第16章 どんなに小さな翼でも、僕らを故郷へ連れ帰れる
高橋陽翔が初めての給料で買ったものは、何もなかった。
もっとも、まだ給料を受け取っていなかったのだから、当然といえば当然である。
それに、陽翔は最近になって、仕事を紹介されてから実際にお金を受け取るまでには、驚くほど多くの書類や署名、本人確認の手続きが必要になるのだと知り始めていた。おまけに、所得区分などという言葉を、まるで今日の天気について話すような調子で口にする人々との会話までついてくる。
三日目の朝には、陽翔の中で一つの仮説が完成していた。
労働とは、人々が稼いだお金を楽しめないようにするために仕組まれた陰謀なのだ。
「これ、あとどれくらいかかるの?」
陽翔が不満を漏らすと、ダイニングテーブルにいた高橋大地が顔を上げた。
「どの部分が?」
「全部」
叔父は笑った。
陽翔は青い電動車椅子に座り、パソコンの画面を見つめていた。モニターの大部分を占めているのは、ミライ・インターフェース・ソリューションズから送られてきた契約書だった。
契約内容は、期間と業務範囲が限定された有償の試験業務についてのものだった。
陽翔はデモ用のウェブサイトを評価し、アクセシビリティやユーザビリティに関する問題点を記録して、翌週の水曜日までに報告書を提出する。
会社は、合意された業務が適切に完了したことを確認したうえで、定額の報酬を支払う。
正社員としての採用ではないし、今後も継続して仕事がもらえる保証はない。
陽翔も、そのことは理解していた。
契約書は二回読んだ。
大地も一回読んだ。
由紀に至っては、国際平和条約の条件を精査する外交官のような厳しい表情で読み込んでいた。
さらに田中恵子が、陽翔の受けている給付や支援制度に、有償の仕事がどのような影響を及ぼす可能性があるのか確認できるよう、専門の相談員との面談を手配してくれた。
相談員の説明によれば、適用される規則は、陽翔が利用している給付やサービスの種類によって異なるという。
障害に関連する支援の中には、所得による制限を受けないものもある。一方、所得に応じて支給される制度では、収入や経済状況の変化を報告しなければならない場合があり、貯蓄の扱いも制度によって異なっていた。
将来的に継続して働く場合については、まだすべての疑問が解決したわけではない。
ただ、今回の限定的な試験業務については、契約書、請求書、支払記録、報酬に関するやり取りを保管し、実際に報酬を受け取る前に、自分に適用される報告義務を確認するよう助言されていた。
陽翔は、そのすべてを記録した。
そして最後に、個人的な感想を一行付け加えた。
大人になるということは、たまに食事を挟みながら延々と書類を処理することである。
大地は「なかなか鋭いな」と評した。
由紀は「ちょっと心配になるわね」と言った。
陽翔は、どちらの反応も適切だと考えていた。
「契約書の確認は終わったのか?」と大地が尋ねた。
「うん」
「質問は?」
陽翔は画面へ目を向けた。
「いくつかある」
叔父は椅子を引いた。
「よし、聞こう」
「まず、誰かが俺にお金をくれようとするたびに、どうして俺が実在する人間だって証明する書類を十四枚くらい要求されるの?」
大地は笑った。
「いい質問だな」
「二つ目。どうしてどの書類にも、医療上の緊急事態に陥った弁護士が書いたとしか思えない文章が、最低一つは入ってるの?」
「それもいい質問だ」
「それから三つ目……」
陽翔は言葉を切った。
大地が待つ。
「何だ?」
陽翔は微笑んだ。
「いい加減、このクソ契約書に署名してもいい?」
叔父は声を上げて笑った。
「ああ、陽翔」
「素晴らしい」
陽翔は普段使用しているアクセシブルな署名方法で契約書に署名した。
最終版を確認する。
そして送信した。
画面に受付完了の通知が表示された。
数秒間、陽翔はその文字を見つめていた。
やったのだ。
初めての有償業務を、正式に引き受けた。
小さな仕事だった。
一時的な仕事だった。
それでも、自分の仕事だった。
陽翔は叔父へ顔を向けた。
「さて」
大地が微笑んだ。
「さて?」
「どうやら俺も、ついに実業家になったようだね」
叔父はくすくす笑った。
「おめでとう」
陽翔は厳かにうなずいた。
「今後は高橋社長と呼んでくれたまえ」
大地は笑った。
「絶対に嫌だ」
「君はクビだ」
「俺はお前に雇われてないぞ」
「じゃあ採用する」
「陽翔」
「はい、またクビ」
二人の笑い声は、由紀が朝食を準備している台所まで響いた。
ほんの数分間、家の中には素晴らしく平凡な時間が流れていた。
医療の予定について話し合う必要もない。
介助の日程をめぐって議論することもない。
将来について不安そうに相談することもない。
ただ、初めての仕事についてくだらない冗談を言う青年がいて、彼を愛する家族が一緒に笑っていた。
思った以上に手強かった仕事
陽翔は、今回の仕事が難しいだろうと予想していた。
しかし、これほど疲れるとは思っていなかった。
作業を始めて九十分が経つ頃には、専門的なアクセシビリティ評価というものが、ウェブサイトを指さして「これは馬鹿げている」と宣言するよりも、はるかに厳密な作業を必要とするのだと理解していた。
評価対象は、オンライン予約サービスのデモサイトだった。
利用者はアクティビティを検索し、日付を選択し、アクセシビリティ情報を確認して、予約手続きを完了できる。
陽翔に与えられた課題は、普段使用しているパソコンの操作方法で、指定された一連の操作を評価することだった。
操作した手順を記録し、障壁となる問題を正確に説明する。確認できた不具合と、さらに調査が必要な観察事項を区別し、それぞれが利用者にどのような影響を及ぼすのかも説明しなければならない。
清水陸からは、報告書のテンプレートが提供されていた。
そこには、深刻度、再現性、使用環境、期待される動作、実際の動作、裏付けとなる証拠などの入力欄があった。
