第17章 まだ見ぬ道に降り注ぐ雨
冒険を計画するうえで厄介なのは、関係者全員がそれを軍事作戦に仕立て上げようとすることだ。
高橋陽翔は、最近になってその事実を思い知った。
時刻表。
持ち物の一覧表。
緊急連絡先。
交通手段の手配。
天気予報。
そして、大地おじさんが「横浜遠征――総合マスタープラン」と名づけたスプレッドシート。
陽翔は、その名前に異議を唱えた。
別に気に入らなかったわけではない。ただ、わざわざ大げさな名前をつけるほどの遠征なら、埋蔵金を探すか、未知の文明に遭遇する可能性くらいはあってほしいと思ったのだ。
陽翔の知る限り、横浜にはそのどちらもなかった。
もっとも、パンケーキがおいしいという噂は聞いていたが。
「ねえ、どうして天気予報を三つも確認する必要があるの?」
陽翔が尋ねると、大地はノートパソコンから顔を上げた。
「天気は変わるからだよ」
「うん、大地おじさん。それが天気ってものだからね」
大地はその皮肉を聞き流した。
「一つ目の予報では降水確率が三十パーセント」
「悲劇だね」
「二つ目は四十パーセント」
「大惨事だ」
「それで三つ目は――」
「当ててみようか。僕たち全員、死ぬんでしょ?」
大地は吹き出した。
食卓の反対側に座っていた由紀が、旅行の資料をまとめたファイルから顔を上げた。
「二人とも、もう少し真面目に考えてくれない?」
陽翔は叔母のほうを向いた。
「真面目に考えてるよ」
由紀が眉を上げる。
「本当に?」
「もちろん。お昼に何を食べるかは、もう決めてある」
大地がにやりと笑った。
「ほら。優先順位はちゃんとしてる」
由紀はため息をついた。
陽翔は笑った。
不思議なことに、今回の外出をめぐる不安は、いつものように息苦しいものではなかった。準備の一つ一つに、どこか胸が弾むような感覚があった。次の診察や、次に解決しなければならない問題のためではなく、家族みんなで何か楽しいことに向かっているのだという実感があった。
自分たちは、どこかへ出かけようとしている。
治療を受けるためでもない。
役所の担当者に、また何かを評価してもらうためでもない。
ただ、陽翔が行きたいと思ったから。
そんな贅沢は、彼にとってまだ慣れないものだった。
だからこそ、その面倒くさい準備の一分一秒まで楽しんでやるつもりだった。
横浜への日帰り旅行は、もともと京都旅行に向けた実地練習として計画されたものだった。けれど、陽翔の希望はすぐに鉄道のバリアフリー設備を確認するだけでは収まらなくなった。
海辺を見たい。
本屋に行きたい。
目が飛び出るほど高いものを食べて、値段なんて見ていなかったふりをしたい。
そして時間が許すなら、海を眺めながら、最低二十分間は何もせずに過ごしたい。
最後の希望には、由紀が首をかしげた。
「わざわざ遠くまで行って、ただ座っているだけなの?」
陽翔は叔母をじっと見つめた。
「由紀おばさん」
「何?」
「人類は何千年も前から、海を眺めるためだけに海まで出かけてるんだよ」
大地が神妙な顔でうなずいた。
「確かに一理ある」
陽翔はにやりとした。
「僕もその古きよき伝統を受け継ごうと思ってね」
出発の日が近づくにつれ、準備もいよいよ具体的になってきた。
星野里奈は、通常より長時間の外出に対応するため、事前に取り決めた勤務条件のもとで陽翔に同行することになっていた。食事、姿勢の調整、身の回りの介助、外出先で必要になるかもしれない支援などについて、担当する業務と勤務時間をあらかじめ確認してある。
大地も一緒に行く。
当初は由紀も同行する予定だったが、どうしても外せない仕事が入り、東京に残ることになった。
