第21章 閉ざされていた心に、光を届ける窓が開くとき
二件目のアパートには、美しい玄関ドアがなかった。
高橋陽翔は、それを幸先のいい兆候だと考えた。
入口にあるのは、淡い色の金属と強化ガラスでできた、ごく普通の自動ドアだった。控えめな機械音とともに左右に開くその扉には、磨き上げられた真鍮の取っ手も、装飾的な木工細工もなければ、中世の城の入口を思わせるようなものも何一つなかった。
しかし、電動車椅子が十分に通れる幅は確保されていた。
そして、それこそが建築的な美しさよりもはるかに価値のあるものだと、陽翔はすでに学んでいた。
彼はドアが開くのを見ながら、車椅子を前進させた。
「いやあ、少なくともこの建物は、紳士の迎え方を心得ているみたいだね」
隣にいた田中恵子が微笑んだ。
「幸先のいいスタートですね」
「まだ喜ぶのは早いよ。前のアパートは玄関ドアで僕を誘惑しておいて、浴室で裏切ったんだから」
恵子は笑った。
「覚えていますよ」
「ならよかった。配管を確認するまでは、僕は心を開かないことにしたから」
その建物は東京都西部の比較的静かな通りに面しており、鉄道駅や近所の商店にもアクセスしやすい場所にあった。前回内見した物件よりも新しく、こぢんまりとしたエントランスホールにはわかりやすく表示されたエレベーターがあり、廊下もゆとりを持って移動できるように設計されていた。
建物の管理担当者によると、入居者の中には車椅子やその他の移動補助機器を使っている人も何人かいるという。
日常生活で多くの介助を必要とする人もいれば、訪問看護師や支援スタッフが一日のうちに何度も出入りする人もいた。
ただし、ここは介護施設ではない。
入居者はそれぞれ自分の名義で賃貸契約を結び、必要な支援を個別に手配して暮らしていた。
その違いは、陽翔にとって重要だった。
彼が欲しいのは家であって、カーテンだけが立派になった施設ではない。
恵子からは、障害のある入居者を受け入れた経験がある建物だからといって、介助者や看護師、緊急時の支援体制まで提供してくれるわけではないと説明されていた。それらは別途、確保しなければならない。
それでも、検討する価値は十分にあった。
今回も、星野里奈が予定された介助業務として同行していた。内見の手配は恵子が行い、大地はあとで合流して寸法や確認事項について話し合うことになっている。
陽翔は今回、由紀には同行しないでほしいと頼んでいた。
彼女に関わってほしくないわけではない。
ただ、一度くらいは、叔母が考え得る限りの災難を想像している姿を見ずに、住宅の内見を経験してみたかったのだ。
由紀はその希望を受け入れた。
渋々ではあったが。
しかも、国会の質疑応答に匹敵するほど大量の質問を浴びせたあとで。
陽翔はエレベーターへ向かった。
扉が開く。
中へ入ると、車椅子を楽に旋回させられるだけの広さがあった。
彼は恵子を見た。
「よし」
彼女は微笑んだ。
「よし、ですか?」
「この建物は第一審査を通過した」
里奈が笑った。
陽翔は厳かにうなずいた。
「次の試練へ進もう」
エレベーターが上昇を始めた。
そして、一階から目的の部屋へ向かう短い時間の中で、陽翔は自分が緊張していることに気づいた。
アパートが自分に適しているかどうかが不安なのではない。
その点については、失望することにも少しずつ慣れてきていた。
彼が緊張していたのは、家を出るという目標が、初めて遠い夢物語ではなくなりつつあったからだ。
本当に実現するかもしれない。
すぐにではない。
簡単にでもない。
けれど、いつか。
その可能性は、恐ろしくなるほど胸を躍らせるものだった。
車椅子だけでなく、暮らしを受け入れられる場所
アパートは三階にあった。
玄関を入ると短い廊下があり、その先にはリビングとダイニングが一体になった空間が広がっていた。
大きな窓から差し込む日差しの向こうには、小さな公園が見えた。
壮大な景色ではない。
山もない。
海もない。
けれど、窓の向こうでは木々が風に揺れ、ベンチや花壇の間を縫うように舗装された小道が続いていた。
陽翔は微笑んだ。
「いいね」
恵子もうなずいた。
「そうですね」
不動産会社の担当者によると、この部屋は車椅子利用者を想定して設計されているという。ただし、実際に適しているかどうかは、使用する機器や必要な介助、改修の有無によって異なるとのことだった。
陽翔は、その説明が気に入った。
最近の彼は、「完全バリアフリー」という言葉をひどく嫌うようになっていた。
たいていの場合、それは誰かが質問するのをやめたという意味だからだ。
彼はリビングを進んだ。
車椅子が壁に触れることなく方向転換できるだけの広さがある。
床は滑らかだった。
コンセントも、前のアパートより使いやすい位置に設置されていた。
寝室の入口も、車椅子で無理なく通れる幅が確保されている。
陽翔は窓に近づいた。
眼下の公園では、年配の男性が小さな犬を散歩させていた。
犬は木のそばで立ち止まった。
男性は待った。
犬は熱心に調査を続けている。
陽翔は数秒間、その様子を眺めた。
「あの犬、ずいぶん念入りに捜査してるね」
里奈が微笑んだ。
「探偵なのかもしれませんね」
陽翔はうなずいた。
「プロだね」
恵子が笑った。
一行は寝室へ向かった。
今度の部屋は、前回よりもずっと期待できそうだった。
ベッドを適切な位置に配置すれば、必要な側に介助のための空間を確保できる可能性があった。ただし、実際の配置については、陽翔が使用する機器の寸法や介助者の作業に必要な広さを踏まえて評価する必要がある。
クローゼットは開き戸ではなく、引き戸だった。
窓の近くには机を置けそうな空間もあった。
陽翔は部屋を見渡した。
そして、微笑んだ。
「ここなら仕事ができそう」
恵子はうなずいた。
「可能性はありますね」
陽翔は彼女をちらりと見た。
「人の興奮を台無しにするのが、どんどん上手になってるね」
彼女は笑った。
「誰かが現実的な質問をしなければなりませんから」
陽翔はため息をついた。
「悲劇だ」
続いて、浴室を確認した。
前回のアパートよりも、かなり広かった。
入口の幅も十分にある。
車椅子を動かすための空間にも余裕があった。
設備の配置にも、車椅子での利用を想定した工夫が見られた。
陽翔の胸に、かすかな希望が灯った。
里奈は室内を注意深く確認した。
恵子も寸法を見直した。
そして、陽翔が普段行っている身体介助を、この空間でどのように実施できるか話し合った。
期待できそうな部分もあった。
一方で、まだ判断できない部分もある。
入浴方法には調整が必要かもしれない。
移乗の方法、使用する機器、安全な姿勢保持、そして陽翔と介助者の双方に負担や危険が生じない作業空間についても検討しなければならなかった。
この浴室が本当に使えるかどうか結論を出すには、専門的な評価が必要だった。
陽翔は説明を聞いた。
そして、うなずいた。
「つまり……」
恵子が彼を見た。
「はい?」
「今のところ、大惨事ではない?」
彼女は微笑んだ。
「今のところ、大惨事ではありません」
陽翔は満面の笑みを浮かべた。
