第27章 まだ自分のものと呼ぶことを恐れていたものたち
高橋陽翔が失望について最初に学んだのは、それがこちらの期待するほど劇的な演出を伴って現れることは、めったにないという事実だった。
雷鳴が轟くわけでもない。
不吉な音楽が流れるわけでもない。
街灯の下に謎めいた人物が立ち、恐ろしい知らせを告げてくるわけでもなかった。
失望というものは、ときに何の変哲もない火曜日の朝、ソフトウェアのテストに関するメールと、叔父が食器用洗剤を買い忘れたという知らせの間に紛れ込んでやってくる。
何の前触れもなく、ひっそりと姿を現し、そのあとも世界が何事もなかったかのように動き続けることを当然のように要求するのだ。
陽翔は、それをひどく不公平だと思っていた。
その朝、彼は寝室にいた。里奈が朝の介助に必要な機器を準備し終えるのを待っていると、パソコンが新着メールを知らせた。
差出人は田中恵子。
件名には、こう書かれていた。
「賃貸物件のお申し込みに関するご報告」
陽翔は画面に目を向けた。
一瞬、子供じみた衝動に駆られた。
このメールを無視してしまいたい。
何が書かれている可能性があるのか、わかっていた。
公園を見下ろせるあのマンションには、ほかにも入居希望者がいた。必要な改修にはまだ承認が必要で、夜間の身体介助や緊急時の代替スタッフ、継続的な費用の確保についても、解決にはほど遠い状態だった。
そんなことは、最初から理解していた。
何度も自分に言い聞かせていた。
ほかの人にも、落ち着いた口調で説明していた。
まるで、自分が責任ある大人になりつつあると信じている人間のように。
残念ながら、失望する可能性を理解していることと、実際に失望したときの痛みが軽くなることは、まったく別の問題だった。
「大丈夫?」
里奈が尋ねた。
陽翔は通知を見つめた。
「それは場合によるね」
「何によるの?」
「僕のメールが、朝から人の気分を台無しにする能力を身につけたかどうか」
里奈は画面に目を向けた。
その表情が和らいだ。
「恵子さん?」
陽翔はうなずいた。
里奈は、代わりにメールを開こうかとは尋ねなかった。
陽翔が自分用に調整されたパソコンの操作方法で、メールを開けることを知っていたからだ。
彼女は必要な介助を終え、陽翔の姿勢と快適さを確認してから、少し離れた。
「一人になりたい?」
陽翔は考えた。
「少しだけ」
「わかった」
里奈は優しく微笑んだ。
「必要になったら呼んでね。近くにいるから」
陽翔はうなずいた。
「ありがとう」
里奈が少し離れると、陽翔はメールを開いた。
一度読んだ。
そして、もう一度読んだ。
文章は慎重に選ばれていた。
事務的で、丁寧で、痛々しいほど相手を気遣う言葉が並んでいた。
恵子によれば、物件の管理担当者から所有者の決定について連絡があったという。
別の入居希望者が、陽翔に必要な追加調査や改修を伴わず、通常の賃貸手続きを進められる状態にあった。
そのため、所有者はその希望者との契約手続きを進めることにしたのだ。
あのマンションは、もう陽翔の入居候補ではなくなった。
恵子は残念な結果になったことに触れ、今後の住まい探しについて改めて話し合いたいと書いていた。
陽翔は画面を見つめた。
部屋の中は、何一つ変わっていなかった。
机には朝日が差し込んでいる。
窓の外では、そよ風が木の葉を揺らしていた。
モニターのそばには母の写真が飾られ、背景の中で黄色いジャケットが鮮やかに映えていた。
何も変わっていない。
それなのに、何かが変わってしまった。
「……ああ」
それしか言えなかった。
陽翔はもう一度メールを見た。
そして、閉じた。
数秒間、静かに座っていた。
わかっていた。
あの部屋が確保されていないことも。
所有者が別の入居希望者を選ぶ可能性があることも。
費用の問題が未解決で、改修の許可が下りないかもしれないことも。
期待しすぎないようにしようと、自分に言い聞かせていた。
それでも、最初の内見から詳しい調査までのどこかで、彼はあの何もない部屋に、想像上の家具を置きはじめていた。
窓際の机。
本を並べる棚。
電動車椅子の通行を妨げないソファ。
友人たちと一緒に過ごせる小さなテーブル。
公園を眺めながら仕事をする自分を想像していた。
季節が移り変わっていく様子を、あの窓から眺める自分を想像していた。
自分だけの寝室で目を覚ます朝を、想像していた。
けれど、あそこには別の誰かが暮らすことになる。
別の誰かが、あの窓から公園を眺める。
陽翔が何度も思い描いた部屋に、別の誰かが家具を並べるのだ。
陽翔は唾を飲み込んだ。
それから、乾いた笑いを一つ漏らした。
「いやあ……」
母の写真へ目を向ける。
「楽しかったなあ」
写真は何も答えなかった。
もちろん、返事など期待していなかった。
けれど、そのときばかりは、答えてくれたらいいのにと思った。
◇ ◇ ◇
昼食のころには、陽翔は落ち込んでいないふりをすることに、驚くほど熟達していた。
冗談を言った。
天気に文句をつけた。
インターネットで見つけた、ひどく趣味の悪い広告を批判した。
そして里奈に、職業的な引きこもりになることを検討していると宣言した。
里奈は話を聞いていた。
それから、マンションのことを話したいかと尋ねた。
陽翔は彼女を見た。
「特には」
里奈はうなずいた。
「わかった」
陽翔は少し考えた。
そして、ため息をついた。
「ごめん」
里奈は微笑んだ。
「謝らなくていいよ」
陽翔は視線を落とした。
「わかってる」
里奈は続きを待った。
陽翔は窓の外を見つめた。
「ただ……」
言葉を切る。
「本当に、あそこに住みたかったんだ」
里奈はうなずいた。
「うん。知ってるよ」
陽翔は小さく笑った。
「馬鹿みたいだよね」
「どうして?」
彼は考えた。
「だって、最初から僕のものじゃなかったんだから」
里奈は彼を見た。
「だからって、期待しちゃいけなかったわけじゃないでしょ」
陽翔は黙った。
そんなふうに考えたことはなかった。
希望を抱いたこと自体が、間違いだったような気がしていた。
あの部屋で暮らす未来を想像した自分に、失望した責任があるかのように。
陽翔は机へ目を向けた。
「窓が好きだった」
里奈はかすかに微笑んだ。
「覚えてる」
「寝室も」
「うん」
「リビングも」
里奈はうなずいた。
陽翔はため息をついた。
「あの馬鹿みたいなキッチンカウンターまで気に入ってたんだよ」
里奈は小さく笑った。
陽翔も、思わず微笑んだ。
けれど、すぐに表情が変わった。
「ほかにもマンションがあることくらい、わかってる」
里奈はうなずいた。
「でも、今はそんなこと言われても、全然気が楽にならないんだ」
里奈は少し考えた。
「だったら、今すぐ元気にならなくてもいいんじゃない?」
陽翔は彼女を見た。
里奈は優しく微笑んだ。
「がっかりしたっていいんだよ」
陽翔は唾を飲み込んだ。
しばらく、何も言わなかった。
それから、うなずいた。
「……うん」
窓の外では、庭の木々が風に揺れていた。
午後は何事もなかったように過ぎていく。
そして陽翔は、少なくともしばらくの間、自分が落ち込んでいることを許した。
◇ ◇ ◇
同じ日の午前中、水野葵は、人生のどこまでを他人の手に委ねていいのか悩んでいる女性の家にいた。
上田真理子は、静かな住宅街にある建物の二階で暮らしていた。
部屋には鉢植えや家族写真が飾られ、家具は一度に買いそろえたものではなく、長い年月をかけて選ばれてきたことがうかがえた。
