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推しはオール一本でも見事にボートを漕ぎ、目的としている浮島の裏側に広がるエリアへと難なく向かった。
ジョセフ殿下がボートを漕いでいる時は、額に汗が浮かんでいたわ。でも推しの額にはサラサラのアイスブルーの前髪が揺れ、汗など浮き出ていない。
幼い頃、強くなると決意し、有言実行で騎士となった。現在は侯爵家次期当主として、騎士に叙任される前ほどハードに練習を続けているわけではないが、それでも毎日の修練は欠かすことがないのだろう。ボートぐらいなら、おちゃのこさいさいに思えた。
「到着です」
「あ……!」
浮島を回り込んだ先に広がる湖は、大勢の貴族たちがボートで遊んでいるエリアとは全然違う。陽光を受ける水面は銀色にキラキラと輝き、その水は限りなく澄んでいる。
「あのサファイアのようなブルーのあたりは水深が五十メートルほどあると言われています。その周辺は浅瀬なので、まさにブルートルマリンのような透明感のある水色ですよね」
「岸辺に近い辺りは藻があるからでしょうか。透き通るようなエメラルドグリーンです!」
「はい。湖の中でグリーン、スカイブルー、サファイアブルーと見事にグラデーションをしている絶景です」
「すごいです……! こんな美しいエリアが浮島の裏手に広がっていたなんて……知りませんでした」
「この湖はとても広大ですからね。そしてこの辺りの周囲は自然がそのまま残っており、クマやイノシシこそいませんが、野生の動物も多く暮らしています。遊歩道も整備されておらず、ここまでは徒歩で来ることもできません。手付かずで残された神秘の景色だと思います」
「本当にその通りですね……」
しばしその神々しい程の美しい景色を無言で眺めてしまう。
「……ずっとこのままここで、あなたと二人でいたいです……」
ぽつりと呟かれた推しの言葉にドキッとしてしまう。
「最近、殿下とフィッツロイ公爵令嬢の仲が良く、連れ立って外出していると聞き……心がざわついていました」
推しがアイスブルーの髪をサラリと揺らし、銀色の瞳を伏せ、切ない胸の内を明かす。私はその言葉に胸をトクトクさせながら聞くことになる。
「今日も王立国立公園へボート遊びに向かったと聞き……。居ても立っても居られない気持ちになり、王太子殿下に『たまには外へ行きませんか』と提案し、来てしまいました……」
突然、王太子殿下が現れたのは推しが提案したからだったのね……!
「結果として、ジョセフ殿下をすぐに助けられたのは、ポーレット侯爵令息が素早く動いてくれたからです。近衛騎士も動こうとしましたが、武器を装備しているのでもたついていて……。理由はどうであれ、ポーレット侯爵令息がこの場に来てくださって良かったと思います」
私の言葉に推しは銀色の瞳を潤ませながら尋ねる。
「それは……殿下が助かって嬉しい……ということですか」
推しが……ジョセフ殿下に嫉妬している……!
