第19章 明日を夢見る屋根の下で、僕たちの夢は息づき始める
高橋陽翔が初めて自分のアパートに引っ越すことを考えたとき、真っ先に思い浮かべたのは、自分だけの玄関ドアだった。
別に立派なドアである必要はない。
彫刻が施された木製の扉も、高価な真鍮の取っ手も、訪ねてきた人が大富豪か吸血鬼にでも会うのではないかと身構えるような豪華な玄関も、彼には必要なかった。
欲しいのは、ごく普通のドアだった。
鍵がついていること。
表札があること。
建築上の奇跡でも起こらない限り電動車椅子では通れない、なんてことがないこと。
それから、できれば瀕死の鳥の鳴き声みたいな音がしないインターホンがついていること。
ただし、部屋そのものを想像するのは、もう少し難しかった。
電動車椅子で無理なく移動できる広さが必要だし、介助を受けやすい寝室、使いやすい浴室、必要な福祉機器、そして昼夜を通じて頼れる介助体制も欠かせない。
何もない部屋に引っ越して、賃貸契約書に署名しただけで自立したと宣言できるわけではなかった。
障害は、契約書にサインしたからといって消えてなくなるものではない。
それでも、自分の家で何をするか、誰を招くか、テレビを深夜までつけておくかどうかを自分で決められるというのは、たまらなく魅力的だった。
横浜への外出以来、そんなことを考える時間が増えていた。
あの旅は、自分で物事を決めることがどれほど楽しいか、改めて思い出させてくれた。
どこへ行くか。
何を食べるか。
いつ休むか。
そして、うまくいかない計画をいつ諦めるか。
今、叔母夫婦の家の一階に改装された寝室で過ごしながら、陽翔は考えていた。
もしも、自分だけの屋根の下で、そうした決断ができたなら。
パソコンから通知音が鳴った。
陽翔が画面を見ると、清水陸からメールが届いていた。
開いてみる。
そして、思わず笑みがこぼれた。
「ほほう」
メールには、二件目となるアクセシビリティ検証業務の修正提案書が添付されていた。
以前、モバイル端末での検証方法が使いにくいことについて話し合った結果、ミライ・インターフェース・ソリューションズは機器の事前評価を手配し、貸与する端末に対応した外部入力装置の構成を見つけてくれたのだ。
業務も、無理なく進められるようにいくつかの段階に分けられていた。
まずはサービスの基本的なナビゲーション機能と情報検索機能を、限られた範囲で評価する。
モバイル端末特有の検証は、入力環境が正常に動作することを確認してから行う。
陽翔自身の操作環境では適切に評価できない操作については別のテスターが担当し、最終報告書ではそれぞれの結果を明確に区別することになっていた。
期限も見直され、短い作業時間を積み重ねる形で進められるようになっていた。
報酬は定められた業務範囲に応じたものになり、追加作業が発生する場合は別途承認が必要だという。
陽翔はメールを二度読んだ。
それから、背もたれに体を預けた。
「へえ……」
戸口に立っていた由紀が、こちらを見た。
「いい知らせ?」
陽翔はにやりと笑った。
「どうやら僕、まだ雇ってもらえる人間らしいよ」
由紀が笑った。
「陽翔!」
「何?」
「よかったじゃない!」
「うん」
由紀が近づいてきた。
「じゃあ、二件目のお仕事が決まったの?」
「ほぼね。まだ最終条件を確認しなきゃいけないし、機器がちゃんと動くかも確かめないと」
「それがいいわね」
陽翔は叔母をちらりと見た。
「そんなに意外そうに言わないでよ」
「意外だなんて思ってないわよ」
「犬が代数学を解いているところを初めて見た人みたいな顔してる」
由紀は吹き出した。
陽翔も笑った。
そして、もう一度提案書に目を戻した。
彼は、この機会を待ち望んでいた。
二度目の仕事。
最初の仕事がただのまぐれではなかったと、自分自身に証明する機会。
けれど、喜びの奥には小さな不安もあった。
最初の仕事で、書類上は簡単そうに見える作業でも、実際にはかなりの負担になることを学んでいたからだ。
しかも今回は、前よりも自分で管理しなければならないことが多い。
時間を組み立てる。
疲労を管理する。
介助の予定を調整する。
検証結果を記録する。
そして、問題が深刻になる前に報告する。
陽翔はカレンダーを見た。
すでに予定がぎっしり詰まっている。
訪問看護の予定。
恵子との支援計画の面談。
経過観察のための診察。
それに、自分が働きたい時間とは必ずしも一致しない、いくつもの介助シフト。
陽翔はため息をついた。
「母さん」
美咲の写真に目を向ける。
「どうやら社会人になると、カレンダーが人格障害を起こすらしいよ」
