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第24章 まだ見ぬ旅路が朝の光に集う場所

横浜に朝が訪れた。

誰の許しを求めることもなく、朝日は半透明の長い帯となって港へと忍び寄り、まず水面に触れ、それから海沿いに立ち並ぶガラス張りの高層ビルをゆっくりと照らしていった。窓という窓が淡い蜂蜜色の光を帯び、はるか下の航路では、一隻の船が行き先などとうに決まっているとでもいうように、悠然と進んでいた。

埠頭の上ではカモメが旋回し、その鳴き声が時折ホテルの上層階まで届いてくる。ここまで高くなると、街のざわめきは個々の通りから聞こえる音というより、遠くに広がる海のさざめきに似ていた。

高橋陽翔は、そんな見慣れない光と音の中で目を覚ました。

最初の数秒間、自分がどこにいるのかわからなかった。

天井が違う。

空気には、いつもの木製家具用の艶出し剤や由紀が淹れる朝のお茶の香りではなく、ホテルの洗剤の匂いがかすかに漂っている。カーテンの色も違えば、部屋の外からは、どこかの扉が静かに閉まる鈍い音が聞こえてきた。

そこで、窓が目に入った。

そして、思い出した。

「ああ……」

寝起きのせいで、声が少しかすれていた。

陽翔は港のほうを見つめた。

やがて、笑みを浮かべる。

「ああ、そうだった」

ここは横浜だ。

昨夜はホテルに泊まったのだ。

病院ではない。

緊急避難のための宿泊施設でもない。

ホテルだ。

必要な機器も、移動手段も、介助体制も整えたうえで、自分が行きたいと思ったから、ここまで来た。

その事実が、陽翔の胸を不思議な満足感で満たしていく。

山を征服したわけでも、海を渡ったわけでもない。東京からそれほど遠くない街まで移動し、帰ったあとには誰かが掃除してくれる部屋で一晩眠っただけだ。

それでも、この朝はここ数か月に経験したどの朝とも違っていた。

自分で決めたことの先にある朝だった。

「おはようございます、陛下」

声のしたほうへ目を向ける。

小さなテーブルのそばには、しわの寄ったシャツを着て、紙コップのコーヒーを手にした大地が立っていた。

陽翔はまばたきをした。

「起きてたんだ」

「実に鋭い観察だな」

「悲劇だね」

叔父は笑った。

「よく眠れたか?」

陽翔は少し考えた。

「結構よく眠れたよ」

「本当に?」

「うん。高級ホテルに誘拐されたと思って目が覚めたことを除けばね」

大地がにやりと笑う。

「そりゃ恐ろしいな」

「まったくだよ。飾り用のクッションまで置いてあるんだから」

叔父は声を上げて笑い、窓辺へ近づいた。

「いい朝だな」

陽翔もその視線を追った。

澄み渡った空の下に港が広がり、遠くの建物まで繊細な模型のようにはっきりと見えていた。

「うん」

大地はコーヒーをひと口飲んだ。

「朝飯、食べに行くか?」

陽翔は笑顔になった。

「もちろん」

「だと思った」

もっとも、朝食を食べたいと思うことと、実際に階下へ行ける準備が整うことの間には、かなりの距離があった。

そのことは、誰よりも陽翔自身がよく知っていた。

朝の身支度には、体位の調整、清潔ケア、着替え、移乗など、自分一人では行えない動作への介助が必要だった。自宅なら機器の配置も部屋の構造も慣れている。介助者も物品の置き場所や、少しでも快適に過ごすための細かな調整を把握していた。

ここでは、あらゆるものを事前に測定し、計画してきた。

しかし、計画だけですべてを予測できるわけではない。

ホテルの部屋は、さっそく最初の教訓を与えてくれることになった。

夜間介助を担当した坂本恵美弥は、事前に契約した事業所から、取り決められた時間帯に派遣されていた。経験豊富な介助スタッフで、陽翔のケア情報を確認し、旅行前の引き継ぎにも参加していた。

