第15章 繋いだ手、開いた扉
高橋陽翔は、これまでの人生の大半を、見知らぬ人々に検査されながら過ごしてきた。
医師は彼の筋肉を調べ、看護師は呼吸の状態を確認し、療法士は姿勢を評価し、行政の担当者は、彼が日常生活を送るためにどれほどの介助を必要としているのかを判断しようと、膨大な書類に目を通してきた。
陽翔は、自分の身体について質問されることに慣れていた。同じ複雑な機械の仕組みを、次々と現れる技術者に説明するような、少々うんざりした忍耐強さを身につけていたのだ。
しかし、今日は違う。
今日、見知らぬ誰かが評価するのは、彼の身体ではなかった。
彼の能力だった。
そして、どうしてなのか自分でもうまく説明できなかったが、そのことが普通の病院での診察よりも、はるかに恐ろしく感じられた。
水曜日の午前九時四十三分。
陽翔はパソコンの前に座り、モニターの暗い部分に映る自分の姿を見つめていた。
髪はきちんと整えてある。
シャツも清潔だ。
電動車椅子は机から適切な距離に配置され、ヘッドサポートも快適な位置に調整されていた。パソコンの代替入力システムも、今朝の状態に合わせて設定済みだった。
マイクは正常。
カメラも正常。
ビデオ会議ソフトも正常。
三つとも、すでに二回ずつ確認していた。
もう、やることは何一つ残っていなかった。
当然ながら、陽翔はそれが怪しいと思った。
「大地叔父さん!」
食べかけのトーストを持った大地が、戸口に姿を現した。
「どうした?」
「俺の髪、変じゃない?」
大地は彼を眺めた。
「いや」
「本当に?」
「ああ」
「変だったら、ちゃんと言ってくれる?」
大地は少し考えた。
「たぶん言わないな」
陽翔は叔父を見つめた。
「素晴らしいね」
大地は笑った。
「大丈夫だって」
陽翔は時計へ目を向けた。
あと十七分。
ミライ・インターフェース・ソリューションズとの一次面接まで、残り十七分だった。
自分の経験について聞かれたときの答えは用意してある。会社が手がけるデジタルアクセシビリティ関連の事業についても調べ、応募手続きで発見した問題について、いくつかメモを作成していた。
自己紹介の練習までした。
残念ながら、どの練習も堅苦しすぎるか、あるいは人質に取られた人間が犯人に言わされている声明文のように聞こえてしまった。
初めまして。高橋陽翔と申します。御社で働きたいと考えております。
ひどい。
労働者の皆様、ごきげんよう。
もっとひどい。
どうか採用してください。文句を言うことには自信があります。
正確ではあるが、賢明とは言い難い。
大地が机へ近づいた。
「緊張してるのか?」
陽翔はため息をついた。
「全然」
叔父は片方の眉を上げた。
「本当か?」
「いや。ただ、深刻な精神的危機に陥ってるだけ」
大地は笑った。
陽翔はパソコンの横に置いたメモを見た。
「こんなこと、今までやったことないんだよ」
「知ってる」
「馬鹿なこと言っちゃったらどうしよう」
大地は微笑んだ。
「だったら、立て直す経験は十分あるだろ」
陽翔はむっとした。
「どういう意味?」
叔父はにやりと笑った。
「お前、いつも馬鹿なこと言ってるじゃないか」
陽翔は吹き出した。
「ひどっ」
大地は彼の肩を軽く叩いた。
「大丈夫だよ」
そして時計へ目を向けた。
「そろそろ行かないとな」
陽翔はうなずいた。
大地は、朝の準備を手伝ってから出勤できるように予定を調整していた。午前中の遅い時間には、陽翔の身体的な介助を担当する支援者が来ることになっている。ただし、面接そのものは、陽翔が希望しない限り、誰も同席しない予定だった。
戸口で、大地が立ち止まった。
「陽翔」
「うん?」
「結果がどうなっても、俺はお前を誇りに思ってるよ」
陽翔は叔父を見た。
思いがけない言葉だった。
かすかに微笑む。
「ありがとう」
大地はうなずいた。
そして付け加えた。
「会社のサイトをあんまり悪く言うなよ」
陽翔はにやりと笑った。
「約束はできないね」
大地は笑いながら廊下へ消えていった。
陽翔は再び画面へ向き直った。
あと十分。
モニターの横に飾られた母の写真へ目を向ける。
高橋美咲は、妙ちくりんなサングラスをかけて微笑んでいた。公園の緑を背景に、黄色いジャケットが鮮やかに映えている。
陽翔はしばらく写真を見つめた。
「さて、母さん」
静かな声だった。
「どうなることやら」
そして、会議に参加した。
間違った質問をした男
午前十時ちょうど。
清水陸が画面に現れた。
三十代前半くらいだろうか。きれいに整えられた黒髪に、長方形の眼鏡、濃紺のシャツを着ている。
背後の本棚には技術書が何冊も並び、小さな観葉植物と、パソコンのキーボードに座る猫の額入りイラストが飾られていた。
陽翔は、その猫を一目で気に入った。
「おはようございます、高橋さん」
「おはようございます」
「本日はご参加いただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
陸は微笑んだ。
「始める前に、こちらの声ははっきり聞こえていますか?」
「はい」
「会議システムは、普段お使いの入力環境でも問題なく操作できていますか?」
陽翔は少し考えた。
「今のところは」
陸は笑った。
「慎重な『はい』ということですね」
陽翔は微笑んだ。
「その解釈が賢明だと思います」
面接官は、自分が会社のアクセシビリティおよび品質保証チームの一員であると説明した。
今回の一次面接では、陽翔の経験について話を聞いたあと、短い実技課題を行うという。
普段使用している機器では対応できない操作を、無理に実演する必要はない。
もし試験環境そのものが操作の障壁になった場合は、黙って苦労するのではなく、何が問題なのか説明してほしいとのことだった。
陽翔は少し肩の力を抜いた。
応募フォームより、ずっと配慮が行き届いている。
陸はメモへ目を落とした。
「まず、今回の仕事に興味を持った理由を教えていただけますか?」
これは練習してきた質問だった。
何度も。
陽翔は息を吸った。
「僕は毎日、支援技術を使っています。それで、アクセシビリティに問題のあるウェブサイトには、これまで何度も苦労させられてきました」
陸はうなずいた。
「なるほど」
「文章を書いたり、物事を分析したりすることも好きなんです。この求人を見たとき、自分の経験を仕事に生かせるかもしれないと思いました」
「これまで、正式なユーザビリティテストの経験はありますか?」
「ありません」
陽翔は少しためらった。
「仕事としては、ですけど」
陸は微笑んだ。
「それで構いませんよ」
陽翔は続けた。
「でも、非公式になら、いつもやってるようなものです」
「というと?」
「ウェブサイトを使っていて何かがうまく動かないと、たいてい原因を調べようとするんです」
陸はうなずいた。
「具体例を挙げてもらえますか?」
陽翔は微笑んだ。
「御社の応募フォームですね」
面接官は笑った。
「ええ。それが出てくると思っていました」
陽翔はにやりと笑った。
「すみません」
「謝らないでください」
陸は眼鏡の位置を直した。
「実は、あなたの報告書が、ぜひお話ししてみたいと思った理由の一つなんです」
陽翔は目をぱちくりさせた。
「本当ですか?」
「ええ」
面接官は文書を開いた。
「単に『応募フォームが使えない』と書いたのではなく、何が起こったのか、どうすれば問題を再現できるのか、どの入力方法を試したのか、そしてその結果どんな不都合が生じたのかまで説明されていました」