リビングには緑茶の香りがほのかに漂っていた。
小さなテレビの隣には、陶器の置物が所狭しと並ぶ飾り棚があった。
真理子が好んで座る肘掛け椅子には、少し色あせたクッションが置かれている。
葵は西原智子とともに、予定されていた訪問看護のためにやってきた。
真理子は温かく二人を迎えた。
そして、すぐに謝りはじめた。
「娘がまた、あれこれ勝手に片づけちゃってねえ」
智子は微笑んだ。
「上田さん、おはようございます」
葵も丁寧に頭を下げた。
「おはようございます」
真理子はリビングを示した。
「どうぞ、入ってください」
二人は決められた看護計画に沿って訪問を進め、真理子の体調を確認し、前回の訪問からどのように過ごしていたかを尋ねた。
真理子は、追加の専門的な支援についてケアコーディネーターと話しはじめていた。
それは前進だった。
けれど、迷いはまだ残っていた。
「どうしたものかしらねえ」
真理子が漏らした。
智子は彼女を見た。
「何か気になることがありますか?」
真理子はため息をついた。
「娘は、助かるからそうしたほうがいいって言うんです」
少し間を置く。
「でも、あの子、もう私のところに来るのが嫌になったから、そんなことを言うんじゃないかと思って」
葵は耳を傾けた。
智子は少し考えた。
「娘さんから、そう言われたんですか?」
真理子は首を振った。
「いいえ」
「では、どうしてそう思われるんでしょう?」
真理子は窓へ目を向けた。
「あの子には、あの子の人生がありますから」
声が小さくなる。
「仕事も、お友達も、ご主人もいるんです」
ため息をつく。
「それなのに、私はいつも何かを頼んでばかりで」
葵には、その恐怖がわかった。
ほかの患者からも、似たような話を聞いたことがあった。
誰かの助けが必要になることは、迷惑な存在になることだという思い込み。
支援を受けることは、自分を愛してくれる人から何かを奪うことだという不安。
真理子は智子を見た。
「専門の方にお願いしたら、娘はもう来なくなるんじゃないかしら」
智子は慎重に耳を傾けた。
「そのことについて、娘さんとお話ししたことはありますか?」
真理子は首を振った。
「いいえ」
「お話ししてみたいと思われますか?」
真理子はためらった。
答える前に、玄関の扉が開いた。
「お母さん?」
入口から女性の声がした。
真理子が顔を上げた。
「あら」
少しして、買い物袋を持った娘が姿を現した。
三十代の女性で、肩まで伸びた黒髪をしていた。限られた時間に多くの用事を詰め込んだ朝を過ごしてきたような、疲れた表情を浮かべている。
「あ、すみません」
看護師たちに気づくと、彼女は言った。
「まだいらっしゃると思わなくて」
智子は微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
真理子は娘を見た。
「優奈、今日は来なくていいって言ったでしょう」
優奈は立ち止まった。
「わかってるよ」
「だったら、どうして来たの?」
娘は買い物袋へ目を向けた。
「昨日、いろいろ足りなくなってきたって言ってたから」
真理子はため息をついた。
「そんなの、待てたのに」
優奈は苛立った表情を浮かべた。
「お母さん……」
部屋が静かになった。
葵は、真理子の肩がこわばったことに気づいた。
優奈が買い物袋を握る手にも力が入っていた。
二人とも、これまで何度も繰り返してきた口論に備えているようだった。
智子は真理子を見た。
「追加の支援について、娘さんにも一緒にお話を聞いていただきますか?」
真理子はためらった。
それから、うなずいた。
「そうですね」
智子は優奈へ向き直った。
「よろしければ、ご一緒にお話しできますか?」
優奈は驚いた様子だった。
「もちろんです」
買い物袋を置き、椅子に座った。
話し合いは、ぎこちなく始まった。
真理子は専門的な支援を受けることを検討しているが、それによって娘が自分のことを必要ないと感じてしまうのではないかと心配している、と説明した。
優奈は目を丸くした。
「必要ない?」
真理子は視線を落とした。
「だって……」
娘は眉をひそめた。
「お母さん、私はそんなこと望んでないよ」
真理子は彼女を見た。
優奈は続けた。
「必要なときに、ちゃんと助けてもらえるようになってほしいの」
「私にはあなたがいるでしょう」
「うん」
優奈の声が少し硬くなった。
「でも、私はいつでもここに来られるわけじゃないんだよ」
真理子の表情がこわばった。
優奈はすぐに後悔したような顔をした。
「そういう意味じゃ……」
智子が穏やかに口を開いた。
「少し、ゆっくりお話ししましょうか」
二人が彼女を見た。
智子は続けた。
「お二人とも、支援を増やすことで親子の関係が変わってしまうんじゃないかと、心配されているようですね」
真理子はうなずいた。
優奈はため息をついた。
「私はただ、必要なときに母が一人で困るようなことになってほしくないんです」
母親が彼女を見た。
「私は、あなたに人生の全部を私の世話に費やしてほしくないのよ」
優奈の目に涙が浮かんだ。
「お母さん……」
真理子は唾を飲み込んだ。
「あなた、とても疲れているように見えるから」
優奈は力なく笑った。
「疲れてるよ」
その告白に、二人とも驚いたようだった。
優奈はうつむいた。
「一日中働いて、それからここに来て、家に帰ったら、もっと長くいられなかったことが申し訳なくなるの」
真理子は娘を見つめた。
優奈は続けた。
「それで、少し休みたいって言うと、お母さんがすごく傷ついた顔をするから、私もつらくなる」
真理子は顔をそむけた。
しばらく、誰も話さなかった。
やがて、真理子がささやいた。
「私にうんざりしてるんだと思ってた」
優奈は顔を上げた。
「違うよ」
声が震えた。
「お母さん、私は疲れてる」
少し間を置く。
「でも、お母さんにうんざりしてるわけじゃないの」
葵は喉が締めつけられるのを感じた。
智子は口を挟まず、二人の言葉が心に届くのを待っていた。
真理子は娘を見た。
「だったら、どうして言ってくれなかったの?」
優奈は悲しそうに笑った。
「だって、自分が重荷になってるって思わせたくなかったから」
真理子の目にも涙が浮かんだ。
「私だって、怖いって言ったら、あなたが来なくなるんじゃないかと思って……」
二人は見つめ合った。
葵には、その痛ましいほど対称的な状況がわかった。
二人とも、相手を守ろうとして気持ちを隠していたのだ。
そして、その沈黙の中で、恐怖だけが大きくなっていた。
やがて智子は、話を具体的な問題へ戻した。
真理子は、どんな支援を望んでいるのか。
どのような作業が難しくなっているのか。
優奈は、義務だからではなく、自分が望むからこそ続けたいことがあるのか。
ケアコーディネーターには、どのような選択肢を調べてもらえるのか。
その場ですべてが決まったわけではなかった。
真理子が突然、追加の支援を快く受け入れられるようになったわけでもない。
優奈の疲労が魔法のように消えたわけでもなかった。
それでも二人は、真理子本人の希望を中心に据えながら、ケアコーディネーターとの話し合いに一緒に参加することに同意した。
訪問が終わるころ、真理子は娘を見た。
「これからも、お茶を飲みに来てくれる?」
優奈は涙の残る目で微笑んだ。
「もちろん」
真理子はうなずいた。
「誰か別の人が買い物をしてくれるようになっても?」