香川夏美は、陽翔や介護チームとともに、外出時の看護上の注意点を確認していた。観光のためだけに訪問看護師を同行させる予定はない。その代わり、日中に安全に対応できるケアの範囲、事前に必要な準備、そして旅行を短縮したり中止したりすべき状況を明確にしておく必要があった。
電動車椅子の寸法や重量、バッテリーに関する書類、充電の必要性、検討している経路の実際的な制約についても確認済みだった。
鉄道のバリアフリー情報も調べていたが、ウェブサイトに掲載されている情報が、当日のエレベーターや通路の利用を保証してくれるわけではないことも、陽翔は理解していた。
その不確実さを気にしていたのは、むしろ大地のほうだった。
陽翔はこれまでの人生の大半を、何の前触れもなくバリアフリー設備が使えなくなる世界で過ごしてきた。
今さら、そんなことは起こらないふりをするつもりはなかった。
「さて」と大地が別の書類を開いた。「もう一度、予定を確認しよう」
陽翔はうめいた。
「また?」
「ああ」
「もう自分の誕生日より予定表のほうを覚えてるよ」
大地は笑った。
「朝のケアが終わってから出発。駅までは余裕を持って移動して、乗車の介助を確認してから電車に乗る」
陽翔はうなずいた。
「うん」
「横浜に着いたら、バリアフリーの経路を通って海辺へ向かう。そこで休憩してから昼食」
「素晴らしい」
「それから、まだ体調に余裕があれば本屋へ」
陽翔は眉を上げた。
「余裕があれば?」
大地が笑った。
「そう。体調に余裕があれば」
陽翔は大げさにため息をついた。
「なんて残酷な世界なんだ」
由紀が陽翔を見た。
「陽翔」
「ん?」
「疲れたら、ちゃんと二人に伝えるのよ」
陽翔は笑った。
「わかってる」
「それから、何かうまくいかなかったら――」
「そのとき考えるよ」
由紀は少しためらった。
「それか、家に帰ってくるの」
陽翔は少し考えた。
それから、うなずいた。
「うん。帰ってくるのもありだね」
その返事に、由紀は少し安心したようだった。
それでも、心配が消えていないことは陽翔にもわかった。
無理もない。
長年、日常生活のほとんどすべてのケアを把握していたのは母だった。今は複数の人がその役割を分担しながら覚えている最中であり、家族は近所への短い外出よりもずっと複雑なことに挑戦しようとしている。
今回の旅行は、一つの試験になる。
陽翔に旅行する資格があるかどうかを試すものではない。
彼が旅行できるようにするための支援体制が、十分に整っているかどうかを確かめる試験だ。
陽翔はスプレッドシートに目を向けた。
そして笑った。
「大地おじさん?」
「何だい?」
「項目をもう一つ追加してもいい?」
大地がキーボードに手を伸ばした。
「何を?」
「楽しむこと」
大地は目を瞬かせた。
陽翔はにやりと笑う。
「計画の中でも、かなり大事な部分だと思うんだけど」
大地はしばらく陽翔を見つめていた。
やがて、声を上げて笑った。
「そうだな」
そして、キーボードを打った。
13.楽しむこと。
陽翔は満足そうにうなずいた。
「完璧。これでようやく、ちゃんとした遠征になったね」
真剣に扱われることの代償
横浜旅行の三日前、陽翔のもとにミライ・インターフェース・ソリューションズから新しいメールが届いた。
修正したアクセシビリティ報告書への返事だと思っていた。
ところが、清水陸が相談したかったのは、二件目の仕事についてだった。
陽翔はメールを二度読んだ。
それから、添付されていた案件の概要書を開いた。
仕事内容は、モバイル端末向けの公共情報サービスを評価し、アクセシビリティ上の問題を記録して、開発チームに提出するための体系的な報告書を作成するというものだった。