陽翔はうなずいた。
「そのほうが役に立つと思ったので」
「実際、とても役に立ちました」
陸は微笑んだ。
「では次に、初めて触れるものにどう取り組むのか、見せていただきたいと思います」
陽翔は姿勢を正した。
「わかりました」
陸が、実演用のウェブサイトへのリンクを共有した。
テストのために作られた架空のオンラインショッピングサイトだった。
トップページには検索欄、商品カテゴリー、買い物かご、いくつもの広告バナーが並んでいる。
一見したところ、特におかしな点はない。
陸が課題を説明した。
「このサイトを操作して、気づいたことを教えてください。すべての問題を見つける必要はありません。どう考えて調べるかを知りたいんです」
陽翔はうなずいた。
「はい」
サイトを開く。
そして操作を始めた。
最初の問題は、ほとんどすぐに見つかった。
「このナビゲーションメニュー、動きがおかしいですね」
陸が少し身を乗り出した。
「どのようにですか?」
陽翔は実演した。
「キーボード操作でページを移動すると、二つ目のメニュー項目を過ぎたところで、フォーカスの表示が消えるんです」
陸はうなずいた。
「続けてください」
陽翔は操作を続けた。
「操作自体は進められるんですけど、今どこを選択しているのか、確実にはわからなくなります」
少し間を置いた。
「僕と同じ入力方法を使っていなくても、フォーカスの視覚表示に頼っている人には問題になると思います」
陸は微笑んだ。
「いい指摘ですね」
陽翔はページをさらに下へ進めた。
広告バナーが自動的に切り替わり始めた。
彼は眉をひそめた。
「これ、鬱陶しいですね」
陸は片方の眉を上げた。
「なぜですか?」
「読み終わる前に切り替わるからです」
操作部分を確認する。
「しかも、一時停止する方法が見当たりません」
陸はうなずいた。
陽翔は続けた。
「情報を理解するのに時間が必要な人には使いにくいでしょうし、認知面や視覚面で特定の配慮が必要な人には、気が散る原因にもなると思います」
「ほかには?」
陽翔はバナーを調べた。
「文字のコントラストも、あまりよくありませんね」
陸は微笑んだ。
「素晴らしい」
陽翔は商品一覧へ移動した。
ある商品には、青いリュックサックの写真が表示されていた。
その画像の代替テキストは、たった一言だった。
画像。
陽翔は画面を見つめた。
そしてため息をついた。
「いやいや、ちょっと待ってくださいよ」
陸が笑った。
「どうしました?」
陽翔はカメラへ目を向けた。
「代替テキストが『画像』になってます」
「ええ」
「ものすごく参考になりますね」
陸は微笑んだ。
「どう改善しますか?」
陽翔は考えた。
「画像に意味のある情報が含まれているなら、実際の商品について説明する文章にするべきだと思います」
少し間を置いた。
「ただ、周囲に同じ情報がすでに書かれているなら、説明を重複させる必要はない場合もあります。文脈によりますね」
陸は感心したようにうなずいた。
陽翔は続けた。
購入手続きの画面にも、いくつか問題があった。
エラーメッセージが表示されても、どの入力欄を修正する必要があるのかわからない。
情報を入力すると、項目名のラベルが消えてしまう。
そして、あるボタンにはアイコンだけが表示され、アクセシブルな名前が設定されていなかった。
陽翔はそれぞれの問題を記録した。
すると陸が、予想していなかった質問をした。
「もし利用者から、自分では再現できない問題を報告されたら、どうしますか?」
陽翔は考えた。
「詳しい情報を聞きます」
「どんな情報ですか?」
「使用している端末、ブラウザ、操作方法、何をしようとしていたのか、そして実際に何が起こったのかです」
陸はうなずいた。
「それでも、あなたの環境では正常に動いたら?」
陽翔は軽く肩をすくめた。
「だからといって、その問題が存在しない証拠にはなりません」
面接官の動きが止まった。
陽翔は続けた。
「人によって、技術の使い方は違います。僕には完璧に動くものでも、別の人にはまったく使えないかもしれません」
陸は微笑んだ。
「それは重要な違いですね」
陽翔はうなずいた。
「自分には使えたから問題ないって言われるのが、どんな感じか知ってますから」
少し間を置く。
「あんまり役に立つ言葉じゃないんですよね」
陸は背もたれに身体を預けた。
「ええ。本当にそうですね」
面接が始まって以来、陽翔は初めて緊張していることを忘れた。
もう、自分に機会を与える価値があると誰かを説得しようとしているのではなかった。
自分が理解している分野について、話していた。
そして、画面の向こうにいる相手は、きちんと耳を傾けてくれていた。
すぐには開かなかった扉
面接は四十七分間続いた。
終わる頃には、陽翔はアクセシビリティ上の問題と思われる箇所を十一件発見し、個人的な経験と幅広いユーザビリティ評価との違いについて話し合い、記録方法やコミュニケーションについての質問にもいくつか答えていた。
さらに、サイトの設計上の判断の一つを、うっかり「技術による敵対行為」と呼んでしまった。
陸は笑っていた。
陽翔は、それがいい兆候であることを願った。
面接の終わりに、陸はほかの応募者の結果と併せて、陽翔の評価を検討すると説明した。
選考を通過した場合、書面による契約のもとで、範囲を限定した有償の試験業務を依頼する可能性があるという。
引き受けるかどうかを決める前に、業務内容、報酬、必要な機器、想定される日程について説明を受けられる。
まだ採用が決まったわけではない。
保証もない。
それでも、可能性は確かに存在していた。
「最後に、何か質問はありますか?」と陸が尋ねた。
陽翔はメモへ目を向けた。
「はい」
勤務時間を柔軟に調整できるかどうか。
作業を決まった時刻ではなく、自分の都合に合わせて進められるかどうか。
提出した意見がどのように確認されるのか。
そして、会社が提供する資料はアクセシブルな形式になっているのか。
陸は一つずつ答えた。
陽翔は最後にもう一つ質問した。
「この仕事は雇用契約になるんでしょうか。それとも業務委託ですか?」
陸はうなずいた。
「正式にお仕事をご案内する場合、書面の条件で明確にご説明することになります」
陽翔は微笑んだ。
「よかったです。有償の仕事を引き受ける前に、今受けている給付にどんな影響があるのか確認する必要があるので」
「もちろんです」
陸は少し間を置いた。
「それから、高橋さん」
「はい?」
「先日送ってくださった報告書、ありがとうございました」
陽翔は目をぱちくりさせた。
「いえ、どういたしまして」
「応募手続きについては、すでに社内で見直しを始めています」
陽翔の笑みが大きくなった。
「本当ですか?」
「ええ」
陸は微笑んだ。
「とても役立つご意見でした」
会議が終了した。
陽翔はデスクトップ画面を見つめた。
数秒間、動かなかった。
それから長く息を吐いた。
「……さて」
母の写真へ目を向けた。
「死なずに済んだよ」
小さな笑いが漏れた。
そして、にやりと笑った。
「進歩だね」
誰かに伝えたかった。
今すぐに。
しかし、大地は仕事中で、由紀にも外出の予定があった。
そこで家族のグループチャットを開いた。
陽翔:面接終わった。
ほとんど瞬時に返事が来た。
大地:どうだった!?!?
