第18章 天国に届かなかった手紙
高橋陽翔が母に宛てて書いた最初の手紙は、文句から始まった。
それでいい、と陽翔は思った。美咲は二十二年間、息子の文句を聞き続けてきたのだ。亡くなったからといって、突然その楽しみを奪ってしまうのは、あまりにも思いやりに欠ける行為ではないだろうか。
問題は、どの文句に最初の栄誉を与えるかだった。
候補はいくつもあった。
大地おじさんはスプレッドシートに異常な愛着を抱くようになってしまった。由紀おばさんは最近、陽翔のアクセシビリティ検証の仕事を「キャリア」と呼び始めた。その言葉を聞くたび、陽翔はネクタイを何本か持っていなければならないような気分になる。
おまけに、最近の天気ときたら、不機嫌な飼い猫並みに情緒が不安定だった。
それから、パソコンの件もある。
昨夜、映画を楽しく観ていた真っ最中に、突然再起動したのだ。
陽翔はこれを個人的な裏切りとみなしていた。
彼は画面に表示された白紙の文書を見つめた。
カーソルが点滅している。
ファイルを作成してから、もう二十分近く経っていた。
名前は『母さんへの手紙』。
その下には日付を入力した。
それだけだった。
本当は、横浜のことを書こうと思っていた。
港の景色。故障したエレベーター。突然の雨。そして、あの遠征の苦労をほとんど帳消しにしてくれそうなほど大きかったパンケーキのこと。
初めての報酬を受け取ったことも、ミライ・インターフェース・ソリューションズと二件目の仕事について交渉していることも伝えたかった。
新しい介護体制が少しずつ整ってきたことや、日々のケアで大切な細かなことを緑色のノートにまとめ始めたことも。
それから、葵のこともあった。
よりによって横浜の商店街のアーケードの下で、彼女と偶然再会したのだ。
母なら、きっと興味を持っただろう。
いや、興味を持ちすぎただろう。
何も企んでいないような無邪気な顔をして、実際には大いに企んでいるときの母の表情が、ありありと目に浮かんだ。
あら? あの看護師さんにまた会ったの?
うん、母さん。
それで、元気だった?
元気だったよ。
かわいい子よね。
母さん。
何よ。ただの感想じゃない。
陽翔は微笑んだ。
しかし、その笑みは次第に消えていった。
彼は母の写真に目を向けた。
公園で撮った写真だった。美咲は、陽翔が幼いころの幸せな思い出と結びつけている黄色いジャケットを着て、彼の隣に立っていた。
母は笑っていた。
けれど、その写真を撮ったとき、何がおかしくて笑っていたのか、陽翔には思い出せなかった。
そのことが、思っていた以上に気になった。
笑い声は覚えている。
笑うときの肩の揺れ方も。
あまりに笑いすぎて、眼鏡を外し、目元を拭わなければならなくなることもあった。
それなのに、肝心の冗談だけが消えてしまっていた。
残しておこうなどと考えもしなかった、小さな思い出がまた一つ。
陽翔は文書に視線を戻した。
そして、ようやく文字を入力し始めた。
母さんへ
言いたい文句がいくつかあります。
陽翔は手を止めた。
そして笑った。
「完璧」
そこから先は、少し書きやすくなった。
まず、大地おじさんがスプレッドシート愛好家になってしまいました。この病気に感染力があるのかはわからないけど、由紀おばさんにも症状が出始めているようです。
それから、横浜に行ってきたよ。本当に。電車に乗って、港を見たんだ。すごくきれいだった。ただ、海賊が圧倒的に足りなかったけど。
途中でエレベーターの問題があったけど、別の道を見つけたよ。僕はパニックにならなかった。大地おじさんはなりかけたけどね。僕はとても勇敢でした。
陽翔はにやりと笑った。
そして続きを書いた。
推理小説を買って、パンケーキを食べて、雨にも降られた。それから葵にも会ったんだ。前に話した看護師さん、覚えてる? まあ、正確には母さんに彼女のことをあまり話す機会はなかったんだけど、きっと母さんも気に入ったと思う。
手が止まった。
画面に、その一文が残っていた。
きっと母さんも気に入ったと思う。
ごく普通の言葉だった。
それなのに、予想もしなかった場所に、ぽっかりと穴が開いたような気がした。
これから出会う人たちの中には、母が一生会うことのない人がいる。
友人。
仕事仲間。
いつか恋に落ちるかもしれない誰か。
自分の人生にとって大切な存在になるかもしれない人たちが、彼の世界の中心にいた女性を知らないままなのだ。
陽翔はその一文を見つめた。
そして、ゆっくりと書き加えた。
母さんにも、彼女に会ってほしかった。
唾を飲み込んだ。
部屋がいつもより静かに感じられた。
もう一度、写真を見た。
「ねえ、母さん」
声はささやきに近かった。
「思ってたより、難しいみたいだ」
陽翔は文書を保存した。
書き終えたからではない。
今は、これ以上書けそうになかったからだ。
彼を拒んだ端末
ミライ・インターフェース・ソリューションズから修正された提案書が届いたのは、その日の午前中だった。
陽翔は、その連絡を待っていた。
清水陸は、二件目のアクセシビリティ検証の仕事について、作業範囲、報酬、締め切りを再検討すると約束していた。
新しい提案書は、以前よりずっと現実的な内容になっていた。
仕事は二つの段階に分けられている。
最初の評価では、対象となる利用者の操作手順が明確に限定され、残りの作業は別途契約することになっていた。
締め切りには余裕ができた。
報酬も調整されていた。
さらに、テスト環境で技術的な問題が発生した場合の対応も明記されていた。
陽翔は満足しながら提案書を読み進めた。
しかし、必要な機材についての項目にたどり着いた瞬間、その表情が変わった。
「あれ?」
画面をスクロールする。
もう一度、同じ段落を読む。
そして眉をひそめた。
「いやいや、冗談でしょ……」
予定されていた午前中の介助を終え、帰る準備をしていた星野里奈が、彼のほうを振り返った。
「どうかしました?」
陽翔は画面を見た。
「どうやら僕、アクセシビリティテスターからプロの曲芸師に昇進したらしい」
里奈は笑った。
「何があったんですか?」
陽翔は事情を説明した。
二件目の仕事では、特定のスマートフォン用OSで動作するモバイルサービスの一部を検証する必要があった。
会社側は、対応するテスト端末を貸し出すことができるという。
そこは問題ではない。
問題は、想定されている作業手順が、テスター自身の指でタッチスクリーンを操作することを前提としている点だった。
陽翔には、それを安定して行うことができない。
普段のパソコン環境では、限られた身体の動きや持久力に合わせて設定した代替入力方法を使用している。
スマートフォンを机に置いたり、視界に入る位置に固定したりしただけで、使えるようになるわけではない。
端末側が対応する入力方法を利用でき、適切に固定でき、実際に操作可能な設定になっている必要がある。
それでも、作業内容によっては、さらに調整が必要になるかもしれなかった。
陽翔は提案書を見つめた。
「締め切りのことは考えてくれた」
里奈がうなずく。
「はい」
「報酬のことも」
「よかったですね」
