第22章 二つの鼓動の狭間で
# 第22章:二つの鼓動の狭間で
未来を思い描くことの厄介なところは、遅かれ早かれ、誰かがそれを数字で測ろうとすることだった。
高橋陽翔は、午後の日差しが差し込むダイニングテーブルで、その不愉快な真実を思い知らされていた。
周囲には間取り図、福祉機器の寸法表、支援サービスの予定表、そして見れば見るほど敵意すら感じられる費用の見積書が並んでいる。
先週見学したアパートは、今でも有力な候補だった。
小さな公園を見渡せるリビングがあり、必要な機器を置けそうな寝室もある。浴室に至っては、建設業界全体の知能を疑いたくなるような造りではなかった。
陽翔にとって、それだけでも大きな進歩だった。
残念ながら、その進歩は電卓を携えてやって来たらしい。
「つまりさ」
陽翔はパソコンに表示された数字を眺めながら尋ねた。
「自分のアパートで暮らすには、お金がかかるってこと?」
テーブルの向かいに座っていた田中恵子が彼を見た。
「そういうことね」
陽翔は首を振った。
「なんて理不尽な」
大地が笑った。
近くに座っていた星野里奈も、陽翔の次の介助予定までの時間を確認しながら微笑んだ。
今回の話し合いは、二軒目のアパートの見学結果を検討するために、恵子が手配したものだった。
参加者の中には、藤本彩花というリハビリテーションの専門職もいた。四十代の落ち着いた女性で、住環境の評価や、移動機器・介助機器を実際の生活空間で使用する際の問題に詳しい。
短い黒髪の彩花は、複雑な質問にも慌てずに答え、質問した相手を無知だと感じさせない話し方をする人だった。
彼女は事前に、陽翔が使用する機器の寸法と、アパートの測定資料を確認していた。
初期評価は、希望の持てるものだった。
同時に、実に面倒なものでもあった。
「寝室については、最初の物件より使いやすそうです」
彩花は間取り図を指さした。
「ただし、移乗や体位調整、介助に必要なスペースが実際に確保できるかは、まだ確認が必要です。図面を見れば壁の位置はわかりますが、その間で介助者が安全に動けるかどうかまでは、必ずしもわかりませんから」
陽翔はうなずいた。
「そうですね」
「浴室も前の物件よりは有望です。ただ、使用する機器や介助手順を詳しく検討しなければなりません。バリアフリーと表示されているだけで、適切な設備だと判断するわけにはいきませんから」
「信じてください」
陽翔は言った。
「僕、その言葉にはすっかり不信感を抱くようになりました」
彩花が微笑んだ。
「そう伺っています」
大地がにやりと笑った。
「最初のアパートの浴室について、ここ数日ずっと文句を言っているんですよ」
「あれは建築に対する侮辱だったんだよ」
恵子が小さく笑った。
彩花は報告を続けた。
ベッドの配置。
介助に必要な空間。
機器や消耗品の収納場所。
浴室の適合性。
電気設備。
そして、物件の所有者から許可を得なければ実施できない改修の可能性。
比較的簡単にできそうな変更もあった。
一方で、建物の構造や賃貸契約の条件、利用できる助成制度によって判断が変わるものもあった。
陽翔は注意深く耳を傾け、ときおり質問を挟みながら、自分の生活にとって重要な問題へと話を戻した。
彩花が叔母や叔父ではなく、直接自分に話しかけてくれることも嬉しかった。
寝室をどのように使いたいか尋ねられると、陽翔は、病室のような雰囲気にならないようにしながら、快適に仕事ができる場所へパソコンを置きたいと説明した。
彩花はうなずいた。
「それも大切な条件ですね」
陽翔は片眉を上げた。
「本当に?」
「もちろんです」
彼はにやりと笑った。
「素晴らしい。じゃあ、正式な条件に『病棟に見えないこと』って書いてください」
彩花は笑った。
「もう少し違う表現にしておきますね」
「僕の芸術的な構想が台無しだ」
笑い声のおかげで、張り詰めていた空気が少し和らいだ。
しかし、それも長くは続かなかった。
住まいそのものの話が終わり、生活全体に必要な費用へと話題が移ると、数字はいっそう厳しいものになったからだ。
## 何でもない火曜日にかかる費用
家賃が高いことは、陽翔も覚悟していた。
光熱費や食費、交通費、日用品にお金がかかることもわかっていた。
機器の故障や修理で、思いがけない出費が発生する可能性さえ想定していた。
しかし、自分の家で何でもない火曜日を過ごすために、どれほど多くの支援体制が確実に機能していなければならないのか、十分には理解していなかった。
特別な日ではない。
旅行でもない。
ただの火曜日だ。
朝起きること。
着替えること。
身体の位置を整えること。
食事。
排泄。
そして、自分一人では行えないさまざまな身体的活動。
そうしたことには、介助者の支援が必要だった。
しかも、その支援は実際の生活に合わせて、一日を通して途切れなく確保されなければならない。
必要な介助が就寝時間になった途端に消えるわけではない以上、夜間の支援や緊急時の対応には、特に慎重な準備が必要だった。
定期的な訪問看護は、適切な医療・看護上のニーズに対応できる。
しかし、日常生活全般の介助を代わりに担えるわけではない。
また、現在利用している事業者が、新しい住所でも同じサービスを提供できるとは限らなかった。
恵子は、必要な支援量の評価、利用可能なサービス、制度上の条件、そして財源について、関係機関や担当者と改めて確認する必要があると説明した。
テーブルに並んだ数字は、確定した予算ではない。
あくまで、考慮すべき費用や未解決の問題を示した暫定的な資料だった。
陽翔も、その違いは理解していた。
だからといって、数字が見ていて楽しくなるわけではない。
彼は表を眺めた。
そして、ため息をついた。
「どうやらこのアパート、僕が引っ越す前に破産させるつもりらしい」
大地が微笑んだ。
「少なくとも、正直な物件じゃないか」
「全然慰めになってないよ」
彩花は、機器や改修に関する項目を指さした。
「この費用の中には、実際には必要ないものもあるかもしれません。条件が合えば、支援制度を利用できるものもあるでしょう。ただし、それを前提にせず、きちんと確認する必要があります」
陽翔はうなずいた。
「夜間の介助については?」
恵子が両手を組んだ。
「それが、特に大きな課題の一つね」
陽翔は彼女を見た。
「夜間にどの程度の支援が必要なのか、それを現実的に提供できるサービスがあるのか。そして、担当者が休んだ場合や緊急事態が起きた場合に、どう対応するのかを決めなければならないわ」
「なるほど」
陽翔は考え込んだ。
「住まいとして適していることと、そこで必要な支援が確保できることは、別の問題なの」
陽翔はうなずいた。
似たような話は、これまでも何度か聞いていた。
けれど、今はその意味が違って感じられた。
彼は、あのアパートで暮らす自分を想像できた。
窓。
公園。
自分の机。
ベッドのそばに飾った母の写真。
しかし、安全に暮らすために必要な介助を確実に受けられなければ、そのどれも意味を持たなくなってしまう。
それから数分間、一同は介助者が対応できなくなった場合の代替体制について話し合った。
担当者が病気で休んだら?
代わりに来た人が、陽翔の普段の介助手順を知らなかったら?
機器が故障したら?
夜中に緊急事態が起きたら?