陽翔は五分近く、そのテンプレートを見つめていた。
そしてため息をついた。
「どうやら『これはゴミです』っていう分類は認められないらしい」
午前中の介助を担当し、勤務時間中は近くに控えていた星野里奈が、戸口から笑った。
「何かありました?」
「何でもない」
陽翔は画面へ目を戻した。
「社会人としての成長を遂げてるところ」
里奈は微笑んだ。
「楽しそうですね」
「そういう表現もあるね」
陽翔は作業に戻った。
最初に見つけた問題は、普段使っている操作方法では安定して操作できないカレンダーだった。
二つ目は、適切なラベルのついていない操作ボタン。
三つ目は、もう少し複雑だった。
検索結果では、ある施設が車椅子で利用可能だと表示されていた。
しかし、詳細ページには入口に数段の階段があると書かれており、段差のない代替経路については何も説明されていなかった。
陽翔は眉をひそめた。
詳細を読み直す。
検索条件も確認した。
それでも、その施設は車椅子対応の検索結果に表示されたままだった。
陽翔は報告書を開いた。
問題03:検索結果におけるアクセシビリティ情報の不一致
問題を説明し始める。
しかし、途中で手が止まった。
これは技術的な不具合なのだろうか。
掲載内容の正確性の問題なのか。
それとも検索フィルターの仕組みに問題があるのか。
判断できなかった。
陽翔は報告書の作成指針をもう一度開いた。
陸は、観察した事実と推測を分けることの重要性を強調していた。
陽翔は自分の文章を読み返した。
アクセシビリティの検索フィルターが壊れている。
その一文を削除した。
そして書き直した。
車椅子対応の条件で絞り込んだ検索結果に当該施設が表示される一方、詳細説明には入口に階段があると記載されており、段差のない代替経路についての説明がありません。この不一致が生じる原因については、追加の調査が必要です。
陽翔は少し考えた。
こっちのほうがいい。
面白みは減った。
しかし、役には立つ。
残念ながら、この文章を書くのに十二分もかかってしまった。
陽翔は時計を見た。
そして残りの課題へ目を向けた。
「……これは長い一週間になりそうだな」
昼食の時間になっても、評価作業はまだ一部しか終わっていなかった。
首に疲れを感じていた。
集中力も落ち始めている。
繰り返しパソコンを操作することが、だんだん苦痛になってきた。
それでも続けようとした。
カーソルが目的の場所からずれる。
修正する。
今度は間違った項目を選択してしまった。
画面が切り替わる。
陽翔はため息をついた。
前のページへ戻った。
もう一度試す。
しかし、次の入力は反応しなかった。
「頼むよ……」
姿勢を少し調整した。
改善しない。
疲労は、劇的な形で現れたわけではなかった。
突然倒れるようなこともない。
代わりに、小さな変化が積み重なっていった。
操作の精度が少し落ちる。
同じ動作に、以前より力を使う。
朝には問題なく維持できていた姿勢や集中力を保つことが、徐々に難しくなる。
陽翔は、その兆候を知っていた。
無視しても、ろくな結果にならないことも知っていた。
それでも締切へ目を向けた。
水曜日。
まだ数日はある。
けれど、自分にも仕事ができるのだと証明したかった。
陸に、自分を選んだのは間違いではなかったと思ってほしかった。
そして、その思いの奥には、もう一つの恐怖が潜んでいた。
もし、ついていけなかったら?
せっかく手に入れた機会なのに、自分の身体では続けられないとわかったら?
陽翔は画面を見つめた。
そして、もう一度操作を始めた。
母がすでに解決していた朝
翌朝は、最初から調子が悪かった。
大惨事というほどではない。
ただ、もう一度ベッドに戻って、朝という概念そのものに正式な苦情を申し立てたくなる程度には、ひどい朝だった。
夜間の姿勢が原因で、身体に不快感が残っていた。
早朝の介助を担当する予定だった支援者は、交通機関の乱れによって遅刻した。
その結果、朝のいくつかの介助手順を、陽翔が望むよりも短い間隔で進めなければならなくなった。
引き継ぎのために到着した里奈は、宇宙の存在そのものに不満を抱いているような陽翔の表情を目にした。
「おはようございます」
陽翔は天井を見つめた。
「それは議論の余地があるね」
里奈は微笑んだ。
「大変な朝でした?」
「時間という概念を訴えることについて、考えたことある?」
里奈は笑った。
「個人的にはありませんね」
「勝てると思うんだけど」
里奈は引き継ぎ事項を確認し、体調を尋ねた。
陽翔は説明した。
疲れていること。
身体が不快なこと。
そして、無理に急がず、朝の介助を終わらせたいこと。
里奈はうなずいた。
「わかりました」
香川夏美は、予定されている訪問看護のため、あとから来ることになっていた。
日常生活の介助については、里奈の担当範囲と合意済みのケア計画に含まれている。
二人は慎重に作業を始めた。
里奈は一つひとつの動作を事前に説明し、陽翔の希望を確認しながら、彼自身が順番を決められるようにした。
しばらくは順調だった。
しかし、姿勢をわずかに調整する場面で、問題が起きた。
陽翔は必要なことを説明した。
里奈はそのとおりに動かした。
それでも、しっくりこない。
陽翔は眉をひそめた。
「待って」
里奈は手を止めた。
「はい」
陽翔は少し考えた。
「もう少し動かせる?」
「どちらの方向ですか?」
彼はためらった。
それが問題だった。
求めている感覚はわかっている。
けれど、それを正確な指示に変えることが難しかった。
母は理解していた。
長い年月をかけて身につけた調整方法を、まるで何でもないことのように使いこなしていた。
ほんの少し位置を変える。
そこで一度、手を止める。
不快感が痛みに変わる前に、声をかける。
陽翔は目を閉じた。
母の声が、今にも聞こえてきそうだった。
どう? これで楽になった?