陽翔は微笑んだ。
陽翔:会社のサイトを悪く言ったのは三回だけ。
大地:さすが俺の甥っ子だ。
続いて、もう一通。
由紀:お疲れさま! 私たちも嬉しいわ! 結果はいつ頃わかるって?
陽翔は返事を入力した。
陽翔:近いうちだといいけど。まだ決まったわけじゃないよ。
そして、京都旅行の封筒へ目を向けた。
千円。
まだ、そのままだ。
陽翔は微笑んだ。
珍しく、待つことが苦にならなかった。
すべてを約束できない看護師
水野葵のその週最後の病院勤務は、壊れたコーヒーメーカーとともに始まり、診察が必要だということを頑として認めない患者とともに終わった。
ちなみに、厄介さでいえばコーヒーメーカーのほうがずっとましだった。
午後の早い時間には、救急外来はすっかり混雑していた。
葵は患者の間を行き来し、投薬指示を確認し、診察や評価を補助し、新たな患者が運び込まれるたびに同僚と連携して対応した。
この部署で働いてきた彼女は、忙しい勤務日に特有の奇妙なリズムをよく知っていた。
目が回るほど慌ただしい時間が続いたかと思えば、ほんの短い静寂が訪れる。
しかし、すぐに次の救急車が到着する。
別の家族が説明を求める。
別の患者が不安に襲われる。
そして、同じことが繰り返されるのだ。
その日の午後、駅で倒れた高齢の男性が搬送されてきた。
意識はあったものの、状況を十分に把握できていない様子だった。ベッドの横には娘が立ち、目に涙を浮かべていた。
葵は近づいた。
「こんにちは。看護師の水野です」
娘は不安そうに頭を下げた。
「父を助けてください」
葵はうなずいた。
「私たちが対応していますからね」
患者の状態を確認し、医療チームの処置を手伝った。
男性は診察の間中、文句を言い続けた。
自分は大丈夫だ。
病院なんか必要ない。
みんな大げさに騒ぎすぎだ。
娘は疲れ切った顔をしていた。
「お父さん、お願いだから……」
男性は片手を振った。
「死ぬわけじゃあるまいし」
葵は優しく微笑んだ。
「私たちも、そうであってほしいと思っています」
男性は彼女を見た。
葵は続けた。
「でも、お帰りになる前に、安全な状態かどうか確認させてくださいね」
男性は眉をひそめた。
「最近の若い者は心配しすぎだ」
葵は微笑んだ。
「それが私たちの得意分野の一つですから」
娘が弱々しく笑った。
張り詰めていた空気が、少し和らいだ。
その後、差し迫った問題への対応が終わり、男性が休んでいる頃、葵は備品棚のそばに立っていた。
疲れていた。
足も痛かった。
そして一日の大半を、自分の助けを必要とする人々の間を行き来して過ごしていた。
それでも、彼らを煩わしいとは思わなかった。
そのことに、葵自身が少し驚いた。
看護の仕事が好きだった。
今でも。
いろいろなことがあったあとでも。
怯えていた患者が、少しずつ安心していく瞬間が好きだった。
家族がようやく状況を理解し、表情を和らげる瞬間が好きだった。
チームが協力することで、難しい状況を乗り越えられるようになることが好きだった。
彼女が変えたかったのは、看護という仕事そのものではない。
その仕事の中で、自分がどんな人生を送るかということだった。
救急外来での限られた時間だけでなく、患者のことをもっと深く知りたかった。
人々が自分の家で安全に暮らし続けられるよう支えたかった。
医療的なケアを意味のあるものにする、日常生活の事情を理解する時間が欲しかった。
そして何より、自分自身で選んだ未来が欲しかった。
恐怖によって決められた未来ではなく。
拓海から逃れることだけを目的に築いた未来でもなく。
自分の人生だと胸を張って言える未来が。
「葵?」
振り返ると、看護師長の松田玲子が戸口に立っていた。
「ちょっと時間ある?」
葵はうなずいた。
「もちろんです」
まだ提出されていない退職届
玲子の執務室は小さく、きちんと整理されていた。壁には山々の風景写真が載ったカレンダーが飾られている。
葵は上司の向かいに座った。
玲子は持参された書類に目を通した。
「訪問看護事業所での研修は続けているのね」
葵はうなずいた。
「はい」
「どう?」
「順調です」
彼女は微笑んだ。
「実は、思っていた以上に」
玲子はうなずいた。
「それはよかった」
葵は指導者の同行する訪問、研修で経験したさまざまな場面、そして病院と地域での看護の違いについて、気づき始めたことを説明した。
玲子は注意深く耳を傾けた。
そして微笑んだ。
「ずいぶん勉強になっているみたいね」
「はい」
葵はためらった。
「それに……やっぱり、私がやりたいのはこの仕事なんだと思います」
玲子は彼女を見つめた。
「確信がある?」
葵は少し考えた。
「すべてについて、というわけではありません」
かすかに微笑む。
「でも、本気で挑戦してみたいとは思っています」
玲子はうなずいた。
「それなら十分、筋の通った考えね」
葵は書類へ目を向けた。
「実は、退職届を書き始めたんです」
上司は片方の眉を上げた。
「もう提出したの?」
「いいえ」
「それならよかった」
葵は笑った。
「そう言われると思いました」
玲子は微笑んだ。
「まだ事業所との雇用条件は確定していないんでしょう?」
「はい」
「だったら、まだ退職しちゃ駄目よ」
葵はうなずいた。
玲子は続けた。
「正式な条件、勤務開始日、契約内容、それから経済的な影響まで、きちんと理解しておきなさい」
「もちろんです」
「退職の申し出に必要な期間も確認してね」
葵は微笑んだ。
「そこも調べています」
「よろしい」
玲子は背もたれに身体を預けた。
「それから、もう一つ聞きたいことがあるの」
葵は顔を上げた。
「はい?」
「あなたがこの決断をしようとしているのは、訪問看護の仕事がしたいから?」
葵はためらった。
玲子は続けた。
「それとも、ここに残ったら何が起きるかわからなくて怖いから?」
その質問が、二人の間に静かに落ちた。
葵は窓へ目を向けた。
自分でも、同じことを何度も問いかけてきた。
拓海は病院に現れた。
脅迫めいたメッセージを送ってきた。
彼女の生活に関わる場所の写真まで撮っていた。
救急外来を辞めることが、その恐怖から逃れる一番簡単な方法に思える日もあった。
しかし、訪問看護について学ぶ時間が増えるほど、自分の興味が本物だということもわかってきた。
