第17話「パリの密談」
時事ネタ?社会風刺?いずれにしろ、この作品はフィクションであり、実在の企業・団体・個人とは一切関係ありません。キリッ
2025年2月上旬。パリ。
片桐隆文はカフェの窓際の席に座って、セーヌ川を見ていた。
曇り空だった。パリの冬はいつも灰色だ。観光客が来るのは春か夏で、この季節のパリは生活者の街に戻る。
向かいに座っているのはベルナール・ルクレールだった。フランス財務省の国際担当局長。五十二歳。片桐とはG7の会合で三度会っていた。
表向きの訪問理由は「日仏経済協力の定期協議」だった。アポは一週間前に入れた。正式な会議ではなく、非公式な昼食会という形を取った。
ルクレールはクロックムッシュを食べながら言った。
「片桐さん、今日は何の話ですか。定期協議にしては随分と急いでいる」
「急いでいます」片桐は率直に言った。「二月中に結論が欲しい話があります」
ルクレールが眉を上げた。
「二月中とは随分と——」
「ルノーの日産株の話です」
ルクレールの手が止まった。
「それはデリケートな話ですね」
「知っています。だからこうして非公式にお会いしました」
ルクレールはコーヒーを一口飲んだ。
「フランス政府はルノーの大株主です。ルノーの日産への関与は——」
「縮小の方向で検討していただきたい」
「日本政府の正式な要請ですか」
「非公式な打診です」片桐は資料を出さずに言った。「ただし、見返りをご用意しています」
ルクレールが片桐を見た。
「聞きましょう」
片桐は少し間を置いた。
「GCAPへのフランスの参加です」
ルクレールが静かに言った。
「それは——英国とイタリアが——」
「打診の段階です。フランスが参加を希望するなら、日本から英国とイタリアに話を通します」
ルクレールはしばらく黙っていた。窓の外でセーヌ川が灰色に光っていた。
GCAPは次世代戦闘機の共同開発計画だった。英国、日本、イタリアの三カ国で進めている。フランスは独自の戦闘機開発を持っているが、次世代に向けたコスト分担の問題は抱えていた。
「それだけですか」
「はやぶさ改の一部をフランスの造船所に発注します。フィンカンティエリとの協力実績があるナバンティアとの三社協力という形も検討できます」
「ナバンティアはスペインです」
「フランスのシャンティエ・ドゥ・ラトランティックでも構いません」
ルクレールが少し笑った。
「片桐さんは随分と用意がいい」
「時間がありませんから」
ルクレールはコーヒーカップを置いた。
「エリゼ宮には私から話を通します。ただし——」
「ただし?」
「政治レベルでの確認が必要です。財務省だけでは決められない」
「望月がパリに来ます」片桐は静かに言った。「来週、プライベートな訪問という形で」
ルクレールが片桐を見た。
「望月邦彦が?」
「ええ」
ルクレールはしばらく考えていた。
望月邦彦の名前はフランスでも知られていた。日本の政界で四十年生き延びてきた重鎮。プライベートな訪問という形を取りながら、エリゼ宮の主と直接会える数少ない日本の政治家だった。
「分かりました」ルクレールは立ち上がった。「来週、望月さんの訪問を歓迎します。場所はここではなく——」
「ご指定ください」
「ブーローニュの森の近くに、静かなレストランがあります。そこで」
片桐は頷いた。
二人は握手した。
片桐がカフェを出ると、雨が降り始めていた。
スマートフォンを取り出した。橘へのメッセージを打った。
「ルクレールと会った。望月さんに来週パリに来てもらう必要がある」
すぐに返信が来た。
「望月さんには話してある。日程を調整してくれ」
片桐は傘を開いた。
セーヌ川が雨で霞んでいた。
もう一通メッセージを打った。望月へ直接だった。
「来週パリ、よろしくお願いします。相手はエリゼ宮です」
数分後、望月から返信が来た。
「分かった。ついでにルーブルでも見てくるか」