「素晴らしい。ほとんど絶賛じゃないか」
その後も、一行は室内を確認して回った。
キッチンでは予想どおり、多くの作業に介助が必要だった。
バルコニーの敷居も、さらに詳しく調べる必要がある。
収納スペースは限られていた。
介助に使用する機器の一部をどこに保管するかという問題も残っていた。
けれど、前回のアパートとは違い、問題が最初から解決不可能に見えるわけではなかった。
陽翔は、ここで暮らす自分を想像できた。
窓際に置いたパソコン。
壁に並ぶ本棚。
楽な姿勢で見られる位置に設置されたテレビ。
来客用の小さなテーブル。
母の写真を飾る場所。
彼はもう一度、寝室を見た。
一瞬、そこで目覚める自分を想像した。
由紀と大地の家ではない。
美咲が亡くなったあと、二人が一生懸命に整えてくれた部屋でもない。
自分自身の部屋。
そう考えると、胸が締めつけられた。
陽翔はかすかに微笑んだ。
「すごいな……」
里奈が彼を見た。
「どうしました?」
陽翔は首を振った。
「何でもない」
それから窓に目を向けた。
「ちょっと考えてただけ」
壁の向こうに隠された問題
内見は、予定より長引いた。
最初の興奮が落ち着くと、確認すべき問題が次々に出てきたのだ。
恵子は改修について質問した。
不動産会社の担当者によれば、構造に関わらない一部の変更は所有者の承認があれば検討できるかもしれないが、正式な申請前に約束することはできないという。
建物への出入りについても話し合った。
設備の保守管理。
エレベーターの信頼性。
緊急時の避難方法。
そして、階段を利用できない住民に対して、建物側がどのような対応手順を設けているのか。
管理担当者は建物全体の防災方針を説明したが、陽翔については、関係する支援機関や建物の担当者と協力し、個別の避難計画を作成する必要があると認めた。
陽翔は注意深く耳を傾けた。
横浜で故障していたエレベーターを思い出した。
あのときは不便だった。
しかし、自分が暮らす建物でエレベーターが使えなくなれば、もっと深刻な問題になり得る。
次は介助体制だった。
建物自体は介助サービスを提供していない。
陽翔は、利用できる制度や支援サービスを通じて、必要な介助体制を整えなければならなかった。
夜間の介助や、予定外の事態に対応するための代替要員も含め、慎重な検討が必要だった。
訪問看護についても同様だった。
アパートの所在地によっては、利用できる事業所が変わる可能性がある。
現在のケアチームが継続して担当できない場合には、適切な引き継ぎを計画しなければならない。
陽翔は恵子を見た。
「問題が山積みだね」
彼女はうなずいた。
「そうですね」
彼は少し考えた。
「でも、できると思う?」
恵子は部屋を見渡した。
「可能性はあります」
陽翔はかすかに微笑んだ。
「また、その言葉だ」
彼女は小さく笑った。
「ただし、今回は前回よりずっと有望な出発点です」
陽翔はうなずいた。
不動産会社の担当者からは、この部屋を陽翔のために確保しておくわけではないと説明された。
ほかの入居希望者が申し込む可能性もある。
また、支援体制が実現可能かどうかを確認するだけでなく、通常の賃貸契約に必要な条件も満たさなければならなかった。
陽翔は理解していた。
これは予約ではない。
情報収集なのだ。
それでも、帰る準備をしながら、彼はリビングを振り返った。
日差しの角度が変わっていた。
窓の向こうの公園が、柔らかな光に包まれている。
春の朝、カーテンを開ける自分を想像した。
一杯のお茶。
ガラス越しに聞こえる車の音。
誰かに朝食の準備を手伝ってもらいながら、天気について文句を言う自分。
陽翔は微笑んだ。
「恵子さん?」
彼女が振り向いた。
「はい?」
「この部屋、候補に残しておいてもらえる?」
恵子の表情が和らいだ。
「もちろんです」
陽翔はうなずいた。
そして、にやりと笑った。
「よかった」
もう一度、部屋を見た。
「この部屋なら、面倒な問題と戦う価値がありそうだから」
訪問者になることを恐れた女性
高橋由紀は、その朝、整理する必要などまったくない食器棚を片づけていた。
本人もわかっていた。
食器棚もわかっていた。
不揃いのマグカップたちでさえ、余計なお世話だと憤慨しているように見えた。
それでも、由紀は作業を続けた。
茶碗を積み直す。
茶葉の容器を並べ替える。
マグカップの位置を調整する。
そして、結局すべてを元の場所に戻した。
ダイニングテーブルから、大地がその様子を見ていた。
「由紀」
彼女は振り向かなかった。
「何?」
「大丈夫か?」
「もちろん」
大地は少し考えた。
「その食器棚、もう四十分も整理してるけど」
由紀は手を止めた。
そして、ため息をついた。
「わかってるわ」
大地は新聞を畳んだ。
「陽翔のことを考えてるのか?」
由紀は夫を見た。
違うと言いたかった。
けれど、そんなことを言っても仕方がない。
「ええ」
大地はうなずいた。
由紀は食器棚を閉めた。
そして、夫の向かいに座った。
「まだ物件を見ているだけだって、わかってるの」
大地は優しく微笑んだ。
「ああ」
「それに、自分の家が欲しいっていう気持ちも理解してる」
「うん」
由紀は窓に目を向けた。
「でも、あの子が出ていくことを考えるたびに……」
言葉が途切れた。
大地は待った。
由紀はため息をついた。
「陽翔がいなくなったら、この家はどんなふうに感じるんだろうって、考えてしまうの」
そう認めるのは、少し恥ずかしかった。
陽翔がこの家で暮らし始めてから、それほど長い時間が経ったわけではない。
以前の家は静かだった。
二人にはそれぞれの日課があった。
仕事があった。
夫婦で過ごす夜があった。
そして、美咲が亡くなった。
陽翔がやってきた。
家は変わった。
スロープが設置された。
書斎は寝室になった。
介助スタッフが出入りするようになった。
それまで普通の家具が置かれていた場所に、医療機器が並ぶようになった。
予定の調整は複雑になった。
通院があった。
会議があった。
予想外の問題も起きた。
そして、どれほど疲れた日でも、冗談一つで気持ちを軽くしてくれる青年がいた。
由紀は、いつも心配していた。
今もそうだった。
けれど、いつの間にか、廊下を進む陽翔の車椅子の音を楽しみにするようになっていた。
夕食中の皮肉たっぷりな発言。
大地の料理への文句。
リビングから聞こえる笑い声。
陽翔がいる生活が、当たり前になっていた。
そして今、彼は家を出ようとしている。
不幸だからではない。
由紀が失敗したからでもない。
成長しているからだ。
由紀は、それを理解していた。
理解しているからといって、寂しくなくなるわけではなかった。
大地はテーブル越しに手を伸ばし、妻の手を握った。
「陽翔は、俺たちから離れていくわけじゃないよ」
由紀は寂しそうに微笑んだ。
「わかってる」
「自分の人生を築こうとしてるんだ」
彼女はうなずいた。
「それも、わかってるわ」
大地は少し考えた。
「じゃあ、何が怖いんだ?」
由紀は目を伏せた。
しばらく、答えられなかった。
そして、小さな声で言った。
