第40話「シカゴの春、日本の春」
時事ネタ?社会風刺?いずれにしろ、この作品はフィクションであり、実在の企業・団体・個人とは一切関係ありません。キリッ
2026年2月。シカゴ。
ケイラ・ドナヒューは夕食の後、テーブルで領収書を並べていた。
先月の食費。
三ヶ月前と比べて、また上がっていた。
ドランプ政権の関税政策が波及していた。輸入食品の価格が上がった。国内の食品も連動して上がった。賃金は追いつかなかった。
エマが宿題をしていた。サラがソファで絵本を読んでいた。
日常だった。
でも窓の外は日常ではなかった。
先週、三ブロック先で発砲事件があった。先月は近所のドラッグストアが強盗に遭って閉店した。
ケイラは領収書をしまった。
スマートフォンが震えた。
デイビッドの母親、ジーン(義母)からだった。
「ケイラ、少し話せる?」
翌日。ジーンの家。
七十二歳の白髪の女性が、コーヒーを出してくれた。
「日本に行ったことはある?」ジーンが聞いた。
「ありません」
「友人が去年行ったのよ。七十歳のひとり旅。全部一人でできたって言ってた」
「それは——」
「安全で、清潔で、みんな親切だって」ジーンは続けた。「エマとサラに見せてやりたい。デイビッドが見せてやれなかった分」
ケイラはコーヒーカップを持ったまま、しばらく黙っていた。
「費用は私が出す」ジーンは静かに言った。「二週間。春休みに合わせて」
2026年2月下旬。成田国際空港。
飛行機のドアが開いた瞬間、エマが言った。
「空気が違う」
サラが鼻をくんくんさせた。
「なんか——きれい」
ケイラは苦笑した。空気がきれいという概念を八歳が持っているとは思わなかった。
でも確かに違った。
ターミナルに入った。
清潔だった。
シカゴのオヘア空港とは違う。床が光っていた。案内表示が分かりやすかった。日本語の下に英語があった。
エマが立ち止まった。
「ゴミが落ちてない」
ケイラは周囲を見渡した。
確かに、一つもなかった。
案内カウンターに近づいた。
スタッフが近づいてきた。
「お困りですか?」
英語だった。
「電車で都内に行きたいんですが——」
スタッフが笑顔で案内した。丁寧だった。急かさなかった。地図を印刷してくれた。
サラがスタッフを見上げて言った。
「ありがとう」
スタッフが嬉しそうに笑った。
「どういたしまして」
エレベーターに乗った。
サラが言った。
「ママ、あの人すごく優しかったね」
ケイラは答えなかった。
目が少し熱くなっていた。
東京。
ホテルのチェックインを終えた夜、エマが言った。
「ねえ、ここって安全なの?」
「そうよ」
「シカゴより?」
ケイラは少し間を置いた。
「比べ物にならないくらい安全よ」
「じゃあなんで私たちシカゴに住んでるの」
ケイラは答えられなかった。
二週間、ケイラは娘二人と東京と京都を旅した。
地下鉄が時刻表通りに来た。
コンビニのサンドイッチがシカゴのレストランより美味しかった。
公園で子供たちが一人で遊んでいた。
夜道を女性が一人で歩いていた。
誰も追いかけなかった。
エマが夜、公園のベンチに座って言った。
「ねえママ、ここに住めないの?」
ケイラは夜空を見た。
東京の夜空でも星は見えなかった。でも空気が違った。
「難しいのよ」
「なんで」
「お仕事の問題とか、いろいろ」
エマが「そっか」と言って、また空を見た。
ある日の午後。
ケイラは娘二人を遊ばせながら、スマートフォンで調べていた。
日本への移住条件。
在留資格。就労ビザ。永住権。
永住権の取得条件を見た。
「10年以上の在留」
「安定した収入」
「素行が善良であること」
最後の項目で手が止まった。
軍の経歴。
除隊理由。
銃器の使用歴。
米国の軍上がりに対する在留資格の審査は、一般の外国人より厳しかった。
弁護士に相談するという選択肢を調べた。
費用を見た。
現実的ではなかった。
就労ビザのルートを調べた。
日本企業への就職が前提だった。
英語教師の資格を調べた。
大学卒業が必要だった。ケイラは高校卒業後に軍に入った。
どこに行っても、壁があった。
最終日の夜。
ケイラはエマとサラと、浅草の屋台で食事をした。
たこ焼きを食べた。
サラが「熱い熱い」と言いながら笑った。
エマが「美味しい」と言って二個目を頼んだ。
ケイラは二人を見ていた。
この二週間、娘たちはほとんど警戒しなかった。
シカゴでは無意識に周りを見ていた。駐車場では早足で歩いていた。夜は窓を確認していた。
ここでは、そうじゃなかった。
ただ、歩いていた。ただ、笑っていた。
ケイラは屋台の明かりを見ていた。
胸の奥に、言葉にならないものが積み上がっていった。
内心を隠したまま、ケイラは二人に言った。
「また来られたらいいね」
エマが目を輝かせた。
「絶対また来る!」
サラが頷いた。
「うん!住みたい!」
ケイラは笑った。
笑いながら、別のことを考えていた。
どうすれば、ここに来られるか。
どうすれば、この街でこの子たちを育てられるか。
答えはまだなかった。
でも探すことをやめるつもりはなかった。
翌朝。成田空港。
搭乗ゲートの前で、サラが振り返った。
「バイバイ、日本」
小さな声で言った。
誰に向けてでもなく。
ケイラはその背中を見ていた。
シカゴに戻る飛行機に乗った。
答えはまだなかった。
でも、種は蒔かれていた。