最初のお試し案件より、作業範囲が広い。
確認すべき操作の流れも多い。
必要な記録も増えている。
そして締め切りを見た瞬間、陽翔の眉が跳ね上がった。
彼は日程をじっと見つめた。
「絶対に無理」
ちょうど昼食の介助を終えた里奈が、パソコンのほうを見た。
「どうかしました?」
陽翔は笑った。
「どうやら僕の新しい雇い主は、僕を魔法使いだと思ってるらしい」
里奈が笑う。
「どうしてですか?」
「時間を操る能力がないと守れない締め切りを設定してきたから」
陽翔はもう一度、案件の概要を確認した。
会社が求めている納期は、四営業日以内。
理想的な環境で、経験豊富なテスターがフルタイムで作業するなら、妥当な日程なのかもしれない。
しかし、陽翔はフルタイムで働いているわけではない。
体力には日によって波がある。
日常生活には介助が必要だ。
そして、彼がパソコンを操作するために使っている方法では、一般的なキーボードやマウスより時間がかかる作業もある。
だからといって、仕事ができないわけではない。
ただ、一定の期間内に、無理なく確実にこなせる仕事量には影響する。
陽翔はカレンダーを開いた。
すでに介護サービスの予定があり、経過観察のための診察もあり、横浜への外出も控えている。
新しい仕事の期間は、その三つすべてと重なっていた。
画面を見つめたまま、陽翔はため息をついた。
「これは困ったな」
里奈が視界に入る位置まで近づいた。
「一緒に整理してみますか?」
陽翔はうなずいた。
「うん」
彼は事情を説明した。
里奈は黙って聞いていた。
それから尋ねた。
「実際には、どのくらい時間がかかりそうですか?」
陽翔は考えた。
「向こうが設定してる期間よりは長いね」
「延長をお願いできませんか?」
陽翔はためらった。
「できるとは思う」
里奈は続きを待った。
陽翔は概要書に目を戻した。
「でも、別の人に仕事を回されたら?」
里奈は少し考えた。
「その可能性はありますね」
陽翔は顔をしかめた。
「ありがとう。すごく安心したよ」
里奈は微笑んだ。
「聞かれたので」
陽翔は笑った。
すると里奈は続けた。
「でも、現実的に守れない締め切りを引き受けたら、どうなりますか?」
陽翔はため息をついた。
「ひどい仕事をするか、そうならないように頑張って自分をへとへとにするか、どっちかだね」
里奈はうなずいた。
「どちらも、長く続けられる働き方ではなさそうです」
陽翔は画面を見つめた。
彼女の言うとおりだった。
問題は、その仕事を引き受けたいかどうかではない。
引き受けたい。
心の底から。
問題は、そもそも働くことを可能にしてくれている生活上のケアや習慣を犠牲にせず、その仕事を引き受けられるかどうかだった。
陽翔は最初の案件を思い出した。
疲労。
システムの不具合。
締め切りの延長。
もっと時間が必要だと申し出たときの、あの恥ずかしさ。
そして、陸からもらった評価を思い出した。
専門的なテストには、正確な観察、信頼できる証拠、明確な意思疎通が必要だ。
もしかしたら、自分が現実的に何を提供できるのかを伝えることも、その一部なのかもしれない。
陽翔は新しい文書を開いた。
そして、質問を書き出し始めた。
想定されるテスト作業の時間。
締め切り。
テスト環境を利用できる期間。
特定の端末やソフトウェアが必要かどうか。
報酬。
そして、締め切りを変更できない場合、作業範囲を調整できるかどうか。
最後に、もう一つ質問を加えた。
テストに使用するツール自体にアクセシビリティ上の問題があり、作業を完了できない場合はどうなるのか。
陽翔は笑った。
「よし」
里奈が眉を上げた。
「よし?」
陽翔はうなずいた。
「交渉してみる」