「もし、あの子がもう私を必要としなくなったら?」
大地は黙っていた。
口にした途端、自分勝手な質問に聞こえた。
陽翔の人生を、自分が必要とされたいという願望に合わせて決めてはいけない。
そんなことは、わかっている。
けれど、美咲を失ったあと、由紀は陽翔を支えることに全力を注いできた。
いつだって、やるべきことがあった。
電話をかける相手がいた。
解決すべき問題があった。
準備する食事があった。
調整する予定があった。
そして、そのすべての奥底で、もしかすると自分は、妹が生きていた頃の日常の最後のかけらを手放すまいとしていたのかもしれなかった。
大地は妻の手を優しく握った。
「由紀」
彼女は顔を上げた。
「陽翔には、これからも自分を愛してくれる人たちが必要だよ」
由紀は唾を飲み込んだ。
「でも、そのためにここに住み続ける必要はないんだ」
彼女の目に涙が浮かんだ。
大地はかすかに微笑んだ。
「それに、俺たちも夕食に招待してもらえるかもしれないぞ」
由紀は弱々しく笑った。
「あの子が料理を覚えられたら、だけどね」
夫はにやりと笑った。
「陽翔の監督のもとじゃ、どうなることやら」
由紀は笑った。
そして、目元を拭った。
大地は続けた。
「君は、あの子のためにたくさんのことをしてきた」
由紀は首を振った。
「まだ足りないわ」
大地は優しく微笑んだ。
「それを決めるのは、君じゃないのかもしれない」
由紀は夫を見た。
「何が必要なのかは、陽翔自身が教えてくれるはずだよ」
彼女は考えた。
そして、うなずいた。
「そうね」
大地は微笑んだ。
「だろう?」
由紀は笑った。
「せっかくいいことを言ったのに、台無しにしないで」
彼はにやりと笑った。
「すまん」
由紀は廊下に目を向けた。
スロープ。
改装された寝室。
甥を迎え入れるために変わった家。
彼を愛するということは、いつか彼がここを出ていくのを手伝うことなのかもしれない。
出ていってほしいからではない。
この家の屋根の下で自分が与えられるものよりも、もっと大きな未来を手にしてほしいからだ。
そう考えると胸が痛んだ。
けれど、誇らしくもあった。
給料以上の存在になった青年
翌週の月曜日、清水陸から陽翔に電話がかかってきた。
二件目のアクセシビリティ検証業務の結果と、今後の仕事の可能性について話し合うため、あらかじめ予定されていた面談だった。
陽翔はメモを準備していた。
業務範囲、報酬、機器、スケジュールについての質問もいくつか用意してある。
最初の二件の仕事を通じて、熱意だけでは明確な業務条件の代わりにならないことを学んでいた。
画面に現れた陸は、いつもの四角い眼鏡をかけていた。
キーボードの横には、相変わらず猫のイラストが置かれている。
陽翔は微笑んだ。
「おはようございます」
陸はうなずいた。
「おはようございます、高橋さん」
二人は業務の振り返りを始めた。
陸によれば、陽翔が指摘した問題のいくつかは、開発チームにとって有益だったという。
報告書はわかりやすかった。
検証条件も明確に記載されていた。
確認済みの問題と、追加調査が必要な項目を分けていたことも、開発チームが優先順位を決めるうえで役立ったという。
陽翔は満足感が膨らむのを感じながら聞いていた。
「それはよかったです」
陸は微笑んだ。
「ええ」
そこで、少し間を置いた。
「それと、今後の追加業務についても、ご相談したいと思っています」
陽翔は目を瞬かせた。
「本当ですか?」
「はい」
陸は、会社ではさまざまなデジタルサービスのアクセシビリティ評価が必要になることがあると説明した。
小規模な案件もある。
より広範囲な検証を必要とする案件もある。
仕事の有無は、顧客の要望や予算、適切な検証環境を用意できるかどうかによって変わる。
継続的な雇用が保証されるわけではない。
それでも陸は、今後の案件の候補者として陽翔を検討してもよいか尋ねた。
陽翔は微笑んだ。
「もちろんです」
陸はうなずいた。
「よかったです」
二人は、考えられる業務内容について話し合った。
陽翔は、固定された一日の勤務時間を前提にするのではなく、明確な成果物を基準とした契約を今後も検討できるか尋ねた。
陸は、案件ごとに相談できると答えた。
また、アクセシブルな検証環境を整えることや、準備作業に対する適切な報酬についても確認した。
陽翔は、仕事の話をすることに以前より自信を持てるようになっていた。
誰かにお願いをしているのではない。
努力していることを褒めてもらいたいわけでもない。
自分の技能を提供する、一人の仕事人として話しているのだ。
面談の終わりに、陸は適切な案件が見つかれば連絡すると約束した。
陽翔は礼を言った。
そして、通話を終了した。
数秒間、画面を見つめた。
やがて、顔いっぱいに笑みが広がった。
「すごいな」
母の写真に目を向けた。
「母さん」
小さく笑った。
「僕、案外この仕事に向いてるのかもしれない」
由紀と大地に報告すると、二人は大喜びした。
由紀はすぐにお祝いをしようと言い出した。
大地は出前を取ろうと提案した。
陽翔は笑った。
「二人とも、正社員になったわけじゃないんだよ」
由紀は微笑んだ。
「わかってるわ」
「それに、次の契約だってまだ決まってない」
大地はにやりと笑った。
「それでも、いい知らせだろ」
陽翔はうなずいた。
「うん」
その夜は、夕食でささやかなお祝いをした。
豪華なものではない。
好きな料理を囲み、笑いながら過ごすだけの夜だった。
けれど、会話が進むにつれて、陽翔はあることに気づいた。
話題が何度も収入に戻ってくるのだ。
これまでに稼いだお金。
追加業務の可能性。
旅行資金にどれほど役立つか。
将来の自立生活に、どれほど貢献できるか。
誰も悪気があったわけではない。
それはわかっていた。
二人は彼を誇りに思っている。
励ましたいのだ。
けれど、話が続くほど、陽翔は居心地の悪さを感じ始めた。
皿に目を落とした。
そして、寝室に飾ってある美咲の写真を思い浮かべた。
嫌な考えが、頭の中に浮かび始めていた。
お金を稼げるようになったから、ようやく祝福される価値のある人間になれたのだろうか。
叔母と叔父がそんなふうに考えていないことは、わかっている。
それでも、その感覚は消えなかった。
長い間、陽翔は日常生活のほとんどすべての場面で、ほかの人の介助を必要としてきた。
以前は母が助けてくれた。
それから病院の職員たち。
今は介助スタッフや訪問看護師、そして家族が支えてくれている。
仕事をしていようといまいと、その介助は必要だった。
そして、これまでに多くのことを学んできた今でも、必要な支援が多い自分は、ほかの人より価値が低いのではないかと不安になることがあった。
今回のお祝いは、意図せずその恐怖に触れてしまったのだ。
陽翔は夕食中、笑顔を浮かべていた。
大地の冗談に笑った。
みんなに感謝した。
けれど、その夜、一人で部屋にいると、また同じ考えが戻ってきた。
もし仕事が途絶えたら?
もし陸から二度と依頼が来なかったら?
もし自分の仕事人生が、小さな案件と長い空白期間の繰り返しだったら?