大地がメモを取った。
里奈は、日頃の介助経験から実務的な意見を述べた。ただし、陽翔本人の希望に関する判断は、彼自身に委ねていた。
恵子も、今後確認すべき項目を書き留めていった。
陽翔は、質問で埋まっていく紙を見つめた。
それから、窓の外に目を向けた。
庭には午後の日差しが降り注いでいた。
一羽の鳥が塀に舞い降り、木製の柵の上をぴょんぴょんと跳ねている。
どうやら、住宅費の心配とは無縁らしい。
陽翔は羨ましくなった。
「僕も鳥になろうかな」
大地が顔を上げた。
「何だって?」
陽翔は窓を見た。
「住居費は無料。家賃もなし。交通手段も最高」
彩花が笑った。
恵子も微笑んだ。
大地は少し考えた。
「インターネット環境は最悪だぞ」
陽翔はため息をついた。
「やっぱりやめとく」
話し合いは続いた。
終了する頃には、次に何をすべきかがいくつか明確になっていた。
アパートは引き続き検討する価値がある。
しかし、改修についての確認、機器や浴室のより正確な評価、そして必要な生活介助を手配できるかどうかの確認が欠かせない。
恵子は関係機関との調整を手伝うことになった。
陽翔も、住まいに必要な条件をさらに整理していく。
そして、必要な情報がそろうまでは、契約や費用の支払いを伴う決定はしない。
それは賢明だった。
責任ある判断でもあった。
ただし、鍵を受け取る瞬間に比べれば、ずっと地味だった。
それでも、彩花が資料を片づけ始める頃、陽翔は微笑んでいた。
あのアパートは、まだ候補から外れていない。
今は、それで十分だった。
## 愛情から生まれた申し出
由紀は、話し合いの間、いつになく静かだった。
誰よりも先にそれに気づいたのは、陽翔だった。
普段の叔母なら、何についても質問する。
エレベーターは故障しないのか。
浴室に必要な機器は置けるのか。
周辺の治安はどうなのか。
建物の管理人は、障害のある住民に関わる緊急事態に対応した経験があるのか。
けれど、今日はただ耳を傾けていた。
少しだけメモを取り、ほとんど発言しなかった。
陽翔は、それが必ずしもよい兆候ではないような気がしていた。
恵子と彩花が帰ると、由紀はテーブルを片づけ始めた。
大地は仕事の電話に出るため、その場を離れた。
里奈は予定されていた介助の準備を手伝い、午後は少しずつ、いつもの生活の流れに戻っていった。
その後、陽翔がパソコンの前に戻ってしばらくすると、由紀が部屋に入ってきた。
手には小さなノートを持っている。
「陽翔?」
彼は振り向いた。
「うん?」
「少し話せる?」
陽翔は微笑んだ。
「内容によるかな」
由紀は片眉を上げた。
「どういうこと?」
「例のアパートが取り壊しになるって話じゃなければ」
由紀は笑った。
「違うわよ」
「よかった。どうぞ」
由紀は椅子を引き寄せた。
しばらくノートを見つめたまま、開こうとしなかった。
やがて、口を開いた。
「夜間の介助のことを考えていたの」
陽翔はうなずいた。
「うん」
「手配するのは、かなり大変かもしれないでしょう?」
「そうだね」
由紀は息を吸った。
「私にも手伝えると思うの」
陽翔は彼女を見た。
由紀は続けた。
「毎晩とは言わないけれど、定期的に行くことはできるわ。体制が落ち着くまで、週に何日か泊まるとか」
陽翔は黙っていた。
由紀は期待を込めた笑みを浮かべた。
「そうすれば、少しは負担が減るでしょう?」
陽翔は彼女を見た。
それから、ノートに目を向けた。
「由紀おばさん」
彼女は待った。
「一つ聞いてもいい?」
「もちろんよ」
「それ、仕事はどうするの?」
由紀は目を瞬かせた。
「それは……」
「睡眠時間は?」
彼女はためらった。
「大地おじさんとの生活は?」
由紀は視線を落とした。
陽翔は穏やかに続けた。
「助けたいって思ってくれてるのは、わかってる」
由紀はうなずいた。
「もちろんよ」
「すごく感謝してる」
彼は少し間を置いた。
「でも、僕が一人暮らしを始めることで、由紀おばさんが夜勤の介助者にならなきゃいけないのは嫌なんだ」
由紀の表情が変わった。
「陽翔、私は構わないのよ」
「わかってる」
彼はかすかに微笑んだ。
「だからこそ、心配なんだ」
由紀は彼を見た。
「僕のことを愛してくれてるから、やってくれるんでしょ」
由紀は唾を飲み込んだ。
「それで、もし自分がやめたら何か起きるんじゃないかって心配になって、ずっと続けちゃう」
しばらく、由紀は何も答えられなかった。
陽翔はパソコンに目を向けた。
それから、もう一度叔母を見た。
「僕は、由紀おばさんが自分の自由を犠牲にすることで、僕の自立を成り立たせたくないんだ」
その言葉が、二人の間に静かに落ちた。
由紀はノートに目を落とした。
自分が陽翔を助ける姿を想像していた。
引っ越しを楽にしてあげること。
知らない介助者への不安から守ってあげること。
けれど、ときどき手伝うという申し出が、いつの間にか恒常的な役割になることまでは考えていなかった。
由紀には仕事がある。
家事もある。
陽翔の介助体制の調整にも関わっている。
そして、姉の美咲を失ったあと、自分自身の生活を立て直そうとしている最中でもあった。
もし毎週何日も陽翔のアパートに泊まるようになったら、いつまで続けられるだろう。
自分が病気になったら?
疲れ切ってしまったら?
ただ夫と家でゆっくり過ごしたい夜があったら?
由紀は顔を上げた。
「ただ、あなたを一人にしたくないの」
陽翔は優しく微笑んだ。
「一人にはならないよ」
由紀は考えた。
「ちゃんと支援を手配できれば、ね」
陽翔はうなずいた。
「そういうこと」
由紀は唾を飲み込んだ。
「でも、もし手配できなかったら?」
陽翔はため息をついた。
「そのときは、まだ引っ越さない」
由紀は彼を見た。
「自分の家は欲しいよ。本当に」
彼は窓に目を向けた。
「でも、介助体制の問題を無視してまで引っ越したいわけじゃないんだ」
由紀はゆっくりとうなずいた。
陽翔は微笑んだ。
「それに、引っ越しても由紀おばさんには僕の人生にいてほしいんだよ」
彼女の目に涙が浮かんだ。
陽翔はにやりと笑った。
「できれば、叔母さんとしてね」
由紀は涙交じりに笑った。
「無給の夜勤スタッフとしてじゃなくて」
由紀は目元を拭った。
「本当に、あなたって子は……」
「遺伝だよ」
彼女は笑った。
それから、悲しさと誇らしさが入り交じった表情で彼を見た。
「何でも自分でやろうとしなくても、あなたを助けられるようにならないといけないわね」
陽翔は微笑んだ。
「うん」
由紀はうなずいた。
「努力するわ」
彼はにやりと笑った。
「よかった」
そして付け加えた。
「でも、食べ物は持ってきてくれるものだと思ってるからね」
由紀は声を上げて笑った。
「もちろん、そうでしょうね」
陽翔は厳かにうなずいた。
「我が家の伝統だから」
由紀は身を乗り出し、彼の額にキスをした。
陽翔は微笑んだ。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて由紀が立ち上がった。
「お茶を淹れてくるわね」
陽翔はにやりと笑った。
「ほら。もう完璧にできてるじゃない」
由紀は笑いながら部屋を出ていった。
陽翔はパソコンへ向き直った。
何か大切なことが、少し変わったように感じた。
アパートが変わったわけではない。
予算が変わったわけでもない。