里奈は微笑んだ。
「うまくいくといいですね」
陽翔はにやりとした。
「ありがとう」
それから付け加えた。
「失敗したら、資本主義のせいにするよ」
里奈は声を上げて笑った。
翌日の午後、オンラインでの打ち合わせが行われた。
画面に現れた陸は、陽翔よりもずっと落ち着いているように見えた。
「こんにちは、高橋さん」
「こんにちは」
「お時間をいただき、ありがとうございます」
陽翔は微笑んだ。
「いえ、こちらこそ」
二人はまず、最初の報告書について話し合った。
陸は修正内容を評価してくれた。
陽翔は、確認できた不具合と、まだ可能性の段階にある問題をより明確に区別し、いくつかの説明を簡潔にして、利用者にどのような影響が生じるかをわかりやすく書き直していた。
陸は、今後改善すべき点も指摘した。
陽翔はメモを取った。
その意見はありがたかった。
しかし、彼が待っていたのはもっと難しい話題だった。
やがて陸が二件目の案件の概要書を開いた。
「内容はご確認いただけましたか?」
「はい」
「何かご質問はありますか?」
陽翔は一度息を整えた。
「いくつかあります」
陸は微笑んだ。
「どうぞ」
陽翔は懸念している点を説明した。
最初に話したのは、自分の障害についてではなかった。
仕事そのものについてだった。
作業範囲。
想定されるテスト時間。
必要な記録。
そして、与えられた営業日数。
そのうえで、自分が使用する支援技術や日常的なケアの予定が、快適かつ正確に働ける時間にどう影響するかを説明した。
そうした事情について、謝らないように気をつけた。
事情が存在しないことにしてほしいと頼んでいるのではない。
仕事の期待値を設定する際に、それらを考慮してほしいと求めているのだ。
陸は耳を傾けた。
そして概要書を見ながら考えた。
「どのくらい追加の時間が必要でしょうか?」
陽翔は答えを用意していた。
「七営業日いただけると、無理なく進められると思います」
陸はゆっくりとうなずいた。
「それなら可能かもしれません」
陽翔は続けた。
「もし納期を動かせないのであれば、テスト対象となる操作の流れを減らすか、作業を段階的に分ける方法も考えられます」
陸は微笑んだ。
「合理的な提案ですね」
陽翔は目を瞬かせた。
……そうなの?
反論されるものだと思っていた。
陸は概要書に目を落とした。
「少し事情をご説明しますね」
依頼主は早い段階で暫定的な調査結果を求めていたが、完全な報告書まで同じ日に必要としているわけではなかった。
元の概要書では、その二つの段階が一つの締め切りにまとめられていたのだ。
陸は、その違いをもっと明確にするべきだったと認めた。
二人は条件を見直した。
まず陽翔が、範囲を明確に限定した一部の操作を評価する。
双方が合意した期限までに、暫定的な調査結果を提出する。
残りの作業については、正式に依頼される場合、別途日程と報酬を設定する。
また、会社側が希望する作業手順と、陽翔がテスト環境を利用するために必要な配慮との違いについても話し合った。
それから陽翔は、報酬の話を切り出した。
胃のあたりがきゅっと縮むような感覚がした。
これまで報酬について交渉した経験はなかった。
もっとお金が欲しいと口にすることは、どこか厚かましいことのように思えた。
しかし、提示された金額は、増えた記録作業の量に見合っていないように感じられた。
陽翔は、二件目の案件では最初の仕事よりかなり多くの作業が必要になることを説明し、作業範囲の見直しと合わせて報酬も再検討してもらえないか尋ねた。
陸は少し考えた。
「もっともなご意見です」
陽翔は思わず画面を見つめた。
陸は続けた。
