第32章 まだ見ぬ明日へ、心が選んだ道(続き)
葵:残念ながらね。
陽翔:素晴らしい。
少し間が空いた。
そして――
陽翔:数分待ってくれる? 先に済ませたいことがあるんだ。
葵は微笑んだ。
葵:もちろん。
陽翔は、夜の介助を受けているところだった。
楽な姿勢に整えてもらい、通話に使用するアクセシブルな機器にスマートフォンを接続する時間が必要だった。
彼は、その一つ一つを詳しく説明しなかった。
葵も尋ねなかった。
彼女は待った。
不安になりながらではなく。
何分経ったかを数えながらでもなく。
ただ、彼が求めた時間を、そのまま受け入れて。
やがて電話がかかってきた。
葵は通話に出た。
「もしもし?」
「ごきげんよう、地球人よ」
葵は吹き出した。
「もう、やめてよ」
陽翔はにやりと笑った。
「いや、やめない」
電話越しに聞こえる彼の声は、少し違っていた。
温かかった。
文字のメッセージを慎重に組み立てるときとは違う、自然な響きがあった。
葵は微笑んだ。
「本当に馬鹿なんだから」
「よく言われるよ」
彼女は笑った。
「それで」
陽翔は考えた。
「それで」
短い沈黙が流れた。
そして、二人とも笑い出した。
葵は顔を覆った。
「なんでこんなに気まずいの?」
陽翔はにやりと笑った。
「どうやら、会話の仕方を忘れてしまったらしい」
葵はさらに笑った。
「そうみたいね」
彼は微笑んだ。
「いやあ、幸先がいいな」
葵はベッドのクッションにもたれかかった。
「本当にね」
陽翔はパソコンのほうを見た。
通話は彼のアクセシブルな機器を通して行われており、スマートフォンを手に持たなくても、楽な姿勢で会話に参加できた。
モニターの隣には、母の写真が置かれていた。
彼は一瞬、その写真に目を向けた。
それから、葵との会話に意識を戻した。
「さて」
彼は言った。
「史上最高のSF映画について、話を聞きたくないかな?」
葵はうめいた。
「絶対に嫌」
「素晴らしい」
彼は映画のあらすじを説明し始めた。
葵は何度も口を挟んだ。
たいていは、物語の筋がまったく通っていないと指摘するためだった。
陽翔は、ますます複雑な説明を持ち出して映画を擁護した。
感情的な失望の力によって重力を操るらしい皇帝が登場する場面にたどり着く頃には、葵は笑いすぎて、まともに話すこともできなくなっていた。
「やめて」
陽翔はにやりと笑った。
「断る」
「お願いだから」
「芸術には犠牲がつきものなんだ」
葵は笑った。
「それ、芸術じゃないから」
陽翔は大げさに息をのんだ。
「白い壁事件の後では、君の審美眼を信用するわけにはいかないな」
葵は再び大笑いした。
会話は自然に続いていった。
本。
映画。
仕事。
写真展。
陽翔は、ミライとの追加テストに関する契約変更書類に署名したことを話した。
葵は彼を祝福した。
それから、何をテストするのか尋ねた。
陽翔は、プロジェクトの機密情報を明かさないよう気をつけながら、まだ残っている画面操作上の問題について大まかに説明した。
葵は耳を傾けた。
質問をした。
そして、本当に興味を持っているようだった。
やがて、彼女はアパートのことを尋ねた。
陽翔は黙り込んだ。
葵はすぐに気づいた。
「陽翔?」
彼はため息をついた。
「……うん」
彼女はためらった。
「何かあったの?」
陽翔は少し考えた。
それから言った。
「……駄目だったんだ」
葵は身体を起こした。
「アパートが?」
「うん」
彼は窓のほうを見た。
「大家さんが、別の入居希望者に決めたんだ」
葵の表情が和らいだ。
「……そっか」
陽翔は力なく笑った。
「うん」
彼女は黙っていた。
それから言った。
「残念だったね」
陽翔はうなずいた。