彼は唾を飲み込んだ。
里奈は待っていた。
「陽翔さん?」
陽翔は目を開けた。
「ごめん」
彼女は首を横に振った。
「謝らなくていいですよ」
陽翔は窓へ目を向けた。
「ただ……」
言葉が途切れた。
里奈は黙っていた。
陽翔は息を吸った。
「母さんなら、わかったんだ」
その言葉は、自分でも意外だった。
口にするつもりなどなかった。
けれど、一度言ってしまうと、もう取り消せないように感じられた。
里奈の表情が和らいだ。
「少し休みますか?」
陽翔はうなずいた。
「うん」
里奈は彼の身体が安全に支えられていることを確認し、介助を中断した。
陽翔は淡い青色のカーテンを見つめた。
あのカーテンを選んだのは母だった。
店で布地の見本を持ち上げ、どの色が好きか尋ねてきたことを覚えている。
陽翔は、どれでもいいと答えた。
母は、息子にはインテリアを楽しむ心がないと文句を言った。
陽翔は、カーテン選びを国家の非常事態みたいに扱うなと言い返した。
二人で笑った。
今、そのカーテンは、母が一度も見たことのない部屋の窓に掛かっていた。
陽翔は唾を飲み込んだ。
「自分のことなんだから、全部説明できなきゃいけないって、ずっと思ってるんだ」
里奈は椅子を近づけた。
「どうしてですか?」
陽翔は彼女を見た。
「だって、俺の身体だから」
里奈はうなずいた。
「そうですね」
「生まれてからずっと、この身体で生きてきたんだよ」
「はい」
陽翔はため息をついた。
「でも、母さんは何も言わなくてもわかってたことがあるんだ」
里奈は少し考えた。
「お母様には、何年もの時間がありましたから」
陽翔はうなずいた。
「私たちには、まだその時間がありません」
陽翔は彼女を見た。
里奈は優しく微笑んだ。
「だからといって、陽翔さんの説明が下手だということにはなりませんよ」
彼は唾を飲み込んだ。
「もっと上手にできるはずなのにって、思うんだ」
里奈は首を横に振った。
「介助を指示するのに、完璧である必要はありません」
陽翔は目を伏せた。
彼女は続けた。
「細かいことは、一緒に考えていけばいいんです」
しばらく、陽翔は何も言わなかった。
やがて、かすかに微笑んだ。
「……妙に筋が通ってるね」
里奈は笑った。
「すみません」
陽翔はにやりと笑った。
「許してあげる」
準備ができると、二人は介助を再開した。
今度は、動かす方向を一つひとつ指定するのではなく、どのような状態になれば快適なのかを説明してみようと、里奈が提案した。
陽翔は、どこに圧迫感があるのか、どんな支え方なら楽なのか、以前どのような調整で問題が起きたのかを伝えた。
少し動かす。
確認する。
また調整する。
そうしてようやく、快適な位置を見つけることができた。
陽翔は息を吐いた。
「……そこ」
里奈は微笑んだ。
「楽になりましたか?」
「ずっと」
「よかったです」
陽翔は天井を見つめた。
そして小さく笑った。
「母さんなら、五秒でできただろうな」
里奈は微笑んだ。
「そうかもしれませんね」
陽翔は彼女を見た。
里奈は続けた。
「でも、最初の一回は、きっと五秒以上かかったんじゃないでしょうか」
陽翔は考えた。
そして微笑んだ。
「……そうだね」
きっと、そうだったのだろう。
母が介助を覚え始めた頃、自分はまだ幼すぎて、その過程の多くを覚えていない。
ぎこちない試行錯誤。
迷い。
何度も繰り返された調整。
それらが、いつしか当たり前の動作になっていった年月。
陽翔が覚えていたのは、完成された母の技術だった。
そこへたどり着くまでに費やされた時間ではなかった。
その気づきは、朝の介助が終わったあとも、ずっと彼の心に残っていた。
病院の壁の向こうで暮らす患者たち
水野葵の新しい職場での研修は、曇り空の火曜日に始まった。
地域の訪問看護チームが拠点としているのは、住宅街の商店通りに近い、小さな事務所だった。
病院では、部署ごとにフロアがあり、さまざまな機器が絶えず移動していた。
それに比べると、ここは受付にいても、誰かがお茶を淹れる音が聞こえてくるほど小さい。
葵の指導担当は、西原智子という看護師だった。
四十二歳。
実務的で親しみやすく、少し皮肉の効いたユーモアの持ち主でもあった。葵はすぐに彼女を気に入った。
「訪問看護の第一の心得」
午前中の訪問準備をしながら、智子が言った。
葵は背筋を伸ばした。
「はい」
「住所がわかっているからって、簡単にたどり着けると思わないこと」
葵は目をぱちくりさせた。
智子は微笑んだ。
「第二の心得。エレベーターが動くとは限らない」
葵は笑った。
「それは、何となくわかります」
「そして第三の心得……」
智子は鞄を持ち上げた。
「これから入るのは、誰の家なのかを忘れないこと」
葵はうなずいた。
それは、ほかの二つよりもずっと重要に思えた。
最初の訪問先は、六十三歳の岡部勝だった。
数か月前に脳卒中を経験し、現在は妻と暮らしながらリハビリテーションを続けている。
マンションの部屋は広くなかったが、きちんと整理されていた。
冷蔵庫の横にはカレンダー。
ダイニングテーブルの近くには、いくつかの運動指導の資料が貼られている。
玄関にはスリッパがきれいに並んでいた。
勝は窓際の椅子から二人を迎えた。
脳卒中の前より話す速度は遅くなっていたものの、意識ははっきりしており、自分のケアにも積極的に参加しようとしていた。
妻の岡部紀子が、すぐそばに立っていた。
彼女は夫が答える前に、質問へ答え始めた。
「食事はちゃんと取れています」
勝が口を開く。
「夜も前より眠れるようになったんです」
智子は微笑んだ。
