第34話 千の語られぬ約束を抱いた静寂
思いがけず素晴らしい午後を過ごしてしまったときの厄介なところは、その時間が終わっても、心の中ではいつまでも続いてしまうことだった。
高橋春人がその事実を思い知ったのは、月曜日の朝のことだった。
行政サービスのオンライン申請フォームについて、アクセシビリティの問題を調べていたはずなのに、彼の頭の中には、深緑色のワンピースを着た一人の女性の姿が何度も浮かんでいた。
これは職務上、断じて許されない事態である。
春人はそう結論づけた。
締め切りがある。
契約上の義務もある。
そして目の前には、複雑な行政手続きを、カフェインを大量摂取したハチドリ並みの速度で終わらせるべきだと信じているらしいソフトウェアが存在していた。
それなのに。
これほど重大な問題を抱えているというのに。
彼の意識は、どうしてもあの馬鹿げた瞬間へと戻ってしまう。
暗い映画館の中。
架空の皇帝が、自分の父親は巨大な発光する水晶だったと宣言した瞬間。
隣に座っていた水野葵が、こらえきれずに笑い出した。
その笑顔を思い出して、春人もつい微笑んでしまった。
そして、自分が笑っていることに気づく。
「……ああ、もう。勘弁してくれ」
思わず声が漏れた。
ちょうど朝の介助を終え、春人が机に向かって快適に過ごせるよう姿勢を整えていた星野里奈が、彼の方を振り返った。
「どうかしました?」
春人はパソコンの画面を、必要以上に厳しい表情で見つめた。
「したとも」
里奈は続きを待った。
「僕の脳が信用できなくなった」
「そうなんですか?」
「完全にね」
「それは心配した方がいいですか?」
「たぶん。どうやら僕の脳は、恋愛コメディーに興味を持ち始めたらしい」
里奈が笑った。
春人は即座に自分の発言を後悔した。
「いや、別に僕が恋愛コメディーを見ているという意味じゃないからね」
「もちろんです」
「これは単なる神経学的現象についての説明だ」
「なるほど」
春人は目を細めた。
「楽しんでるだろう」
「少しだけ」
春人はため息をついた。
「ひどい職業倫理だ」
里奈は微笑みながら、春人が仕事中に必要とするものが適切な位置に置かれているか確認した。
その朝も彼女は、あらかじめ決められたケア計画に従って、着替えや身の回りの介助、姿勢の調整を手伝っていた。
春人は、介護チームとともにその計画の作成に関わっていた。
仕事を始めたからといって。
旅行ができるようになったからといって。
友人と外出する機会が増えたからといって。
彼が必要とする身体的な介助が少なくなったわけではなかった。
日常生活を支える仕組みは、今も欠かせないものだった。
移乗。
トイレ。
入浴。
着替え。
食事。
そして、そのほかの日常的な活動。
春人には引き続き、安定した介助と、医療上必要な看護支援が必要だった。
変わったのは、彼の身体ではない。
自分の人生について、自分で決められることが増えてきたのだ。
終わらせなければならない仕事がある。
行ってみたい場所がある。
見つけたい家がある。
そして、どうやら。
笑い声を思い出すだけで仕事の邪魔になってしまう女性までいるらしい。
里奈が予定表に目を向けた。
「十一時に休憩の予定が入っていますね」
春人はうなずいた。
「そうだね」
「それから、午後には恵子さんから電話があります」
「それもそうだね」
里奈は微笑んだ。
「ほかに何かありますか?」
春人は少し考えた。
「宇宙をもう少し単純な仕組みにしてもらえないかな?」
里奈は笑った。
「検討しておきます」
「素晴らしい」
彼女は春人を仕事に戻らせた。
春人は画面を見つめた。
そして、再び戦場へ赴く兵士のような疲れた決意とともに、最新のテスト用ビルドを開いた。
「さて、と」
彼は小さくつぶやいた。
「今日はどんな新しい地獄を用意してくれたのかな」
◇ ◇ ◇
ミライ・インターフェース・ソリューションズの開発者たちは、セッションのタイムアウト問題を改善するため、再び修正を試みていた。
以前の公共情報サービスには、厄介な矛盾が存在していた。
ナビゲーション機能の改善によって、春人は自分の補助入力装置を使い、以前より確実にフォームの各項目へ移動できるようになっていた。
しかし、入力を終える前にセッションが期限切れになってしまうことがあった。
システムのセキュリティ要件そのものは正当だった。
春人も、それは理解していた。
ただし、利用者によって操作方法が異なるという現実を考慮しなければ、セキュリティ対策そのものが障壁になってしまうことも理解していた。
最新版には、セッション終了前に警告を表示する機能が追加されていた。
さらに、セッションが終了しても、一部の機密性の低い入力内容を保持し、最初から入力し直す負担を減らす仕組みも導入されていた。
どちらも期待できる改善だった。
春人は慎重な楽観を抱きながら、最初のテストを開始した。
フォームを開く。
サービスの種類を選択する。
新たに表示された入力項目へ移動する。
必要な情報を入力する。
そして、警告が現れるのを待った。
画面の上部付近に、メッセージが表示された。
まもなくセッションの有効期限が切れます。時間を延長しますか?