彼女は、その仕事をしたかった。
ただ距離を置きたいだけではなかった。
葵は息を吸った。
「どちらも、私に影響していると思います」
玲子はうなずいた。
「そうでしょうね」
葵は続けた。
「でも、あの人のせいで辞めたいわけじゃありません」
上司を見つめた。
「やりたい仕事を見つけたから、ここを離れたいんです」
玲子は微笑んだ。
「だったら、自分が本当にその決断をしているのか、最後まで確かめなさい」
葵はうなずいた。
「はい」
二人は実務的なことについて話し合った。
事業所での採用手続きが完了するまでは、葵は病院で働き続ける。
正式な書面による採用条件が示され、現実的な移行計画が整うまでは、退職届を提出しない。
安全面の懸念については引き続き記録し、適切な窓口を通じて対応する。
そして、高橋家の担当がどうなるかにかかわらず、地域での看護に対する葵の関心は、それとは切り離して考えることにした。
玲子は書類を返した。
「あなたはいい看護師よ、水野さん」
葵はかすかに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「いなくなったら寂しくなるわ」
葵の喉が詰まった。
「でも、もう望んでいない場所に、あなたが無理して残るほうがずっと残念よ」
葵は目を伏せた。
しばらく言葉が出なかった。
それから微笑んだ。
「ありがとうございます」
玲子はうなずいた。
「さあ、少し休んできなさい」
葵は笑った。
「命令ですか?」
「もちろん」
彼より先に覚えていた手
陽翔の新しい介助体制は、少しずつ日常と呼べるものに近づいていた。
香川夏美は、必要な評価と関係者との調整を経て、限られた日程での導入期間中の訪問看護を担当することになっていた。
彼女は、陽翔の日常生活を支える介助者たちに取って代わるわけではない。
形成されつつある支援チームに、新たに加わるのだ。
幸子は引き続き、これまでの身体介助の手順を伝えたり、連携を支援したりしていた。一方、家族とケアコーディネーターは、まだ埋まっていない支援時間帯を調整していた。
完璧な体制ではなかった。
今でも大変な朝はあった。
介助者が来られる時間に合わせて、自分の予定を組まなければならないこともあった。
日程や費用、現実的にどこまで支援を提供できるのかについての話し合いも続いていた。
それでも、この家の人々は少しずつ学んでいた。
由紀は、陽翔に向けられた質問に、反射的に代わって答えることがなくなった。
大地も、何かを変更する前に陽翔へ確認するようになった。
そして陽翔自身も、初対面の専門職に自分の希望を説明することに、以前より慣れてきていた。
だからといって、毎日が楽になったわけではない。
金曜日の朝、身体介助の途中で問題が起きた。
医療上の緊急事態ではなかった。
機器が故障したわけでもない。
誰かがけがをしたわけでもない。
しかし、その出来事は陽翔の心を、思いがけないほど大きく揺さぶった。
その朝、介助を担当していた星野里奈は、手元にある指示書に従っていた。
予定されていた移乗について確認し、必要な機器の準備も手伝っていた。
夏美も、予定されていた看護業務のためにその場にいた。
何も問題はないように見えた。
ところが陽翔は、母がいつも気を配ってくれていた小さな姿勢調整の一つが、介助記録に書かれていないことに気づいた。
彼は説明しようとした。
「待って」
里奈は手を止めた。
「はい」
陽翔は身体を支える器具の位置を見た。
「先に、そこを調整してもらえる?」
里奈は確認した。
「こんな感じですか?」
「違う」
彼は唾を飲み込んだ。
「もう少し向こう」
里奈は調整した。
陽翔は眉をひそめた。
「ちょっと違う」
彼女は再び手を止めた。
「どの位置がいいか、もう少し詳しく教えてもらえますか?」
陽翔は説明しようとした。
しかし、難しかった。
正しい位置になったとき、どんな感覚がするのかはわかっている。
間違っているときも、すぐにわかる。
けれど、快適な姿勢をつくるための細かな調整を、正確な言葉にすることができなかった。
母は知っていた。
長年の経験から覚えていたのだ。
ときには、陽翔が何かを言う前に、母が直してくれることさえあった。
今は、そのすべてを最初から説明しなければならない。
何度も。
何度も。
苛立ちが募っていった。
「だから――」
陽翔は言葉を止めた。
里奈は待っていた。
彼は目を閉じた。
「……ごめん」
里奈は首を横に振った。
「謝らなくていいですよ」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「わかってる」
夏美が、彼の視界に入る位置へ近づいた。
「少し休みますか?」
陽翔はうなずいた。
「うん」
二人は安全を確認して介助を中断し、陽翔に時間を与えた。
部屋が静かになった。
陽翔は天井を見つめた。
涙が浮かんでくるのを感じた。
嫌だった。
泣くことを恥ずかしいと思っているからではない。
ただ、涙が自分の許可もなく勝手に出てくるように感じられたからだ。
彼は二十二歳だった。
つい先日、仕事の面接を受けたばかりだ。
京都旅行を計画している。
母の死を乗り越え、その先の人生を築こうとしている。
それなのに今、誰かが自分の身体を快適な位置に調整する方法を知らないというだけで、泣いている。
いや。
本当の理由は、それではなかった。
陽翔にはわかっていた。
そのことに気づくと、胸が痛んだ。
母はもういない。
そして、その不在は、写真や思い出を通してではなく、日常のほんの小さな出来事によって、突然突きつけられることがあった。
身体を支える器具の角度。
動かすタイミング。
彼が頼み終わる前に、必要なことを理解してくれる人の存在。
陽翔は少し顔を向けた。
「ごめん」
里奈の表情が和らいだ。
「陽翔さん」
彼は唾を飲み込んだ。
「里奈さんが悪いわけじゃないんだ」
彼女はうなずいた。
「わかっています」
陽翔は彼女を見た。
「母さんが、いつもやってくれてたんだ」
小さな声だった。
里奈は黙って待った。
陽翔は続けた。
「どうすればいいのか、全部知ってた」
声が震えた。
「なのに俺、うまく説明できないんだ」
夏美が椅子を近づけた。