娘は小さく笑った。
「そうなったら、なおさらね」
葵も微笑んだ。
ほんの小さな出来事だった。
けれど、二人が部屋をあとにしてからも、葵の心に残り続けた。
◇ ◇ ◇
そのあとの電車で、葵は智子の隣に座り、窓の外を流れていく街を眺めていた。
午後の日差しが、建物を落ち着いた金色に染めている。
数分間、二人とも何も話さなかった。
やがて、葵が口を開いた。
「お二人とも、お互いを守ろうとしていたんですね」
智子はうなずいた。
「そうね」
「それなのに、相手が本当は何を望んでいるのか、わかっていなかった」
「そこが難しいところなのよ」
葵は流れる街並みを見た。
智子は続けた。
「相手を守るためには、自分の不安を胸の中にしまっておくべきだと思う人もいるの」
少し間を置く。
「でも、黙っていると、相手には何が起きているのかわからなくなることもあるわ」
葵は考えた。
美香のことを思い出した。
友人は、葵に住む場所を提供してくれた。
証拠を保存するのを手伝ってくれた。
警察との恐ろしいやり取りにも付き添ってくれた。
不安で食事を忘れているときには、食べるように声をかけてくれた。
そして、葵があまりいい話し相手になれないときでさえ、変わらず日常をともに過ごしてくれた。
葵は感謝していた。
けれど、隠していることもあった。
すべてを隠していたわけではない。
ストーカー事件の捜査がまだ終わっていないことを、美香は知っていた。
以前のアカウントや写真、脅迫についても知っていた。
ただ、葵が今もどれほど怖がっているかまでは、いつも伝えていたわけではなかった。
特定の物音を聞くと、体がこわばること。
見覚えのない通知が届いただけで、何でもない夜が一時間もの不安に変わってしまうこと。
鍵を二度確認してから、そんな自分を恥ずかしく思うこと。
葵は、美香にこれ以上心配をかけないようにしていた。
けれど、もしかすると自分も、真理子と優奈と同じ間違いをしているのかもしれない。
智子が彼女を見た。
「何か考え事?」
葵はかすかに微笑んだ。
「ちょっとだけ」
智子はうなずいた。
「考え事くらい、してもいいのよ」
葵は小さく笑った。
「よかったです」
智子も微笑んだ。
そして、再び窓の外へ目を向けた。
葵も街を眺めた。
たった一度の会話で、すべての恐怖を解決できるわけではない。
けれど、安全であることと、安全だと感じられることは、必ずしも同じではないのだと、認めることくらいはできるのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、恵子からマンションについて話し合うための連絡があったあと、陽翔のもとに別の知らせが届いた。
清水陸から、三件目のミライ・インターフェース・ソリューションズのアクセシビリティテストに関する追加提案が送られてきたのだ。
開発チームは、動的に表示されるフォームの操作部分をさらに修正したあと、追加のテストを依頼したいと考えていた。
対象となるのは、陽翔が以前指摘した問題だった。
新しく表示される入力項目への移動。
送信エラーが発生したあとの操作。
そして、陽翔が使用している補助入力環境で、それらが正しく機能するかどうか。
今回の提案は、三件目の契約につながった最初の依頼とは違い、作業内容が明確に定義されていた。
範囲は限定されている。
提出する成果物も具体的だった。
予定には休憩や現実的な作業時間が考慮されていた。
報酬も明記されている。
そして、それ以上の変更には別途協議が必要だと書かれていた。
陽翔は提案書を二度読んだ。
それから、微笑んだ。
「おや」
里奈が彼を見た。
「いい知らせ?」
「かもしれない」
里奈は笑った。
「また?」
陽翔はにやりとした。
「便利な言葉だからね」
彼は提案の内容を説明した。
里奈は耳を傾けたあと、今の予定と両立できそうかと尋ねた。
陽翔は考えた。
そこが問題だった。
作業そのものは、原則として対応できそうだった。
しかし、今週は介助に関する予定や住まい探しの話し合いがあり、多くの支援を必要とする生活には、予測できない出来事もつきものだった。
疲労についても考えなければならない。
以前のテストでは、集中力と補助入力装置の継続的な操作が必要だった。
仕事は楽しい。
けれど、楽しさによって身体的な限界がなくなるわけではない。
陽翔は予定表を開いた。
提案された日程を確認する。
そして、メモを取りはじめた。
テストを短い時間に分割できるか。
予定されている介助のために中断しても、期限に間に合うか。
報酬は、楽観的な所要時間の見積もりではなく、要求されている成果物全体に対して支払われるものなのか。
陽翔は返信を作成した。
専門的で、具体的な文章だった。
ミライから初めて連絡を受けたころのメールと比べると、謝罪めいた言葉はずっと少なくなっていた。
彼は納期の小さな調整を求め、想定されているテスト回数を確認し、追加の作業が三件目の契約とは別の有償変更契約として扱われることを確かめた。
そして、送信した。
里奈は微笑んだ。
「いい感じ?」
陽翔は考えた。
「うん」
少し間を置く。
「実際、そう思う」
里奈はうなずいた。
陽翔はにやりと笑った。
「恐ろしいことだね」
里奈も笑った。
「本当にね」
陽翔は画面へ目を向けた。
まだ契約に署名したわけではない。
追加の報酬を受け取ったわけでもない。
それでも、開発チームが自分のテストを役立つと判断したからこそ、追加の仕事を依頼されたのだ。
それには意味があった。
そして今の陽翔には、承諾する前に条件について話し合うことができた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、恵子は住まい探しに関する資料を入れたファイルを持ってやってきた。
その表情からは、すでに何時間も事務的な問題と格闘してきたことがうかがえた。
陽翔はリビングから彼女を迎えた。
「ようこそ。僕の不動産帝国の廃墟へ」
恵子は同情するように微笑んだ。
「こんにちは、陽翔さん」
陽翔は力なくにやりとした。
「僕の想像上のソファのために、一分間の黙祷をお願いします」
恵子は小さく笑った。
それから、席に着いた。
由紀もいつもより早く仕事から帰宅しており、話し合いに加わった。
大地はまだ外出中だった。
里奈は予定されている介助に対応できるよう、近くで待機していた。
恵子は、まず今回の結果が残念なものだったことを認めた。
すべての出来事には意味がある、などとは言わなかった。
次のマンションのほうがきっといい、などと決めつけることもしなかった。
今回の失敗が、実はよい出来事だったかのように説明することもなかった。
代わりに、今どんな気持ちなのかを尋ねた。
陽翔は考えた。
「最悪に近いですね」
恵子はうなずいた。
「残念でしたね」
彼はため息をついた。
「最初から保証されてなかったのは、わかってます」
「ええ」
「それに、まだ賃貸契約を結べる段階じゃなかったことも」
恵子はうなずいた。
陽翔はテーブルへ目を落とした。
「でも、本当に気に入ってたんです」
恵子は耳を傾けた。
陽翔は続けた。
「あそこで暮らしている自分を、何度も想像してました」
声が小さくなる。
「窓とか、公園とか」
悲しそうに笑った。
「あの馬鹿みたいなソファまで」
由紀がかすかに微笑んだ。
恵子はうなずいた。
「がっかりするのは当然だと思います」
