第33章 まだ恋とは呼べない、星降る夜の約束
「それにね……」
葵は少し間を置いた。
「誰かと一緒にいたいと思うことと、その人の人生を全部背負うことは、同じじゃないと思うの」
陽翔は黙っていた。
葵は続けた。
「もちろん、恋人同士になれば、お互いに助け合うことはあると思う」
「うん」
「でも、それは相手の人生を管理することじゃない」
陽翔は画面を見つめた。
「……そうだね」
葵は小さく微笑んだ。
「あなたが必要としている介助は、あなたの生活の一部でしょう?」
「うん」
「でも、それがあなたのすべてじゃない」
陽翔は息をのんだ。
葵は続けた。
「あなたは本が好きで、映画について妙に熱く語って、仕事には真剣で……」
少し間を置いた。
「時々、本当にどうしようもない冗談を言う」
陽翔は笑った。
「最後のは余計じゃない?」
「重要な特徴だと思う」
「ひどいな」
葵も笑った。
けれど、すぐにその声は柔らかくなった。
「私が言いたいのはね……」
彼女は少しためらった。
「あなたと一緒にいたいと思う人は、きっと、そういうあなた自身を好きになるんだと思う」
陽翔は何も言わなかった。
彼女の言葉を、ゆっくりと受け止めていた。
誰かが自分を好きになる。
介助が必要だからではなく。
同情しているからでもなく。
ただ、自分という人間を好きだから。
それは、彼がずっと望んでいたことだった。
そして同時に、望むことさえ怖かったことでもあった。
「……ありがとう」
ようやく、陽翔はそう言った。
葵は微笑んだ。
「どういたしまして」
少し沈黙が流れた。
それから陽翔は、わざとらしく咳払いをした。
「ところで」
葵は眉を上げた。
「何?」
「今の話を聞いて、一つ重大な問題に気づいた」
「重大な問題?」
「僕の素晴らしいユーモアが、正当に評価されていない」
葵は吹き出した。
「そこなの!?」
「極めて深刻な問題だよ」
「もう!」
陽翔はにやりと笑った。
「苦情を提出したい」
葵は笑いながら答えた。
「却下します」
「審査すらしないの?」
「しません」
「不当な扱いだ」
「残念でした」
二人は笑った。
その笑い声が落ち着く頃には、先ほどまで胸を締めつけていた緊張も、少しずつ和らいでいた。
◇ ◇ ◇
しかし、葵にもまた、話しておきたいことがあった。
彼女はスマートフォンを見つめた。
「陽翔?」
「ん?」
「私も、ちょっと怖いんだ」
彼の笑みが消えた。
「……何が?」
葵は考えた。
「誰かを好きになること」
陽翔は黙っていた。
葵は続けた。
「前の恋愛でね、自分の気持ちよりも、相手がどう思うかばかり考えるようになってたの」
彼は静かに耳を傾けた。
「相手が怒っていないか」
「何か間違ったことを言っていないか」
「嫌われないためには、どうすればいいのか」
葵は目を伏せた。
「そんなことばかり考えてた」
陽翔の胸が痛んだ。
拓海のことは、すでに少し聞いていた。
けれど、葵が自分の言葉で語るたびに、彼女がどれほど苦しい時間を過ごしてきたのかを、改めて思い知らされた。
「だから……」
葵は息を吸った。
「誰かと親しくなることが、時々怖いの」
陽翔は少し考えた。
そして言った。
「……怖くてもいいんじゃないかな」
葵は顔を上げた。
「え?」
「無理に怖くないふりをしなくても」
彼は少し間を置いた。
「誰かと付き合うために、自分の気持ちを押し殺す必要なんてないと思う」
葵は唇を噛んだ。
陽翔は続けた。
「それに、もし誰かが君に、いつも自分を優先しろって要求してきたら……」
彼は考えた。
「その人は、恋人というより、ずいぶん面倒な上司だね」
葵は思わず笑った。
「陽翔!」
「しかも、給料を払わないタイプの」
彼女はさらに笑った。
「本当に、あなたって……」
陽翔は微笑んだ。
「でも、本気だよ」
葵の笑い声が静まった。
「……うん」
「君は、自分の人生を持っていていいんだ」
彼は言った。
「仕事も、友達も、やりたいことも」
少し間を置いた。
「誰かを好きになったからって、全部手放す必要なんてない」
葵は目を閉じた。
その言葉は、思っていた以上に深く胸に響いた。
「……ありがとう」
陽翔は微笑んだ。
「どういたしまして」
少し間を置いた。
「ただし」
葵は警戒した。
「……何?」
「僕が推薦する映画を全部拒否する権利までは、認められない」
葵は大笑いした。
「それは絶対に拒否する!」
「交渉の余地は?」
「ありません!」
陽翔はため息をついた。
「なんて厳しい世界なんだ」
◇ ◇ ◇
気がつくと、時計は午後十時を過ぎていた。
葵は驚いた。
「えっ、もうこんな時間?」
陽翔も時計を確認した。
「……本当だ」
彼は少し考えた。
「どうやら、僕たちは時間を盗まれたらしい」
葵は笑った。
「誰に?」