「だったら、ゆっくりやりましょう」
陽翔は彼女を見た。
夏美は続けた。
「最初から全部うまくできなくてもいいんです」
彼は唾を飲み込んだ。
「でも、もどかしいんです」
「そうですよね」
陽翔は目を閉じた。
数秒間、気持ちを落ち着けようとした。
そして、ささやいた。
「……母さんに会いたい」
二人の女性は、急いで答えようとはしなかった。
明るい慰めの言葉もなかった。
すべてうまくいくと、無理に言い聞かせることもなかった。
里奈は、ただ彼のそばで待っていた。
夏美も、声が届く距離にいた。
やがて陽翔は目を開けた。
「もう一回、やってもいい?」
里奈はうなずいた。
「もちろんです」
今度は、ゆっくり進めた。
陽翔は、どんな感覚になるよう調整してほしいのかを説明した。
里奈は少しずつ位置を変え、そのたびに陽翔へ確認した。
夏美は必要な観察事項を記録し、支援チームが安全で一貫した方法を使えるよう、適切なリハビリテーションの専門職とともに姿勢調整の指示を見直すことを提案した。
何度か試したあと、陽翔は身体が適切に支えられたときの、あの懐かしい安堵感を覚えた。
息を吐く。
「……そこ」
里奈は微笑んだ。
「よくなりましたか?」
彼はうなずいた。
「ずっと」
彼女は微笑んだ。
「よかったです」
陽翔は天井を見つめた。
それから弱々しく笑った。
「おめでとうございます」
里奈は片方の眉を上げた。
「何がですか?」
「非常に厳しい顧客サービス基準を、見事に突破されました」
彼女は笑った。
夏美も微笑んだ。
陽翔は二人を見た。
「星五つです」
里奈はにやりと笑った。
「ありがとうございます」
彼は少し間を置いた。
「ただし、今後の審査次第です」
二人は声を上げて笑った。
ようやく、張り詰めていた空気が和らぎ始めた。
母の代わりにはなれないノート
その日の午後、陽翔は新しいノートを頼んだ。
由紀が文房具をしまってある引き出しから一冊見つけてきた。
緑色の表紙に、小さな猫のイラストが描かれている。
陽翔は気に入った。
「完璧」
由紀はパソコンの横に置いた。
「何に使うの?」
彼はかすかに微笑んだ。
「取扱説明書」
由紀は不思議そうな顔をした。
「何の?」
「俺の」
彼女は目をぱちくりさせた。
陽翔は説明した。
自分専用の、詳しい介助ガイドを作りたいのだ。
臨床的な評価や専門職が作成するケア計画に取って代わるものではない。
もっと個人的なものだった。
自分の好み、意思の伝え方、快適に過ごすために必要なこと、そして日常生活を少し楽にする細かな工夫を書き記すための文書だ。
自分自身の言葉で書きたかった。
必要なら、誰かに手伝ってもらいながら。
そして、そこに書かれた内容を絶対に変えられない命令として扱うのではなく、介助チームと一緒に確認していきたかった。
由紀は微笑んだ。
「いい考えね」
陽翔はうなずいた。
「俺もそう思う」
二人は朝の介助から始めた。
陽翔は、どの順番で進めてほしいのか説明した。
事前に声をかけてほしい動作。
不快感が生じる動き。
同意をどのように確認してほしいか。
そして、彼が「止めて」と言ったとき、どう対応してほしいか。
プライバシーについての項目も設けた。
寝室に入る前にはノックしてほしい。
身体介助の際、誰がその場にいるのか説明してほしい。
許可なく、来客の前で個人的な情報を話さないでほしい。
差し迫った安全上の問題がない限り、いつもの手順を変える前に確認してほしい。
由紀は陽翔の言葉を聞きながら入力した。
途中で手を止めた。
「ほかには?」
陽翔は考えた。
「ある」
由紀は待った。
「許可なく俺のパソコンに触らないこと」
由紀は笑った。
「陽翔ったら」
「本気だよ」
彼女は微笑んだ。
「はいはい」
陽翔は続けた。
「それから、本を勝手に動かさないこと」
「わかったわ」
「あと、俺がひどい映画を観たいって言ったら、文句を言わないこと」
由紀は吹き出した。
「それ、介助の指示じゃないでしょう」
陽翔はにやりと笑った。
「俺の精神的な健康に欠かせないことなんだよ」
由紀は首を横に振った。
「本当に困った子ね」
「それも記録しておいて」
由紀は笑いすぎて、入力を続けられなくなった。
その日初めて、陽翔は心からくつろいだ気分になった。
このノートが母を連れ戻してくれるわけではない。
長い年月をかけて、お互いの習慣を覚えてきた日々を再現することもできない。
気まずい瞬間や不快な出来事を、すべてなくせるわけでもない。
それでも、役に立つはずだった。
新しい介助者たちに、最初の手がかりを与えられる。
誤解を減らせる。
そして何より、自分のケアを指示するのは陽翔自身なのだと、はっきり示すことができる。
その後、由紀が部屋を出ていくと、陽翔は母の写真へ目を向けた。
「母さん」
かすかに微笑んだ。
「母さんがいつも覚えててくれたこと、やっと書き出したよ」
喉が詰まった。
そして付け加えた。
「……まあ、まだ一部だけだけど」
ノートへ目を向けた。
これから埋めていくページは、まだたくさんあった。
誰も下したくなかった決断
森山千里は、その週の大半を、水野葵を高橋陽翔の担当にするかどうかという問題の検討に費やしていた。
事業所は安全面の懸念を考慮した。
これまでの嫌がらせの経緯。
以前の看護師と患者という関係。
家族の希望。
そして、ほかに確保できる人員についても。
簡単に決められることではなかった。
葵には能力があった。
意欲もあった。
研修も順調に進んでいた。
陽翔自身も、彼女に担当してほしいという希望を示していた。
二人のこれまでのやり取りによって、普通なら築くまでに時間のかかる信頼関係が、ある程度できていた。
しかし、それらの利点があるからといって、懸念が消えるわけではない。
高橋家の写真が撮られた経緯は、依然として不明だった。
嫌がらせに関する捜査も終わっていない。
すでに事件に巻き込まれている家庭へ葵を派遣することは、彼女自身にも家族にも、新たな不安や危険をもたらす可能性があった。
さらに、専門職としての境界線の問題もあった。
葵は、陽翔が深い悲しみと弱さを抱えていた時期に、看護師として彼を支えていた。
二人の間に生まれた親しみは本物だった。
しかし、それは医療の現場で築かれた関係でもある。
