第60話「アデン湾」
時事ネタ?社会風刺?いずれにしろ、この作品はフィクションであり、実在の企業・団体・個人とは一切関係ありません。キリッ
2026年8月頭。ジブチ共和国。FEPA基地。
夜。
ケイラ・ドナヒューは宿舎の小さな机に座っていた。
ケイラは机に置かれたスマートフォンのカメラに向かって微笑んでいる、
その画面の中に娘のエマとサラが映っていた。
シカゴの自宅。
義母のジーンが後ろに見えている。
「ママ!今日学校でね——」
サラが一気に話し始めた。
ケイラは笑顔のまま
「何があったの?」
「先生がね、世界地図を出して、ジブチがどこにあるか聞いたの!」
「それで?」
「私だけ分かったよ!」サラが誇らしげに言った。「アフリカの角って言ったら先生が褒めてくれた!」
ケイラが少し笑った。本当に笑えていた。
「偉いね~サラ」
エマが割り込んできた。
「ママ、また来たいな。日本に」
ケイラの胸が少しだけ痛んだ。
「うん、また行こうね」
「いつ?」
「——もう少ししたらね!」
「約束?」
「うん、約束する」
エマが頷いた。
サラが続けた。
「ジブチも行きたい!ママのとこ!」
「ジブチはすっごく暑いから——」
「暑くてもいい!ママに会いたい」
ケイラは笑顔を保ったまま。
「もう少ししたらね!」
ジーンが画面に近づいてくると言った。
「ケイラ、体に気をつけるんだよ!」
「はい」
「二人はちゃんと見てるから安心して」
「ありがとうございます」
通話が切れた。
ケイラは画面を見たままだった。
しばらく動けなかった。
窓の外にアデン湾が広がっていた。
暗い海だった。
星だけが光っていた。
エマとサラの顔が脳裏に残る。
「もう少ししたら——」
自分が言った言葉が頭に残っていた。
いつになるのか、自分でも分からなかった。
でも——ここにいる理由は分かっていた。
ケイラは立ち上がり、明日の訓練の資料を開いた。
同じ夜。
浮き桟橋。
はやぶさ改の一隻——「隼1番艦」——の機関室。
ディミトリ・ヴォルコフは機関室の椅子に座って計器を確認していた。
LM2500のエンジンの低いアイドリング音が響く
明日は初めて機関長として艦を動かすのだ。とても感慨深い。
ディミトリはドネツクで負傷した足をみる。
もう走ることはできない。だが椅子に座って計器を読む事は出来るのだ、そしてエンジンの音を聞きコン
ディションを確認する事が出来る。これこそが自分の望みだったのだ。
「ヴォルコフ」
艦長のマルコ・フェレイラが機関室のハッチから顔を出した。
「明日の準備はできているか?」
「とっくにできている」
「LM2500の状態はどうだ?」
「問題ない」ディミトリは静かに言った。「ずっと聞いていた」
マルコが少し笑った。
「ずっと?」
「アイドリングの音が——ウクライナにいた時と同じだ」
マルコがしばらくディミトリを見た。
「そうか」
「出港が楽しみだな」
マルコが頷いた。
「俺もだ」
ハッチが閉まった。
ディミトリはエンジン計器を見たままだった。
LM2500の音が機関室に満ちていた。
翌朝。
夜明け前。
はやぶさ改5隻が浮き桟橋を自力で離れ、エンジン音が基地周辺の海域に響いた。
黒田PMC代表が桟橋に立って見送った。
5隻が隊列を組むとLink22が起動した。
統合レーダー映像が各艦の管制室に映し出され、アデン湾の広域が一枚の地図として確認できる。
ケイラが「隼1番艦」の艦橋に立ち、無線に向かって艦隊指示をおこなう。
「全艦、Link22統合確認!」
各艦から返答が返る。
「1番艦、確認」
「2番艦、確認」
「3番艦、確認」
「4番艦、確認」
「5番艦、確認」
ケイラは自然と頷くと指示を出す
「前進。速力35ノット」
エンジン音が上がった。
機関室でディミトリが機関出力の状況を確認している。
LM2500の音が変わった。
低い音から、力強い音に変わり、ディミトリは目を細めた。
「良い音だ」
独り言だった。
艦が徐々に加速すると、海を切り裂き水しぶきが上がる。
アデン湾の朝の海を、5隻が走り始めた。
午前十時。
Link22のレーダーに反応が出た。
「目標確認」レーダー監視員のアンナ・コワルスキが叫んだ。「小型船舶3隻、南南西から接近中。速力18ノット!」
ケイラが統合レーダー画面を見てつぶやく。
「フーシ派の哨戒艇か」
「識別信号なし。レーダー反射からとレジャーボート級、武装予測——RPGと重機関銃」
ケイラが無線を取った。
「全艦、戦闘配備」
