第28章 自分たちのものと呼ぶことを恐れていたものたち
高橋陽翔が失望について最初に学んだのは、それが十分に劇的な演出を伴って訪れることなど、めったにないということだった。
雷鳴もなかった。
不吉な音楽も流れなかった。
街灯の下に立つ謎の人物が、悪い知らせを告げに現れることもなかった。
時として失望は、ごく平穏な火曜日の朝に訪れる。
ソフトウェアのテストに関するメールと、叔父が食器用洗剤を買い忘れたという知らせの間に、ひっそりと紛れ込んでくるのだ。
何の前触れもなく。
何の儀式もなく。
そして、その後も世界が何事もなかったかのように動き続けることを当然のように要求してくる。
陽翔は、それをひどく不公平だと思っていた。
その朝、彼は自室にいた。
里奈が朝のケアに必要な器具を準備し終えるのを待っていたとき、パソコンが新着メールを知らせた。
差出人は田中恵子。
件名は――
物件申し込みに関するご連絡
陽翔は画面を見つめた。
一瞬、子供じみた衝動に駆られた。
メールを開かず、そのまま無視してしまいたい。
開かなければ、悪い知らせも存在しないことになるのではないか。
もちろん、そんなわけはなかった。
彼はため息をついた。
「……よし」
里奈が振り向いた。
「どうしました?」
陽翔は画面を見たまま答えた。
「運命からメールが届いた」
里奈は眉を上げた。
「運命?」
「しかも、件名がものすごく事務的なんだ」
彼女は小さく笑った。
陽翔はメールを開いた。
そして読み始めた。
◇ ◇ ◇
文章は丁寧だった。
とても丁寧だった。
不動産関係の連絡というものは、どうしてこうも丁寧なのだろう。
陽翔は以前から不思議に思っていた。
まるで、敬語を十分に重ねれば、どんな悪い知らせでも柔らかくなると信じているかのようだった。
しかし――
文章の意味は明確だった。
彼が申し込んでいたアパートは、別の入居希望者に決まった。
陽翔は画面を見つめた。
一度読んだ。
もう一度読んだ。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「……ああ」
里奈が彼の表情に気づいた。
「陽翔さん?」
彼は小さく笑った。
「どうやら、僕の夢のアパートには別の主人公が決まったらしい」
彼女の表情が曇った。
「……そうなんですか」
陽翔はうなずいた。
「うん」
それ以上、すぐには言葉が出なかった。
◇ ◇ ◇
彼は、その部屋が気に入っていた。
窓から公園が見えた。
寝室には十分な広さがあった。
電動車椅子で移動するための動線も、必要な改修や調整を検討できそうだった。
そして何より――
そこに住む自分の姿を、すでに想像してしまっていた。
窓際に置いた机。
仕事用のパソコン。
本棚。
小さなソファ。
訪ねてくる友人たち。
時には、葵も。
その想像は、まだ何一つ実現していなかった。
それでも、陽翔の中では少しずつ形を持ち始めていた。
だからこそ――
失ったものが、単なる部屋以上のものに感じられた。
彼は静かに画面を見つめた。
里奈は何も急かさなかった。
やがて陽翔は口を開いた。
「まあ……」
少し間を置いた。
「少なくとも、引っ越しの荷造りをしなくて済む」
里奈は悲しそうに微笑んだ。
「そうですね」
陽翔はため息をついた。
「……今のは、あんまり面白くなかったな」
「少しだけ」
彼は笑った。
ほんの少しだけ。
◇ ◇ ◇
それでも、陽翔は諦めるつもりはなかった。
恵子からのメールには、今後も条件に合う物件を探していくことが書かれていた。
住まいを見つけることだけが課題ではなかった。
必要な介助体制。
費用。
仕事から得られる収入と、現在利用している支援制度との関係。
移動手段。
緊急時の対応。
そして、自分自身が望む暮らし方。
どれも簡単には決められない。
けれど――
簡単ではないからといって、不可能だと決まったわけでもなかった。
陽翔はメールを閉じた。
「次だな」
里奈が微笑んだ。
「次ですね」
彼はうなずいた。
「不動産市場は、まだ僕の魅力を理解していないらしい」
里奈は吹き出した。
「そうかもしれませんね」
陽翔はにやりと笑った。
「実に残念なことだ」
◇ ◇ ◇
その日の後半、陽翔は仕事の資料を開いた。
ミライ・インターフェース・ソリューションズとの契約に関する追加書類。
新しいテスト項目。
報酬についての確認。
そして、今後の作業予定。
仕事は順調だった。
少なくとも、アパート探しよりは。
彼は画面を見ながら考えた。
働くことは楽しかった。
自分の意見が、実際の製品改善につながることには意味があった。
しかし、収入を得ることで生活のすべてが単純になるわけではない。
むしろ、考えなければならないことが増える場合もあった。
陽翔は、その現実を少しずつ理解し始めていた。
それでも、仕事を続けたいと思っていた。
誰かに自分の価値を証明するためではない。
支援を受ける資格があることを示すためでもない。
ただ――
自分が好きな仕事だったから。
そして、自分の人生において、仕事もまた大切な選択の一つだったから。
◇ ◇ ◇
夜になった。
陽翔は葵とのメッセージを開いた。
少し迷った。
アパートのことを話すべきだろうか。
彼女に心配をかけたくはなかった。
けれど、隠しておきたいわけでもなかった。
彼は短いメッセージを送った。
陽翔:残念なお知らせがある。
数分後、返事が届いた。
葵:どうしたの?