変わり始めたのは、互いを愛する方法だった。
## 恐怖を愛情と取り違えた娘
東京の別の場所では、水野葵が、うまく言葉にできない不安を抱えながら長谷川浩二のアパートを訪れていた。
娘の舞が、再び訪問看護事業所へ連絡してきたのだ。
父親が勧められている治療の一部を断っていることについて、今も強い不安を感じていた。
チームが把握している限り、浩二の意思は変わっていない。
担当医には以前の話し合いの内容が伝えられ、必要な経過観察も継続されていた。
しかし、意見の対立は家族関係に影響し始めていた。
舞は何度も電話をかけていた。
浩二は、電話に出ることさえ嫌がるようになっていた。
アパートの空気は張り詰め、普通の会話まで口論に発展することが増えていた。
葵は訪問前に、西原智子とこの状況について話し合っていた。
二人の目的は、無理やり結論を出させることではない。
浩二の現在の状態を評価し、懸念事項を確認し、十分な情報に基づいて本人が意思決定できるよう支えること。
そして、恐怖が強制に変わってしまわないようにしながら、家族が話し合えるよう支援することだった。
理屈としては、もっともだった。
実践するのは、ずっと難しかった。
玄関のドアを開けた舞は、ひどく疲れて見えた。
髪は無造作に後ろで束ねられ、目の下には濃い隈ができていた。
「来てくださって、ありがとうございます」
智子は丁寧に頭を下げた。
「こんにちは」
葵も挨拶した。
二人は中に入った。
浩二は、いつもの窓際の肘掛け椅子に座っていた。
膝の上には新聞が置かれている。
彼は看護師たちを見た。
「また来たのか」
智子が微笑んだ。
「はい」
浩二はため息をついた。
「どうせ、またあれだろう」
葵は黙って待った。
浩二は娘をちらりと見た。
「説教だ」
舞の身体がこわばった。
「お父さん」
浩二は顔をそむけた。
智子が落ち着いて近づいた。
「今日は予定されていた訪問看護に伺いました」
浩二は彼女を見た。
「それで?」
「まずは、お身体の様子を確認させてください」
彼は少し考えた。
そして、うなずいた。
「わかった」
看護上の評価が始まった。
葵は自分の役割に応じて観察と対応を行い、症状や日常生活の様子、前回の訪問から変化があったかどうかを尋ねた。
浩二は答えた。
短い返事もあれば、詳しい説明もあった。
同じ問題について何度も話すことには疲れているようだったが、現在の健康状態や身体の楽さについての質問には、きちんと応じていた。
舞は近くを離れなかった。
父親が何か話すたび、すぐに訂正しようと身構えているように見えた。
あるとき、浩二が最近の症状について説明すると、舞はすぐに口を挟んだ。
「ほら、だから言ってるじゃない」
浩二はため息をついた。
「舞」
舞は智子に向き直った。
「父は大丈夫だって言い張るんです。でも、全然大丈夫じゃないんです」
智子はうなずいた。
「その点についても確認しますね」
舞は少し安心したようだった。
しかし、智子は続けた。
「ただ、まずはお父様のお話を最後まで聞かせてください」
舞は口を閉じた。
浩二は看護師を見た。
一瞬、表情が和らいだ。
そして、話を続けた。
葵は耳を傾けた。
舞が怖がっている理由は理解できた。
父親の病状が悪化する可能性は、現実に存在している。
しかし、舞が会話を支配しようとすればするほど、浩二は話し合いに参加したがらなくなっていた。
守ろうとする行動の一つ一つが、かえって父親を遠ざけているようだった。
健康状態についての確認を終えると、智子は、家族の間で生じている意見の対立について話してもよいか尋ねた。
浩二はためらった。
舞はすぐにうなずいた。
「はい」
智子は浩二を見た。
「長谷川さんは、いかがですか?」
彼は少し考えた。
そして、ため息をついた。
「いいだろう」
一同はリビングで向き合った。
舞は父親の向かいに座った。
葵は智子の隣にいた。
数秒間、誰も口を開かなかった。
やがて舞が話し始めた。
「どうしてそんなことをするのか、わからないの」
浩二は目を閉じた。
「舞……」
「お願い、聞いて」
声が震えていた。
「どうしてなのか、教えてよ」
浩二は娘を見た。
「もう説明しただろう」
「納得できる説明じゃないもの」
浩二はため息をついた。
智子が穏やかに口を挟んだ。
「舞さん、一つ試してみてもいいでしょうか」
舞は彼女を見た。
「何ですか?」
「もう一度お父様に決断の理由を説明してもらう代わりに、舞さんが一番怖いと思っていることを伝えてみませんか?」
舞は目を瞬かせた。
予想していなかった質問だったようだ。
彼女は父親を見た。
それから、自分の手元に視線を落とした。
「私は……」
声が途切れた。
舞は唾を飲み込んだ。
「お父さんが死んじゃうのが怖いの」
浩二の表情が変わった。
舞は続けた。
「それに、私が何かできたんじゃないかって、一生後悔するのも怖い」
部屋は静まり返った。
葵は胸が締めつけられるのを感じた。
舞は涙を拭った。
「全部を思いどおりにできないことくらい、わかってる」
彼女は苦しそうに笑った。
「でも、助かるかもしれない方法があるのに、断るのを黙って見てろって言うの?」
浩二は娘を見た。
長い間、何も言わなかった。
そして、ようやく口を開いた。
「お前には、俺を永遠に生かしておく責任なんてないんだよ」
舞は首を振った。
「お父さん……」
浩二は続けた。
「お前が俺を愛してくれているのは、わかってる」
舞はうなずいた。
「怖いのも、わかる」
彼の声が柔らかくなった。
「でもな、毎日電話してきて、考えが変わったかって聞かれると、俺はお前の父親じゃなくなったような気がするんだ」
舞は彼を見つめた。
浩二は唾を飲み込んだ。
「お前が解決しなきゃいけない問題になったような気がする」
葵は視線を落とした。
その言葉には、痛いほど聞き覚えのある何かがあった。
以前、同じ言葉を聞いたからではない。
地域での看護を通じて学んできたことに、深く触れる言葉だったからだ。
人は、危険を防ぐことに必死になるあまり、守ろうとしている人生の持ち主が誰なのかを見失ってしまうことがある。
智子は沈黙を急いで埋めようとはしなかった。
それから、浩二に尋ねた。
今回の決断で、自分にとって何が一番大切なのか、説明したいかと。
浩二はうなずいた。
彼は自分の不安について話した。
大切にしていること。
受け入れがたいと感じている治療の側面。
そして、できるだけ長く守りたい生活について。
智子は、すでに説明された医療情報を浩二がどのように理解しているか確認した。
臨床的な代替案について相談する相手は担当医であることも明確にした。
そして、状況が変わった場合には、改めて話し合う意思があるか尋ねた。
浩二は考えた。
やがて、うなずいた。
「もう一度話すくらいなら、構わない」
舞は父親を見た。
「ただし、考えを変えるとは約束しないぞ」
舞は唾を飲み込んだ。
智子はうなずいた。
「わかりました」
その後、一同は今後の診療や経過観察の予定、医療機関への連絡が必要となる症状について確認した。
舞には、気になる変化があれば適切な連絡経路を通じて医療チームへ伝えるよう勧めた。
ただし、最終的な決定は浩二自身のものだった。
話し合いが終わっても、劇的な和解が訪れたわけではない。
舞はまだ怖がっていた。
浩二もまだ苛立ちを感じていた。