陽翔は唾を飲み込んだ。
それから、彼女を見た。
「それで、これからどうするんですか?」
恵子はファイルを開いた。
三人は、今後の住まい探しについて話し合った。
二件目のマンションは一件目よりも条件がよく、詳しい調査によって、今後の物件探しで重視すべき点も明確になっていた。
出入口の有効幅。
浴室の構造。
医療機器や介助機器を設置する位置。
必要になる可能性のある改修工事。
しかし、適切なマンションを見つけることは、問題の一部にすぎなかった。
夜間の対応や代替スタッフを含め、継続可能な身体介助体制を整える必要がある。
必要に応じて、訪問看護も別に調整しなければならない。
費用や制度の利用資格も確認する必要があった。
そして、由紀や大地が無償の常勤スタッフのような役割を担わなくても、安全に暮らせることが重要だった。
恵子は、それらの調整を進めながら、住まい探しを続けることはできると説明した。
陽翔はうなずいた。
理解していた。
ただ、何もかも時間がかかることが嫌だった。
由紀が彼を見た。
「あのね……」
陽翔は顔を向けた。
由紀は優しく微笑んだ。
「必要な間は、ずっとここにいていいんだからね」
陽翔は動きを止めた。
由紀は続けた。
「急ぐことなんてないのよ。ここだって、あなたの家なんだから」
温かい声だった。
愛情が込められていた。
心からの言葉だった。
それでも、陽翔は胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「由紀叔母さん」
彼女は微笑んだ。
「なあに?」
陽翔はためらった。
それから言った。
「わかってるよ」
由紀はうなずいた。
「でも、そういうことじゃないんだ」
彼女の表情が変わった。
陽翔は視線を落とした。
「ここにいられることは、わかってる」
少し間を置く。
「感謝もしてる」
由紀は黙って聞いていた。
「でも、僕は自分の家が欲しいんだ」
由紀はゆっくりとうなずいた。
「わかってるわ」
陽翔は彼女を見た。
「時々、本当にわかってるのかなって思う」
その言葉は、意図していた以上に強く響いた。
由紀は目を見開いた。
部屋が静かになった。
陽翔はすぐに、自分の口調を後悔した。
けれど、言葉の意味まで取り消したいとは思わなかった。
彼は息を吸った。
「ごめん」
由紀は首を振った。
「いいの」
少し間を置く。
「続けて」
陽翔は唾を飲み込んだ。
恵子へ目を向け、それから叔母を見た。
「叔母さんが、ずっとここにいていいって言うのは、僕を安心させたいからだってわかってる」
由紀はうなずいた。
「でも、そう言われると、僕が出ていきたいと思うこと自体が問題みたいに感じるんだ」
由紀の目が大きくなった。
陽翔は続けた。
「まるで、その気持ちを諦めれば全部解決するみたいに」
由紀はうつむいた。
陽翔はもう一度息を吸った。
「僕は叔母さんと大地叔父さんの家で暮らすのが好きだよ」
声が柔らかくなる。
「二人には、本当にたくさん助けてもらった」
由紀の目に涙が浮かんだ。
「でも、それでも自分の家が欲しいんだ」
少し間を置く。
「マンションを一つ失ったからって、その気持ちは変わらない」
数秒間、由紀は何も言わなかった。
それから、うなずいた。
「あなたの言うとおりね」
陽翔は彼女を見た。
由紀は唾を飲み込んだ。
「諦めてほしくて言ったんじゃないの」
「わかってる」
由紀は自分の手を見つめた。
「ただ、あなたががっかりしてるのを見るのがつらくて」
陽翔は悲しそうに微笑んだ。
「うん」
由紀は続けた。
「それに、たぶん……」
ためらう。
「引っ越しが先延ばしになると、どこかでほっとしてる自分もいるの」
陽翔は黙っていた。
由紀は彼を見た。
「あなたに自分の人生を歩んでほしくないからじゃないのよ」
声が震えた。
「ただ、怖いの」
陽翔はうなずいた。
「知ってる」
由紀は目元を拭った。
「少しずつ学んでるつもりなんだけどね」
陽翔はかすかに微笑んだ。
「ちゃんと学んでるよ」
由紀は小さく笑った。
「ずいぶんゆっくりだけど」
陽翔はにやりとした。
「家系なんじゃない?」
由紀は涙を浮かべたまま笑った。
それから、彼を見た。
「ごめんね」
陽翔は首を振った。
「大丈夫」
由紀は少し考えた。
そして言った。
「あなたに合う家を見つけてほしいと思ってる」
少し間を置く。
「たとえ、私が時々寂しくなったとしても」
陽翔は唾を飲み込んだ。
そして、微笑んだ。
「ありがとう」
恵子は二人の気持ちが落ち着くのを待ってから、具体的な話し合いに戻った。
マンションは失った。
けれど、住まい探しが終わったわけではない。
そして、陽翔が自立した生活を望むことは、少しも間違っていなかった。
◇ ◇ ◇
専門家との相談は、その二日後に行われた。
恵子は、障害に関する支援制度や、不定期な就労収入が制度に及ぼす影響に詳しい相談員との面談を手配していた。
面談はオンラインで行われた。
陽翔は自分のパソコンから参加し、里奈は予定された介助に対応できるよう近くにいた。
恵子も、話し合いの調整役として参加した。
相談員の石川は、最初から慎重だった。
フリーランスの収入がどのような影響を及ぼすかは、利用している給付やサービス、資格要件、申告義務、具体的な制度の仕組みによって異なると説明した。
すべてに当てはまる単純な答えはない。
陽翔は、その説明をありがたく思った。
複雑な制度について簡単な解決策を提示する人には、少しずつ警戒心を抱くようになっていたからだ。
石川は現在の収入源と、ミライでの仕事について質問した。
陽翔は、最初の有償テストを終え、二件目の仕事では第一段階の成果物を提出し、現在は三件目の限定的な案件に取り組んでいると説明した。
まだ署名していない追加テストの提案についても話した。
石川は耳を傾けた。
それから、正確な記録を残すことの重要性を説明した。
契約書。
請求書。
入金日。
必要に応じた経費の記録。
そして、利用している支援制度に関係する申告義務。
陽翔はメモを取った。
話題は、自立した生活へと移った。
恵子は、住まい探しには家賃以外の問題もあると説明した。
陽翔には信頼できる身体介助が必要だった。
夜間の支援も必要になる可能性がある。
代替スタッフの確保。
適切な機器。
そして、医学的に必要な場合の訪問看護との連携。
石川は、フリーランスとして収入を得ることと、自立生活に必要な支援を確保することは、関係していても別の問題だと強調した。
収入が増えたからといって、必要な介助を手配できたり、その費用を負担できたりするとは限らない。
また、仕事を増やしても、所得に応じて利用資格が変わる給付やサービスに影響がないと決めつけることもできなかった。
具体的な制度と規則を確認する必要がある。
陽翔は慎重に耳を傾けた。
あるとき、彼はため息をついた。
「つまり、僕は会計士にならなきゃいけないってことですね」
石川は微笑んだ。
「必ずしもそうではありませんよ」
陽翔はにやりとした。
「素晴らしい」
石川は続けた。
「ただ、きちんと記録を残しておくと役に立ちます」
陽翔はうなずいた。
「それならできます」
追加のミライの仕事について、契約変更に署名する前に確認しておくべき点も話し合った。
石川が陽翔に代わって仕事を引き受けるかどうか決めることはできない。
けれど、どのような確認が必要か、何を記録しておくべきかを整理することはできた。
