第23章 見知らぬ空の下で花開くことを覚えた日々
高橋陽翔が、女性の連絡先をスマートフォンに登録して初めて学んだこと。それは、どうやら自分のスマートフォンには人格が芽生えてしまったらしい、ということだった。
しかも、かなり意地の悪い人格だ。
二十二年間、その端末はそれなりに従順に彼に仕えてきた。メッセージを表示し、音楽を再生し、予定を知らせ、ときには欲しくもなければ身体的に使うこともできない商品の広告を押しつけてきた。これまでの最大の罪といえば、ソフトウェアの更新と、理由もなく突然接続が切れることくらいだった。
ところが今、その端末は彼を苦しめることに全力を注いでいるようだった。
通知が届くたびに、水野葵からのメッセージかもしれないという期待が生まれる。
そして、葵からではなかったとき、その通知はすべて個人的な裏切りに感じられた。
火曜日の午前九時十七分。
陽翔はアクセシビリティ評価の実績資料をまとめていた。すると、スマートフォンと連携させたパソコンの画面に通知が表示された。
彼はすぐに視線を向けた。
【特別セール! 家庭用洗剤が15%オフ!】
陽翔は画面を見つめた。
そして目を閉じた。
「信じられない……」
近くのテーブルで朝食の準備を手伝っていた星野里奈が、彼を振り返った。
「どうかしました?」
「うん」
里奈は続きを待った。
「僕のスマホが犯罪組織に加入した」
里奈は笑った。
「それは大変ですね」
「非常に深刻だよ。洗剤を売りつけようとしてるんだ」
彼女は食事の準備が整っていることを確認しながら微笑んだ。
「警察に通報しますか?」
陽翔は考え込んだ。
「いや、まだだ。この陰謀がどこまで広がっているのか、もう少し調べたい」
里奈は笑いながら首を振った。
彼女は陽翔の希望に合わせて朝食を介助し、一口ごとに十分な時間を取り、頼まれれば姿勢を調整した。
朝はいつもどおり、介助と医療・生活機器、そして家族の予定を調整することから始まっていた。陽翔に新しい楽しみができたからといって、そうした日常が急に簡単になるわけではない。
彼の生活には、今も確実な介助が必要だった。
仕事は身体のケアや休息の時間に合わせなければならなかった。
そして彼の身体は、恋愛事情などお構いなしに疲労を訴えてくる。
それでも、何かが変わっていた。
彼はメッセージが届くのを楽しみにしていた。
雇用主からではない。
恵子からでもない。
介助の予定を確認する支援担当者からでもない。
ただ、彼と話したいと思ってくれる人からのメッセージだった。
その違いだけで、何気ない会話が思いがけないほど大切なものに感じられた。
パソコンが再び通知音を鳴らした。
陽翔は目を細めた。
「また広告だったら、宣戦布告するからな」
しかし、今度の通知は葵からだった。
葵:真剣に聞きたいことがあるんだけど。
陽翔は微笑んだ。
専用の入力装置を操作して会話を開いた。
陽翔:相談料が発生します。
葵:客観的に見てひどい映画でも、楽しめるものなの?