医療上の不確実性も残っていた。
それでも、葵と智子が帰る準備を始めたとき、舞は父親の向かいではなく、隣に座っていた。
二人は静かに話していた。
治療の話ではない。
一緒に見たテレビ番組の話だった。
葵はそれに気づいた。
そして、微笑んだ。
## 看護師にも答えられない問い
事業所へ戻る電車の中で、葵は窓の外を流れていく建物を眺めていた。
隣には智子が座っている。
しばらく、二人は黙っていた。
やがて葵が口を開いた。
「舞さんが、あんなに強く言い続けていた理由が少しわかった気がします」
智子はうなずいた。
「そうね」
「怖かったんですよね」
「ええ」
葵は考えた。
「でも、その恐怖をなくす責任を、お父さんに背負わせてしまっていた」
智子は彼女を見た。
「いいところに気づいたわね」
葵はため息をついた。
「本人にそんなつもりはなかったと思うんですけど」
「おそらくね」
先輩看護師は窓に目を向けた。
「怖くなると、人は確かな答えを必死に求めてしまうものなのよ」
葵はうなずいた。
「でも、答えがないこともある」
智子はかすかに微笑んだ。
「そのとおり」
葵は浩二のことを考えた。
自分が問題のように扱われていると話したときの様子。
声ににじんでいた疲労。
患者の中には、同じような思いを抱えながら、それを言葉にできずにいる人がどれほどいるのだろう。
そして、葵は自分自身の人生を思い出した。
拓海。
彼の機嫌を予測しようとして過ごした年月。
正しいことを言い、正しく振る舞い、間違いさえ犯さなければ、彼を怒らせずに済むと信じていた日々。
もちろん、二つの状況は同じではない。
舞は父親を心配していた。
拓海は、支配と威圧によって葵を傷つけていた。
それでも、他人の選択を自分の所有物のように扱うことが、どれほど危険になり得るかを考えさせられた。
葵は自分の手元に目を落とした。
智子が気づいた。
「大丈夫?」
葵はうなずいた。
「はい」
そして、かすかに微笑んだ。
「ちょっと考え事をしていただけです」
智子はそれ以上、追及しなかった。
葵は、その気遣いがありがたかった。
拓海による嫌がらせが発覚してから定められた安全対策は、今も守っている。
捜査はまだ終わっていない。
勤務上の情報や個人情報についても、可能な限り慎重に管理していた。
心配なことがあれば、美香や上司、必要に応じて関係当局に相談するようにしていた。
けれど、自分を守るということは、普通のことを自分で決める権利を取り戻すことでもあるのだと、少しずつ理解し始めていた。
どこで働くか。
誰を信じるか。
自由な時間をどう過ごすか。
そして、いつか、誰と友達になるか。
葵の思考は陽翔へと戻った。
文化センター。
二人の会話。
一人の人間として彼をもっと知りたいと伝えたときの、あの笑顔。
葵は流れていく街並みを見つめた。
そして、小さくため息をついた。
もう一つ、決めなければならないことがあった。
今度こそ、慎重に決めたいと思った。
## 明確にしなければならない境界線
その週の後半、葵は森山千里に個別面談を申し込んだ。
上司は、通りを見下ろす小さな事務室へ彼女を招き入れた。
「どうぞ」
葵は頭を下げた。
「お時間をいただいて、ありがとうございます」
千里は微笑んだ。
「もちろんよ。何を相談したかったの?」
葵は椅子に座った。
少しためらったあと、息を吸った。
「以前、病院で担当していた患者さんのことなんです」
千里の表情が真剣になった。
葵は説明した。
高橋陽翔という青年。
入院中に自分が看護を担当していたこと。
その後、訪問看護事業所による検討が行われたものの、彼の家庭を担当することにはならなかったこと。
横浜で偶然再会したこと。
そして、最近のアクセシビリティに関する公開イベントで交わした会話について。
葵は、それぞれの出来事がどのような状況で起きたのか、慎重に説明した。
患者の記録を利用して連絡したわけではない。
同僚から彼の情報を聞き出したこともない。
現在の介助や看護には関わっていない。
再会したのは、いずれも仕事とは関係のない公共の場だった。
しかし、かつて看護師と患者だったという関係が、倫理的な問題を生むことは理解していた。
だからこそ、個人的な友情を深めようとする前に、助言を求めたかった。
千里は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
葵が話し終えると、両手を組んだ。
「相談してくれてよかったわ」
葵はうなずいた。
「問題ないって、勝手に判断したくなかったんです」
「それは賢明ね」
千里は少し考えた。
「社会生活の中で誰かと出会うことと、職業上の関係を利用して個人的な接触を得ることには、大きな違いがあるわ」
葵はうなずいた。
「でも、以前の関係が無関係になるわけではないの」
「わかっています」
千里は続けた。
「当時の力関係や、看護を受けていた状況も重要よ。そのとき患者さんがどれほど弱い立場に置かれていたか、現在も依存関係が残っていないか、個人的な関係が混乱や害を生む可能性がないか。そうしたことを考えなければならないわ」
葵は注意深く耳を傾けた。
千里は、事業所の規定や適用される職業倫理上の基準を確認する必要があり、以前の勤務先や関係する専門職団体に相談すべきかどうかも検討したほうがよいと説明した。
事業所としての境界線について助言することはできても、あらゆる倫理上の問題が解決したと断言することはできない。
葵は、その率直さがありがたかった。
「では、どうすればいいでしょうか」
千里は考えた。
「まずは、彼の介助や看護から明確に距離を置き続けること。業務上知り得た情報や連絡手段を使わないこと。そして、彼の家庭の支援サービスを担当する役割を求めたり、引き受けたりしないことね」
葵はうなずいた。
「はい」
「もし友情を築いていくなら、それが本当にお互いの自由な意思によるもので、以前の関係から生じた義務感に左右されていないことも大切よ」
葵は視線を落とした。
「そうですね」
千里は続けた。
「それから、彼が同じ気持ちではない可能性も考えておきなさい」
葵は目を瞬かせた。
そして、かすかに微笑んだ。
「もちろんです」
千里も微笑んだ。
「普通の友人関係にも、不確実なことはあるものよ」
葵は小さく笑った。
「確かに」
二人は、個人情報の保護と安全についても話し合った。
拓海による嫌がらせの捜査がまだ終わっていない以上、葵は自分の連絡先や生活上の行動パターンを守り、陽翔の居場所を不用意に知られないようにする必要がある。
千里は、これまでの安全対策を継続し、どちらかのプライバシーを危険にさらす情報を共有しないよう助言した。
話し合いは、葵が予想していたより長く続いた。
すべてを許可する魔法の証明書が手に入ったわけではない。
しかし、自分が負うべき責任について、以前より明確に理解できた。
葵は、さらに確認すべき事項を抱え、慎重に進めることを心に決めて部屋を出た。
そして何より、大切なことを理解していた。
個人的な人生を望むことは、職業倫理を軽視してよい理由にはならない。
同時に、職業倫理を守ることは、一人の人間であることをやめるという意味でもない。
その二つは、両立できるのだ。
## 男たちが尋ねることを覚えなかった話
陽翔が次に神田聡たちと集まったのは、カフェに併設された小さなバリアフリーの交流室だった。