その下には、二つの操作ボタンがあった。
セッションを延長
セッションを終了
春人は微笑んだ。
「おや、こんにちは」
彼は補助入力装置を使って、延長ボタンへフォーカスを移そうとした。
フォーカスが移動する。
しかし。
次の瞬間、予想外の場所へ飛んでしまった。
春人は眉をひそめた。
もう一度試す。
延長ボタンは画面上には表示されている。
だが、彼の操作方法では、その動作が安定していなかった。
ボタンを実行しようとする。
何も起こらない。
同じ手順を繰り返す。
その間に、セッションが期限切れになった。
アプリケーションは前の段階へ戻ってしまった。
一部の情報は保持されていた。
しかし、機密性の高い情報や、復旧処理の仕組みに関係する項目については、再入力が必要だった。
春人は結果を見つめた。
そして、ため息をついた。
「惜しいんだよなあ」
画面を見つめる。
「本当に、あと少しなのに」
警告は存在している。
延長ボタンも存在している。
入力内容の保持機能にも改善が見られる。
しかし、最も重要な操作。
つまり、時間の延長を要求するという行為そのものが、彼の入力環境では安定して実行できなかった。
春人は結果を記録した。
予定されていた休憩を終えたあと、もう一度テストを行った。
二回目も似たような問題が発生した。
ただし、フォーカスの動き方は完全には一致していなかった。
その違いは重要だった。
単純に「このボタンは使えない」と報告するだけでは不十分だった。
どの条件で。
どのような操作を行い。
何が起こったのか。
それらを正確に記録する必要があった。
春人はテスト環境、操作手順、フォーカスの動作、そして最終的な結果を文書にまとめた。
改善された部分についても記載した。
開発チームに必要なのは、正確なフィードバックだった。
ただの批判ではない。
午後になる頃には、報告書はかなり詳細なものになっていた。
マウスでボタンを一度クリックするだけの人には、些細に思える問題かもしれない。
しかし春人にとっては、サービスを利用できるかどうかを左右する重大な問題だった。
彼はメモを見つめた。
それから時計を見る。
予定していた作業時間は、すでに終わっていた。
まだ調べたいことはあった。
もう一つの設定。
もう一回の試行。
もう一種類の操作手順。
好奇心が、もう少し続けろと囁いているようだった。
しかし、今回の追加テストは、範囲が定められた有償契約だった。
春人には、合意した成果物がある。
そして、その日の作業時間はすでに使い切っていた。
彼は少し迷った。
それから、テスト環境を閉じた。
「続きは明日だ」
パソコンに向かって告げる。
パソコンは何も反論しなかった。
この状況では、それが賢明な判断だったのだろう。
◇ ◇ ◇
葵の月曜日の朝は、期待することさえ怖かった一通のメールから始まった。
彼女は藤本美香の家のキッチンテーブルで、出勤前のお茶を飲んでいた。
そのとき、通知が届いた。
送信者は、訪問看護に関する研修の担当者だった。
葵はメールを開いた。
最初の段落を読む。
そして。
完全に動きを止めた。
向かい側に座っていた美香が顔を上げた。
「どうしたの?」
葵は瞬きをした。
「何でもない」
美香は眉を上げた。
「それ、怪しい『何でもない』だね」
葵はもう一度メールを読んだ。
そして、微笑んだ。
「受かったの」
美香が姿勢を正した。
「研修?」
葵はうなずいた。
「うん」
美香の顔が輝いた。
「葵!」
葵は笑った。
「まだ条件付きだけどね」
美香は少し首をかしげた。
「どういうこと?」
葵は画面に目を戻した。
「申し込み自体は受理されたんだけど、最終的な日程は上司の承認が必要なの。今の訪問予定に支障が出ないように、研修時間を調整できるか確認しなきゃいけないんだって」
美香はうなずいた。
「じゃあ、まだ全部決まったわけじゃないんだ」
「そう」
「でも、合格したんでしょ?」
葵は微笑んだ。
「うん」
美香はカップを持ち上げた。
「じゃあ、おめでとう」
葵は笑った。
「ありがとう」
しばらくの間、彼女はただメールを見つめていた。
研修では、コミュニケーション、意思決定支援、在宅ケアにおける連携などを学ぶ予定だった。
