きは残っていたものの、現在の訪問看護の業務に支障をきたすことなく、研修に参加できそうだった。
葵はほっと胸をなで下ろした。
休憩時間に、彼女は研修の概要をもう一度確認した。
コミュニケーション。
意思決定支援。
多職種間の連携。
在宅ケアにおける倫理的な問題。
葵は微笑んだ。
どのテーマも、自分がこれから取り組んでいきたい仕事に深く関係しているように感じられた。
花恵のことを思い出した。
真理子のことも。
長谷川浩二と、その娘の舞のことも。
看護師が家を訪れ、そして帰ったあとも、患者たちの人生は続いていく。
葵は、患者自身が決めるべきことについて勝手に権限を持ったつもりになることなく、彼らを支えられる看護師になりたかった。
同時に、自分自身の専門的な判断にも、もっと自信を持てるようになりたかった。
何年もの間、彼女は拓海の反応を予測することに慣れすぎていた。
そのせいで、ごく普通の決断でさえ、どこか危険なことのように感じられることがあった。
けれど今は違う。
彼とは何の関係もない選択を、自分の意思で行っている。
仕事を変えた。
研修に申し込んだ。
友人との関係を取り戻した。
そして。
一緒に過ごすだけで幸せになれる人と、少しずつ時間を重ねるようになった。
最後のことを考えた瞬間、葵はふと手を止めた。
春人。
彼女は携帯電話へ目を向けた。
二人はこの一週間、何度かメッセージを交換していた。
特別に劇的な内容ではない。
春人は、最近のソフトウェアのテストで起きた問題について愚痴をこぼしていた。
葵は、研修への参加が条件付きで認められたことを伝えていた。
すると春人は、看護業界は彼女という人材を得られて実に幸運だ、と大げさな祝辞を送ってきた。
葵は笑った。
そして、そのメッセージを保存した。
今、彼は話せるだろうか。
葵は少し考えた。
それから、メッセージを打ち始めた。
葵:ねえ、部屋探しはどうなってる?
数分後、返信が届いた。
春人:あまりにも完璧なチェックリストを作ったから、もはや文学作品として認められるかもしれない。
葵は笑った。
葵:春人らしいね。
春人:文学賞に応募しようかと思ってる。
葵:タイトルは?
春人は少し考えた。
そして返信した。
春人:『浴室――全十七幕の悲劇』。
葵は思わず吹き出した。
慌てて口元を押さえる。
同僚がこちらをちらりと見た。
葵は申し訳なさそうに微笑んだ。
それから、再び画面へ目を戻した。
葵:私、それ読みたい。
春人:さすがは教養のある女性だ。
葵は微笑んだ。
そして、少しためらった。
彼の声が聞きたかった。
文字でのやり取りでは物足りないからではない。
すぐに返事をしてほしいからでもない。
ただ。
彼と話すのが好きだった。
葵はメッセージを入力した。
葵:今週末、時間があったら電話しない?
春人はその文章を見つめた。
胸が小さく跳ねた。
そして微笑んだ。
春人:ぜひ。
二人は、葵の勤務予定と春人の介助の時間を考慮して、都合のよい時間を決めた。
急ぐ必要はなかった。
夜の間ずっと相手のために時間を空けておく義務もない。
ただ、お互いが望んだ会話をする。
それだけだった。
◇ ◇ ◇
電話が始まったのは、日曜日の夕食後だった。
葵は美香のアパートにある自分の部屋にいた。
春人は自宅で、夕方の介助のうち必要な部分を終え、楽な姿勢で過ごしていた。
通話には、彼が使いやすいように調整された機器を使用していた。
二人は挨拶を交わした。
そして、すぐさま現代文明における最も重大な問題について議論を始めた。
宇宙人が明らかに下手な塗装を施した段ボールを身につけた人間だった場合、その侵略映画を本当にSFと呼んでよいのか。
葵は、その違いは重要だと主張した。
春人は、段ボールという素材は不当に過小評価されていると反論した。
議論は数分間続いた。
そして、結局は笑い声に変わった。
二人は仕事の話をした。
葵は、研修の日程が少しずつ具体的になってきたことを伝えた。
春人は改めて祝福した。
葵はミライでの仕事について尋ねた。
春人は、追加テストの報告書を仕上げる準備をしていると説明した。
タイムアウトに関する改善は、いくつかの点で効果があった。
しかし、セッション延長のボタンは、彼の補助入力装置では依然として動作が不安定だった。
葵は耳を傾けた。
そして尋ねた。
「開発者の人たちは直してくれるの?」
春人は少し考えた。
「そう願ってるよ」
少し間を置く。
「でも、ここから先は彼らの判断だ」
葵は窓へ目を向けた。
「それ、気にならない?」
「少しはね」
春人はかすかに微笑んだ。
「ちゃんと動くところを見たいから」
葵はうなずいた。
「でも、僕は契約した仕事を終えたんだ」
葵は微笑んだ。
「それって大事なことだよ」
春人はうなずいた。
「どうやら、仕事上の境界線というものが存在するらしい」
葵は小さく笑った。
「驚きだね」
会話は続いた。
やがて、話題は映画館で過ごした午後へと戻った。
葵が水晶皇帝の話を持ち出した。
春人はお気に入りの架空の君主を擁護した。
葵は笑った。
そして。
少しの沈黙が訪れた。
気まずい沈黙ではなかった。
心地よい静けさだった。
しかし、そのとき葵は美香に聞かれたことを思い出した。
春人は、あれがデートだったってわかってるの?