「ありがとう」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて陽翔が続けた。
「絶対に借りられるって決まってたわけじゃないのは、わかってるんだ」
葵は耳を傾けた。
「でも、本当にあの部屋が欲しかった」
彼の声が柔らかくなった。
「もう、そこで暮らしている自分を想像し始めてたんだ」
葵は考えた。
「公園が見える窓?」
陽翔は寂しそうに微笑んだ。
「うん」
彼女は覚えていた。
窓。
机。
ソファ。
ひどい映画。
彼は、そのすべてを彼女に話していた。
葵は唾を飲み込んだ。
「……残念だったね、陽翔」
彼はため息をついた。
「ありがとう」
それから、小さく笑った。
「ほかにもアパートがあるのは、わかってるんだ」
葵は少し考えた。
「だからって、あの部屋を失って悲しくないわけじゃないでしょう?」
陽翔は動きを止めた。
画面のほうを見た。
それから、かすかに微笑んだ。
「……うん」
葵は待った。
陽翔は息を吸った。
「たぶん、みんなが僕に言おうとしてるのは、そういうことなんだと思う」
少し間を置いた。
「また別の部屋が見つかるって」
葵はうなずいた。
「でも、今はあんまり聞きたくないんだ」
彼女は優しく微笑んだ。
「じゃあ、言わない」
陽翔は小さく笑った。
「ありがとう」
しばらく、二人は静かにしていた。
それから葵が尋ねた。
「あの部屋の、どこが一番好きだった?」
陽翔は考えた。
窓だと答えることもできた。
寝室だと。
間取りだと。
公園だと。
けれど、少し考えた後、彼は別の答えを口にした。
「誰かが遊びに来るところを想像できたんだ」
葵は耳を傾けた。
彼は続けた。
「友達とか」
少し間を置いた。
「一緒に夕食を食べたり」
彼は小さく笑った。
「ひどい映画を観たり」
葵は微笑んだ。
「それは当然ね」
陽翔はモニターの隣にある写真を見た。
「たぶん、あそこで暮らす自分の人生を想像できたんだと思う」
葵は唾を飲み込んだ。
彼女にはわかった。
そのアパートは、単なる部屋の集まりではなかった。
必要な支援を自分の選択に合わせて整え、誰かの家の都合に自分の選択を合わせるのではなく、一人の大人として暮らしている自分を思い描ける場所だったのだ。
葵はかすかに微笑んだ。
「それは、手に入れたいと思って当然のものだよ」
陽翔は画面のほうを見た。
しばらく、何も言えなかった。
それから微笑んだ。
「……うん」
映画の話など、とっくに忘れてしまった後も、会話は続いた。
二人は仕事について話した。
葵は、患者を特定できる情報を明かさないよう気をつけながら、地域看護で大変だった一週間について話した。
本人の選択が、家族の望みと必ずしも一致しない人々を支えることの、感情的な難しさについても語った。
陽翔は耳を傾けた。
彼には、その葛藤が理解できた。
誰かを助けることと、その人の代わりに決めることの違い。
危険を伴う選択であっても、本人に選ぶことを認める難しさ。
彼はかすかに微笑んだ。
「なんだか聞き覚えがあるな」
葵は小さく笑った。
「そう言うと思った」
彼はにやりと笑った。
「どうやら僕は、面倒な人間であることの専門家らしい」
葵は笑った。
「面倒なんかじゃないよ」
陽翔は眉を上げた。
「それは大胆な主張だね」
葵は微笑んだ。
「自分の意見をはっきり持ってるの」
彼はうなずいた。
「正解」
「それに、皮肉屋」
「それも正解」
「そして、時々どうしようもない」
陽翔はにやりと笑った。
「ようやく本質に近づいてきたね」
彼女は笑った。
それから、声が柔らかくなった。
「でも、自分が何を望んでいるのか、ちゃんとわかってる」