彼女を継続的な訪問看護の担当にすることで、専門職としての責任を複雑にするような期待が生じたり、陽翔がより幅広い支援体制を築くことを難しくしたりしないか、事業所は考える必要があった。
千里は最後の記録に目を通した。
そして決断を下した。
当面、葵を高橋家の担当にはしない。
夏美を引き続き第一候補とし、通常の適性確認や介助体制の調整を進める。
一方、葵には事業所内の別の機会を提案することにした。
未解決の問題の渦中に置くことなく、訪問看護の技術を磨き続けられる仕事だった。
千里はしばらく静かに座っていた。
そして受話器を取った。
選ばれなかった看護師
葵が事業所に到着したのは、午後五時を少し過ぎた頃だった。
また研修の振り返りをするのだと思っていた。
しかし、千里は彼女を個室の会議室へ案内した。
上司の表情は優しかったが、真剣だった。
葵は胃のあたりがきゅっと縮むのを感じた。
「何かあったんですか?」
千里は椅子を示した。
「どうぞ、座ってください」
葵は腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて千里が両手を組んだ。
「高橋さんの担当について、結論が出ました」
葵はゆっくりとうなずいた。
「はい」
千里は息を吸った。
「あなたを陽翔さんのケアチームに配置しないことにしました」
葵は彼女を見つめた。
その可能性は覚悟していた。
事業所が、この配置は適切ではないと判断するかもしれない。
自分にもそう言い聞かせてきた。
安全面の問題は理解していた。
専門職としての配慮が必要なことも理解していた。
それでも、実際に言葉にされると、胸が痛んだ。
「……そうですか」
千里の表情が和らいだ。
「申し訳ありません」
葵は首を横に振った。
「いえ」
唾を飲み込んだ。
「理解しています」
上司はうなずいた。
「あなたの看護能力を否定する判断ではありません」
「わかっています」
「それに、事業所への応募そのものが不採用になったわけでもありません」
葵は顔を上げた。
千里は続けた。
「残りの採用条件を満たしていただくことを前提に、別の配属先をご案内したいと考えています」
葵は目をぱちくりさせた。
「本当ですか?」
「ええ」
上司は微笑んだ。
「研修でのあなたの取り組みを、高く評価しています」
葵は目を伏せた。
千里は続けた。
「救急医療での経験を生かしていただけそうな、別の訪問看護チームがあるんです」
千里は、その仕事について説明した。
担当する地域は異なり、すでに指導体制が整っている。そして、葵が現在身につけつつある技術を生かせる利用者たちがいるという。
高橋家を訪問する仕事ではなかった。
家族の私的な事情に関わる必要もなかった。
葵は注意深く耳を傾けた。
そして仕事内容、研修、勤務日程、安全対策について、いくつか質問した。
千里は一つずつ答えた。
話し合いが終わる頃には、葵はその提案が本物だと理解していた。
同時に、それを受け入れるということは、自分が思い描いていた配属を諦めることでもあった。
ふと、陽翔のことを考えた。
皮肉っぽい笑顔。
馬鹿げた面接の質問。
母親について語っていたときの様子。
そして、自分の人生について自分で決める権利を、どれほど真剣に求めていたか。
彼を支えたかった。
彼が無力な人間だと思っていたからではない。
彼を尊敬していたからだ。
人生を立て直そうと、どれほど努力しているのかを見ていたからだ。
そして、二人ならうまく協力できるかもしれないと思っていたからだ。
葵は唾を飲み込んだ。
「陽翔さんは……大丈夫でしょうか?」
千里は優しく微笑んだ。
「ご家族は、引き続き介助体制の調整を進めています」
葵はうなずいた。
「よかった」
上司は彼女を見つめた。
「残念ですか?」
葵は小さく笑った。
「少しだけ」
「そうですよね」
葵は窓へ目を向けた。
それから、かすかに微笑んだ。
「でも、正しい判断だと思います」
千里はうなずいた。
葵は続けた。
「私の事情に、陽翔さんを巻き込みたくありません」
少し間を置いた。
「それに、前から知っているという理由だけで、私を選ばなきゃいけないと思ってほしくないんです」
上司は微笑んだ。
「しっかりした考え方ですね」
葵は振り返った。
「それじゃあ……私は、ここで働けるんでしょうか?」
千里は小さく笑った。
「残りの手続きが順調に進めば、もちろんです」
葵は微笑んだ。
そして息を吸った。
「書面での正式な条件を確認することを前提に、ぜひそのお話をお受けしたいです」
千里はうなずいた。
「よかったです」
葵は自分の手を見下ろした。
悲しかった。
ほっとしてもいた。
緊張もしていた。
そして、不思議なほど希望を感じていた。
一つの扉が閉じた。
けれど、別の扉が開いたのだ。
そして今回ばかりは、それが悪いことだとは思えなかった。
他人のものだった選択
陽翔がその決定を知らされたのは、翌日の午後だった。
田中恵子が、現在調整中のケア計画について家族と話し合うため、面談を設けていた。
夏美の導入期間中の訪問は順調に進んでいた。
日常生活の介助者の予定も、以前より安定してきていた。
そして、葵についての事業所の判断も出ていた。
恵子は慎重に説明した。
陽翔は黙って聞いた。
それからテーブルを見つめた。
「……そっか」
由紀が彼を見た。
「陽翔?」
彼はうなずいた。
「わかった」
大地は眉をひそめた。
「大丈夫か?」
陽翔はかすかに微笑んだ。
「うん」
しかし、自分でもよくわからなかった。
そうなる可能性があることは知っていた。
千里は一度も、葵を担当にすると約束したわけではなかった。
理由も理解していた。
それでも、期待していた。
葵のことが好きだった。
彼女は陽翔を笑わせてくれた。
話を聞いてくれた。
そして、人生で最もつらかった時期のいくつかを過ごしていたとき、彼を医療的な問題の寄せ集めではなく、一人の人間として扱ってくれた。
それは大切なことだった。
簡単には説明できないほどに。
恵子は続けた。
「事業所では、残りの評価や勤務日程の調整が完了することを条件に、夏美さんが今後も予定されている訪問看護を担当するのに適していると考えています」
陽翔はうなずいた。