それでも、みんなは誇りに思ってくれるだろうか。
陽翔はパソコンを見た。
そして、ため息をついた。
「馬鹿な質問だな」
けれど、馬鹿げたことには思えなかった。
怖かった。
救われることを拒んだ男
水野葵が次に担当した難しい患者は、長谷川浩二という五十六歳の男性だった。
彼は妻とともにこぢんまりとしたアパートで暮らしており、継続的な管理が必要な慢性疾患を抱えていた。
成人した娘の舞も、頻繁に様子を見に来ていた。
舞は父親を深く愛していた。
そして、父を失うことを恐れていた。
予定された訪問看護のため、葵と西原智子が到着すると、舞が玄関で出迎えた。
「来てくださってありがとうございます」
表情はこわばっていた。
智子は優しく微笑んだ。
「おはようございます」
舞は二人をリビングへ案内した。
浩二は窓際の肘掛け椅子に座っていた。
白髪交じりの髪をした痩せた男性で、疲れた様子ではあったが、目つきはしっかりしていた。
そばのテーブルには、開いた本が置かれていた。
彼は看護師たちを見た。
「おはようございます」
智子が挨拶を返した。
葵も自己紹介した。
浩二は丁寧にうなずいた。
訪問は、現在の健康状態と主治医が立てたケア計画の確認から始まった。
差し迫った問題は、継続的な治療の一環として勧められている処置を、浩二が繰り返し断っていることだった。
舞はひどく心配していた。
父の判断は、不必要な危険を招くと考えていた。
そして、看護師たちに説得してほしかったのだ。
「お願いします」
舞は智子に向き直った。
「父にわからせてください」
浩二はため息をついた。
「舞」
娘は父を見た。
「お父さん、私は真剣なの」
「私だって真剣だ」
舞の声が険しくなった。
「何が起こるかわかってないのよ」
浩二は娘を見た。
「わかってる」
彼女は首を振った。
「わかってない!」
葵はそのやり取りを見守っていた。
最初は舞を安心させたいと思った。
医師の勧めを説明したい。
浩二に治療計画に従うよう促したい。
病院では、そうした対応を求められる場面が多かった。
しかし、智子は違う方法で話を始めた。
浩二から見やすい位置に腰を下ろす。
「長谷川さん、今回勧められている治療について、どのように理解されているか教えていただけますか?」
浩二は彼女を見た。
そして、うなずいた。
主治医から受けた説明を話し始めた。
期待できる効果。
断った場合に考えられる危険。
そして、今は治療を受けないと決めた理由。
説明は明確だった。
適切な質問もした。
起こり得る結果を理解していることも示していた。
智子は注意深く聞いた。
いくつかの点を確認し、まだ解決していない疑問がないか尋ねた。
浩二には、疑問が残っていた。
二人はそれについて話し合った。
舞はますます苛立っていった。
「でも、悪化するかもしれないんですよ!」
智子は彼女を見た。
「それは、もっともな心配です」
舞はほっとした表情を浮かべた。
しかし、智子は続けた。
「ただ、お父様ご自身の意思も理解する必要があります」
舞は目を見開いた。
「父は、自分にとって何が一番いいのかわかってないんです」
浩二は娘を見た。
「舞」
その声には疲れがにじんでいた。
「心配してくれているのは、わかってる」
舞は唾を飲み込んだ。
浩二は続けた。
「でも、この家で交わす会話が、毎回治療のことで言い争いになるのは嫌なんだ」
舞は目を伏せた。
葵は、部屋に漂う緊張を感じていた。
双方の気持ちが理解できた。
舞は怖いのだ。
浩二は苛立っている。
そして、どちらも相手の言葉を十分に聞けなくなっていた。
智子は、数分間だけ個別に話をしてもよいか、浩二に尋ねた。
彼は少し考えた。
そして、同意した。
舞はためらった。
けれど、やがてキッチンへ移動した。
智子と葵は話を続けた。
浩二の理解を確認し、判断に影響している実際的な障壁や誤解がないか探り、主治医に相談できる代替案や今後の対応について話し合った。
会話の中で、浩二に意思決定のための理解力が欠けていることを示すものは見られなかった。ただし、判断能力について新たな懸念が生じた場合には、決めつけるのではなく、適切な評価が必要になる。
浩二の意思は変わらなかった。
現時点では、勧められた治療を受けたくない。
智子は、その選択を受け止めた。
また、どのような症状や変化が起きた場合に緊急の医療対応が必要になるか、どこへ連絡すればよいかも説明した。
話し合いの内容を主治医に伝え、適切な経過観察を手配することになった。
舞が戻ってくると、期待に満ちた目で二人を見た。
「どうでした?」
看護師たちが答える前に、浩二が口を開いた。
「今日は考えを変えないよ」
舞の表情が曇った。
「お父さん……」
浩二は娘を見た。
「怖いのは、わかってる」
彼女は唾を飲み込んだ。
浩二は続けた。
「私だって怖いんだ」
その告白が、何かを変えた。
舞は父を見つめた。
浩二はため息をついた。
「でも、怖いからといって、自分の代わりに誰かに決めてほしいわけじゃない」
葵は胸が締めつけられるのを感じた。
舞は椅子に座った。
しばらく、何も言わなかった。
そして、小さな声でつぶやいた。
「ただ、お父さんを失いたくないの……」
浩二は娘を見た。
「わかってる」
彼は手を伸ばした。
舞はその手を握った。
智子は、沈黙をそのままにしておいた。
葵は二人を見守っていた。
看護には、すべての感情的な対立を解決したいという衝動を抑えることも必要なのだと気づいた。
目的は、家族に無理やり同じ結論を出させることではない。
十分な情報に基づく意思決定を支え、危険性を明確に伝え、何が自分たちにできて、何ができないのかを理解できるようにすることだった。
訪問を終えたあと、葵と智子は駅へ向かって歩いた。
葵は静かだった。
智子が彼女をちらりと見た。
「どう思った?」
葵は考えた。
「説得したいと思いました」
智子はうなずいた。
「そう思うのも無理はないわ」
葵はため息をついた。
「娘さんがあんなに怖がっていたので、なおさらです」
先輩看護師は優しく微笑んだ。
「そうね」
葵は彼女を見た。
「でも、ご本人が理解したうえで決めているなら……」
智子はうなずいた。
「私たちなら選ばないような決断をしたからといって、その人を責めることが仕事ではないわ」
葵は考えた。
「それでも、危険性は説明する」
「もちろん」
「話し合いの内容も記録する」
「ええ」
「主治医とも連携する」
智子は微笑んだ。
「そのとおり」
葵は通りに目を向けた。
午後の車が絶え間なく行き交っていた。
舞のことを考えた。
その声ににじんでいた恐怖。
何としてでも父を守りたいという切実な思い。
そして、浩二のことを考えた。
自分の人生は自分のものだという、彼の強い意思。
葵はため息をついた。
「難しいですね」
智子はうなずいた。
「そうね」
少し間を置いた。
「ケアというのは、いつも私たちが望む結果を得ることではないのよ」
葵は彼女を見た。
智子はかすかに微笑んだ。
「ときには、その人が私たちの望まない決断をするのを支えることもあるの」
葵はうなずいた。
その言葉は、いつまでも心に残った。
給料がなくても変わらない命の価値