陽翔は考えた。
「……時々はね」
葵は微笑んだ。
「あなたが思っているより、ずっと頻繁にね」
彼は窓のほうを見た。
庭は暗かった。
見慣れた家が、彼を包んでいた。
アパートのことを考えた。
仕事。
京都旅行の計画。
そして、自分が築こうとしている未来。
彼はため息をついた。
「自分の望みがわかってるだけで、何もかも簡単になればいいのにな」
葵はうなずいた。
「私もそう思う」
二人は黙り込んだ。
それから陽翔が口を開いた。
「一つ、聞いてもいい?」
葵は微笑んだ。
「もちろん」
彼はためらった。
その問いは、ずっと前から彼の心のどこかにあった。
聡や哲也との会話の後にも考えていた。
本屋に行った後も。
写真展の後も。
そして、恋愛関係を望むことが、相手に自分の人生の責任を負わせることにつながらずに済むのだろうかと考える、静かな時間にも。
彼は息を吸った。
「誰かが、自分には与えられないものを求めてくるんじゃないかって、不安になることはある?」
葵は考えた。
「……あるよ」
陽翔は画面を見た。
慎重に続けた。
「つまり……」
少し間を置いた。
「仕事だけじゃなくて」
葵は待った。
彼は唾を飲み込んだ。
「恋愛とか」
彼女の胸が小さく跳ねた。
陽翔は母の写真を見た。
それから、視線をそらした。
「そういうことを、考えたことがあるんだ」
葵の声は優しかった。
「どういうこと?」
彼はためらった。
それから答えた。
「誰かが、本当に僕と一緒にいたいと思ってくれるのかなって」
葵は動きを止めた。
陽翔は力なく笑った。
「大げさに聞こえるのは、わかってる」
「ううん」
彼は少し間を置いた。
「……そうじゃない?」
彼女は首を横に振った。
彼には見えなかったけれど。
「ううん」
陽翔は息を吸った。
「僕には、日常生活でたくさんの身体的な介助が必要なんだ」
彼は淡々と話した。
「誰かと出会ったからって、それが変わるわけじゃない」
葵は耳を傾けた。
彼は続けた。
「着替えるのも、食事も、トイレも、ベッドへの移乗も、全部手伝ってもらう必要がある」
少し間を置いた。
「いつか一人暮らしをすることになっても、信頼できる介助スタッフは必要なんだ」
葵はうなずいた。
陽翔は窓のほうを見た。
「恋愛ができることは、わかってる」
彼はかすかに微笑んだ。
「実際に恋人がいる友達だっているし」
奈緒とその恋人のことを思い出した。
哲也の助言も。
プライバシーや有償介助について交わした会話も。
「でも、時々考えるんだ」
彼は続けた。
「誰かが本当に、そういう生活を僕と一緒に送りたいと思ってくれるのかなって」
葵の胸が締めつけられた。
陽翔は続けた。
「かわいそうだからじゃなくて」
少し間を置いた。
「僕の世話をしたいからでもなくて」
彼の声が柔らかくなった。
「ただ、僕のことが好きだから」
葵は一瞬、目を閉じた。
本屋のことを思い出した。
写真展。
彼が芸術について議論する姿。
自分の興味について尋ねてくれたこと。
自分の恐怖を話したとき、耳を傾けてくれたこと。
彼と一緒にいる時間が、どれほど楽しいか。
そして、その楽しさが彼の介助の必要性とはほとんど関係がないこと。
けれど、彼女は同時に理解していた。
今は、まだ自分が守れるかわからない約束をする瞬間ではない。
彼の弱さを打ち明けた瞬間を利用して、自分自身を安心させるべきときでもなかった。
葵は息を吸った。
それから言った。
「ありのままの自分を愛してほしいと思うのは、とても普通のことだと思う」
陽翔は黙っていた。
葵は続けた。
「それに、介助が必要だからって、そう望むことが少しでもおかしくなるとは思わない」
彼は唾を飲み込んだ。