前回の集まりより静かな場所だった。
発表会もない。
正式な議題もない。
ただ数人の友人と、飲み物と軽食があり、時間が経つほど馬鹿馬鹿しくなっていく会話があるだけだった。
アパート探しの話を聞いた聡が、陽翔を誘ってくれたのだ。
森哲也と藤崎奈緒も来ていた。
里奈は予定された生活介助の一環として陽翔に同行していた。
陽翔が快適に過ごせるよう準備を手伝い、本人の希望に合わせて飲み物などの介助を行いながら、友人たちの会話には必要以上に立ち入らず、いつでも対応できるようにしていた。
最初の二十分間、話題はひたすら大家についてだった。
どうやら、この話題には尽きることがないらしい。
奈緒は、自分の車椅子で床が傷つくのではないかと尋ねてきた大家について話した。
哲也は、介助者がさまざまな時間帯に訪問することを知って驚いた管理人の話をした。
聡は、担当者が自慢げにバリアフリーの入口を案内してくれたものの、実際にはエレベーターが小さすぎて車椅子が入らなかった物件の話を披露した。
陽翔は聞いていた。
そして、ため息をついた。
「どうして住宅探しの話って、どれも悪質ないたずらみたいなんだろう」
哲也がにやりと笑った。
「物件そのものが冗談みたいなこともあるからな」
全員が笑った。
やがて話題が変わった。
奈緒が、あとで恋人と夕食を食べる予定だと話したのだ。
聡は、家具についての言い争いに決着がついたのか尋ねた。
奈緒はうめいた。
「その話はやめて」
陽翔は片眉を上げた。
「何があったの?」
「彼が、ものすごく大きなソファを欲しがってるの」
哲也が笑った。
「どれくらい大きいんだ?」
奈緒は両手を広げた。
「東京の全人口が座れるくらいじゃないかって思うほど」
陽翔はにやりと笑った。
「壮大だね」
奈緒はため息をついた。
「車椅子が通れるスペースを確保しなきゃって言ったのよ」
聡は微笑んだ。
「それで?」
「必要なときにソファを動かせばいいって」
テーブルが静まり返った。
陽翔は目を見開いた。
「毎回?」
奈緒はうなずいた。
陽翔は首を振った。
「その人には、建築的な介入が必要だね」
全員が声を上げて笑った。
奈緒はにやりと笑った。
「私もそう言ったわ」
話題は自然と恋愛へ移っていった。
デート。
プライバシー。
恋人との同居。
そして、生活の一部に介助が必要な場合に生じる、さまざまな問題。
陽翔は、自分で思っていた以上に真剣に耳を傾けていた。
やがて哲也が彼を見た。
「今日は静かだな」
陽翔は目を瞬かせた。
「そう?」
聡がにやりと笑った。
「怪しいくらいにな」
陽翔はため息をついた。
「みんな嫌いだ」
奈緒が笑った。
「何を考えてるの?」
陽翔は少し考えた。
それから、ぎこちなく微笑んだ。
「一つ聞いてもいい?」
哲也はうなずいた。
「もちろん」
陽翔はテーブルに目を落とした。
「ほとんど何をするにも介助が必要な場合って、どうやってデートするの?」
思っていたより、ずっと直接的な質問になってしまった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて哲也が微笑んだ。
「慎重にな」
陽翔はうめいた。
「全然参考にならない」
みんなが笑った。
哲也は椅子にもたれた。
「真面目な話か?」
陽翔はうなずいた。
「うん」
年上の男性は少し考えた。
「まず、介助が必要だから恋愛は無理だって考えるのをやめることだな」
陽翔は彼を見た。
哲也は続けた。
「そのうえで、自分にとってプライバシーと支援を両立するには、どうすればいいのか考えるんだ」
陽翔は眉をひそめた。
「どういう意味?」
「必要な支援は、人によって違うだろう」
哲也は自分を示した。
「デートの準備に介助が必要な人もいる。外出中に支援が必要な人もいる。出かける前や帰宅後に、移乗や身体介助が必要な人もいる」
陽翔はうなずいた。
「それに、会話には参加せず、近くで待機してもらう必要がある場合もある」
彼は考えた。
「なるほど」
奈緒が微笑んだ。
「プライバシーって、必ずしも周囲に誰もいないことじゃないのよ」
陽翔は彼女を見た。
「お互いの境界線を尊重することでもあるの」
哲也はうなずいた。
「そのとおり」
彼は、友人を招くときの対応について、支援者たちと話し合った経験を説明した。
いつ介助が必要なのか。
いつ一人で過ごしたいのか。
気まずくならずに意思を伝える方法。
そして、どこまでを支援者に求めるのが適切なのか。
簡単なことばかりではない。
それでも、不可能ではなかった。
陽翔は耳を傾けた。
それから尋ねた。
「家族は?」
哲也は笑った。
「ああ、それはまた別の問題だな」
聡がにやりと笑った。
「デート相手は全員、身元調査が必要だと思ってる家族もいるからな」
奈緒は微笑んだ。
「自分が相手を好きかどうか決める前に、会わせろって言われたりね」
陽翔は笑った。
「なんだか聞き覚えがあるなあ」
哲也は少し考えた。
「家族は力になってくれる。でも、恋愛まで仕切る権利はない」
陽翔はうなずいた。
「そうだね」
哲也は彼を見た。
「誰か気になる人でもいるのか?」
陽翔は固まった。
聡の表情が明るくなった。
「おっ?」
奈緒が身を乗り出した。
陽翔は三人を見つめた。
「いないよ」
哲也は片眉を上げた。
「即答だな」
陽翔はため息をついた。
「みんなハゲタカみたいだ」
奈緒が笑った。
「答えてくれたほうが早いわよ」
陽翔は考えた。
そして、かすかに微笑んだ。
「……いるかも」
テーブルが一気に盛り上がった。
聡がにやりと笑った。
「ほう」
陽翔はうめいた。
「聞くんじゃなかった」
哲也が笑った。
「まあ、落ち着け」
少し間を置いた。
「相手が誰であれ、知り合ったばかりのうちから、何もかも決める必要はないんだぞ」
陽翔は彼を見た。
その言葉が、胸の奥の何かに触れた。
彼は、これまであらゆる困難を想像していた。
介助体制。
プライバシー。
恋人ではなく患者として見られる可能性。
デート中に介助を受けることへの気まずさ。
まだ存在していない問題まで、解決しようとしていたのだ。
哲也は微笑んだ。
「まずは、その相手と話すのが本当に楽しいかどうかだろ」
陽翔は考えた。
そして、うなずいた。
「うん」
奈緒がにやりと笑った。
「それと、あなたの冗談で笑ってくれるかどうかね」
陽翔は微笑んだ。
「それは絶対条件だね」
聡が首を振った。
「じゃあ、お前は絶望的だな」
陽翔は吹き出した。
「ひどすぎる」
会話は続いた。
冗談と現実的な助言が交わされるうちに、陽翔は胸の中で何かが少し軽くなるのを感じていた。
恋愛をするために、身体的な介助が不要になる必要はない。
自分の介助の必要性を隠す必要もない。
自分に興味を持ってくれた人が、そのまま日常の介助を担わなければならないと考える必要もなかった。
介助は専門的な支援として維持できる。
自分の選択は、自分のものであり続ける。
そして、もし恋愛関係が生まれるなら、それは義務ではなく、お互いの愛情を土台に築くことができる。
陽翔は微笑んだ。
もしかすると、最初から質問を間違えていたのかもしれない。
どうすれば、誰かが僕と付き合ってくれるんだろう?
ではなく、
お互いを尊重できる関係って、どんなものなんだろう?