夜間は決められた計画に従って介助を行い、大きな問題もなく過ごすことができた。

緊急事態も、機器の故障も、旅行を中止しなければならないような出来事も起きなかった。

ただ、慣れない部屋にはいくつかの不便があった。

最初に置かれた収納バッグが、ベッドの片側へのアクセスを妨げていたこと。

コンセントの位置の関係で、就寝前に機器の配置を調整する必要があったこと。

そして、自宅なら当たり前のように進む手順でも、ここでは介助者が位置や配置を一つずつ確認しなければならず、普段より時間がかかったこと。

どれも危険な問題ではなかった。

無理な介助をすることなく解決できていた。

それでも、京都への長期旅行を計画する前に確認しておきたいのは、まさにこういう細部だった。

そして、朝の引き継ぎのために里奈が到着すると、次の問題が明らかになった。

浴室である。

ホテルからは寸法を提供してもらっていた。

写真もあった。

バリアフリー設備についての説明もあった。

車椅子を利用する宿泊客が過去に使用した実績があることも確認していた。

どれも役には立っていた。

残念ながら、その浴室には写真だけでは伝わらない、ある特殊な才能が備わっていた。

人と機器が実際に入ると、使える空間が見た目よりずっと狭くなるのである。

陽翔は車椅子から浴室の入口を眺めた。

それから里奈を見る。

「なるほどね」

里奈がかすかに笑った。

「何が?」

「新しい数学の分野を発見したみたいだ」

恵美弥が陽翔へ視線を向ける。

「どうやら、一つの部屋が同時に広くも狭くもなれるらしい」

近くに立っていた大地が吹き出した。

里奈は浴室の配置を確認した。

問題は、陽翔の車椅子が浴室に入れるかどうかだけではなかった。

入ること自体はできる。

問題は、実際の介助手順に必要な機器とスタッフを、適切な位置に配置できるかどうかだった。

固定された設備の一つが、寸法から想像していた以上に動作空間を占めていた。

そのため、予定していた方法では、一部の介助を行うための十分な作業スペースが確保できなかった。

里奈と恵美弥は陽翔を交えて状況を話し合った。

旅行前に検討していた代替手段を確認する。

誰も、危険な方法で人力による移乗を強行しようとはしなかったし、不適切な位置に機器を無理やり押し込もうともしなかった。

代わりに、既定のケア計画の範囲内で、どの手順なら安全に実施できるか、どの部分を変更する必要があるかを検討した。

陽翔は説明を聞いていた。

そして、機器の配置について質問した。

里奈が答える。

少し考えてから、陽翔は口を開いた。

「車椅子をもう少し後ろに下げたら、スペースは足りる?」

里奈は確認した。

「その手順には足りないかな」

「そっか」

そこで恵美弥が、緊急時の対応計画に含まれていた代替の配置を提案した。

里奈はその方法を陽翔と確認した。

陽翔は同意した。

時間は余計にかかるし、便利とは言えない。

それでも、必要な介助の内容を損なうことなく、安全に実施できる方法だった。

「わかった。それでいこう」

里奈が微笑んだ。

「うん」

大地はプライバシーに配慮して部屋の外へ出た。

二人のスタッフは陽翔と声を掛け合いながら、姿勢や快適さを確認し、慎重に介助を進めていった。

劇的な危機は起こらなかった。

奇跡のような解決策も現れなかった。

ただ、慣れない環境を一人の人間の実際の必要に合わせて調整する、地道な作業があっただけだった。

朝の身支度がすべて終わるころには、陽翔はもう浴室のことなど考えたくなくなっていた。

そして、腹も減っていた。

建築というものに、少々腹を立ててもいた。

大地が戻ってくると、陽翔は叔父を見た。

「決めたよ」

「何を?」

「浴室について」

大地は続きを待った。

「あいつは僕たちを裏切った」

叔父は大笑いした。

「そりゃ残念だったな」

陽翔は厳粛な顔でうなずいた。

「信じてたのに」

物品を片づけていた里奈も笑った。

陽翔は微笑んだあと、少し真剣な表情になった。

「今のこと、記録しておける?」

里奈がうなずく。

「もちろん」

陽翔は恵美弥へ目を向けた。

「特に、あの設備の周りのスペース。寸法だけじゃわからなかったから」

恵美弥も同意した。

三人は実際に起きた問題、安全に行えた調整、追加で必要になった時間、そして今後の宿泊施設に確認すべき項目を記録した。

陽翔は、その内容を京都旅行の計画書にも追加してほしいと頼んだ。

帰宅後には恵子にも確認してもらうつもりだった。

不便な経験だった。

けれど、そこから得られたものもある。

情報だ。

そして陽翔は、安心させるための言葉より、具体的な情報のほうが役に立つこともあると知り始めていた。

◇ ◇ ◇

朝食は、海沿いの景色を望めるレストランで提供されていた。

陽翔と大地、里奈が到着したころには、店内には食器の触れ合う柔らかな音と静かな会話が満ち、コーヒーやできたての料理の香りが漂っていた。

大きな窓から朝日が差し込んでいる。

陽翔は車椅子で利用しやすく、里奈が無理なく介助できるスペースのある席を選んだ。

大地はメニューを眺めていた。

「おっ」

陽翔が眉を上げる。

「何?」

「パンケーキがあるぞ」

陽翔は笑った。

「そりゃあるでしょ」

叔父がにやりとする。

「食べるか?」

陽翔は少し考えた。

「それは場合によるね」

「何が?」

「朝食に対する犯罪行為をしていないかどうか」

大地が笑った。

「聞いてみるか」

「ぜひお願い」

注文を済ませると、里奈は陽翔の希望に合わせて食事を介助した。食べる順番もペースも陽翔が決め、その間、大地は朝食ビュッフェを心ゆくまで堪能していた。

しばらくして、叔父が恐ろしいほど大量の料理を盛った皿を持って戻ってきた。

陽翔は目を丸くした。

「大地おじさん」

「ん?」

「それ、全部食べるつもり?」

大地は自分の皿を見下ろした。

「たぶんな」

陽翔は首を振った。

「嘆かわしい」

叔父が笑う。

「羨ましいんだろ?」

「近い将来起こる消化器系の大惨事を? まさか」

里奈も微笑んだ。

やがて、パンケーキが運ばれてきた。

陽翔はじっくりと観察した。

そして、うなずく。

「合格」

大地が眉を上げた。

「ずいぶんな高評価だな」

「調子に乗らないでよ」

里奈に食事を手伝ってもらいながら、陽翔は窓の外へ目を向けた。

港は先ほどよりも明るくなっていた。

水面には陽光が散り、昨夜は灯籠のように輝いていた建物が、朝空の下ではくっきりとした日常の姿を見せている。

美咲のことを思い出した。

母はホテルの朝食が大好きだった。

料理が特別に素晴らしいからというわけではない。

知らない場所で、誰かが用意してくれた食事を楽しむという、ささやかな非日常が好きだったのだ。

メニューを必要以上に真剣な顔で眺めていたこと。

コーヒーの値段に文句を言っていたこと。

旅行中だけは昼前にデザートを食べても許される、と言い張っていたこと。

陽翔は微笑んだ。

「母さん、ここ気に入っただろうな」

大地がこちらを見た。

「パンケーキか?」

陽翔は小さく笑った。

「全部だよ」

叔父はうなずいた。

「そうだな」

陽翔は海を見つめた。

「旅行先の朝が好きだったんだ」

大地もかすかに微笑んだ。

「ああ、好きだったな」

ほんの一瞬、母が隣に座っている姿を想像できた。

椅子に掛けられた黄色いジャケット。

少し乱れた髪。

両手に持ったコーヒーカップ。

母はその日の予定を眺めながら、もう一か所くらい観光地を回れないかと考えているに違いない。

そして、陽翔が自分を見ていることに気づくと、じろじろ見ていないで朝ご飯を食べなさい、と言うのだ。

陽翔は小さく笑った。

大地が気づく。

「どうした?」

「何でもない」

そう答えてから、陽翔は考え直した。

「いや、母さんがいつも旅行の予定を立ててたことを思い出してたんだ」

叔父がうなずく。

「上手だったな」

「うん」

陽翔はテーブルへ目を落とした。

「でも、時々、旅行を楽しむのを忘れてた気がする」

大地は少し考えた。

「そういうこともあったな」

陽翔は寂しそうに微笑んだ。

「僕が困らないようにって、ずっと気を張ってたから」

叔父は黙って耳を傾けた。

「もっとゆっくりしてほしかったな」

大地は港を見たあと、甥へ視線を戻した。

「美咲は、お前と旅行するのが楽しかったんだよ、陽翔」

少し間を置く。

「心配していたときだってな」

陽翔は唾を飲み込んだ。

「わかってる」

大地は微笑んだ。

「でも、あいつも喜ぶと思うぞ。お前が美咲の心配を全部背負い込まずに、旅行を楽しめるようになったって知ったら」

陽翔はその言葉を考えた。

そして、うなずいた。

「うん」

窓の外へ目を向ける。

陽光の下で、水面がきらめいていた。

陽翔はかすかに笑った。

「僕も、そう思う」

◇ ◇ ◇

午前も遅くなるころには、海沿いの遊歩道は多くの人で賑わっていた。

家族連れが歩道を散策し、恋人たちは立ち止まって写真を撮っている。子供たちは疲れ切った親たちに見守られながら追いかけっこをし、観光客は港の近くに集まって船や遠くの建物を指差していた。