「いい人だよ」
由紀は微笑んだ。
「一緒にいても、安心できているみたいね」
「うん」
彼は少し間を置いた。
「面白くはないけど」
大地が笑った。
恵子も微笑んだ。
陽翔はかすかににやりと笑った。
「でも、いい人だよ」
それから真剣な表情になった。
「一つ聞いてもいいですか?」
恵子はうなずいた。
「もちろんです」
「葵さんは大丈夫なんですか?」
恵子は少し考えた。
「事業所からは、今回のケアに関する判断に必要な範囲を超えて、彼女の個人的な事情は共有されていません」
陽翔はうなずいた。
「そうですよね」
目を伏せた。
「それが当然だと思います」
彼女が安全に過ごせているのか知りたかった。
嫌がらせがまだ続いているのか。
別の仕事は見つかったのか。
しかし、それらは葵自身の事情だった。
陽翔はここ数週間、自分のプライバシーと自己決定権を尊重してほしいと、何度も主張してきた。
だからといって、相手のことが心配だからという理由だけで、ほかの人の権利を軽く扱うことはできなかった。
陽翔は息を吸った。
「じゃあ、葵さんもうまくいくといいな」
由紀は優しく微笑んだ。
「きっと、その気持ちは伝わると思うわ」
彼はうなずいた。
面談は続いた。
夏美の今後の訪問予定。
日常生活の介助を担当する事業者の役割。
そして、まだ人員が確保できていない時間帯について。
陽翔は質問した。
計画を確認した。
そして、自分のケアについての決定に参加した。
面談が終わる頃には、家族の計画は以前より明確になっていた。
完璧ではない。
それでも、前進だった。
恵子が帰ったあとも、陽翔はダイニングテーブルに残っていた。
大地が隣に座った。
「残念か?」
陽翔はため息をついた。
「少しね」
叔父はうなずいた。
「そうだろうな」
陽翔は窓へ目を向けた。
「葵さんなら、うまくやってくれると思ってたんだ」
「きっと、そうだっただろうな」
彼はうなずいた。
「でも、夏美さんもいい人だし」
大地は微笑んだ。
「ああ」
陽翔は考えた。
それから小さく笑った。
「やっぱり、欲しいものが全部手に入るわけじゃないんだね」
叔父はくすくす笑った。
「残念ながらな」
陽翔はにやりと笑った。
「ひどいシステムだ」
大地は笑った。
そして表情を和らげた。
「陽翔」
「うん?」
「物事っていうのは、思っていたとおりに進まないこともある」
陽翔はうなずいた。
「知ってる」
叔父は微笑んだ。
「でも、思っていたとおりに進まなくても、うまくいかないとは限らないんだ」
陽翔は彼を見た。
しばらく、母のことを考えた。
京都旅行のこと。
母が残した手紙のこと。
病気になったことで変わってしまった、いくつもの計画。
そして母の死後、自分が立て始めた新しい計画のこと。
陽翔はかすかに微笑んだ。
「……そうだね」
それからテーブルの上のノートを見た。
「そうかもしれない」
明日の形を変えたメール
ミライ・インターフェース・ソリューションズからの連絡が届いたのは、その日の午後六時二十三分だった。
陽翔は、ひどい出来のSF映画を観ていた。
テレビでは、宇宙飛行士たちが、どう見てもゴム製の着ぐるみを着た男にしか見えない宇宙生物から逃げようとしていた。
陽翔に言わせれば、これは傑作だった。
そのとき、メールの通知が表示された。
映画を一時停止した。
メールを開いた。
そして見つめた。
会社は、一次面接に参加したことへの感謝を述べていた。
彼の観察力と、わかりやすい報告内容も評価していた。
そして、次の一文が目に飛び込んできた。
このたび、有償の試験的なアクセシビリティ評価業務にご参加いただきたく、ご案内申し上げます。
陽翔は目をぱちくりさせた。
もう一度読んだ。
そして、さらにもう一度。
メールには、試験業務があらかじめ定められた課題に基づくものであり、書面による契約を交わし、完了した仕事に対して報酬が支払われることが説明されていた。
必要な資料は会社が提供し、業務開始前に合理的配慮についても相談するという。
試験業務を無事に終えたとしても、継続的な雇用が保証されるわけではない。
しかし、今後の仕事につながる可能性はあった。
陽翔は画面を見つめた。
そして笑った。
大きな、信じられないというような笑い声だった。
「由紀叔母さん!」
由紀が戸口に姿を現した。
「どうしたの?」
陽翔は彼女を見た。
「受かった」
由紀は目をぱちくりさせた。
「何に?」
「試験業務」
彼女の顔が明るくなった。
「お仕事に?」
「正確には、まだ違うけど」
陽翔はにやりと笑った。
「有償の試験業務だよ」
由紀は口元を覆った。
「まあ、陽翔!」
彼は笑った。
「何かをテストしてほしいんだって」
由紀が近づいた。
「素晴らしいじゃない!」
陽翔はうなずいた。
「でしょ!」
彼女の後ろから大地が姿を現した。
「何の騒ぎだ?」
陽翔は叔父を見た。
「大地叔父さん」
「何だ?」
「あなたの甥は、ついに社会の生産的な一員になろうとしています」
大地は吹き出した。
由紀は首を横に振った。
「陽翔ったら!」
彼はにやりと笑った。
「何?」
叔父が近づいた。
「本当なのか?」
陽翔はうなずいた。
「本当」
大地は満面の笑みを浮かべた。
「すごいじゃないか!」
陽翔はメールへ目を向けた。
興奮が少し落ち着いた。
「まだ契約書を確認しなきゃいけないけどね」
大地はうなずいた。
「もちろんだ」
「それに、報酬が今の給付にどう影響するのかも調べなきゃ」
「ああ」
「日程が合うかも確認しないと」
「そのとおりだ」
陽翔は微笑んだ。
「でも……」
二人を見た。
「俺に、お金を払いたいんだって」
由紀の目に涙が浮かんだ。
大地は微笑んだ。
「ああ」
陽翔は唾を飲み込んだ。
「俺の得意なことに」
叔母はうなずいた。
「そうね」
しばらく、部屋は静かになった。
そして陽翔は小さく笑った。
「……すごいな」
母の写真へ目を向けた。
美咲が彼に微笑み返していた。
そして母の死後初めて、陽翔はただ母が生きていてくれたらと願うのではなく、嬉しい知らせを母に伝えたいと思っている自分に気づいた。
ほんの小さな違いだった。
けれど、とても大切な違いだった。
彼は微笑んだ。
「母さん、知ったら大騒ぎしただろうね」
大地は笑った。
「間違いないな」