「勿論、溺れている人が助かったのは嬉しいです。溺れている人が誰であれ、救助されたら嬉しく思いますし、救助して下さった方には感謝しかないと思います。そういう意味では駆けつけてくださったこと、嬉しいです。でもそれ以上に、ポーレット侯爵令息に会うことができ、そして今、二人きりでこの絶景を眺められることに……心から喜んでいます」
気持ちが伝わるように、全力の笑顔を推しに向けると……。
「フィッツロイ公爵令嬢」
「はい」
「あなたを……心からお慕いしています」
推しが私の手を取り、甲へと自身の唇を寄せた。決して触れることなく。でもその熱い吐息は白手袋越しにも伝わってくる。
「……ただ一度だけでいいです。抱きしめても……いいでしょうか」
「……!」
上目遣いで私を見上げる推しの瞳から切実な想いが感じられる。
この世界で未婚の男女がこんな風に二人きりになれることは……奇跡に近い。どこかに侍女や従者がいるし、そもそも婚約者がいる令嬢が異性と密会などありえないのだから。
ただ一度だけ……今回きりになる可能性はとても高い。
「今、この時、この場所にいるのはウィルと私だけです」
かつて交換日記のように、メモ帳を交換していた時、お互いのことをニックネームで呼んでいた。その名で推しを呼ぶと……。
推しは驚きと懐かしさで目を大きく見開き、そして肩の力がフッと抜けたようだ。
「そうですね。キャロ。ここにいるのはあの時、心を交わしたキャロと僕だけ――」
推しがオールをボートに置き、私の方へと近づく。私の鼓動はトクトクからドクドクと激しくなっている。
「キャロ、愛しています。たとえ結ばれることが許されなくても……僕の真心はあなたにだけ捧げます」
ふわりと清涼感のある香りがして、私の体は推しの胸の中に優しく包まれた。すっかり大人になった推しの胸は見事に引き締まり、頼りがいがあり、安心できる。
「私もウィルのこと、心から愛しています」
抱きしめる以上は許されず、そしてこれが最初で最後の抱擁になるかもしれない。
それを思うと……時が止まってしまえばいいのにと思わずにはいられなかった。
◇
推しと絶景の中で過ごした甘美な時間は十五分足らず。本当は何時間でも、何十時間でもそうしていたかったが、それは許されない。助けられたジョセフ殿下は、私がどうなったかとすぐに近衛騎士に尋ねるだろう。そうなるとすぐさま、私を捜索するよう、動き出す。王都警備隊が呼ばれ、ボートを出し、下流に流された可能性を考える。私がオールを湖に落とした様子は近衛騎士が見ているはず。
つまりどんなに推しの甘い抱擁を長く楽しみたくても、それは無理な話。
そこでオールが一本しかなく下流へと流され、必死に戻りましたという体で、浮島から戻ると……。
案の定、捜索を行うボートが多数見えた。ここで生還をアピールし、岸へと向かうと、既にジョセフ殿下は王宮へと戻った後だった。しかもよく話を聞くと、彼を救った令嬢……ヒロインも宮殿へ一緒に向かったと言う。
それはそうよね。必死にジョセフ殿下を助けたヒロインはずぶ濡れになっていたはず。
「フィッツロイ公爵令嬢も宮殿へ向かわれますか?」
岸辺にはジョセフ殿下の近衛騎士の一人が残っており、この後のことを私に尋ねる。
宮殿へ向かってもいいが、今はヒロインとジョセフ殿下の急接近イベントが進行中なのだ。邪魔をしない方が絶対にいい。
そこで尤もらしい言葉を私は近衛騎士に伝える。
「お見舞いをしたいところですが、殿下も湖に落ちたことでショックを受けているでしょうし、国王陛下や王妃殿下も突然の事故に混乱されていると思います。公爵邸へ戻り、お見舞いの手紙を王妃殿下へ出し、待機するのが最善かと」
これはまさにスマートな回答なので、近衛騎士も異議はなく、「かしこまりました。その旨、ジョセフ殿下や王妃殿下にお伝えしておきます」と言ってくれる。
「お嬢様、心配しました! ご無事で何よりです!」
駆け寄ったマリエットと共に私は公爵邸へ戻ることになった。一方の推しは、王都警備隊に事情を説明し、去り行く私に恭しくお辞儀をする。
その姿はあくまで誠実で、騎士としての気高さを体現しているようにしか見えない。
私を救出して推しは戻った。二人で下流に流されていた時に何かあった――なんて邪推する余地を与えない、まさに凛として堂々とした姿なのだ。私もそれに応じるように、背筋をピンと伸ばしたまま、「ありがとうございました、ポーレット侯爵令息」とだけ告げ、その場を立ち去った。
お読みいただき、ありがとうございます!
切ない逢瀬でした……!
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