頬が熱くなった。
葵は天井を見上げた。
一方、春人も同じ午後のことを考えていた。
葵が、一緒に過ごす時間が好きだと言ってくれたこと。
その声の温かさ。
レストランの外で、二人が互いを見つめた瞬間。
彼女もあれをデートだと思っていたのだろうか。
そう考えた直後、そんなことを聞いたら気まずくなるのではないかという不安が湧いた。
数秒間、どちらも話さなかった。
やがて春人が口を開いた。
「一つ、聞いてもいい?」
葵の胸が高鳴った。
「うん」
春人はためらった。
それから、緊張したように笑った。
「……いや、やっぱり何でもない」
葵は瞬きをした。
「え?」
「何でもない」
葵は微笑んだ。
「春人」
彼はため息をついた。
「はい?」
「何を聞こうとしたの?」
春人は少し考えた。
そして、弱々しく笑った。
「水晶皇帝のマントが歴史的に正確だったかどうか」
葵は吹き出した。
「もう、本当にどうしようもないんだから」
春人は微笑んだ。
「よく言われるよ」
葵は笑った。
それから静かになった。
「実はね……」
春人は画面へ目を向けた。
「うん?」
葵はためらった。
「私も聞きたいことがあったの」
春人の胸が小さく跳ねた。
「へえ?」
葵は緊張したように微笑んだ。
「映画館のことなんだけど」
春人は動きを止めた。
そして小さく笑った。
「ああ」
葵は目を閉じた。
「……ああ、もう」
春人はにやりと笑った。
「もしかして、僕たち同じ気まずいことを考えてる?」
葵は笑った。
「たぶん、そうみたい」
しばらくの間、二人は笑い合った。
状況そのものが、それほど面白かったわけではない。
しかし、笑わずに黙っていたら、互いの想像力がますます悲惨な解釈を生み出してしまいそうだった。
やがて葵は息を吸った。
「あの日って……春人にとってはデートみたいだった?」
春人は画面を見つめた。
単純な質問だった。
率直な質問だった。
そして、その週に遭遇したどんなソフトウェアの不具合よりも恐ろしい質問だった。
彼は少し考えた。
それから慎重に答えた。
「……少しね」
葵の胸が温かくなった。
「そう?」
春人はかすかに微笑んだ。
「うん」
葵は自分の手元を見た。
「私も」
しばらく、どちらも話さなかった。
春人は心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。
何か言いたかった。
気の利いたことを。
安心させられるようなことを。
この瞬間を少し楽にできるような言葉を。
けれど。
緊張しているというだけで、この会話を冗談に変えてしまいたくはなかった。
だから、彼は息を吸った。
「勝手に決めつけたくなかったんだ」
葵は微笑んだ。
「私も」
春人は少し考えた。
「それに、葵を困らせたくなかった」
彼女の表情が和らいだ。
「ありがとう」
春人はうなずいた。
葵は窓へ目を向けた。
「ずっと考えてたの」
春人は黙って聞いた。
葵は続けた。
「私、春人と一緒に過ごす時間が本当に好き」
春人はかすかに微笑んだ。
「僕も、葵と一緒にいるのが好きだよ」
彼女は唾を飲み込んだ。
「でも……まだ、それを別の名前で呼ぶ準備ができてるかどうかわからないの」
春人はうなずいた。
「それでいいよ」
葵は少しの間、目を閉じた。
彼があまりにも自然にそう言ってくれたことが、嬉しかった。
怒りに隠された失望もない。
説明を求める要求もない。
楽しい午後を一緒に過ごしたのだから、答えを出す義務があるという態度もない。
ただ、受け入れてくれた。