何年も前から受けたいと思っていた種類の研修だった。
かつての彼女は、そんな希望を何度も諦めていた。
自分の向上心を、誰かにとって迷惑なものだと思わされていたからだ。
拓海の言葉がよみがえった。
もう仕事を持っているのに、どうして追加の研修が必要なんだ。
どうして夜まで勉強したいんだ。
今のままで満足できないのか。
その記憶は、今でも胸に嫌な痛みを残した。
けれど。
もう、その言葉が彼女の答えを決めることはなかった。
葵は小さく微笑んだ。
「楽しみなんだ」
美香が彼女を見る。
「いいことじゃない」
葵は小さく笑った。
「でも、緊張もしてる」
「それも普通だよ」
葵は画面に目を向けた。
「日程がうまく合えばいいんだけど」
美香はうなずいた。
「合わなかったら、そのとき考えればいいよ。ほかにどんな方法があるか」
葵は微笑んだ。
「最近、妙に現実的になったよね」
美香は得意げに笑った。
「看護師と一緒に暮らしてるからね」
二人は笑い合った。
葵はお茶を飲み終えた。
そして、条件付きの受け入れについて確認したことと、上司と日程調整を進めることを簡潔に返信した。
この機会を望むことについて、謝る必要はなかった。
日程調整に関係のない人にまで、自分の選択を正当化する必要もなかった。
そして。
拓海がどう反応するかを想像する必要も、もうなかった。
これは彼女の仕事だ。
彼女自身が申し込んだ研修だ。
彼女自身の未来なのだ。
葵は静かな満足感とともにノートパソコンを閉じた。
それから鞄を手に取った。
久しぶりに。
その朝は、最初から最後まで自分自身のものだと感じられた。
◇ ◇ ◇
職場では、西原智子が葵を祝福してくれた。
年上の看護師は、その日の訪問予定を確認していたところだった。
「研修の結果が届きました」
智子が顔を上げた。
「そうなの?」
葵は微笑んだ。
「申し込みが受理されました」
智子の表情が明るくなった。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
葵は少しためらった。
「ただ、日程についてはまだ承認が必要だそうです」
智子はうなずいた。
「そうね。研修の日程と、今の人員配置を確認しないといけないわ」
葵は微笑んだ。
「はい」
智子は少しの間、彼女を見つめた。
「嬉しそうね」
葵は小さく笑った。
「嬉しいです」
「それならよかった」
智子は予定表へ目を戻した。
「今日の訪問が終わったら、詳しく確認しましょう」
葵はうなずいた。
「ありがとうございます」
出発の準備をしていると、智子が付け加えた。
「最近、いい質問をするようになったわね」
葵は彼女を見た。
「そうですか?」
智子は微笑んだ。
「コミュニケーションのこととか、患者さん自身の意思のこととか、ご家族との関わり方とか」
葵は少し考えた。
「……そうかもしれません」
「これからも続けてね」
葵は微笑んだ。
そして、智子のあとを追って朝の街へ出た。
最初の訪問は、いつもどおりに終わった。
二件目では、少し話し合いが必要になった。
その日の遅い時間に森本花恵のアパートへ到着する頃には、葵は智子の仕事ぶりから学んだことを改めて実感していた。
智子は患者が自分で判断するための時間を、きちんと確保していた。
花恵は電動車椅子に座り、ゆったりとしたカーディガンを着ていた。
そして、その顔には深い不満が浮かんでいた。
「いらっしゃい」
葵は微笑んだ。
「こんにちは」
智子が尋ねた。
「何かありました?」
花恵はパソコンを指さした。
「それは『何かあった』の定義によるわね」
葵は小さく笑った。
「またメールですか?」
花恵はうなずいた。
「展覧会の主催者たちが、ついに私の絵について私本人に質問するという革命的な発想を発見したのよ」
智子は微笑んだ。
「それはよかったですね」
「そうね」
花恵は少し間を置いた。
「大体は」
彼女は修正されたインタビューの質問を見せた。
以前の質問には、逆境を乗り越えた経験についてのものがいくつもあった。
しかし、今回は違っていた。
創作の過程。
建築から受けた影響。
そして、彼女が描く浮遊都市シリーズの架空の歴史。
