第29章 言葉にならなかった想いが夜に灯るとき
電話は、二人が予想していたよりもずっと長く続いた。
気がつくと、葵はもう一時間近く同じ姿勢で座っていた。
陽翔も、そろそろ就寝前の体位調整や準備のために介助が必要な時間になっていることに気づいた。
彼は時計をちらりと見た。
「さて、と」
葵は微笑んだ。
「どうしたの?」
「そろそろ切ったほうがいいかな」
彼女は少し考えた。
「そうだね」
陽翔は少し間を置いた。
「それに、寝る準備もしなきゃいけないし」
葵はうなずいた。
「もちろん」
彼女の声に、残念そうな響きはなかった。
陽翔のケアの予定を犠牲にしてまで、会話を引き延ばそうとすることもなかった。
陽翔は、それが嬉しかった。
彼は微笑んだ。
「楽しかったよ」
葵の胸が温かくなった。
「うん」
陽翔は少し考えた。
「また、こうやって話したいね」
彼女は微笑んだ。
「私も」
陽翔はにやりと笑った。
「素晴らしい」
葵は笑った。
それから、少しためらった。
「陽翔?」
「ん?」
彼女は息を吸った。
「アパートのこと、話してくれて嬉しかった」
彼はかすかに微笑んだ。
「ありがとう」
「それから……」
葵は少し間を置いた。
「もう一つの話も、してくれて嬉しかった」
陽翔は息をのんだ。
彼女が何を指しているのか、わかっていた。
恋愛についての問い。
誰かに介助してもらうためだけに必要とされるのではないかという恐れ。
彼は微笑んだ。
「……うん」
葵の声が柔らかくなった。
「おやすみ」
陽翔は母の写真を見た。
それから、画面に視線を戻した。
「おやすみ、葵」
通話が終わった。
数秒間、彼は静かに座っていた。
部屋が、どこか違って感じられた。
もちろん、物理的には何も変わっていない。
本棚はそこにあった。
パソコンも。
見慣れた家具も。
母の写真も。
けれど、彼は長い間ほとんど誰にも話せずにいたことを、初めて声に出した。
そして、誰かが耳を傾けてくれた。
哀れむことなく。
安易な約束をすることなく。
その会話を、解決しなければならない問題に変えることもなく。
陽翔はかすかに微笑んだ。
それから笑った。
「いやあ……」
彼は美咲の写真を見た。
「めちゃくちゃ怖かったよ」
少し間を置いた。
「……でも、ちょっとよかった」
◇ ◇ ◇
通話が終わった後も、葵はベッドに座ったままだった。
スマートフォンが隣に置かれていた。
部屋は静かだった。
キッチンでは、美香が何かをしている音が聞こえた。
アパートの建物の向こうを、遠くの電車が通り過ぎていった。
葵は窓のほうを見た。
陽翔のことを考えた。
彼の笑い声。
あの馬鹿げた映画。
アパートのこと。
そして、彼が尋ねた問い。
介助者になってもらわなくても、誰かが自分と一緒にいたいと思ってくれるだろうか。
胸が締めつけられた。
本当は、伝えたいことがあった。
とても単純なこと。
そして、紛れもない本心。
彼と一緒にいるのが楽しいこと。
彼からのメッセージを楽しみにしていること。
彼の声が好きなこと。
これから先、二人で過ごす午後を想像するようになったこと。
けれど、彼女は言わなかった。
恥ずかしかったからではない。
彼が理解してくれないと思ったからでもない。
ただ、まだ準備ができていなかった。
二人がこれまで歩んできた道のりは、大切だった。
彼女自身の回復も大切だった。
安全も大切だった。
そして、どちらも十分に考えていないまま、心を開いた瞬間を突然の告白に変えてしまいたくなかった。
葵はかすかに微笑んだ。
急ぐ必要はない。
陽翔も、急ぐ必要はない。
期限などなかった。
義務もなかった。
可能性があるからというだけで、二人の関係がどうなるべきかを決める必要もなかった。
彼女は本屋のショーウィンドウを写した写真に目を向けた。
陽の光。
花々。
本。
そして、微笑んだ。
久しぶりに、会話が終わった後の沈黙が怖くなかった。
ただ、あの会話ができてよかったと思っていた。
◇ ◇ ◇
就寝前、陽翔は母に宛てた手紙を保存しているフォルダーを開いた。
アパートのことが、一週間ずっと頭から離れなかった。
ミライとの契約変更も。
資金面についての相談も。
そして、葵との会話も。
彼は新しい文書を作成した。
母さんへ
さて、アパートをなくしました。
陽翔はその一文を見つめた。
それから続きを書いた。
文字どおりの意味じゃないよ。
建物を丸ごとどこかに置き忘れたわけじゃない。
彼はかすかに微笑んだ。
まあ、僕ならやりかねないけどね。
少し間を置いた。
大家さんが、別の人に貸すことにしたんだ。
笑みが消えた。
絶対に借りられるって決まっていたわけじゃない。
それはわかってる。
でも、本当にあの部屋が欲しかった。
彼は窓のほうを見た。
公園が好きだった。
寝室も気に入ってた。
窓のそばに机を置くところを想像するのも好きだった。
彼は息をのんだ。
それに、誰かが遊びに来てくれるところを想像するのも好きだった。
少し間を置いた。
たぶん、それが一番つらかったんだと思う。
部屋を失ったことじゃない。
その部屋の中で始まるはずだった生活を、失ったこと。
しばらく、続きを書くことができなかった。
やがて、深く息を吸った。
でも、諦めないよ。
彼はかすかに微笑んだ。
恵子さんも、また探せるって言ってくれた。
介助体制や費用のことも、まだ考えなきゃいけないことがたくさんある。