「それはよかったです」
そして勝へ顔を向けた。
「岡部さん、ご自身の体調はいかがですか?」
勝は少し時間をかけた。
「いい」
紀子がうなずいた。
「ほらね?」
勝は眉をひそめた。
そして付け加えた。
「……だいたい」
智子は待った。
葵も、その様子を見守った。
数秒後、勝は続けた。
「足……疲れる」
妻は驚いた顔をした。
「そんなこと、聞いてないわよ」
勝はため息をついた。
智子はいくつか質問を重ね、そのたびに彼が答える時間を十分に取った。
葵は、彼女が意識的に急がないようにしていることに気づいた。
救急外来では、沈黙が続くということは、すぐに何かをしなければならない状況を意味する場合が多かった。
しかし、ここでは違う。
沈黙とは、ときに、その人が自分の経験を説明するための言葉を探している時間なのだ。
その後、ケア計画を確認しながら、智子は勝本人がケアに参加できるよう支えることの重要性を説明した。
妻は、日常生活の多くを手伝っている。
夫を深く愛している。
しかし、心配するあまり、本人が話したり行動したりする前に、代わりに動いてしまうことがあるのだ。
葵には、その状況が理解できた。
以前、長谷川節子が自分でカーディガンのボタンを留めようとしていた姿を思い出した。
そして、手伝う前に必ず聞いてほしいと主張していた陽翔のことも。
状況は違う。
しかし、根底にある原則は同じだった。
人が介助を必要とする理由は、さまざまだ。
けれど、介助が必要だからといって、自分自身の言葉で話す権利が失われるわけではない。
二件目の訪問先は、藤沢千恵子という女性だった。
彼女は本と観葉植物でいっぱいの小さなマンションに、一人で暮らしていた。
慢性的な疾患のため継続的な看護支援を必要としていたが、日常生活の多くは自分で管理していた。
千恵子は明るく二人を迎えた。
そして、部屋が散らかっていることを謝った。
葵は室内を見回した。
自分の部屋より、ずっときれいだった。
そのことは黙っておくことにした。
訪問中、千恵子は最近、地域の読書会に参加し始めたと話した。
智子は微笑んだ。
「いかがでした?」
「素晴らしかったわ」
千恵子は笑った。
「ただね、推理小説は全部ハッピーエンドにするべきだって言い張る人がいたのよ」
葵はにやりと笑った。
「なかなか興味深い考え方ですね」
千恵子はうなずいた。
「私に言わせれば、とんでもない話よ」
三人は笑った。
必要な看護上の評価やケアを進めながらも、会話は続いた。
本のこと。
近所の人たちのこと。
食料品の買い物。
そして、読書会と同じ日に診察の予定を入れられてしまったことへの不満。
葵は、自然と笑顔になっていた。
病院では、患者の人生は断片的な情報として現れることが多い。
診断名。
服薬一覧。
入院歴。
家族の連絡先。
しかし、ここでは、その断片が一つにつながっていた。
千恵子は、単に慢性疾患を抱える女性ではない。
本を読むのが好きな人。
近所づきあいをする人。
ありきたりな結末を嫌う人。
木曜日の午後に予定がある人。
訪問を終えると、葵は智子を見た。
「少し、わかってきた気がします」
智子は微笑んだ。
「何が?」
「どうして訪問看護が好きな人がいるのか、です」
年上の看護師はうなずいた。
「聞かせて」
葵は少し考えた。
「病院では、患者さんが退院できるくらい安定した状態になることに、どうしても意識が向きますよね」
「ええ」
「でも、ここでは……」
葵はマンションを振り返った。
「退院したあと、その人が生活していくことを支えているんですね」
智子は微笑んだ。
「そのとおりよ」
葵は息を吸った。
初めて、この仕事を何年も続けている自分の姿を想像できた。
仕事が楽だからではない。
実際、楽ではなかった。
プレッシャーがないからでもない。
もちろん、そんなことはない。
ただ、医療的なケアが、その人の望む人生とつながっているからだ。
そして葵は、その仕事に携わりたいと思った。
家の匂いがするノート
由紀が美咲の古いノートを見つけたのは、引っ越してから一度も開けていなかった荷物を整理しているときだった。
色あせた黄色い表紙の、小さなリングノートだった。
角は折れ曲がっている。
何枚かのページは外れかけていた。
真ん中あたりには、二枚の紙の間に押し花が挟まれている。
由紀は、その筆跡をすぐに見分けた。
美咲の字だった。
彼女は床に座り込んだ。
しばらく、ただノートを手に持っていた。
それから開いた。
最初の数ページには、ごく普通の覚え書きが並んでいた。
買い物リスト。
診察の予定。
薬について確認したいこと。
家計に関するメモ。
そして、その先に陽翔について書かれたページがいくつもあった。
長時間外出したあとは、車椅子での姿勢を確認すること。
青いクッションともう一つのクッション、どちらがいいか本人に聞く。勝手に決めない。
疲れているときは、答えるまで時間をあげること。
由紀はかすかに微笑んだ。
次のページをめくる。
陽翔いわく、新しいスープは「煮込んだ悲しみの味」がするらしい。二度と作らないこと。
由紀は吹き出した。
自分の笑い声に驚き、思わず口元を覆った。
それから読み進めた。
ホットケーキ:砂糖を少なめにする。文句は言うけれど、結局全部食べる。
別のページには、テーブルの横に置かれた車椅子の簡単な図が描かれ、余白に寸法が書き込まれていた。
さらに先には、学校行事の予定。
電池を買うという覚え書き。
カレーのレシピ。
そして、大きな文字でこう書かれていた。
陽翔の誕生日――ケーキはいらないなんて言いくるめられないこと!