葵は微笑んだ。
「ずっとよくなりましたね」
花恵はうなずいた。
「ええ」
彼女は一つの質問を指さした。
「交易路についてまで聞いてくれたのよ」
葵は笑った。
「素晴らしいですね」
「ようやく空中文明の経済的な複雑さを理解してくれる人が現れたわ」
智子は微笑んだ。
しかし、花恵の表情にはまだ不満が残っていた。
彼女は別の文書を開いた。
「でも、宣伝文の下書きがまだ問題なの」
葵は少し身を乗り出した。
見出しには、障害を超越する強い意志を持った感動的な芸術家、といった表現が使われていた。
本文でも、作品そのものより彼女の身体的な状態について、はるかに多くの文字が割かれていた。
葵の胸に、すぐさま苛立ちが湧いた。
花恵があれほど説明したというのに。
主催者たちは、どうしても展覧会を芸術的な成果ではなく、個人的な克服の物語に変えたがっているようだった。
葵は口を開きかけた。
しかし。
途中で止まった。
花恵が気づいた。
「何?」
葵は少し考えた。
「いえ、何でもありません」
花恵は眉を上げた。
「ずいぶん大きな『何でもない』だったわね」
葵は小さく笑った。
そして言った。
「今、私がどうするべきだと思うか、言いかけたんです」
花恵がにやりと笑った。
「あら」
葵は微笑んだ。
「でも、花恵さんはもう、ご自分がどうしたいか決めているんじゃないかと思って」
花恵は少し考えた。
それからうなずいた。
「ええ」
彼女は下書きを見た。
「修正をお願いするつもり」
智子は微笑んだ。
「いいと思います」
花恵は続けた。
「それでも断られたら、そんな宣伝のされ方で自分の作品を紹介してほしいかどうか、改めて決めるわ」
葵はうなずいた。
花恵は彼女を見た。
「送るつもりのメール、聞いてくれる?」
葵は微笑んだ。
「もちろん。よろしければ」
花恵は満足そうに笑った。
「よかった」
彼女は下書きを開いた。
内容は率直だった。
専門的で。
そして、どこまでも花恵らしかった。
展覧会は障害を克服した物語ではなく、芸術作品を紹介する催しとして扱ってほしい。
変更してほしい具体的な表現も示されていた。
さらに、浮遊都市シリーズの視覚的な影響や、作品が扱う主題を中心に据えた代替案まで提案されていた。
葵は最後まで聞いた。
そして微笑んだ。
「伝えたいことが、とてもはっきり書かれていると思います」
花恵はうなずいた。
「よかった」
少し間を置く。
「議長についての段落も追加しようかと思ったんだけど」
葵は吹き出した。
智子は陶器の猫へ目を向けた。
「それは、やめておいた方がいいかもしれませんね」
花恵はため息をついた。
「芸術表現への検閲ね」
三人は笑った。
その後の訪問は、看護計画に従って進められた。
葵は智子の指導のもとで、合意された看護業務を手伝った。
その間も花恵に確認を取り、彼女の希望を尊重した。
展覧会の問題は、花恵自身が対応するものだった。
葵には話を聞くことができる。
作品を楽しむこともできる。
求められれば意見を伝えることもできる。
しかし、花恵の代わりに話す人間になる必要はなかった。
その気づきは、不思議と葵自身の人生にもつながっていた。
長い間、彼女は自分が何を望んでよいのかを、他人に決めさせてしまっていた。
今は、支えることと支配することの違いを、両方の立場から学び始めていた。
いつも心地よい学びとは限らなかった。
それでも。
大切なことだった。
◇ ◇ ◇
春人の住まい探しに関する打ち合わせは、水曜日の午後に行われた。
田中恵子は藤本彩花とともにやって来た。
持参した資料の量は、小さな森をいくつか消滅させられそうなほどだった。
春人は書類の束を見つめた。
「素晴らしい」
恵子は微笑んだ。
「何がですか?」
「どうやら僕たちは、絶望の書類作業編に突入したようだ」
彩花が笑った。
「またですか?」
春人はうなずいた。
「慢性的な症状なんだ」
一同は食卓を囲んだ。
春人が無理なく参加できるよう、由紀が部屋を整えてくれていた。
里奈も勤務時間中だったため、必要に応じて介助できるよう待機していた。
恵子はまず、これまで内見した二つの物件について確認した。
最初の物件は適していなかった。
