第20話「運輸族の怨念」
時事ネタ?社会風刺?いずれにしろ、この作品はフィクションであり、実在の企業・団体・個人とは一切関係ありません。キリッ
2025年3月中旬。霞が関。
国土交通省の事務次官室は、橘が思っていたより狭かった。
村田哲也は机の前に座って、橘と牧野を見た。五十八歳。国交省のキャリア官僚として三十年、公明党の大臣と付き合い続けてきた男だった。
疲れた目をしていた。
「JR貨物の深夜ダイヤの件ですね」村田は静かに言った。「うちでも長年の懸案です」
「承知しています」橘は言った。「今回、安全保障上の必要性という名目で、深夜時間帯の線路優先権を国として整理したいと考えています」
村田が少し目を細めた。
「安全保障上の必要性——」
「防衛装備の量産に必要な鋼材と部品の輸送です。君津から呉、和歌山から長崎。深夜の幹線をJR貨物が安定的に使えなければ、サプライチェーンが回りません」
村田はしばらく黙っていた。
「JR東海とJR西日本が黙っていませんよ」
「そこは政治的な根回しが必要です」橘は静かに言った。「運輸族の神田先生にお話しする前に、次官のご意見を伺いに来ました」
村田が橘を見た。
「神田先生に——」
「はい」
村田は少し間を置いた。
「あの先生は、この問題を三十年待っていた人間です」村田は静かに言った。「ただし——」
「ただし?」
「愚痴が長い」
牧野が思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
橘は表情を変えなかった。
「承知しました」
村田が立ち上がった。
「私から先生に連絡を入れておきます。ただ橘さん、一つだけ言わせてください」
「どうぞ」
「国交省の事務方として、この話は三十年前からやるべきだと思っていました」村田は静かに言った。「公明党の大臣が続く限り、誰も手をつけられなかった。それだけです」
橘は一礼した。
「ありがとうございます」
その夜。永田町の議員会館。
神田武雄の事務所は、廊下の突き当たりにあった。
当選十回。七十一歳。新潟出身。部屋の壁に、選挙区の路線図が貼ってあった。新潟の鉄道路線が、細い線でびっしりと描かれていた。
神田は橘と牧野を見て、ソファを勧めた。
「まあ座れ座れ。村田から連絡が来た。JR貨物の話だと言っていたが」
「はい」橘が言った。「深夜ダイヤの優先権を——」
「その前に聞いていいか」神田は橘を遮った。「君たちは国鉄民営化を知っているか」
「勉強はしています」
「勉強じゃ分からん」神田は腕を組んだ。「あれは昭和六十二年だ。中曽根が強引にやった。俺は若手議員で反対票を投じた数少ない一人だった。その時から言い続けてきた。貨物を別会社にしたら、線路を持てない。線路を持てなければ発言権がない。発言権がなければ、いつか死ぬ」
神田は窓の外を見た。
「三十八年かかった。三十八年間、誰も聞かなかった」
牧野が口を開いた。
「神田先生、経産省の観点から申し上げると——」
「聞こう」
「現在、製造業の物流コストの約四割がトラック依存です。JR貨物が安定的に使えないから、トラックに頼らざるを得ない。トラックに頼るからドライバー不足が深刻化する。ドライバー不足だから物流コストが上がる。物流コストが上がるから下請けが死ぬ」
牧野は資料を出した。
「この悪循環で、過去二十年間に廃業した製造業の下請けは全国で約三万社です」
神田が資料を見た。
「三万社」
「はい」
神田は資料を机に置いた。
「それを俺に言うか」神田は静かに言った。「三十八年間、俺が言い続けてきたことを、今更数字で見せるか」
牧野が黙った。
神田が窓の外を見ながら続けた。
「国鉄民営化の前の年に、鉄道郵便が廃止された。知っているか」
