第18話「三菱の重し」
時事ネタ?社会風刺?いずれにしろ、この作品はフィクションであり、実在の企業・団体・個人とは一切関係ありません。キリッ
2025年3月初旬。東京・銀座。
日産自動車本社ビルの会議室は、三十階にあった。
窓から東京湾が見えた。晴れた日だった。
橘慎一郎は窓際の席には座らなかった。長机の中央、ドアに近い側に座った。牧野が左。城島が右。三人とも資料を出していなかった。
向かいに日産側が三人座っていた。
内田誠一郎——代表取締役社長。五十八歳。ゴーン後の混乱を引き継いで五年。疲れた目をしていた。
高橋克己——財務担当役員。五十五歳。数字だけを見てきた男だった。橘たちが入室した瞬間に、全部理解した顔をしていた。
安田誠治——国内製造統括執行役員。追浜の叩き上げ。先週、牧野と会っていた。今日の場の意味を、三人の中で一番よく理解していた。
内田が口を開いた。
「本日はお越しいただきありがとうございます。経産省の牧野さんからお話は伺っていましたが——内閣官房の方もいらっしゃるとは思いませんでした」
「急に決まりました」橘は静かに言った。「失礼をお許しください」
「いえ——」内田は少し間を置いた。「どのようなご用件でしょうか」
橘は内田を見た。
「三つあります」
「はい」
「一つ目。追浜工場の製造ラインを装輪車体の量産に転用する件。安田さんとは先週、牧野が話をしました。検討いただけましたか」
内田が安田を見た。安田が小さく頷いた。
「検討しています。ただ、社内の手続きが——」
「二つ目」橘は続けた。「ルノーとの相互持ち株の解消について」
内田の表情が変わった。
「それは——デリケートな問題です。ルノーとの関係は——」
「フランス政府との調整は済んでいます」
内田が止まった。
「……済んでいる?」
「先週、パリで確認しました。フランス側は段階的な解消に合意しています」
高橋が初めて口を開いた。
「エリゼ宮ですか」
「そうです」
高橋が黙った。数字だけを見てきた男が、初めて数字以外のものを見た顔をした。
「三つ目」橘は続けた。「ナティクシス・フィデューシー・ニュートンが保有する日産株18.66パーセントの譲渡について。三菱重工業、三菱商事、三菱UFJ銀行の三社で引き受けます」
内田が橘を見た。
長い沈黙が落ちた。
窓の外で東京湾が光っていた。タンカーが一隻、ゆっくり動いていた。
高橋が資料を一枚出した。株主構成の数字だった。
「NFNが18.66パーセント、仏ルノーが17.05パーセント——」高橋はペンを走らせた。「ルノーの保有分には相互持ち株協定上の持ち分が含まれています」
「そうです」牧野が静かに言った。「エリゼ宮との折衝で、ルノーの持ち分を段階的に日産自身に買い戻させる道筋がつきました」
高橋がペンを止めた。
「日産が持つルノー株の売却原資で、ルノーの日産株を買い戻す——自社株化させるということですか」
「そうです」
「追加のキャッシュは不要」高橋は静かに言った。「相互持ち株が綺麗に解消される」
しばらく黙った。
「これをフランス政府が——」
「合意しています」
「NFNの18.66パーセントが三菱三社に移り、ルノー分が段階的に自社株化されれば——」高橋は計算を続けた。「議決権ベースでのフランス資本の影響力は、ほぼゼロになります」
「その通りです」
高橋が橘を見た。
「これを最初から狙っていたんですね」
橘は答えなかった。
高橋がペンを置いた。
「よく考えられています」
内田が口を開いた。
「つまり——日産の筆頭株主が三菱グループになるということですか」
橘は少し間を置いた。
「内田さん、正直に申し上げます」
内田が橘を見た。
橘は資料をもう一枚出した。
「日産の営業利益率の推移です」
内田が資料を見た。高橋が目を細めた。安田は視線を落とした。
「自動車事業は2022年から赤字が続いています。販売金融事業で食いつないできた。しかしその金融事業の利益率も、37パーセントから23パーセントへと下がり続けています」
会議室が静まった。
「このトレンドが続けば、金融事業の利益で自動車の赤字を補填することも、いずれ限界が来ます」橘は内田を見たまま続けた。「ホンダとの統合も破談になった。EVシフトに乗り遅れた。中国市場での競争力も失いつつある。そのタイムリミットは——安田さん、三年と言いましたね」
安田が静かに頷いた。
「三菱グループが入ることで、経営の立て直しが始まります。防衛装備の安定発注はその一つの柱に過ぎません。三菱商事の調達網、三菱UFJの資金力、三菱重工の技術力——それが全部日産の後ろ盾になります」
「つまり——」内田は静かに言った。「三菱の傘下に入れということですか」
「傘下という言い方でも構いません」橘は内田を見たまま言った。「ただし、潰れるよりはいい」
高橋が内田を見た。内田が高橋を見た。安田は窓の外を見ていた。
三人の間に、言葉のない会話が流れた。
数字は既に答えを出していた。
内田が橘に向き直った。
「分かりました。一週間で回答します」
橘は頷いた。
「ありがとうございます」
立ち上がりながら、橘は一度だけ窓の外を見た。
東京湾のタンカーは、もう見えなくなっていた。
エレベーターの中で、牧野が小声で言った。
「静かだったな」
「うん」城島が言った。
「でも高橋の顔が——」
「見ていた」橘は静かに言った。
エレベーターのドアが開いた。
銀座の空が広がっていた。
牧野が橘を見た。
「内田は一週間で返事をするか」
「する」橘は歩きながら言った。
「高橋が今夜、三菱UFJに電話をかける。明日の朝には内田に報告が上がる。それで決まる」
「なんでそこまで分かる」
「高橋は数字の人間だ。数字を見れば答えは一つしかない」
城島が静かに言った。
「脅しではないんだな」
「事実を並べただけだ」
三人は銀座の通りを歩いた。
昼下がりの銀座は人が多かった。外国人観光客が写真を撮っていた。ブランドショップの前に列ができていた。
日常があった。
この日常を誰かが支えている。誰も知らない場所で、誰も知らない人間が動いている。
橘はコートの襟を立てた。
冷めたコーヒーが飲みたかった。