5隻が一斉に配備についた。
「目標との距離は?」
「8000メートル。接近中」
「速力を上げろ。速力一杯!」
ディミトリがスロットルを全開にした。
LM2500が唸った。
艦が跳ね上がるように加速を開始する。
「現在53ノット」
レーダー上で3隻が急速に方向を変えた。
「目標、回頭。離脱しています」
ケイラが少し間を置いた。
「追うな。速度そのまま、現状を維持」
「了解」
フーシ派の船が遠ざかっていき、統合レーダー画面から消失する。
「速度前進微速へ」
「速度前進微速へ減速、乗員注意!」
艦橋に静寂が戻った。
ジェイク・パーマーが小声で言った。
「追いかけなくていいんですか?」
ケイラが答えた。
「今日は見せただけでいい。速力を見せた。レーダーを見せた。それで十分じゃない」
ジェイクが頷いた。
「——なるほど」
カルロス・メンデスが呟いた。
「賢いな」
ソフィア・エスポジトが静かに言った。
「次は逃げないと思いますよ」
ケイラが頷いた。
「そうだ。次からが本番だね」
機関室。
LM2500の音が静かになった。
でもまだ力強く回っていた。
セルゲイがいたら何と言っただろう。
「採用されると思うか?」
「される」
「なんで分かるんだ?」
「機関科将校でLM2500を熟知している人間が、今の欧州に何人いると思う」
あの日、ミラノで言った言葉が頭に残っていた。
ディミトリは注意深く計器を確認するが、全て正常範囲だった。
「いいね。おまえ。さすがは新造だ」
今度は笑いながら言った。
同じ頃。紅海。
掃海母艦「あわじ」が南下していた。
艦橋で若い海曹が言った。
「ジブチまであと何日掛かるんですかね?」
先任海曹がは頭の中で計算すると
「Link22の調整をしながら進んでいるから——あと10日はかかるな」
「Link22って、回航中に調整するものなんですか?」
「そうだ。難しいんだが——」先任が続けた。「ジブチに着いた時には完成している必要がある」
「なんで」
「引き渡しがあるしな、ニュースを見ないお前でも掃海の実施が急務なのはわかるだろ?」
若い海曹が窓の外を見た。
紅海が広がっていた。
「引き渡し——PMCにですか?」
「そうだ」
「どんな組織なのか知ってます?」
先任がしばらく黙った。
「俺も知らん」先任は静かに言った。「でも——この艦を受け取る人間がいる。それだけだ」
若い海曹が頷いた。
「ジブチ、暑いんですかね?」
「50度近いらしい」
「えっ——死にそうですね」
「乾燥してるから慣れるんじゃないか?お前ジブチ駐留艦の連中に言うなよ」
若い海曹が苦笑した。
艦が南に向かって進んでいった。
Link22の調整作業のランプが、艦橋の片隅で点滅し続けていた。
夕方。FEPA基地。
5隻が戻ってきた。
黒田PMC代表が桟橋で待っているとケイラが下りてきた。
「どうだった?」
「フーシ派の哨戒艇3隻が接近してきました。でも急速に距離を詰めたら撤退していきました」
「交戦したのか?」
「いえ。速力を見せただけで十分でした」
黒田が頷いた。
「それでいい。最初は見せるだけでいいよ」
ディミトリが機関室から上がってきた。
黒田が声をかけた。
「ヴォルコフ、LM2500の状態はどうだ?」
ディミトリが少し笑った。
「流石は新造品です。完璧だった」
「そうか」
「ずっと聞きたかった音です」
黒田がしばらくディミトリを見た。
「——そうか」
それだけ言った。
夕陽がアデン湾を赤く染めていた。
浮き桟橋に並んだ、はやぶさ改の情景とは裏腹に
遠くでは鹿島建設の建設現場では照明が煌々と焚かれ、昼間のような明るさの中で複数の建設機械が音を立てて稼働している。格納庫の基礎工事も掘削が始まっているようだった。
田中現場所長が重機の前で腕を組んで立っていた。
空を見ながら頭の中で何かを計算しているようだった。
夜。
ケイラは宿舎に戻り、机の上のスマートフォンを見るとエマからメッセージが来ていた。
「ママ、今日どうだった?」
ケイラはしばらく考えた。
「今日は船に乗る仕事があった」と打った。
「うまくいった?」
「もちろん、うまくいったよ」
「よかった!おやすみ、ママ」
「おやすみ、エマ」
ケイラはスマートフォンを置いた。
窓の外に薄暗いアデン湾が広がっていた。
さっきまで走っていて、フーシ派の船が逃げていった海だった。
ケイラは少し口元に笑みを浮かべる。少し前に進んだ気がする。
今日は久しぶりに自然と笑う事が出来た。