由紀が笑った。
そして、優しく尋ねた。
「予定を整理するの、手伝おうか?」
陽翔は少し考えた。
「うん」
そこで、ひと呼吸置いた。
「でも、仕事をする時間は僕が決めたい」
由紀はうなずいた。
「もちろんよ」
陽翔は微笑んだ。
そう言えるようになるまで、以前ほど苦労しなくなっていた。
そして周囲の人たちも、少しずつ、その言葉を自然に受け止められるようになっていた。
誰のものでもない時間
機器が届いたのは、その二日後だった。
丁寧に梱包された箱には、設定手順書、貸与契約書、技術サポートの連絡先一覧が同封されていた。
大地は、凝ったおもちゃをもらった子供のように箱を眺めていた。
一方、陽翔は警戒していた。
「大地おじさん」
「何だい?」
「そんなに嬉しそうな顔しないで」
大地が笑った。
「どうして?」
「前に電子機器を組み立てるとき、そんな顔をしてたでしょ。四時間かけて完成させたら、上下逆だったじゃない」
大地はにやりと笑った。
「あれは一度きりだ」
「忘れられない一度だったね」
その朝、陽翔の介助を担当していた里奈が、机のそばで微笑んだ。
初期設定では大地が機器の設置を手伝い、陽翔が位置を指示しながら操作性を確認することになっていた。
端末は、無理なく画面を見られる位置に設置する必要がある。
取り付け器具が車椅子の操作装置や姿勢保持用の支持具に干渉してもいけない。
そして、外部入力装置は、陽翔が普段使っている操作方法に対応していなければならなかった。
最初の設定は失敗した。
二度目は接続できたものの、反応が不安定だった。
三度目になって、ようやく十分な精度で検証画面を操作できるようになった。
陽翔はいくつかの操作を試した。
メニューを開く。
フォーム内を移動する。
選択肢を選ぶ。
そして、微笑んだ。
「おお」
大地が眉を上げた。
「おお?」
「動いた」
叔父は満面の笑みを浮かべた。
「素晴らしい!」
陽翔は少し考えた。
「だいたいね」
大地がため息をついた。
「やっぱりな」
残っている制約を記録し、その結果を陸に送った。
会社側は、合意した第一段階の作業には十分な環境だと確認し、新たな問題が生じた場合に備えて技術サポートの窓口も用意してくれた。
そこで初めて、陽翔は正式に仕事を引き受けた。
契約内容は、最初の有償試験のときと同じくらい慎重に確認した。
書類は記録として保管し、収入や給付制度に関して事前に受けた案内にも従った。
仕事が始まったのは、翌週の月曜日だった。
最初のうち、陽翔は自信を持っていた。
前回の経験から学んでいた。
報告書のひな形も整理してある。
検証メモも以前より明確になっている。
作業時間を短く区切り、間に休憩を入れる予定も立てていた。
午前十一時までに、二つの問題を発見した。
一つは、ページを移動したあとにナビゲーションメニューがフォーカス位置を保持しない問題。
もう一つは、自分の操作方法で内容を読み終える前に、情報パネルが消えてしまう問題だった。
どちらも記録した。
そして作業を続けた。
正午になると、里奈が食事と身体介助の休憩時間が近づいていることを知らせた。
陽翔は時計を見た。
「あと五分」
里奈はうなずいた。
「わかりました」
五分が過ぎた。
陽翔はまだ作業を続けていた。
里奈がもう一度近づいてきた。
「陽翔さん?」
陽翔は画面を見つめたまま眉をひそめた。
「もう少しで終わるから」
里奈は待った。
さらに数分が過ぎた。
画面の動きがおかしい。
陽翔は休む前に、その不具合をもう一度再現したかった。
もう一度試す。
問題が現れた。
だが、すぐに消えてしまった。
陽翔はメモを開いた。
里奈が穏やかに声をかけた。
「そろそろ休憩にしましょう」
陽翔はため息をついた。
「わかってる」
それでも入力を続けた。
里奈は少し待ってから言った。
「私の勤務が終わる前に、必要な介助を済ませる時間も確保しないといけません」
陽翔は彼女を見た。
その言葉に、思った以上に苛立ってしまった。
彼女が自分を支配しようとしているわけではないことは、わかっている。
予定が大切なのも、わかっている。
けれど、今は作業の真っ最中だった。
自分にとって大切な仕事。
自分自身の仕事だった。
「もう一分だけ待ってくれない?」
里奈はうなずいた。
「もちろんです」
陽翔は画面に戻った。
だが、また不具合を見失ってしまった。
「くそっ」
苛立ちが募った。
別の操作を試す。
何も起こらない。
ため息をついた。
「頼むよ……」
里奈はそばで待っていた。
やがて、彼女が口を開いた。
「陽翔さん、急かしたくはないんですが、そろそろ決めないといけません」