誰もが、自分たちの休日を思い出に残るものにしようとしているようだった。

陽翔はその光景が好きだった。

人々の声も。

絶えず動き続ける街も。

潮の香りも。

舗装された道を温める日差しも。

何より、いつもとは違う場所にいることが嬉しかった。

里奈は取り決められた介助時間に従って同行し、大地は小さなバッグを持って隣を歩いていた。

三人は事前にバリアフリー状況を確認したルートを進んだ。休憩の時間も十分に取り、できるだけ多くの観光地を回ろうとして疲れ果てるような計画は避けていた。

陽翔は広い道を電動車椅子で進んだ。

時折、立ち止まって海を眺める。

一隻の船がゆっくりと港を横切っていた。

輝く水面を背景に、その黒っぽい船体がくっきりと浮かび上がっている。

陽翔は微笑んだ。

「いいね」

大地もうなずく。

「ああ」

陽翔は叔父を見た。

「写真撮ってくれる?」

大地がスマートフォンを持ち上げた。

「船のか?」

「港の景色」

「わかった」

大地は何枚か撮影した。

あとで陽翔が確認してみると、一枚は傾いていた。

もう一枚には、大地の指が画面の大部分を占めていた。

三枚目は、まあまあよく撮れていた。

陽翔は画面をじっと見つめた。

「なるほど」

大地が眉を上げる。

「何だ?」

「三枚中一枚か」

叔父は笑った。

「悪くないだろ?」

陽翔はうなずいた。

「芸術的才能が皆無な人にしてはね」

「どうもありがとう」

「どういたしまして」

三人は再び進み始めた。

海沿いの一角で、陽翔は港の風景をスケッチしている人たちに気づいた。

折りたたみ椅子に座って水彩画を描く人。

イーゼルの横に立つ人。

陽翔は速度を落とした。

一人の画家の筆が紙の上を動くのを眺める。

青。

灰色。

そして、細い金色の線。

曖昧な形の集まりから、少しずつ港の風景が現れていく。

陽翔は笑顔になった。

「すごいな」

大地も画家へ目を向けた。

「そうだな」

陽翔はもう少しだけ眺めていた。

そして、葵のことを思い出した。

彼女の写真。

書店の窓。

何でもない場所を記憶に残しておきたいと話していたこと。

陽翔はかすかに微笑んだ。

葵なら、ここで何を撮るだろう。

きっと、自分が気づかなかった何かだ。

反射する光。

影。

古びた手すり。

大きな景色の中に埋もれてしまいそうな、小さなもの。

彼女のそういうところが好きだった。

他の人が見落としてしまうような細部に、興味を持つのだ。

そして最近、陽翔は何かを見つけるたびに、葵にも見せたいと思うようになっていた。

彼女に認めてもらいたいからではない。

彼女ならそれをどう見るのだろう、と想像するのが楽しかったからだ。

◇ ◇ ◇

葵が写真を受け取ったのは、昼食の少し前だった。

地域訪問看護の忙しい一週間を終えた彼女は、休日を美香のアパートで過ごしていた。

スマートフォンが震える。

メッセージを開くと、一枚の写真が画面いっぱいに表示された。

鮮やかな青空の下に広がる横浜の海辺。

水面には日差しがきらめき、遠くには一隻の船が見える。

陽翔:見よ。我が帝国を。

葵は吹き出した。

葵:素晴らしいですね、陛下。

陽翔:ありがとう。現地の住民たちも驚くほど協力的だ。

葵は笑みを浮かべた。

そして、もう一度写真を見る。

美しい景色だった。

けれど、彼女の胸を動かしたのは風景だけではない。

陽翔がこの旅行について話していたことを思い出した。

準備。

介助の手配。

鉄道の運行トラブル。

ホテル。

知らない場所で朝を迎えることへの期待。

この旅が彼にとって重要な意味を持つことを、葵は理解していた。

誰よりも遠くへ行ったからではない。

自分で行くことを選んだからだ。

葵は文字を打った。

葵:素敵な写真だね。

すぐに返事が来た。

陽翔:叔父さんが撮ったんだ。

葵:上手に撮れたって伝えて。

陽翔:彼を調子に乗らせるわけにはいかない。

葵は声を上げて笑った。

それから、ふと手を止める。

自分が撮った写真に目を向けた。

書店の窓。

仕事帰りに撮影した街並み。

小さな神社の近くにある細い路地。古い木の門に陽光が差し込んでいた。

その写真を開く。

何でもない風景だった。

静かな通り。

壁に立てかけられた自転車。

鉢植えの並ぶ一角を照らす日差し。

葵はその写真が好きだった。

陽翔へ送信する。

葵:今度は私の番。これ、私が撮った写真。

陽翔は写真を開いた。

じっくりと眺める。

しばらく返事をしなかった。

葵は画面を見つめた。

気に入らなかったのだろうか。

退屈すぎただろうか。

冗談でも送ろうかと思った。

けれど、やめた。

以前、返信が遅れたときのことについて二人で話したのを思い出したのだ。

彼がすぐに返事をする義務などない。

沈黙が必ずしも悪い意味を持つわけでもない。

一分ほどして、メッセージが届いた。

陽翔:これ、好きだな。

葵は微笑んだ。

葵:本当に?

陽翔:うん。

少し間が空く。

陽翔:静かで落ち着く感じがする。

葵は写真へ目を向けた。

葵:だから撮ったんだ。

陽翔は少し考え、文字を打った。

陽翔:面白いね。

葵:何が?

陽翔:葵って、ほとんどの人が気にも留めないような場所を撮るよね。

葵は微笑んだ。

葵:そうかも。

続けてメッセージが届いた。

陽翔:それって、いいことだと思う。

葵は画面を見つめた。

陽翔:そういう場所まで、大切なものに見えてくるから。

葵の表情が柔らかくなった。

書店で、自分が彼に似たようなことを話したのを思い出した。

覚えていてくれたのだ。

葵:ありがとう。

陽翔は港へ目を向けた。

そして、文字を打つ。

陽翔:葵にとって、忘れたくない場所ってどんな場所?