「予算の確認は必要ですが、作業範囲と報酬は釣り合っているべきだと思います」
陽翔はうなずいた。
「ありがとうございます」
話し合いは、それからさらに二十分ほど続いた。
終了時点で、契約条件がすべて確定したわけではなかった。
陸は日程と予算を確認したうえで、修正した提案書を書面で送ることになった。
陽翔は、それを確認してから引き受けるかどうかを決める。
まだ何も保証されてはいない。
それでも、陽翔は大切なことを一つ成し遂げていた。
自分に必要な条件を説明した。
そして、相手が耳を傾けてくれた。
打ち合わせの終わりに、陸が微笑んだ。
「高橋さん」
「はい?」
「今回のご相談の進め方、とてもよかったと思います」
陽翔は目を瞬かせた。
「本当ですか?」
「ええ」
陸は椅子の背にもたれた。
「制約を把握し、それによって生じる影響を説明して、代替案を提案してくださいました」
彼は微笑んだ。
「まさに、アクセシビリティの仕事で私たちが重視している考え方です」
陽翔は顔が熱くなるのを感じた。
「あ……」
陸はうなずいた。
「プロとして働くというのは、何でも引き受けることではありませんから」
陽翔はかすかに笑った。
「覚えておきます」
打ち合わせが終わった。
陽翔はしばらく画面を見つめていた。
それから、笑いがこぼれた。
自分でも信じられないような、小さな笑いだった。
仕事の機会を失わなかった。
面倒な人間だと責められもしなかった。
ただ、交渉しただけだった。
陽翔は母の写真に目を向けた。
「ねえ、母さん」
彼は笑った。
「息子は今日、ビジネスマン相手に堂々と意見を言ったよ」
少し間を置いた。
「しかも、誰も死ななかった」
母の字で書かれた最後のレシピ
由紀がそのレシピを見つけたのは、日曜日の午後だった。
彼女は美咲の黄色いノートを少しずつデジタル化していた。原本を何度も手に取らなくても陽翔や介護スタッフが内容を確認できるよう、一ページずつ丁寧にスキャンしていたのだ。
ノートには驚くほど多種多様な情報が書き込まれていた。
介護に関する観察記録。
診察の予定。
買い物リスト。
家の中の寸法。
料理のレシピ。
そして、美咲が自分で楽しむためだけに書いたとしか思えない、ちょっとしたコメントまで。
あるページには買い物リストの下に、こんな一文が添えられていた。
陽翔いわく、新しいシャンプーは「幽霊に取り憑かれたレモン」の匂いがするらしい。二度と買わないこと。
由紀はあまりにおかしくて、スキャンの手を止めて笑ってしまった。
別のページには電池を買うようにというメモがあり、その隣にはサングラスをかけた猫の絵が描かれていた。
理由は誰にもわからない。
どうやら美咲は、説明するまでもない絵だと思っていたらしい。
ノートの終わり近くで、由紀は一つのページを見つけた。
そこには、こう書かれていた。
日曜日のパンケーキ――陽翔のお気に入り
レシピは、美咲らしい、少し右に傾いた文字で書かれていた。
小麦粉。
牛乳。
卵。
砂糖。
少量の溶かしバター。
そして、陽翔の好きなふんわりしたパンケーキになるよう、生地の固さを調整するための注意書き。
ページの下には、こんな一文もあった。
温かいうちに出すこと。食べやすい大きさに切ること。シロップは野菜の一種だという陽翔の主張に騙されないこと。
由紀は笑った。
しかし、レシピの下にもう一つ書き込みがあることに気づいた。
少し小さな文字だった。
京都旅行の案:桜を見たあとでパンケーキを食べられるお店を探す。段差のない出入り口、トイレの広さ、旅行中ずっと必要な介助を手配できるか確認する。急がないこと。あの子には、ちゃんと旅行を楽しんでほしい。
由紀の笑顔が消えた。
もう一度、その文章を読んだ。