葵は息を吸った。
「自分の気持ちを信じる方法を、まだ学んでる途中なんだと思う」
春人は耳を傾けた。
葵は続けた。
「拓海とのことがあってから、自分の判断を疑ってしまうことがあるの」
彼女の声が柔らかくなった。
「何かを楽しいと思っても、間違ったことをしてるんじゃないかって考えちゃう」
春人の表情が少し険しくなった。
怖がる必要なんてない、と言いたかった。
けれど。
正しい言葉をかけられたからといって、恐怖が消えるわけではないことを、彼は知っていた。
だから、ただ聞いた。
葵は続けた。
「それに、私たちの過去の関係も、簡単な話じゃないってわかってる」
春人はうなずいた。
理解していた。
葵は、かつて彼の看護師だった。
春人は弱っていた。
母を失い、悲しみの中にいた。
病院の職員によるケアを必要としていた。
今は個人的な連絡手段で話し、友人として会っているからといって、その過去を消せるわけではない。
葵はすでに千里に専門職としての倫理的な境界について相談していた。
そして、訪問看護の仕事と春人のケアを明確に分けていた。
しかし、専門家から助言を受けたことが、すべてを許可する魔法の証明書になるわけではなかった。
二人は、過去の関係について誠実に考え続ける必要があった。
春人は息を吸った。
「わかってる」
葵はかすかに微笑んだ。
春人は続けた。
「それに、僕に何かを返さなきゃいけないなんて思ってほしくない」
葵は彼を見た。
「春人……」
彼はためらった。
それから言った。
「本気で言ってるんだ」
声が柔らかくなった。
「同情してくれるからって理由で、誰かに僕と付き合ってほしくない」
葵の胸が締めつけられた。
春人は続けた。
「それに、僕の世話をしなきゃいけないと思っているから、そばにいてほしいわけでもない」
葵は黙って聞いていた。
春人は母の写真へ目を向けた。
「そのために手伝ってくれる人たちは、もういるから」
少し間を置く。
「それに、もっと自分の意思で生活できるように、今も支援体制を整えてるところなんだ」
葵はうなずいた。
春人は続けた。
「いつか誰かと恋人になるなら、二人とも一緒にいたいと思っているから、そうなりたい」
葵は唾を飲み込んだ。
「うん……わかるよ」
春人はかすかに微笑んだ。
「だから、急がせたくない」
葵は目を閉じた。
しばらく、言葉が出なかった。
やがて微笑んだ。
「ありがとう」
春人はうなずいた。
二人は静かなままだった。
けれど、その沈黙は空っぽではなかった。
まだ答えを出していない問いがあった。
手放したくない可能性があった。
そして、二人の友情が、知らない場所へ少しずつ進み始めているという実感があった。
やがて葵が口を開いた。
「私たち、ただ……」
彼女は少し間を置いた。
「これからも、お互いのことを知っていくっていうのじゃ、だめかな?」
春人は微笑んだ。
「うん」
葵の表情が和らいだ。
「そうしたい」
春人はにやりと笑った。
「僕も」
葵は小さく笑った。
すると春人が付け加えた。
「ただし、一つ警告しておくよ」
葵は眉を上げた。
「何?」
「僕の映画の趣味が改善される見込みは、ほとんどない」
葵は吹き出した。
「悲劇だね」
春人は厳かにうなずいた。
「一生治らない症状なんだ」
葵は笑った。
緊張がほどけていった。
けれど、大切なものは残っていた。
二人は、その可能性を認めた。
どちらも約束はしなかった。
どちらも答えを要求しなかった。
そして、二人とも関係を続けることを選んだ。
今は、それで十分だった。