由紀はまた笑った。
目に涙が浮かんできた。
次のページをめくる。
自分の代わりに話されると、陽翔は嫌がる。みんなに、本人へ直接聞くよう伝えること。
その下に、美咲は一言書き加えていた。
私も含めて。
由紀は手を止めた。
その一文をもう一度読む。
そして目を閉じた。
一瞬、義理の姉の声が聞こえたような気がした。
美咲は愛情深い人だった。
意志が強かった。
面白い人だった。
そして、ときには周囲の人々を疲れさせるほど頑固でもあった。
完璧な母親ではなかった。
そんな人は、どこにもいない。
けれど、美咲はよく見ていた。
学んでいた。
そして、自分が間違えたときには、それを正そうとしていた。
由紀はノートを胸に抱いた。
それから立ち上がった。
誰に見せるべきなのか、考えるまでもなかった。
母が書き残さなかったこと
由紀が部屋に入ってきたとき、陽翔は仕事をしていた。
彼は顔を上げた。
「どうしたの?」
由紀は微笑んだ。
「何でもないわ」
陽翔は目を細めた。
「怪しいな」
由紀は笑った。
「ちょっと、いいものを見つけたの」
彼女は黄色いノートを持ち上げた。
陽翔はそれを見つめた。
最初は、何のノートかわからなかった。
しかし、すぐに表情が変わった。
「……それ、母さんの?」
由紀はうなずいた。
「そうみたい」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「何が書いてあるの?」
由紀は近づいた。
「少し読んであげようか?」
陽翔はうなずいた。
「うん」
由紀は彼の隣に座った。
最初は、ごく普通のメモから読み始めた。
買い物リスト。
診察の予定。
料理のレシピ。
陽翔は耳を傾けていた。
そして、スープについての一文にたどり着いた。
陽翔いわく、新しいスープは「煮込んだ悲しみの味」がするらしい。二度と作らないこと。
陽翔は声を上げて笑った。
「うわ、マジか!」
由紀も笑った。
「本当にそんなこと言ったの?」
陽翔はにやりと笑った。
「たぶん」
由紀は首を横に振った。
「ひどい子ね」
「スープもひどかったんだよ」
由紀はまた笑った。
そして読み進めた。
誕生日の覚え書き。
車椅子の寸法。
答えるまで時間を与えるようにというメモ。
それから、美咲がその下に書き加えた一文。
私も含めて。
陽翔は静かになった。
由紀は彼を見た。
陽翔はノートを見つめていた。
「……そんなこと、書いてたの?」
由紀はうなずいた。
「ええ」
陽翔は唾を飲み込んだ。
母と口論したときのことを思い出した。
それほど多くはなかった。
けれど、確かにあった。
母が疲れていて、自分の代わりに質問へ答えてしまったこと。
決断を急ぎすぎたこと。
頼んでもいないのに手伝われて、思わず怒ってしまったこと。
そして母が謝ってくれたこと。
陽翔は、そうした口論を覚えていた。
母も覚えていたのだとは、知らなかった。
由紀は次のページをめくった。
そこには、快適な姿勢についてのメモがあった。
小さな調整方法。
長い介助の年月を通して、美咲が学んだこと。
陽翔は注意深く聞いていた。
知っていることもあった。
初めて知ることもあった。
彼は何度か、同じ箇所をもう一度読んでほしいと頼んだ。
そして、かすかに微笑んだ。
「本当に、何でも書いてたんだね」
由紀は首を横に振った。
「全部じゃないわ」
陽翔は彼女を見た。
「書いてないこともあるの」
彼はうなずいた。
「わかってる」
由紀はノートへ目を向けた。
「この中には、今の介助チームの役に立ちそうなこともあるわね」
陽翔は考えた。
「うん」
それから付け加えた。
「でも、確認しないとね」
由紀はうなずいた。
「もちろん」
「今はもう合わないこともあるかもしれないし」
「そうね」
「それに、単に母さんがそうやってただけのこともあると思う」
由紀は微笑んだ。
「ええ」
陽翔は再びノートを見た。
大切に残しておきたかった。
役に立つ情報が書かれているからだけではない。
そこには、母がいた。
母の筆跡。
母の冗談。
母の失敗。
母の何気ない考え。
陽翔はかすかに微笑んだ。
「スキャンしてもいい?」
由紀はうなずいた。
「もちろんよ」
「原本は、安全な場所にしまっておきたい」
「ええ、そうしましょう」
陽翔は緑色の介助ノートへ目を向けた。
それから、美咲の黄色いノートを見た。
二冊が並んでいるところを想像した。
一冊は母が書いたもの。
もう一冊は、自分が書いたもの。
母が学んだことの記録。
そして、自分が説明する方法を学び始めたことの記録。
陽翔は唾を飲み込んだ。
「少しは使えるかもしれないね」
由紀は微笑んだ。
「美咲さんも、きっと喜ぶと思うわ」
陽翔はうなずいた。
そして黄色い表紙を見つめた。
「母さん……」
声が柔らかくなった。
「本当に、すごい人だったんだね」
あまりにも早く訪れた締切
火曜日の夜までに、陽翔のアクセシビリティ評価報告書は十四ページになっていた。
自分の仕事を誇らしく思っていた。
同時に、疲れ切ってもいた。
締切は翌日の午後だった。
指定された評価作業は終えていたが、いくつかの問題については、まだ説明を明確にする必要があった。
最初に書いた文章は長すぎた。
同じ情報を繰り返している箇所もあった。
技術的な観察と、個人的な苛立ちが混ざっている部分もあった。
そして、ある項目には、こんな一文が書かれていた。
このカレンダーを設計した人間には、残りの人生をすべてこのカレンダーだけで過ごす刑罰を与えるべきである。
陽翔はその文章を見つめた。
そしてため息をついた。
「……これは提出しないほうがいいな」
一文を削除した。
残りの作業は、何とかなりそうだった。
少なくとも、評価用のシステムが突然反応しなくなるまでは。
陽翔は眉をひそめた。
ページを再読み込みする。
反応なし。
通信状態を確認する。
ほかのウェブサイトは正常に動いている。
評価環境を開き直した。
エラーメッセージが表示された。
サービスを一時的にご利用いただけません。
陽翔は画面を見つめた。
そして笑った。
面白かったからではない。
叫ぶ以外の選択肢が、それしかなかったからだ。
「……もちろん、そうなるよね」
時計を確認した。
すでに予定より長くパソコンを使っていた。
集中力は落ちている。