そして、余白に書かれた日付に目を向けた。
美咲の病状が重くなる前の日付だった。
入院を繰り返すようになる前。
家族が治療や診察の予定を中心に時間を数えるようになる前。
美咲は、すでに計画を立てていたのだ。
ただ京都に行きたいと夢見ていたわけではない。
実際に行くための準備を始めていた。
由紀はページの端にそっと触れた。
その瞬間、家の中がひどく静かに感じられた。
やがて彼女は立ち上がった。
陽翔は自室で、陸との打ち合わせのメモを見直していた。
由紀が入ってくると、顔を上げた。
「どうしたの?」
由紀はかすかに微笑んだ。
「何でもないわ」
陽翔は目を細めた。
「この前も何か見つけたとき、そう言ってたよね」
由紀は小さく笑った。
「お母さんのノートに、また別のページを見つけたの」
陽翔は黄色い表紙に目を向けた。
「へえ?」
由紀は彼のそばに座った。
「レシピよ」
陽翔は目を瞬かせた。
「何の?」
「パンケーキ」
その瞬間、陽翔の表情が変わった。
「待って」
由紀は微笑んだ。
「そうよ」
「母さんのパンケーキ?」
由紀はうなずいた。
陽翔はじっと彼女を見つめた。
そして満面の笑みを浮かべた。
「やった! 最高じゃん!」
由紀は吹き出した。
「陽翔ったら!」
「何?」
由紀は首を振った。
「一度、作ってみたらどうかと思って」
陽翔は勢いよくうなずいた。
「もちろん!」
それから少し考えた。
「ちなみに『作る』っていうのは、由紀おばさんと大地おじさんが作るって意味だよね?」
由紀は笑った。
「あなたは監督をしてちょうだい」
陽翔は微笑んだ。
「素晴らしい。僕が一番好きな料理の仕方だ」
由紀は続けた。
「それから、もう一つあるの」
彼女は京都について書かれたメモを読み上げた。
陽翔は静かになった。
一度も口を挟まず、最後まで聞いていた。
それから、もう一度読んでほしいと頼んだ。
由紀は読み直した。
急がないこと。あの子には、ちゃんと旅行を楽しんでほしい。
陽翔はノートを見つめた。
母は、自分が今考えていることと同じことを考えていたのだ。
バリアフリーの経路。
トイレ。
介助。
美しい写真の中の風景を、実際に自分が訪れられる場所に変えるために必要な、細かな準備。
陽翔は唾を飲み込んだ。
「母さん、本当に行きたかったんだね」
由紀はうなずいた。
「ええ」
陽翔はパソコンのそばに置かれた京都旅行のバインダーを見た。
ふと、昔の台所のテーブルに座っている美咲の姿が浮かんだ。
開いたノート。
手にしたペン。
彼がテレビに向かって何か文句を言っている横で、母はホテルのウェブサイトを調べていたのかもしれない。
母が自分を京都に連れていきたがっていたことは知っていた。
けれど、すでにこれほど準備を進めていたとは知らなかった。
喉の奥が詰まった。
「これ、バインダーに入れてもいい?」
由紀は微笑んだ。
「もちろんよ」
陽翔はうなずいた。
「よかった」
それから叔母を見た。
「それと、パンケーキも作れる?」
由紀は笑った。
「ええ」
陽翔はにやりとした。
「今日?」
由紀はため息をついた。
「陽翔」
「お願い」
由紀は微笑んだ。
「わかったわ」
陽翔は神妙にうなずいた。
「素晴らしい」
そして付け加えた。
「完璧な仕上がりを期待してるよ」
由紀は声を上げて笑った。
「本当に、しょうがない子ね」
陽翔はにやりとした。
「遺伝だよ」
料理が始まったのは、午後四時を少し過ぎたころだった。
生地を混ぜる係は大地。
材料を量る係は由紀。
陽翔は、二人の邪魔にならずに調理台が見える台所の入り口から、監督を務めた。