「でも、肝心のテスト方法が抜けてる」
陽翔はため息をついた。
「そういうこと」
里奈は少し考えた。
「確認してみたらどうですか?」
陽翔はかすかに笑った。
「どうやら、それが僕の得意技になりつつあるみたいだね」
メールを開いた。
仕事を断る代わりに、どのような障壁があるのかを説明し、会社側に対応可能な代替入力環境や、別のモバイル評価方法がないかを尋ねた。
その日の午後、陸から返信が届いた。
会社側もアクセシビリティ上の問題が起こり得ることは想定しており、陽翔の指示に従って助手がスマートフォンを操作する方法を提案してきたのだ。
陽翔はメールを見つめた。
それから椅子の背にもたれた。
善意からの提案であることは理解できた。
誰かが、どうにかして仕事を可能にしようとしてくれている。
けれど、その方法には別の問題があった。
今回の評価の目的が、代替入力方法を使用する人が自力でサービスを操作できるかを確かめることなら、別の人に操作を任せてしまうと、検証する内容そのものが変わってしまう。
助手の動き、操作の速さ、解釈、判断によって、陽翔自身が遭遇するはずの障壁が見えなくなる可能性がある。
もちろん、介助者を伴うテストが本質的に間違っているわけではない。
補助者や観察者を介した調査方法もあれば、普段から人的支援を利用している人の体験を評価する正当な方法もある。
ただし、それぞれの調査方法は正確に区別しなければならない。
支援技術を使った自立的な操作と、誰かに代わりに操作してもらうことは、同じではないのだ。
陽翔は返信を書き始めた。
その違いを説明した。
そして、短い打ち合わせをお願いした。
陸は了承してくれた。
ビデオ通話は翌朝に行われた。
陽翔はメモを用意していた。
具体的な例もいくつか準備してある。
「おはようございます、高橋さん」
「おはようございます」
「今回の問題をご指摘いただき、ありがとうございます」
陽翔はうなずいた。
「いえ」
陸は提案書に目を向けた。
「助手に操作してもらう方法では、高橋さんが普段使っているアクセス方法を正確に再現できない、ということですね」
「はい」
陽翔は、もし依頼内容が明確に介助付きの評価であるなら、それに参加すること自体は構わないと説明した。
ただし、その場合は調査結果にも、その条件を明記しなければならない。
ほかの人が実際の操作を行ったのに、自分が代替入力システムを使って独力で作業を完了したと報告することはできない。
陸は注意深く耳を傾けた。
「確かに、そのとおりですね」
陽翔は続けた。
「それと、もう一つ問題があります」
「どうぞ」
「仮に誰かが代わりに端末を操作したとしても、その人は僕と同じところでつまずくとは限りません」
陸はうなずいた。
「例えば?」
陽翔は、素早いジェスチャーを連続して行わなければならないメニューを例に挙げた。
助手がタッチスクリーンを使えば、何の問題もなく操作できるかもしれない。
しかし、動作の遅い代替入力方法を使う陽翔の場合、操作を終える前にタイムアウトしたり、フォーカスが外れたりする可能性がある。
助手は「問題なく動作した」と報告する。
陽翔は「操作できなかった」と報告する。
どちらの観察結果も、それぞれの条件下では正しいかもしれない。
しかし、それらは同じ利用体験を示す証拠ではない。
陸は身を乗り出した。
「わかりやすい例ですね」
陽翔はかすかに微笑んだ。
「ありがとうございます」
二人は代替案について話し合った。
一つは、テスト端末に対応する外部入力装置を設定し、適切に固定したうえで、正式な作業に入る前に短い試用セッションを行う方法。
もう一つは、陽翔が利用できるデスクトップ環境での評価と、別のモバイル端末専門テスターによる評価に分け、それぞれの責任範囲を明確にする方法。
三つ目は、陽翔が一部のモバイル操作を観察者として評価し、それを本人による独立操作の結果として扱わない方法だった。
それぞれの方法で、明らかにできることは違う。
陸は技術チームに相談することを約束した。
陽翔は契約を獲得するためだけに、新しい機材を自費で購入したり、使えない作業方法を受け入れたりする必要はない。
また、テスト方法、責任範囲、締め切り、報酬が書面で確定するまで、正式な作業は開始しないことでも合意した。
打ち合わせが終わるころには、陽翔はほっとしていた。
けれど、その安堵の奥には別の感情もあった。
誇らしさだ。
単に問題に文句を言ったわけではない。
提案された調査方法の欠点を見つけた。
なぜそれが重要なのかを説明した。
そして、代替案を考えることにも貢献できた。
陸は微笑んだ。
「高橋さん、今回のお話は非常に参考になりました」
陽翔は眉を上げた。
「お金を払ってもらえるくらい参考になりました?」
陸は笑った。
「もっともな質問ですね」
陽翔はにやりとした。
「そうでしょう?」
陸は、今回の事前相談を契約上どのように扱うかについても確認すると約束した。
そして付け加えた。
「今回の方法に疑問を呈してくださって、正解だったと思います」
陽翔は目を瞬かせた。
「本当ですか?」
「ええ。アクセシビリティの検証は、実際に何をテストしたのかを正直に示してこそ意味があるんです」
陽翔はうなずいた。
「まさに、それです」
打ち合わせが終わった。
陽翔はしばらく画面を見つめていた。
それから、母の写真を振り返った。
「さて、と」
微笑む。
「どうやら僕、正式に仕事でも面倒くさい人間になったらしいよ」
少し考えた。
「いや、昔から面倒くさかったか」
思わず笑いがこぼれた。
「今は書類仕事が上手くなっただけだね」
ようやく自分の未来に署名した女性
水野葵のもとに正式な採用通知が届いたのは、木曜日の午後だった。
彼女は病院の職員休憩室に座っていた。
通知が画面に表示された瞬間、数秒間、差出人の名前を見つめたまま動けなくなった。
森山千里――訪問看護職員採用通知
心臓の鼓動が速くなった。
メールを開いた。
そこには、職種、入職予定日、雇用条件、研修の要件、指導体制、勤務日程、専門職としての責任、安全管理に関する事業所の方針が記載されていた。
葵は慎重に読み進めた。
そして、もう一度読み直した。
ずっと待ち望んでいたものだった。
けれど、実際に書面で届くと、突然すべてが現実味を帯びた。
病院を辞められる。
もちろん、今すぐではない。
無計画に飛び出すわけでもない。
自分が本当に取り組みたいと気づいた看護の分野へ、きちんと段階を踏んで移ることができるのだ。
葵は窓に目を向けた。
午後の日差しが、隣の建物の壁に反射していた。
看護師になったばかりのころを思い出した。
失敗することへの恐怖。
厳しい勤務のあとの疲労。
患者から感謝されたときの誇らしさ。
救急外来が最も忙しい夜には、空気そのものが緊迫し、一分一秒が重要だった。
あの場所で、彼女は成長した。
離れることを考えると、胸が締めつけられた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
美香からのメッセージだった。
美香: ねえ、まだ連絡来てないの???