そして、残りの問題を検証するために必要なシステムが利用できなくなっていた。
陽翔は、夜遅くまで作業を続けることを考えた。
無理をすれば、何とかなるかもしれない。
たぶん。
以前にも、そうしたことはあった。
しかし、あの大変だった朝を思い出した。
疲労。
苛立ち。
身体の限界を無視するほど、思うように動かせなくなっていったこと。
陽翔は介助の予定を確認した。
そしてメールを開いた。
陸へ連絡を書いた。
評価環境が利用できないようだと説明し、発生時刻とエラーメッセージを記載したうえで、会社側でも障害を確認できるか尋ねた。
また、残りの検証作業を完了できない場合には、短期間の締切延長を認めてもらえないかと依頼した。
そして送信した。
陽翔は画面を見つめた。
少し恥ずかしかった。
何も頼まずに終わらせたかった。
締切を守れると証明したかった。
けれど、技術的な問題を報告することも仕事の一部なのだと、彼は理解していた。
正当な理由があって締切の延長を求めることは、個人的な失敗ではない。
陽翔は評価環境を閉じた。
そして夜の介助をお願いした。
翌朝、陸から返信が届いた。
障害はデモシステム側で発生していたという。
会社からは謝罪があった。
そして、陽翔の締切は一営業日延長された。
彼は息を吐いた。
そして微笑んだ。
「さて」
メールへ目を向ける。
「……驚くほど文明的な対応だね」
夢見ることなら許された桜
その週の後半、田中恵子が高橋家を訪れた。
陽翔が、試験業務、将来得られるかもしれない収入、そして京都旅行の貯金計画について相談したいと希望していたのだ。
大地が同席した。
由紀も仕事を終えてから加わった。
話し合いは、家計のことから始まった。
恵子は陽翔が集めた書類を確認し、どの疑問について、給付制度の担当窓口や専門の相談員に追加確認が必要なのかを説明した。
収入の報告。
正確な記録の保管。
仕事で得た収入と、必要な支出を差し引いたあとに残るお金の違い。
そして、制度によって貯蓄の扱いが異なることを、勝手に決めつけないこと。
陽翔は注意深く聞いた。
質問した。
さらに質問した。
恵子は微笑んだ。
「本当に、よく確認されていますね」
陽翔はうなずいた。
「面倒くさい人間だって、よく言われます」
大地が笑った。
恵子は微笑んだ。
「私は、準備がいいんだと思いますよ」
陽翔はにやりと笑った。
「そっちの表現が好きです」
彼らは予算を確認した。
まずは生活に欠かせない支出。
個人的な出費。
予想外の費用。
そして、京都旅行のために少しずつ貯めたい金額。
実際にどれだけ稼げるのか、適用される制度のもとでどれだけ手元に残せるのかによって、貯金額は変わってくる。
陽翔も理解していた。
まだ受け取っていないお金を、使うつもりはなかった。
ただ、準備だけはしておきたかった。
大地は表計算シートへ目を向けた。
「旅行に関する費用を、別の項目にまとめたほうがいいかもしれないな」
陽翔はうなずいた。
「いい考えだね」
由紀は少し考えた。
「それに、京都へ行く前に、旅行の練習をしてみるのはどう?」
陽翔は彼女を見た。
「練習?」
由紀はうなずいた。
「もっと短い旅行よ」
大地は微笑んだ。
「実は、俺も考えてたんだ」
陽翔は目を細めた。
「危険な響きがするな」
叔父は笑った。
「東京からもう少し近い場所へ、日帰り旅行をしてみるのはどうかと思ってな」
陽翔は考えた。
「どこへ?」
「車椅子で利用しやすくて、宿泊しなくても移動の手配を試せるくらいの距離がある場所だ」
恵子はうなずいた。
「それは役に立ちそうですね」
大地は続けた。
「移動経路や必要な介助、利用できる設備、それから持っていく機器や物品も確認しなきゃいけない」
陽翔は微笑んだ。
「予行演習みたいなもの?」
「そのとおり」
由紀もうなずいた。
「何かうまくいかなかったら、そこから学べるものね」
陽翔は考えた。
悪くない案だった。
短い旅行なら、実際にいろいろな手配を試せる。
車椅子。
交通機関。
介助の予定。
休憩時間。
車椅子対応のトイレ。
そして、数時間家を離れて過ごす際の現実的な問題。
それに、楽しみにできる予定が一つ増える。
医療のための外出でもない。
介助の打ち合わせでもない。
仕事の面接でもない。
純粋な外出だ。
陽翔は微笑んだ。
「いいよ」
大地はにやりと笑った。
「本当か?」
陽翔はうなずいた。
「うん」
そして付け加えた。
「ただし、行き先は俺が決める」
由紀は笑った。
「もちろんよ」
「それから食べ物が必要」
大地はうなずいた。
「当然だな」
「おいしい食べ物」
「もちろん」
陽翔は少し考えた。
「あと、農業機械の歴史を紹介する博物館だけは絶対に嫌だからね」
大地は心外そうな顔をした。
「あれは一回だけだろ」
陽翔は吹き出した。
「一回でも多すぎるよ!」
恵子は微笑んだ。
話し合いは続いた。
いくつかの候補地を調べ、移動や介助の条件を確認してから行き先を決めることになった。
最終的な選択は陽翔が行う。
家族は必要な支援の手配を手伝う。
そして、その外出を京都旅行へ向けた実践的な一歩にする。
初めて、京都旅行が遠い夢物語ではなくなったように感じられた。
解決できそうな問題が、いくつも並んでいるだけに思えた。
そして陽翔は、問題というものには、ときどき答えが見つかるのだと学び始めていた。
完璧ではなかった報告書
木曜日の午後、陽翔は完成したアクセシビリティ評価報告書を提出した。
十六ページ。
確認できた問題が十一件。
追加調査を必要とする観察事項が三件。
そして、改善すべき項目の優先順位を提案する要約。
陽翔は最終版を二回確認した。
それから送信した。
その後の二十四時間、報告書のことを考えないように努めた。
見事なまでに失敗した。
メールの通知が鳴るたびに、胃がきゅっと縮んだ。
スマートフォンが振動するたびに、確認した。
とうとう大地が、受信箱を何度も更新するのはやめたらどうかと言い出した。
陽翔は、そのような要求は人権の基本原則をいくつも侵害していると告げた。
叔父は笑った。
そして金曜日の午後。
陸から返信が届いた。
陽翔はすぐに開いた。
メールの書き出しは好意的だった。
陸は課題を完了したことに感謝し、いくつかの観察事項が明確に説明されていたことを評価していた。