二つ目は有望だったが、必要な改修、資金、介助体制を確定する前に、別の入居希望者へ決まってしまっていた。
公園が見えるあの部屋の話題になるたび、春人の胸には今でも小さな痛みが走った。
彼はそれを表に出さないようにした。
恵子は、その喪失を長々と話題にすることはなかった。
代わりに、一般的な賃貸物件の情報だけに頼らず、探す範囲を広げ始めたことを説明した。
バリアフリー住宅のネットワークに問い合わせる。
改修の可能性がある物件を調べる。
大きな移動支援が必要な入居者への対応経験がある建物について情報を集める。
どの方法も、適切な部屋が見つかる保証にはならなかった。
しかし、選択肢は広がる。
彩花が二つの間取り図をテーブルに置いた。
「これはまだ候補です。おすすめできる段階ではありません」
春人はうなずいた。
「了解」
最初の物件は、由紀と大地の家から、当初考えていたよりも遠い地域にあった。
寝室の広さは有望に見えた。
入口に段差はない。
建物にはエレベーターもある。
そして、ベッドや医療機器、介助のための動線を確保できる可能性があった。
春人は図面を見つめた。
「興味深いね」
彩花はうなずいた。
「ただし、心配な点があります」
彼女は建物の情報を指さした。
緊急時の避難体制について、春人の必要とする条件を満たせるか判断するには、まだ情報が不足していた。
非常時にエレベーターが使えるとは限らない。
建物の避難手順を詳しく調べる必要がある。
そして、安全な避難が可能かどうかは、建物側の対応、適切な介助体制、専門家による評価を含めた計画次第だった。
春人は眉をひそめた。
「つまり、寝室は使えるかもしれない」
「そうですね」
「でも、建物そのものが使えないかもしれない」
彩花はうなずいた。
「だから、もっと情報が必要なんです」
春人は少し考えた。
「わかった」
恵子は二つ目の物件へ話を移した。
別の地域にある建物だった。
入口は利用できそうだった。
ただし、室内はやや狭い。
そして浴室の寸法には、以前と似たような懸念があった。
春人は間取り図を見た。
それからため息をついた。
「また浴室か」
彩花はかすかに微笑んだ。
「はい」
春人は彼女を見た。
「最近、浴室というものが僕に対して陰謀を企てている気がする」
恵子が小さく笑った。
彩花は続けた。
「部屋の寸法だけでは判断できません。実際に使える作業スペースと、介助の手順を確認する必要があります」
春人はうなずいた。
横浜での一泊練習を経験して以来、そのことは以前にも増して理解していた。
写真では広く見える部屋でも。
公表されている寸法を満たす入口でも。
実際に介助を行う際の動きや、機器の配置、姿勢の調整を考慮すると、安全に使うのが難しい場合がある。
春人は図面に目を戻した。
「どちらも、まだ内見を決められる段階じゃないんだね?」
恵子は少し考えた。
「もう少し確認が必要ですね」
彩花もうなずいた。
「先に重要な点を明らかにしておいた方がいいと思います」
春人はかすかに微笑んだ。
「よかった」
少し間を置く。
「もう二度と、窓に恋をして失恋するのはごめんだからね」
恵子の表情が和らいだ。
彩花もうなずいた。
「その気持ちはわかります」
話し合いは続いた。
春人は、単に車椅子で建物に入れるかどうかだけでなく、自分にとって本当に重要な条件を挙げ始めた。
ベッドや機器、介助のための空間を確保しながらも、窮屈に感じない寝室。
実際に安全に使用できる浴室。
安定した夜間介助の計画。
パソコンを置く場所。
友人と過ごせる居間。
プライバシー。
交通機関へのアクセス。
そして、希望的観測だけに頼らない緊急時の対応計画。
周辺環境も考慮したかった。
店。
公園。
カフェ。
介助を手配して出かけられる場所。
春人は、自分の身体を収容できるというだけで、街の生活から切り離されてしまうような部屋には住みたくなかった。
恵子は注意深く耳を傾けた。
そして、希望条件を整理したチェックリストを作ることを提案した。
春人は少し考えた。
「チェックリスト?」
彩花はうなずいた。
「絶対に必要な条件と、希望する条件を分けるんです」
春人は微笑んだ。
「素晴らしい」