面談が終わるころ、陽翔の手元には具体的な行動項目の一覧ができていた。
以前より多くの情報を得られた。
すべてがうまくいくと安心できたわけではない。
けれど、判断するための材料は手に入った。
その違いは、陽翔にとってますます重要になっていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、陸から陽翔の質問に対する返事が届いた。
修正された契約変更案では、追加のテストを短い時間に分割し、より現実的な期間で実施できるようになっていた。
提出物は明確に定義されたままだった。
報酬にも変更はない。
合意した範囲を超える作業には、別途承認が必要とされていた。
陽翔は修正された条件を確認した。
そして、もう一度予定表を開いた。
介助の予定。
体力。
続いている住まい探し。
そして、パソコンの外にも自分の人生を持ちたいという気持ち。
陽翔はかすかに微笑んだ。
以前なら、最後の項目を考慮することなど、少し贅沢に感じていたかもしれない。
けれど今では、それが欠かせないものに思えた。
起きている時間のすべてを仕事に捧げるために、職業を築こうとしているわけではない。
自分が生きたい人生の中に収まる仕事を、築きたいのだ。
関係する申告上の問題を確認し、日程にも無理がないと判断したあと、陽翔は有償の契約変更に署名した。
そして、陸へ送った。
数分後、返信が届いた。
高橋様
ご対応ありがとうございます。追加テストでも、引き続きよろしくお願いいたします。
陽翔は微笑んだ。
美咲の写真へ目を向ける。
「さて」
少し間を置く。
「母さんの息子は、また一つ契約をまとめました」
それから、にやりと笑った。
「そして、相変わらず家を借りる余裕がありません」
写真は何も答えなかった。
陽翔は小さく笑った。
苦い冗談だった。
けれど、完全に希望を失った冗談ではなかった。
彼は前へ進んでいた。
たとえ、その前進が想像していた形ではなかったとしても。
◇ ◇ ◇
その夜、葵はようやく、自分がどれほど怖がっていたのかを美香に打ち明けた。
二人はキッチンのテーブルに座っていた。
夕食は終わっている。
洗った食器が流し台のそばで乾いていた。
遠くを走る車の音を除けば、部屋は静かだった。
美香がスマートフォンで何かを読んでいると、葵が口を開いた。
「ちょっと、話してもいい?」
友人が顔を上げた。
「もちろん」
葵はためらった。
それから、自分の手を見つめた。
「私、本当はそんなによくなってないのに、元気になったふりをしてた」
美香はスマートフォンを置いた。
「拓海のこと?」
葵はうなずいた。
美香は続きを待った。
葵は唾を飲み込んだ。
「いろいろ対策してるのは、わかってる」
少し間を置く。
「警察が証拠を持ってることも、わかってる」
美香はうなずいた。
「でも、時々……」
葵は言葉を探した。
「時々、あの人が突然現れるんじゃないかって思うの」
声が震えた。
「家に帰る途中とか」
「スマホが鳴ったときとか」
「誰かが後ろに近づいてきたときとか」
美香は黙って聞いていた。
葵は続けた。
「自分でも馬鹿みたいだって、何度も言い聞かせてる」
友人は首を振った。
「馬鹿みたいなんかじゃないよ」
葵は彼女を見た。
美香の表情は真剣だった。
「脅迫されてきたんだよ」
少し間を置く。
「しかも、まだ解決してない」
葵は唾を飲み込んだ。
「わかってる」
目に涙が浮かんだ。
「でも、今でも怖がってる自分が嫌なの」
美香はテーブル越しに手を伸ばした。
けれど、途中で止めた。
葵が触れられたいかどうか、自分で決められるように。
葵はその手を取った。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
やがて美香が言った。
「私の前で、無理に平気なふりをしなくていいんだよ」
葵の顔がくしゃりと歪んだ。
力なく笑う。
「わかってる」
美香は優しく手を握った。
葵は涙を拭った。
「何度も同じ話をしたら、もう聞きたくないって思われるんじゃないかって、心配だったの」
美香は彼女を見た。
「葵」
声が柔らかくなった。
「私は友達だよ」
葵はうなずいた。
美香は続けた。
「だからって、何でも解決できるわけじゃない」
少し間を置く。
「何て言えばいいかわからないこともあると思う」
葵は悲しそうに微笑んだ。
「でも、私に心配をかけないために、自分の気持ちを隠す必要はないんだよ」
葵は唾を飲み込んだ。
真理子と優奈のことを思い出した。
あのマンションでの会話。
助けを受け入れたら、相手が離れていってしまうのではないかという恐怖。
葵は涙を浮かべたまま小さく笑った。
「仕事で聞いた話と、ほとんど同じこと言ってる」
美香は微笑んだ。
「その人、ずいぶん賢いんだね」
葵は笑った。
「腹が立つくらいね」
二人はしばらく、一緒に座っていた。
やがて美香は、これまでの安全対策をもう一度確認したいか、それとも不安が生活に大きく影響しているなら、適切な相談先へ連絡したいかと尋ねた。
葵は考えた。
今夜ずっと、危険に備える計画を立てて過ごしたいわけではなかった。
けれど、自分で選べることがありがたかった。
「明日でもいい?」
美香はうなずいた。
「もちろん」
葵は息を吸った。
そして、かすかに微笑んだ。
「ありがとう」
美香はにやりとした。
「どういたしまして」
葵は窓へ目を向けた。
街は暗かった。
捜査はまだ終わっていない。
これからも注意は必要だった。
けれど、怖くないふりをする必要はなかった。
そして、そのことを認めるのも、一つの小さな自由なのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
陽翔と葵が初めて電話で話したのは、金曜日の夜だった。
二人の友情における多くの重要な出来事と同じように、そのきっかけは、SF映画についての馬鹿げた口論だった。
陽翔は葵に、ひどく残念な映画のパッケージ写真を送っていた。
そこには、家庭用電化製品を組み合わせて作ったような宇宙船を背に、筋骨隆々の宇宙飛行士が立っていた。
題名は、
『ギャラクティック・ドゥーム:宇宙皇帝の復讐』
葵は写真を見つめた。
そして、美香がソファから顔を上げるほど大笑いした。
「何がそんなに面白いの?」
葵は首を振った。
「何でもない」
美香は眉を上げた。
「陽翔くん?」
葵はため息をついた。
「そう」
友人はにやりと笑った。
葵はメッセージに戻った。
葵:ひどい映画にしか見えないんだけど。
陽翔:何という侮辱。
葵:あの宇宙船、洗濯機でできてない?
陽翔:高度な異星文明の技術だよ。
葵:洗濯機でしょ。
陽翔:君は一つの文明全体を偏見で裁いている。
葵は吹き出した。
すると、陽翔から新しいメッセージが届いた。
陽翔:あらすじを説明してあげようか。
葵はにやりとした。
葵:お願いだからやめて。
陽翔:手遅れだ。すでに講義の準備はできている。
葵は笑った。
そして、ほとんど何も考えずに文字を打った。
葵:だったら、電話してくれてもいいんだよ?
送信した文章を見つめた。
胸が小さく跳ねた。
取り消そうかと思った。
けれど、やめた。
自分から提案したのだ。
陽翔には、受け入れる自由も断る自由もある。
何も悪いことではない。
少しして、返信が届いた。
陽翔:本当に?
葵は微笑んだ。
葵:うん。
陽翔:危険性は理解しているね?