また、アクセシビリティ上の障壁が利用者にどのような影響を及ぼすのか、陽翔が深く理解していることにも触れていた。
しかし、そのあとに改善点が書かれていた。
問題の説明には、もっと簡潔にできる箇所がある。
いくつかの深刻度の評価には、より明確な根拠が必要だ。
そして、原因が特定されていない段階で、解決策を提案してしまっている項目もあった。
陸は、専門的な評価とは、単に問題を発見することではないと説明した。
開発者や設計者、プロジェクト管理者が実際の改善に役立てられるよう、信頼できる証拠を提示することが重要なのだ。
陽翔はメールを読んだ。
そして背もたれに身体を預けた。
「……ああ」
褒めてもらえると思っていた。
ところが、返ってきたのは宿題だった。
続きを読んだ。
陸は、選ばれた三つの項目を修正する短い追加課題を提案していた。
もともとの有償業務は、合意済みの条件に従って検収の対象となっている。追加の修正作業が試験業務の範囲に含まれるのか、それとも別途報酬が必要なのかについては、着手を依頼する前に会社側が明確にするという。
その点はありがたかった。
それでも、陽翔は落胆していた。
一生懸命取り組んだ。
無理をした。
正確な報告書にするため、何時間も費やした。
それなのに、まだ十分ではなかったらしい。
由紀が部屋に入ってきた。
「何か連絡あった?」
陽翔はうなずいた。
「うん」
由紀は微笑んだ。
「いい知らせ?」
陽翔は考えた。
「複雑な知らせ」
由紀は近づいた。
陽翔は説明した。
彼女は黙って聞いた。
そして微笑んだ。
「いい感じじゃない」
陽翔は目を丸くした。
「いい感じ?」
「ええ」
彼は眉をひそめた。
「報告書を批判されたんだよ?」
由紀はうなずいた。
「詳しい意見をもらえたのよね」
陽翔は画面へ目を向けた。
彼女は続けた。
「それに、もっとよくしてほしいって言ってくれてるんでしょう?」
陽翔は考えた。
「まあ、そうだけど」
由紀は微笑んだ。
「もしあなたの仕事に興味がなかったら、わざわざ時間をかけて改善方法を説明してくれるかしら?」
陽翔は彼女を見つめた。
そしてため息をついた。
「叔母さんが正論を言うと、本当に腹が立つ」
由紀は笑った。
陽翔はもう一度メールを見た。
陸の言葉は率直だった。
しかし、敬意があった。
陽翔の経験を軽んじてはいない。
むしろ、成長できる人間として扱ってくれていた。
教える価値のある人間として。
仕事を真剣に評価するに値する人間として。
陽翔はかすかに微笑んだ。
「……よし」
由紀は片方の眉を上げた。
「よし?」
彼はうなずいた。
「もっとよくしてみせる」
初めての一円
報酬の入金通知が届いたのは、その翌週だった。
陽翔は、合意された事務手続きをすでに終え、自分に関係する報告義務についても確認していた。
契約書と支払記録も保管してある。
報酬は決して多くなかった。
家計が劇的に変わるほどではない。
京都旅行の費用を賄えるわけでもない。
重い障害とともに生活するうえでの現実的な問題が、消えるわけでもない。
それでも、自分の仕事によって得たお金だった。
陽翔は口座への入金通知を見つめた。
そして笑った。
「さて」
大地が顔を上げた。
「どうした?」
陽翔は叔父を見た。
「俺、金持ちになったよ」
大地は微笑んだ。
「本当か?」
「もちろん」
「どれくらい?」
陽翔はにやりと笑った。
「ものすごくがっかりするホテルの朝食を、一回くらい買える程度には」
大地は吹き出した。
由紀が近づいた。
「お金が振り込まれたの?」
陽翔はうなずいた。
「うん」
彼女の表情が明るくなった。
「まあ、陽翔!」
彼は微笑んだ。
「そうなんだよ」
三人で金額と記録を確認した。
それから陽翔は、適用される制度の規則や、ほかに必要な支出を考慮したうえで、京都旅行の貯金にいくら回せるのかを決めた。
大きな金額ではなかった。
しかし、ゼロよりは多い。
大地が表計算シートの更新を手伝った。
京都旅行貯金
合計金額が増えた。
陽翔は新しい数字を見つめた。
そして微笑んだ。
「見てよ、これ」
叔父はうなずいた。
「前進だな」
陽翔は母の写真へ目を向けた。
一瞬、母にこの知らせを伝えているところを想像した。
母が喜ぶ姿。
笑い声。
きっと画面の写真を撮ろうとするだろう。
陽翔は唾を飲み込んだ。
そして微笑んだ。
「母さん」
静かな声だった。
「俺、お金もらったよ」
少し間を置いた。
「人に文句を言う仕事で」
大地が吹き出した。
由紀は口元を覆った。
陽翔はにやりと笑った。
「母さん、絶対に喜んだだろうね」
家から始まる道
その夜、葵は藤本美香と一緒に、駅の近くにある小さな飲食店に座っていた。
葵は、指導者の同行する研修をまた一日終えたところだった。
疲れていた。
けれど、充実感があった。
地域の訪問看護チームでは、実際の患者の生活に合わせてケア計画を調整する様子を、さらに多く見学できた。
家族が役割分担について話し合う姿。
患者が自分で決断する姿。
そして看護師がすべてを一人で解決しようとせず、ほかの専門職と連携する姿。
病院とは違った。
葵は、その違いが好きだった。
美香は麺を食べながら話を聞いていた。
「で?」
葵は顔を上げた。
「で?」
「まだその仕事、やりたい?」
葵は微笑んだ。
「うん」
美香はうなずいた。
「よし」
葵は笑った。
「それだけ?」
「ほかに何を言ってほしいの?」
「知らないけど。演説とか?」
美香は少し考えた。
そして箸を持ち上げた。
「水野葵に捧ぐ」
葵はうめいた。
「やめて」
「東京で最も勇敢な看護師」
「お願いだからやめて」
「恐るべき訪問看護の世界を征服した女」
葵は笑った。
「美香!」
「そして、書類仕事という太古の呪いから生還した英雄」
葵は吹き出した。
周囲の客が何人か振り返った。
美香はにやりと笑った。
「どういたしまして」
葵は首を横に振った。
それから微笑んだ。
「ありがとう」
スマートフォンは、丼の横に置かれていた。
警察の捜査は、まだ続いている。
黒田拓海による嫌がらせについて、解決したという知らせは届いていなかった。
葵は、美香や警察、事業所と相談して決めた安全対策を引き続き守っていた。
危険が消えたふりをするつもりはなかった。
それでも、不確かな状況に、一日のすべてを支配されないようにすることを学び始めていた。
今は、夕食を楽しみたかった。