少し間を置く。
「ようやく尊敬できる書類仕事が出てきたね」
◇ ◇ ◇
その後の二日間で、チェックリストは少しずつ形になっていった。
春人は恵子と彩花の意見を取り入れながら、補助入力装置を使って作業を進めた。
項目はいくつかの分野に分けられた。
最初は、身体的なアクセスに関する必須条件だった。
段差のない入口。
十分な出入口の幅。
建物内の安全で確実な移動経路。
電動車椅子を操作するための広さ。
ベッドや機器、介助に対応できる寝室の配置。
そして、決められたケアの手順を安全に行える浴室。
二つ目は、生活介助と医療的な支援に関する条件だった。
単に介助者が部屋へ入れるかどうかではない。
その地域で適切な事業者から支援を受けられるか。
日中と夜間の介助を手配できるか。
代替要員を確保できる可能性があるか。
緊急時にはどう対応するか。
そして、必要に応じて訪問看護を別途どのように調整するか。
三つ目は費用だった。
家賃。
光熱費。
機器に関する費用。
必要になる可能性のある改修。
助成制度の利用条件。
そして、不定期なフリーランス収入が生活に与える現実的な影響。
四つ目は、ごく普通の生活に関するものだった。
快適な仕事場。
本を置く場所。
居間。
交通機関へのアクセス。
近くの施設や店。
そして、友人を招くことができる環境。
春人は最後の項目を長い間見つめていた。
避難計画や夜間介助といった問題と並べると、少し贅沢な希望に思えるかもしれない。
しかし。
彼はその項目を削除しなかった。
家とは、単に介助を受けるための場所ではない。
生活するための場所なのだ。
春人はもう一行追加した。
訪問者、生活習慣、個人的な決定について、プライバシーと自己決定権が守られること。
そして文書を保存した。
母、美咲の写真へ目を向ける。
「さて、と」
彼はかすかに微笑んだ。
「母さん。息子はついに宣言書を書き上げたよ」
◇ ◇ ◇
金曜日、春人は森哲也とカフェで会った。
待ち合わせは事前に決めてあり、春人は移動手段と里奈の勤務時間を調整していた。
哲也は、有償の生活介助を利用しながら一人暮らしをしている経験について話してくれることになっていた。
春人は、その申し出をありがたく思っていた。
専門家による説明なら、これまでにも何度も聞いていた。
もちろん、それは重要だった。
しかし、実際にその仕組みの中で毎日生活している人の話も聞きたかった。
哲也は電動車椅子に乗り、黒っぽい上着を着て現れた。
その表情には、どこか面白がっているような雰囲気があった。
「早いね」
春人はにやりと笑った。
「職業上の習慣さ」
哲也は眉を上げた。
「いつから?」
「僕が高く評価されるソフトウェア批評家になってから」
二人は笑った。
注文を済ませると、窓際の席に落ち着いた。
里奈は春人が飲み物を口にするのを手伝い、その後は必要なときに対応できる位置に控えていた。
会話には、求められない限り加わらなかった。
哲也は春人を見た。
「それで」
春人はため息をついた。
「それで」
「部屋探しは?」
「終わりの見えない悲劇だよ」
哲也は微笑んだ。
「覚えがある」
春人は最近の状況を説明した。
公園が見える部屋を逃したこと。
探す範囲を広げたこと。
新しいチェックリスト。
夜間の人員配置や資金面の不確実さ。
哲也は最後まで聞いた。
そしてうなずいた。
「ちゃんと大事なことを考えてるね」
春人はかすかに微笑んだ。
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
哲也は少し考えた。
「ただ、覚えておいてほしいことがある。バリアフリーの部屋を見つけることと、長く続けられる支援体制を整えることは、別々の問題なんだ」
春人はうなずいた。
「恵子さんも、いつもそう言ってる」
「正しいよ」
哲也は飲み物を一口飲んだ。
「部屋に介助者が付属してくるわけじゃないからね」
春人は微笑んだ。
「残念ながらね」
二人は人員配置について話した。
哲也は、自分の生活が、決められた時間の有償介助、事業者との調整、そして不測の事態への備えによって成り立っていることを説明した。