葵は微笑んだ。
葵: 来たよ。
ほとんど一瞬で返信が届いた。
美香: それで???
葵は笑った。
葵: 内定もらった。
三秒後。
美香: きゃあああああああああああ!!!
葵は思わず吹き出した。
何人かの同僚がこちらを振り返った。
慌てて口元を覆う。
さらにメッセージが届いた。
美香: お祝いするからね!!!
美香: 反対しても無駄だから!!!
葵は首を振った。
そして返信した。
葵: まだ承諾してないよ。条件を全部確認しないと。
美香: わかった! まずは責任ある大人として行動! お祝いはそのあと!
葵は微笑んだ。
その夜、美香のアパートで採用条件を確認した。
給与と勤務時間。
雇用形態。
退職の申し出に必要な期間。
指導体制。
研修の要件。
そして、訪問先で安全上の問題が起きた場合の対応手順。
千里には、いくつか追加で質問を送った。
事業所からは説明が返ってきた。
また、正式な採用通知を受け取るまでは退職しないよう助言してくれていた松田玲子にも、手続きについて相談した。
すべての条件を理解してから、葵は署名した。
その行為自体は、拍子抜けするほど簡単だった。
いくつかの確認。
署名。
書類の送信。
劇的な音楽もない。
花火も上がらない。
突然、別人に生まれ変わるわけでもない。
それでも、送信完了の表示が現れた瞬間、葵はしばらく動けなかった。
やり遂げたのだ。
自分で選んだ。
拓海ではない。
恐怖でもない。
病院でもない。
自分自身が。
葵は美香を見た。
「署名したよ」
美香は目を見開いた。
そして、ソファから飛び上がった。
「署名したの!?」
葵は笑った。
「うん!」
美香が駆け寄ってくる。
「うそでしょ! やったじゃん!」
二人は抱き合った。
葵は友人の肩に顔を寄せながら笑った。
ほんの一瞬、ここ数か月で最も心が軽くなったように感じた。
嫌がらせの捜査は、まだ終わっていない。
安全対策も必要だった。
不確かなことは残っている。
帰り道に背後を振り返ってしまう日もある。
けれど、そうした事情に自分の進路を決めさせたわけではない。
自分で決めたのだ。
美香が少し離れた。
「よし」
葵は眉を上げた。
「よし?」
「ケーキが必要だね」
葵は笑った。
「もう十時近いんだけど」
美香はうなずいた。
「だからこそ!」
「ケーキ屋さん、ほとんど閉まってるよ」
「じゃあコンビニのケーキ!」
葵は首を振った。
「ほんと、しょうがないんだから」
美香はにやりとした。
「そして、あなたは就職決定!」
葵は微笑んだ。
「うん」
それから、静かに笑った。
「そうだね」
彼女に踏みとどまることを教えた病院
退職届を提出することは、新しい雇用契約に署名するより難しかった。
葵は、事務手続きそのものは簡単だと思っていた。
実際、そのとおりだった。
松田玲子は退職予定日を確認し、必要な申し出期間を満たしていることを確かめ、引き継ぎの調整を手伝ってくれた。
部署では勤務表の調整が必要になる。
葵は残りの勤務をこなし、円滑に引き継げるよう協力することになった。
特別なことは何もなかった。
それでも、玲子が退職届を受理した瞬間、葵の胸には思いがけない痛みが走った。
「本当にいいのね?」
上司が尋ねた。
葵はうなずいた。
「はい」
玲子は彼女をじっと見た。
そして微笑んだ。
「それなら、よかった」
葵は目を瞬かせた。
「よかった、ですか?」
「あなたが本当に納得して決めたのか、確認したかっただけよ」
葵はうなずいた。
「はい。決めました」
玲子は書類を机に置いた。
「それなら、おめでとう」
葵は唾を飲み込んだ。
「ありがとうございます」
年上の女性は微笑んだ。
「寂しくなるわね」
葵はうつむいた。
「私も、皆さんと離れるのは寂しいです」
玲子はうなずいた。
「普通はそういうものよ」
葵は小さく笑った。
それからの数週間は、自分が何を残していくのかを思い出させる小さな出来事で満ちていた。
廊下で顔なじみの患者に声をかけられ、また夜勤なのかと尋ねられた。
若手の看護師から、難しい処置を手伝ってくれたことへのお礼を言われた。
小林恵美には、葵の辛口コメントがなくなったら救急外来が退屈で仕方なくなる、と文句を言われた。
葵は笑った。
そして、泣きそうになった。
ある晩、軽症ではあるものの痛みを伴うけがをした十代の少女が運ばれてきた。
少女は診察を怖がり、泣いていることを何度も謝っていた。
葵は彼女のそばに座った。
「謝らなくていいのよ」
少女は鼻をすすった。
「私、馬鹿みたい……」
葵は首を振った。
「そんなことない」
優しく微笑んだ。
「けがをして、怖くて、知らない場所にいるんだもの。泣きたくなるのは当たり前よ」
少女は葵を見た。
「本当に?」
「もちろん」
葵はこれから行われることを説明し、少女がきちんと理解できているかを確かめた。
診察が始まるころには、少女の呼吸も落ち着いていた。
あとで母親から感謝された。
ありふれた言葉だった。
短い言葉だった。
けれど、その言葉は葵の心に残った。
別の勤務では、夕方になって高齢の患者が混乱し、不安を訴え始めた。
医療チームが必要な対応を進めるあいだ、葵はそばで声をかけ、安心できるように努めた。
やがて患者は落ち着いた。
葵が部屋を出ようとすると、声をかけられた。
「看護師さん」
振り返る。
「はい?」
「ありがとう」
葵は微笑んだ。
「どういたしまして」
そして廊下に出た。
しばらく、壁際に立ったまま動かなかった。
この仕事が好きだった。
これからも、ずっと好きだろう。
辞めるからといって、その気持ちが消えるわけではない。
ただ、別の形の看護も愛せるようになったということなのだ。
明日には止まらない列車
陽翔が参加したバリアフリー旅行の講習会は、東京都内の大きな鉄道駅に近い地域の会議室で開催された。
地元の障害者支援団体が、旅行のアクセシビリティに詳しいアドバイザーと協力して企画した催しだった。