陽翔:例のアパート、ほかの人に決まった。
少し間が空いた。
葵:……そっか。
葵:楽しみにしてたのにね。
陽翔は画面を見つめた。
そして小さく微笑んだ。
陽翔:うん。
葵:今、大丈夫?
彼は考えた。
大丈夫。
その言葉は便利だった。
便利すぎるほどに。
本当は、がっかりしていた。
悔しかった。
少し悲しかった。
でも、完全に打ちのめされたわけではなかった。
彼は返事を打った。
陽翔:正直、かなり残念。
陽翔:でも、また探すつもり。
葵:うん。
葵:それがいいと思う。
陽翔は微笑んだ。
それだけで、少し気持ちが軽くなった。
彼女は無理に励まそうとはしなかった。
すぐに解決策を提示することもしなかった。
ただ、彼の気持ちを受け止めてくれた。
そして今の陽翔には、それがありがたかった。
◇ ◇ ◇
やがて、二人の会話は電話へと移った。
最初は、アパートの話だった。
それから仕事。
映画。
最近あった出来事。
どうでもいい冗談。
そして、少しずつ――
もっと個人的な話になっていった。
陽翔は、以前から胸の奥に抱えていた疑問を口にした。
誰かと恋人同士になること。
自分には日常生活の中で専門的な介助が必要なこと。
そして、その二つがどう共存できるのかということ。
彼は、誰かに自分の人生を管理してほしいわけではなかった。
恋人を介助者にしたいわけでもなかった。
ただ、一人の人間として、一緒にいたいと思ってもらいたかった。
その気持ちを言葉にするのは、思っていた以上に怖かった。
葵は静かに耳を傾けていた。
そして、ゆっくりと答えた。
「私も、恋人だからって、その人の介助者にならなきゃいけないとは思わない」
陽翔は画面を見た。
胸が少し締めつけられた。
葵は続けた。
「お互いを大切に思うことと、相手の人生を全部引き受けることは、違うと思うの」
陽翔はかすかに微笑んだ。
「……うん」
葵は少し考えた。
「それに、あなたと一緒にいたいと思う人には、ちゃんとあなた自身を知ろうとしてほしい」
陽翔は黙っていた。
葵は優しく微笑んだ。
「手助けが必要なことだけじゃなくて」
陽翔は息をのんだ。
それから、小さく笑った。
「……なかなかいい答えだね」
葵は微笑んだ。
「ありがとう」
陽翔はにやりと笑った。
「怪しいくらいにいい答えだ」
彼女は笑った。
「たまにはね」
陽翔も微笑んだ。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて葵が口を開いた。
「……私も、一つ話していい?」
陽翔はうなずいた。
「もちろん」
葵はためらった。
心臓が少し速く鼓動していた。
今夜、拓海のことを話すつもりはなかった。
けれど、陽翔の問いかけは、彼女の中にある何かに触れていた。
愛が、いつの間にか役割になってしまうことへの恐怖。
義務になってしまうこと。
期待に応え続けるうちに、その人自身が少しずつ消えてしまうこと。
葵は息を吸った。
「拓海と付き合っていた頃ね……」
陽翔は黙って耳を傾けた。
「誰かを愛するって、その人をいつも幸せにしてあげることなんだって思うようになってたの」
彼女は少し間を置いた。
「彼が落ち込んでいたら、私が何とかしなきゃって」
「怒っていたら、私が何か間違えたんだって」
陽翔の表情がこわばった。
葵は窓のほうを見た。
「それで、いつの間にか、自分が何を望んでいるのか考えなくなってた」
彼女の声が小さくなった。
「どうすれば彼を怒らせずに済むか、そればかり考えてた」
陽翔は息をのんだ。
何か言いたかった。
彼女を慰める言葉。
その痛みを消してあげられる言葉。
けれど、そんな言葉は存在しないとわかっていた。
だから、彼は耳を傾け続けた。
葵は続けた。
「だからだと思う」
少し間を置いた。
「誰かを好きになり始めると、怖くなるの」
陽翔の胸が小さく痛んだ。
それでも、彼は黙っていた。
葵は息を吸った。
「また自分を失ってしまうんじゃないかって」
陽翔は少し考えた。
そして言った。
「……そんなこと、しなくていいんだよ」
葵は目を閉じた。
陽翔は続けた。
「自分を犠牲にする必要なんてないってこと」
彼女はうなずいた。
「うん」
陽翔は画面を見た。
「誰かに、いつでも注意を向けていなきゃいけない義務もない」
葵はかすかに微笑んだ。
「うん」
陽翔は少し間を置いた。
「たとえ相手が、とんでもなくハンサムだったとしても」
葵は吹き出した。
「陽翔!」
彼はにやりと笑った。
「何?」
「本当に、あなたって人は……」
「職業病です」
彼女は笑った。
張りつめていた空気が、少しずつ和らいだ。
それは、会話の重要さが薄れたからではなかった。
二人とも、相手を理解していることを示すために、ずっと深刻な顔をしている必要などなかったからだ。
葵は目元を拭った。
そして微笑んだ。
「ありがとう」
陽翔は画面を見た。
「何が?」
「聞いてくれて」
彼は微笑んだ。
「いつでも」
そして少し間を置いた。
「……まあ」
葵は眉を上げた。
「何?」
「昼寝の時間以外なら」
彼女は大笑いした。
「もちろん」
陽翔はにやりと笑った。
「組合の厳しい規則だからね」
二人は一緒に笑った。
その笑い声は、東京の離れた場所にある二つの部屋を満たしていた。