片桐は思わず笑った。
七十を超えた重鎮が、国家の根幹を動かす密談の前日にルーブルを観光する。それが望月邦彦という男だった。
翌週。パリ十六区。ブーローニュの森の近く。
望月邦彦は窓際の席に座って、フランス料理を食べていた。
向かいにいるのはエリゼ宮の大統領外交顧問、ジャン=ピエール・モローだった。五十五歳。大統領の最側近として対外交渉を仕切る男だった。
ルクレールも同席していた。
「望月さん、久しぶりですね」モローは流暢な英語で言った。「七年前のG8以来ですか」
「そうですね」望月はワインを一口飲んだ。「あの時はまだ私も若かった」
モローが笑った。
「今日は正式な訪問ではないと伺っています」
「ええ。パリは好きな街ですから、時々来ます。ついでに旧知の方にお会いする」
「ルノーの話を伺いました」モローは率直に言った。「フランス政府として、日産への関与を縮小することは——デリケートな問題です。国内の労働組合も絡んでいます」
「承知しています」望月は料理を一口食べた。「だからこそ、こういう形でお話しするのが一番だと思いまして」
「見返りとして、GCAPへの参加と造船の発注をご提案いただいていると」
「片桐からそのように伝えさせました」
モローはしばらく考えた。
「GCAPは英国とイタリアとの調整が必要です。日本側から話を通していただけますか」
「それは私が直接、キャメロン外相とメローニ首相に話します」
モローが望月を見た。
「望月さんが直接?」
「私はもう政府の人間ではありません」望月は静かに笑った。「だからこそ、こういう話ができる」
モローはしばらく黙っていた。
ルクレールが口を開いた。
「大統領は日仏関係の強化に関心を持っています。GCAPへの参加は——魅力的な提案です」
「ルノーの日産株の段階的な縮小と、三菱グループによる安定株主化。フランスの雇用への影響は最小限にします。ルノー自体の経営には関与しません」望月はワインを置いた。「フランスが得るのはGCAPへの参加権と、日本の造船発注です。悪い取引ではないと思いますが」
モローが片桐を見た。片桐は静かに頷いた。
「私はしばらくパリにいます。ノートルダムをゆっくり見たいので」望月は静かに言った。「東日本大震災の時、パリの方々が大聖堂で追悼ミサをしてくださった。あれから十四年。再建されたところをこの目で見ておきたい」
モローの表情が変わった。外交官の顔から、少し人間の顔に戻った。
「それは——ありがとうございます。日本の方々の気持ちは、フランスでも長く語り継がれています」
「お互い様ですよ」望月は静かに笑った。「困った時に手を差し伸べてくれた国のことは、忘れない。それだけのことです」
モローがルクレールを見た。二人の間で何かが伝わった。
「分かりました」モローは言った。「一週間、時間をください。大統領に報告します」
「ごゆっくりどうぞ」
望月とレストランを出た片桐は、ボスの横を歩きながら小声で言った。
「うまくいきそうですね」
「まあな」望月は空を見上げた。雨が上がっていた。「モローは頭がいい。すぐに計算した」
「GCAPへの英伊への根回しは——」
「もうしてある」望月は静かに言った。「先週ロンドンに寄った。イタリアは片桐、お前が行け」
片桐が止まった。
「先週ロンドンに?」
「プライベートでな」望月は歩き続けた。「ルーブルの前に少し寄り道した」
片桐はしばらく立ったまま、望月の背中を見ていた。
七十を超えた男が、プライベート旅行と称して欧州を駆け回り、誰にも言わずに根回しをしている。
これが望月邦彦という男だった。
片桐はスマートフォンを取り出した。
橘へのメッセージを打った。
「望月さん、先週ロンドンに寄り道してた」
すぐに返信が来た。
「知ってる」
片桐は苦笑した。
パリの空が、少しだけ明るくなっていた。