ただし、自分の仕組みを春人がそのまま真似できるとは言わなかった。
必要な支援は人によって異なる。
利用できる制度や資金の条件も違うかもしれない。
そして、身体的な障害が似ている二人でも、必要とする介助手順は同じとは限らない。
春人は耳を傾けた。
それから尋ねた。
「急な欠勤が出たときはどうするの?」
哲也はため息をついた。
「それが一番大変なことの一つだね」
予定されていた介助者が来られなくなると、生活全体に影響が出ることがある。
代わりの人員をどう手配するか。
どう連絡を取り合うか。
そして、どれほど綿密に予定を組んでいても、ときには計画どおりに進まないことを前提にしておく必要がある。
春人はうなずいた。
由紀と大地のことを考えた。
二人のことは大好きだった。
けれど。
介助者が急に休むたびに、由紀が自分の生活を犠牲にしなければ成り立たないような一人暮らしは望んでいなかった。
春人は哲也を見た。
「プライバシーはどうしてる?」
哲也は微笑んだ。
「ああ」
春人は眉を上げた。
「何?」
「ようやく面白い質問になってきたね」
春人は笑った。
哲也は少し考えた。
「まず、僕を手伝ってくれる人たちには、そこが僕の家だって理解してもらう」
春人はうなずいた。
「介助者の家じゃない」
「そのとおり」
哲也は続けた。
「もちろん、専門職としての責任や、安全に関する心配を無視するという意味じゃない」
少し間を置く。
「でも、どう暮らしたいかを決めるのは僕だ、ということなんだ」
春人は聞き入った。
哲也は、日常生活に合わせて支援を調整している方法を説明した。
友人が遊びに来る時間。
個人的な会話。
仕事。
休息。
そして、一人で過ごしたい時間。
もちろん、その間も必要な介助や緊急時の対応が確保されるようにしていた。
春人は少し考えた。
「恋愛関係の場合は?」
哲也はかすかに微笑んだ。
「まだそのことを考えてるの?」
春人はため息をついた。
「どうやらね」
哲也は笑った。
そして、少し真剣な表情になった。
「基本的な考え方は同じだよ」
少し間を置く。
「恋人だからといって、自動的に介助者になるわけじゃない」
春人はうなずいた。
「それに、介助者が恋愛関係の一部になるわけでもない」
哲也は続けた。
「実際の生活では、役割が重なることもある。それは避けられない場合もあるけどね」
彼は微笑んだ。
「それでも、境界線は決められる」
春人は考え込んだ。
「複雑そうだね」
「複雑なこともある」
哲也はわずかに肩をすくめた。
「でも、誰かと一緒に暮らすこと自体が複雑だからね」
春人は笑った。
「確かに」
哲也は彼を見た。
「誰かと付き合ってるの?」
春人は、自分の威厳にむせそうになった。
「え?」
哲也はにやりと笑った。
「聞いてみただけ」
春人はため息をついた。
「君は聡と同じくらいひどいね」
「ありがとう」
春人は窓の外へ目を向けた。
それから、かすかに微笑んだ。
「……気になる人はいるよ」
哲也はうなずいた。
「友達なんだ」
「うん」
春人はためらった。
「でも、それ以上なのかどうかは、まだわからない」
哲也は微笑んだ。
「それでもいいじゃないか」
春人は少し考えた。
「物事を複雑にしてしまうんじゃないかって、心配になることがあるんだ」
哲也は彼を見た。
「人間関係って、もともと複雑なものだよ」
少し間を置く。
「だからって、恋愛をしちゃいけない理由にはならない」
春人はかすかに微笑んだ。
哲也は続けた。
「それに、誰かと一緒に過ごすのが楽しいかどうかを考える前に、将来起こり得るすべての問題を解決しておく必要なんてないんだ」
春人は小さく笑った。
「最近、何度も同じことを言われてる気がする」
哲也はにやりと笑った。
「きっと、本当のことだからだよ」
二人はさらに一時間ほど話した。
帰る頃には、春人の住宅チェックリストには、いくつもの新しい質問が追加されていた。
しかし、不思議と気持ちは軽くなっていた。
自立した生活とは、介助が必要なくなる魔法のような状態ではない。
必要な介助を、自分自身の選択を中心に組み立てられる生活のことなのだ。
その違いは重要だった。
そして春人は、少しずつ、それを理解し始めていた。




