第26章 まだ見ぬ明日へと続く扉
物件の管理担当者が到着したのは、正午を少し前にしたころだった。
中村と名乗ったその男性は五十代で、きちんとしたスーツを着ており、落ち着いた物腰が印象的だった。
恵子と彩花は、さらに詳しい調査が必要な箇所について説明した。
比較的簡単に対応できそうな変更もあれば、かなり複雑な検討を要するものもあった。
中村は二人の説明に耳を傾けたあと、所有者は改修案を検討する意思があるものの、実施には正式な審査が必要だと説明した。
建物の管理規約。
工事にかかる費用。
退去時に原状回復が必要になるかどうか。
そして、所有者の判断だけでは許可できない変更もあるということ。
陽翔は黙って聞いていた。
それから、中村に尋ねた。
「漠然とバリアフリー改修をお願いするんじゃなくて、必要な変更を具体的にまとめた書面を提出したら、検討していただけますか?」
中村はうなずいた。
「そのほうが助かります」
陽翔は微笑んだ。
「よかった」
恵子は今後の日程について尋ねた。
中村は少しためらったあと、ほかにも入居を希望している人がいると説明した。
所有者はまだ最終的な判断を下していない。
しかし、調査や資金面の問題が解決するまで、無期限に部屋を確保しておくことはできないという。
陽翔は胃のあたりが締めつけられるのを感じた。
予想していたことだった。
それでも、実際に口にされると気分のいいものではなかった。
恵子は、所有者がいつごろまでに判断を下したいと考えているのかを尋ねた。
中村は、通常の入居申込手続きによって変わる可能性があると断ったうえで、おおよその期限を伝えた。
決して余裕のある日程ではなかった。
けれど、今すぐに決断を迫られているわけでもない。
陽翔は少し考えた。
そして、口を開いた。
「僕は、もう少し調べてみたいです」
全員が彼に目を向けた。
陽翔は続けた。
「でも、必要な介助体制を整えられるかどうかわからないうちに、賃貸契約を結ぶことはできません」
中村はうなずいた。
「もちろんです」
陽翔は彼を見た。
「それに、まだ許可されていないことを、所有者の方に約束してほしいとも思っていません」
中村は丁寧に微笑んだ。
「承知しました」
陽翔は一度、言葉を切った。
「だから、今わかることを調べたいんです」
恵子がうなずき、彩花も微笑んだ。
一行は、より具体的な調査結果をまとめ、残された時間の中でどの問題に答えを出せるかを整理することにした。
何も保証されていない。
この部屋は、結局ほかの誰かのものになるかもしれない。
それでも、陽翔は決めていた。
失うことへの恐怖に押されて、維持できない生活を始めるような契約はしない。
可能性がある限り、慎重に調べ続ける。
それが、彼の選択だった。
◇ ◇ ◇
帰りの車内で、里奈は陽翔がいつもより静かなことに気づいた。
陽翔は電動車椅子に座り、福祉車両の窓を流れていく街並みを眺めていた。
午後になって空は曇り、窓ガラスには雨粒がいくつか付着していた。
「マンションのこと、考えてる?」
里奈が尋ねた。
陽翔はうなずいた。
「うん」
里奈は続きを待った。
陽翔は少し考えた。
「本当に気に入ってるんだ」
「知ってるよ」
彼は里奈を見た。
「たぶん、それが問題なんだよね」
里奈はかすかに微笑んだ。
「手に入らないかもしれないから?」
「うん」
陽翔は窓へ目を戻した。
「どんな部屋になるのか、つい想像しちゃうんだ」
少し間を置く。
「本棚とか、パソコンとか。まともなランプも欲しいな」
里奈がうなずいた。
「それから、ソファ?」
陽翔はにやりと笑った。
「当然」
里奈も微笑んだ。
陽翔はため息をついた。
「でも、実現しないかもしれないものに、あんまり愛着を持ちたくないんだよ」
里奈は少し考えた。
「想像しなかったら、手に入らなかったときに楽になると思う?」
陽翔は彼女を見た。
質問について考える。
そして、小さく笑った。
「たぶん、ならないね」
里奈は微笑んだ。
陽翔は再び窓の外を眺めた。
「ただ、がっかりしたくないんだと思う」
里奈がうなずく。
「それはわかるよ」
陽翔は少し考えた。
それから、かすかに微笑んだ。
「でも、うまくいかないかもしれないって理由で、何も挑戦しない人生も嫌なんだ」
里奈が彼を見た。
陽翔はにやりと笑った。
「どうやら、僕は哲学者になりつつあるらしい」
里奈は笑った。
「そうみたいね」
陽翔も微笑んだ。
そして、もう一度街へ目を向けた。
横浜のことを思い出す。
あの旅行には、たくさんの準備が必要だった。
問題も起きた。
予定どおりにいかないこともあった。
それでも、楽しかった。
もしかすると、このマンションも同じなのかもしれない。
もちろん、規模も、結果がもたらす影響も違う。
けれど、不確かだからといって、努力する価値がなくなるわけではない。
挑戦することはできる。
そして、この部屋がだめだったとしても、探し続ければいい。
自分の家を持ちたいという願いが、それで間違いになるわけではないのだから。
◇ ◇ ◇
水野葵は、陽翔からのメッセージを楽しみにしている自分に気づくようになっていた。
それを単なる好奇心だと説明することは、日に日に難しくなっていた。
特に、何でもない日常の中で、その気持ちは強く現れた。
何か劇的な出来事があったときではない。
悲しんでいるときでも、寂しいときでもない。
仕事と帰宅の間にある、静かな時間だった。
電車を待っているとき。
夕食後にお茶を飲んでいるとき。
書店の前を通りかかったとき。
何かおかしなものを見つけると、陽翔なら何と言うだろう、と真っ先に考えてしまう。
SF映画の広告。
どうしようもなく趣味の悪い装飾ランプ。
まるで手の込んだ脅迫文のような題名の小説。
スマートフォンを取り出す前から、葵は笑顔になっていた。
それは心地よかった。
そして、怖くもあった。
陽翔が何か悪いことをしたからではない。