葵は笑った。
葵:残念ながら。
陽翔:素晴らしい。
少し間が空いた。
そして、
陽翔:ちょっと待ってもらえる? 先に済ませたいことがあるんだ。
葵は微笑んだ。
葵:もちろん。
陽翔は、夜の介助を受けているところだった。
電話で快適に話せる姿勢を整え、通話用の機器を使いやすい環境に接続する必要があった。
すべてを詳しく説明することはしなかった。
葵も尋ねなかった。
彼女は待った。
不安になりながらではなく。
一分一秒を数えることもなく。
ただ、彼が求めた時間を尊重していた。
やがて着信があった。
葵は応答した。
「もしもし?」
「ごきげんよう、地球人」
葵は吹き出した。
「もう、やだ」
陽翔はにやりとした。
「残念だったね」
電話越しの彼の声は、少し違って聞こえた。
温かかった。
文字のやり取りよりも、ずっと直接的に感情が伝わってくる。
葵は微笑んだ。
「ほんと、馬鹿なんだから」
「よく言われる」
彼女は笑った。
「それで?」
陽翔は考えた。
「それで?」
短い沈黙が流れた。
そして、二人とも笑いだした。
葵は顔を覆った。
「何でこんなに気まずいの?」
陽翔はにやりとした。
「どうやら、会話の仕方を忘れてしまったらしい」
葵はさらに笑った。
「そうみたい」
陽翔は微笑んだ。
「これは先が楽しみだね」
葵はベッドのクッションにもたれた。
「本当にね」
陽翔はパソコンへ目を向けた。
通話は、電話を手に持たなくても快適に参加できるよう、自分用に調整された環境を通して行われていた。
モニターのそばには母の写真があった。
彼は一瞬、それを見た。
それから、葵との会話に意識を戻した。
「さて、史上最高のSF映画について聞きたいかな?」
葵はうめいた。
「絶対に嫌」
「素晴らしい」
陽翔はあらすじを説明しはじめた。
葵は何度も口を挟んだ。
大抵は、物語の筋がまったく通っていないことを指摘するためだった。
陽翔は、ますます複雑な説明を持ち出して作品を擁護した。
宇宙皇帝が、どうやら感情的な失望の力で重力を操っているらしい場面に差しかかったころには、葵は笑いすぎてまともに話せなくなっていた。
「やめて」
陽翔はにやりとした。
「断る」
「お願い」
「芸術には犠牲がつきものなんだ」
葵は笑った。
「それ、芸術じゃないから」
陽翔は大げさに息をのんだ。
「白い壁事件以来、君の審美眼は信用しないことにしている」
葵はまた吹き出した。
会話は自然に続いていった。
本。
映画。
仕事。
写真展。
陽翔は、ミライの追加テスト契約に署名したことを話した。
葵は彼を祝福した。
それから、どんなテストをするのか尋ねた。
陽翔は、機密に関わる詳細を明かさないよう注意しながら、残っている操作上の問題について大まかに説明した。
葵は耳を傾けた。
質問もした。
心から興味を持っているようだった。
やがて、彼女はマンションのことを尋ねた。
陽翔は黙った。
葵はすぐに気づいた。
「陽翔くん?」
彼はため息をついた。
「うん」
葵はためらった。
「何かあったの?」
陽翔は考えた。
そして、言った。
「だめになったんだ」
葵は姿勢を正した。
「マンションが?」
「うん」
陽翔は窓へ目を向けた。
「所有者が、別の入居希望者を選んだんだ」
葵の表情が和らいだ。
「……そっか」
陽翔は力なく笑った。
「うん」
彼女は黙っていた。
それから言った。
「残念だったね」
陽翔はうなずいた。
「ありがとう」
しばらく、二人とも話さなかった。
やがて陽翔が続けた。
「最初から保証されてなかったのは、わかってるんだ」
葵は耳を傾けた。
「でも、本当に住みたかった」
声が小さくなる。
「もう、あそこで暮らす自分を想像しはじめてたから」
葵は少し考えた。
「公園が見える窓?」
陽翔は悲しそうに微笑んだ。
「うん」
葵は覚えていた。
窓。
机。
ソファ。
ひどい映画。
彼は、そのすべてを話してくれていた。
葵は唾を飲み込んだ。
「本当に残念だったね、陽翔くん」
彼はため息をついた。
「ありがとう」
それから、小さく笑った。
「ほかにもマンションはあるって、わかってるんだけどね」
葵は考えた。
「だからって、あの部屋を失ったことがつらくなくなるわけじゃないよ」
陽翔は動きを止めた。
画面へ目を向ける。
そして、かすかに微笑んだ。
「うん」
葵は続きを待った。
陽翔は息を吸った。
「みんな、それを言おうとしてくれてるんだと思う」
少し間を置く。
「次があるよって」
葵はうなずいた。
「でも、今はあんまり聞きたくないんだ」
彼女は優しく微笑んだ。
「じゃあ、言わない」
陽翔は小さく笑った。
「ありがとう」
しばらく、静かな時間が流れた。
やがて葵が尋ねた。
「あの部屋の、どこがいちばん好きだった?」
陽翔は考えた。
窓と答えることもできた。
寝室でもよかった。
間取り。
公園。
けれど、少し考えてから、違う答えを選んだ。
「人を家に招けるところかな」
葵は耳を傾けた。
彼は続けた。
「友達とか」
少し間を置く。
「一緒に夕食を食べたり」
小さく笑う。
「ひどい映画を観たり」
葵は微笑んだ。
「やっぱり」
陽翔はモニターのそばの写真へ目を向けた。
「あそこで暮らす自分の人生を、想像できたんだと思う」
葵は唾を飲み込んだ。
彼女にはわかった。
あのマンションは、ただの部屋の集まりではなかった。
必要な支援を自分の選択に合わせて整え、誰かの家の都合にすべての決定を合わせるのではなく、一人の大人として暮らせる場所だったのだ。
葵はかすかに微笑んだ。
「それは、望む価値のあることだと思う」
陽翔は画面へ目を向けた。
一瞬、言葉が出なかった。
それから、微笑んだ。
「うん」
映画のことなど忘れてしまうほど、会話は長く続いた。
二人は仕事について話した。
葵は患者が特定されるような情報を伏せながら、地域での訪問看護が難しい一週間だったことを話した。
本人の希望と家族の希望が一致しないとき、どのように支えるべきかという感情的な難しさについても語った。
陽翔は耳を傾けた。
その葛藤はよくわかった。
誰かを助けることと、代わりに決めてしまうことの違い。
危険を伴う選択を、本人に任せる難しさ。
彼はかすかに微笑んだ。
「聞き覚えがある話だね」
葵は小さく笑った。
「そう言うと思った」
陽翔はにやりとした。
「どうやら、僕は扱いにくい人間の専門家らしい」
葵は笑った。
「扱いにくくなんかないよ」
陽翔は眉を上げた。
「大胆な主張だね」
葵は微笑んだ。
「自分の意見がはっきりしてるの」
「正解」
「皮肉屋で」
「それも正解」
「時々、どうしようもなくて」
陽翔はにやりとした。
「だんだん核心に近づいてきたね」
葵は笑った。
それから、声を柔らかくした。
「でも、自分が何を望んでるか、ちゃんとわかってる」
陽翔は考えた。
「時々はね」
葵は微笑んだ。
「自分で思ってるより、ずっとね」
彼は窓へ目を向けた。
庭は暗かった。
慣れ親しんだ家が、彼を囲んでいる。
マンションのことを考えた。
仕事。
京都への旅行計画。
そして、自分が築こうとしている未来。
陽翔はため息をついた。
「自分の望みがわかってるだけで、全部簡単になればいいのにな」
葵はうなずいた。
「本当にね」
二人は黙った。
やがて陽翔が口を開いた。
「一つ、聞いてもいい?」
葵は微笑んだ。
「うん」
彼はためらった。
その質問は、ずっと以前から心のどこかにあった。
聡や哲也と話したあと。
書店へ行ったあと。
写真展のあと。
そして、誰かと恋愛関係になりたいと望むことが、相手に自分の人生の責任を負わせることにならないだろうかと考える、静かな時間の中に。
陽翔は息を吸った。
「誰かに、自分には与えられないものを期待されるんじゃないかって、不安になることある?」
葵は考えた。
「あるよ」
陽翔は画面へ目を向けた。
慎重に続ける。
「その……」
少し間を置く。
「仕事だけじゃなくて」
葵は続きを待った。
彼は唾を飲み込んだ。
「恋愛とか」