葵は考え込んだ。

一見簡単そうで、意外と難しい質問だった。

拓海と出会う前に写真を撮っていた通り。

彼が嫌がるからという理由で、行かなくなった場所。

かつて何時間も読書を楽しんでいたカフェ。

以前のアパートから病院までの、慣れ親しんだ道。

そして、美香の家へ移ってから再び歩くようになった、新しい場所。

葵は文字を打った。

葵:そこにいたとき、自分がどう感じたか、かな。

陽翔はその言葉を読んだ。

続けてメッセージが届く。

葵:特別きれいな場所じゃなくても、そのときの気持ちがずっと残ってることってあるでしょ。

陽翔は微笑んだ。

陽翔:うん。

葵は少し迷った。

それから、付け加えた。

葵:私、楽しいことを楽しんでもいいんだって、長い間忘れてた気がする。

陽翔の笑みが薄れた。

少し考えてから、返信する。

陽翔:わかる気がする。

葵は画面を見つめた。

陽翔:しばらくの間、いい日があるたびに罪悪感があったんだ。

葵は慎重に読み進めた。

陽翔:母さんがいなくなったんだから、ずっと悲しんでなきゃいけないような気がして。

葵は唾を飲み込んだ。

陽翔:でも、母さんはそんなこと望まないと思う。

彼女はかすかに微笑んだ。

葵:うん。

陽翔は海を見つめた。

そして、打ち込んだ。

陽翔:母さん、この旅行を気に入ったと思う。

葵は返信した。

葵:今まで聞いた話からすると、陽翔くんが旅行を楽しんでる姿を見たら、きっとすごく喜んだと思うよ。

陽翔は画面を見つめた。

微笑む。

陽翔:ありがとう。

葵は写真を眺めた。

港のそばにいる陽翔の姿を想像する。

叔父と笑い合い、写真の出来栄えについて言い争い、何週間もかけて計画した朝を楽しんでいる姿。

彼が楽しめたことを、心から嬉しく思った。

けれど、その喜びの奥には別の感情もあった。

もっと静かで。

もっと個人的なもの。

自分もそこにいたかった。

介助するためではない。

見守るためでもない。

彼には自分が必要だと思っているからでもない。

ただ、一緒に港を見たかった。

彼の冗談を聞きたかった。

彼が何かおかしなものを指差す横を、一緒に歩きたかった。

そのことに気づいて、葵は少し驚いた。

窓の外へ目を向ける。

そして、かすかに微笑んだ。

まだ、この気持ちに名前をつける準備はできていなかった。

それでも、少しずつ自覚し始めていた。

◇ ◇ ◇

旅行の最初の大きな教訓は、疲労というものが観光への意欲など尊重してくれないと、陽翔が思い知らされたときに訪れた。

三人は海沿いで楽しい午前を過ごした。

天気は素晴らしかった。

移動ルートにも大きな問題はなかった。

港には興味深いものがたくさんあり、陽翔はその気になれば何時間でもそこにいたかった。

残念ながら、身体のほうは別の意見を持っていた。

午後の早い時間になると、少しずつ不快感が強くなってきた。

姿勢を調整する必要があった。

体力も落ちてきていた。

しかも、朝の身支度には予定以上の時間がかかっている。

里奈が気づいた。

「体調、どう?」

陽翔は考えた。

「大丈夫」

里奈は続きを待った。

陽翔はため息をつく。

「だいたいは」

大地がこちらを見た。

「そろそろ戻るか?」

陽翔は港へ目を向けた。

帰る前に、もう一か所寄りたいところがあった。

時間だけなら、まだある。

けれど、無理をすればどうなるかもわかっていた。

不快感が強くなる。

疲労が増す。

帰りの移動がつらくなる。

そして、夜まで苦しい思いをするかもしれない。

少し考えてから、陽翔はうなずいた。

「うん」

大地は微笑んだ。

「わかった」

陽翔は海を眺めた。

「残念だな」

里奈もうなずいた。

「そうだね」

陽翔はため息をついた。

「もっと見たかった」

大地は少し考えた。

「また来ればいいさ」

陽翔は叔父を見た。

大地は笑った。

「横浜がどこかへ行っちまうわけじゃないんだから」

陽翔は小さく笑った。

「ホテルについても同じこと言ってたよね」

「実際、そのとおりだっただろ?」

陽翔はにやりとした。

「残念ながらね」

三人は予定を変更した。

別の観光地へ向かう代わりにホテルへ戻り、出発に必要な準備を進めることにした。

残念ではあった。

けれど、それも自分で選んだことだった。

誰かに外出を切り上げるよう強制されたわけではない。

自分の限界を判断できない人間として扱われたわけでもない。

選択肢を考えた。

必要なことを理解した。

そして、帰ることを決めた。

ホテルへ戻る途中、陽翔は最後にもう一度港を眺めた。

午後の日差しが水面を輝かせていた。

かすかに微笑む。

すべてを見ることはできなかった。

やりたいことを全部できたわけでもなかった。

それでも、楽しかった。

それで十分なのかもしれない。

◇ ◇ ◇

帰りの道中は、行きよりも静かだった。

陽翔は疲れていた。

大地も妙におとなしくなっていた。おそらく、ホテルの朝食を食べすぎた報いを、ようやく受け始めたのだろう。

里奈は必要な介助と移動の手配を調整し、陽翔ができるだけ快適に帰宅できるようにしていた。

列車は東京へ向かって進んでいく。

窓の外の景色が変わった。

港が見えなくなる。

建物が密集し始める。

そして、見慣れた街の風景が少しずつ戻ってきた。

陽翔は窓の外を眺めていた。

ホテルのこと。

朝の光。

浴室の問題。

朝食。

海沿いの景色。

写真。

たった一泊のために、どれほど多くの準備が必要だったか。

そして、どれほど多くのことを学んだか。

陽翔はかすかに微笑んだ。

大地が気づいた。

「いい旅行だったか?」

陽翔はうなずいた。

「うん」

叔父はにやりとした。

「浴室の件があっても?」

陽翔はため息をついた。

「浴室の件があったからこそ、だよ」

大地が笑った。

「本当か?」

陽翔は考えた。

「いや、違うな」

叔父はさらに大笑いした。

「でも、役には立った」

大地はうなずいた。

「そうだな」

陽翔は窓へ目を向けた。

「京都に行く前に変えなきゃいけないことがわかったし」

「ああ」

「うまくいったことも確認できた」

大地は微笑んだ。

「そのとおりだ」

陽翔は少し考えてから、叔父を見た。

「一つ聞いてもいい?」

「もちろん」