その夜、陽翔は神田聡に電話をかけた。
最初から真剣な話をするつもりだったわけではない。
バリアフリー住宅について質問し、旅行計画に役立つ情報源を教えてもらおうと思っていただけだった。
しかし、聡はすぐに彼の様子に気づいた。
「疲れてるみたいだね」
陽翔は小さく笑った。
「そう?」
「少しね」
彼はため息をついた。
「長い一日だったから」
聡は少し考えた。
「仕事?」
「まあ、そんなところ」
陽翔は陸との面談について説明した。
追加業務の可能性。
家族のお祝い。
そして、そのあとに浮かんできた居心地の悪い考え。
聡は途中で口を挟まずに聞いていた。
陽翔が話し終えると、年上の男性は数秒間黙っていた。
それから尋ねた。
「その仕事は好き?」
陽翔は目を瞬かせた。
「うん」
「どうして?」
彼は考えた。
「得意だから」
聡はうなずいた。
「ほかには?」
陽翔は考え込んだ。
「問題を見つけるのが好きなんだ」
聡は笑った。
「健全な趣味だね」
陽翔はにやりと笑った。
「いや、自分が解決に貢献できる問題のことだよ」
少し間を置いた。
「僕が気づいたことが、誰かにとってウェブサイトを使いやすくするかもしれないって思うと、嬉しいんだ」
聡は微笑んだ。
「いいことだね」
陽翔はため息をついた。
「でも、ときどき……」
言葉が途切れた。
聡は待った。
陽翔は唾を飲み込んだ。
「自分が必要としている介助に見合う価値がある人間だって、証明しなきゃいけないような気がするんだ」
口にするのは難しかった。
彼はパソコンを見つめた。
そして、弱々しく笑った。
「情けないよね」
聡の表情が変わった。
「そんなことない」
陽翔は彼を見た。
「全然、情けなくなんかないよ」
年上の男性は背もたれに体を預けた。
「陽翔、一つ聞いてもいい?」
彼はうなずいた。
「もちろん」
「もし僕が明日から仕事をしなくなったら、僕のことを見下す?」
陽翔は眉をひそめた。
「え?」
聡は微笑んだ。
「もし働けなくなったら、僕の価値は下がると思う?」
陽翔は彼を見つめた。
「そんなわけないじゃないか」
「どうして?」
「だって……」
言葉が止まった。
聡は待った。
陽翔はため息をついた。
「聡さんは、聡さんだから」
年上の男性はうなずいた。
「そのとおり」
陽翔は目を伏せた。
聡は続けた。
「仕事には意味がある。お金を稼げれば、選択肢も増える。何かが得意だと感じられるのも、素晴らしいことだよ」
陽翔はうなずいた。
「でも、そのどれもが、君が介助を受けるに値するかどうかを決めるわけじゃない」
その言葉が、重く心に沈んだ。
聡は優しく微笑んだ。
「仕事を始める前から、君には介助が必要だった」
陽翔はうなずいた。
「そして、次の仕事が決まっても決まらなくても、介助は必要だろう?」
彼は唾を飲み込んだ。
「うん」
「だからといって、君の人生の価値が低くなるわけじゃない」
陽翔は彼を見た。
聡は続けた。
「仕事を誇りに思うのはいい。でも、自分には生きる価値があると証明するためのものにしなくていいんだよ」
しばらく、陽翔は何も言えなかった。
美咲の写真に目を向けた。
そして、画面に視線を戻した。
「ありがとう」
聡は微笑んだ。
「いつでも」
陽翔は小さく笑った。
「腹が立つほど賢いね」
年上の男性はにやりと笑った。
「長年の修行の成果さ」
陽翔は微笑んだ。
そして、少し考えた。
「もう一つ聞いてもいい?」
「もちろん」
「人に助けてもらうことに、罪悪感を覚えることってある?」
聡の表情が和らいだ。
「ときどきね」
陽翔は彼を見た。
「今でも?」
聡はうなずいた。
「今でも」
少し間を置いた。
「頭では理解していても、それとは正反対の感情が消えるとは限らないんだ」
陽翔は考えた。
「そっか」
聡は微笑んだ。
「でも、そう考えている自分に気づいたときは、介助は僕の暮らしの一部なんだって思い出すようにしてる」
彼は肩をすくめた。
「人並み外れたことをして返済しなきゃいけない借金じゃないんだよ」
陽翔はゆっくりとうなずいた。
その言葉は大切だと思った。
忘れたくなかった。
すべての問題を解決してくれるからではない。
物事を別の角度から考える方法を教えてくれたからだ。
彼は微笑んだ。
「ありがとう、聡さん」
年上の男性はにやりと笑った。
「どういたしまして」
そして、付け加えた。
「さて、アパート探しの話だけど……」
陽翔は笑った。
「嫌な予感がする」
聡は微笑んだ。
「カーテンって、いくらするか知ってる?」
陽翔は彼を見つめた。
「やめて」
年上の男性は大笑いした。
「家具を買い始めたら、もっと驚くよ」
陽翔はうめいた。
「夢を壊さないでよ」
聡はにやりと笑った。
「それが友達ってものさ」
同じ空の下で笑った少女
地域共生をテーマにしたイベントは、土曜日の午後、東京都内の多目的文化センターで開催された。
プログラムには、アクセシブルな技術、障害当事者が主体となるサービス、インクルーシブデザイン、そして障害のない人々には見過ごされがちな日常の障壁についての討論が含まれていた。
陽翔は、ミライ・インターフェース・ソリューションズに関係する仕事上の知人を通じて招待されていた。
会社の代表として発表するわけではない。
イベントの評価を依頼されたわけでもない。
アクセシブルな技術や、ほかの障害当事者の経験に関心を持つ一人の参加者として訪れたのだ。
里奈は予定された介助業務として同行していた。
会場の設備は事前に確認済みだった。
陽翔はプログラムにも目を通していた。
そして、イベント主催者をますます疑うようになっていたため、バリアフリーの入口については二度も確認していた。
建物に近づきながら、里奈が尋ねた。
「信用できないんですか?」
陽翔は微笑んだ。
「経験だよ」
彼女は笑った。
館内はにぎわっていた。
参加者たちが展示ブースと討論会場の間を行き交っている。
アクセシブルなソフトウェアの実演があった。
地域の支援サービスに関する展示もあった。
障害当事者の活動家や団体が運営するブースもいくつか並んでいた。
陽翔は、その雰囲気を楽しんだ。
出展者たちと話した。
質問した。
そして、多様な入力方法を使う人々に対応したデジタルサービスの設計についての討論にも参加した。
議論は活発だった。
参加者の何人かは、一般的なユーザビリティテストでは見落とされていた障壁について具体例を挙げた。
陽翔は何度も頷いていた。
よく知っている問題だった。
自分の仕事で報告したものに似た問題もあった。
初めて知るものもあった。
彼はメモを取った。
そして休憩時間になると、飲み物が置かれた場所の近くにある、少し静かな一角へ向かった。
そこで、聞き覚えのある声がした。
「すみません、コーヒーはここですか?」
陽翔は動きを止めた。
知っている声だった。
振り向いた。
水野葵が数歩先に立っていた。
彼女は、コーヒーを飲む価値があるかどうか真剣に見極めようとしているかのような顔で、飲み物の並んだテーブルを眺めていた。
陽翔は微笑んだ。
「うわ、出た」
葵が顔を上げた。
目が合った。
一瞬、二人とも何も言わなかった。
そして、彼女が吹き出した。