葵の胸が小さく跳ねた。
陽翔は母の写真へ目を向けた。
それから、視線をそらした。
「そういうこと、考えたことがあるんだ」
葵の声は優しかった。
「どういうこと?」
彼はためらった。
そして答えた。
「誰かが、本当に僕と付き合いたいって思ってくれるのかなって」
葵は動きを止めた。
陽翔は力なく笑った。
「大げさに聞こえるのは、わかってる」
「ううん」
彼は少し黙った。
「そうじゃない?」
葵は首を振った。
彼には見えなかったけれど。
「全然」
陽翔は息を吸った。
「僕には、たくさんの身体介助が必要なんだ」
事実を説明するような口調だった。
「誰かと出会ったからって、それが変わるわけじゃない」
葵は耳を傾けた。
陽翔は続けた。
「着替えも、食事も、トイレも、ベッドへの移乗も、全部手伝ってもらう必要がある」
少し間を置く。
「それに、一人暮らしをするようになっても、信頼できるスタッフは必要だよ」
葵はうなずいた。
陽翔は窓へ目を向けた。
「恋愛ができることは、わかってる」
かすかに微笑む。
「実際、恋人がいる友達だっているし」
奈緒とその恋人のことを考えた。
哲也から受けた助言。
プライバシーや有償の介助について交わした会話。
「でも、そんな生活を僕と一緒に送りたいと思う人が、本当にいるのかなって考えることがあるんだ」
葵の胸が締めつけられた。
陽翔は続けた。
「かわいそうだからじゃなくて」
少し間を置く。
「僕の世話をしたいからでもなくて」
声が小さくなる。
「ただ、僕のことが好きだからって理由で」
葵は一瞬、目を閉じた。
書店のことを思い出した。
写真展。
芸術について言い争ったこと。
自分の興味について、彼が尋ねてくれたこと。
不安を話したとき、耳を傾けてくれたこと。
彼と一緒に過ごす時間が、どれほど楽しいかを考えた。
そして、その楽しさが彼の介助の必要性とはほとんど関係ないことも。
けれど、今はまだできない約束をするべきときではないことも、理解していた。
彼の弱さを、自分自身を安心させる機会に変えるべきでもなかった。
葵は息を吸った。
そして言った。
「ありのままの自分を愛してほしいって思うのは、とても普通のことだと思う」
陽翔は黙っていた。
葵は続けた。
「それに、介助が必要だからって、その願いが不合理になるわけじゃないよ」
彼は唾を飲み込んだ。
葵は少し間を置いた。
「恋人になるために、相手が介助者にならなきゃいけないとも思わない」
陽翔は画面へ目を向けた。
胸が締めつけられた。
葵は続けた。
「お互いの人生を全部引き受けなくても、大切に思い合うことはできるでしょ」
彼はかすかに微笑んだ。
「うん」
葵は考えた。
「それに、陽翔くんと一緒にいたいと思う人には、陽翔くん自身を知りたいと思ってほしい」
陽翔は黙っていた。
葵は優しく微笑んだ。
「手伝いが必要なことだけじゃなくてね」
彼は唾を飲み込んだ。
それから、小さく笑った。
「ずいぶんいい答えだね」
葵は微笑んだ。
「ありがとう」
陽翔はにやりとした。
「怪しいくらいにね」
葵は笑った。
「私だって、たまにはいいこと言うよ」
陽翔は微笑んだ。
しばらく、二人とも話さなかった。
やがて葵が言った。
「私も、一つ話していい?」
彼はうなずいた。
「もちろん」
葵はためらった。
心臓が少し速く打っていた。
今夜、拓海のことを話すつもりはなかった。
けれど、陽翔の質問は、彼女の中にある何かに触れていた。
愛が、役割になってしまうことへの恐怖。
義務。
期待の積み重ねによって、その下にいる一人の人間が少しずつ消えていくこと。
葵は息を吸った。
「拓海と付き合ってたころ、誰かを愛するって、その人をいつも幸せにしておくことなんだって思うようになったの」
陽翔は耳を傾けた。
葵は続けた。
「彼が落ち込んだら、私が何とかしなきゃって思った」
少し間を置く。
「怒ったら、私が何か悪いことをしたんだって」
陽翔の表情がこわばった。
葵は窓へ目を向けた。
「それで、いつの間にか、自分が何を望んでるのか考えなくなってた」
声が小さくなる。
「どうすれば彼を怒らせずに済むか、そればっかり考えてたの」
陽翔は唾を飲み込んだ。
何か言いたかった。
彼女を慰める言葉を。
その痛みを消してしまえるような言葉を。
けれど、そんなことはできないとわかっていた。
だから、耳を傾けた。
葵は続けた。
「だから、誰かを好きになりはじめると、怖くなるんだと思う」
陽翔の胸が、小さく痛むように跳ねた。
彼は黙っていた。
葵は息を吸った。
「また、自分を見失うんじゃないかって」
陽翔は考えた。
そして言った。
「そんなこと、しなくていいんだよ」
葵は目を閉じた。
彼は続けた。
「自分を諦めること、って意味だけど」
葵はうなずいた。
「わかってる」
陽翔は画面へ目を向けた。
「それに、誰かにいつでも構ってあげる義務なんてない」
葵はかすかに微笑んだ。
「うん」
彼は少し間を置いた。
「たとえ相手が、とびきりの美男子だったとしてもね」
葵は吹き出した。
「陽翔くん!」
彼はにやりとした。
「何?」
「ほんと、どうしようもない」
「職業だからね」
葵は笑った。
張りつめていた空気が和らいだ。
会話の重要さが薄れたからではない。
真剣に理解し合っていることを証明するために、ずっと深刻な顔をしている必要などなかったからだ。
葵は目元を拭った。
そして、微笑んだ。
「ありがとう」
陽翔は画面を見た。
「何が?」
「話を聞いてくれて」
彼は微笑んだ。
「いつでもどうぞ」
それから、少し考えた。
「まあ……」
葵が眉を上げた。
「何?」
「予定された昼寝の時間以外なら」
彼女は吹き出した。
「もちろん」
陽翔はにやりとした。
「労働組合の厳しい規則があるからね」
二人は一緒に笑った。
その声は、東京の別々の場所にある二つの部屋を満たしていた。
◇ ◇ ◇
電話は、二人が予想していたよりもずっと長く続いた。
葵は、気づけば一時間近く同じ姿勢で座っていた。
陽翔も、体位の調整や就寝準備の介助が必要になる時間が近づいていることに気づいた。
時計へ目を向ける。
「さて」
葵は微笑んだ。
「何?」
「そろそろ切ったほうがよさそうだね」
葵は考えた。
「そうだね」
彼は少し間を置いた。
「それに、寝る準備もしなきゃいけないし」
葵はうなずいた。
「もちろん」
声には、がっかりした様子はなかった。
介助の予定を犠牲にしてまで会話を引き延ばそうとすることもなかった。
陽翔は、そのことがありがたかった。
彼は微笑んだ。
「楽しかったよ」
葵の胸が温かくなった。
「うん」
陽翔は考えた。
「また電話しよう」
葵は微笑んだ。
「ぜひ」
陽翔はにやりとした。
「素晴らしい」
葵は笑った。
それから、ためらった。
「陽翔くん?」
「うん?」
彼女は息を吸った。
「マンションのこと、話してくれて嬉しかった」
陽翔はかすかに微笑んだ。
「ありがとう」
「それから……」
少し間を置く。
「もう一つの話も、してくれて嬉しかったよ」
陽翔は唾を飲み込んだ。
何のことか、わかっていた。
恋愛についての質問。
介助してくれる相手としてではなく、一人の人間として望まれたいという不安。
彼は微笑んだ。
「うん」
葵の声が柔らかくなった。
「おやすみ」
陽翔は母の写真へ目を向けた。
それから、画面に視線を戻した。
「おやすみ、葵」
通話が終了した。
数秒間、陽翔は静かに座っていた。
部屋が、少し違って感じられた。
物理的に何かが変わったわけではない。
本はそのまま並んでいる。
パソコンも。
見慣れた家具も。
母の写真も。
けれど、何年もの間、ほとんど誰にも話さずにいたことを、声に出して伝えたのだ。
そして、誰かが聞いてくれた。
同情することなく。
約束をすることなく。
解決しなければならない問題に変えてしまうこともなく。
陽翔はかすかに微笑んだ。
それから、笑った。
「いやあ……」
美咲の写真へ目を向ける。
「怖かったなあ」
少し間を置く。