彼は笑った。
陽翔:もちろん。それがほぼ僕の人格そのものだから。
葵:おすすめしてくれた映画を観たの。
陽翔の笑みが広がった。
陽翔:おお、文化を理解する女性だ。
葵:宇宙船が段ボールでできてた。
陽翔:予算を最大限に活用した革新的な設計だよ。
葵:宇宙人の衣装にファスナーが丸見えだった。
陽翔:高度に進化した生物学的特徴だね。
葵:艦長が死んだのに、三場面後には何の説明もなく生き返ってた。
陽翔:宇宙にはまだ解明されていない謎が多いんだ。
葵からの返事はほとんど即座に届いた。
葵:本当にどうしようもない人ね。
陽翔は数秒間、その文章を見つめた。
そして微笑んだ。
「いやあ……」
里奈が彼を見た。
「何ですか?」
「何でもない」
彼女は眉を上げた。
「何でもないようには聞こえませんでしたけど」
陽翔は少し考えた。
それからにやりと笑った。
「僕の面白さが、専門家によって正式に認められたんだ」
里奈は笑った。
「おめでとうございます」
「ありがとう。ここまで長い道のりだったよ」
彼は朝食に戻った。
窓の外では、朝の日差しが庭をゆっくりと移動し、柵の近くの枝に芽吹き始めた柔らかな若葉を照らしていた。
東京にも春が訪れていた。
母を亡くしたとき、世界は動きを止めてしまったのだと思っていた陽翔は、ありふれた一日を楽しみにさせてくれる小さな出来事が、まだこんなにもたくさん残されているのだと気づき始めていた。
水野葵は、看護の仕事以外で自分がそれほど面白い人間だとは思っていなかった。
誰かに自分自身について質問されるようになってから、その事実を思い知らされることになった。
職場なら、何を話せばいいのかわかる。
患者の観察、ケア計画、感染予防、コミュニケーション、そして利用者の自宅で看護サービスを提供する際の複雑な実務についてなら、いくらでも説明できた。
なぜ患者本人の希望を尊重することが重要なのかも話せる。
専門職としての境界線についても議論できる。
病院の文房具管理がいかに非効率かという話なら、驚くほど長時間語り続けることさえできた。
しかし、陽翔から休日には何をしているのかと聞かれたとき、まるで核物理学について詳しく説明するよう求められたかのように、画面を見つめてしまった。
そのとき葵は、訪問看護の仕事を終え、藤本美香の家のキッチンテーブルでお茶を飲んでいた。
美香は夕食の準備をしていた。
葵は入力した。
読書が好きです。
そして消した。
漠然としすぎている。
もう一度入力した。
カフェに行くのが好きです。
これも漠然としている。
葵はため息をついた。
美香が肩越しに振り返った。
「退職届でも書いてるの?」
葵は瞬きをした。
「え?」
「もう五分もスマホとにらめっこしてるから」
葵は笑った。
「違うわよ」
「じゃあ何?」
葵はためらった。
「趣味を聞かれたの」
美香の包丁を動かす手が止まった。
彼女は振り向いた。
ゆっくりと。
そして微笑んだ。
「へえ?」
葵はうめいた。
「やめて」
「誰に?」
「友達」
美香の笑みが広がった。
「友達、ねえ」
「そうよ」
「男友達?」
葵はため息をついた。
「美香……」
友人は吹き出した。
「はいはい、わかったわよ」
彼女は野菜を切る作業に戻った。
そして付け加えた。
「趣味は『ひどい選択を収集すること』って書けば?」
葵は布巾を投げつけた。
美香は受け止めた。
「ほら。それも立派な趣味じゃない」
葵は思わず笑ってしまった。
そしてメッセージに目を戻した。
陽翔はこう書いていた。
陽翔:僕の怪しい映画の趣味についてはもう話したでしょ。次は葵の番。患者さんを驚異的なおしゃべり能力で圧倒していないときは、何してるの?
葵は微笑んだ。
彼女は拓海と付き合う前の自分を思い出した。
口論が始まる前。
彼から電話が来るかどうかで夜の過ごし方を決めるようになる前。
昔は書店を巡るのが好きだった。
写真を撮ることも好きだった。特に、静かな通りや夕暮れの光に照らされた古い建物を撮影するのが好きだった。
初めての料理にも挑戦していた。もっとも、美香は彼女の料理実験には正式な安全検査が必要だと主張していたが。
そして、音楽が大好きだった。
特別に才能があるわけではない。
ただ、誰も聞いていないときに歌うのが好きだった。
葵は入力を始めた。
葵:写真を撮るのが好き。普通の場所ばかりだけどね。通りとか、カフェとか、古い建物とか、花とか。みんなが気づかずに通り過ぎるようなもの。
陽翔から返事が届いた。
陽翔:つまり、隠れた芸術家だったんだね。
葵:全然。私の写真なんてほとんどひどいものよ。
陽翔:素晴らしい。僕たちには共通点がある。
葵:あなたもひどい写真を撮るの?
陽翔:いや。ひどい芸術を鑑賞するのが好きなんだ。
葵は笑った。
それから別のメッセージを送った。
葵:料理も好きよ。
陽翔:危険な発言だね。
葵:どうして?