「1986年ですね」牧野が言った。
「そうだ。民営化の前年だ。なぜ前年に廃止したか分かるか」
橘が静かに言った。
「民営化後のJRに引き継がせないためですか」
「そうだ」神田は膝を叩いた。「中曽根がやった最初の切り捨てがあれだ。民営化する前に、不採算と判断したものを全部片付けた。効率化という名の切り捨てだ」
神田は続けた。
「そして大泉が郵政民営化をやった時、郵便局を駅前から追い出した。採算が取れないから土地を売れと言った。郵便局が消えた。銀行の支店が消えた。国鉄の駅が消えた。駅前に残ったのはシャッターだけだ」
「全部同じ発想でやっている」神田は静かに言った。「民間に渡せば効率化されると思っている。でも効率化されたのは都市部だけだ。地方は切り捨てられた。新潟の山間部では今でも郵便が週に三回しか来ない地域がある。それが民営化の結果だ」
牧野が資料をもう一枚出した。
「現在、日本郵便の配送コストの約六割がトラック依存です。鉄道郵便があった頃と比べると、輸送コストは約二倍になっています。そのコストは最終的に——」
「国民が払っている」神田が引き取った。「分かっている。三十八年間、分かっていた。でも誰も動かなかった」
神田が橘を見た。
「で、今回は本当にやるのか」
「やります」橘は静かに言った。「深夜時間帯の線路優先権を、安全保障上の必要性として国が整理します。JR東海とJR西日本には——」
「黙らせるということか」
「法的根拠を作ります」
神田はしばらく橘を見ていた。
「公明党の大臣ポストについてはどうする」神田は静かに言った。「国交大臣が三十年公明党固定というのも、この問題の根っこにある。あいつらはバスと電車の話しかしない。貨物のことを本気で考えたことが一度でもあるのかね」
橘は少し間を置いた。
「大臣ポストの話は、私の管轄ではありません」
「正直だな」神田は笑った。
「ただ」橘は続けた。「今回の件は大臣の判断を経ずに動かせる枠組みで処理します。安全保障上の必要性という名目なら、内閣官房が主導できます」
神田が橘を見た。
「つまり国交大臣を通さないということか」
「通す必要がない形にします」
神田はしばらく黙っていた。
窓の外に永田町の夜景が広がっていた。
「三十八年だ」神田は静かに言った。「三十八年間、誰かがこう言ってくれるのを待っていた」
神田は立ち上がった。
「党内の調整は俺がやる。JR東海とJR西日本への根回しも、俺のルートで動かせる。ただし——」
神田は橘を見た。
「必ずやり遂げろ。途中で止まるなら、最初からやるな」
橘は一礼した。
「やり遂げます」
神田が頷いた。
「よし。まあ飲んでいけ」
神田が秘書に声をかけた。地酒が運ばれてきた。新潟の銘柄だった。
神田がJR貨物の問題を語り始めると止まらなかった。橘が聞いて、牧野が時々数字を補足した。
一時間が過ぎた。
神田が窓の外を見ながら言った。
「君たちがJR貨物の深夜ダイヤを整理したら、次は郵便の話もできるか」
橘は少し間を置いた。
「09計画のついでに、考えます」
神田が笑った。
「『ついでに』か。それくらいの方が、かえって信用できる」
三人で杯を重ねた。
神田が窓の外を見ながら言った。
「新潟から東京まで、夜中に貨物が安定して走る日が来るとは思わなかった」
牧野が静かに言った。
「来ます」
神田が笑った。
「そうか。そうか」
帰り道、議員会館を出た橘と牧野は、夜の永田町を歩いた。
牧野が言った。
「愚痴が長いって村田次官が言ってたけど——」
橘が静かに答えた。
「三十八年分だ。仕方ない」
「でも」牧野は続けた。「筋は全部通ってた」
橘は頷いた。
「そうだ」
二人は歩いた。
永田町の夜は静かだった。
どこかでタクシーが走っていた。