「でも、ちょっとよかった」
◇ ◇ ◇
電話が終わったあとも、葵はベッドに座っていた。
スマートフォンはそばに置いてある。
部屋は静かだった。
キッチンでは、美香が動き回る音がしていた。
遠くのマンションの向こうを、電車が通り過ぎていく。
葵は窓へ目を向けた。
陽翔のことを考えた。
笑い声。
馬鹿げた映画。
マンション。
そして、彼が尋ねた質問。
介助者にならなくても、誰かが自分と一緒にいたいと思ってくれるのだろうか。
葵の胸が締めつけられた。
伝えたいことがあった。
単純なこと。
本当のこと。
一緒にいるのが楽しいということ。
彼からのメッセージを楽しみにしていること。
声が好きだということ。
これから一緒に過ごす午後を、想像しはじめていること。
けれど、言わなかった。
恥ずかしかったからではない。
彼が理解してくれないと思ったからでもない。
ただ、まだ準備ができていなかった。
二人の過去の関係は重要だった。
自分自身の回復も重要だった。
安全も重要だった。
そして、どちらも十分に考えていない宣言を、弱さを打ち明けた瞬間に重ねたくはなかった。
葵はかすかに微笑んだ。
ゆっくり進んでもいい。
陽翔も、そうしていい。
期限などない。
義務もない。
可能性があるというだけで、二人の関係がどうなるべきか、今すぐ決める必要はなかった。
葵は書店の窓の写真へ目を向けた。
日差し。
花。
本。
そして、微笑んだ。
久しぶりに、会話のあとの沈黙が怖くなかった。
ただ、話せてよかったと思っていた。
◇ ◇ ◇
就寝前、陽翔は手紙を保存しているフォルダを開いた。
今週はずっと、マンションのことが頭から離れなかった。
ミライの追加契約も。
制度に関する相談も。
そして、葵との会話も。
彼は新しい文書を作成した。
母さんへ。
さて、マンションを失いました。
陽翔はその一文を見つめた。
そして、続きを書いた。
文字どおりの意味じゃないよ。
建物を丸ごとどこかに置き忘れたわけじゃない。
彼はかすかに微笑んだ。
まあ、僕ならやりかねないけどね。
少し間を置く。
所有者が、別の人に貸すことにしたんだ。
笑みが消えた。
最初から保証されてなかったのは、わかってる。
でも、本当に住みたかった。
陽翔は窓へ目を向けた。
公園が好きだった。
寝室も好きだった。
窓際に机を置くところを想像するのも好きだった。
彼は唾を飲み込んだ。
それから、友達を家に招くことを考えるのも。
少し間を置く。
たぶん、それがいちばんつらかったんだと思う。
部屋を失ったことじゃない。
あの部屋の中で思い描きはじめていた人生を、失ったことが。
しばらく、続きを書けなかった。
やがて、息を吸った。
でも、諦めないよ。
かすかに微笑む。
恵子さんは、これからも探せるって言ってくれた。
スタッフの確保や費用のことも、まだたくさん考えなきゃいけない。
少し間を置く。
わかってる。
複雑な書類の扱いなら、ずいぶん上達してきたよ。
陽翔は小さく笑った。
そして、続けた。
仕事は順調だよ。
追加の有償テスト契約にも署名したんだ。
どうやら、ソフトウェア開発者を困らせる僕の才能には、金銭的な価値があるらしい。
にやりと笑う。
母さんなら、きっと喜んだだろうね。
それから、制度について相談したことを思い出した。
質問。
不確かさ。
仕事と必要な支援を両立させるための慎重な計画。
陽翔は文字を打った。
昔は、お金を稼げば何もかも簡単になると思ってた。
でも、そうじゃないんだね。
少し間を置く。
それでも、仕事は続けたい。
助けてもらう資格があるって証明したいからじゃない。
今やってる仕事が好きだから。
彼は微笑んだ。
そして、葵のことを考えた。
電話。
彼女の笑い声。
マンションの話をしたとき、耳を傾けてくれたこと。
自分が尋ねた質問。
彼女がくれた答え。
陽翔は息を吸った。
今夜、葵と話したんだ。
少し間を置く。
ちゃんと話したんだよ。
電話でね。
彼は微笑んだ。
どうやら、僕たちは技術的に進歩しつつあるらしい。
少し考える。
映画のことを話した。
仕事のことも。
マンションのことも。
それから、ほかにもいろいろ。
笑みが柔らかくなった。
ずっと口にするのが怖かったことを、葵に話したんだ。
少し間を置く。
誰かが僕と一緒にいたいと思ってくれることなんてあるのかなって、ときどき考えるんだ。
僕の世話をする責任を感じるからじゃなくて。
画面に並んだ言葉は、思っていた以上に無防備に見えた。
けれど、消さなかった。
葵は笑わなかった。
かわいそうだとも思わなかった。
ただ、話を聞いてくれた。
陽翔は唾を飲み込んだ。
それで、たぶん理解してくれたんだと思う。
しばらく、母の写真を見つめた。
こういうこと、母さんに相談できたらよかったのにな。
目の奥が熱くなった。
きっと、とんでもない助言をくれたんだろうね。
悲しそうに微笑む。
それから、パンケーキを作ってくれるんだ。
陽翔は小さく笑った。
そして、続けた。
葵と僕が、これからどうなるのかはわからない。
今は友達だよ。
それが好きなんだ。
少し間を置く。
葵のことが好きだ。
その一文が画面に残った。
陽翔はじっと見つめた。
そして、微笑んだ。
自分で思っていた以上にね。
少し考える。
でも、急ぐつもりはない。
僕たちは二人とも、まだいろんなことを考えている途中なんだと思う。
陽翔は窓へ目を向けた。
庭は暗かった。
家の中は静かだった。
失ったマンションのことを考えた。
引き受けた仕事。
そして、まだ耳の奥に残っているような気がする、彼女の声。
それから、文字を打った。
何かを望んだからって、必ず手に入るわけじゃないんだね。
でも、だからって、望むことをやめる必要もないんだと思う。
少し間を置く。
あのマンションが欲しかった。
でも、手に入らなかった。
これからも仕事を続けたい。
京都へ行きたい。
自分の家が欲しい。
陽翔は唾を飲み込んだ。
それから、いつか、そんな人生の一部を誰かと分かち合えたらいいなって思う。
かすかに微笑む。
義務だからじゃなくて。
その人自身が、そうしたいと思ってくれるから。
しばらく、静かに座っていた。
それから、手紙を締めくくった。
愛を込めて。
相変わらず驚くほどの美男子で、職業的に議論好きで、不動産市場に対する不信感をますます募らせている息子より。
陽翔。
文書を保存した。
そして、美咲の写真へ目を向けた。
「おやすみ、母さん」
声は柔らかかった。
陽翔は微笑んだ。
「それから、心配しないで」
少し間を置く。
「諦めないから」
窓の外では、風が庭の木々を揺らしていた。
東京のどこかでは、葵が眠る準備をしながら、恐怖と希望を同じくらい感じさせた会話を思い返していた。
由紀は、陽翔を愛するということが、自分の家の外にある未来を彼に追い求めさせることでもあるのだと学びつつあった。
恵子は、簡単な答えのない数々の可能性を調整するという、難しい仕事を続けていた。
陸と開発チームは、次のアクセシビリティテストの準備を進めていた。
そして陽翔は、人生のすべてを自分で制御できるからといって、それが自分の人生になるわけではないのだと、少しずつ理解しはじめていた。
人生は、自分が下す選択によって、自分のものになっていく。
そこへ迎え入れる人々によって。
守ることを学んだ境界線によって。
そして、失望する可能性があっても、望み続ける勇気によって。
マンションは失われた。
未来は、まだ不確かだった。
けれど、想像していた家を失ったことと、聞くのを楽しみにするようになった声の間で、陽翔は一つのことに気づいた。
大切なものすべてに、今すぐ名前をつける必要はないのだ。
まだ完成していなくてもいいものがある。
壊れやすいまま、大切に抱いていてもいい希望がある。
そして、約束も、要求も、明日の朝までに別の何かへ変わらなければならないという恐れもなく、静かに育てていける気持ちもある。
今夜は、それだけで十分だった。