誰かの反応を中心に自分の感情を組み立てるようになることが、どんな感覚だったかを覚えているからだ。
拓海との交際では、愛情が少しずつ義務の体系へと変わっていった。
返信が遅れれば、無視していると責められた。
相談せずに予定を立てれば、説明を要求された。
自分と関係のないことで葵が楽しそうにしていると、それを侮辱されたかのように受け取ることさえあった。
葵は、彼の機嫌を予測するようになった。
言葉を選び直すようになった。
自分が何を悪くしたのか理解する前に、謝るようになった。
そして、交際が終わり、ストーカー事件の捜査が続いている今も、その癖の一部は残っていた。
陽翔が拓海とは違うことはわかっている。
彼は葵の時間とプライバシーを尊重してくれた。
返信が遅くても、説明を要求しない。
看護師としての仕事を邪魔だとは思わない。
自分の介助を葵に任せようともしない。
頭では理解していた。
けれど、それだけで昔の恐怖を簡単に消し去れるわけではなかった。
そんな思いを抱えたまま、葵は水曜日の朝を迎えた。
◇ ◇ ◇
その日の訪問先は、上田真理子という女性だった。
六十代前半の彼女は、継続的な支援が必要な慢性疾患を抱えており、最近になって自宅で受ける支援を増やしはじめていた。
葵は西原智子に同行し、予定されていた訪問看護を行うことになっていた。
真理子のマンションは小さいながらも明るかった。
窓辺には鉢植えが並び、部屋の隅ではテレビが小さな音量でついている。
二人の子供が写った額入り写真が、包み紙にくるまれた菓子を入れた陶器の器のそばに飾られていた。
真理子は温かく二人を迎えた。
そして、すぐに部屋が散らかっていることを謝った。
智子は微笑んだ。
「上田さん、私たちはお部屋の掃除具合を調べに来たんじゃありませんよ」
真理子は笑った。
「みんな、そう言ってくれるんですけどねえ」
葵も微笑んだ。
二人は予定されていた状態の確認と看護ケアを進めた。
真理子は協力的で、おしゃべり好きだった。自分の病状についても、長年さまざまなことを自分で管理してきた様子がうかがえた。
しかし、追加の支援について話が及ぶと、その表情が変わった。
「人に頼りきりになるのは嫌なんです」
智子が彼女を見た。
「そのことで、何がいちばん心配ですか?」
真理子はためらった。
それから、窓へ目を向けた。
「娘が、もう十分すぎるほどいろいろしてくれているんです」
葵は黙って耳を傾けた。
真理子は続けた。
「仕事帰りに寄ってくれて、買い物もしてくれるし、毎晩電話もくれるんです」
ため息をつく。
「それなのに、今度はもっと支援を受けたほうがいいって、みんな言うんですよ」
智子はうなずいた。
「いろいろ考えてしまいますよね」
真理子は彼女を見た。
「娘を縛りつけたくないんです」
葵は胸が締めつけられるのを感じた。
真理子は続けた。
「あの子はまだ若いんです。自分の人生があるんですから」
少し間を置く。
「いつか私のことを恨むようになったらと思うと……」
智子は慎重に耳を傾けた。
そして、真理子がどのような支援なら受け入れられそうかを尋ねた。
適切な専門職の支援を利用することと、家族だけにすべてを任せることの違いについて話し合った。
智子は、現時点で確認できる範囲の選択肢を説明し、実際に変更する場合は関係者との調整と本人の同意が必要だと強調した。
真理子の不安が、その場で消えることはなかった。
追加のサービスに突然前向きになったわけでもない。
それでも、担当のケアコーディネーターと可能性について話し合うことには同意した。
帰り支度をしていると、真理子が葵を見た。
「助けてほしいと思うのって、わがままでしょうか?」
葵は考えた。
質問は単純だった。
けれど、そこには長年の恐怖が込められていた。
彼女は優しく微笑んだ。
「いいえ」
真理子が顔を上げた。
葵は続けた。
「誰かに助けてほしいと思うことと、自分のことは自分で決めたいと思うことは、両立できると思います」
智子もうなずいた。
真理子は考え込んだ。
そして、かすかに微笑んだ。
「そうかもしれませんね」
二人は挨拶をして部屋をあとにした。
外の空気は涼しかった。
葵は智子と並んで駅へ向かった。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
やがて智子が彼女を見た。
「何か考え事?」
葵はかすかに微笑んだ。
「上田さんのことです」
智子がうなずいた。
「ええ」
葵は少し考えた。
「誰かの助けが必要になることで、その人を失ってしまうんじゃないかって怖がっているように見えました」
智子は通りへ目を向けた。
「珍しい不安ではないわね」
葵はうなずいた。
陽翔のことを考えた。
マンション。
介助体制。
友人を家に招くことを、誰にも特別扱いされたくないと話していたこと。
そして、自分自身のことも考えた。
誰かに感情的に依存することへの恐怖。
親密さと義務を混同してしまう癖。
葵は寂しそうに微笑んだ。
「人を必要とすることにも、いろんな怖さがあるんですね」
智子が彼女を見た。
「そうね」
葵は少し考えた。
それから尋ねた。
「誰かに頼ることが健全なのかどうかって、どうすればわかるんでしょう?」
智子はしばらく黙っていた。
そして、かすかに微笑んだ。
「一つの正解があるわけじゃないと思う」
葵はうなずいた。
智子は続けた。
「でも、お互いが自分で選べる関係であることは、大切なんじゃないかしら」
少し間を置く。
「支えることが、相手を支配することにならない関係」
葵は彼女を見た。
智子は微笑んだ。
「それから、『嫌だ』と言っただけで、関係そのものが壊れてしまわないこと」
葵は唾を飲み込んだ。
その言葉は、一日中彼女の心に残った。
◇ ◇ ◇
その夜、美香がキッチンのテーブルに座る葵を見つけたとき、彼女はスマートフォンを眺めていた。
画面には陽翔からのメッセージが表示されていた。
陽翔:マンションの調査、終わったよ。
葵:どうだった?