陽翔はためらった。

「母さん、こういうこと全部、認めてくれたと思う?」

大地がこちらを見た。

「こういうことって?」

「僕が旅行すること」

少し間を置く。

「いつか家を出ようとしてること」

「仕事をすること」

陽翔は窓の外へ目を向けた。

「友達を作ること」

叔父はしばらく黙っていた。

それから、かすかに微笑んだ。

「心配はしただろうな」

陽翔は小さく笑った。

「だろうね」

大地は続けた。

「質問を千個くらいしてきただろう」

「最低でもね」

「それから、確認リストを三つくらい余計に作っただろうな」

陽翔はにやりとした。

「四つだよ」

大地が笑った。

「四つか」

やがて、その表情が柔らかくなる。

「でも、喜んだと思うぞ」

陽翔は叔父を見た。

「何もかも簡単だからじゃない」

大地は少し間を置いた。

「お前が、自分のやりたいことをやっているからだ」

陽翔は唾を飲み込んだ。

大地は流れていく街並みへ目を向けた。

「美咲は、お前にちゃんと人生を生きてほしかったんだよ、陽翔」

かすかに微笑む。

「ただ安全なだけの人生じゃなくてな」

陽翔は叔父を見つめた。

しばらく、言葉が出なかった。

やがて窓へ目を向ける。

建物がぼやけた帯となって流れていく。

美咲のことを考えた。

黄色いジャケット。

笑い声。

終わりのない確認リスト。

不安。

そして、愛情。

母を心配させないために、自分の人生のどれほど多くの部分を費やしてきただろう。

母が亡くなったあと、その不安を自分自身のものにしてしまいそうになっていたことも思い出した。

陽翔は唾を飲み込んだ。

「うん」

大地は微笑んだ。

陽翔は叔父を見た。

「ありがとう」

大地がうなずく。

「いつでも言ってくれ」

しばらく、二人は黙って列車に揺られていた。

やがて、大地が再び口を開いた。

「それにさ」

陽翔が眉を上げる。

「何?」

「せっかくここまで来たのにパンケーキを食べなかったら、美咲は怒っただろうな」

陽翔は吹き出した。

「間違いないね」

叔父はにやりとした。

「ほらな。ちゃんと供養できたわけだ」

陽翔は笑った。

「朝食で?」

「最高の敬意の表し方だろ」

二人は笑い合った。

そして、列車は二人を家へと運んでいった。

◇ ◇ ◇

恵子からのメッセージが届いたのは、まだ移動中のことだった。

陽翔は自分用に調整された端末でメールを開いた。

件名は、二件目に内見したアパートについてだった。

陽翔は慎重に読み進めた。

物件の所有者から、改修に関する事前の質問への回答が届いたという。

一部の変更については検討の余地がある。

しかし、ほかの変更には追加の調査と正式な許可が必要だった。

そのアパートは、依然として候補の一つだった。

ただし、別の入居希望者も関心を示しているらしい。

所有者は、いつまでも物件を確保しておけるとは保証できないという。

陽翔はメッセージを見つめた。

楽しかった旅行の余韻が、一瞬にして慣れ親しんだ緊張感に置き換わった。

あのアパート。

公園が見える窓。

寝室。

適切な改修をすれば使えるかもしれない浴室。

自分だけの家を持てるかもしれないという可能性。

いつの間にか、そこで暮らす自分を想像するようになっていた。

もしかすると、少し期待しすぎていたのかもしれない。

しかし今、そこで生活できるかどうかを判断する前に、物件がほかの人のものになってしまう可能性が出てきた。

大地が表情の変化に気づいた。

「どうかしたか?」

陽翔は叔父を見た。

「恵子さんから連絡が来た」

大地は続きを待った。

陽翔は事情を説明した。

叔父は黙って聞いていた。

そして、うなずく。

「難しいところだな」

陽翔はため息をついた。

「うん」

メッセージへ目を落とす。

所有者が理不尽なことを言っているわけではない。

陽翔たちが介助体制を調べるために何週間も費やしている間、空室をほかの希望者に貸さずにおくことは難しいだろう。

それは理解できた。

だからといって、悔しくなくなるわけではない。

陽翔は少し考えた。

「恵子さんに、いつまで待ってもらえるか聞いてみようかな」

大地はうなずいた。

「それがいいと思う」

陽翔はかすかに微笑んだ。

返信を書き始める。

所有者が追加の調査を認めてくれるかどうか。

必要な改修について、原則として検討してもらえるかどうか。

そして、いつまで物件が空いている可能性があるのか。

さらに、適切な介助体制と費用の確保を確認する前に、賃貸契約を結ぶことはできないと明確に伝えたかった。

大地はその様子を見守っていた。

やがて、微笑む。

「いいな」

陽翔は叔父を見た。

「何が?」

「ちゃんと必要なことを聞けてる」

陽翔はため息をついた。

「どうやら、新しい趣味になったみたいだよ」

叔父が笑った。

陽翔はメッセージを送信した。

そして、窓の外を眺める。

列車は東京へ向かって進んでいた。

疲れていた。

少し落胆もしていた。

それでも、自分がどうしたいかはわかっていた。

可能性がある限り、あのアパートについて調べ続ける。

失うのが怖いという理由だけで、契約を急いだりはしない。

そして、もし物件がほかの人に決まってしまったら、また探せばいい。

そう考えると胸が痛んだ。

けれど、打ちのめされることはなかった。

ほかにもアパートはある。

ほかにも窓はある。

ほかにも、家になり得る場所はある。

あの部屋が欲しかった。

でも、あそこだけが人生で唯一開かれる扉だと思い込む必要はなかった。

◇ ◇ ◇

帰宅すると、由紀が待っていた。

玄関の近くに立つ彼女は笑顔を浮かべていたが、どれほど心配していたかは、その表情から隠しきれていなかった。

陽翔は電動車椅子でスロープを上がった。

「さて」

由紀が笑った。

「おかえり」

陽翔はにやりとした。

「お気に入りの甥っ子が帰還したよ」

由紀は微笑んだ。

「甥っ子はあなた一人だけだけどね」

「細かいことはいいんだよ」

大地が笑った。

由紀は近づいてきた。

「どうだった?」

陽翔は少し考えた。

「よかったよ」

「本当に?」

うなずく。

「本当に」

由紀は微笑んだ。

それから荷物へ目を向ける。

「何も問題なかった?」

陽翔は笑った。