少し間を置いた。
わかってる。
僕、複雑な書類を扱うのがどんどん上手くなってるよ。
彼は小さく笑った。
それから続きを書いた。
仕事は順調だよ。
有償テストの追加契約にも署名した。
どうやら、ソフトウェア開発者を困らせる僕の才能には、金銭的な価値があるらしい。
陽翔はにやりと笑った。
母さんなら、きっと大喜びしただろうね。
それから、資金面についての相談を思い出した。
さまざまな質問。
不確実なこと。
仕事と必要な支援を両立させるために求められる、慎重な計画。
彼は文字を打った。
昔は、お金を稼げるようになれば、すべてがもっと簡単になると思ってた。
でも、そうじゃないんだね。
少し間を置いた。
それでも、僕は働きたい。
支援を受ける価値がある人間だって証明するためじゃない。
今やっている仕事が好きだから。
彼は微笑んだ。
そして、葵のことを考えた。
電話。
彼女の笑い声。
アパートのことを話したとき、静かに耳を傾けてくれたこと。
自分が尋ねた問い。
彼女がくれた答え。
彼は息を吸った。
今夜、葵と話したんだ。
少し間を置いた。
ちゃんと話した。
電話で。
彼は微笑んだ。
どうやら、僕たちもずいぶん技術的に進歩したらしい。
少し考えた。
映画の話をした。
仕事の話も。
アパートのことも。
それから、ほかにもいろいろ。
彼の笑みが柔らかくなった。
ずっと口にするのが怖かったことを、彼女に話したんだ。
少し間を置いた。
誰かが僕と一緒にいたいと思ってくれることなんてあるのかなって。
僕の世話をする責任を感じるからじゃなくて、ただ僕と一緒にいたいからって。
画面に並んだ文字は、奇妙に見えた。
思っていた以上に、無防備な言葉だった。
それでも、彼は消さなかった。
彼女は笑わなかった。
哀れんだりもしなかった。
ただ、聞いてくれた。
陽翔は息をのんだ。
そして、わかってくれた気がする。
しばらく、母の写真を見つめた。
こんなこと、母さんに相談できたらよかったのに。
目の奥が熱くなった。
きっと、とんでもないアドバイスをくれたんだろうな。
彼は寂しそうに微笑んだ。
それから、パンケーキを作ってくれたんだろうね。
小さく笑った。
そして続きを書いた。
葵と僕が、これからどうなるのかはわからない。
僕たちは友達だ。
それが嬉しい。
少し間を置いた。
僕は彼女が好きだ。
その一文が、画面に残った。
陽翔はじっと見つめた。
それから微笑んだ。
自分で思っていた以上に。
彼は考えた。
でも、急ぐつもりはないよ。
僕たち二人とも、まだいろんなことを考えている途中なんだと思う。
彼は窓のほうを見た。
庭は暗かった。
家は静かだった。
失ったアパートのことを考えた。
引き受けた仕事のことを考えた。
そして、今も耳に残っているような気がする、彼女の声を思い出した。
それから、文字を打った。
何かを望んだからって、必ず手に入るわけじゃない。
僕は、それを少しずつ学んでいるんだと思う。
でも、だからって、何かを望むのをやめる必要はないんだよね。
少し間を置いた。
あのアパートが欲しかった。
でも、手に入らなかった。
これからも仕事を続けたい。
京都に行きたい。
自分の家が欲しい。
陽翔は息をのんだ。
そして、いつか、その人生の一部を誰かと分かち合えたらいいなと思う。
彼はかすかに微笑んだ。
そうしなきゃいけないからじゃなくて。
そうしたいと思ってくれるから。
しばらく、静かに座っていた。
それから、手紙の最後に署名した。
愛を込めて。
相変わらず恐ろしくハンサムで、議論好きのプロで、不動産市場への不信感をますます募らせている息子より。
陽翔
彼は文書を保存した。
それから、美咲の写真を見た。
「おやすみ、母さん」
その声は静かだった。
彼は微笑んだ。
「それから、心配しないで」
少し間を置いた。
「僕、諦めないから」
◇ ◇ ◇
窓の外では、風が庭の木々を揺らしていた。
東京のどこかでは、葵も眠る準備をしていた。
彼女はまだ、恐怖と希望を同じくらい感じさせたあの会話について考えていた。
雪は、陽翔を愛するということが、彼に自分の家の外の未来を追い求めさせることでもあるのだと学び始めていた。
恵子は、簡単な答えのないさまざまな可能性を調整するという、難しい仕事を続けていた。
陸と開発チームは、次のアクセシビリティテストの準備を進めていた。
そして陽翔は、自分の人生のすべてを思いどおりにできるからといって、それが自分の人生になるわけではないのだと、少しずつ理解し始めていた。
人生が自分のものになるのは、自分で選択を重ねるからだった。
そこに迎え入れる人々がいるからだった。
守るべき境界線を学ぶからだった。
そして、失望する可能性があっても、望み続ける勇気を持つからだった。
アパートは失われた。
未来は不確かだった。
けれど、思い描いていた家を失ったことと、いつしか聞くのを楽しみにするようになった声との間で、陽翔は一つのことに気づいていた。
大切なものすべてに、今すぐ名前をつける必要はないのだと。
未完成のままでいいものもある。
壊れそうな希望のままでいいものもある。
そして、約束も、要求も、朝までに別の何かにならなければならないという恐れもなく、静かに育っていくことを許される気持ちもある。
今夜は――
それだけで十分だった。