由紀は目元を拭った。
「きっと、みんなに言って回るわ」
陽翔はにやりと笑った。
「知らない人にまでね」
「絶対にね」
三人は一緒に笑った。
それから大地がパソコンへ身を乗り出した。
「それで」
陽翔は顔を上げた。
「うん?」
「報酬はいくらなんだ?」
陽翔は微笑んだ。
「京都作戦が、金銭的に少しだけ絶望的じゃなくなるくらい」
叔父は笑った。
「それは素晴らしい」
陽翔はパソコンの横に置かれた淡い青色の封筒へ目を向けた。
千円。
もうすぐ、少し増えるかもしれない。
誰かが同情してお金をくれたからではない。
勇敢だったことへのご褒美でもない。
誰かが価値を認めてくれた能力を、自分が示したからだ。
陽翔はメールを見つめた。
そして微笑んだ。
初めて、未来がただ与えられるのを待つものではなくなったように感じられた。
自分で築いていけるものなのかもしれない。
扉の向こう側に立つ女性
日が沈んで間もない頃、葵は病院の外に立っていた。
空気は少し冷えていた。
入り口に並ぶ木々を、そよ風が揺らしていた。
彼女は片手にスマートフォンを持っていた。
画面には、別の訪問看護の職について、事業所が正式な採用条件を記載した書面を準備するという、千里からのメッセージが表示されていた。
まだ完了しなければならない採用手続きや研修上の条件は残っている。
それでも、進むべき道は少しずつ明確になっていた。
葵はかすかに微笑んだ。
そして病院を振り返った。
何年もの間、この建物は彼女の仕事人生の中心だった。
ここで、プレッシャーの中でも働けるようになった。
失敗もした。
そこから学んだ。
患者を助けた。
家族を慰めた。
そして、自分がどんな看護師になりたいのかを知った。
ここを離れるのは簡単ではないだろう。
それはわかっていた。
でも、簡単である必要など、最初からなかったのかもしれない。
葵は息を吸った。
そしてメッセージを開いた。
美香から、巨大なラーメンの写真が届いていた。
美香:夕飯。今日は私のおごり。ラーメンなんて食べてる暇がないほど偉くなっちゃったなら別だけど。
葵は笑った。
返事を入力した。
葵:そんな日は一生来ないよ。
それから手を止めた。
もう一度、病院を見た。
そして微笑んだ。
恐怖が消えたわけではない。
拓海の嫌がらせは、まだ解決していなかった。
引き続き注意しなければならないことも、更新すべき報告も、これから下さなければならない難しい決断もあった。
しかし、もう恐怖が消えるまで、人生の計画を立てることを待ってはいなかった。
挑戦したい仕事を見つけた。
支えてくれる人たちもいた。
そして、過去に囚われたままでいなくてもいい未来があった。
葵はスマートフォンを鞄にしまった。
そして駅へ向かって歩き始めた。
繋いだ手
その夜遅く、陽翔は寝室にいた。
テレビは消えていた。
パソコンには、有償の試験業務への招待メールが表示されていた。
その隣には、介助についての希望を書き記した緑色のノート。
母の写真の近くには、京都旅行の貯金封筒が置かれていた。
三つのもの。
彼の未来を形づくる、三つの異なる要素。
仕事。
介助。
そして夢。
陽翔はノートへ目を向けた。
里奈との、あのつらかった朝のことを思い出した。
母の慣れ親しんだ手が、どれほど恋しかったか。
母なら言葉にしなくても理解してくれたことを、自分ではうまく説明できず、どれほど苦しかったか。
それからメールへ目を向けた。
清水陸のことを考えた。
面接のこと。
自分の経験が役に立つものとして認められた、あの不思議な満足感のこと。
最後に、京都の写真を見た。
春の京都を想像した。
桜。
寺院。
人混み。
食べ物。
そしていつか、自分自身も実現に力を尽くした旅として、その街を訪れる可能性。
母は長い年月をかけて、彼が生きていくのを支えてくれた。
今、陽翔は母のいない人生を、自分で導いていく方法を少しずつ学び始めていた。
これからも介助は必要だった。
ずっと必要だろう。
朝、服を着ることを手伝ってくれる人がいる。
食事を支えてくれる人がいる。
身体のケアを手伝い、必ずしも彼のような人間のことを考えて設計されていない世界を移動するために、力を貸してくれる人々がいる。
しかし、介助が必要だからといって、選択する権利がなくなるわけではない。
そして自立とは、その事実を否定することでもなかった。
陽翔はかすかに微笑んだ。
母の写真へ目を向けた。
「ねえ、母さん」
静かな声だった。
「有償の試験業務に選ばれたんだ」
少し間を置いた。
「まあ、厳密にはまだ契約書にサインしてないんだけど」
小さな笑いが漏れた。
「でも、すごいでしょ」
封筒へ目を向けた。
「これなら、京都にも行けるかもしれないね」
一瞬、母が隣に立っている姿を想像した。
黄色いジャケット。
妙ちくりんなサングラス。
明るく、聞き間違えるはずのない笑い声。
母が彼をからかう声が、今にも聞こえてきそうだった。
あらあら、立派な社会人になっちゃって。
陽翔は微笑んだ。
「うん」
唾を飲み込んだ。
「すごいでしょ、俺」
外では、住宅街が夜の静かなリズムに包まれていた。
家々の向こうでは、陽翔がまだ訪れたことのない駅へ向かって、電車が乗客を運んでいた。
街の反対側では、水野葵が新しい仕事への計画を立てていた。
二人とも、これからの数か月に何が待っているのかは知らなかった。
再び道が交わることになるのかどうかも、予測できなかった。
しかし、人生の苦しい時期に生まれた二人のつながりは、すでに大切な何かを変えていた。
陽翔は、自分には話を聞いてもらう価値があるのだと思い出した。
葵は、誰かを大切にすることが、自分自身を犠牲にすることではないのだと思い出した。
そして二人とも、前へ進むためには、思い描いていた未来を手放し、まだ考えたこともなかった別の未来を迎え入れる必要があるのかもしれないと、少しずつ理解し始めていた。
陽翔は窓へ目を向けた。
そして微笑んだ。
「……明日、か」
パソコンへ向き直った。
確認しなければならない書類がある。
質問したいこともある。
そして、有償の試験業務に向けた準備も必要だった。
陽翔は昔から、朝がそれほど好きではなかった。
けれど、明日は少し面白い一日になりそうだった。