「由紀おばさん」

彼女はため息をついた。

「わかってるわ」

陽翔はにやりとした。

「ちゃんと生還したよ」

由紀は微笑んだ。

「よかった」

そして里奈へ目を向ける。

「ありがとうございました」

里奈はうなずいた。

「いえいえ」

その日の夕方は、帰宅後の実務的な作業に費やされた。

荷物をほどく。

機器を点検し、いつもの配置に戻す。

必要な物品を片づける。

そして、陽翔の日常のケアが再開された。

陽翔はくたくただった。

それでも、幸せだった。

夕食後、由紀がリビングで隣に座った。

「聞かせて」

陽翔は微笑んだ。

「全部?」

由紀がうなずく。

「全部」

陽翔は笑った。

「長くなるよ?」

「時間ならあるわ」

だから、陽翔は話した。

ホテルのこと。

港のこと。

パンケーキのこと。

駅での運行トラブルのこと。

浴室のこと。

朝の日差しのこと。

そして、夜の街がどんなふうに見えたか。

由紀は耳を傾けた。

時折笑い、質問もした。

そして、陽翔が困難について話しても、それを次の旅行をやめさせる理由にはしなかった。

代わりに、何がわかったのかを尋ねた。

陽翔はその変化に気づいた。

微笑む。

「上手になってきたね」

由紀が眉を上げた。

「何が?」

「慌てないこと」

彼女は笑った。

「あんまり褒めないで」

陽翔はにやりとした。

「もちろん」

それから、恵子のメッセージについても話した。

アパート。

改修の可能性。

別の入居希望者。

由紀の表情が変わった。

「あら……」

陽翔はうなずいた。

「うん」

彼女は少し考えた。

「どうするつもり?」

陽翔は由紀を見た。

その質問に少し驚いた。

質問されたこと自体ではない。

由紀が先に答えを出そうとしなかったことに驚いたのだ。

陽翔は微笑んだ。

「恵子さんが何を調べてくれるか、待ってみる」

由紀はうなずいた。

「それから?」

陽翔は考えた。

「そのあと、さらに検討する価値があるか決めるよ」

由紀は彼を見つめた。

陽翔は続けた。

「でも、介助体制がちゃんと成り立つってわかるまでは、何も契約しない」

由紀はかすかに微笑んだ。

「それがいいわ」

陽翔はにやりとした。

「見てよ、僕を」

由紀が眉を上げる。

「何?」

「また責任感のある大人になっちゃった」

由紀は笑った。

「困った癖ね」

「まったくだよ」

二人は笑い合った。

しばらくして、陽翔は窓へ目を向けた。

庭は暗かった。

見慣れた家が自分を包んでいる。

帰ってこられて嬉しかった。

そして、ここを離れて旅行に行けたことも嬉しかった。

その二つの気持ちは、どちらも自分のものだった。

◇ ◇ ◇

数日後、恵子が旅行の振り返りのために訪ねてきた。

陽翔は詳細な報告書を用意していた。

感傷的な旅行日記ではない。

英雄的な宣言を並べたものでもない。

実務的な記録だった。

交通機関の運行トラブル。

代替ルート。

ホテルの部屋。

機器の配置。

夜間介助の引き継ぎ。

朝の浴室の問題。

追加で必要になった時間。

観光予定を短縮する原因となった疲労。

そして、うまく機能した手配について。

恵子は資料に目を通した。

それから微笑んだ。

「とても参考になりますね」

陽翔はにやりとした。

「プロの苦情係になっちゃいました」

恵子は笑った。

「どちらかというと、慎重な計画者ですね」

「そっちのほうが華がないなあ」

二人は学んだことを整理した。

京都旅行では、浴室全体の寸法だけでなく、実際に作業できる空間について、より詳しい確認が必要になる。

機器の配置、夜間スタッフの確保、予備の対応手段、移動による疲労、帰路で追加の休憩が必要になる可能性についても考慮しなければならない。

一泊旅行からは貴重な情報が得られた。

しかし、それだけで同じ手配による長期旅行が可能だと証明されたわけではない。

京都には京都の評価が必要だった。

陽翔は理解していた。

まだ手続きが複雑なことには落胆もあった。

それでも、前向きな気持ちになれた。

今回の予行旅行は、想定していた役割を果たしたのだ。

問題が緊急事態になる前に発見できた。

恵子は陽翔を見た。

「また旅行したいと思いますか?」

陽翔は少し考えた。

そして、微笑んだ。

「もちろんです」

恵子は笑った。

「あの浴室の件があっても?」

陽翔はため息をついた。

「あの浴室の件があったからこそ、ですよ」

恵子が眉を上げた。

陽翔はにやりとした。

「配管なんかに負けてたまるかって話です」

恵子は声を上げて笑った。

それから、アパートの話に移った。

恵子は追加の情報を入手していた。

所有者は、改修の可能性について限定的な調査を行うことには前向きだったが、まだ何の許可も出していなかった。

通常の賃貸手続きを進めない限り、物件を確保しておくことはできず、今後も空いているかどうかは不確かだった。

次の段階では、陽翔が判断するために必要な詳細調査を、十分早く完了できるかどうかを確認することになる。

恵子はさらに、介助スタッフの確保、費用、緊急時の対応体制についても未解決の問題があると強調した。

陽翔はうなずいた。

「わかってます」

恵子は彼を見た。

「このアパートについて、引き続き調べたいですか?」

陽翔は考えた。

公園のこと。

窓のこと。

木々を見下ろす机を置けるかもしれないこと。

それから、浴室のことを考えた。

夜間介助。

費用の問題。

信頼できる予備の支援体制。

一度、息をつく。

「はい」

恵子がうなずいた。

「でも、契約する前に必要な情報を全部確認できるなら、です」

彼女は微笑んだ。

「もちろんです」

陽翔は恵子を見た。

「もし確認できなかったら?」

恵子は少し考えた。

「そのときは、ほかの選択肢を一緒に検討しましょう」

陽翔はうなずいた。

「わかりました」

恵子は微笑んだ。

「妥当な進め方だと思います」

陽翔はにやりとした。

「ですよね」

そして、ため息をつく。

「僕、どうしようもないくらい大人になってきちゃいましたね」

恵子は笑った。

「大変なニュースですね」

「まったくです」

◇ ◇ ◇

その夜、葵から次のメッセージが届いた。

葵:帰ってきて最初の一日、どうだった?