陽翔:希望はある。問題もある。そして、僕の経済状況に対して少々失礼だった。
葵は笑ってしまった。
それから、二人はマンションについて話していた。
公園が見える窓。
机を置けそうな場所。
欲しいと思っているソファ。
そして、介助に必要な設備を整えながら、部屋全体が治療室のようにならないようにする難しさ。
葵は話を聞いていた。
看護師としての助言を始めないよう、気をつけていた。
これは陽翔自身の住まいについての決断だ。
彼の介助チーム。
彼の未来。
葵が関心を持っているのは、友人だからだった。
そして、彼が何を大切にしているのか知りたかったからだ。
美香が彼女のそばにお茶を置いた。
「笑ってるね」
葵はまばたきをした。
「え?」
美香がにやりとする。
「また」
葵はため息をついた。
「美香」
「何?」
「お願いだから、やめて」
美香は笑った。
「はいはい」
彼女は向かいの席に座った。
しばらく、二人は黙ってお茶を飲んでいた。
やがて、葵が口を開いた。
「私、あの人のこと、好きになりはじめてるのかもしれない」
美香が顔を上げた。
すぐには笑わなかった。
代わりに、友人の表情をじっと見つめた。
「そっか」
葵は緊張したように笑った。
「それだけ?」
美香は肩をすくめた。
「ほかに何て言えばいいの?」
葵は考えた。
「わからないけど」
美香は微笑んだ。
「嬉しい?」
葵はためらった。
「嬉しいときもある」
美香がうなずいた。
「じゃあ、それ以外のときは?」
葵はスマートフォンへ目を向けた。
「怖い」
美香の表情が和らいだ。
葵は続けた。
「陽翔くんが拓海とは違うって、わかってるの」
少し間を置く。
「でも、また同じ間違いをするんじゃないかって、ずっと不安で」
美香は黙って聞いていた。
葵はうつむいた。
「もう、恋愛の中で自分を見失いたくない」
美香は少し考えた。
「だったら、見失わなければいいんだよ」
葵は彼女を見た。
美香は優しく微笑んだ。
「言うほど簡単じゃないのは、わかってる」
少し間を置く。
「でも、誰かを好きになったからって、自分の人生の主導権まで渡さなきゃいけないわけじゃないでしょ?」
葵は唾を飲み込んだ。
美香は続けた。
「陽翔くんと話すのを楽しんでいいんだよ」
彼女は微笑んだ。
「一緒に出かけたっていい」
葵はうなずいた。
「それでも、自分の仕事も、友達も、自分で決める権利も、そのまま持っていていいんだから」
美香はスマートフォンへ目を向けた。
「彼がそれを尊重してくれるなら、いいことじゃない」
少し間を置く。
「もし尊重してくれないなら、そのときは大事なことがわかったってことだよ」
葵は考えた。
そして、かすかに微笑んだ。
「腹が立つくらい、まともなこと言うね」
美香はにやりと笑った。
「私の最悪な長所の一つだから」
二人は笑った。
やがて、葵は考え込んだ。
「それに、私は以前、彼の看護師だったから」
美香はうなずいた。
「知ってる」
葵は続けた。
「千里さんとも話したし、仕事とは完全に切り離してる。でも、やっぱり慎重にならなきゃいけない」
美香は微笑んだ。
「だったら、慎重になればいいんだよ」
葵が彼女を見る。
美香は続けた。
「好きだからって、急ぐ必要はないんだから」
葵はうなずいた。
「それに、まだ何かを始める準備ができていないからって、好きじゃないふりをする必要もないでしょ?」
葵は微笑んだ。
しばらく、窓の外へ目を向けた。
夕空はすっかり暗くなっていた。
写真展のことを考える。
陽翔とまた午後を一緒に過ごせるかもしれないこと。
写真について話したとき、彼が真剣に耳を傾けてくれたこと。
葵はかすかに微笑んだ。
「やっぱり、行きたいな」
美香が眉を上げた。
「写真展?」
葵はうなずいた。
美香は微笑んだ。
「じゃあ、行けばいいじゃない」
葵は小さく笑った。
「そんなに簡単?」
美香は考えた。
「まあ、簡単じゃないけどね」
二人は笑った。
「でも、そこから始めればいいんじゃない?」
◇ ◇ ◇
陽翔の次の仕事上の問題は、朗報の姿をしてやってきた。
清水陸から、三件目のアクセシビリティテストについて進捗報告が届いたのだ。
開発チームは、陽翔が報告した操作上の問題に対応するため、修正案を実装したという。
メッセージには変更内容の説明と、テスト環境へのアクセス情報が添えられていた。
陽翔は嬉しかった。
この問題は、もう少し調査に時間がかかると思っていたからだ。
すでに修正候補が完成しているということは、自分の報告が役に立ったということでもある。
彼はテスト環境を開いた。
そして、以前の問題を再現するために行った操作を、もう一度試しはじめた。
最初の結果は、期待できるものだった。
通常のキーボード操作では、画面の動作が以前より予測しやすくなっていた。
操作対象を示すフォーカスも、より自然な順番で移動する。
送信に失敗したあとのエラー概要にも、以前より簡単にアクセスできるようになっているようだった。
陽翔は微笑んだ。
「おや」
仕事用の姿勢を整えるのを手伝っていた里奈が、彼を見た。
「いい知らせ?」
「かもしれない」
里奈は笑った。
「お気に入りの言葉ね」
陽翔はにやりとした。
「どうやらそうみたい」
彼はテストを続けた。
自分用に調整された入力方法を使い、追加の入力項目が表示されるカテゴリーを選択する。
ページが更新された。
新しい項目が表示される。
陽翔は、その項目を順番に操作しようとした。
フォーカスが移動した。
しかし、途中から期待したとおりに動かなくなった。
もう一度試す。
同じ問題が起きた。
陽翔は眉をひそめた。
「ああ……」
再びテストを行った。
そして、結果を記録する。
今回の修正によって、一つの操作経路は改善されていた。
しかし、自分の補助入力方法で遭遇する問題は、完全には解決していなかった。
陽翔は実装に関する説明を読み直した。
それから、エラー発生時の動作も試した。
こちらも改善されていた。
けれど、操作感にはまだ一貫性がなかった。
陽翔はため息をついた。
「惜しい」
画面を見つめる。
「本当に惜しいなあ」
彼は追加の報告書を書きはじめた。
改善された部分を説明する。
残っている問題を特定する。
使用した設定を正確に記録する。
そして、自分の調査結果が、実際に試した操作方法に基づくものであることを明確にした。