強い意志さえあれば、どんな場所にでも行ける。
そんな約束をする講演会ではなかった。
陽翔は、その時点ですでに好感を持った。
彼は以前から、現実的な障壁を些細な問題として扱う感動的なスピーチを信用しなくなっていた。
どれだけ自分を信じても、階段が突然バリアフリーになるわけではない。
前向きな気持ちになったからといって、必要な介助者が空中から現れるわけでもない。
ホテルの窓からどれほど美しい景色が見えようと、使えない浴室は使えないままだ。
この講習会が提供しようとしているのは、もっと役に立つものだった。
情報。
経験。
そして、陽翔がこれから解決しようとしている問題に、すでに向き合ってきた人たちとの対話。
大地が同行した。
里奈も、外出のために取り決めた条件に従って介助を担当している。
会場の入り口、エレベーター、トイレなどの設備は事前に確認し、移動やケアに必要な時間も十分に確保していた。
それでも、会場に入ると陽翔は少し緊張した。
参加者は十五人ほどだった。
電動車椅子を使う人が何人かいた。
手動車椅子や歩行補助具、そのほかの支援機器を使用する人もいる。
介助者や家族と一緒に参加している人もいた。
会場の前方には、短い銀髪に鮮やかな赤いスカーフを巻いた女性が立っていた。
彼女は西田香織と名乗った。
車椅子ユーザーであり、旅行のアクセシビリティに関するアドバイザーでもあるという。
「皆さん、ようこそ」
温かく、自信に満ちた声だった。
「始める前に、一つだけはっきりさせておきたいことがあります」
陽翔は耳を傾けた。
香織は微笑んだ。
「障害のある人にとって、旅行は勇気を試すものではありません」
何人かの参加者がうなずいた。
「旅行は、さまざまな手配が必要な活動です。ときには、かなり複雑なものになります」
小さな笑いが起こった。
「今日の講習会の目的は、その複雑な準備を少しでもわかりやすくすることです」
陽翔はにやりとした。
もう彼女が気に入った。
香織はまず交通機関の話から始めた。
バリアフリー経路、鉄道への乗降介助、車椅子の寸法、必要な支援が受けられるかどうかを確認することの重要性について説明した。
また、情報は変わる可能性があると強調した。
エレベーターが故障することもある。
通路が変更されることもある。
職員の配置や対応手順は、鉄道会社や駅によって異なる場合もある。
陽翔は、あらかじめ決めていた方法で発言の意思を示した。
香織が彼を見る。
「はい、どうぞ」
陽翔は微笑んだ。
「この前、横浜に行ったんです」
「素敵ですね」
「そしたら、エレベーターが壊れてました」
会場が共感のこもった笑いに包まれた。
香織はにやりとした。
「やっぱり、そういうことが起こるんですよね」
陽翔はうなずいた。
「どうやら宇宙が、僕たちの覚悟を試したかったみたいです」
香織は笑った。
「それで、どう対応したんですか?」
陽翔は、駅員に相談し、別のバリアフリー出口を見つけ、予定を調整したことを説明した。
香織は感心したようにうなずいた。
「まさに、それです」
そして参加者全員に向き直った。
「旅行で身につけられる最も役立つ技術の一つが、それなんです」
少し間を置いた。
「完璧な計画を、そのまま実行する能力ではありません」
陽翔は微笑んだ。
「計画を変更する能力、ですね」
香織は彼を指さした。
「そのとおりです」
講習会は続いた。
次は宿泊施設についてだった。
「バリアフリー」という表示だけを信じず、実際の寸法を確認することの重要性が説明された。
ベッドの高さ。
浴室の構造。
ドアの幅。
移乗に必要なスペース。
機器の充電環境。
そして、ホテル側が必要な介助体制に対応できるかどうか。
陽翔はメモを取った。
続いて、介助者の手配についての話になった。
会場の空気が少し真剣になった。
日常生活で多くの身体介助を必要とする人が旅行する場合、バリアフリーの部屋を予約するだけでは足りない。
必要なケアを確実に提供できる人がいなければならない。
それぞれの役割も明確にする必要がある。
勤務時間は重要だ。
休憩時間も重要だ。
夜間の介助体制も重要だ。
そして、追加の介助にかかる費用は、かなり高額になることがある。
陽翔は大地を見た。
叔父もメモを取っていた。
すでに話し合ってきた内容も多い。
けれど、実際に旅行を経験してきた人たちから説明を聞くと、課題の大きさがより具体的に感じられた。
休憩時間になり、陽翔は神田聡という男性と知り合った。
聡は三十八歳で、電動車椅子を使用していた。
日本各地を旅行した経験があり、綿密に支援体制を整えたうえで、海外にも何か国か訪れたことがあるという。
彼は落ち着いた口調で旅の経験を話した。旅行中の災難を十分に経験してきたため、少々のことでは驚かなくなった人のような自信があった。
陽翔は夢中になって聞いていた。
「ヨーロッパにも行ったんですか?」
聡はうなずいた。
「二回ね」
陽翔は目を見開いた。
「どうやって?」
聡は笑った。
「ものすごく準備して」
陽翔はにやりとした。
「なんだか聞き覚えのある話ですね」
聡は微笑んだ。
海外旅行では、介助者、交通手段、機器、宿泊施設、緊急時の対応などを調整する必要があったと説明した。
普段から慣れている介助者と一緒に行く旅行もあった。
現地で追加の支援を手配する必要がある旅行もあった。
機器が故障した場合に代替品を入手できるか、電源の規格が合うか、飛行機の遅延や設備の問題が起きた場合にどう対応するかも考えなければならなかった。
陽翔は注意深く聞いていた。
「お金はかかりました?」
聡は笑った。
「かなりね」
陽翔はため息をついた。
「やっぱり」
聡は微笑んだ。
「事前にわかっている費用もあれば、予想できない費用もある」
そして、支援に利用できる制度や費用負担は、旅行者の状況や利用するサービスによって異なると説明した。
普段受けている支援を、別の地域や国でもそのまま利用できるとは限らない。