陽翔は微笑んだ。

陽翔:疲れた。

葵:そんなに?

陽翔:どうやら休暇のあとには、休暇から回復するための時間が必要らしい。

葵は笑った。

葵:それ、わかる気がする。

陽翔はにやりとした。

陽翔:あと、自分のベッドはどんなホテルのベッドよりも優れていると判明した。

葵:世紀の大発見だね。

陽翔:論文を発表しようかと思ってる。

葵は微笑んだ。

そして、文字を打った。

葵:楽しい旅行になってよかった。

陽翔は画面を見つめた。

港のことを思い出した。

朝の日差し。

厄介な浴室。

帰りの列車。

アパートについての知らせ。

かすかに微笑む。

陽翔:僕もそう思う。

少し間を置いて、付け加えた。

陽翔:たぶん、僕には必要な旅行だったんだ。

葵はその言葉を読んだ。

少し考える。

葵:京都に行くため?

陽翔は微笑んだ。

陽翔:それもある。

少し間が空いた。

陽翔:でも、自分が行きたいからどこかへ行くって、どんな気分なのか知りたかったんだ。

葵の表情が柔らかくなった。

返信する。

葵:それで?

陽翔は窓へ目を向けた。

そして、文字を打った。

陽翔:思ってた以上に最高だったよ。

葵は微笑んだ。

しばらく、再び港の風景を想像した。

日差し。

船。

街並み。

陽翔から送られてきた写真が、どれほど楽しかったかを思い出す。

そして、彼の目を通してその場所を見てみたいと、どれほど強く思ったかも。

やがて、文字を打った。

葵:また今度、どこか一緒に行こうよ。

陽翔は画面を見つめた。

メッセージを読み直す。

そして、微笑んだ。

陽翔:一緒に?

葵は固まった。

画面を見つめる。

頬が熱くなった。

こんなに直接的に誘うつもりではなかった。

けれど、送ってしまった。

メッセージを削除しようかと考えた。

もう遅い。

陽翔はすでに読んでいた。

葵は息をついた。

そして、文字を打つ。

葵:その、陽翔くんがよければ、だけど。

少し間を置く。

葵:また本屋さんとか、そういうところに。

陽翔はにやりとした。

陽翔:また文学探検に誘ってくれてるの?

葵は笑った。

葵:そうかも。

陽翔は少し考えた。

そして、返信する。

陽翔:行きたいな。

葵は微笑んだ。

書店の窓の写真へ目を向ける。

そこで、あることを思い出した。

葵:そうだ。実は、ずっと見に行きたい写真展があるんだ。

陽翔の笑みが広がった。

陽翔:本当に?

葵:うん。街の風景とか、ストリート写真が中心の展示。

陽翔は考えた。

陽翔:ずいぶん文化的な香りがするね。

葵は笑った。

葵:陽翔くんの映画とは違ってね。

陽翔:ひどい。

葵は微笑んだ。

そして、文字を打つ。

葵:会場が利用しやすそうだったら、いつか一緒に行かない?

陽翔は画面を見つめた。

その言い方が嬉しかった。

彼女は勝手に決めつけていない。

介助を引き受けようとしているわけでもない。

ただ一つの活動を提案し、それに参加したいかどうかを自分で判断できるようにしてくれていた。

陽翔は微笑んだ。

陽翔:行きたい。

少し間を置く。

陽翔:バリアフリー状況を確認して、介助の手配をするよ。

葵は返信した。

葵:うん。急がなくて大丈夫だからね。

陽翔は考えた。

そして、にやりとする。

陽翔:よし。十七ページの旅程表を作ろう。

葵は吹き出した。

葵:お願いだからやめて。

陽翔:十八ページ?