その違いは、思っていた以上に大きかった。
## 三度書き直したメッセージ
それから数日間、葵は陽翔のことを考えていた。
四六時中ではない。
仕事がある。
患者もいる。
研修もある。
家事もある。
そして、日本中の職業が文房具業界を存続させるために密約でも結んでいるのではないかと疑いたくなるほど、大量の書類仕事もあった。
それでも、ふとした静かな瞬間に、文化センターでの出来事を思い出した。
彼の笑顔。
地域での看護について話したとき、真剣に聞いてくれたこと。
仕事の話から本やひどい映画の話へ、自然に会話が移っていったこと。
もう一度、彼と話したかった。
そして、きちんとした形でそうしたかった。
関係する指針を確認し、千里の助言を考慮したあとも、葵は以前の関係に慎重な対応が必要だと理解していた。
看護師と患者だった過去を、何でもないこととして扱ってよい根拠はなかった。
今後、彼の介助を担当することも、職業上の立場を利用して連絡を取ることもしない。
同時に、急ぐ必要もなかった。
大切なのは、かつての役割を混同することなく、互いの自由な意思に基づく、尊重し合える個人的な関係を築けるかどうかだった。
葵は、適切な機会があれば、陽翔本人に直接尋ねようと決めた。
その機会は、予想より早く訪れた。
以前のアクセシビリティイベントの主催者から、参加者に向けて案内が届いたのだ。
アクセシブルなデジタルサービスについて話し合う、任意参加のフォローアップイベントだった。
開催形式はオンライン。
陽翔には、自分で行った参加登録を通じて案内が届いた。
葵にも、別途案内が届いた。
二人とも参加した。
話し合いは一時間ほど続いた。
終了後、主催者は希望者向けに、自由に交流できる時間を設けた。
陽翔は残った。
葵も残った。
二人はすぐに互いを見つけた。
陽翔は微笑んだ。
「ああ、まずい」
葵が笑った。
「また?」
陽翔はうなずいた。
「ここまでくると、イベント主催者に尾行されてる気がする」
葵は吹き出した。
二人はほかの参加者たちとも少し話した。
そして、交流会がお開きに近づいた頃、葵は陽翔に少し時間があるか尋ねた。
彼はうなずいた。
「もちろん」
葵は微笑んだ。
「聞きたいことがあるの」
陽翔は片眉を上げた。
「警戒したほうがいい?」
「たぶんね」
彼はにやりと笑った。
「素晴らしい」
葵は笑った。
それから、少し真剣な表情になった。
「この前のイベントで話したこと、ずっと考えてたの」
陽翔はうなずいた。
「うん」
「それで、職業上の境界線について上司にも相談したの」
彼は耳を傾けた。
葵は、助言を求め、関係する問題を確認したこと、そして今後も彼との関係を看護や介助から完全に切り離しておくつもりだと説明した。
その相談によって、あらゆる倫理的問題が解消されたと保証されたわけではないことも、きちんと伝えた。
陽翔は、その誠実さがありがたかった。
彼女に仕事上の立場を危うくしてほしくなかった。
そして、二人の友情が、過去の関係など存在しなかったふりをすることで成り立つのも嫌だった。
葵は息を吸った。
「それでも、もっとあなたのことを知りたいと思ってる」
陽翔は微笑んだ。
「そうなの?」
葵はうなずいた。
「友達として」
彼は少し考えた。
そして、にやりと笑った。
「ひどい判断だね」
葵は笑った。
「わかってる」
陽翔も微笑んだ。
「でも、僕もそうしたい」
一瞬、葵はほっとしたような表情になった。
それから、個人的な連絡手段を交換しても構わないか尋ねた。
介助チームを通じてではない。
病院や事業所の記録を使ってでもない。
ただ、二人の自由な意思で。
陽翔は同意した。
二人は、共有する個人情報を自分たちで管理できるメッセージアプリを選んだ。
葵は、つきまとい行為の捜査がまだ続いていることもあり、これまでのプライバシー対策を忘れないようにした。
連絡先を交換した。
それから、二人は画面越しに顔を見合わせた。
陽翔は微笑んだ。
「さて」
葵は片眉を上げた。
「さて?」
「これで正式に友達になったわけだね」
葵は笑った。
「そういう仕組みなの?」
陽翔はうなずいた。
「普通は書類手続きもあるんだけど」
葵はうめいた。
「お願いだから、やめて」
彼はにやりと笑った。
「もう遅いよ」
二人は別れの挨拶をした。
オンライン交流会は終了した。
陽翔は画面に新しく追加された連絡先を見つめた。
水野 葵
彼は微笑んだ。
そして、すぐに慌て始めた。
大げさなものではない。
医療的な処置が必要になるほどでもない。
しかし、最初に送るメッセージのあらゆる可能性を考え直すには十分だった。
陽翔は会話画面を開いた。
入力する。
『こんにちは。』
そして、消した。
堅苦しすぎる。
次に、
『やあ。』
と入力した。
それも消した。
今度は軽すぎるだろうか。
陽翔は画面を見つめた。
「馬鹿馬鹿しいなあ」
何か気の利いたことを書こうと考えた。
魅力的な一言。
完全な馬鹿に見えずに、自分のユーモアを示せる言葉。
数分後、ようやく入力した。
『おめでとうございます。東京で一番面倒くさい人間を、連絡先に追加することに成功しました。』
読み返した。
そして、微笑んだ。
「完璧」
送信した。
街の向こう側で、葵の携帯電話が震えた。
彼女は美香の家のキッチンテーブルに座っていた。
メッセージを開く。
そして、吹き出した。
美香が顔を上げた。
「何?」
葵は首を振った。
「何でもない」
美香は片眉を上げた。
「何でもないようには聞こえないけど」
葵は微笑んだ。
そして、返信を入力した。
『ずいぶん大胆な宣言ね。私、智子さんと一緒に働いてるんだけど。』
陽翔はそれを読んだ。
そして、笑った。
『なるほど。それなら二位で妥協するよ。』
葵は微笑んだ。
『寛大なのね。』
陽翔はにやりと笑った。
『謙虚さには定評があるからね。』
葵は笑った。
『本当に?』
陽翔は少し考えた。
そして、入力した。
『ないよ。』
葵は声を上げて笑った。
美香がじっと見つめた。
「葵」
葵は顔を上げた。
「何?」
「誰と話してるの?」
葵はためらった。
それから、微笑んだ。
「友達」
美香は少し考えた。
そして、にやりと笑った。
「へえ?」
葵はため息をついた。
「やめて」
美香は笑った。
「何も言ってないじゃない」
「考えてることがうるさいのよ」
「才能なの」
葵は首を振った。
そして、再び会話画面に目を戻した。
## 面と向かっては言えなかったこと
二人のメッセージのやり取りは続いた。
最初は、ごく普通の話題だった。
陽翔は、結末があまりにもひどくて読者の知能を侮辱しているとしか思えない推理小説について文句を言った。
葵は、出来の悪い医療ドラマを見て、放送時間の半分ほどテレビに向かって文句を言い続けていたことを白状した。
陽翔が楽しめたのか尋ねると、葵は、いろいろ問題はあったけれど楽しんだと答えた。
彼は趣味が悪いと非難した。
葵は、陽翔だって悪評高いSF映画を何本も自分から見ていたではないかと指摘した。
陽翔は、あれは世間に理解されていない傑作なのだと弁護した。
葵は同意しなかった。
会話は自然に進んでいった。
やがて、少しずつ静かな話題へと変わっていった。
陽翔は、最近アパートを探していることを話した。
葵は、どんな調子なのか尋ねた。
彼は、二軒目の物件は有望だけれど、必要な介助体制や費用の問題がまだ解決していないと説明した。
葵は耳を傾けた。
そして、そのアパートで一番気に入っているところは何か尋ねた。
陽翔は考えた。
『窓かな。』
葵は微笑んだ。
『窓?』
『うん。公園が見えるんだ。』
彼は少し間を置いた。
『そこに机を置けたらいいなって。』
葵は想像した。
部屋。
日差し。
窓際で仕事をする陽翔。
彼女は微笑んだ。
『素敵ね。』
陽翔は母の写真に目を向けた。
それから、入力した。
『母さんも気に入ったと思う。』
彼はその文章を見つめた。
一瞬、消そうかと思った。