目的地によっては、必要な介助体制を確保できないこともある。
陽翔はうなずいた。
「京都旅行で心配なのも、そこなんです」
聡は眉を上げた。
「京都?」
陽翔は微笑んだ。
「はい」
母と一緒に行きたいと思っていた旅行のことを話した。
桜。
計画用のバインダー。
貯金用の封筒。
そして、練習として行った横浜への日帰り旅行。
聡は口を挟まずに聞いていた。
それから微笑んだ。
「京都はいい目標だね」
陽翔はうなずいた。
「そう思います」
「ただ、どんな旅行にしたいのかは決めておいたほうがいい」
陽翔は眉をひそめた。
「どういう意味ですか?」
「有名な観光地を、できるだけたくさん回りたいの?」
少し考えた。
「いや、そういうわけじゃないです」
「それとも、京都にいる時間そのものを楽しみたい?」
陽翔は聡を見た。
聡は続けた。
「その二つは、違う目標だからね」
陽翔は美咲のメモを思い出した。
急がないこと。あの子には、ちゃんと旅行を楽しんでほしい。
かすかに微笑んだ。
「そうですね」
聡はうなずいた。
「初めての旅行なら、目的地を少なくして、時間に余裕を持たせるほうがいいと思うよ」
陽翔は考えた。
「それは合理的ですね」
聡はにやりとした。
「心配しなくても、おいしいものは山ほど食べられるよ」
陽翔は声を上げて笑った。
「素晴らしい!」
二人はそのあとも話し続けた。
聡は、バリアフリーとされていたホテルの部屋に、必要な移乗方法を使うためのベッド脇のスペースが足りなかった経験を話した。
結局、宿泊先を変更しなければならなかったという。
別の旅行では、手配していた交通手段が利用できなくなり、予定していた活動を中止せざるを得なかった。
聡は、旅行が不可能だと証明するためにそうした話をしているわけではなかった。
準備がなぜ大切なのかを伝えるためだった。
陽翔は、その違いがありがたかった。
別れ際、聡は、希望するなら講習会の主催者を通じて一般的な旅行準備のチェックリストを共有できると申し出た。
陽翔は喜んで受け入れた。
それから、最後に一つ質問した。
「個人的なことを聞いてもいいですか?」
聡はうなずいた。
「もちろん」
「こんなに準備ばかりするの、嫌になりませんか?」
年上の男性は少し考えた。
そして笑った。
「いつもだよ」
陽翔はにやりとした。
聡は続けた。
「明日どこかへ行こうと思ったら、翌朝そのまま出発できたらいいのに、と思うことはある」
陽翔はうなずいた。
「まさにそれです」
「でも、準備するからこそ行けるんだってこともわかってる」
少し間を置いた。
「だからといって、すべてのスプレッドシートを好きになる必要はないけどね」
陽翔は声を上げて笑った。
「よかった!」
聡は微笑んだ。
「書類仕事が大嫌いでも、旅先を愛していいんだよ」
陽翔はうなずいた。
その言葉が気に入った。
とても。
夢にかかる費用
講習会が終わったのは、夕方近くだった。
陽翔は疲れていた。
つらいほどではなかったが、帰路につく前に休憩時間を設けておいてよかったと思う程度には疲れていた。
大地がロビーで隣に座った。
「どうだった?」
陽翔は微笑んだ。
「役に立ったよ」
叔父はうなずいた。
「本当にね」
陽翔はメモに目を向けた。
参加する前より、確認すべきことが増えていた。
旅行中に利用できる適切な介助サービス。
夜間の支援。
バリアフリーの宿泊施設。
交通手段。
必要な機器。
そして、数日間の旅行に実際いくらかかるのか。
京都旅行のための貯金が、急にとても小さなものに思えてきた。
陽翔はため息をついた。
「ホテルの話を聞く前は、千円ってもっと立派な金額だったんだけどな」
大地は笑った。
「確かに」
陽翔は叔父を見た。
「本当に行けると思う?」
大地は考えた。
すぐには答えなかった。
陽翔は、それがありがたかった。
叔父は、陽翔を安心させたいという理由だけで、安易な約束をしないようになっていた。
「これからも、実現に向けて準備を続けられると思うよ」
陽翔はうなずいた。
「それ、はっきりイエスって言ってないよね」
「そうだね」
叔父はかすかに微笑んだ。
「でも、ノーとも言っていないよ」
陽翔は講習会の資料を見た。
聡のことを考えた。
彼が訪れた場所。
遭遇した問題。
手配した支援。
そして、母のことを考えた。
ノート。
写真。
母が叶えられないまま残していった夢。
やがて陽翔は微笑んだ。
「わかった」
大地は眉を上げた。
「わかった?」
陽翔はうなずいた。
「計画を続けよう」
叔父は微笑んだ。
「もちろん」
陽翔は少し考えた。
「それと、まずはもっと近い場所で一泊してみるのもいいかも」
大地はうなずいた。
「いい練習になりそうだね」
陽翔はにやりとした。
「素晴らしい」
そして付け加えた。
「ただし、農業博物館はなしだからね」
大地は声を上げて笑った。
「その話、いつまで引っ張るつもりなんだい?」
「一生だね」
母が書き終えられなかった手紙
由紀がその未完成の手紙を見つけたのは、美咲の医療関係の書類を最後まで整理していたときだった。
切手の貼られていない封筒の中に、折りたたまれた紙が入っていた。
住所は書かれていない。
表に記されていたのは、一つの名前だけだった。
陽翔へ
由紀は手を止めた。
美咲の筆跡だった。
数秒間、封筒を持ったまま動けなかった。
それから、そっとテーブルに置いた。
以前にも、美咲が陽翔に宛てて書いた手紙を見つけていた。
黄色いスカーフの中にしまわれていた、陽翔がすでに読んだ手紙だ。
その手紙には愛情が込められていた。
息子を励ます言葉が並んでいた。
美咲と陽翔の関係を象徴するような、ユーモアと強い意志に満ちていた。
けれど、今回の封筒は違った。
封はされていない。
中の紙は不揃いに折りたたまれている。
そして、文章は二枚目の途中で途切れていた。
由紀はためらった。
これは陽翔に宛てられた手紙だ。
それはわかっていた。