陽翔は振り向いた。
「どうして何もかも予定どおりにしなきゃいけないんだよ?」
思ったよりもきつい口調になった。
里奈は目を瞬かせた。
陽翔はすぐに後悔した。
彼女は少し考えてから答えた。
「私にも、この勤務のあとに別の予定があるからです」
陽翔は視線を落とした。
里奈は落ち着いた声で続けた。
「それに、陽翔さんの介助の中には、いつまでも先延ばしにできないものもあります」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「わかってる」
里奈はうなずいた。
「お仕事をしているのは理解しています」
陽翔は彼女を見た。
「でも、今ここで作業を止めるのか、それとも今後の仕事の日の予定を見直すのか、相談する必要があります」
陽翔は黙った。
それから、ため息をついた。
「ごめん」
里奈は首を横に振った。
「話し合えばいいんです」
陽翔はパソコンに目を向けた。
「ただ……」
言葉が途切れた。
里奈は待った。
陽翔は息を吸った。
「やっと、自分のものだって言える何かができたんだ」
里奈の表情が和らいだ。
陽翔は続けた。
「なのに、集中してきたところで、いつも別のことをしなきゃいけなくなる」
時計を見る。
「食事を手伝ってもらわなきゃいけない。姿勢を変えてもらわなきゃいけない。診察の準備をしなきゃいけない。ほかにもいろいろ」
自嘲気味に笑った。
「それが僕の生活だってことはわかってる。違うふりをするつもりもないよ」
里奈はうなずいた。
「でも、たまには今やってることを最後まで終わらせたいんだ」
里奈は少し考え、椅子を近くに引き寄せた。
「その気持ちはわかります」
陽翔は彼女を見た。
「ただ、事前の取り決めなしに、私が勤務時間を延長することもできません」
「うん」
「それに、陽翔さんがいつ働いていいかを、私が決めているようには感じてほしくないんです」
陽翔はため息をついた。
「そうだね」
里奈はかすかに笑った。
「だから、もう少しうまく予定を組めるといいのかもしれません」
「そうかも」
「まとまった作業時間を確保しつつ、介助の時間も十分に取れる予定です」
陽翔は考え込んだ。
「うん」
「特定の日に長く作業したいなら、前もって介助の予定を調整できるか確認することもできます」
陽翔はうなずいた。
「そうだね」
里奈は微笑んだ。
「一日の過ごし方を決めるのは陽翔さんです」
彼は彼女を見た。
「でも、私たちにも、どう支援してほしいのか教えてもらわないといけませんから」
陽翔は小さく笑った。
「腹が立つくらい正論だね」
里奈も笑った。
「よく言われます」
陽翔は画面に目を戻した。
そして、メモを保存した。
「わかった」
里奈に向き直る。
「休憩にしよう」
里奈はうなずいた。
「はい」
必要な介助を始めながら、陽翔は考えていた。
自分で決めることと、周囲のすべてが自分の都合に合わせて動くことは、同じではない。
自分の人生を決める権利はある。
けれど、ほかの人にも予定があり、責任があり、限界がある。
自立とは、そうした現実が存在しないふりをすることではない。
自分の選択を手放さずに、それらをどう調整していくかということなのだ。
正直なところ、あまり嬉しい結論ではなかった。
けれど、きっと大切なことなのだろう。
別の家のドアをノックする看護師
水野葵が訪問看護ステーションで正式に働き始めた最初の週は、灰色の空が広がる朝に始まった。
彼女は長年、救急外来で働いてきた。
警報音には慣れていた。
混雑した廊下にも。
患者の容体が突然変化することにも。
そして、十二時間も動き回ったのに、やるべきことの半分しか終わっていないような、独特の疲労感にも。
訪問看護は、それとは違っていた。
もちろん、臨床的な判断力は必要だった。
薬の確認、症状の評価、ケアプランに沿った対応、そして必要に応じてほかの医療職へ状態の変化を報告すること。
けれど、働く場所が変わるだけで、すべてが違って見えた。
葵が訪れるのは、患者が一時的に入院する病院ではない。
すでにその人自身の生活が営まれている家なのだ。
その違いは、一見すると小さなものだった。
しかし、実際にはとても大きかった。
指導担当の看護師、西原智子が事務所の外で葵を迎えた。
「準備はいい?」
葵は微笑んだ。
「たぶん、大丈夫です」
智子は眉を上げた。
「頼もしい返事ね」
葵は笑った。
「嘘をついたほうがよかったですか?」
「絶対にだめ」
智子も笑った。
「さあ、行きましょう」
最初の訪問先は、二十七歳の女性、森本花恵だった。