今回の変更が無意味だったとは書かなかった。
すべての利用者にとって成功したとも断言しなかった。
その区別は重要だった。
開発チームは確かに前進している。
しかし、陽翔の環境では、まだ安定して作業を完了できない。
彼は、その両方を理解してほしかった。
やがて陸が短い打ち合わせを設定した。
陽翔はテスト結果を説明した。
開発担当の千田直樹も参加していた。
直樹は、陽翔が残っている問題について説明するのを注意深く聞いていた。
「つまり、フォーカスの順番は改善したけれど、動的に追加される入力項目には、まだ今の入力方法だとアクセスしづらいということですね?」
陽翔はうなずいた。
「そのとおりです」
直樹は考えた。
「参考になります」
陽翔はかすかに微笑んだ。
「直りましたって報告したかったんですけどね」
直樹が笑った。
「僕たちも、それを期待していました」
陸も微笑んだ。
陽翔は続けた。
「でも、今回の変更で確実によくなった部分はあります。それはちゃんと伝えておきたいんです」
少し間を置く。
「ただ、僕の環境では、まだ安定して最後まで操作できません」
直樹はうなずいた。
「わかりました」
三人は考えられる原因について話し合った。
陽翔はテスト方法についての質問に答え、観察した動作を説明した。
内部の実装方法まで知っているふりはしなかった。
直樹は、さらに調査すると約束した。
そこで、陸が別の話題を持ち出した。
「次の修正が入ったあと、もう一度テストをお願いするかもしれません」
陽翔はうなずいた。
「わかりました」
陸は続けた。
「その場合、最初の契約範囲からは外れる可能性があります」
陽翔は契約に関するメモへ目を向けた。
この可能性は予想していた。
改訂後の契約書には、作業範囲と追加テストを依頼する際の手順が明確に記載されていた。
陽翔は微笑んだ。
「でしたら、作業範囲と報酬について、改めて相談する必要がありますね」
陸はすぐにうなずいた。
「はい」
陽翔は小さな安堵を覚えた。
そして続けた。
「興味はあります。でも、何をテストしてほしいのか、どれくらいの時間を想定しているのか、先に確認したいです」
陸は微笑んだ。
「もちろんです」
直樹もうなずいた。
「もっともだと思います」
陽翔は少し考えた。
「よかった」
追加のテストが必要になった場合には、陸が書面で依頼内容を送ることになった。
この打ち合わせで、新たな仕事が正式に発注されたわけではない。
追加の報酬が保証されたわけでもない。
それでも、話し合いは専門的で、明確で、互いを尊重したものだった。
通話が終わると、陽翔はしばらく静かに座っていた。
三件目の契約について交渉したとき、どれほど緊張していたかを思い出した。
質問をすれば、面倒な人間だと思われるのではないかと恐れていた。
けれど今、その質問のおかげで曖昧な状況を避けることができていた。
陽翔は微笑んだ。
「なるほど」
美咲の写真へ目を向ける。
「どうやら、面倒くさい人間になるのも、立派な職業技能らしいよ」
◇ ◇ ◇
写真展が開催されたのは、土曜日の午後だった。
会場は商店街の近くにある小さな文化センターで、展示は二つの階に分かれていた。廊下は広く、エレベーターもあり、一階にはカフェも併設されている。
陽翔は事前に会場へ問い合わせていた。
段差のない入口。
エレベーターの利用。
バリアフリートイレ。
そして、電動車椅子で展示室を十分に移動できるかどうか。
写真の展示位置や高さについても確認した。
スタッフによれば、大部分の作品は座った姿勢からでも見やすい高さに展示されているものの、一部の解説文は読みづらい可能性があるという。
陽翔は、その正直な説明をありがたく思った。
外出に必要な交通手段と介助の手配も済ませていた。
里奈は、取り決められた勤務時間の中で同行する。
葵は、個人的な外出として参加する。
看護の仕事ではない。
医療記録を利用することもない。
陽翔の身体介助を葵が引き受けることも想定されていない。
二人は、一緒に時間を過ごしたいから会うのだ。
陽翔は、それだけで十分な理由だと思っていた。
葵は小さなショルダーバッグを持ち、クリーム色のカーディガンの下に淡い青色のブラウスを着て現れた。
髪は肩のあたりに柔らかく下ろしている。
陽翔はすぐに気づいた。
そして、気づいたことが顔に出ないようにしようとした。
残念ながら、彼の表情筋はあまり協力的ではなかった。
葵は彼を見つけると微笑んだ。
「やっほー」
陽翔はにやりと笑った。
「早いね」
葵が笑った。
「陽翔くんもでしょ」
彼はうなずいた。
「僕は時間厳守を信条としているからね」
葵が眉を上げる。
「いつから?」
「およそ三分前から」
彼女は吹き出した。
里奈も微笑んだ。
葵は展示室の入口へ目を向けた。
「準備はいい?」
陽翔はにやりとした。
「案内を頼むよ」
二人は中へ入った。
◇ ◇ ◇
最初の展示室は、都市の風景をテーマにしていた。
壁には数多くの写真が並んでいる。
高層ビルや人混みを大きく写し出し、壁の一角を埋め尽くすほど巨大な作品もあれば、近づいて細部を観察したくなるような小さな作品もあった。
夜明けの駅のホーム。
雨上がりの細い路地。
洗濯物でいっぱいのマンションのベランダ。
誰もいない公園。
水たまりに映るネオン。
そして、普段なら見過ごしてしまう街角が、特別な光によって別の表情を見せている写真。
葵はゆっくりと展示室を進んだ。
完全に夢中になっているようだった。
陽翔は彼女を見ていた。
葵は、複雑な文章を読み解くような真剣さで、一枚一枚の写真を眺めている。
ときには顔を近づける。
ときには数歩下がる。
そして時折、陽翔が気づかなかった何かを見つけて微笑んだ。
陽翔は、展示そのものと同じくらい、彼女の反応を楽しんでいる自分に気づいた。
ある写真の前で、葵が立ち止まった。
夕暮れの細い通りを写した作品だった。
一台の自転車が壁に立てかけられている。
小さなレストランの窓からは、温かな光が漏れていた。
建物の向こうでは、空が紫色に変わりはじめている。
葵は微笑んだ。
「これ、すごく好き」
陽翔は写真を見つめた。
「本当に?」
葵はうなずいた。
「うん」
彼は考えた。
「どうして?」