しかし、そのまま送信した。
葵は文字を読んだ。
笑みが柔らかくなった。
美咲のことを思い出した。
よく知っていた人というわけではない。
陽翔を通じて知った人だった。
彼の悲しみ。
彼が話してくれた思い出。
以前見た写真。
そして、陽翔が新しい生活を築こうとするたび、その隣にはいつも母親の不在があるように感じられたこと。
葵は返事を慎重に考えた。
そして、入力した。
『お母さんは、どんなところを気に入ったと思う?』
陽翔は画面を見つめた。
意外な質問だった。
同情の言葉が返ってくると思っていた。
もしかすると、謝られるかもしれない。
あるいは、美咲もきっと誇りに思っているというような言葉かもしれない。
けれど、葵は母親について話すように促してくれた。
陽翔はかすかに微笑んだ。
そして、入力し始めた。
『日差し。』
少し間を置いた。
『母さん、暖かい感じのする部屋が好きだったから。』
さらにメッセージを送った。
『あと、キッチンには文句を言っただろうね。』
葵は微笑んだ。
『どうして?』
『狭すぎるから。』
陽翔は小さく笑った。
『キッチンについては、ものすごくこだわりが強かったんだ。』
葵が返信した。
『なんだか聞き覚えがあるわね。』
陽翔はにやりと笑った。
『きっと気が合ったと思うよ。』
少し間を置いた。
そして、付け加えた。
『たぶん。』
葵は微笑んだ。
『たぶん?』
『母さん、おしゃべりな人には厳しかったからね。』
葵は吹き出した。
『じゃあ、私は絶望的だったわね。』
陽翔は微笑んだ。
『間違いなく。』
会話が少し途切れた。
やがて葵が入力した。
『会ってみたかったな。』
陽翔はその言葉を読んだ。
胸が締めつけられた。
美咲の写真に目を向けた。
数秒間、動けなかった。
そして、入力した。
『僕も。』
彼は画面を見つめた。
それから、続けた。
『変な感じなんだ。』
葵は待った。
『今、いろんなことが起きてるでしょ。』
『仕事とか、アパートとか、友達とか。』
少し間を置いた。
『それで、いいことがあるたびに、母さんに話したくなるんだ。』
葵はメッセージを丁寧に読んだ。
急いで返事をしなかった。
陽翔は続けた。
『もういないってことは、わかってる。』
『忘れてるわけじゃないんだ。』
『でも、ときどき最初に思うのは、母さんに教えたら喜ぶだろうなってことなんだよ。』
彼は写真に目を向けた。
そして、入力した。
『そういう気持ちを、どうしたらいいのかわからなくて。』
葵は静かに座っていた。
キッチンの照明が携帯電話の画面に反射していた。
美香はリビングへ移動し、彼女を一人にしてくれていた。
葵は考えた。
そして、返信した。
『すぐにどうにかしようとしなくても、いいんじゃないかな。』
陽翔は読んだ。
葵は続けた。
『お母さんに話したくなるのは、それだけお母さんを愛しているからなのかもしれない。』
陽翔は唾を飲み込んだ。
さらにメッセージが届いた。
『嬉しいことがあったときに、同時に寂しくなるのも、悪いことじゃないと思う。』
陽翔は画面を見つめた。
目の奥が熱くなった。
こんな会話になるとは思っていなかった。
冗談を言うつもりだった。
仕事の愚痴でもこぼすつもりだった。
映画について言い争うのもいいと思っていた。
それなのに今、彼は自分の部屋に座り、まだ知り合い始めたばかりの女性に、母親がどれほど恋しいかを打ち明けていた。
陽翔は息を吸った。
そして、入力した。
『ありがとう。』
葵はかすかに微笑んだ。
『どういたしまして。』
陽翔は考えた。
それから、付け加えた。
『ごめん。暗い話になっちゃったね。』
葵は眉をひそめた。
返信した。
『謝らなくていいよ。』
陽翔は見つめた。
さらにメッセージが届いた。
『私が聞いたんだから。』
陽翔は小さく笑った。
『それもそうか。』
葵は微笑んだ。
そして、入力した。
『それに、お母さんの話を聞くの、好きだよ。』
陽翔は写真に目を向けた。
母が微笑んでいる。
彼は唾を飲み込んだ。
そして、返信した。
『母さんも葵のこと、気に入ったと思う。』
葵はその言葉を読んだ。
一瞬、何と返せばいいかわからなくなった。
頬が熱くなった。
窓の外に目を向けた。
それから、携帯電話に視線を戻した。
ようやく、入力した。
『私も、きっとお母さんのことが好きになったと思う。』
陽翔は微笑んだ。
会話は静かになった。
気まずい沈黙ではない。
空虚な沈黙でもない。
ただ、静かだった。
数分後、葵がまたメッセージを送った。
『一つ、話してもいい?』
陽翔は画面を見た。
『もちろん。』
葵はためらった。
拓海のことを考えた。
病院の廊下にまでつきまとってきた恐怖。
写真。
先の見えない不安。
今も守り続けている安全対策。
陽翔にすべてを話したいわけではなかった。
まだ、そのときではない。
そして、自分を守る責任を彼に感じさせたくもなかった。
けれど、一つだけ正直に伝えたいことがあった。
葵は入力した。
『私、まだ人を信じる練習をしてるところなの。』
陽翔はそのメッセージを読んだ。
笑みが消えた。
少し考えた。
そして、返信した。
『そうなんだ?』
葵は画面を見つめた。
『うん。』
少し間を置いた。
『誰かと親しくなったら、また自分で物事を決められなくなるんじゃないかって、怖くなることがあるの。』
陽翔は胸が締めつけられるのを感じた。
彼女の過去について、十分ではないにせよ、その言葉がどれほど重いものか理解できる程度には知っていた。
詳しいことを尋ねようとはしなかった。
問題を解決してあげるとも言わなかった。
ただ、彼女の言葉について考えた。
そして、入力した。
『僕は、葵にそんな思いをしてほしくない。』
葵は読んだ。
陽翔は続けた。
『自分の人生で何をするかは、自分で決められるべきだよ。』
葵は唾を飲み込んだ。
さらにメッセージが届いた。
『たとえ、その判断がひどいものでもね。』
葵は目を瞬かせた。
そして、吹き出した。
『ちょっと、どういう意味?』
陽翔はにやりと笑った。
『僕と友達になることを選んだでしょ。』
葵はさらに笑った。
『確かに、それは反論できないわ。』
陽翔は微笑んだ。
そして、また真剣になった。
『でも、本当に。』
『僕に何かしてあげなきゃって思わなくていいから。』
葵は画面を見つめた。
陽翔は続けた。
『ただ話せればいいんだ。』
『距離を置きたいときがあっても、それでいいよ。』
数秒間、葵は返事ができなかった。
暗くなった窓に目を向けた。
ガラスには、自分の姿が映っていた。
疲れた目をした若い女性。
新しい仕事。
不確かな未来。
そして、手の中の携帯電話。
誰かの反応を怖がりながら過ごした時間があまりにも長かったせいで、陽翔の言葉の単純さが、かえって新鮮に感じられた。
彼は約束を求めていない。
説明を強要していない。
彼女の関心を、当然受け取る権利があるものとして扱っていない。
ただ、友情を差し出してくれている。
葵は微笑んだ。
そして、入力した。
『ありがとう、陽翔。』
彼が返信した。
『どういたしまして。』
続けて、
『ちなみに、僕が客観的に見ても魅力的な人間であることは変わらないけどね。』
葵は吹き出した。
『それは議論の余地があるわね。』
陽翔はにやりと笑った。
『なんて冷酷な女性なんだ。』
葵は微笑んだ。
『おやすみ、問題児さん。』
陽翔は画面を見た。
そして、入力した。
『おやすみ、おしゃべり看護師さん。』
葵は笑った。
携帯電話を隣に置いた。
しばらく静かに座っていた。
そして、一人で微笑んだ。
新しく知り合った人との会話を終えたあと、不安になるのではなく、心が軽くなったのは久しぶりだった。
この先、どうなるのかはわからない。
今すぐ決めるつもりもなかった。
けれど、話せてよかったと思った。
## 場所ではなかった「家」
会話が終わったあとも、陽翔はしばらく起きていた。