だから、読まなかった。
代わりに、その日の夕方、陽翔の部屋へ持っていった。
陽翔はパソコンから顔を上げた。
「それ、何?」
由紀が近づいた。
「お母さんの書類の中から、こんなものが出てきたの」
陽翔の表情が変わった。
「何?」
由紀は封筒を見せた。
「あなたの名前が書いてあるの」
陽翔はじっと見つめた。
そして唾を飲み込んだ。
「また手紙?」
由紀はうなずいた。
「そうみたい」
陽翔は封筒を見た。
「読んだ?」
由紀は首を振った。
「いいえ」
陽翔はうなずいた。
しばらく、何も言わなかった。
やがて叔母を見た。
「開けるの、手伝ってくれる?」
由紀は優しく微笑んだ。
「もちろん」
陽翔の指示に従って封筒を開き、紙を広げた。
陽翔は声に出して読んでほしいと頼んだ。
由紀は彼のそばに座った。
そして、読み始めた。
大切な陽翔へ
この手紙を、いつかあなたに渡すことがあるのかどうか、私にはわかりません。
母親として、子どもに伝えておくべきことはたくさんあるのでしょう。そして私は、人生のほとんどを、それを伝える時間は十分にあると信じて過ごしてきました。
どうやら、時間のほうには別の考えがあるようです。
由紀は手を止めた。
陽翔は窓のほうを見た。
それから、続きを読んでほしいとうなずいた。
最近、考えるのは小さなことばかりです。
あなたが朝食を急がされるのを嫌うことを、誰が覚えていてくれるのでしょう。あなたが不快だと説明する言葉を見つける前に、そのことに誰が気づいてくれるのでしょう。あなたが傑作だと言い張るひどい映画について、誰があなたと口論してくれるのでしょう。
陽翔はかすかに微笑んだ。
由紀は唾を飲み込んだ。
そして読み続けた。
由紀と大地があなたを愛していることは、わかっています。助けてくれる優しい人たちがいることも、わかっています。
それでも、私は怖いのです。
長いあいだ、あなたの生活のすべてを把握しているのは私でした。何が必要で、何をすればよくて、どんなときに何を確認しなければならないのか。
その長い年月で身につけた知識を、残された時間の中でどうやって誰かに引き継げばいいのか、私にはわからないのです。
陽翔の目に涙が浮かんだ。
由紀の声も震えた。
彼女は一度、読むのをやめた。
陽翔がうなずく。
「続けて」
由紀は読み進めた。
誰かが、あなたを助けることと、あなたの代わりに決めることを混同してしまわないか心配です。
あなたを安全に守ろうとするあまり、あなたにも危険を冒したり、失敗したり、自分自身の人生を生きたりする権利があることを、忘れてしまわないか心配です。
そして、周囲の人たちが心配することに対して、あなた自身が責任を感じてしまわないか、それも心配なのです。
由紀は手を止めた。
陽翔は天井を見つめた。
あまりにも聞き覚えのある言葉だった。
母と交わしてきた会話のようだった。
口論。
謝罪。
約束。
二人の愛情の下にあった、複雑なもののすべて。
由紀は息を整えた。
そして、最後の段落を読んだ。
でも、あなたがこれから大人になっていく姿を想像するとき、私の目に浮かぶのは、誰かに救われるのを待っている男の子ではありません。
私の息子です。
頑固で、賢くて、おかしくて、自分で思っているよりずっと勇敢な、私の大切な息子。
信頼できる人たちに出会い、訪れる価値のある場所を見つけ、人生がつらくなっても笑える理由を見つけていく人です。
どうすればあなたを心配しなくなるのか、私にはわかりません。
母親というものは、きっと一生、その方法を覚えないのでしょう。
けれど、一つだけわかっていることがあります。
私の恐怖が、あなたの世界を囲む壁になってはいけないのです。
手紙はそこで終わっていた。
署名はなかった。
別れの言葉もなかった。
最後に愛を伝える言葉もなかった。
最後の段落の下には、書きかけの文章が一つあるだけだった。
数語が書かれ、
そして線で消されていた。
美咲は、その続きを書くことがなかったのだ。
陽翔は紙を見つめた。
長いあいだ、何も言わなかった。
やがて、ささやいた。
「母さん、怖かったんだね」
由紀はうなずいた。
「ええ」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「心配してるのは知ってた」
手紙を見た。
「でも、こんなに……」
言葉が途切れた。
由紀は待った。
陽翔は目を閉じた。
母が病気と闘っていた最後の数か月を思い出した。
疲れ切った姿。
診察の予定。
大丈夫かと尋ねると、あまりにも早く笑顔を作ることがあった。
母が死を恐れていたことは知っていた。
けれど、自分を残していくことを、それほどまでに恐れていたとは理解していなかった。
胸が痛んだ。
母の恐怖を負担だと思ったからではない。
その恐怖を、母が一人で抱え込まずに済んでいたらよかったのにと思ったからだ。
陽翔は目を開けた。
「こんなこと、全部は話してくれなかった」
由紀は首を振った。
「そうね」
陽翔は叔母を見た。
「僕を心配させたくなかったのかな」
「そうかもしれないわ」
由紀は少し間を置いた。
「それとも、まだ言葉を探している途中だったのかもしれない」
陽翔はうなずいた。
自分が書きかけた手紙を思い出した。
パソコンの中で待っている文書。
どうしても書けなかった文章。
少しだけ、母の気持ちがわかるような気がした。
由紀は紙を丁寧に彼のそばに置いた。
「少し、一人になりたい?」
陽翔は考えた。
そしてうなずいた。
「うん」
由紀は優しく微笑んだ。
「わかったわ」
部屋を出る前に、身をかがめて陽翔の額にキスをした。
陽翔は叔母を見た。
「由紀おばさん?」
彼女は立ち止まった。
「何?」
「ありがとう」
由紀の目元が柔らかくなった。
「どういたしまして」
そして部屋を出ていった。
陽翔は静かに座っていた。
手紙はパソコンのそばに置かれている。
紙には母の文字が並んでいた。
陽翔は写真を見た。