里奈も予定されていた介助のために来ており、陽翔が無理なく参加できるように支援していた。あとで味見や食事をするときも、彼女が介助することになっている。
役割分担は明快だった。
そして、その明快さが保たれたのは、およそ六分間だった。
大地が牛乳を入れすぎたのである。
由紀はボウルを見つめた。
「何をしたの?」
大地は心外そうな顔をした。
「レシピどおりに作ったんだよ」
陽翔は眉を上げた。
「レシピに『パンケーキのスープを作る』って書いてあった?」
大地は笑った。
「そこまでひどくないだろ」
由紀が泡立て器を持ち上げた。
生地は、雨どいから流れ落ちる雨水のような勢いで滴り落ちた。
陽翔はじっと見つめた。
「大地おじさん」
「何だい?」
「新しい飲み物を発明したみたいだね」
由紀は吹き出した。
大地はため息をついた。
「まったく、評論家ばかりだな」
陽翔はにやりとした。
「一応、今の僕はお金をもらって批評するプロだからね」
大地は泡立て器を陽翔に向けた。
「調子に乗るなよ」
陽翔は笑った。
三人は生地の配合を調整した。
そして、いよいよ焼き始めた。
一枚目は焼き色が薄すぎた。
二枚目は焦げすぎた。
三枚目はフライパンにくっついた。
大地はそれをひっくり返そうとした。
パンケーキは真ん中から折れ曲がった。
陽翔はじっと見つめた。
そして、ささやいた。
「苦しんでる……」
由紀は笑いすぎて、調理台に寄りかからなければならなかった。
大地が陽翔を見た。
「代わりにやってみるか?」
陽翔は天使のような笑顔を浮かべた。
「残念ながら、僕は管理職だから」
大地はうめいた。
「そうだったな」
ようやくまともなパンケーキが何枚か焼き上がったころには、台所いっぱいにバターと温かな生地の香りが広がっていた。
由紀はパンケーキを皿に盛りつけた。
陽翔の分は好みに合わせて食べやすい大きさに切り、温度を確認してから、里奈が食事を介助した。
陽翔は最初の一口を味わった。
そして、動きを止めた。
由紀が不安そうに見守る。
「どう?」
陽翔は考えた。
大地が身を乗り出した。
「どうなんだ?」
陽翔は飲み込んだ。
そして微笑んだ。
「悪くない」
由紀がほっと息を吐いた。
大地はにやりとした。
「悪くない、だって?」
陽翔はうなずいた。
「ほぼ食べ物と言っていいレベルだね」
大地はうめいた。
由紀は笑った。
陽翔はにやりとした。
それから、もう一口食べた。
懐かしい味だった。
まったく同じではない。
食感が少し違う。
甘さも、ほんの少し違う。
そして母の焼き方には、どんなレシピにも完全には書き残せない何かがあった。
けれど、そこには確かに思い出があった。
温かくて。
ありふれていて。
心が安らぐような思い出が。
陽翔は、食べ物から離れた安全な場所に置かれている黄色いノートに目を向けた。
その笑顔が、少しだけ柔らかくなった。
「母さん、日曜日によく作ってくれたんだ」
由紀はうなずいた。
「覚えてるわ」
陽翔は飲み込んだ。
「たまに一枚目を焦がしてたけど」
大地が笑った。
「本当かい?」
陽翔はうなずいた。
「毎回ね」
由紀は微笑んだ。
「あの人、一枚目は台所の神様へのお供え物だって言ってたわね」
陽翔は声を上げて笑った。
「言ってた!」
大地は首を振った。
「美咲らしいな」
陽翔は自分の皿を見た。
そして微笑んだ。
「母さん、きっと喜んだだろうな」
由紀はうなずいた。
「ええ」
陽翔はもう一口食べた。
不思議と、その日の悲しみは、鋭く耐えがたい痛みとしてはやってこなかった。
悲しみは笑い声の隣に、静かに腰を下ろした。
確かにそこにある。
もうすっかり馴染んでいる。
けれど、ほかのすべてを消し去ってしまうほどの力は、もう持っていなかった。