夜の介助は終わり、いつもの方法で助けを呼べる状態を整えたうえで、楽な姿勢で休んでいた。
家の中は静かだった。
大地は二階へ上がっていた。
由紀はキッチンで何かを片づけている。
外では、風が庭の木々を優しく揺らしていた。
陽翔はパソコンに目を向けた。
それから、美咲の写真を見た。
彼は微笑んだ。
「さて、母さん」
声は小さかった。
「なかなか面白いことになったよ」
少し考えた。
そして、笑った。
「そんな顔で見ないでよ」
写真の中の母は、変わらず微笑んでいた。
陽翔はにやりと笑った。
「はいはい、わかってる」
メッセージ画面に目を向けた。
葵の最後の言葉が残っていた。
『おやすみ、問題児さん。』
彼は微笑んだ。
ふと、アパートのことを考えた。
公園を見渡せる窓。
寝室。
まだ整えなければならない介助体制。
費用の問題。
先の見えない不安。
それから、聡のことを考えた。
哲也。
奈緒。
恋愛について交わした会話。
プライバシー。
そして、障害が存在しないふりをせずに、自分の人生を築く権利。
誰かが自分の介助の必要性を受け入れてくれるだろうかと、あまりにも長く悩んでいた。
そのせいで、そもそも誰かと一緒にいることを楽しめるかもしれない、という単純なことを忘れていたのだ。
葵と話していると笑える。
彼女は話を聞いてくれる。
彼に遠慮なく反論する。
そして、彼が大切にしていることに、本当に興味を持ってくれているようだった。
それだけで、もっと知りたいと思うには十分だった。
友情がそれ以上のものになるのかは、わからない。
ならないかもしれない。
ずっと友達のままかもしれない。
以前の職業上の関係や、それぞれの人生にある複雑な事情によって、それ以上の関係は適切ではないという結論になるかもしれない。
それでも、受け入れられると思った。
今は、新しく話せる相手ができたことが嬉しかった。
生まれたときから自分を知っているわけではない人。
母親の死と、自分を自動的に結びつけない人。
彼の冗談を聞いて、ユーモアがいつも悲しみを隠すためのものではないと理解してくれる人。
単純に面白いだけのときだってあるのだ。
陽翔は微笑んだ。
そして、母への手紙を保存しているフォルダーを開いた。
新しい文書を作成した。
母さんへ
大人になるってどういうことなのか、少しわかってきた気がする。
彼は少し間を置いた。
そして、続けた。
どうやら、一度に全部できるようになるわけじゃないらしい。
ある朝目を覚ましたら、仕事もアパートも手に入っていて、お金の仕組みも完全に理解できていて、仏教のお坊さんみたいに精神的に成熟している、なんてことにはならないんだね。
陽翔はにやりと笑った。
少なくとも、僕はまだそうなってない。
由紀のことを考えた。
夜間の介助についての会話。
愛しているからこそ、自分の時間を犠牲にしようとしてくれたこと。
彼は入力した。
由紀おばさんに、僕の夜間介助を定期的に担当してほしくないって伝えたんだ。
最初は少し悲しそうだった。
でも、わかってくれたと思う。
少し間を置いた。
僕は、由紀おばさんには叔母さんでいてほしい。
僕のために人生を全部組み替えなきゃいけない人には、なってほしくないんだ。
彼は考えた。
母さんが何年もそうしてくれたことは、わかってる。
笑みが消えた。
写真に目を向けた。
僕を愛してくれていたことも、わかってる。
でも、僕に言わずに、どれほどたくさんのものを諦めてきたんだろうって思うんだ。
陽翔は唾を飲み込んだ。
そして、続けた。
もっと助けてくれる人がいればよかったのに。
その言葉を書くのは難しかった。
彼はしばらく見つめた。
それから、付け加えた。
母さんだけじゃ足りなかったって意味じゃないよ。
母さんは十分すぎるくらい頑張ってくれた。
でも、母さんにだって、自分の人生を生きる権利があったんだから。
陽翔は息を吸った。
部屋は静かだった。
美咲が書き残した、未完成の手紙を思い出した。
誰かが彼の世話をすることと、彼の代わりに物事を決めることを混同してしまうのではないかという、母の不安。
自分がいなくなったあとも、陽翔が人生を築き続けてほしいという願い。
彼は寂しそうに微笑んだ。
母さんが言いたかったこと、ようやく少しわかってきた気がする。
少し間を置いた。
そして、続けた。
それから、もう一つあるんだ。
陽翔はにやりと笑った。
友達ができたよ。
少し考えた。
前に話した葵のこと、覚えてるかな。
おしゃべりな看護師さん。
彼は小さく笑った。
連絡先を交換したんだ。
結婚式の計画を立て始める前に、落ち着いてね。
彼は微笑んだ。
まだ、ただの友達だから。
少し間を置いた。
そして、入力した。
でも、彼女と話すのは好きなんだ。
その一文は単純だった。
少し恥ずかしくなるほどに。
消そうかとも思った。
けれど、やめた。
続きを書いた。
今夜、母さんの話をしたよ。
あのアパートのどこを母さんが気に入ったと思うか、聞いてくれたんだ。
日差しのことを話した。
目の奥が熱くなった。
陽翔は唾を飲み込んだ。
母さんも、きっとあの窓が好きだったと思う。
少し間を置いた。
そして、入力した。
今でも、毎日母さんが恋しいよ。
でも、もう立ち止まっているような気はしないんだ。
彼は窓に目を向けた。
外の庭は暗かった。
見慣れた家が彼を包んでいた。
叔母と叔父が用意してくれた部屋。
快適に暮らすための機器。
日常生活を可能にしてくれる介助体制。
そのすべてに感謝していた。
それでも、もっと多くのものを望んでいた。
自分の家。
好きな仕事。
友達。
旅行。
そして、もしかすると恋愛も。
陽翔は微笑んだ。
今あるものに感謝していることと、もっと多くのものを望むことは、矛盾しないんだね。
少し間を置いた。
ただ、僕が生きているってことなんだと思う。
しばらく静かに座っていた。
そして、手紙を締めくくった。
愛を込めて。
どうやら本人の意思に反して、責任感のある大人になりつつある息子より。
陽翔
文書を保存した。
それから、美咲の写真に目を向けた。
「おやすみ、母さん」
ささやくような声だった。
窓の外では、風が木の葉を揺らしていた。
東京のどこかで、葵も美香のアパートで眠る準備をしていた。
彼女には新しい仕事があった。
複雑な過去があった。
そして、ようやく少しずつ信じられるようになってきた未来があった。
陽翔には、いつか暮らせるかもしれないアパートがあった。
続けていきたい仕事があった。
自分を理解してくれる友達がいた。
そして、かつて人生の隅々まで満たしていた悲しみよりも、少しずつ大きくなっていく生活があった。
二人とも、この先何が起こるのかは知らなかった。
約束は交わしていない。
愛の告白もしていない。
次にまた話すこと以外、何の計画も立てていなかった。
それでも、何かが変わっていた。
物語が恋の始まりを描くときに好んで使うような、劇的な変化ではない。
花火の下で突然、恋心に気づいたわけではなかった。
雨の中で必死に愛を告白したわけでもない。
すべての問題を解決するような、奇跡的な行動があったわけでもない。
ただ、二人の人間が話すことを選んだ。
耳を傾けることを選んだ。
互いの間にある距離を尊重することを選んだ。
そして、その距離の中でいつか何かが育つかもしれないように、可能性を閉ざさずにいた。
陽翔は、最後のメッセージをもう一度見た。
『おやすみ、問題児さん。』
彼は微笑んだ。
そして、会話画面を閉じた。
長い間、明日という日は、ただ耐えなければならないもののように感じられていた。
けれど、今は違った。
明日を迎えることが、少し楽しみになっていた。
そして、二つの鼓動の狭間に、小さくてありふれた幸せが、静かに部屋へと舞い降りた。
過去を消し去るほど大きな幸せではない。
未来を約束してくれるほど確かな幸せでもない。
それでも、人生にはまだ、自分を驚かせてくれる出来事が残されているのだと、思い出させてくれるには十分だった。