葵は写真へ目を向けた。
「光かな」
陽翔は微笑んだ。
「やっぱり」
葵が笑った。
「いや、本当に」
彼女はレストランの窓を指し示した。
「外はどんどん暗くなっていくのに、ここだけ小さな温かい場所になってるでしょ?」
陽翔はもう一度写真を見た。
今度は、その対比が目に入った。
静かな通り。
明かりのついた窓。
中で誰かが夕食を準備しているような気配。
彼はかすかに微笑んだ。
「入ってみたくなる場所だね」
葵がうなずいた。
「そう、それ!」
陽翔は考えた。
そして、にやりと笑う。
「料理がまずくなければ、だけど」
葵は吹き出した。
「陽翔くん!」
「何?」
「お願いだから」
陽翔は微笑んだ。
「言ってるだけだよ。照明がきれいだからって、料理がおいしいとは限らないでしょ?」
葵は笑った。
「ほんと、どうしようもないね」
彼はうなずいた。
「よく言われる」
二人は先へ進んだ。
別の写真の前で、今度は陽翔が立ち止まった。
混雑した駅を写した作品だった。
人々はぼやけた光の筋のようになって、画面の中を行き交っている。
その中央近くに、一人の老人がベンチに座っていた。
彼だけが、まったく動いていない。
印象的な写真だった。
周囲の人々の動きによって、座っている老人だけが時間から切り離されているように見える。
陽翔はじっと眺めた。
葵が彼を見た。
「どう思う?」
陽翔は少し考えた。
「寂しい」
葵は首をかしげた。
「そう?」
彼はうなずいた。
「みんな動いてるのに、この人だけ座ってるから」
葵は写真へ目を向けた。
「私は、穏やかな感じがしたな」
陽翔が眉を上げる。
「穏やか?」
「うん」
葵はうなずいた。
「この人だけ、急いでないみたいで」
陽翔は考えた。
もう一度写真を見る。
老人の表情は、はっきりとは読み取れなかった。
疲れていたのかもしれない。
誰かを待っていたのかもしれない。
休んでいたのかもしれない。
あるいは、ただ周囲の世界を眺めていただけなのかもしれない。
陽翔はかすかに微笑んだ。
「面白いね」
葵が彼を見た。
「何が?」
「同じ写真を見てるのに」
彼は少し間を置いた。
「僕たち、まったく違う物語を見てるんだね」
葵は微笑んだ。
「写真のそういうところが好きなんだ」
陽翔はうなずいた。
再び作品を見つめる。
「両方なのかもしれないね」
葵が彼を見た。
「寂しくて、穏やか?」
陽翔は微笑んだ。
「うん」
葵は考えた。
そして、うなずいた。
「そうかもしれない」
しばらく、二人は写真の前で静かに過ごした。
画面の中の人混みは、永遠にぼやけたままだった。
老人は、ずっと座っている。
そして、どちらの解釈も、完全に間違っているとは思えなかった。
◇ ◇ ◇
その午後を変えることになった写真は、二つ目の展示室の終わり近くに飾られていた。
特別大きな作品ではなかった。
簡素な額縁に収められた、控えめな大きさの写真だった。
写っているのは、早朝の台所。
流し台の上にある窓から、日差しが差し込んでいる。
黄色い布巾が、戸棚の取っ手に掛けられていた。
テーブルには皿と、飲みかけのお茶が入ったカップ、それから果物を盛った小さな器が置かれている。
写真の中に、人の姿はなかった。
それでも、誰かが暮らしている気配があった。
つい先ほどまで、誰かがそこにいた。
そして、今にも戻ってきそうだった。
陽翔は立ち止まった。
葵はすぐに気づいた。
「陽翔くん?」
彼は答えなかった。
黄色い布巾を見つめていた。
ほんの小さなものだった。
ありふれた一枚の布。
けれど、その色が母のジャケットを思い出させた。
スカーフ。
母が好きだった花。
そして突然、何年も前の朝の記憶がよみがえった。
台所に立つ美咲。
カウンターに差し込む日差し。
皿に盛られたパンケーキ。
無造作に結ばれた髪。
朝食を小さく切りすぎだと陽翔が文句を言ったとき、母が笑った声。
コーヒーの香り。
食器の触れ合う音。
そして、自分の居場所がそこにあるという、慣れ親しんだ温かさ。
陽翔の喉が締めつけられた。
葵は彼を見守っていた。
何も言わなかった。
しばらくして、陽翔が口を開いた。
「母さん、よく黄色い服を着てたんだ」
葵は写真を見た。
それから、彼に目を戻す。
「そうなんだ?」
陽翔はうなずいた。
「いつもって言っていいくらい」
かすかな笑みが浮かんだ。
「ジャケットを持っててさ」
少し間を置く。
「あと、スカーフも」
葵は黙って聞いていた。
陽翔は写真を見た。
「あの布巾を見てたら、母さんを思い出したんだ」
葵の表情が和らいだ。
陽翔は小さく笑った。
「変だよね」
葵は首を振った。
「ううん」
陽翔が彼女を見る。
葵は優しく微笑んだ。
「変じゃないよ」
陽翔は唾を飲み込んだ。
そして、もう一度写真へ目を向けた。
「不思議だな」
少し間を置く。
「母さんの写真なら、ちゃんと持ってるんだ」
寂しそうに微笑む。
「本物の写真がね」
葵はうなずいた。
「でも、時々こういうものを見たときのほうが、母さんのことを鮮明に思い出すんだ」
陽翔は黄色い布巾を見つめた。
「顔じゃなくて」
「ただ……」
言葉を探す。
「昔の朝が、どんな感じだったかってことを」
葵は静かに聞いていた。
陽翔は続けた。
「母さんが台所で朝ご飯を作ってて」
彼は微笑んだ。
「それで、何かに文句を言ってるんだ」
葵が小さく笑った。
陽翔はにやりとした。
「大抵は僕にね」
葵も微笑んだ。
陽翔は再び写真を見た。
「そういうのが、恋しいんだ」
単純な言葉だった。
冗談に変えようとはしなかった。
葵は彼を見た。
「うん」
陽翔は唾を飲み込んだ。
そして、かすかに微笑んだ。
「葵にも、母さんに会ってほしかったな」
葵の表情が柔らかくなった。
二人が初めて個人的に話したとき、自分も同じことを言ったのを覚えていた。
「私も、会ってみたかった」
陽翔は彼女を見た。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
やがて葵が写真へ目を向けた。
「私には何が見えるか、話してもいい?」
陽翔はうなずいた。
「もちろん」
葵は台所の写真を見つめた。
「光かな」
陽翔はかすかに微笑んだ。
「やっぱり」
葵は小さく笑った。
それから続けた。
「誰かが、ちょっと席を外しただけみたいに見えるの」