陽翔:叔父さんが以前、パンケーキに対して重大な犯罪を犯したんだ。僕はまだ立ち直れてない。
葵は声を上げて笑った。
美香が振り返った。
「面白い人なの?」
葵は固まった。
それからため息をついた。
「……うん」
美香はにやりと笑った。
「興味深いわね」
葵は無視した。
そして入力した。
葵:本はどう? 文学が大好きだって言ってたよね。
陽翔の返事には少し時間がかかった。
届いた文章は、先ほどまでよりずっと真面目だった。
陽翔:自分自身を理解しようとする人たちの物語が好きなんだ。たとえ、その人たちがひどい選択をするとしても。
葵は慎重に読んだ。
続けてメッセージが届いた。
陽翔:むしろ、そういうときほど好きかもしれない。
彼女は微笑んだ。
葵:どうして?
陽翔:人間って複雑だから。いい物語は、その複雑さをなかったことにしないんだ。
葵はその答えについて考えた。
そして返事を送った。
葵:そういう考え方、好きかも。
陽翔は画面を見て微笑んだ。
二人の会話は少しずつ変わり始めていた。
相変わらず互いをからかい合っていた。
映画について言い争うこともあった。
相手の趣味を侮辱するための、ますます手の込んだ表現を考えることもあった。
しかし、ときおり冗談の合間から、もっと静かな何かが顔をのぞかせるようになっていた。
好み。
思い出。
不安。
それまで知らなかった相手の、小さな一部分。
そして二人とも、その変化を急ごうとはしていなかった。
木曜日、新しい契約書が届いた。
陽翔は清水陸からの連絡を待っていたが、これほど早く次の機会が訪れるとは思っていなかった。
メールには、一般向けデジタル情報サービスのアクセシビリティ評価を行う、期間限定の仕事について書かれていた。
内容は面白そうだった。
企業側は代替入力方式を使用する利用者からの意見を求めており、特に画面操作、フォームへの入力、操作部品のわかりやすさを評価してほしいという。
陽翔は説明を二度読んだ。
そして契約書を開いた。
彼の興奮は、およそ四分間続いた。
その後、問題点が次々と見つかり始めた。
契約書には推定作業時間が記載されていたが、実際のテスト時間と、準備や報告書作成に必要な時間が明確に区別されていなかった。
修正作業についても触れられていたが、何回まで含まれるのか定義されていなかった。
さらに報酬に関する記述は曖昧で、最初の報告書を提出したあとに追加テストを求められた場合、別途報酬が支払われるのかどうかも判断できなかった。
陽翔は画面を見つめた。
「いやあ……」
部屋を通りかかった大地が彼を見た。
「いい知らせか?」
陽翔は考えた。
「たぶんね」
叔父は微笑んだ。
「それはよかった」
陽翔はうなずいた。
「ただし、この契約書は魔術師が書いたらしいんだ」
大地は眉を上げた。
「魔術師?」
「うん。報酬の条件を理解しようとするたびに、肝心な部分が消えていくんだ」
大地は笑った。
陽翔もかすかに微笑んだ。
それから契約書へ目を戻した。
この仕事を引き受けたかった。
内容には興味があった。
会社はこれまでの彼の仕事を真剣に評価してくれていた。
そして、新たな有償の仕事は、職業面でも経済面でも意味があった。
しかし、彼は聡から受けた助言を思い出した。
仕事は、自分の価値を証明するものではない。
そして、機会を与えられたというだけで、それが必ずしもよい機会になるわけではない。
陽翔はメモを取り始めた。
具体的に、どの作業が報酬の対象になるのか。
修正は何回まで含まれるのか。
テスト環境にアクセシビリティ上の問題があった場合はどうなるのか。
会社は対応機器を提供してくれるのか。
納期はどれくらいなのか。
そして、業務範囲が変更された場合、報酬はどうなるのか。
書き終えるころには、予想以上に長い質問の一覧ができあがっていた。
陽翔はため息をついた。
「どうやら社会人になるってことは、恐ろしい量の文章を読むことらしい」
大地はにやりと笑った。
「大人の世界へようこそ」
陽翔は恐ろしそうな顔をした。
「退職してもいい?」
「残念ながら無理だな」