「母さん」
声が震えた。
「そんなに怖がらなくてもよかったのに」
唾を飲み込んだ。
それから、弱々しく笑った。
「いや、母さんのことだから、僕が何を言っても心配してただろうけど」
手紙を見た。
「でも……」
喉が締めつけられた。
「頑張ってるよ」
息を整えた。
「本当に、頑張ってるんだ」
書かれなかった手紙
その夜、陽翔は数日前に書き始めた文書を開いた。
最初の手紙は、そのまま残っていた。
文句。
冗談。
横浜の話。
葵について書いた一文。
母さんにも、彼女に会ってほしかった。
陽翔はゆっくり読み返した。
そして、カーソルを最後に移動させた。
しばらく、何を書こうか考えた。
母に、すべて順調だと伝えたかった。
介護体制は完璧だと。
好きな場所に旅行できるほど稼いでいると。
未来のことを考えても、もう怖くないと。
けれど、どれも本当ではなかった。
介護体制は改善していたが、まだ不十分なところがある。
仕事には希望があるが、先はわからない。
京都旅行は、相変わらず複雑でお金のかかる夢だった。
そして、夜になると、未来があまりにも怖くて、布団の中に隠れて何も考えたくなくなることもあった。
陽翔は、パソコンのそばにある母の未完成の手紙を見た。
母は正直だった。
ならば、自分も正直になっていいのかもしれない。
書き始めた。
母さん。
母さんが書いた別の手紙を見つけたよ。
僕のことを心配してたんだね。
全部うまくいったよって言えたらいいんだけど、そんなことを言ったら、母さんには嘘だってすぐにばれそうだね。
つらい日もあるよ。
母さんなら当たり前に知っていたことを、いちいち説明しなきゃいけなくて、いらいらすることもある。家から出るだけで、どうしてこんなに準備しなきゃいけないんだって嫌になることもある。由紀おばさんと大地おじさんが一生懸命助けてくれているのを見て、申し訳なくなることもある。
陽翔は手を止めた。
それから続きを書いた。
でも、いいこともあるんだ。
横浜に行ったよ。海を見た。それから、旅行の講習会でヨーロッパに行ったことがある人と知り合ったんだ。その人も電動車椅子を使ってるんだよ。どうやら僕たちみたいな人間でも、国際的な迷惑人物になっていいらしい。
陽翔は微笑んだ。
仕事の仕方を学んでる。自分が存在していることを謝らずに、必要なものを求める方法も学んでる。それから、自立するっていうのは、何もかも一人でやることじゃないんだって、少しずつわかってきた。
写真を見た。
そして入力した。
母さんは、誰かが僕の世界を狭くしてしまうことを怖がってたね。
でも僕、少しずつその世界を広げ始めてる気がするんだ。
文字がぼやけた。
陽翔は瞬きをした。
涙が一筋、頬を伝った。
そのままにしておいた。
この部屋には、感心させなければならない相手などいない。
安心させなければならない相手もいない。
本当の自分より強いふりをする必要もなかった。
続きを書いた。
母さんに会いたい。
朝、目が覚めるたびに会いたくなる。
面白いことが起きて、母さんに話そうと振り返ったときにも。
誰かに何かを手伝ってもらって、母さんならこうしてくれたなって思い出したときにも。
それから、いいことが起きたときにも会いたくなる。だって、今でも一番最初に報告したい相手は母さんだから。
陽翔は手を止めた。
呼吸は落ち着いていたが、気持ちを保とうとするだけで胸が痛んだ。
しばらく待った。
それから、最後の段落を書いた。
これから僕の人生がどうなるのか、わからない。
次の仕事をもらえるのか、京都に行けるのか、母さんがもうここにいないって気づくたびに感じる、この変な気持ちがいつか消えるのかもわからない。
でも、これからも頑張ってみるよ。
母さんに勇敢でいてほしいって言われたからじゃない。
誰かに幸せな結末を見せる義務があるからでもない。
ただ、これから何が起こるのか、僕はまだ知りたいんだ。
陽翔は文字を見つめた。
そして、最後に書き加えた。
愛を込めて。
母さんの、とびきりハンサムで、仕事でも面倒くさい息子より。
陽翔
涙を流しながら笑った。
そして文書を保存した。
初めて、どの文章も消したいとは思わなかった。
明かりを灯し続けた女性
葵が病院で過ごす最後の一週間は、安堵と寂しさが入り混じる不思議な時間だった。
同僚たちが、小さな送別会を開いてくれた。
大げさなものではない。
ケーキ。
寄せ書き。
何枚かの写真。
そして、葵がいなくなったら救急外来が静かになりすぎて困る、という冗談の数々。
小林恵美が寄せ書きを渡した。
葵は開いた。
中には、何年も一緒に働いてきた同僚たちのメッセージが並んでいた。
面白いものもあった。
心のこもったものもあった。
その中の一つには、ただこう書かれていた。
つらい勤務を、いつも少しだけ楽にしてくれてありがとう。
葵は唾を飲み込んだ。
恵美は微笑んだ。
「泣かないでよ」
葵は弱々しく笑った。
「そっちが泣かせようとしてるんでしょ」
松田玲子が近づいてきた。
「さて、水野さん」
葵は顔を上げた。
「はい?」
「準備はできた?」
少し考えた。
そして微笑んだ。
「できたと思います」
玲子はうなずいた。
「よかった」
葵は部屋を見回した。
見慣れた顔。
疲れた笑顔。
あらゆることが一度に起こっているような状況でも、冷静でいる方法を教えてくれた人たち。
寂しくなるだろう。
けれど、もう出発する準備はできていた。
送別会のあと、葵は更衣室に戻った。
名札を外した。
しばらく手の中に持っていた。
それから、丁寧に鞄へしまった。
その動作が、妙に決定的なものに感じられた。
葵は鏡を見た。
そこに映っているのは、何年も前にこの病院へやってきた女性と同じ人物だった。
けれど、まったく同じではない。
学んだ。
変わった。
傷ついた。
立ち直った。
そして、もう一度歩き始めた。
スマートフォンが震えた。
美香からだった。
美香: 自由になった気分はどう???