陽翔は写真を見た。
葵はお茶のカップを指し示した。
「まるで、その人が戻ってくるのを部屋が待ってるみたい」
陽翔は唾を飲み込んだ。
写真を見つめる。
一瞬、その考えが胸に刺さった。
けれど、やがて何かが変わった。
彼は少し考えた。
「うん」
葵が彼を見た。
陽翔は寂しそうに微笑んだ。
「時々、まさにそんな感じがするんだ」
葵はうなずいた。
陽翔は黄色い布巾を見た。
「母さんが、ただ別の部屋にいるみたいで」
声が小さくなる。
「ずっと待っていれば、戻ってくるんじゃないかって」
葵は耳を傾けていた。
陽翔は息を吸った。
そして、かすかに微笑んだ。
「でも、戻ってこない」
葵の目の奥が熱くなった。
陽翔は彼女を見た。
「それは、わかってるんだ」
葵はうなずいた。
彼は再び写真へ目を向けた。
「たぶん、僕は何でもない日常が恋しいんだと思う」
葵は優しく微笑んだ。
「何でもない日常って、大切だよ」
陽翔は彼女を見た。
葵は続けた。
「私たちが思ってる以上にね」
陽翔は微笑んだ。
「うん」
二人はしばらく、その場所にいた。
誰も急かさなかった。
先へ進もうとも言わなかった。
里奈は近くで必要なときに対応できるようにしながら、二人が話せる距離を保っていた。
写真は静かに壁に掛かっていた。
台所。
黄色い布巾。
お茶のカップ。
二人の知らない誰かの朝。
そして、どういうわけか、その写真は陽翔が母を思い出せる場所になっていた。
◇ ◇ ◇
そのあと、二人はカフェへ向かった。
カフェからは、小さな中庭が見渡せた。四角いプランターには若い木々が植えられている。
午後の日差しは柔らかくなっていた。
葵はコーヒーを注文した。
陽翔は紅茶と焼き菓子を選び、必要な介助は里奈が行った。
会話は軽い話題から始まった。
どの写真がいちばん気取っていたか、という議論だ。
陽翔は、『都市の記憶の不在』という題名の、ほとんど何も写っていない写真について、手の込んだ悪ふざけだと言い張った。
葵は作品を擁護した。
ただし、陽翔によれば、その擁護はあまりにも下手だった。
「空虚さを表現してるんだよ」
葵は主張した。
陽翔が眉を上げる。
「白い壁だよ?」
葵は笑った。
「そこが重要なんじゃないってば」
「じゃあ、何が重要なの?」
葵は考えた。
陽翔はにやりとした。
「ほらね」
彼女は吹き出した。
「ほんと、ひどい」
陽翔はうなずいた。
「ありがとう」
二人は笑った。
やがて、会話は少し静かになった。
葵は中庭へ目を向けた。
「一つ聞いてもいい?」
陽翔が眉を上げる。
「場合によるね」
葵は微笑んだ。
「何によるの?」
「ひっかけ問題かどうか」
葵は笑った。
「違うよ」
陽翔はにやりとした。
「じゃあ、どうぞ」
葵は少し考えた。
「幸せなときに、罪悪感を覚えることってある?」
陽翔の笑みが少し薄れた。
彼は葵を見た。
「あるよ」
葵はうなずいた。
陽翔は考えた。
「でも、昔ほどじゃないかな」
葵はかすかに微笑んだ。
陽翔は中庭を見た。
「母さんが亡くなったあと、幸せになることは、母さんを忘れることなんじゃないかって思ってたんだ」
少し間を置く。
「毎日ずっと悲しんでいなきゃいけないみたいにね」
葵は黙って聞いていた。
陽翔は続けた。
「でも、そのあと、いろんなことを始めた」
かすかに微笑む。
「仕事とか、旅行とか、人と会うこととか」
彼は葵を見た。
「それで、母さんが恋しいままでも、自分の人生を楽しんでいいんだって気づいたんだ」
葵は唾を飲み込んだ。
陽翔は考えた。
「どうして?」
葵はコーヒーへ目を落とした。
しばらく、ためらった。
それから口を開いた。
「私も、似たような問題を抱えてる気がするから」
陽翔は続きを待った。
葵は中庭を見た。
「悲しみとは、ちょっと違うんだけど」
少し間を置く。
「自分が幸せになってもいいのかなって、思っちゃうの」
彼は黙って聞いていた。
葵は続けた。
「長い間、何か悪いことが起きるんじゃないかって、そればかり考えてた」
陽翔はうなずいた。
「うん」
葵は彼を見た。
「今でも、何かを楽しんでる自分に気づいた途端、本当に楽しんでいいのかなって考えちゃうことがあるの」
陽翔は少し考えた。
「拓海のこと?」
葵はためらった。
そして、うなずいた。
「それもある」
陽翔は詳しく聞かなかった。
葵は、それがありがたかった。
彼女は続けた。
「気をつけていないと幸せは奪われるものだって、思う癖がついちゃったんだと思う」
陽翔の表情が和らいだ。
彼は少し考えた。
そして言った。
「それ、疲れそうだね」
葵は小さく笑った。
「疲れるよ」
陽翔はうなずいた。
葵は彼を見た。
「でも、変わりたいと思ってる」
陽翔は微笑んだ。
「いいことだね」
葵は考えた。
そして尋ねた。
「人って、そんなに変われるものなのかな?」
陽翔は中庭へ目を向けた。
自分自身のことを考えた。
病院。
美咲が亡くなってからの数か月。
慣れない家。
最初の仕事の契約。
マンション。
横浜。
そして、目の前に座る女性。
彼はかすかに微笑んだ。
「人は、学べると思うよ」
葵は彼を見た。
陽翔は続けた。
「一度に全部は無理かもしれない」
少し間を置く。
「完璧にもなれないかもしれない」
彼は微笑んだ。
「でも、少しずつ上手になれることはあると思う」
葵は考えた。
そして、うなずいた。
「そうなれたらいいな」
陽翔はにやりとした。
「素晴らしい」
葵が眉を上げる。
「何?」
「哲学的な合意に達したね」
葵は笑った。
「そうなの?」
陽翔は厳粛にうなずいた。
「非常に危険なことだ」
彼女は吹き出した。
◇ ◇ ◇
会話はそのあとも続いた。
写真。
仕事。
本。
そして、かつて思い描いていたものとは違う人生を築いていくという、不思議な経験について。
あるとき、葵はマンションのことを尋ねた。
陽翔は調査の内容を説明した。
必要になるかもしれない改修。
まだわからないこと。
そして、借りられるかどうかもわからない部屋に、自分の家具を置いた光景を想像しはじめていること。
葵は耳を傾けた。
それから、自分の家を持つことで、いちばん実現したいことは何かと尋ねた。
陽翔は考えた。
自立。
プライバシー。
自分で生活を決めること。
どれも本当だった。
けれど、少し考えたあと、彼は微笑んだ。