「ひどい制度だ」
彼は笑った。
しかし、冗談の裏には不安が残っていた。
陸に面倒な人間だと思われたらどうしよう。
介助の予定に合わせた柔軟な勤務時間や専用機器が必要な自分と働くのは、割に合わないと会社が判断したらどうしよう。
別の候補者が、何も質問せずに条件を受け入れてしまったらどうしよう。
陽翔は契約書を見つめた。
ここまで仕事の機会を得るために、努力してきた。
それを失いたくなかった。
その恐怖のせいで、曖昧な契約書が本来よりも魅力的に見えてしまった。
彼は危うく承諾しかけた。
しかし、そこで手を止めた。
カーソルは返信ボタンの上にあった。
彼は最初の仕事を思い出した。
技術的なトラブル。
納期の延長。
二度目の仕事で起きた機器の問題。
そのたびに、明確なコミュニケーションが助けになった。
そして、聡の言葉も思い出した。
仕事上の境界線を持つことも、自立の一つなんだ。
陽翔は契約書を閉じた。
まずは質問しよう。
翌日の午後、田中恵子が陽翔と一緒に契約書を確認した。
恵子は、自分が弁護士や財務の専門家として助言するわけではないことを最初に説明した。しかし、実務上の疑問点を整理し、どの問題について専門家への確認が必要かを見極める手伝いならできる。
陽翔はその姿勢をありがたく思った。
彼は、仕事を引き受けるべきかどうかを誰かに決めてほしいわけではなかった。
自分で判断するための情報が欲しかったのだ。
二人は契約書を一緒に確認した。
恵子は、固定報酬の仕事なのか、時間単位の報酬なのかを明確にする必要があると指摘した。
また、成果物として何を提出するのか、当初の業務範囲に含まれない追加作業は何なのかを文書で確認するよう勧めた。
陽翔はうなずいた。
「それで、収入の申告は?」
恵子は少し考えた。
「正確な記録を残して、あなたが利用している制度では、この収入がどう扱われるのか確認する必要があるわ」
彼はため息をついた。
「また書類か……」
恵子は微笑んだ。
「もっと明確になるってことよ」
「その言葉、本当に好きだね」
恵子は笑った。
二人は、仕事と介助の関係についても話し合った。
陽翔は専用の入力装置を使い、テスト作業そのものを自分で進められる。しかし、日常生活の介助には今も予定された支援が必要だった。
無理な納期を設定すれば、必要な休憩を削ったり、急に介助の予定を変更しようとしたりすることにつながりかねない。
以前の仕事で経験した苦労を繰り返したくはなかった。
恵子は、どのような予定なら無理なく取り組めそうかと尋ねた。
陽翔は考えた。
そして、短いテスト時間、報告書作成の時間、予期しない技術的問題に対応する余裕を組み込んだ計画を説明した。
里奈や関係する介助担当者との調整は必要だが、事前の合意もなく支援者に勤務時間を延長してもらうつもりはなかった。
恵子はうなずいた。
「そのほうが長く続けられそうね」
陽翔は微笑んだ。
「見てよ、僕を」
彼女は眉を上げた。
「何?」
「責任ある大人になってる」
恵子は笑った。
「立派ね」
彼はため息をついた。
「最悪だよ」
その夜、陽翔は陸への返信を作成した。
まず、仕事の機会を与えてくれたことに感謝した。
次に、プロジェクトへの関心を伝えた。
そして、成果物、テスト環境、修正作業の範囲、報酬、納期について確認を求めた。
さらに、実際に必要となる作業時間を踏まえた日程も提案した。
彼は何度も文章を読み返した。
そして送信した。
翌朝、陸から返事が届いた。
質問してくれたことへの感謝と、いくつかの条件については確かに明確化が必要だったことが書かれていた。
会社側で契約書を修正し、担当チームと業務範囲を確認するという。
まだ最終的な契約ではなかった。
署名もしていなかった。
報酬が保証されたわけでもなかった。
しかし、陸は仕事の話を取り下げなかった。
陽翔はメッセージを見つめた。
そして微笑んだ。
「いやあ……」
彼は母の写真を見た。
「どうやら質問しただけで、即座に仕事人生が終わるわけじゃないらしいよ」
小さく笑った。
「誰が知ってただろうね?」