仕事の話をしたかった。
友人の馬鹿げた演説に笑いたかった。
そして、恐怖だけではない未来を想像したかった。
美香が身を乗り出した。
「そういえば」
葵は片方の眉を上げた。
「何?」
「新しい仕事の初任給、何に使うか決めた?」
葵は微笑んだ。
「生活費」
美香はため息をついた。
「夢がないなあ」
葵は笑った。
「何を期待してたの?」
「旅行」
「どこにそんなお金があるのよ」
美香は少し考えた。
「ごもっとも」
二人は笑った。
それから葵は窓へ目を向けた。
外では、街灯の明かりの下を人々が行き交っていた。
買い物袋を持っている人。
駅へ急ぐ人。
一つの傘を分け合いながら歩く、若い恋人たち。
葵はしばらく、その二人を眺めた。
そして美香へ目を戻した。
「いつかは、ね」
友人は微笑んだ。
「旅行?」
葵はうなずいた。
「うん」
美香はにやりと笑った。
「どこへ?」
葵は考えた。
「静かなところ」
「山?」
「そうかも」
「海?」
「それもいいね」
美香は微笑んだ。
「京都は?」
葵は笑った。
「みんな京都に行くよね」
「きれいだもん」
葵はかすかに微笑んだ。
「……そうだね」
そして、また麺を食べ始めた。
東京の別の場所で、青い電動車椅子に乗った一人の青年が、無理なく貯められるお金を一円でも多く、その街への旅行のために残そうとしていることなど、彼女は知る由もなかった。
陽翔もまた、葵が病院の外に広がる人生を思い描き始めていることを知らなかった。
二人の道は、まだ別々だった。
今のところは。
そして、おそらく今は、それこそが二人に必要なことだったのだろう。
どんなに小さな翼でも
高橋家に夜が訪れる頃、陽翔の寝室は静かになっていた。
パソコンの電源は切られている。
緑色の介助ノートは、母が残した黄色いノートの隣に置かれていた。
京都旅行の貯金封筒は、桜の写真の近くにある。
そして机の上には、初めて仕事として作成したアクセシビリティ評価報告書の印刷版が置かれていた。
十六ページ。
いくつかの失敗。
役に立つ助言。
そして、難しい仕事をやり遂げたという証拠。
陽翔は報告書へ目を向けた。
予想以上に多くのことを学んだ。
専門的な仕事には忍耐が必要だということ。
誰かに認めてもらいたいからといって、身体の限界を無視することはできないということ。
合理的な調整を求めることは、失敗することと同じではないということ。
そして、思いやりをもって伝えられる批評は、ときに敬意の表れにもなるということ。
母についても、新しいことを知った。
母は、生まれたときから陽翔の介助方法を知っていたわけではない。
学んだのだ。
試行錯誤を重ねながら。
失敗しながら。
耳を傾けながら。
何年もの平凡な朝を積み重ね、やがて二人にしかわからない言葉のようなものを築いていった。
今、陽翔はその言葉を、ほかの人々にも伝える方法を学び始めていた。
簡単ではなかった。
ときには、つらかった。
泣きたくなることもあった。
母なら言葉にしなくてもわかってくれたことを、今は一から説明しなければならない。その不公平さに、叫びたくなることもあった。
それでも、その努力は少しずつ彼の人生を変え始めていた。
もう、ただ介助を受けるだけではない。
自分自身の介助体制を整えることにも参加している。
もう、ただ京都を夢見ているだけではない。
そこへ行くための計画を立てている。
そして、自分にも仕事ができるのだろうかと考えるだけの人間でもなくなった。
初めての報酬を得たのだ。
陽翔は微笑んだ。
美咲の写真へ目を向けた。
「ねえ、母さん」
声は柔らかかった。
「今日、俺、すごいことしたんだ」
少し間を置いた。
「まあ、厳密には何日もかけてやったことなんだけど」
小さく笑った。
「でもさ」
京都旅行の封筒を見た。
「お金を稼いだんだよ」
そして黄色いノートへ目を向けた。
「それに、母さんのメモも見つかった」
笑みが震えた。
「本当に何でも考えてくれてたんだね」
少し間を置いた。
それから首を横に振った。
「……いや」
緑色のノートを見た。
「全部じゃないか」
母にも知らなかったことがあった。
学ばなければならなかったことがあった。
もっと時間が与えられていたなら、これからも学び続けていただろうことがあった。
そして、陽翔には、母のいない世界で学ばなければならないことがあった。
彼は唾を飲み込んだ。
「少し、わかってきた気がするよ」
外では、住宅街の向こうを電車が通り過ぎていった。
遠くの走行音が、夜の空気に溶け込んでいく。
陽翔は窓へ目を向けた。
大地が提案してくれた日帰り旅行を想像した。
西東京の慣れ親しんだ道を越える、初めての旅。
実際に必要な準備。
不確かなこと。
そして、新しい何かを発見できるかもしれないという期待。
それから京都を想像した。
寺院。
細い路地。
春の空の下を舞う桜の花びら。
陽翔は微笑んだ。
いつ、そこへ行けるのかはわからない。
どれほどの努力が必要になるのかもわからない。
けれど、もう始めていた。
そして、物事の始まりというのは、必ずしも劇的な出来事とともに訪れるわけではないのだと、彼は学び始めていた。
千円札を一枚、封筒に入れること。
丁寧に書かれた介助の指示。
仕事の面接。
難しい話し合い。
小さな報酬。
クッションを置く位置を学ぶ、新しい看護師。
古いノートの中に、義理の姉の筆跡を見つける女性。
ありふれたこと。
小さなこと。
人々が何か特別な出来事を待っている間に、見過ごしてしまいがちなもの。
陽翔は最後にもう一度、母の写真を見た。
そして微笑んだ。
「心配しないで、母さん」
静かな声だった。
「ちゃんと行くから」
少し間を置いた。
「いつかはね」
小さく笑った。
「それで、京都に着いたら……」
暗くなったパソコンの画面に映る桜の写真へ目を向けた。
「京都で一番馬鹿みたいに高いホットケーキを食べてやるんだ」
外では、風が庭木の枝を揺らしていた。
そして、地平線の向こうには、京都へ続く道が待っていた。
人生が楽になるという約束としてではない。
陽翔が何もかも一人でできるようになったという証明でもない。
それは、彼自身が選んだ目的地だった。
努力を重ねて近づいていける夢だった。
そして、どれほどゆっくりであっても、少しずつ自分自身のものになり始めている未来だった。