花恵は住宅建物の一階にある、バリアフリー対応のアパートで暮らしていた。
進行性の神経筋疾患があり、日常生活の多くの場面で介助を必要としている。
決まった時間に訪れる介助者、訪問看護師、そしてほかの専門職が連携して、彼女の生活を支えていた。
彼女はフリーランスのイラストレーターでもあった。
そして葵は、障害があることと無力であることを混同する人間に対して、花恵がほとんど我慢しない人物だと、すぐに知ることになる。
智子がインターホンを鳴らすと、介助者がドアを開けた。
室内は明るく、家具も丁寧に配置されていた。
窓際には大きな高さ調節式の机があり、二台のモニターには制作途中の幻想的な街並みが映っている。
壁の一面には本棚が並び、別の場所には陶器の猫の置物がいくつも飾られていた。
花恵は机の近くで電動車椅子に座っていた。
短い黒髪のボブカット。
ゆったりした緑色のカーディガン。
そして、どこか疑わしそうな表情。
「早いですね」
智子が微笑んだ。
「三分だけよ」
花恵は時計を見た。
「それでも早いです」
葵は目を瞬かせた。
智子が笑った。
「はいはい、おはようございます」
花恵は葵に目を向けた。
「新人さん?」
葵は丁寧に頭を下げた。
「はい。水野葵と申します。よろしくお願いします」
花恵は彼女をじっと見た。
そして、微笑んだ。
「思っていたより若いですね」
葵は笑った。
「よく言われます」
「おしゃべりな人ですか?」
葵は目を瞬かせた。
智子が口元を押さえた。
花恵は返事を待っている。
葵は少し考えた。
「残念ながら、かなり」
花恵はにやりと笑った。
「いいですね。少なくとも正直な人だ」
葵も笑った。
訪問は、花恵の現在の健康状態と、その日に予定されている看護業務の確認から始まった。
智子が何をするのか説明し、花恵が自分の希望を伝える。
葵は注意深く見守った。
日常生活の介助は、取り決めに従って介助者が担当する。
智子と葵は、看護師として必要な業務を行う。
その区別は重要だった。
病院では、患者が一時的に病院の環境に頼って生活するため、看護師が幅広い仕事を担当することが多かった。
しかし、ここでは違う。
花恵には、すでに自分の生活の仕組みがあった。
完璧ではないかもしれない。
それでも、彼女自身のものだった。
訪問中、葵は花恵の机が窓際に置かれ、日光がモニターに直接当たっていることに気づいた。
「画面の反射、気になりませんか?」
葵が尋ねた。
花恵はモニターを見た。
「ときどきね」
葵は少し考えた。
「机を動かしたほうがいいでしょうか?」
花恵は葵を見た。
「いいえ」
葵は目を瞬かせた。
「わかりました」
花恵はかすかに微笑んだ。
「私はこの窓が好きなんです」
葵はうなずいた。
「そうですよね」
花恵は眉を上げた。
「本当に?」
葵は小さく笑った。
「はい」
「なら、よかった」
花恵はモニターに目を戻した。
「私は一日の大半をここで仕事しているんです。外が見えるのが好きなの」
智子が静かに見守っていた。
花恵は続けた。
「この机を動かしたほうがいいって言った人、あなたで四人目です」
智子がくすりと笑った。
「どうやら、あらゆる問題を解決する一番簡単な方法は、私の部屋を診察室みたいに模様替えすることらしいですね」
葵は頬が熱くなるのを感じた。
「そんなつもりでは……」
「わかっています」
花恵は微笑んだ。
「だから教えているんです」
葵はうなずいた。
その言葉は、彼女の心に残った。
その後、花恵は依頼されたイラストの制作で夜更かしが続いていると話した。
智子は、十分に休めているか尋ねた。
花恵はため息をついた。
「十分って、どのくらいですか?」
智子は微笑んだ。
「四時間以上ね」
花恵はうめいた。
「もう、厳しいんだから」
葵が笑った。
花恵は彼女を見た。
「笑ってないで、味方してくださいよ」
智子は首を振った。
三人は疲労や身体の負担、無理のない生活習慣について話し合った。
しかし、智子は単純に仕事をやめるよう命じたりはしなかった。
締め切りはいつなのか。
なぜその仕事が大切なのか。
そして、仕事を完成させながら負担を減らす方法を一緒に考えたいかどうか。
そう尋ねたのだ。
花恵は少し考えた。
そして、予定を見直すことに同意した。
葵はそのやり取りを見つめていた。
これは、花恵を理想的な患者にしようとする話し合いではない。
彼女が自分で選んだ人生を生きるための話し合いなのだ。
その人生には仕事がある。
締め切りがある。
悪い習慣がある。
創作への情熱がある。
そして、ときには少し無茶な判断もある。
ほかの誰とも変わらない。