葵:陽翔くん。

陽翔:挿絵付きで。

葵はさらに笑った。

会話は続いた。

候補の日程。

それぞれの予定。

写真展。

そして、鑑賞後に近くのカフェへ寄れるかどうか。

まだ予約はしていなかった。

日程も決まっていない。

二人とも、それを一緒に過ごす次の午後以上のものとは呼ばなかった。

それでも、陽翔の胸には静かな期待が生まれていた。

葵のほうから誘ってくれたのだ。

付き添う人が必要だからではない。

彼の安全や健康に責任があるからでもない。

ただ、彼と一緒に時間を過ごしたいと思ったから。

陽翔は微笑んだ。

その違いが自分にとってどれほど大きいか、簡単には説明できそうになかった。

◇ ◇ ◇

その夜遅く、葵は寝室の窓辺に座っていた。

外の街は静かだった。

美香はもう眠っている。

街灯の淡い光がカーテンを照らしていた。

葵は自分の写真を開いた。

書店の窓。

細い路地。

花々。

再び目を向けるようになった場所たち。

陽翔のことを考えた。

彼の冗談。

好奇心。

港の景色を説明してくれたときの様子。

難しい仕事に取り組むことを楽しんでいる姿。

そして、他人の選択を尊重しようとする細やかな気遣い。

葵はかすかに微笑んだ。

彼のことが好きだった。

その事実を否定するのは、少しずつ難しくなっていた。

けれど、誰かを好きになることと、恋愛関係を始める準備ができていることは別だった。

ましてや、二人の過去に関わる倫理的な問題が消えるわけでもない。

かつて、葵は彼の看護師だった。

陽翔は人生のつらい時期に、患者として彼女のケアを受けていた。

その事実は重要だった。

今後も専門職としての境界線を明確に保ち、彼の介助には関わらず、以前の立場が互いの理解に影響していないか注意を払う必要があった。

自分自身の安全も守らなければならない。

ストーカー事件の捜査は、まだ終わっていない。

プライバシーを守るための対策も、引き続き必要だった。

誰かに笑わせてもらったからといって、それらを放棄するつもりはなかった。

葵は書店の窓の写真へ目を向けた。

そして、微笑んだ。

今夜、何かを決める必要はないのかもしれない。

陽翔のことをもっと知っていく時間を楽しめばいい。

自分の仕事も続ければいい。

自分自身の人生を築くために、これからも努力すればいい。

そして、気持ちがもっとはっきりしたときに、正直に向き合えばいい。

今は、写真展が楽しみだった。

それだけで十分だった。

葵はスマートフォンをそばに置いた。

そして、窓の外を眺める。

夜は静かだった。

その静けさが、久しぶりに心地よく感じられた。

◇ ◇ ◇

寝る前、陽翔は手紙を保存しているフォルダを開いた。

夕方からずっと、旅行のことを考えていた。

写真。

ホテル。

朝。

会話。

実際に学んだこと。

新しい文書を作成する。

母さんへ。

横浜から無事に帰ってきたよ。

先に聞かれる前に言っておくけど、荷物は全部ちゃんと持っていったからね。

陽翔は微笑んだ。

まあ、ほとんどはほかの人に詰めてもらったんだけど。

でも、僕が監督したんだ。

少し間を置く。

とてもプロフェッショナルにね。

陽翔は小さく笑った。

そして、続きを書く。

ホテルはよかったよ。

景色もきれいだった。

浴室は裏切り者だったけど。

にやりとする。

母さんなら、この表現を気に入ってくれたと思う。

朝のことを思い出した。

見慣れない天井。

港を照らす日差し。

家ではない場所で目覚める感覚。

文字を打つ。

目が覚めたとき、一瞬だけ自分がどこにいるのかわからなかったんだ。

それから、海が見えた。

その瞬間、思い出したんだ。

少し間を置く。

たぶん、あれが一番好きだった。

陽翔は考えた。

ホテルでもなくて。

朝食でもなくて。

ただ、自分で行くと決めた場所で、新しい朝を迎えたこと。

笑みが薄れた。

美咲の写真へ目を向ける。

母さんも一緒にいられたらよかったのに。

その言葉は胸に痛かった。

いつだってそうだった。

けれど、もう書くことを避けようとはしなかった。

続きを打つ。

母さんが僕と旅行したがってたこと、知ってるよ。

それに、計画していたことを全部できなかったことも。

少し間を置く。

でも、僕はこれからも進んでいくよ。

旅行の計画書へ目を向ける。

京都への計画。

まだ答えの出ていない質問。

さまざまな可能性。

いつ京都に行けるかは、まだわからない。

準備しなきゃいけないことも、たくさんある。

でも、きっと行けると思う。

陽翔はかすかに微笑んだ。

それで、京都に行けたら、おいしいパンケーキのあるお店を探すつもり。

小さく笑った。

それから、アパートのことを考えた。

公園が見える窓。

借りられなくなるかもしれないこと。

焦って契約せず、調査を続けると決めたこと。

文字を打つ。

アパートは、うまくいかないかもしれない。

ほかにも入居したい人がいるんだって。

それに、介助体制や費用を長期的に維持できるかどうかも、まだわかってない。

少し間を置く。

あの部屋が欲しい。

でも、欲しいと思うだけで実現できるわけじゃないってことも、わかってる。

陽翔は考えた。

母さんなら、そういう考え方を認めてくれると思う。

そして、葵のことを思い出した。

彼女が送ってくれた写真。

細い路地。

日差し。

鉢植えの植物。

写真展への誘い。

陽翔は微笑んだ。

それから、葵がまた一緒に出かけないかって誘ってくれたんだ。

少し間を置く。

今度は、葵のほうから。

笑みが広がった。

なんだか嬉しいよ。

少し考える。

僕たちは、まだただの友達だよ。

それに、ゆっくり進んでる。

写真へ目を向ける。

でも、僕は葵が好きなんだ。

その一文が画面に残った。

陽翔はじっと見つめた。

数秒間、書き直そうかと考えた。

けれど、やめた。

本当のことだったから。

葵が好きだった。

彼女と話すのが好きだった。

彼女が小さなものに気づくところが好きだった。

自分の人生を悲劇や教訓として扱わないところが好きだった。

そして、初めて出会ったときの事情だけでなく、一人の人間として自分を知ろうとしてくれるところが好きだった。

陽翔はかすかに微笑んだ。

これがどういう意味なのか、まだわからない。

何でもないのかもしれない。

何かが始まるのかもしれない。

少し間を置く。

でも、彼女に出会えてよかった。

しばらく、部屋は静かだった。

陽翔は窓へ目を向けた。

外の庭は暗かった。

見慣れた家が自分を包んでいる。

家に帰ってきたのだ。

それでも、心のどこかには横浜の記憶が鮮やかに残っていた。

港。

水面。

朝の日差し。

ホテルの窓から見えた街の姿。

そして、文字を打った。

僕、少しわかってきた気がするんだ。

家だけが、安心できる場所じゃなくてもいいんだって。

少し間を置く。

それに、家を離れることは、母さんを置いていくことじゃないんだって。

目の奥が熱くなった。

陽翔は唾を飲み込んだ。

そして、続きを書く。

母さんを連れていけるんだ。

僕をその場に縛りつけるものとしてじゃなくて。

前へ進みたいと思う理由の一つとして。

陽翔は寂しそうに微笑んだ。

そして、手紙を締めくくった。

愛を込めて。

横浜から無事に生還し、怪しい浴室を打ち負かし、SF映画についての議論ではいまだ無敗を誇る息子より。

陽翔。

文書を保存した。

そして、美咲の写真へ目を向ける。

「おやすみ、母さん」

声は静かだった。

窓の外では、風が庭を吹き抜けていた。

東京のどこかでは、葵が写真展と、自分を笑顔にしてくれる青年のことを考えながら眠りにつこうとしていた。

恵子は、アパートについて確認すべき次の質問をまとめていた。

陸と開発チームは、陽翔が提出したアクセシビリティの調査結果を検討していた。

由紀と大地は、自分たちには完全にコントロールできない未来を、どのように支えていけばいいのか、少しずつ学んでいた。

そして陽翔は、大人になるということは、何も必要としない人間になることではないのだと理解し始めていた。

必要なものを、必要だと伝えること。

自分で選ぶこと。

不確かな未来を受け入れること。

ありのままの自分を尊重してくれる人間関係を築くこと。

陽翔は横浜へ旅をした。

そして、家へ帰ってきた。

その二つの旅路の間で、世界はほんの少し広くなっていた。

アパートは手に入らないかもしれない。

京都旅行の準備には、思っていた以上の時間がかかるかもしれない。

仕事も不安定なままかもしれない。

そして、葵との友情は、いつまでも友情のままかもしれない。

けれど、そうした可能性のどれ一つとして、すでに経験したことを消し去ることはできなかった。

港は美しかった。

あの朝は、自分自身のものだった。

そして、これから先へ続く道は、まだ開かれている。

長い間忘れていた感覚だった。

これからどこへ続いていくのだろう。

陽翔は久しぶりに、その答えを知る日を心から楽しみにしていた。

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