「陽翔?」
彼はにやりと笑った。
「おしゃべり看護師さん」
葵は笑った。
「その呼び方、絶対やめないつもりでしょ?」
「君がおしゃべりをやめない限りね」
彼女は微笑んだ。
「じゃあ、一生そのままね」
陽翔は笑った。
今回の偶然の再会は、横浜での出会いとは違っていた。
雨は降っていない。
予想外の迂回路もない。
急ぎ足の歩行者であふれる商店街もない。
ただ、にぎやかな文化センターと、それぞれの意思で同じイベントに参加した二人の大人がいるだけだった。
葵は彼の車椅子に目を向けた。
それから、手に持っているプログラムを見た。
「何してるの?」
陽翔は眉を上げた。
「イベントに参加してる」
彼女は笑った。
「役に立つ説明をありがとう」
彼はにやりと笑った。
「君こそ、何してるの?」
葵は微笑んだ。
「事業所から研修や勉強会への参加を勧められてて、このイベントが面白そうだったから。今日は仕事じゃなくて、個人的に来たの」
陽翔はうなずいた。
「いいね」
葵は展示会場を見た。
「もう、いろいろ勉強になったわ」
彼は微笑んだ。
「僕も」
葵は近くにいた里奈に目を向けた。
「またお会いしましたね」
里奈は微笑んだ。
「こんにちは、水野さん」
二人は丁寧に挨拶を交わした。
そのあと里奈は、バリアフリートイレの場所を確認してくること、必要なときにはすぐ対応できるようにしておくことを伝えた。
陽翔はうなずいた。
「ありがとう」
葵はそのやり取りを見守っていたが、何も言わなかった。
かつての看護師と患者という関係に戻らないよう、気をつけていた。
陽翔は、今の彼女の患者ではない。
葵も、彼を評価するためにここにいるわけではない。
二人は、同じイベントに参加しているだけの大人なのだ。
その考えは安心できるものであると同時に、不思議なほど慣れないものでもあった。
介助についてではない会話
二人は窓際の静かな席を見つけた。
陽翔は小さなテーブルのそばに、車椅子を楽な位置で止めた。
葵は向かいに座った。
しばらく、二人は少し戸惑いながら、面白そうに互いを見ていた。
やがて陽翔が微笑んだ。
「さて」
葵は眉を上げた。
「さて?」
「新しい仕事はどう?」
彼女は笑った。
「いきなり仕事の話?」
「もちろん。僕も今や立派な社会人だからね」
葵はにやりと笑った。
「そうなの?」
陽翔は厳かにうなずいた。
「とても尊敬される人物だよ」
彼女は笑った。
「ちょっと信じられないわね」
彼はため息をついた。
「誰も僕の功績を認めてくれない」
葵は微笑んだ。
それから、自分の仕事について話し始めた。
患者の秘密に関わることではない。
名前や個人を特定できる情報でもない。
これまでに学んだ、より一般的なことだった。
病院での看護と訪問看護の違い。
耳を傾けることの大切さ。
自分が必ずしも賛成できない決断を尊重する難しさ。
そして、人の家は単なる医療の現場ではないという気づき。
陽翔は興味深そうに聞いていた。
「楽しんでるみたいだね」
葵はうなずいた。
「うん」
かすかに微笑んだ。
「思ってたのとは違うけどね」
「いい意味で?」
「だいたいは」
陽翔はにやりと笑った。
「それは心強い」
彼女は笑った。
「あなたは?」
陽翔は二件目のアクセシビリティ検証業務について説明した。
機器の問題。
陸との交渉。
そして、追加業務の可能性。
葵は注意深く耳を傾けた。
「大変そうね」
陽翔はうなずいた。
「大変だよ」
そして、微笑んだ。
「でも、好きなんだ」
葵も微笑み返した。
「よかった」
そこで、少し間を置いた。
「本当にそう思ってる」
陽翔は彼女を見た。
「わかってるよ」
しばらく、心地よい沈黙が流れた。
葵は展示会場に目を向けた。
それから、彼を見た。
「一つ聞いてもいい?」
陽翔は眉を上げた。
「内容によるね」
彼女は笑った。
「何によるの?」
「医療相談かどうか」
葵は微笑んだ。
「違うわ」
「それならよかった。僕の相談料はとんでもなく高いから」
彼女は笑った。
それから、少し真剣な表情になった。
「ほかの人に、自分が何を必要としているか勝手に決めつけられるのって、疲れない?」
陽翔は目を瞬かせた。
予想外の質問だった。
少し考えた。
「いつもだよ」
葵はうなずいた。
「やっぱり」
彼はかすかに微笑んだ。
「どうして?」
葵は、善意のある専門職でも、本人の希望をどれほど簡単に見落としてしまうかについて、最近いろいろ学んでいるのだと説明した。
陽翔は耳を傾けた。
そして、うなずいた。
「そうだね」
少し考えた。
「人って、ときどき助けることに夢中になりすぎて、その助けが本当に役に立ってるのか聞くのを忘れちゃうんだと思う」
葵は微笑んだ。
「まさに、それ」
陽翔は彼女を見た。
「上手になってきたね」
葵は笑った。
「何が?」
「人の話を聞くこと」
葵は目を瞬かせた。
そして、微笑んだ。
「ありがとう」
陽翔はにやりと笑った。
「調子に乗らないでよ」
彼女は笑った。
「もちろん」
二人は話し続けた。
イベントのこと。
仕事のこと。
使いにくいウェブサイトの馬鹿馬鹿しさ。
そして、やがて、ごく普通の話題へと移っていった。
本。
映画。
食べ物。
陽翔は、横浜で買った推理小説について話した。
葵は、もう読み終わったのか尋ねた。
彼は大げさにため息をついた。
「犯人が見え見えだった」
彼女は笑った。
「本当に?」
「痛いほどね」
「じゃあ、どうして最後まで読んだの?」
陽翔はにやりと笑った。
「職業上の好奇心」
葵は首を振った。
「なるほどね」
彼は微笑んだ。
「君はどう? 相変わらず患者さんを一人ずつ救って、世界を救ってるの?」
葵は少し考えた。
それから、首を振った。
「そうでもないかな」
陽翔は眉を上げた。
「へえ?」
彼女はかすかに微笑んだ。
「人って、いつも誰かに救ってもらう必要があるわけじゃないって、学んでるところなの」
陽翔は彼女を見た。
「ただ、話を聞いてほしいだけのこともある」
彼はゆっくりとうなずいた。
「うん」
そして、微笑んだ。
「いい勉強だね」
葵も微笑み返した。
「そう思う」
二つの名前の間にあった距離
休憩時間が終わりに近づくにつれて、葵は自分があまり深く考えないようにしていたことを意識し始めた。
陽翔と話すのが楽しい。
仕事を思い出すからではない。
彼に責任を感じているからでもない。
彼が面白いからだ。
思慮深い。
ときどき、腹が立つほど生意気。
そして、何でもない会話を、思いがけないほど興味深いものに変えてしまう。
その気づきは、彼女を慎重にさせた。
二人の過去は無視できない。
葵は、陽翔が人生の中でも特に弱っていた時期に、病院で看護師として彼を担当していた。
その後、訪問看護事業所での調整にも関わったが、最終的に彼の家庭を担当することはなかった。
考慮すべき職業上の境界線があった。
また、まだ解決していない安全上の問題があるため、プライバシーにも特に注意する必要があった。
混乱を招きたくない。
勝手に思い込むこともしたくない。
親しさだけを理由に、慎重な判断を省きたくもなかった。
陽翔は、彼女のためらいに気づいたようだった。
微笑んだ。