葵は微笑んだ。
葵: 複雑。
美香から返信が来た。
美香: いいじゃん! それって本物ってことだよ!
葵は笑った。
そしてスマートフォンを鞄にしまった。
外に出ると、夜の空気はひんやりとしていた。
街灯の下を歩き、駅へ向かった。
嫌がらせの捜査はまだ終わっておらず、これまで決めてきた安全対策も続けていた。
慎重に行動していた。
けれど、もう立ち止まってはいなかった。
この先には、新しい職場がある。
新しい同僚たち。
新しい患者たち。
そして、これまでとは違う形の看護。
葵は微笑んだ。
久しぶりに、未来が、自分の意思とは関係なく迫ってくるものではなく、自分から歩いていく場所のように感じられた。
答えない空
夜が深まるころ、陽翔の部屋は静まり返っていた。
美咲が書き終えられなかった手紙は、黄色いスカーフの中に残されていた完成済みの手紙と一緒に、保護用の透明なケースに収められていた。
陽翔自身が書いた手紙は、パソコンに保存されている。
まだ印刷しないことに決めていた。
いつか印刷するかもしれない。
もっと手紙を書くかもしれない。
そうやって集めていくのも、悪くないと思った。
日常の出来事を綴った手紙。
仕事。
旅行。
本。
人々。
もし母がまだここにいたなら、夕食のときに話していたようなこと。
陽翔は京都旅行のバインダーに目を向けた。
新しい旅行準備のチェックリストも追加されている。
交通手段、宿泊施設、介助者、機器、費用、緊急時の対応など、項目ごとに分けられていた。
バインダーは、だんだん厚くなってきていた。
貯金はまだ少ない。
けれど、陽翔はもう、封筒に入っている金額だけで夢の大きさを測ることはなかった。
自分が学んでいること。
出会っている人たち。
自分で下している決断。
そして、病院を出ることさえ怖がっていた青年と、今では東京の外へ旅立つ計画を立てている青年との距離。
そうしたものでも、夢の進み具合を測るようになっていた。
陽翔はかすかに微笑んだ。
「母さん」
声は柔らかかった。
「今日、ヨーロッパに行ったことがある人に会ったんだ」
少し間を置いた。
「ヨーロッパだよ」
小さく笑った。
「想像できる?」
写真を見た。
「どうやら、京都が世界の果てってわけじゃないらしい」
部屋は静かなままだった。
窓の外では、街が夜の静けさに包まれていく。
遠くを電車が通り過ぎた。
庭の向こうのどこかで犬が吠えた。
そよ風にカーテンが静かに揺れていた。
陽翔は淡い青色の布を見つめた。
それから、母の未完成の手紙に目を向けた。
私の恐怖が、あなたの世界を囲む壁になってはいけないのです。
もう一度、その文章を読んだ。
ほんの一瞬、母が隣に座っている姿を想像した。
椅子の背に掛けられた黄色いジャケット。
テーブルの上で冷めていく紅茶。
見慣れた笑顔。
何もかも話したかった。
返事をしてほしかった。
けれど、窓の向こうの空は沈黙したままだった。
そして、それこそが悲しみの最もつらい部分なのかもしれなかった。
誰かがいなくなったという事実だけではない。
相手がもう話せなくなっても、自分の中では会話が続いてしまうこと。
陽翔は唾を飲み込んだ。
そして微笑んだ。
「まあ、仕方ないか」
パソコンを見た。
「これからも書き続けるしかないね」
新しい文書を開いた。
一番上に入力した。
二通目の手紙
それから手を止めた。
少し考えた。
そして書き始めた。
母さんへ
今日、車椅子で海外旅行をすることは可能だって知ったよ。ただし、どうやら小さな家を一軒建てられるくらいの書類が必要らしい。
陽翔は声を上げて笑った。
そして、続きを書き始めた。
窓の外では、風が木々の間を吹き抜けていた。
その風は、何の答えも運んでこなかった。
約束も。
死者からの伝言も。
けれど、家の壁の向こうを自由に流れ、陽翔がまだ通ったことのない道を抜け、彼がようやく思い描き始めた街へと向かっていた。
そして、果てしなく広がる、まだ完成していない世界のどこかには、これから出会う人たちがいる。
計画を待っている旅がある。
これから犯す失敗がある。
笑う理由がある。
手紙が天国に届くことはない。
陽翔は、そのことを知っていた。
けれど、もしかしたら、届く必要などないのかもしれない。
手紙を書く目的は、母が聞ける場所まで言葉を運ぶことではないのかもしれない。
自分自身の声を、もう一度聞くためなのかもしれない。
かつての自分を思い出すため。
今、自分がどんな人間になろうとしているのかを理解するため。
そして、これからの自分が成長していく余地を残すため。
陽翔は美咲の写真を見た。
そして微笑んだ。
「おやすみ、母さん」
文書を保存した。
そして、久しぶりに、そのあとに訪れた沈黙は、それほど寂しいものには感じられなかった。