「おそらく、あの宇宙皇帝だ」
「まだその話するの!?」
「彼の力は恐ろしいからね」
葵は首を振った。
それから微笑んだ。
「そろそろ寝ないとね」
陽翔はうなずいた。
「うん。僕も寝る準備があるし」
「そうだね」
けれど、どちらもすぐには通話を切らなかった。
不思議な沈黙が流れた。
気まずい沈黙ではなかった。
むしろ、もう少しだけ話していたいという気持ちが、二人の間に残っていた。
陽翔は口を開いた。
「……葵」
「ん?」
「今日は、ありがとう」
彼女は微笑んだ。
「私こそ」
「楽しかった」
「うん」
少し間を置いた。
「私も、すごく楽しかった」
陽翔の胸が温かくなった。
彼は微笑んだ。
「また電話してもいい?」
葵は一瞬、目を見開いた。
それから、優しく微笑んだ。
「もちろん」
陽翔はほっとした。
「よかった」
葵は少し考えた。
そして、いたずらっぽく言った。
「ただし、次はもう少しまともな映画の話をしてね」
陽翔は大げさに息をのんだ。
「そんな!」
葵は笑った。
「おやすみ、陽翔」
彼は微笑んだ。
「おやすみ、葵」
通話が終了した。
◇ ◇ ◇
陽翔はしばらく画面を見つめていた。
部屋は静かだった。
パソコンのファンが、かすかな音を立てていた。
窓の外では、夜の風が木々を揺らしていた。
彼は深く息を吸った。
そして、ゆっくりと吐いた。
「……すごいな」
誰に向けた言葉でもなかった。
ただ、自然と口からこぼれた。
彼は母の写真を見た。
美咲は、いつものように微笑んでいた。
陽翔も微笑んだ。
「母さん」
少し間を置いた。
「僕、今日、すごく楽しかったよ」
写真は何も答えなかった。
けれど、陽翔は構わなかった。
「ちょっと怖い話もしたけど」
彼は小さく笑った。
「それでも、よかった」
しばらく、写真を見つめていた。
そして、静かに言った。
「……誰かを好きになるって、こういうことなのかな」
答えはなかった。
まだ、わからないことがたくさんあった。
葵が自分をどう思っているのか。
二人の関係が、これからどう変わっていくのか。
そもそも、変わる必要があるのか。
けれど――
今夜、彼女と話せたことが嬉しかった。
それだけは、確かだった。
◇ ◇ ◇
一方、葵もスマートフォンを見つめていた。
通話履歴には、陽翔の名前が表示されていた。
彼女は小さく微笑んだ。
「……長電話しちゃった」
自分でも驚くほど、自然な笑みだった。
拓海と付き合っていた頃、電話が鳴ることは、しばしば緊張の始まりだった。
何を言われるのだろう。
何か怒らせてしまったのだろうか。
すぐに出なかったら、責められるのだろうか。
そんなことばかり考えていた。
けれど、今夜は違った。
電話を切った後、胸に残っていたのは恐怖ではなかった。
安心感だった。
そして――
もう少し話していたかったという、ささやかな寂しさ。
葵は自分の胸に手を当てた。
「……困ったな」
小さくつぶやいた。
けれど、その声は少しも困っているようには聞こえなかった。
彼女は微笑んだ。
それから、ベッドサイドの照明を消した。
部屋が暗くなる。
窓の向こうには、東京の夜景が広がっていた。
無数の光が、遠くまで続いている。
そのどこかで、陽翔も同じ夜を過ごしている。
葵は目を閉じた。
彼の笑い声を思い出した。
あの馬鹿げた映画の話。
アパートについての会話。
そして、自分の気持ちを隠さずに話してくれたこと。
彼女は微笑んだ。
「……おやすみ」
誰にも聞こえないほど、小さな声だった。
◇ ◇ ◇
その夜、二人の関係に名前がつくことはなかった。
告白もなかった。
約束もなかった。
恋人同士になったわけでもなかった。
けれど――
何も変わらなかったわけではない。
陽翔は、自分の不安を誰かに打ち明けることができた。
葵は、誰かと親しくなることへの恐怖を、隠さずに話すことができた。
そして二人とも、相手が自分の言葉を受け止めてくれたことを知った。
それは、劇的な出来事ではなかった。
映画のような音楽も流れなかった。
夜空に花火が上がることもなかった。
ただ、二つの部屋で、二人の若者が、それぞれ静かに微笑んでいた。
未来はまだ、不確かだった。
陽翔の住まい探しも。
仕事も。
葵の抱える恐怖も。
二人の関係も。
何一つ、簡単な答えは出ていなかった。
それでも――
未来が不確かだからといって、そこへ進むことを諦める必要はなかった。
すべてを理解していなくても、誰かを大切に思うことはできる。
まだ答えが出ていなくても、一緒に笑うことはできる。
そして、明日がどうなるかわからなくても――
また話したいと願うことはできる。
その夜、陽翔と葵は、同じ空の下で眠りについた。
互いの気持ちに、まだ名前をつけないまま。
けれど、ほんの少しだけ――
明日を楽しみにしながら。