「どうかした?」
葵は目を瞬かせた。
「ううん」
彼は眉を上げた。
「怪しいな」
彼女は笑った。
「どうして?」
「難しい数学の問題を解こうとしてるみたいな顔だったから」
葵は微笑んだ。
「そうかもしれない」
陽翔は少し考えた。
「手伝おうか?」
彼女は笑った。
「たぶん、お願いしたいかも」
それから、真剣な表情になった。
「陽翔」
彼は彼女を見た。
「うん?」
「ちょっと考えてたことがあるの」
彼は待った。
葵は息を吸った。
「私たちが出会ったとき、私はあなたの看護師だったでしょ」
陽翔はうなずいた。
「うん」
「そのことが何も関係ないふりはしたくないの」
彼は少し考えた。
「わかった」
葵は続けた。
「でも、今はもう、その関係じゃない」
陽翔はうなずいた。
「そうだね」
葵はかすかに微笑んだ。
「それで、私……」
言葉を止めた。
陽翔は待った。
「あなたのことを、一人の人間としてもっと知りたいなって思ってるの」
彼は目を瞬かせた。
一瞬、何と答えればいいかわからなかった。
そして、微笑んだ。
「いやあ」
葵は眉を上げた。
「何?」
「それは気の毒に」
彼女は彼を見つめた。
そして、吹き出した。
「どうしてよ!」
陽翔はにやりと笑った。
「僕、ものすごく面倒くさい男だから」
葵は笑った。
「知ってるわ」
彼は微笑んだ。
それから、少し真剣になった。
「僕も、そうしたい」
単純な言葉だった。
けれど、何かが変わった。
劇的にではない。
二人の過去を消し去るほどでもない。
それでも、普通の友情が生まれる可能性を現実のものにするには、十分だった。
葵は少し考えた。
「境界線については、ちゃんと気をつけないとね」
陽翔はうなずいた。
「もちろん」
「プライバシーも」
彼はかすかに微笑んだ。
「絶対にね」
二人は、そのことについて少し話し合った。
葵は、陽翔の介助には関わらない。
陽翔も、事業所やその他の職業上のつながりを通じて、葵の情報を得ようとはしない。
そして、友人になったからといって、相手の私生活について何でも知る権利があるとは考えない。
また、以前の看護師と患者という関係には倫理上の問題が生じる可能性があり、葵は関係をさらに深める前に、適切な助言を求めるつもりだった。
陽翔は、その考えを尊重した。
彼女の仕事を危険にさらしたくなかった。
そして、自分に障害があるという理由だけで、相手がどう振る舞うべきか決められてしまうような関係にもしたくなかった。
彼が望んでいたのは、普通のことだった。
会話。
友情。
もしかしたら、いつか、それ以上の何か。
けれど、今すぐ決める必要はなかった。
葵は微笑んだ。
「また、いつかお話ししてもいい?」
陽翔はにやりと笑った。
「内容によるね」
彼女は笑った。
「何によるの?」
「健康的な食事を勧めてくるかどうか」
葵は吹き出した。
「約束はできないわね」
彼はため息をついた。
「ひどいなあ」
そして、微笑んだ。
「うん」
うなずいた。
「僕も、また話したい」
二人は、すぐには個人的な連絡先を交換しないことにした。まず葵が関係する職業上の指針を確認し、その後の連絡は陽翔のケアチームを通すのではなく、双方の意思で決めることにした。
劇的な結末ではなかった。
告白もない。
抱擁もない。
恋愛の約束もない。
けれど、葵が次の講演に戻るため立ち上がったとき、彼女の温かな笑顔を見て、陽翔は胸が不思議なほど軽くなるのを感じた。
「またね、陽翔」
彼はにやりと笑った。
「ほかの人の耳をしゃべり疲れさせないようにね」
葵は笑った。
「無理よ」
そして、歩いていった。
陽翔は、彼女が人混みの中へ消えていくのを見送った。
しばらく、静かに座っていた。
それから、一人で微笑んだ。
「いやあ……」
ほどなくして、里奈が戻ってきた。
「大丈夫ですか?」
陽翔は彼女を見た。
「うん」
にやりと笑った。
「全部、順調だよ」
もう空っぽではない窓
その夜、陽翔は疲れていたが、満足した気分で帰宅した。
由紀がリビングで待っていた。
「おかえりなさい」
彼は微笑んだ。
「ただいま」
彼女は陽翔を見た。
「イベントはどうだった?」
「よかったよ」
ソファから大地が顔を上げた。
「何か勉強になったか?」
陽翔はうなずいた。
「いろいろね」
アクセシビリティに関する討論について話した。
技術の実演。
ほかの参加者との会話。
そして、今後の仕事に役立ちそうなアイデア。
葵との会話については、すべてを話したわけではなかった。
恥ずかしいことを隠しているからではない。
家族にすぐ報告しなくても、自分だけの経験として大切にしていいこともあるからだ。
由紀は耳を傾けた。
そして、微笑んだ。
「楽しめたみたいでよかったわ」
陽翔はうなずいた。
「僕もそう思う」
そのあと、夜のケアが終わり、楽な姿勢で落ち着いた頃、由紀が部屋に入ってきた。
小さなファイルを持っていた。
陽翔はそれを見た。
「また書類?」
彼女は笑った。
「ちょっと違うわ」
そばにファイルを置いた。
中には、アパートの内見に関するメモが入っていた。
恵子がまとめた報告書だった。
由紀はそれを注意深く読んでいた。
陽翔は彼女を見た。
「どう思う?」
由紀は少し考えた。
「最初の物件より、ずっとよさそうね」
彼はうなずいた。
「うん」
彼女はかすかに微笑んだ。
「まだ、確認することはたくさんあるけど」
「間違いないね」
由紀は窓に目を向けた。
それから、彼を見た。
「陽翔?」
彼は眉を上げた。
「うん?」
彼女はためらった。
そして、微笑んだ。
「もし、本当に住む場所が見つかったら……」
彼は待った。
「ときどき、夕食を食べに来てくれる?」
陽翔は目を瞬かせた。
予想外の質問だった。
彼女を見た。
そして、小さく笑った。
「由紀おばさん」
彼女は不安そうに微笑んだ。
「何?」
「当たり前じゃないか」
由紀の表情が和らいだ。
彼はにやりと笑った。
「誰かが大地おじさんの料理を監督しないといけないからね」
彼女は吹き出した。
陽翔は微笑んだ。
「それに……」
少し間を置いた。
「僕、ここが好きなんだ」
由紀は彼を見た。
陽翔は続けた。
「ただ、いつか自分の家が欲しいだけ」
彼女はうなずいた。
「わかってるわ」
陽翔は微笑んだ。
「家族をやめるわけじゃないんだから」
由紀の目に涙が浮かんだ。
彼女は弱々しく笑った。
「わかってる」
陽翔は眉を上げた。
「また、その顔してる」
由紀は笑った。
「どんな顔?」
「泣くのを我慢してる顔」
彼女は目元を拭った。
「本当に、あなたって子は」
陽翔はにやりと笑った。
「遺伝だね」
由紀は笑った。
そして、身をかがめて彼の額にキスをした。
「おやすみなさい」
彼は微笑んだ。
「おやすみ」
由紀はドアへ向かった。
そして、立ち止まった。
「陽翔?」
彼は彼女を見た。
「うん?」
「あなたを誇りに思ってるわ」
陽翔の笑顔が、少しだけ消えた。
聡との会話を思い出した。
自分の価値が、収入と結びつけられつつあるのではないかという不安。
彼は叔母を見た。
「仕事が決まりそうだから?」
由紀は目を瞬かせた。
それから、首を振った。
「違うわ」
陽翔は待った。