「人を家に招きたいんだ」
葵は彼を見た。
陽翔は続けた。
「友達とか」
少し間を置く。
「一緒に夕食を食べたり」
にやりとする。
「ひどい映画を観たりね」
葵は笑った。
「やっぱり」
陽翔は微笑んだ。
「みんなが来たいと思える場所にしたいんだ」
葵は考えた。
そして、優しく微笑んだ。
「素敵だね」
陽翔はうなずいた。
「うん」
葵は中庭へ目を向けた。
それから、彼を見る。
「陽翔くんなら、いいホストになれそう」
陽翔はにやりとした。
「当然」
葵は笑った。
「謙虚さも満点だね」
「僕の最大の長所の一つだから」
二人は微笑み合った。
そのとき、葵はふと、そのマンションにいる自分を想像した。
小さなリビング。
本。
公園の景色。
誰かが映画の選択に文句を言う横で、陽翔がくだらない冗談を飛ばしている。
葵はかすかに微笑んだ。
心地よい想像だった。
そして、思いがけないほど親密なものでもあった。
そのことは、まだ口にしなかった。
今は、まだ。
◇ ◇ ◇
午後が終わるころ、空は金色に染まりはじめていた。
陽翔と葵は文化センターの入口へ戻った。
里奈は陽翔の帰りの移動について確認していた。
葵は展示会のパンフレットを手に、彼のそばに立っていた。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
やがて、葵が微笑んだ。
「楽しかった」
陽翔はにやりとした。
「白い壁があったのに?」
葵は吹き出した。
「白い壁があったのに」
彼はうなずいた。
「素晴らしい」
葵は彼を見た。
「来てよかった」
陽翔は微笑んだ。
「僕も」
少し間を置く。
「誘ってくれてありがとう」
葵はうなずいた。
「どういたしまして」
しばらく、二人は見つめ合った。
葵の胸には、いつもの温かさが広がっていた。
あまり深く考えないようにしてきた、あの感覚。
彼が好きだった。
話を聞いてくれるところ。
自分の意見に反論しても、馬鹿にされたとは感じさせないところ。
くだらない冗談から、突然真剣な会話に移れるところ。
そして、葵がありのままの自分でいることを、自然に受け入れてくれるところ。
彼女は微笑んだ。
陽翔が気づいた。
「何?」
葵はまばたきをした。
「何でもない」
陽翔が眉を上げる。
「怪しいな」
葵は笑った。
「陽翔くんのほうが怪しいよ」
彼はにやりとした。
「職業柄ね」
二人は微笑み合った。
やがて、葵は通りへ目を向けた。
「そろそろ行かなきゃ」
陽翔はうなずいた。
「うん」
葵はためらった。
それから言った。
「また今度、どこか行こうね」
陽翔は微笑んだ。
「ぜひ」
葵はうなずいた。
「よかった」
陽翔はにやりとした。
「次は僕が選ぶよ」
葵は笑った。
「心配したほうがいい?」
「ものすごく」
葵は首を振った。
「楽しみだなあ」
二人は別れの挨拶を交わした。
告白はなかった。
キスもなかった。
突然の約束もなかった。
ただ、お互いに、また一緒に午後を過ごしたいと思っている。
そんな静かな理解だけがあった。
今は、それで十分だった。
◇ ◇ ◇
その夜、陽翔は仕事の記録を開いた。
マンションの調査。
ミライ・インターフェース・ソリューションズのテスト報告書。
京都旅行の計画。
人生の中で重要な決断をするたびに、増え続けていくように思える質問の数々。
彼はマンションの寸法を確認した。
それから、内見時に撮影した写真を開く。
公園が見える窓。
寝室。
リビング。
ソファを置きたいと思っている、何もない空間。
陽翔はかすかに微笑んだ。
あの部屋が欲しかった。
手に入らないかもしれないと思うだけで胸が痛むほど、欲しかった。
けれど、その恐怖に決断を任せるつもりはなかった。
調査結果を待つ。
費用についての情報を待つ。
スタッフの確保について確認する。
そして、所有者の返事を待つ。
そのあとで決めるのだ。
陽翔はパソコンへ目を向けた。
陸からメールが届いていた。
開発チームは、フォームの操作上の問題について、次の修正案を準備しているという。
追加のテストが必要になれば、陸が書面で依頼を送ってくれることになっていた。
陽翔は微笑んだ。
その明確さがありがたかった。
自分で努力して、手に入れたものだった。
それから、メッセージを開いた。
葵から写真が届いていた。
黄色い布巾のある台所の写真に関するものだった。
葵が撮影したのは作品そのものではなく、展示されていた作品の解説カードだった。あとから調べられるよう、作品名と写真家の名前がわかるようにしてくれていた。
葵:これ、覚えておきたいかなと思って。
陽翔は画面を見つめた。
胸が締めつけられた。
かすかに微笑む。
陽翔:ありがとう。
少し間を置く。
それから、付け加えた。
陽翔:本当に嬉しい。
葵から返事が届いた。
葵:よかった。
陽翔は美咲の写真へ目を向けた。
黄色いジャケット。
母の笑顔。
生まれてからずっと愛してきた、見慣れた顔。
そして、もう一度メッセージを見る。
彼は微笑んだ。
陽翔:ちなみに、白い壁については、やっぱり葵が間違ってると思う。
葵はそれを読んで吹き出した。
葵:やっぱり蒸し返すと思った。
陽翔はにやりとした。
陽翔:当然。
葵は微笑んだ。
そして、文字を打った。
葵:おやすみ、陽翔くん。
彼は画面を見た。
しばらく、ただ微笑んでいた。
それから返信する。
陽翔:おやすみ、葵。
◇ ◇ ◇
葵はスマートフォンをベッドのそばに置いた。
窓へ目を向ける。
外の街は静かだった。
建物の向こうのどこかでは、電車が今も東京の街を走り続けている。
人々を家へ、職場へ、そして葵の知らない目的地へと運んでいた。
彼女は写真展のことを考えた。
数々の作品。
台所。
黄色い布巾。
母について語っていたときの陽翔の姿。
何でもない日常が恋しいと言ったときの表情。
そして、幸せになることがまだ怖いと打ち明けたとき、彼が耳を傾けてくれたこと。
葵はかすかに微笑んだ。
少しずつ、あることを理解しはじめていた。
陽翔は、自分が救ってあげたい相手ではなかった。
病院から持ち帰ってしまった責任でもなかった。
勇気の象徴でもなかった。
一人の人間だった。
面白くて。
思慮深くて。
時々、腹が立つほどふざけていて。
本とひどい映画を愛している。