彼女は優しく微笑んだ。
「自分の道を見つけようとしているからよ」
喉が締めつけられた。
由紀は続けた。
「自分が何を望んでいるのか、少しずつわかってきているから」
そこで、少し間を置いた。
「たとえそれが、私の想像していた未来とは違っていてもね」
陽翔は唾を飲み込んだ。
そして、微笑んだ。
「ありがとう」
彼女はうなずいた。
「どういたしまして」
そして、部屋を出ていった。
返事を必要としない手紙
陽翔はパソコンを開いた。
デスクトップには、見慣れたフォルダがあった。
母さんへの手紙
彼は微笑んだ。
そして、新しい文書を作成した。
母さんへ。
報告があります。
またアパートを見に行ってきたよ。
今度は、なかなかよかった。
そこで、少し手を止めた。
そして、続きを書いた。
浴室は少し改修すれば使えるかもしれない。寝室も期待できそうな広さだった。それに、公園が見える窓があるんだ。
そこで暮らす自分を想像できたよ。
陽翔はかすかに微笑んだ。
明日じゃない。
たぶん、近いうちでもない。
でも、いつか。
由紀のことを考えた。
夕食に来てくれるかと尋ねたときの表情。
笑顔の奥に隠れていた不安。
彼は続けた。
由紀おばさんは、僕が家を出るのが怖いみたい。
その気持ちはわかるよ。
僕だって怖いから。
少し間を置いた。
でも、また夕食を食べに来るって約束した。
当然だよね。
大地おじさんが食べ物に対する犯罪を犯さないように、誰かが見張らないといけないんだから。
陽翔は笑った。
それから、静かになった。
仕事のことを考えた。
陸との面談。
今後の案件の可能性。
聡との会話。
そして、入力した。
それと、大切なことを一つ学んだ。
介助を受ける価値があると認めてもらうために、お金を稼ぐ必要はないんだ。
彼はその一文を見つめた。
そして、続けた。
母さんなら、きっとそう言ったよね。
いや、実際に何度も言ってくれてた。
陽翔は寂しそうに微笑んだ。
でも、何かを本当に理解するまでには、時間がかかることもあるんだね。
母の写真を見た。
そして、続きを書いた。
僕は仕事が好きだよ。
何かが得意だと思えるのも好き。
自分で稼いだお金があるのも嬉しい。
でも、自分は迷惑をかけるだけの人間じゃないって証明するために、一生を費やしたくはない。
そこで、少し手を止めた。
だって、僕は迷惑なんかじゃない。
その言葉は、不思議な感じがした。
そして、心を温かくした。
陽翔は微笑んだ。
僕は、ただ僕なんだ。
息を吸った。
それから、葵のことを考えた。
文化センター。
笑い声。
境界線についての会話。
友情の可能性。
彼は入力し始めた。
あ、それから、また葵に会ったよ。
手を止めた。
そして、にやりと笑った。
そうだよ、母さん。まただよ。
先に言っておくけど、偶然だからね。
どうやら宇宙が僕を困らせたいとき、東京はものすごく小さな街になるらしい。
彼は笑った。
しばらく話したよ。
仕事のこと。
人生のこと。
ひどいウェブサイトのこと。
少し間を置いた。
そして、入力した。
僕たち、友達になりかけてるのかもしれない。
その一文に、思わず笑みがこぼれた。
少し考えた。
そして、付け加えた。
たぶん。
陽翔は小さく笑った。
ゆっくり進めるつもりだよ。
気をつけなきゃいけないこともあるから。
でも、彼女と話すのは楽しいんだ。
彼は文字を見つめた。
それから、写真を見た。
「わかってるよ」
微笑んだ。
「何も言わないで」
部屋は静かなままだった。
陽翔は笑った。
そして、手紙に戻った。
まあ、僕の話はこのくらいにして。
少し手を止めた。
それから、その一文を削除した。
もちろん、この手紙は自分の話なのだ。
母はもういない。
今日一日、どう過ごしたのか尋ねることはできない。
母が何をしたのか聞くこともできない。
以前のように会話を続けることは、もうできない。
けれど、だからといって、この手紙が不完全だというわけではないのかもしれない。
ただ、形が変わっただけなのだ。
陽翔は母の写真を見た。
そして、入力した。
会いたいよ。
でも、最近、一つわかってきたことがあるんだ。
母さんは、僕に残りの人生をずっと母さんを待ちながら過ごしてほしかったわけじゃない。
僕に生きてほしかったんだよね。
少し手を止めた。
だから、頑張ってる。
友達を作ってる。
仕事をしてる。
旅行の計画を立ててる。
家を探してる。
彼はかすかに微笑んだ。
そして、何かいいことがあると、今でも誰かに話す前に、母さんの写真を見ちゃうんだ。
目の奥が熱くなった。
唾を飲み込んだ。
そして、続けた。
それは、きっとこれからも変わらないと思う。
陽翔は微笑んだ。
でも、変わらなくてもいいのかもしれないね。
手紙の最後に署名した。
愛を込めて。
相変わらずものすごくハンサムで、ますます雇ってもらえそうになってきた息子、
陽翔より。
文書を保存した。
それから、窓に目を向けた。
外の住宅街は静かだった。
近所の家々の窓には、柔らかな明かりが灯っていた。
遠くで電車が通り過ぎる音がした。
陽翔は、内見したアパートを想像した。
公園。
寝室。
木々を見渡せる窓。
それから、葵を思い浮かべた。
彼女の笑い声。
一人の人間としてもっと知りたいと言ったときの表情。
陽翔は微笑んだ。
未来は、まだ不確かだった。
お金の問題がある。
介助体制の問題もある。
住宅の申し込み。
仕事上の決断。
そして、解決しなければならない実際的な問題が、数え切れないほど待っている。
けれど、可能性もあった。
家。
仕事。
友情。
旅。
そして、いつか、二人とも予想していなかった場所から育っていくかもしれない関係。
陽翔は母の写真を見た。
「いやあ、母さん」
声は小さかった。
「面白くなってきたよ」
彼は笑った。
そして、付け加えた。
「母さんなら、絶対に喜んだだろうね」
窓の外では、風が木々を揺らしていた。
遠くのアパートの窓が、夕暮れの空を背景に柔らかく輝いていた。
その一つ一つの向こうには、誰かの人生があった。
ありふれた日々の積み重ね。
言い争い。
笑い声。
仕事。
愛。
喪失。
そして、まだ形を見つけていない夢。
陽翔は、その窓の一つが自分のものになるところを想像した。
誰の助けも必要としないと証明するためではない。
障害を克服した証拠としてでもない。
必要な介助を受けながら、自分にふさわしい自由を持って暮らせる場所として。
彼は微笑んだ。
その窓は、まだ彼のものではない。
鍵も作られていない。
賃貸契約書にも署名していない。
そして、これから進む道には、まだ多くの困難があった。
けれど、母を失った悲しみと向き合ってきた家の壁の向こうに、自分を待っている人生の輪郭が、初めて見えるようになっていた。
そして、東京の別の場所では、一人の若い看護師が、人々から選択する権利を奪わずに支える方法を学んでいた。
二人の人生は、前へ進んでいた。
それぞれに。
慎重に。
もう一度始めることに伴う、あらゆる不確かさを抱えながら。
今は、それで十分なのかもしれない。
すべての扉が、一度に開く必要はないのだから。
ただ、鍵がかかっていなければ、それでいい扉もあるのだ。