母を恋しく思っている。
自分の家と仕事、そして日常の選択を自分で行う自由を望んでいる。
そして、一緒にいると葵を幸せな気持ちにしてくれる人だった。
葵はスマートフォンへ目を向けた。
一瞬、もう一度会話を開こうかと思った。
けれど、やめた。
今夜は、これ以上メッセージを送る必要はない。
午後は楽しかった。
陽翔も楽しんでくれた。
それだけで十分だと思っていいのだ。
葵は明かりを消した。
そして、暗闇の中で微笑んだ。
久しぶりに、誰かを好きになるという可能性が、完全な脅威には感じられなかった。
不確かで。
複雑で。
少し怖い。
けれど、温かくもあった。
それは、きっと前進なのだろう。
◇ ◇ ◇
眠る前、陽翔は手紙を保存しているフォルダを開いた。
そして、新しい文書を作成した。
母さんへ。
今日は写真展に行ってきたよ。
葵と一緒に。
陽翔は一度、手を止めた。
そして、にやりと笑った。
そう。また葵とだよ。
どうやら、僕は文化的な青年になってしまったらしい。
少し考える。
笑わないでよ。
陽翔は微笑んだ。
たくさんの写真を見たんだ。
きれいなものもあった。
意味がわからないものもあった。
ほとんど白い壁みたいな写真もあったよ。
彼は小さく笑った。
あれが芸術だという意見には、今も納得していない。
やがて、表情が静かになった。
でも、台所の写真があったんだ。
黄色い布巾。
お茶のカップ。
窓から差し込む日差し。
少し間を置く。
母さんを思い出したよ。
陽翔は美咲の写真へ目を向けた。
僕たちの台所にそっくりだったからじゃない。
全然違ったんだ。
でも、どこか懐かしかった。
陽翔は唾を飲み込んだ。
母さんと過ごした朝を思い出した。
パンケーキ。
コーヒー。
食器について文句を言ってた母さん。
寂しそうに微笑む。
あの朝が恋しいよ。
少し間を置く。
何でもない日常が恋しいんだ。
しばらく、続きを書けなかった。
やがて、息を吸った。
葵は、わかってくれた気がする。
かすかに微笑む。
無理に元気づけようとはしなかった。
ただ、話を聞いてくれたんだ。
少し考える。
葵のそういうところが好きだよ。
それから、マンションのことを考えた。
公園が見える窓。
不確かな未来。
手に入らないかもしれない可能性。
陽翔は文字を打った。
また、あのマンションを見に行ってきたよ。
うまくいくかもしれない。
でも、まだ確認しなきゃいけないことがたくさんある。
少し間を置く。
あの部屋が欲しい。
本当に欲しいんだ。
でも、自分に必要な生活を支えられないような契約を、焦って結ぶつもりはないよ。
彼はかすかに微笑んだ。
母さんなら、きっと褒めてくれると思う。
それから、仕事のことを考えた。
テスト。
開発担当者。
まだ残っている操作上の問題。
作業範囲と報酬についての話し合い。
陽翔は文字を打った。
仕事は順調だよ。
完璧じゃないけどね。
でも、いろいろ学んでる。
にやりと笑う。
どうやら、他人のウェブサイトが壊れていると指摘すると、お金をもらえるらしい。
なんて素晴らしい職業なんだろう。
陽翔は小さく笑った。
やがて、その表情が柔らかくなった。
葵のことを考えた。
写真展。
カフェ。
友人を自分の家に招きたいと話したとき、彼女が微笑んだこと。
文字を打つ。
思っていた以上に、葵のことが好きになってる気がする。
その一文を見つめた。
長い間、動かなかった。
それから、続きを書いた。
それがどういう意味なのか、まだわからない。
それに、急ぎたくないんだ。
少し間を置く。
でも、一緒にいるのが好きなんだよ。
葵が何を考えているのか、聞くのが好きだ。
僕とは違うものの見方をするところも好きなんだ。
陽翔は微笑んだ。
芸術について間違っているときでさえね。
それから、美咲の写真へ目を向けた。
母さんにも、葵に会ってほしかったな。
いつもの痛みが戻ってきた。
陽翔は唾を飲み込んだ。
それに、今の僕にも会ってほしい。
しばらく、画面を見つめた。
そして、かすかに微笑んだ。
きっと、気に入ってくれると思う。
少し間を置く。
相変わらず、とびきりの美男子だしね。
彼は小さく笑った。
でも、少しずついろんなことを学んでるんだ。
マンションのことを考えた。
仕事。
友情。
旅行の計画。
そして、メッセージが届くのを楽しみにしている女性。
陽翔は文字を打った。
最近、人生って、すべての扉が開くのを待つことじゃないんだと思うようになった。
自分からノックしなきゃいけないこともある。
質問しなきゃいけないこともある。
そして、ときには「だめです」って言われることもある。
少し間を置く。
でも、閉ざされた扉があったからって、そこで道が終わるわけじゃないんだね。
陽翔は微笑んだ。
そして、手紙を締めくくった。
愛を込めて。
プロのアクセシビリティ批評家、将来のマイホーム所有者、そして不本意ながら芸術愛好家になりつつある息子より。
陽翔。
文書を保存した。
そして、窓へ目を向けた。
外の庭は暗かった。
家の中は静かだった。
東京のどこかでは、葵が写真に囲まれて過ごした午後を思い出しながら、眠りにつこうとしていた。
陽翔は微笑んだ。
あのマンションが自分の家になるかどうかは、まだわからない。
京都旅行の準備に、どれほど時間がかかるのかもわからない。
今の仕事が終わったあと、ミライから新しい依頼が来るのかもわからない。
そして、葵との友情がこれからどうなるのかも、わからなかった。
けれど、不確かだからといって、今この瞬間の価値が失われるわけではないのだと、少しずつ理解しはじめていた。
写真展は美しかった。
交わした言葉は本物だった。
仕事には意味があった。
そして、あのマンションは、たとえ最終的に住むことができなかったとしても、自分自身の未来を想像するきっかけを与えてくれた。
陽翔は母の写真へ目を向けた。
「おやすみ、母さん」
声は静かだった。
それから、微笑んだ。
「それと、一応言っておくけど……」
少し間を置く。
「あの白い壁は、絶対に芸術じゃないからね」
外では、風が木の葉を揺らしていた。
街は、今も動き続けている。
そして、まだ閉ざされたままの扉と、少しずつ開きはじめた扉の間で、高橋陽翔は学びつつあった。
人生は、まだ完成していなくても、十分に愛する価値があるのだと。




